増井博明の森林紀行エッセイ

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インドネシア編

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.11

帰国へ(インドネシア編最終回)

先にルブクリンガウに降りる

私の足は益々悪化し、とうとう調査には使い物にならなくなったので、先にルブクリンガウに降りて医者に足を見てもらうことにした。タモリが付き添ってくれた。

 

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川で遊ぶ子供達

C/Pのタモリ

スルラングンで私がボートの運転手に1万5千ルピア(約3千円)やれとタモリに渡すと、その場でタモリは1万ルピアをポケットに入れてしまい、運転手には5千ルピアしか渡さなかった。「何しているのだ。お前にやったのじゃあない。運転手にやれ。」と言っても彼は、「私がいなければこの仕事は進まない。お前も私がいなければ仕事はできない。だからこの金はアラーの神が、私にくれたものである。」となめられたものである。全く気に入らない。しかし、ここでは親分はピンハネをしなければならない社会だ。

幾つだと聞くと38才と言ったり50才と言ったりする。顔立ちから見るとおそらく50才前後だろう。まあ、言ってみれば、江戸時代の悪代官か?

 

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仲良く私とタモリ

乗合自動車

スルラングンからムワラルピットまでは、乗合自動車で下りた。トヨタのライトバンに乗り込めるだけ詰め込むのである。20人程も乗っただろうか。ムラワルピットからルブクリンガウまではナナがジープで送ってくれる。途中スカラジャで借りていた民家前で止まり、村人と別れとお礼の挨拶をする。

映画

ルブクリンガウでは、一人でデータの整理をしながら皆の帰りを待った。その間、ルブクリンガウにある映画館に行ってみた。上映されているのはカラテ映画で、日本人やアメリカ人が悪者で、インドネシア人が正義なのである。「ヤマハ」という名の宝石泥棒がインドネシア人の秘密警察にやっつけられるという勧善懲悪ものである。言葉はほとんど分からないが、ストリーが単純で面白かった。インドネシア人が活躍する時は、大拍手である。

夜中の到着

12月27日に皆がルブクリンガウに戻る予定であった。この日の夕方にタモリもホテルに来てだいぶ遅くまで待っていた。しかし、夜遅くになっても到着しないので、タモリも帰り、戻って来るのは明日になるのであろうと思い寝てしまった。すると午前1時過ぎに到着した。雨で道路が寸断されて大変な苦労をしたとのことだった。

目標達成

ルブクリンガウで全員が集結するとやっと現地調査は終了したのだという気がしてきた。全部で91ヵ所のプロット(標本)を調査した。80点以上が当初の目標であったから、目標は達成できた。これ以上雨期の森林に入るのは危険ということで、後はデータの整理と分析にあたった。

ルブクリンガウの医者

ルブクリンガウでは一人のメンバーを除いて医者の世話になった。そのメンバーは最も若く26才で、細く締まった体で一番強かった。私は足の化膿。他のメンバーお尻に大きなおできができてしまった。団長は足の付け根のリンパ腺を腫らしてしまった。

おできができたメンバーはルブクリンガウの病院で、おできの切開をしなければならなかった。その様子を見ていると、うつぶせに寝かされ、麻酔も打たずに、おできを中心に2cmくらい切開されると棒の様な器具で突っつかれ、ぐるぐると掻き回され、膿を全部出し切った後に、消毒用のガーゼを入れられて終わりだ。彼は痛みで貧血を起こし、顔面蒼白だ。2?3日したらガーゼをとれば良いという。まことに簡単だ。だが、治りは早かった。団長と私は例によってお尻に注射を打たれた。

帰途

いよいよ帰途だ。全員体重が5Kg以上減り、まるで敗残兵だ。

ラハットへ

12月30日、ルブクリンガウの役所へ挨拶を済ませて、ノルマン、タモリに別れを告げて我々はパレンバンへ向かう。ラハットまでの道路は、まだ傷んでなくて順調に着くが、ラハットからパレンバンまでの道路は、雨で寸断されているという。その晩はラハットに泊まり、パレンバンまでのルートを検討する。

