増井博明の森林紀行エッセイ

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パラグアイ - 造林計画調査編

【森林紀行No.5 パラグアイ - 造林計画調査編】 No.12

最終報告書

最後の報告書の説明会へ

 報告書が出来上がった後に、1985年2月8日から2月23日までの2週間、最後の報告会に行ったのであった。報告会が無事終わり、帰国後、パラグアイ側の希望などを取りこんで最終の報告書を作成した。

 

 

計画の概要

 今から30年以上も前のことではあるが、ここで計画の概要をごく簡単に述べると、毎年約1,000haずつ6年間に渡って植林する計画であった。植林面積はもちろん初年度が少なく、徐々に増やして6年目が植林面積は最も多い。植栽培樹種は、針葉樹のエリオッティマツ、テーダマツ、カリビアマツを中心として伐期を20年とした。一般建築用材を生産目標にし、間伐材はパルプ材や牧柵用材とした。

 パラナマツは材質が良質なので、伐期を30年とし、一般建築材でも良質材を生産目標にした。

 その他、広葉樹でユーカリ、パライソ(成長が早い)の外来種と郷土樹種でラパチョとペテレビを植栽することとした。

 針葉樹と広葉樹の植栽割合は90%対10%である。

 初期6年間は天然林の伐採収入が入り、9年目から間伐収入を予定した。

 雇用する労働者は多い年で約300人、少ない年で約60人程度であり、50年間で述べ約5,000人、年平均で約100人だった。

 林道は10m幅で幅員は6m、左右2mは伐開整理し、保護樹帯も設けることとした。施設は中央事務所、修理工場、倉庫などと職員アパート、診療所、学校、教会なども計画した。

 機材も重機、消防自動車、ジープ等の車両類から事務機器まで非常に細かいところまで設計した。

 50年間に支出する額は約4,000億グアラニー(約2,700億円、1$=350G、1$=240¥)で、収入は約8,000億グアラニー(約5,400億円)となった。収支が黒字に転じるのは19年目からで、内部財務収益率は19.6%となった。これは50年間も実行すれば非常に儲かる数字である。

  資金は15~16年目くらいまで借りる必要があり、30億グララニー(約20億円)借りられれば、計画は実行できたのではないかと思う。

 

 

その後

 それから2年たった1987年3月に別の仕事でパラグアイを訪れた。

 

森林局にて1987年3月28日.jpg

森林局にて1987年3月28日

 

 その時パラグアイの森林局には日本から専門家が派遣されていた。我々の作成した計画の実行立ち上げのため、森林局の技術者達を鍛えていた。

 

 専門家の指導は厳しく森林局の技術者と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地におり、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールであった。森林局の技術者も音を上げていた。

 

  この時皆で日本式に最初の木に斧入れをするので安全祈願祭を行い、私も参加した。お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。ご神木として選んだ木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。その後、全員が各々お祈りをした。

 

安全祈願祭 1987年3月31日.jpg

安全祈願祭 1987年3月31日

 

技術者全員に訓示をする長官.jpg

技術者全員に訓示をする長官

 

 

カブラルとウエスペ

 この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、カブラルが家に招待してパーティを開いてくれた。ウエスペともう2組の友人達も来た。カブラルは新婚であった。カブラルの奥さんは、ずっと以前から私は知っていて、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりした。奥さんは薬局を経営していた。ウエスペの奥さんはもう少しで子供が生まれるくらいの時期であった。

 

カブラルから手紙をもらい.jpg

 

 その後、カブラルから手紙をもらいそれには「増井、家族ともども元気だよね。息子の写真を送るよ。早くパラグアイに遊びに来なよ。待っているよ。カブラル夫婦」と記されていた。

 

 

通訳の若者

 この時は、前に通訳をしてくれた若者にも会った。彼は、カピバリの調査が終わる頃の彼女と結婚をしており、一児をもうけていた。彼にしてもそうだが、前の二人もとても夫婦仲が良さそうに見えた。これは日本人では人前では恥ずかしがって見せられないのが、オープンに仲が良いところを見せられて、とってもいい雰囲気に見えた。私も人前で仲良くみせられたら、もっと良かったかもしれない。日本人も一般にもっと人前での夫婦仲が良いのを見せれば世の中も明るくなるだろう。

 

 

それからのその後

 その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は日本代表として派遣されたのだった。

 コリエンテスはパラグアイの対面で、アスンシオンから近く、もしかしたらパラグアイの代表もきているのではないかと期待していたところ長官とエンシーソーが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。

 その後、前述したようにエンシーソーとは彼が2000年くらいに日本に研修で来た時にあった。その後、彼は森林局の長官となった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、長官とそっくりになったのには驚いた。

  これにて、パラグアイのカビバリの造林計画についての話は終わりにし、次からはセネガルのマングローブ林について書く予定である。

 

 

 

