増井博明の森林紀行エッセイ

エクアドル編

【森林紀行No.1 18/18】「帰国」

航空写真の撮影契約

進まない契約交渉

 この仕事では航空写真の撮影があり、IGM(軍地理院)との間で調査対象地域100万ha(青森県や秋田県くらいの面積)の撮影契約が、すぐに行われる予定であった。しかし、IGM側は事前調査団との交渉段階では航空写真の日本への持ち出しは許可すると言っていたのが、いざ契約段階に来て、それらの国外(日本)への持ち出しは許可しないと言いだした。このことで契約交渉が進まず、団長が帰国する前までに契約ができなかった。

 そしてNさんがずっと交渉を重ねた結果、日本へ航空写真を持ち出す時は、エクアドル側からセキュリティーオフィサー(航空写真管理官)を付ければ持ち出してもよいというところまできた。

 すると今度は、その管理官の費用はエクアドル側が持つのか、日本側が持つのかで話しが進まなくなった。エクアドル側は当然のことながらその費用を日本側が持つなら航空写真は持ち出しても良いと言った。日本大使館では、そんな話しは受け入れられるわけがない、エクアドル側がごねているだけだとカンカンに怒っている。

  

キトー市(1985年).jpg

 キトー市(1985年)

 

 しかし、いつまで経っても議論は平行線で、結局エクアドルの管理官の費用は日本側で持つということで予算をつけることとなり、日本側が折れた。そしてようやく決着が着き、そのことを契約書に書きこむことでエクアドル側は納得した。

 実際に翌年航空写真の判読を日本で行ったのだが、私の勤めに写真の保管庫を設置し、その時来た管理官に鍵を預け、彼が毎日9時に保管庫を開け、我々が写真を判読し、5時に写真をしまって保管庫を閉めるということを行った。その管理官の面倒も良く見てやったものだった。

 

 

Nさんが一人残る

 結局、航空写真の撮影の契約書にNさんとIGMの長官がサインしたのは9月2日で、我々の帰国前日で、その時不在だったMAG大臣は9月5日にサインした。

 さて、それから撮影が開始され、Nさんが予定を延長して一人残って撮影監督をしていたのだが、撮影できるような晴天の日が少なく、撮影がなかなか進まなかった。

 我々がアマゾン川源流域にいる時は、毎晩空を眺めると満天の星空で天の川もこれほどきれいな天の川はめったにないと言うほどきれいに見えた。これで明日は天気が良くて航空写真が撮れるかなと思って、翌朝起きると必ずどんよりした一面の雲である。これでは航空写真を撮影するのは難しいのではないかと思ったものである。その後時々撮影できた日があり、全部の撮影が終了するのは翌年の7月で1年もかかったのである。

 この間Nさんはキトーに11月まで滞在した。撮影を開始し約1ヵ月で15%程撮影でき、Nさんが帰国する11月までに、約50%の撮影が終わったが、一旦日本に帰国し、翌年またキトーに長期間滞在することになった。

  

キトー市旧市街.jpg

キトー市旧市街

 

 

帰国

 我々は9月3日にキトーを発ち、多くの資料を積み込み日本に向かった。帰りはキトーからグアヤキルに一旦降り、その後メキシコシティーに降りた。それからロスアンゼルに向かい、ロスアンゼルスには夜の9時15分に着いた。この日はロスアンゼルに泊まり、翌日ロスアンゼルスを午後1時に発ち、9月5日の4時過ぎに日本に到着した。

 

 

第1回調査帰国後

 私はデータを整理し、当時のコンピュータ言語のBASICでプログラムを組んで、材積表を作成した。材積式というのは木の形に合わせて、多くの式があり、それらを一つ一つ解いて、最も誤差の少ない材積式を選定した。

 1本1本のデータを入れて、その後は異常データを棄却する統計処理の検定プログラムも組み入れ、その後最終的に材積式が算出されるプログラムを組んだ。

 今ならエクセルなどに組み込んである関数で何も考えずに解けてしまうが、当時は何千行もあるプログラムを組み、プログラムに間違いがないかチェックしたり、短期間に良くできたと思う。

 こういうプログラムも集中しないとできないもので、3日くらい同じことをずっと考え続け、集中力が持続すると、より少ないプログラム量でできることがひらめいたり、そのような時はプログラミングも面白いと思ったものである。そのプログラムは、今では完全に時代送れとなり、そのようなものを使う人はどこにもいないであろう。

 その後、次回以降に供与するコンピュータを何にするかなど検討をしていた。当時NECのPC9800シリーズがでた直後であり、それに決めたが、今のパソコンから見るとおもちゃみたいなものだが、それでも相当に高価なものであった。

 

 

その後

 この第1回の材積表作成調査は何とか終了したが、この後、第2回、第3回・・・と調査は続いた。特に第3回目の調査の時には、住民の反対運動にあい、中途で仕事を中断させなければならなかった。それらの経緯については、機会があれば、将来このホームページに載せてもらいたいと思っているところである。

 

 

終わりに

 この調査を通じて最も強く感じたことは、森林破壊の凄まじさである。アマゾン川源流域の大森林がいとも簡単に破壊されて行くというのは驚くべきことである。森林破壊は地球温暖化のような気候変動にも影響を与えているだろう。その影響へは化石燃料の使用が最も大きいだろうが、炭素を蓄積した樹木が大面積に伐採、焼却されて放出される二酸化炭素も膨大であり、この影響も膨大だろう。

 エクアドルのアマゾン川源流域の森林破壊を見ると、最初は石油開発が起因となっている。政府が石油開発権を売るのであろうが、原生林状態の中から産出される石油開発権を買った会社が、原生林を切り開き石油開発のための道路を作設するのである。

 

アマゾン源流域で開発されていた油田.jpg

アマゾン源流域で開発されていた油田

 