大晦日

いよいよ大晦日である。道路が寸断されているので、遠回りでも迂回して、車が通れる道を選び、インド洋に面した町ベンクールに向かう。ベンクールは静かで、思ったよりもきれいな街であった。ここで新年を迎えようとは夢にも思わなかった。インドネシアでは正月休みは元日だけらしい。イスラム教国なので、そちらの関係の行事の方がにぎやかなのである。ホテルのボーイに「スラマトタウンバルー(新年おめでとう。)」と言われる。港に行ってみると、子供が大きなタイのような魚を釣っていた。町をちょっと見物してからパレンバンへ向かった。

 

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1979年元日のベンクール

 

 

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ここで子供が釣った魚

パレンバンにて

パレンバンに到着した時は、丸2日間もジープで揺られ、疲れきっていた。皆しゃべる気力もない。しかし、ここでもの凄く辛い唐辛子が乗ったパダン料理を食べたら皆シャキッとして何の疲れも感じていない様に変身したのには驚いた。

パレンバンの営林局

1月2日は休養し、3日はパレンバンの営林局へ、挨拶へ行った。ここの局長はなかなか英語がうまく、日本をちくりと皮肉った。「戦争中は、我々は皆日本の方向へ向かっておじぎをさせられたものである。戦後、日本は平和になり、日本人の体格は大きくなった。戦争中は我々と同じくらいの体格であった。オリンピックへ出てくる日本選手などは大きくてビックリする。日本は発展し、日本人はたいしたものだ。しかし、今はもの凄い経済侵略だ。今後は侵略すること無しに、純粋に協力してもらいたい。何はともあれ、皆無事でご苦労様でした。」などと言う。

ジャカルタ到着

そして、1月4日ようやくジャカルタへ戻った。ジャカルタでは再度プレジデントホテルに向かった。このホテルは一流で、清潔でまるで天国だ。世の中にこんなにきれいな所があったのかと思うくらいである。環境が清潔な状態になった途端に、私の足も急速に快方に向かった。一体なんだったのだろうか?

報告

翌5日、早速大使館へ行き現地の報告をした。皆の無事ジャカルタ到着を喜んでくれた。ジャカルタではボゴールの林業総局へ、現在までのまとめを報告するためデータの整理と解析を行った。

ボゴールの林業総局へ

調査の疲れも癒え、我々は資料のまとめも終わり、ボゴールの林業総局へ最後の挨拶へ行った。ここでの会議で、フォージーは次長のカヒルマンにこっぴどく怒られたが、どうも茶番のようでもあった。なんやかやでどうやら友好的雰囲気のうちに話は終わった。

また一悶着

この調査では、航空写真の複製はインドネシアの会社に委託していた。しかし、別な地域の航空写真の複製の値段について、例のごとく金額面で折り合いがつかず、一悶着あった。この調査は、まだ続いており、次回調査団が来るまでに解決しようということになった。

日本へ

そして1月11日とうとうジャカルタを発たなければならなかった。様々な思いが駆け巡り、スカラジャでの人と自然はとりわけ忘れ難かった。都会の喧騒にしか住めない我々にとっては、それは理想郷だったのかもしれない。どんなに貧しく、不潔であっても、おおらかで、清々と生きているではないか。

だが、そこも徐々に文明に侵されつつある。我々日本人が彼らのためにといって森林の管理計画を立てるのだ。彼らにとっては原生林と見えるような森林を焼畑で燃やしてしまうことなど何でもないことである。確かに焼畑を行うことは自然破壊に通じるように見えるかもしれないが、彼らは延々と大昔からそうした生活をしてきたのだ。我々の計画が彼らの生活に制限を与えるような恐れもある。