「パラグアイ - 造林計画調査編」終わり

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ - 造林計画調査編】 No.11

現地確認調査へ

 とにかく国内での計画作りは、終わり、その後、その計画が実際に実行可能か確認のために、再度パラグアイに向かった。このとき、前回記したように団長は、病み上がりの身であった。出発は1984年11月2日(金)だった。

 

アスンシオンにて

 到着後11月5日(月)に企画庁の長官に挨拶に行くが、入植者問題は、既にかたづいたような口ぶりである。「土地が確保できたから早く植林を実施したい。」などと言う。

  計画地域に入っている住民は移転させると言っているので、「その具体的手続きはどうなっているか?」と質問すると、あいまいではっきりと答えられない。「いずれにせよ法令が出されて土地は確保されるので大丈夫だ。」と言う。一旦住民が入ってしまえば、移転は、普通は無理なので、これではあてにならないと思ったものである。南米特有の何の根拠もなしに、安心しろというのと同じである。

 

 

移転は無理である

 翌11月6日(火)には森林局の長官と話し合った。この時、「パラグアイに出発前に東京で、既に東側の土地から西側に入植者を移転させたとの話を聞いたが、その通りであるか?」と質問すると、長官は、「これから移転を開始し、計画を実行する段階ではすべての住民を移転させている。」と言う。いかにも南米的な答えである。東京に既に移転させたから大丈夫というのは、日本側に安心して来てもらいたいための方便だったのだ。実際は何にも片付いていなくとも、片付いているといえば、皆ハッピーだという感覚からきているのだろう。

 「今は住民が、植えた大豆、綿花の収穫が来年の3月になるので、それを待ってから移転を開始したい。また、問題はマンディオカ(南米の芋、キャッサバと同じようなもの)で、この収穫には木を植えてから最低1年はかかるので、移転には1年以上かかるだろう。」と言う。

  一体何だろう。これでは移転は無理だと言っているようなもので、実際には、進まないだろうと思わされた。結果的には、本当に移転させることなどできなかったのである。

 

 

セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会

 この時はアスンシオンの森林局で計画を説明した後、カピバリの現地のセロ・ドス・デ・オロの頂上に登り計画を説明した。

 この日は特に暑く団長は杖をつき、よろよろし、汗だくになりながらセロ・ドス・デ・オロに登った。相当辛かったと思う。私が手をかすと「いや、大丈夫だ。」と頑張った。

  日本から派遣されて、他の森林関係のプロジェクトを行っている専門家達やパラグアイの共同作業者達、14人も参加した。総勢約30人の大デレゲーションであった。この時はほとんどがペンションに泊まったから、ブトゥの小さなペンションにぎゅうぎゅう詰めで泊まったのである。

 

1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。.jpg

1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。

 

 頂上には計画を示した大きな図面を持って行き、どこにどのような樹種を植えるとか天然林で保護する地域はどこだとか苗畑の位置はどこだとか具体的に説明した。

 

 

ガウチョに出会う

 この現地検証時には、現地の確認のためよく森林を歩いた。その時いかにもガウチョ(カウボーイ)といういで立ちの人達に出会ったので写真を撮らせてもらった。森林が牧場に転換されていった最盛期なのでこのようなガウチョも多かった。

 

ガウチョ達.jpg

ガウチョ達

 

 

既に現場では食堂も開設

 また、計画地の近くでは、もう食堂などを開いて商売をしている店があった。こういった必要なものはすぐにできるのである。生きていくにはしたたかで、早く行動しなければならないのだ。そこにかわいい姉妹達が働いていた。

 

右がお母さん。その左から3人の娘。右のは一番下の娘。.jpg

右がお母さん。その左から3人の娘。右は一番下の娘。

 

 パラグアイ人のほとんどは、メスティッソ、メスティッサ(mestizo, mestiza) といって白人とインディオとの混血であり、ひときわ美人が多いと思った。3Cの国(Chile, Colombia, Costa Rica)は美人が多いと言われており、私もこれらの国に行ったが、確かに美人は多いと思った。コロンビアのアンデス山脈の村の中で、美人ばかりという感じの村があった。その話はコロンビア編で書くとして、パラグアイの山の中の田舎でもそれに劣らず美人は多いと感じた。

 

 

パラグアイ川での釣り

 通訳をしていた青年が、アスンシオンに帰ったときの休日にパラグアイ川に釣りに連れて行ってくれた。川幅は約1Kmもある。うまくいったらドラド(南米の淡水にすむ魚。成長すると全長約80cm。体が黄金色に輝き、大変に美しい)が釣れるのではないかと思ったが、ドラドはトローリングをして1日に1匹つれるかどうかくらい難しいとのことだった。ドラド釣りはあきらめ、小さな手こぎのボートで川岸から数10m離れたところで釣った。パラグアイで「マンディイ」と言われるナマズがやたらに釣れた。だいたい30cmくらいの大きさのものが多く、釣りごたえはあった。皆で釣果を競争したが、入れ食い状態なので、ここでは競争にはならなかった。

 

 