 道路が作設されるとそれに沿って貧しい農民達が入植してしまう。この地域がエクアドル政府の管理も及ばない誰でも入れるオープンアクセスの状態だったこともあるが、もともとは先住民が住んでいたのである。この調査の翌年からエクアドル政府はこの土地に日本の政府が明治時代に行ったような官民有地区分のような国有林と民有地を区別する事業に着手した。それにより先住民地域も決まったが、管理は十分にできなかったであろう。先住民にとっては、国有林も農民が入植する民有地も、もともとは彼らが自由に使っていたのである。

 森林は石油開発の道路が作設されるとそれだけで多くの木が伐採され、大径木は販売されていった。大規模な商業用伐採ではないが、起因は経済的利益の追求であり、それにより森林が犠牲になったのである。その後道路に沿って住民が入植すると森林を伐採し、販売できる木は販売するが、多くは焼かれ農地へ変換されるのである。

 

道路沿いに入植していく農民.jpg

道路沿いに入植していく農民

 

原生林が農地へと変換されていく.jpg

 原生林が農地へと変換されていく

  

  また、アクセスが容易になり、大規模なアブラヤシ園への変換も容易になり、生物多様性は失われていくのである。

 

大規模なアブラヤシ園.jpg

大規模なアブラヤシ園

 

原生林からアブラヤシ園へ(生物多様性が失われて行く).jpg

原生林からアブラヤシ園へ(生物多様性が失われて行く)

 

 ブラジルのマットグロッソ州はアマゾン川の最上流域にあたるが、衛星画像を見ると今は、森林はほとんどない。マットグロッソとは大森林という意味なのにであるが。私はこのエクアドルの調査の前にマットグロッソドスル(南のマットグロッソ)州に続くパラグアイの森林を調査したが、その消失した過程から数十年前まではマットグロッソ州には大森林が広がっていたはずである。それが今では牧場や農地に変換されている。ヨーロッパの森林もすべて伐採されて再生された歴史を持つ。アマゾン川流域の平坦地の森林はいずれ全て伐採される運命にあるのかもしれない。

 

 今なお残るアマゾン川流域の熱帯林は、生物多様性の高い天然資源であり、ここでの保護は重要であるが、その保護は危機的状態にある。 

 今国連で盛んに議論されているREDD (Reduced Emissions from Deforestation and forest Degradation:森林減少・劣化からの温室効果ガス排出削減) の考えを敷衍すると、残された熱帯林を政府がコンセッション(伐採権)を民間業者に与えて両者が儲けるような場合、その収益に当たる分まで経済的支援を与え、伐採を阻止するという考えにまで至らなければならないだろう。そしてその考えをもっと推し進めると、残された天然林は買い上げて国際機関の管理下に置くということにまでなるであろう。そこまでしないと熱帯林の保護は難しいであろう。 

 この調査地域の近隣には有名なヤスニ国立公園がある。エクアドル政府は石油開発権よりも多くの資金を集めることで、ここの石油開発は行わないこととしたが、資金が十分に集まらなかったので、ここの石油開発を行うよう政策を変更した。ここは生物多様性が高いことで有名であるが、これではヤスニ国立公園も私が調査したこの地域のように成ってしまうであろう。再度資金を集め森林保護への政策転換を望むものである。非常な虚しさを感じつつ、この紀行文はこれでひとまず終わりとしたい。

 

 

次回からの予告

 次回は来春からとしたいが、私が最初に海外調査を行ったインドネシアのスマトラ島での紀行文を書きたいと思っている。

 

 

【森林紀行No.1 17/18】「キトーに戻る」

キトーにて

ホテル・エンバシー

 キトーに到着し、予約してあったホテル・エンバシーに向かう。この時、ホテル・エンバシーがこれほどきれいだったのかと、世の中にこれほどきれいな場所があったのかと感動した。これはパラグアイの調査でも経験したことだが、山中で長いキャンプ生活を続け、町のホテルに戻った時に感じたことである。あまりに汚いところに長くいたためだろう。きれいな部屋に白いシーツ、澄んだお湯が出るシャワー、こういったものがあるのが信じられない思いであった。まるで天国のように感じた。

 

キトーでの車の調査

 日本からランドクルーザーのステーションワゴンを持ち込む手続きは、最初はさっぱりわからなかったが、段々と多くの煩雑な手続きとその内容も分かって来た。

 日本から輸入した車は最初太平洋岸の都市のグアヤキルに到着し、保税倉庫に入れられるとのことで、その間に通関業者が通関手続きをする。その間の保管料については支払わなければならず、エクアドルの国内の様々な手続きが必要である。それで、エクアドルにあった車両関係の日本の商社とコンタクトを取り、手続きを依頼することにした。エクアドル国内での役所間の手続きもわかったので、それらはMAGに任せた。更に、輸入できないことも想定し、トゥローパの見積もりもエクアドルの販売会社2社から取った。

 

ある代理店に飾ってあったトゥローパ.jpg

 ある代理店に飾ってあったトゥローパ

 

パーティー

 モリーナとマンティージャは彼らの家に、たびたび招待してくれ、パーティーを開いてくれた。最初の調査で、今回の仕事の打ち上げということもあり、この時は大歓待してくれた。

 

マンティージャの家でのパーティー

 マンティージャの家では、お手伝いさんがいたのだろう。あるいはこの時だけ雇ったのかもしれないが豪華な食事が用意されていた。そして奥さんが立派な挨拶もしてくれた。

 

マンティージャの家に招待される。挨拶する奥さん。.jpg

マンティージャの家に招待される。挨拶する奥さん。

 

 驚いたことに食事中に3人組みの楽団が入ってきて生演奏をしてくれた。バイオリンにギターにアコーデオンである。歌も歌ってくれ、ステレオからの機械音でなく、本物の音楽を間近に聞けるなんて、彼らの方が我々よりはるかに豊かな生活を送っているのではないかと思わされた。マンティージャのホスピタリティー(おもてなし)に感謝した。