しかし、それよりも当面の利益を追求し、チェンソーで森林を伐採し、ブルドーザーで伐り開いて行くことに許可を与えてしまう方が、はるかに早く、壊滅的に森林が無くなってしまうのだ。

作業員達は良く働いたし、信じられないくらい動物的な感覚が発達していた。おそらく人間本来持っている能力を普通に発揮していたのだろう。そして人懐っこく、素朴な連中で、とても好感が持てた。

しかし、都会でも田舎でも役人達は、どうしても好きになれなかった。いつでも金をせびることしか頭にない連中ばかりであった。だが、それも彼らにとっては生きる知恵であろう。裏でこそこそやるよりも、はるかに素直かもしれない。

インドネシアとの別れを惜しみつつ、手を振りながら一歩ずつタラップを登って行った。ドアが閉められ飛行機は日本に向かって飛び立った。様々な思いが脳裏を駆け巡った。

 

インドネシア編終わり

次回からアフリカのブルキナ・ファソ編を書く予定

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.10

No.10 ムワラクラムにて

ムワラルピットの不潔なホテル

ムワラルピットのホテルに、12月14、15日と2泊した。しかしホテルとは名ばかりで、不潔きわまりないものだった。湿った布団。汚い水。暗い部屋。不潔なトイレ。ここを流れるルピット川は汚水のようだ。あまりに汚いのでマンディ(水浴)はしないで、雨が降って来ると外へ飛び出しシャワー代わりとした。布団にダニがいるらしく、かゆくてほとんど眠れなかった。もしかすると南京虫だったかも知れない。

 

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ムワラルピットの町(どの町にもモスクがある)

 

ムワラルピットにいる間、サガラの替わりにアセップという名のカウンターパート(インドネシア側の共同作業技術者)がやって来た。アセップはまだ25歳だが、しっかりしていた。英語もかなり堪能である。「私の友人のフォージーが働かなくて申し訳ない。」と、しきりに謝っていた。

 

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アセップ等との打ち合わせ

ムワラクラムへ

このムワラルピットから奥地に入るボートの値段の交渉でまた難儀した。ムワラピットから10?程離れたスルラングンという地域の役所で交渉を行ったが、10?20人乗りのエンジン付きのスピードボートが1日2万5千ルピア(約5千円)だと船主は言った。これは、この辺りの相場としては、あまりに法外な値段である。1日1万ルピア(約2千円)が相場と聞いていたからだ。長時間の交渉の末、こちらはかなり値切ったつもりでも、まだ相当に高かったのだろう。それでも値段を決めたので、後にもめないように契約書を作った。往復その他毎日少しずつの送り迎えで合計8万ルピア(約1万6千円)ということで双方がサインした。しかし、サインをした後すぐに、もう3万ルピア(約6千円)出せと言ってきたのには驚いた。一体契約というものが分からないのだろうか。「それならもう別な場所で調査をするからムワラクラムには行かない。この契約書は破棄する。あんたには金は入らない。」と言うと、元の8万ルピアで良いと言う。

 

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エンジン付きスピードボート

化膿する足

私は、左足の甲の先端部が水虫のようなものにかかったようで、とうとう化膿してしまい、スルラングンの病院で見てもらった。医者はペニシリンを打つという。この辺りはまだ何でもペニシリンが効くようだ。お尻にペニシリンを打ってもらいボートに乗り込んだ。(帰国後ペニシリンショックも検査せずに良くペニシリンを打ったものだねと同僚から言われ、後から空恐ろしく感じたものだ。)ここの役所から陸軍の兵士が2人ライフルを持って警護にあたった。 

ムワラクラム

ムワラクラムには、我々は、12月16日から12月24日まで滞在した。ここは、スルラングンからスピードボートで約4時間。途中の川岸では、体長3mはあろうかとも見える大トカゲを見た。全く中生代の恐竜の生き残りといった感じだ。ムラワクラムでは川沿いの役所の施設に泊まった。簡易ベッドが10本程あり、壁には日本の女優のモデルのインドネシア語のカレンダーが掛けてある。