通訳の青年

 通訳の青年は、パラグアイ生まれの二世で、私のイメージではどちらかと言うと大胆だった。車の運転にも自信を持っており、彼が所有していた小型ワゴンに良く乗せてもらった。アスンシオンの市内をかなりのスピードで前の車との車間距離なく走るので、私が「こわいなあ。」と言ったら、「俺の運転のうまさを認めてくれないのか?」と気分を悪くしていたことがあった。

  とはいえ、彼のいい加減さなど私とは結構波長があった。私が日本から着て行った背広やワイシャツなど譲ってくれというので、いろいろなものを譲った。その後何年後だったか、彼が日本に遊びに来た時に会ったことがあった。その後音信不通になってしまったが、今はどうしているであろうか。

 

 

共同作業技術者達

 カウンターパートというのはパラグアイ森林局の共同作業技術者である。1年目のカウンターパートの中心人物は、北東部の調査のときも一緒に仕事をしたカブラルであった。

 カブラルは非常に真面目で信頼がおけた。森林局には予算が少なく出張旅費が出ないときがあり、他のカウンターパートは全員現地から引き揚げてしまったことがあった。しかし、カブラルだけは現地に残り、日本の調査団が働いているのに、パラグアイの森林局の者が働かないのではメンツがたたないと頑張ったのだ。出張旅費は、調査団で立替え、他のカウンターパートにも戻ってもらった。

 北東部で一緒に働いて、なんとなく気取っている感じであったウエスペは既に大学教授に転身していた。エンシーソーはカピバリから離れ、別のプロジェクトのカウンターパートとなっていた。

 

 2年目からは、ゴンサーレスとロペスがカウンターパートの中心となった。その他森林局の次長や部長がよく参加した。その他多くのカウンターパートが現場の作業には入れ替わり立ち替わり参加した。

 ゴンサーレスとロペスは仲が良く、年は私と同年代だったので、仕事はやりやすかった。どちらかというとロペスとは良く打ち解け、ゴンサーレスの方が多少硬かった。ゴンサーレスは非常にサッカーが上手で、大柄で体つきもいかにもスポーツ選手という体形で、ちゃんと練習していればプロのサッカー選手になれていたのではないかと思わされるほどだった。彼らの家にも招待されたことがあるが、立派な家で、彼らは地方の営林署長をしていたからさもありなんと思ったものである。ゴンサーレスには小さなお子さんがおり、ロペスは新婚であった。二人とも奥さんにはとてもやさしく振舞っていたが、実態は尻に引かれているようだった。

  ロペスが、日本に研修に来た時には三原山が爆発(1986.11)したときだったので良く覚えている。ゴンサーレスが来日した時は、家族が病気になったとかで日本に到着後すぐに帰国したことがあり、残念であった。

 

 

私の誕生日

 この現地検証調査の時に私はパラグアイで35才を迎えた。このとき森林局の連中も含めて私の誕生日を祝ってくれた。スポンサーはもちろん私であるが、アスンシオン内のしゃれたレストランに行った。飲んだり食べたりした後はダンスと決まっている。私も良くダンスを楽しんだ。

 

 

帰国後

 さて、現地から帰国したのが1984年12月1日であり、その後に最終的な計画作りに入った。何しろ経済分析を頼んでいる担当者からさっぱり分析がでてこない。50年計画で作らなければならないが、なんといっても資金計画が大変である。正月休みを返上し、我々はずっと電卓をたたいたり、大型コンピュータをつかって計算をしていた。

 1985年の1月は5日、6日が土、日で出勤は1月7日(月)からであった。計算量が多く電卓をたたいているが、電卓でできる量ではなかった。今のパソコンがあれば、相当楽だったのに、当時は電卓に毛が生えた程度のパソコンだった。

 計画した投入資機材が約250種類あり、それが内貨と外貨に分かれており、50年間ということで費用の積算だけでも250×50×2もあり、その他、様々な計算があった。結局当時職場で導入したIBMのスーパーコンピュータで処理したが、どの程度の能力だったのだろうか?

 その前に、1976年くらいにベーシック言語でプログラムを組んで計算できるIBMのコンピュータを導入しており、私はその時からプログラムを組んで計算させていた。コンピュータ言語のベーシックはフォートランとほとんど変わらなかった。ただ、今から思うと内部のメモリーは64Kしかなかったし、外付けの磁気式の大きな円盤のようなフロッピーディスクも8インチ(20cm)で、容量は1Mもなかった。けれどもプログラムさえできてしまえば、今のパソコンで処理するよりも、早くできたような気がする。

 情報処理については、隔世の感を禁じ得ない。たった30年である。超特急で進歩したパソコン。この後どのように進歩するのであろうか。AIが発達し、既に将棋も囲碁も勝てなくなったが、この世界のAIとの勝負では、今後人間が逆転して勝つこともあるのではないかと思う。南米的に何の根拠もない感覚ではあるが。

 

 