 

モリーナの家でのパーティー

 モリーナの家でのパーティーはより庶民的な感じだった。日本人とはどんな種類の人間なのか興味を持っている近所の人も交じっての大パーティーである。しばらく食べて飲んだらダンスである。南米の人はダンスがなければ生きていけない。飲んでしゃべってばかりいるだけの日本のパーティーとは違って、アルコールも適度に止められて、二日酔いにもならないし、南米の家庭パーティーは楽しく健康にも良い。

 

家庭でダンスをするモリーナ夫妻.jpg

 家庭でダンスをするモリーナ夫妻

 

 モリーナには息子が二人いて、現場にも来た子供達である。下の子は10才くらいだったろうか、私にいつもまとわりついていた。あまりにうるさくまとわりつくので、「皆と遊びなさい。」と言っていたのだが、そんなことは聞かずに、ずっとまとわりつくので、「マル・クリアード(mal criado:育ちが悪い)」と私が彼に言った。すると、その男の子が、お母さんに「ぼくは、マル・クリアードじゃあないよ。」とワット泣きだし、隣の部屋に閉じこもってしまった。私は軽い気持ちで言ったので、その反応に驚いてしまった。「増井はまだスペイン語をちゃんと話せるわけではないから、使い方を間違ってしまったのだ。」とか、「本当に育ちが悪いと言ったのではなくて、もっと軽い意味で言ったのだよ。」と皆でなだめて、部屋から出すのに1時間以上もかかってしまった。

 スペイン語が少しはしゃべれるようになってきても、微妙なニュアンスは難しく、それが完全に分かるわけではなかったので、子供をすっかり傷つけてしまった。言葉は感情を伴なうので、その後も似たようなことは時々あり、そして今でもあるのだが、外国語を使いこなすのは実に難しいと思う。 

 

泣かしてしまったモリーナの息子.jpg

泣かしてしまったモリーナの息子

 

 

キトーでの見学

赤道の石碑

 休日に今度は、赤道の碑に行ってみた。これはスペイン語でラ・ミター・デル・ムンド(La mitad del munco : 世界の真ん中)と呼ばれていた。普通はエクアドールが赤道を意味するが、国名がエクアドルなので、それは使わないで、このような表記がなされたのではないかと思った。

 

赤道の石碑.jpg

赤道の石碑

 

旧市街

 旧市街にも行ってみた。今度は多少慣れていたのであまり違和感は、感じなかった。狭い通りが続き、昔のスペインの町並みもこのようでなかったのではないかと思った。

 

旧市街_11-2.jpg

旧市街

 

 そして厳しく印象深かった仕事も終わり、間もなく帰国となるのである。

 

 

 

【森林紀行No.1 16/18】「交通事故の後」

目標に近づく

雨に苦しめられる

 少しの間ラゴ・アグリオを中心に調査することとして、8月15日(木)は、ラゴ・アグリオから5kmくらい離れたサンミゲルという場所でペンタプリズマだけによる測定をした。データを採取した伐採木の数は合計で120本となり、目標の150本にだいぶ近づいてきた。

調査して一息。左からルナ、メディーナ、増井.jpg

調査して一息。左からルナ、メディーナ、増井

 

 この日は車で30分行ったところで下り、その後森の中を30分程歩いた。調査をしている最中に、雨が降りそうになり、雷が鳴ってきて、真っ黒な雲が広がり、土砂降りになりそうなので、皆に仕事をやめさせ車まで走って引き上げた。全員が引き上げ、車に入ったとたんに車の屋根にも穴があきそうなほどたたきつける大粒の雨がドッと降り出した。間一髪で濡れ鼠にならずに助かった。

 

スコール直前の空.jpg

スコール直前の空

 

逃げた運転手が現れる

 昨日の晩に、明日8月16日(金)は朝7時に必ず出発するとモリーナが自信を持って強く言っていたので、我々にはいつも通りであるが7時ぴったりにMAGの事務所へ行くと彼らはまだ寝ていて、我々が起こすしまつだった。これから飯を食べに行くという。「まったく。朝飯なしで出発しろ。」と朝食抜きで出発させた。

 

 そこへ事故を起こし、逃げていた運転手が現れた。よくのうのうと現れることができたものである。悪びれた様子はないが、しきりに言い訳をしている。多少足をひきづるようにしているので、まだ打ち身が残っているのだろう。モリーナも彼を責めることはしないで、寛大な扱いである。

 

 7時半にモリーナ達は朝食を取らずに出発するが、途中のディーノという所の道端にある食堂で、彼らは朝食を食べる。彼らはどこで食べられるのかをちゃんと知っているのである。

 

 ペンタプリズマを使って何本かの直径を測り、伐倒してあった2本も測る。もう1班は伐採した測定木に巣くっていたハチに襲われ、結局測れなかった。

 

 

子供を山に連れて行く

モリーナが子供を連れて山へ

 昨日の打合せで今日8月17日(土)は、モリーナ達は7時には必ず出発すると言っていたが、朝食を食べて彼らが戻ってきたのが8時過ぎだった。我々はいつも1時間は待たされるのだが、コカのMAGの事務所でおしゃべりしているのも良い気晴らしであった。

 モリーナは、事故にもこりずに、今度は自分の本当の子供を2人連れて来た。そして二号さんの子供も一緒に3人山へ連れて行くという。まったくいい加減にしろというものだ。「もし、森で倒れてきた木の下敷きになるような事故でもあったらどうするのだ?子供は事務所に残しておけ。」と言ったのだが、聞くようなモリーナではなく、子供を山に連れて来た。私の班ではなかったが、近くでもう一班が木を伐っているので気が気ではなかった。