良く見ると10年程前の吉永小百合である。新幹線と名神高速道路と女優。山肌を削って道路を作った所も見える。日本の発展と自然破壊と浮き出た女優。日本のアンバランスを見せしめているような奇妙なカレンダーであった。こんな自然豊かな奥地に外国のアンバランスな発展を示すようなカレンダーがあるのが不思議な思いがした。

 

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ムワラクラムで泊まった宿舎

 

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宿舎の庭で遊ぶ子供達

ムワラクラムでの生活

ここでの調査はすべてスピードボート使い、川を遡り、上流域の森林で行った。川沿いはほとんどが天然林で、焼畑が少ないので、林内は歩きやすく、却って調査はやり易かった。しかし、私の足は完全に化膿してしまい、痛くて靴が履けなくなってしまった。ここの医療機関に行くと、保健士が一人いて、抗生物質の注射をしてくれ、やたらに抗生物質の飲み薬をくれる。私は山に入れなくなったので、皆が山に行っている間、データの整理をしていた。その合間を見て釣りをした。

 

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スピードボートで川を遡り、上流の森林を調査する

 

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川沿いの森林

ムワラクラムでの釣り

宿舎の前の川は川幅が50m程もあり、相当に水量がある。ここで釣れたのは20cm?30cm程のナマズである。いくらでも釣れる。もし長い海竿とリールを持って来ていれば、ムワラルピットの市場で売っていた1m以上もあるナマズが釣れただろうにと残念であった。

ヘビ

岸まで水が来ているものだから、そこに浮いているイカダの上で用を足した。ある時、用を足しているとお尻のすぐ後ろでヘビが鎌首を持ち上げた。私は驚いて立ち上がった時に、足をイカダを組んでいる木の間に挟んでしまった。その音に驚いたヘビは水中に潜ってしまったが、こちらに向かって来なくて良かった。あれが毒蛇だったらと思うとゾクゾクッとし、出るものも引っ込んでしまった。

卓球やドミノ

ムワラクラムには卓球台があり、ここでは我々日本人チームがインドネシア人チームに勝利し、バドミントンのお返しをした。

誰が持って来たか知らないが、タモリ達は盛んにドミノをしていた。我々はもっぱら歓談して夜を過ごした。

 

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調査で行き当った洞窟

つづく

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.9

スカラジャでの楽しみ、ムワラルピットへ

リクリエーション

その遭難騒ぎの後は、我々も慎重になり早立ち早帰りを心掛けた。こうした困難な調査では心身共に疲れて来る。息抜きも必要だが、家に帰るとその日の整理をしなければならず、なかなか息抜きはできなかった。

ただ、寝袋の上に横になって日本から持ってきた小説を良く読んだ。自分が持って来た2冊と他のメンバーが持ってきた2冊をそれぞれ3回ずつ読んだ。夕食後はコーヒーが美味い。あるいは缶ビールを飲みながら歓談するのも飽きることがない。団長は博学で何でも講釈ができ、その講釈が面白いものだから、このような苦労が伴う調査では、団を陽気にする大きな役割を果たした。

ここで私は29才、別の団員が31才の誕生日を迎え、ビールで乾杯をした。ある晩、私とそのメンバーが日本の歌を歌っていると、下でノルマン達がインドネシアの歌を大声で歌いだした。ここで、上と下で日本とインドネシアの歌合戦が始まった。2時間も歌ったろうか、種がつきてくると「もうないのか。それ歌え。」と下からどなってくる。そうして楽しい晩も更けて行った。

スポーツ

仕事後まだ明るいと、作業員達が遊びに行こうと誘いに来る。近くの小学校で、バレーボールやバドミントンをやろうというのだ。バトミントンはさすがにこの当時、世界チャンピオンがいた国だ。皆うまくて、我々は全然歯がたたない。どんな小さな集落にも細い木をライン代わりにしたコートがある。