つづく

【森林紀行No.5 パラグアイ - 造林計画調査編】 No.10

財務・経済分析など

チームがまとまる

 私が長年仕事をしてきた中でも、かなり大変なことがあった。それは、この仕事の団長をしていた方が体調不良で、団長を交代することになり、また、交代した新しい団長が、交代後しばらくして、またまた体調不良に陥ったことである。交代の間、私に負担がかかったり、また、新しい団長に体調不良のまま、無理をして仕事を継続してもらったことからチームメンバー全員が心配するなど余計な負担がかかったことなどがある。やはり、肉体的に健全でなければ、フィールドワークを伴う仕事はもちろんのこと報告書をまとめるような精神的な活動もできない。責任感が強いとどうしても無理をすることになるし、自分の命との引き換えになってしまう恐れもある。

 

 さて、団長の交代の間は、仕事は私が補い、実質的に私を中心に現地調査の結果を分析し、まとめを行うようになったのだが、仕事量が増え過ぎ、日本にいる時は残業が続いた。ただ、私は若かったのとこの仕事を大変に面白いと感じていたので、疲れは感じなかった。今、働き方、電通の新入社員の自殺問題など、残業が問題となっているが、本当に残業などないが良いに決まっている。しかし、私の場合、楽しいとつい仕事をし過ぎてしまい、家族もおろそかにしてしまったのが問題である。

 

 交代する前の団長は、非常に優れていたが、団を指揮するというよりもむしろ研究者のような方だった。交代後の団長も非常にすぐれており、この方は研究者でもあるし、技術者でもあるし、厳しい指揮もできる素晴らしい方だった。年頃は、二人ともこのころ還暦を過ぎたころだったろう。

 この二人の団長は、共著で森林調査方法や測樹方法に関する教科書のような本を書いていた。出版されたのは今から50年以上も前のことだが、私はこの本を学生時代からずっと愛用しており、今でも参考にしている。森林調査関係の本でこれが最もすぐれているのではないかと思っている。こういった優れた人と一緒に仕事をできたことは本当に私の財産になっている。

 

 ところで、仕事を引き継いだ、今度の団長は頑張り、今までの経緯をすべて吸収しようとメンバー全員に様々に質問ぜめにし、改めてメンバー一人一人の計画作りの分担を決め、指示し、全員がまとまり計画作りに励むようになった。これで私の負担は正常になった。この方は、パラグアイ北東部の紀行文でも書いたが、北東部の調査を取りまとめたばかりで、パラグアイの林業事情は詳しかったのだ。しかし、頑張り過ぎたのだろう。好事魔多し。

 

  ようやくチームがまとまり始めて2週間ほど経った9月の半ばのある日、いつものように仕事をしていた団長が、気分がすぐれないと早退した。翌日軽い脳梗塞であるとのことが判明し、数日間入院することになった。軽かったので1週間程度で仕事に復帰した。1ヵ月半後の現地検証の調査には、大丈夫だから行くと言う。行くのはやめた方が良いと私は思ったが、責任感が強い方で、どうしても行くと頑張った。他のメンバーにまかせれば良かったのだろうが、まかせられなかったのだろう。とにかくチームは、普通の状態には戻った。

 

 

財務・経済分析の委託

 仕事の中身としては、造林技術上確実に実行できる方法を示さなければならず、またどこの機関からでも良いから融資が受けることができる計画を作らなければならなかった。我々は森林の技術者であるから財務や経済分析は、その道の専門家にまかすことにした。そして林業政策や林業経済を研究している機関を探り、そこの専門家に財務や経済分析を委託することにした。

 

近隣のエリオッティマツ造林地.jpg

近隣のエリオッティマツ造林地

 

 

国内での関係機関も調査

 そこで、日本でも融資してもらえるかどうか当時のODA関係の融資をしている銀行などで、融資条件などを調査した。また、我々と同じように別な国で、似たような造林計画を作成し、そこで財務分析や経済分析を行った機関も訪ね、その方法などをいろいろ調査した。勤め先内でも関係する研究員を集めて、何回も検討会を開き、いろいろな意見を聴取した。

 

 

またまた危機

 結局、我々は財務や経済の専門家ではなかったから、この計画の財務分析と経済分析を上述した研究所に頼むことにした。この研究所の担当者とは何度も打合せ、最終的なデータは現地検証後に渡すとして、それまで積み上げてきたデータを渡した。しかし、この研究員がひどく無責任で、結局我々が求めるものを全くだせなかったのだ。高い金を払って仕事を頼んだのに一体どうなっているんだ、責任の所在はどうなっているのだといくら言ったところで、締め切りの期限までには結果を出さなければならない。私はかなり焦った。

 

  当時、エクセルやロータスなどのソフトは無く、小さなパソコンが出た当初とはいえ、研究員が使っていたその小さなパソコンでは、十分に分析ができなかった。一応何らかの形を出したものを提出してきたが、結果はひどく、全く使えなかった。その方が持っていたのが、当時のパソコンだったから、こんな大量にあるデータをそんな小さなパソコンで、できるのかと私は最初から疑っていたのだが、後の祭りだった。いくらこういう結果を出せと言ったところで、そのパソコンではできないことは分かり切っていた。