 森へ入り、私の班は、胸高直径1m以上の木を2本伐るが、2本目はチェンソーの歯を木に噛ませてしまい、抜けなくなった。もう一班のチェンソーを借りてきて、それで周囲を伐って噛んだ所を緩めてはずし、その1本を伐り終わるまで2時間以上もかかってしまった。昼飯は最近はずっと抜きだ。

 

巨大なアリ(コンガ)

 この周囲はコンガと言って5cmにもなる巨大な蟻が多い。これにかまれたら大変な痛さということだったが、幸いに噛まれたことはなかった。

 

映画へ

 その晩は土曜で明日はコカに移動し、森には入らない予定なので、じゃあこれから映画を見に行こうと皆でラゴ・アグリオの映画館へ映画を見に行った。ここでやっていたのは「ジョーズ?」と「The dirty seven」であった。こんな田舎に500人程も入る大きな映画館があるのに驚いた。

 

 

再びコカヘ

コカへ移動

 8月18日(日)は、この前と同じようにコカへ持って行かない荷物をホテル・エル・コファン預ける。ホテルの支払いを済ませてMAGの事務所へ行き打ちわせる。10時に出発する予定がアグア・リコ川の渡河場所にハシケが来ていないとのことで、ハシケが来るまで待っていて出発は12時半になってしまった。

 配車の関係で、私とアロンソはタクシーを使い先にコカに向かう。2つの渡し場もタイミング良く渡れて、順調に進み3時半過ぎにコカに着く。かなり早く着いた。着くと同時に土砂降りになり、雨を避けられラッキーであった。ホテルは一人部屋がなく、一部屋に2人づつ、Wさんと私、Y君とI君とが入ることとする。

 

チェンソーマンを連れてくるのを忘れる

 8月19日(月)は7時にMAGへ行くと珍しく7時半に全員が用意して集まった。すぐに出発し、コカから近く南西に位置するパヤミーノに行く。途中やはり渡し船があるが、30分くらいで着く。車に乗る時間が少ないと疲れが少ない。

 ところがこの日はチェンソーマンを一人連れて来るのを忘れてきた。もう一人の良く働くパスクワルに負担がかかる。パスクワルも先日沢山のハチに刺されてから元気がない。

 もう一人のチェンソーマンを連れて来るように、車を1台戻らせて、午後になってようやくもう一人のチェンソーマンが来た。

 この日直径1m以上の木をパスクワルが4本、もう一人が1本伐って、また前に伐ってあったものを1本含めて合計で6本も測れそうだった。しかし、1本は、ハチがいて測れず、結局5本を測ったが仕事はかなりはかどった。

 

入植者

 8月20日(火)、この日もパヤミーノへ行く。少し雨が降る。モリーナは朝、車に乗って付いてきただけで、足が痛いので歩けないと言ってコカへ戻る。

 メディーナとアロンソと2人で今日中に終わらせようと頑張る。この地域にいるのは厳しいので何んとか早く終わらせて、キトーに戻ってデータの整理をしたいが、なかなかデータ取りが終わらない。

 ここの森の手前に住んでいた入植者は4年前にアンデス山脈上のBolivar県からここに一家で移り住んできたとのことだった。作業に加わってもらったが、夫はCesar Auguloと言って45才、妻はCurudo Moralezと言って41才とのことだった。この二人の間に8人の子供がいて、長男が22才、次が長女でPatricioの妻となっていて20才で、一番下の子は1才とのことだった。生活の厳しさからだろうか、私の目からは夫婦は、実際の年齢よりずっとふけて見えた。

 

アウグーロ一家と.jpg

 アウグーロ一家と

 

アリに刺される

 この日、仕事中に首の周りに湿疹ができて、だんだんひどくなってきた。かゆくてたまらない。木の上に座って測樹中に、非常に小さなアリに這い上がられたのだ。小さなアリだったのでわからなかいうちに、首の周りを刺されたのだ。

 

アリに刺されて湿疹になってきたところ.jpg

 アリに刺されて湿疹になってきたところ

 

 帰ると湿疹がだんだんとひどくなり、上半身にジンマシンが出てきた。かゆい、かゆい。それで持ってきていた、抗ヒスタミン剤を飲む。多少良くなったが治らない。

 アリもコンガのように5cmもあるような大きなものから、刺されたアリのように1mmくらいのものまで様々な大きさのものがいる。

 

 

最後の仕事

 8月21日(水)は夜中から雨がひどく降り始め、ホテルのトタン板の屋根を打ち付ける音がもの凄く、それに首の周りがかゆくてよく眠れない。もう一度抗ヒスタミン剤を飲むが効きめがない。

 

 朝、最後の仕事だと発破をかける。しかし、カウンターパート達は、「こんな雨の中行きたくない。」と駄々をこねる。「現場に着くころにはやむよ。」と言って無理に行かせる、しかし、メディーナは「行きたくない。」と言い張りさぼる。

 我々はそれでも現場に行く。しかし雨は降りやまず、雨の中、最後の仕事を行う。昼までやって終わったが、雨は降り続いていた。入植者の家で雨やどりをさせてもらうとシンガーミシンがあった。

 

 

ラゴ・アグリオへ

 8月22日(木)は久しぶりに晴れて暑かった。しかし浮雲もある。

 今日はラゴ・アグリオに帰るので、8時には出発しようと言っていたがカウンターパート達は、現場の仕事が終わったので、昨夜午前2時頃まで飲んでいたとのことだった。当然8時には出発できず、結局10時出発となる。いろいろお世話になったホテル・アウカにもお礼を言ってラゴ・アグリオに向かった。