バレーボールコートは、学校に一つあった。先生達は、「私達は貧しい。もしできればボールを一つ寄付してくれないだろうか。」と言ってくる。そこで、我々は、ルブクリンガウに買い出しに行った時に、ボールを一つ買ってきて寄付をした。

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小学校の先生達。女性が多い

盗まれる物

しかし、我々の物が盗まれるのにも困ったものだった。まず、スカラジャに入ったその日に団長の作業靴と私のビーチサンダルが盗まれた。ビーチサンダルならすぐに手に入るが、作業靴には困った。幸い11月28日に現地を去り、帰路に発った他のメンバーと団長の足のサイズが同じだったので、そのメンバーの作業靴を譲り受け、その間は運動靴で仕事をした。その他、シャンプーや整髪料あるいは缶詰などが、毎日少しずつ減るのである。我々は大目に見てやっていたが、一番困ったのはひとりのメンバーの時計が盗まれたことだ。彼のその時計は恋人と交換してきた大切なものだったからだ。隣に住む集落の長に「時計がなくなった。どうしても大事なものだから絶対に捜してくれ。」と頼み込んだ。すると彼は翌日、「子供達が持って遊んでいた。」と時計を持って来た。

結婚式

また、我々が感激したのは、結婚式に出られたことである。12月8日(金)の夕方、太鼓や鉦を叩きながら行列が通った。何かと思っていると花婿と花嫁の行進である。夜8時から披露宴があるという。我々も招待されたので、そこへ行って見た。会場は野外に作られた仮設ステージである。発電機で電気を起こし、エレキバンドの演奏もある。この日団長は、換金でジャカルタに降りていたので、私を含め残っていたメンバー合計3人は、一番前の主賓席へ通された。ごちそうのナシゴレン(焼き飯)が出てくる。まずは音楽。続いて祝辞。そしてまた音楽。祝辞の間に音楽が続く。

ご祝儀が集められる段になった。一人一人がステージに上がって新郎新婦にご祝儀を渡すのである。それを司会者が大声でいくらだったか公開するのだ。周辺の人々は貧しいので、それほど多くの金額は渡せない。我々は、金蔓として招待されたのだということはわかっていたから、相場よりも少し多めにご祝儀を渡したら、我々が渡した額が一番多かった。すると司会者は最も大きな身振りと大声で我々を称えるのだった。本当にわずかな額しか出せない人は新郎のポケットにそっと入れ、額は公開されないようにする。

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結婚式

我々のメンバーの一人がステージに上り、インドネシア語で祝辞を述べ、「椰子の実」を歌った。続いて歌が延々と続く。これが、イスラム教のアラビア的な感じで、全部同じように聞こえる。そしてもう一人のメンバーと私がステージに上がり、アラビアンリズムに合わせてディスコダンスを始めた。すると大喝采である。特に同僚のメンバーのセクシーな最新のディスコダンスは大好評であった。宴会は花婿花嫁そっちのけで延々と続く。新郎新婦は、雛壇の飾りだ。明日の仕事は休みというものの午前も2時を過ぎたので我々は帰った。翌日会う人全てに我々が踊ったディスコダンス風に挨拶をされるのであった。

ブヨやカで腫れた足 

それやこれやで2週間もスカラジャで過ごすと全員ブヨやカにさされた足が、凸凹に腫れ上がって来た。12月3日に、一人のメンバーは帰国のため、団長は換金のためにジャカルタに向かった。団長は大使館の医者に足を見せたとのこと「ひどいですねえ。」と言われて塗り薬を大きなビンに一杯貰って帰って来た。その後、仕事から帰ってくると薬の塗りあいである。それでもそのうち、皆足の付け根のリンパ腺が腫れて来た。