 

 私は、勤め先に当時導入したスーパーコンピュータを使えば、できると思っていた。ただ、自分がやるしかないのだが、誰かにやらせるか再度どこかに頼むか決断がすぐできなかった。しかし、締めきりが近づいているので、自分がやらなければできないと思い、やることにした。スーパーコンピュータの言語は、フォートランで、当時私は、フォートランもベーシックもプログラミングは自由自在に扱えるようになっていたので自信があったのだ。

 

  資金計画では、チーム内の担当者がデータを積み上げていたので、最終的にはそのデータを用いて、財務分析や経済分析の方法も頼んだ研究員と多くの参考書から学び、スーパーコンンピュータで計算できたのだった。当時データはパンチ屋といって、データ専門に打ち込んでいる会社があり、そのようなところで、データを打ってもらい、プログラミングでは、ときどきプログラムが通らないときは、勤め内の専門の者やコンピュータ会社の者を助っ人として頼んだのだった。

 

牛の行進.jpg

牛の行進

 

 

内部収益率

 この時作る計画は、50年計画で、事業計画と共に資金計画を作らなければならなかった。造林でいくら費用がかかるか支出計算をし、天然林の材を売った収入や生産材の販売収入などの収入計算をするのである。その上、それらのデータを用いて、内部収益率などを計算することになっていた。

  内部収益率というのは、現在投資する額と将来得られるキャッシュフロー(年ごとの収入?支出で算出される資金の流れ)の現在価値とがちょうど等しくなるように計算される収益率のことである。分かっている人には簡単であろうが、素人には理解するのは難しいであろう。

 

 例えばプロジェクトの初期と終期の頃の収益が同じ額であったとしたら、現在価値に換算すれば初期のほうの額の方が、終期の額より価値が高いだろうというようなことは予想されるであろう。それは物価上昇などがあれば、同じ額ならば現在価値に換算すれば将来の額の方が価値は低いということである。そういうことでインフレ率なども推定し、計画期間が50年のキャッシュフローを現在価値に換算し、投資額と等しくなるような割引率を求めるのである。

 

 この式が複雑で解くのはやっかいであった。そこで、現在価値と将来のキャッシュフローの現在価値を等しくなるようにコンピュータにこの式を入れて、割引率を目安で入れて、収束させて行った。これなら式を解かなくとも解が得られるのである。いろいろ調べて行くとそのように解くのが簡易な方法であると書いてある参考書もあった。

 

 これを純粋に資金の流れで求める財務分析とシャドープライスやシャドー為替レートなどを用いて求める経済内部収益率も出すことになっていた。シャドープライスというのは競争市場によってなされる最適な資源配分を計画経済などで競争によらずに達成させるための計算上の価格である。

 

  この部分は仕事の中身で、難しい話が多いのでここでやめるが、技術的な計画でも実行するには予算がいくらかかるか、その後の管理運営にかかる収入や支出の計算で、事業が独立採算できるかなどの経済分析は重要なことだろう。林業で儲かるということは今の日本では、なかなか難しいが、樹木の成長が早く、需要があり、材が高く売れれば経営は十分に成り立つということである。

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ - 造林計画調査編】 No.9

ガラガラ蛇など

ガラガラ蛇でのいたずら

 ある日、調査チームの全員は、セロ・ドス・デ・オロ(森林地域のほぼ中心にあった小さな山)の頂上から調査地域全体を見晴らすために、頂上に登った。登っていると早さが違うので3グループくらいに分かれてしまった。私はまだ30台前半で、疲れ知らずで、先頭グループにいた。団長は60代前半くらいで、皆のペースについてこれないので一番後ろのグループでゆっくりと登ってきた。

 先頭グループの我々はガラガラ蛇を見つけた。一緒に登っていたチームのSさんは、ヘビを捕まえたり、爬虫類などは大好きで、その時もガラガラヘビを捕まえ、頭を叩いて動けないようにした。そしてポリ袋に入れて頂上へ持って行った。そして頂上の少し下の山道の真ん中に、そのガラガラ蛇をとぐろを巻いた形で置いたのだった。

 すると後から登ってくるパラグアイの技術者達も、ここにはガラガラ蛇が沢山いるのを知っているものの、まじかでみると驚いてびっくりして肝を冷やすのであった。第2グループで登ってきた森林局の次長も飛びあがって驚いた。この方は、いつもアルコールに浸かっていて酔っぱらい気味だったかもしれない。中でも一番驚いたのは我が団長だった。本当に団長は森林局の次長よりも高く飛びあがって驚いた。腰でもぬかすのではないかとこちらが心配するほどだった。ちょっとやり過ぎたかなと後で反省した。

 