 午後2時過ぎにラゴ・アグリオに着く。今晩はラゴ・アグリオに泊まり、明日はようやくキトーだ。飛行機便を調べるとTAMEが飛んでいるとのこと。もし席が取れれば、Wさんと私は飛行機で帰り、取れなければ車で帰ることにする。Y君、I君は最初からモリーナ達と車でテナとプヨを通って帰ることに決める。

 

コカのホテルアウカの奥さんと.jpg

コカのホテルアウカの奥さんと

 

 夜は打ち上げのパーティーをラゴ・アグリオのホテル・エル・コファンで行う。午後8時集合と言っていたのに、カウンターパート達が来たのは、午後9時過ぎである。ホテルのレストランは10時に閉めるので、忙しく食べた。その後外に少し飲みに行って、12時にはホテルに帰った。モリーナ達は相変わらず、きりなく飲んでいる。

 このパーティーの時ヒメネスの知り合いでエンデッサという企業に勤めている人も参加し、その人も明日キトーに向かうとのことで、空港に知り合いがいるので空港に行けばキャンセル待ちで乗れるように手配してくれると言う。私は、明朝確実に空路でキトーに戻れるということで安心した。

 

 

キトーヘ

 8月23日(金)はキトーへ帰る日だ。朝ホテル・エル・コファンに支払いを済ませ、お礼を言う。8時半にホテルの近くにあるTAMEの事務所に行ってキャンセル状況を聞いてみるが、ここではわからないと言われる。しかし、昨晩一緒に飲んで口を利いてくれるエンデッサの人がいるから大丈夫と安心していた。空港には10時前に行っていた。しかし、エンデッサの人は飛行機の出発時間が11時だということで10時半になっても空港に来ない。

 我々を空港に降ろし、Y君、I君、カウンターパート達の車組はキトーに向かい既に出発した。

 

出発したカウンターパート達.jpg

出発したカウンターパート達

 

 空港では相当数の人がキャンセル待ちをしていた。出発前30分を過ぎてようやく来たエンデッサの人の口利きで乗れることになった。一人1,000スクレ(約2,000円)である。キトーまではわずか30分あまりであるが、その間にカヤンベ山(5,790m)を見ることができた。

 

カヤンベ山_31.jpg

カヤンベ山

 

 車組みはアマゾン源流域から来る時とは違った道を通り、アンデス山脈の上まで登った。その途中での景色が素晴らしかったとのことだった。このルートは次回、次々回と私も通る道だった。このときは特に途中の滝が素晴らしかったとのことだった。

 

アンデス山脈途中の滝.jpg

アンデス山脈途中の滝

アンデス山脈の急斜面を歩く先住民.jpg

 アンデス山脈の急斜面を歩く先住民

【森林紀行No.1 15/18】「交通事故の対処」

交通事故の状況

 1985年8月13日(火)、この日8時にMAGへ行って署長に話しを聞くが、キトーに電話したところ、キトーの本部では何も知らないということである。署長は本来コカに居るべき者が、コカ以外で重大事故を起こしたことを心配している。

事故を起こし、使い物にならなくなった車.jpg

事故を起こし、使い物にならなくなった車

 

 Y君が確かなことをつかんだらすぐに関係者に連絡するとするが、万一死亡事故の場合には、すぐにキトーに戻り、MAG、大使館、東京(JICA、JAFTA)に連絡するという体制を取った。

 

 こういった事故が起きた原因を考えてみると、道路が石油を取った後の残りカスを敷いたものでアスファルトではなく、雨が降ると非常にすべり易くなり、スピードの出し過ぎは危ない。それにカウンターパートの現場の親分であるモリーナはMAGの車なので、運転手がいても自分で運転したがり、また運転している時は横を向いてしゃべりながら運転する悪いくせがある。実際には事故を起こしたのはMAGの運転手であって、モリーナではなかったことは後でわかった。

 

 しかし、何とか事故を避けれなかったかと思うと避けることができたような気がしてならない。幸い我々日本人4人は、全員コカに残っていたから事故に会わず、よかったようなものの、彼らを強引に引き止めるべきであった。しかし、今回は相当強力なリーダーがいても引き留められなかったであろう。ラゴ・アグリオに家を持っているカウンターパートや作業員は家を見に行く必要があったので、だから少なくともそれ以外の者は引き留めるべきであった。

 

 午後3時過ぎにY君達が、打ち身だけで済んだモリーナとメディナを連れて帰ってきた。それによると全員無事であるとのことでホッとした。

 

 事故車に乗っていたのは6人で、

1.モリーナは多少の打撲で元気。すぐ治りそうとのこと。ここにいる。

2.モリーナの二号さんは、みけんを切り、25針縫う大怪我だった。当分安静が必要だが、元気。

3.二号さんの子供は10才くらいで、全身打撲だが元気で、すぐに治りそう。

4.ルナは頭と顔を激しく打撲したが、意識ははっきりしている。しかし、当分安静が必要。

5.メディーナは、全身打撲だが元気で、すぐに治りそう。ここにいる。

6.運転手はどこかを怪我しているはずだが、捕まるのが怖くて逃亡してしまった。

  

 とのことで、ルナとモリーナの二号さんが当分のあいだ安静が必要とのことで寝ているとのことだった。

 

 事故の起きた状況は次のようなことだった。時速40kmくらいでラゴ・アグリオからコカへ向かって走っている途中、テキサコの基地があるサンチェスというあたりで自転車をよけようとしたら、折からの雨でスリップし、路肩へ落ち、パイプラインに衝突、車が一回転した。ルナとモリーナの二号さんが完全に失神。全員がかなりの打撲で、一時的に全員気を失ったとのこと。

 ルナは特に頭が床と座席の間に入って挟まれてしまった。モリーナはコカへ誰にも秘密で二号さんとその子供をラゴ・アグリオに呼んでいた。サンチェスのテキサコの施設からすぐにセスナでラゴ・アグリオに運ばれ、ラゴ・アグリオの病院で二号さんはすぐに25針も縫ったということだった。