スカラジャ最後の晩

それやこれやで苦労したが、スカラジャでの仕事も終わり、最後の晩となった。我々は、集落の人を招いて、お礼の宴会を開いた。ここでも箒をマイクに見立てて大歌会であった。

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スカラジャ最後の晩のパーティー

ムワラルピットへ 

翌日荷物を片付けていると、人々はあれをくれ、これをくれと物乞いに来る。作業員達は、これから先も是非連れて行ってくれという。皆大変良く働いてくれたので、48才の年寄りのヌルを除いて、ディン、アミール、アルパンは連れて行くことにした。作業員達の給料の支払いは、最初タモリを通して払っていたが、タモリがいつも何割かをピンハネするので、最後は一人一人呼んで、我々から支払ってやると、大いに感謝された。

我々がここから向かったのは、さらに奥地のムラワクラムというカンポン(集落)である。ムワラルピットという町までジープで行き、それから先は道がないのでボートで川を遡るのである。ムワラルピットは、ルブクリンガウより少し小さな町だ。

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ムワラルピットへ向かう

 

つづく

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.8

危うく遭難

カウンターパート(共同作業技術者)達 

11月28日には日本人メンバーの二人が帰国するため、サガラ、フォージーが二人についてルブクリンガウに向かった。サガラは、帰国する二人の世話と共に、林業総局へ戻って仕事があるのだが、フォージーは、「私は、太っているから山へ入っても歩けない。皆が降りてくるまでルブクリンガウのホテルで待っている。」と言ってさっさと町へ降りてしまった。我々はあきれてものが言えなかった。まだ、35才くらいで働き盛りなのに。我々と共に森林を歩き、山を案内し、我々の技術を習得しなければならないカウンターパートなのに、我々が働いている間、町で寝ているというのだ。どちらかと言えば足手まといだったので、これ幸いという面もあった。後で考えると1ヵ月もの間ホテルで何をしていたのであろう?

一方、同じ職務にありながらサガラは良く働いた上に勉強も良くした。サガラは40才で、まもなく定年だと語っていたが、夜は統計の本で勉強しており、「これはどういう意味だ。」と質問されたりした。また、樹木の検索表を持って来て、樹木の分類の勉強もしていた。

この晩から雨が激しく降り続いた。

 

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森林調査の途中、山中の民家で休む。

 

増水 

11月29日は、前日の雨が残り、現場には行けず仕事はできず家で待機していた。マンディに行くと川の水位は一挙に2m以上も上がっていて、濁流が渦巻いている。

 

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増水で水没した家

用を足すにも岸に生えている木にしがみついてしなければならなかった。午前中に資料を整理し、午後は仕事をどう進めていくか打合せをした。

 

遭難騒ぎ 

11月30日になると川の水位はウソのように下がっていた。ここに落とし穴があり、我々は危うく遭難するところであった。

この日は全員で調査に向かった。奥地に入った所で、2パーティーに分かれて仕事をすることにした。それから1時間程歩いて早くも道を失った。しかし、航空写真を持っており、遠く、テンカル山というのを目安に黙々と進み、調査プロットに近づいた。途中ムササビなどを見つけるとディンは眼の色を変えて捕まえようとする。

 

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焼畑で減少していく熱帯降雨林

 

水位が増す湿地林 

調査プロットに向かって歩いているが、林内は水浸しである。標高の高い方へ進んでいるのに段々と水位が増してくる。水は膝より上まで上がってくる。ようやく目的地に着き、調査を始める。30m程も樹高がある木が林立している。水は腰まできた。水に浮いている訳の分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。気持ちが悪い。不気味な生物が、褐色で濁った水中から浮き上がってきそうだ。プロットを設定するだけでも相当な時間がかかる。

先頭でメートル縄を引っ張っている作業員の1人が「もう行けない。」と言う。それを私が「行け。行け。」と行かせる。彼は首まで水に浸かって泳いで行く。これは大変であった。仕事どころではなく、ここで引き返すべきであった。