  そのガラガラ蛇をSさんは、ポリ袋に入れてペンションに持ち帰り、パラグアイ人のように尻尾のガラガラを切り、お守りとした。しかし、このガラガラ蛇は、血がかなりでていたので生臭くてまいった。

 

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた.jpg

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた

 

大使館にて

 この時の日本大使は、日本の調査団をより活動しやすくするためにバックアップしてくれるような活動的な大使だった。その時期にパラグアイに滞在していた調査団、プロジェクトチーム、専門家等を一堂に会して意見交換会を開催してくれたことがあった。

 その時、農業関係の調査をしていた調査団の中堅どころの技術者が、「林業など土地生産力の低い場所での計画作りの協力などしてもしょうがない。農業のように収入が上がるような土地を対象として、そこで土地生産力をもっと高めるような計画作りをする協力をもっと増やすべきだ。」との趣旨の発言をした。

 まさに林業協力分野の政府開援助、ODA資金を農業協力分野に分捕ってしまえという意図があり、かなり横柄な態度でもあった。

  そのような林業批判をするべき場所でもなく、場違いな発言で、皆を失笑させ、大使にもたしなめられ、会をしらけさせてしまった。しかし、この方は、当時飛ぶ鳥も落とすいきおいのあった会社の職員だったから、恥も感じず、厚顔にもそのような場違いな発言をしたのだろう。今思えば技術者も必要なのは正しい技術的認識とともに常識と謙虚さであろう。

 

 

アスンシオンの日系女性

 北東部の調査の時から日系人が経営していた内山田という旅館に部屋が空いていれば、泊まった。当時は3階建てだったと思うが、お金が溜まると1階ずつ継ぎ足して行くのであった。鉄筋コンクリート製ではあるが、まさにおかぐら作りである。地震がないから許されるのあろうが、鉄筋とはいえその建て方をみていると強度計算などカンで行っているのではないかと思わざるを得なかった。

 内山田は1階がレストランになっており、メインメニューはスキヤキだった。パラグアイの牛は日本の牛のように油が乗っているわけではないがスキヤキ用に薄く切ると程良い固さとなり、日本の柔らか過ぎる肉よりもむしろ食べ易いと思ったほどだった。

  この内山田でアルバイトをしていたパラグアイだけでなく日系の女性達とも親しくなり、休日にはイパカライ湖に遊びに行ったりした。

 

 

オリンピック

 1984年の夏はちょうどロスアンゼルスオリンピックが開催されていた。パラグアイではオリンピックなどに興味がある人は、当時いなかったようである。パラグアイのテレビも新聞もほとんど報道がなかった。私は、昔陸上部にいたこともあり、マラソンはどうなったかを知りたかった。そのため機材として持っていっていた短波の入る大きなラジオでラジオジャパンのニュースで結果を聞いた。短波の入るラジオも今では考えられないくらい大きかった。25cm×15cm×5cmくらいもあり、重さも1kg以上あっただろう。雑音だらけの音声で、3位までの順位だけが聞けた。すると日本選手は3位以内に一人も入っていなかった。瀬古選手と宗兄弟が出場しており、一人も3位以内に入らないなんて考えられなかった。短波ではっきり聞き取れなかったので、間違いであることを願ったが、聞いた通りの結果だった。期待が大きかっただけにそんなこともあるのかと不思議な感じがした。

 

 

サンパウロへ

  第3回目の調査の帰国時には、アスンシオンからサンパウロに立ち寄った。ブラジルのサンパウロで行っていた森林・林業関係の技術協力プロジェクトで行っているブラジルの植林状況の調査で立ち寄ったのだった。

 

サンパウロにて。1984年8月17日.jpg

サンパウロにて。1984年8月17日

 

 そのプロジェクトのリーダーや専門家が懇切丁寧にブラジルの林業事情を説明してくれた。このリーダーは我々のカピバリにも調査に来ていたので、我々調査団にとても親切にしてくれたのだった。

 

 

アナコンダの頭蓋骨

 その時に、毒蛇研究所の博物館にも案内してもらった。

  学生時代に、中公新書で「アマゾン河」(神田錬蔵)という本を読んだことがあったが、その中にアナコンダが馬を飲み込む記述があった。この話は「椎名誠」が書いたりしゃべったりしているが、当時は本当にそんな話があったのか信じられない思いであった。しかし、その毒蛇研究所にはアナコンダの頭蓋骨が飾ってあり、あごの下から頭のてっぺんまでの高さが50cm以上はありそうな標本が2つも並んでいた。これなら口を開けば軽く1m以上にもなり、馬を飲み込むのも可能であろうと思ったものである。

 

 

同郷の人に出会う

 その時泊まったホテルで働いていた日系人で、横浜の六角橋に住んでいて、神奈川大学を卒業した方がおられた。私の生まれが横浜の六角橋で、昔、我が家には神奈川大学の下宿生が沢山いたので、話しが弾み、世間は狭いと思ったものである。