 

 

一旦ラゴ・アグリオに引き上げる

 モリーナとメディナは、全員ショックを受けているので、一旦ラゴ・アグリオに引き上げて、全員を落ち着かせてから仕事を再開しようと言う。Wさんはせっかく、いい木があるところを見つけたので、1班だけでも残って仕事を続けようと主張するが、私は日航機事故を聞いたことやアロンソの指きり事件もあり、この交通事故では完全に気が疲れたので、このような時に山へ入るのはもっと危険であると判断し、一旦ラゴ・アグリオに引き上げるように主張し、Wさんもそれに納得したので、一旦ラゴ・アグリオに引き上げることにした。

 

 すぐに全員荷物を片付けた。渡し船の最終時間が午後4時半なので、あと30分しかない。ホテル代や作業員への賃金などを大急ぎで支払い、なんとか最終の渡し船に間に会った。

 

はしけによる渡し場.jpg

はしけによる渡し場

 

事故証明を取る

 

 サンチェスを通るときにモリーナが頼んでいた事故証明を警察に取りに行くという。MAGへの報告や保険で当然必要である。警官と言ってもサッカーパンツのみで上半身は裸のあんちゃん風である。事故証明は当然のごとくできていない。仕方がないので、モリーナが学校へ行き、自分でタイプを打って、警官にサインとスタンプを押させる。1時間以上もかかった。しかし、1時間程度でできるなんて信じられないくらい早い。やればできるのだが、ここでは警官も本当に必要になるまでやらないのだ。しかし、モリーナもやるじゃんと思った。

  

夜道を歩く  

 ラゴ・アグリオの手前の渡し船の最終は午後7時半。結局まにあわなかった。仕方がないので、車をそこに預け、カヌーで人と荷物のみが渡る。渡ったはいいが、対岸にタクシーがあるわけではない。真っ暗な夜道を重い荷物を担いで、約5kmも歩かなければならない。動物や人間、危険なものが一杯である。

 とぼとぼと歩きだすと約1kmほど歩いたところで、止まっていたトラックがあり、それに頼んでラゴ・アグリオまで載せてもらい助かった。

 ホテルで遅い夕飯を食べたあと、ルナを見舞いに行く。かなりの重体に見えた。しかし、何とかしゃべれる。もともと体が細く、弱々しく見えていたので、やせてなおさら弱々しく見える。

 モリーナの二号さんもみけんを十字に縫ったあとが痛々しい。彼女は健気にも「いい土産話ができた」と笑って言ったが。

 

arikui.jpg 

道路に出てきたアリクイ。走っているので焦点があわなかった。

 

 

事故報告とその後 

1985年8月14日(水) 

大使館に事故の報告

 我々は、カウンターパートが事故が起きたことを大使館に報告した。

 

 昨晩キトーにいる仲間のNさんに電話をしたが通じなかった。この日も電気がないということで、昼までは電話ができなかった。午後2時になりようやく電話が開通した。

 

 大使館の担当書記官に電話局から電話をするが1時間以上も待たなくてはならなかった。順番待ちである。ラゴ・アグリオからは電話回線がキトーへ2本、コカからは1本しかなかったのである。

 

 「カウンターパートが交通事故を起こし、エクアドル側のカウンターパート3名が怪我をし、1人が重体であるが、命には別状ない。日本人は誰も乗っていなかったので、無事である。仕事は予定通り進める。」と伝えた。

 

 カウンターパートに事故があったが無事だったということと、我々が事故には巻き込まれなかったということで、大使館ではあまり重要なこととは思われなかった。危機管理というか安全対策などで、何らかの指示があるであろうと予想していたが、何のおとがめも無かった。

 この当時の電話といったら無線で繋いでいるので、アマゾンからアンデスの山の上へかけているからか雑音がものすごく、良く聞きとれない。それで大使館も良く事情がわからず、とりあえず無事だからあまりたいしたことはないと思われたのだろう。

 大声でしゃべらなければならないので、そこで待っている地元民が日本語など聞いたことがないものだから何事が起きたのかと不思議そうな目でこちらを見ている。 

  

ラゴ・アグリオの町の中の市場.jpg

 

ラゴ・アグリオの町の中の市場

 

 

衰弱していたルナ

 さて、今のところ全員元気で、ルナ一人が心配であるが、歩けるようにもなり、どこも骨も折れていない。しかし、明日か明後日キトーの病院へ送りたいと思った。しかし、ラゴ・アグリオ空港の滑走路の拡張工事が進んでおらず、TAME(軍の飛行機)とテキサコの便が少なく金曜日と土曜日は既に満員である。あとは体力の回復を待つだけなので、結局家で静養してもらうことになった。いざというときには、本当に陸の孤島というところである。

 

朝礼

 それから私は、毎朝出発前に朝礼をして、訓示をすることにした。「木を倒す時は気をつけろ。木の下敷きになったり、根に跳ね飛ばされないように遠くに離れていろ。交通事故には気をつけろ。スピードは出すな。」と口を酸っぱくして毎日同じことを繰り返し訓示した。

  

 森の中の入植者の家。コーヒーを栽培している。.jpg

森の中の入植者の家。コーヒーを栽培している。

 

 金曜日の朝は「皆今週の疲れがたまっているようだから、特に気を入れて行え。土日は休みとする。だから今日は頑張れ。しかし、事故には気をつけろ。特にチェンソーマンは油断するな。運転手は、交通事故には気をつけろ。スピードはだすな。」と繰り返した。

 