  この話を帰国してから母親にしたところ、今は六角橋に住んでいないからなおさら六角橋が懐かしかったのだろう、母親は今でもこの話を覚えており、良く思い出話しの話題に上る。

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ - 造林計画調査編】 No.8

入植者達や気晴らし

 

入植者達

 入植者達はたくましかった。入植地はミニフンデ (minifunde 零細農地、小農場) と呼ばれていた。土地の地権はないが,軍から許可を貰っているし、住民達は逆に軍が守ってくれるからと安心していられたのだろう。

 入植者はブタやニワトリを連れて遠くからやって来て、オノとナタで木を伐り倒し、掘っ建て小屋を建て、住み込んだ。たくましい限りに見える。

 

  この調査の最初には、造林予定地全体の地図を作成するために、トランシットで正確な測量を行ったが、それが半分以上も役に立たないことになってしまった。

 

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者.jpg

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者

 

ロバを引く入植者の小さな娘.jpg

ロバを引く入植者の小さな娘

 

 

黄疸になった入植者を病院へ運ぶ

 入植者がいくらたくましくても病気には勝てない。ある日調査が終え、ブトゥのペンション(ホテル)に帰る途中だったが、まだ調査地に近いところで、道路をブトゥ方面に歩いている二人連れのカップルを車で追い抜いた。夫が妻の手を引いており、歩き方が不安定である。

 車を運転していた森林局の技術者に車を止めるようにいい、二人のところに戻って話すと、奥さんと思われる女性は、顔がもう真っ黄色というくらい黄色く黄疸がでていた。肝炎だなと思った。どこへ行くのか訪ねるとブトゥの病院へとのことだった。ここから20Kmも歩いていくつもりだったのだ。こんなに黄疸がでていて歩くのはとても無理である。へたをすると死んでしまうだろう。

 肝炎の感染の恐れもあるかとも思ったがそんなことは言ってられない、車に乗れとブトゥの病院まで送り届けた。仕事ついでの人助けといったところだったが、その後どうなっただろうか。

  肝炎といえば、私もこの調査の15年後くらいではあるが、アフリカのジンバブエでA型肝炎に罹り、死の淵をさまよったことがある。全身のけだるさで、全く動けなくなるのだが、黄疸がでるあたりまでは、食欲は全くないのだが、動けることはできた。この話は、またジンバブエ編で書く予定である。

 

気晴らしなど

調査基地としたペンション

 この調査で滞在していたのは、国道沿いのブトゥという町にあるペンション(ホテル)である。パラグアイ人がペンションと言っていた。ここから調査地までは約20Kmあり、道路が砂地であるため毎日約1時間かけて通った。

 南半球なので7月~8月の冬は寒かった。毎朝霜が降りるほど寒かった。厚手のジャンパーを着こみ、車には暖房を入れて現場まで行く。着くころには少し暖かくなり、昼頃には大分暑くなる。

  それに引き換え、夏にあたる11月から3月くらいは非常に暑かった。直射日光の下ではすぐに熱中症になってしまいそうである。森林内では暑さがかなりしのげ、林内にいる方が楽であった。

 

ペンションの娘達

 このペンションには16才から25才くらいの3人の娘がおり、ペンション経営を手伝っていた。この姉妹全員、目を見張るような美人で、皆の注目の的であった。今写真を失ってしまい、見せられないのが、残念である。やはり、メスティッサで、白人系統が強い様に見えたが、美人なのはスペイン人と先住民の混血だからだろうか。美人とは関係ないが、最近のDNA研究によれば、パラグアイの先住民グアラニー族は日本人と相当近いそうだ。

 一番下に5才くらいの息子がおり、これは娘達の甥っ子だったかもしれない。一番下の娘はフアニータと言い、16才である。ある時、フアニータが、その男の子のいたずらを怒るのに「¿Qué estás haciendo? ケ・エスタス・アスィエンドー(何しているの?)」と怒った声で言っているのが聞こえた。この時、怒り方は、日本語と同じ全く同じ言い方だと思ったものである。徐々にではあるが、スペイン語もかなり聞き取れるようになってきて、言葉は、やはり現場で状況に合わせて覚えるのが最も良い方法だと思ったものである。

  森林局の連中は何番目の娘に手をだしたとか、あることないことを気晴らしで、この姉妹たちのうわさ話ばかりを話していた。彼らのあこがれが昂じて、想像をあたかも現実のようにしゃべっているようなところがあった。

 

ダンス

 パラグアイではダンスが盛んでフィエスタ(パーティー、宴会)といえばダンスをしていた。やたらにフィエスタが多く、毎週末には行っていたようなものだった。もちろん男女ペアで踊るのであるが、パラグアイでは、組んで踊るよりも離れて踊る方が多かった。後に仕事をするコロンビアやエクアドルでは組んで踊る方が多かった。

  私もこのペンションの一番上の娘とは良く踊ったものだった。日本人チームの若い仲間は、良く踊っていたが、40台以上のメンバーは、ほとんど踊らなかった。パラグアイ人も年は関係なく踊っているのだから、踊れば良いのに、楽しみの一つを失っていると思ったものである。

 

 このペンションにはときどき、近くに住むおじさんが(40才前後だったろう)がギターを片手に歌いに来た。体が大きく、腹が出て太り気味であるが、すごい声量で、澄んだ通る声で歌が上手なので驚いた。プロとしても十分にやっていけそうに思えた。また、森林局の共同技術者の中にいたレオンというのが、ギターを弾くのが非常に上手で驚いた。

 

農牧省に派遣されていた専門家

 農牧省に個別に派遣されていた専門家の方も我々の仕事をバックアップしてくれ、ときどき現場にも来てくれた。その方の39才の誕生日の誕生パーティーをペンションのレストランでしたことがあった、私より5才年上であったが、彼がしみじみと「もう39才になってしまい、来年は40才で不惑です。」と年を取るのを嘆いていたが、当時は別にあまり自分の齢を感じなかったが、今の私は60才をだいぶ超えてしまい、まさに「光陰矢のごとし」である。

 

食事

 現場にいる時はブトゥのペンションで、朝昼晩とも用意してもらった。昼は弁当のサンドイッチである。朝はパンとコーヒー。晩のご飯の味付けはほとんどどれも同じで、牛カツか、硬い肉のステーキだった。Tallarin(タジャリン:麺)もあり、ねっちゃりとしたスパゲッティで、それに肉を付けてもらったりもした。タジャリン・コン・ポージョ(麺と鶏肉)と言って注文するが、その響きがなんとなく楽しげであった。

 

 アスンシオンにいる時は、外食であった。食べにいったのは第1が和食、次が中華、韓国、続いてドイツ、チリ、といった外国料理が中心であった。移住者が多いので前述した内山田以外にもいくつか日本料理屋があったのだ。どうしても東洋系の食事になってしまうのだった。

  パラグアイ料理といってもステーキかステーキにころもをかぶせたミラネッサ(ミラノ風カツ)というカツばかりで、単調な料理だったので、値段は安いが、パラグアイ料理はたまに食べに行く程度だった。

 

釣り

 ペンションから1?2kmくらい離れた場所に湿地があり、そこにいくつも小さな池があった。現場から帰ると暗くなるまで、サッカーをするか釣りに行くかだった。パラグアイの技術者はサッカーをしていることが多かったが、釣りにも何人かで一緒に行った。

 私は、出張の時には、竿をいつも持って行っていた。エサはペンションでもらう牛肉である。肉を1cm四方程度の大きさにして針につけ、浮きでも、重りを付けて投げ込んで沈めても、ボガというコイのような魚が良く釣れた。大きさはだいたい10cm?20cm程度で、それほど大きくはなかった。腹に黒い点があった。時にはピラニアも釣れた。

 

  それに珍しい魚で、口が吸盤になっている魚も釣れた。釣った魚はペンションに持ち帰り、スープと一緒に煮てもらい食べた。ボガは少し泥臭い感じがしたが、牛肉ばかりで飽きているところに良いおかずとなった。一方ピラニアは、やはり小さなヒピラニアで、あごの肉が発達しているが、ほど良く堅く、泥臭くもなく、ボガよりおいしいと思った。

 

口が吸盤になっている珍しい魚.jpg

口が吸盤になっている珍しい魚

 

カピバラ

 ある時、皆とは別な池で、一人で静かに釣っていると対面にカピバラが現れた。10mくらい離れているが、カピバラがこちらに気が付いていないので静かに観察していた。しばらくしてカピバラが私に気が付くとあわてて水の中に飛び込み逃げていった。

 

ゴキブリに好かれる人もいる

 ブトゥのペンションにはゴキブリが多かった。パラグアイのゴキブリは茶色で、日本のようにこげ茶色ではなかった。大きさは日本のよりも少し大きかった。

  それがメンバーのHさんの部屋には特別に沢山でるのであった。ゴキブリが天井から落ちて来るというので、Hさんは時々眠れずに、ゴキブリ退治に大騒ぎしているのであった。Hさんは男らしい体臭が強かったからそれがゴキブリを引きよせていたのだろう。すると集まってきたのはメスのゴキブリだったのだろうか?

  人により、虫を引き付けるフェロモンを出す人がいるのだろう。他にも日本で私と一緒に調査で山に入った後に、出てくると、私には全くダニがたかっていないのに、その人はダニだらけといったこともあった。

 

ヒキガエル(ガマガエル)

 スペイン語ではヒキガエルはサポと言う。暖かくなり始める8月の終わりくらいだったろうか。ブトゥのペンションには沢山のヒキガエルが集まってきた。日本のヒキガエルよりは少し緑かかっていてやや大きい。ペンションの通路がサポだらけになってしまったこともあり、ときどきは部屋の中にも入ってきた。

 

 

つづく

 

 

 

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