 道路開設の最先端で障害物となる大木を伐採していた黒人.jpg

道路開設の最先端で障害物となる大木を伐採していた黒人

【森林紀行No.1 14/18】「交通事故」

交通事故

 不思議なもので、悪いことは重なるものである。1985年8月12日に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したが、そのニュースを短波ラジオジャパンで聞いた日に、ここでもラゴ・アグリオに帰ったカウンターパートが交通事故を起こし、その日に残っていて仕事に行った別のカウンターパートが指を切ってしまった。これは私にとっても重大な危機管理能力不足だったので日を追って順に述べる。

いつも食べていたコカの町の食堂.jpg

いつも食べていたコカの町の食堂

 

カウンターパートとのせめぎあい

198589日(金)

いつも朝が遅いカウンターパート

 この日は、コカから約40km先のゲレイロという名前の人の所有している森林を調査した。

 前日の木曜日には「明日は朝7時に出発して午後1時までには仕事を終わらせてから、弁当を食べ、早く帰ろう。」とモリーナ達エクアドルの技術者と作業員は、共々言っていた。何故彼らがそう言うのか、頭が働かなかったのであるが、彼らはラゴ・アグリオに帰りたかったのである。

 朝の出発は毎朝7時と決めていたのだが、モリーナは、いつも遅く8時過ぎになってしまうのであった。他のカウンターパートはちゃんとしているのだが、親分のモリーナがいつも遅いのであった。彼は7時には出発すると言いつつどうしても出発できないのであった。我々はいつも7時にMAGの事務所に行っていた。

 彼らが木曜日に「明日は必ず朝7時に出発する。」と言うので、8月9日(金)は我々はいつもの通り、朝6時に起き朝食後、7時にコカのMAGの事務所に行きカウンターパートを待っていた。

 しかし、彼らが出発準備ができたのは、やはり8時過ぎで、出発したのは8時半であった。

 また、この日は一番良く働く、チェンソーマンのパスクワルが来ていないので、どうしたのかと思った。彼は先住民だからだろうか、とても真面目で、いつもは7時には来ていて、チェーンソーの手入れや、他の道具を車に乗せたり、こまごまと働くのであった。彼の息子も作業員として雇っていたので、「パスクワルは今日はどうしたのだ?」と尋ねると「昨日の夜は家に帰ってこなかった。たぶんどこかで飲んだくれて酔い潰れているのだろう。」と言う。パスクワルでもそんなことがあるのかと思う。それも先住民だからだろうかとも思う。仕方がないのでパスクワル無しで昨日と同じゲレイロの山へ入る。

 

入植者の家.jpg

入植者の家

  

モリーナとのせめぎ合い

 モリーナはしきりに仕事は「1時までにしよう。」と言う。しかし、我々は「少なくとも2時までは行う。」と言う。しかし、前日もそうだったが、この日も雨で危険であった。前日の雨は強弱強弱のリズムで降ってきて、全員ずぶ濡れであった。カッパを来ていても中から汗でびしょ濡れである。この日は、山へ入るなり、いきなり雨が降り出し、それほど強くはないが、一定の強さでずっと降っていて、やはりずぶ濡れであった。

 2時まで仕事をして、山から出て、ゲレイロの家で昼飯を食べ、4時にMAGの事務所に戻った。モリーナは、「どうしてもラゴ・アグリオに行きたい。」と言う。

 

 私は「だめだ。我々は仕事に来ているので、私的な行動は許されない。それにラゴ・アグリオまでは車で1時間半はかかる、往復すれば3時間もかかる。途中に渡し場もあるので何時間かかるかわからない。コカでの仕事が終わってから帰ることにする。ここで仕事の整理と休養をしてくれ。車での往復は疲れるだけだから。」と言って許可しなかった。

 

 しかし、モリーナは、「大丈夫だ。増井。人生は仕事だけではないよ。我々はキトーに戻るのではなく、ちょっとその先のラゴ・アグリオまで行ってくるだけだ。心配しなさんな。月曜日の朝7時までには帰ってくるから。ウワハッハッ。」と言う。結局彼らを抑えきれず、「仕方がない。それでは月曜の朝7時までには必ず戻ってくるように。」と言ってしまい、彼らの言い分に負けた。モリーナもきちんと理由を説明してくれればよかったのだが、そうは言えなかったのだ。それはモリーナの二号さんとその子供がラゴ・アグリオに来ているからだった。

 モリーナとルナとメディナのカウンターパート3人、作業員4人、運転手2名をラゴ・アグリオに帰した。車は我々が借りているトラック1台とMAG本部から提供されているランドクルーザー1台の計2台でラゴ・アグリオに帰った。MAGから借りているブロンコ(アメリカ製の車で6人~7人乗れる)は貸さなかった。

 夕方になり、MAGにようやくパスクワルも顔を見せに来たが、やはり酔っぱらっていた。彼も途中までモリーナの車に乗せてもらい自分の家へ帰った。

 

 カウンターパートの中では、アロンソがラゴ・アグリオに帰らずコカに残って、我々と一緒に行動すると言ったので安心した。一番若いアロンソの方が一番年上のモリーナよりもはるかに責任感があった。

 

1985年8月10日(土)

ナポ川の偵察

 この日はアロンソとカスティジョ(コカのMAG職員であるが、給料が安いので我々は作業員として雇い日当を支払った。)と我々と計6人でナポ川をエンジン付きのボートを船頭付きで借り上げ、先に書いたようにプリマベーラまで往復した。

 

ナポ川を渡るハシケ.jpg

ナポ川を渡るハシケ

 

最高に楽しかった日

1985年8月11日(日)

楽しかった一日(日エ米仏文化交流)

 この日は休みとした。コカのような辺鄙な場所にもアメリカ人の学生で医療関係のボランティアの学生が一人いた。それにフランス人の青年夫婦が探検に来ていて、同じホテルアウカに泊まっていた。午後からは彼らと一緒に日西英仏の4カ国語チャンポンで雑談をしたり、トランプ、特にポーカーなどをして楽しんだ。

 我々の中ではY君が190cmほどと背が高く、彼らも背が高かったので背比べをしたが、Y君が一番高かった。

 夜は、この汚い町にもディスコがあり、そこに踊りに行った。やはり南米人にはダンスがないと生きていけないのだ。夜になり暗い中で回転するミラーボールの光の中で、とてつもなく汚い場所だがその汚さは見えず、とても高級な場所にいるような錯覚を覚えた。皆で踊って、特にフランス人の若い奥さんは引っ張りだこであった。今回の調査の中では楽しい思い出であった。

  

事故の前触れ

1985年8月12日(月)

ラジオジャパンで日航機の墜落を聞く

 この日はカウンターパートは朝9時までにラゴ・アグリオからコカへ帰ってくることになっていたが、我々はどうせ10時か11時までは帰ってこないだろうし、この日の仕事はハードにはできないだろうと思っていた。

 

 この日はまったくついていなかった。朝6時に久しぶりに聞いたラジオジャパンで、500人以上乗った日航のジャンボ機が墜落したというニュースを流していた。日本では大変なことになっているのではないかと思った。何か不吉な予感が走った。

 

 9時から11時半までMAGでモリーナ達を待つが帰ってこないので、この日から働くことになっているMAGのパトリシオ(職員だが作業員として雇う)のクニャード(義理の弟)の山へ行く。我々4人と残っていたアロンソと作業員3名と運転手とそれにクニャードの父親やそのとりまき計3人が付いてきて、胸高直径1m38cmのチョンチョ(ローカル名)を1本伐る。これくらいの大木を倒すのには2時間以上もかかる。そして測るのにもまた1時間以上かかり、この日はこれ1本しか測定できず、また水曜日か木曜日に来るから頼むと言ってMAGへ帰る。

 

アロンソが指を切る

  帰る途中、ハシケの渡し船を渡ったところで、カウンターパートのアロンソが誰かがサトウキビをむいていたマチェーテ(ナタ)にぶつかって左手の人差し指をかなり深くきってしまった。白い肉が見えたと思ったら血が噴き出してきた。すぐに応急のバンドエイドを貼ってやる。

 

 近くに最近できたばかりの病院があるので、すぐに行こうと言ったのだが、医者に行くのをすごくいやがる。無理に連れて行くとまだ若い医者は指をすぐに洗い、針で縫うと言う。麻酔もかけずにすぐに縫おうとする。たぶん麻酔も無いのであろう。するとアロンソは怖がって逃げてしまった。

 

 捉まえると「あの医者は野蛮だ。麻酔もかけずに縫おうとした。」と言う。「たいしたことないんだから、痛いのを少し我慢すればいいんだよ。」と私が言うが、「あの医者は野蛮だ。」の一点ばりだ。応急の絆創膏をはがしたので、また血がどんどんと流れている。仕方がないので上腕をしばり、またガーゼを巻いて絆創膏で固定してやる。

  

交通事故とのうわさが流れて来る

 さて、5時頃MAGへ帰るとMAGの車が事故を起こしたとのうわさなので、署長が見に行っているとのことだった。我々はモリーナ達カウンターパートは、まだ戻って来ていないと頭に来ていた。MAGの車と言っても沢山あるので、我々の仲間だとは思わなかったし、思いたくなかった。それにまだはっきりしていない。

 それからホテルへ6時頃帰る。アロンソはその後ホテルの私の部屋に訪ねて来たので、飲み薬の抗生物質を3日分やり、ガーゼをはずし、クロマイをたっぷり塗りつけ包帯をしてやった。すると3日くらいで治ってしまった。あまり薬のお世話になったことがなかったのだろう。あまりに早く治ったので驚いた。 

 

交通事故

カウンターパートの交通事故だった

 夕食を近くの食堂で食べていると借上げ車の運転手が来て、事故は我々の仲間でかなりひどいと言う。午後7時頃で、既に暗かったが、すぐにMAGに行くと事故にあったのは我々がMAGから借りているランドクルーザーだった。署長が別の車でそのランドクルーザーを引っ張ってきて、かなりひどい状態である。フロントガラスは全てなく、横の三角窓も壊れている。車の天井は歪んでひし形になっている。バンバーは付いているが、ところどころへこんで歪んでいる。エンジン部のふたはしまらず、歪みが大きい。タイヤは、パンクはしていないが軸が曲がったのだろう少し傾いでいる。内部の運転席の横に血がついている。

交通事故を起こしたランドクルーザー.jpg

交通事故を起こしたランドクルーザー

 

 署長が行った時には車は道端に捨てられており、もう周りには人は誰もおらず、車だけ引っ張って帰って来たということだった。

 口コミの話をまとめると乗っていたのは8人で3人は背骨をやれており、内2人が重体だとのこと。朝10時頃、コカから30kmくらい離れたラゴ・アグリオよりのサンチェスという場所で事故が起きたとのこと。

 

事故車の前部.jpg

事故車の前部

 事故車のフロントガラス.jpg

事故車のフロントガラス

 

 当時雨が降っており、かなりのスピードでカーブを曲がり切れず、石油のパイプラインにぶつかって一回転したとのことだった。しかし、正確なことはわからない。すぐに電話局へ行くがコカとラゴ・アグリオの間には電話はないという。また、また仕方がない。

 

 署長は明朝キトーへ電話し情報を得るという。口コミでは、事故が起きた近くにテキサコの施設があり、そこに収容され、セスナでキトーに運ぼうとしたらしいが、雨が激しく、運べずにラゴ・アグリオに運んだらしいとのことだった。

 明日朝6時にならないと渡し船が動かないので、6時にアロンソ、Y君、運転手の3人をラゴ・アグリオに行かせ情報を得ることにする。私を含めた日本人3人は、残って署長の情報を待つことにした。

1  2  3  4

ページトップへ