 

どうにか仕事を終える 

どうにか、ようやく仕事を終えて、焼畑に出る。そこで2パーティー全員が運良く落ち合うことができた。そこは、もう街道から10km 以上も奥地へ入った所で、よくこんな奥地に人が住んでいると思う程であった。一人の男がキコリをしながら住んでいた。その小屋で少し休ませてもらい帰路についたのが午後4時であった。

ここに、山に慣れてきた我々の誤算があった。4時にはもう家に戻っていなければならなかったのである。それでも2時間もあれば十分に下れると思っていた。しかし、ここへ来るのさえ、迷いながら来たのであるから同じ道は引き返せなかった。そのキコリに街道へ出る道を聞いて出発した。

 

林内で泳ぐ 

だが前々夜の雨で、林内は次第に水かさが増して行った。とうとう我々は林内で泳がなければならなかった。我々は完全に道に迷ってしまった。荷物は全部頭の上にくくりつけて泳ぎながら行ったが、アルパンは弁当箱を水中に落としてしまった。するとディンが水中では全く何も見えない泥水の中に潜り、いとも簡単にそれを拾って来た。そしてディンはするすると木に登ると方向を確かめた。闇が迫って来始め、我々の心にくすぶっていた不安が、現実のものとなった。皆、口数が少なくなる。しばらく泳ぎながら進み、どうにか足が立たないところからは脱出した。

 

ノルマンのリーダーシップ 

この時ノルマンは素晴らしいリーダーシップを発揮した。ディンにたいまつを持たせ、先頭を歩かせ、ディンの勘に運を任せ、自身は一番後ろから全員の安全を守りながら、隊が一団となり危険が無いように進ませる。たえず冗談を飛ばしながら、皆から不安感を取り除こうとする。

遂に真っ暗となるが、我々は依然として湿地林の中である。夜行性のトラやヘビが出たらどうするのだろうか。体も冷えてきた。

 

部落に着く 

しかし、くたくたになって来たところで、ようやく湿地林を抜け出ることができた。遠くに部落の灯りが見えた。しかし、それからがまだまだ長かった。木の根につまずきながらようやく部落に辿り着いた。既に深夜0時に近かった。8時間も山の中をさ迷っていたのだ。

 

違う部落だった 

しかし、そこはスカラジャではなく、パンカランといってスカラジャから4Kmも離れた部落だった。何はともあれ助かった。全員消耗しきっていた。

 

スカラジャへ 

運転手がジープで迎えに来て、我々はスカラジャへ戻った。スカラジャの集落の人々は心配しており、山へ我々を捜しに入ったそうだ。我々が無事であったことを知ると村中総出で無事を祝ってくれた。会う人ごとに抱き合い、握手をするのであった。これほど人の暖かさを感じたことはなかった。そこで飲んだ熱いコーヒーの美味かったことは決して忘れない。ここで事故にでもあったらタモリのクビも飛んでいたことであろう。

 

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増水中の川

つづく

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.7

生活や森林調査

 

 

生活

ここでの生活は郷に入っては郷に従えで、ここに住む人々と同じ様な生活をした。ここでは川が命綱である。川によりすべての汚物は流され、すべては清められるのである。

朝夕はマンディといって水浴で体を清める。熱帯とはいえ、川の水はかなり冷たい。上流で大便をしていようが、直ぐ下では、洗濯や炊事をしている。最初歯を磨いて、口をゆすぐのにためらいを感じたが、慣れたら、用を足しながら口をゆすげるようになったものである。まさに三尺下れば水清しである。

家の中に便所はない。大便はお尻をちょんと川の中へ浸けてするのであるが、私は川の水がちょろっとお尻に触ると出ているモノが引っこんでしまうのであった。それでどうしても水面から、少しお尻を浮かさなければならなかった。現地人はサロン(腰巻)といって円筒形の着物を腰で絞って、男も女もスカートのようにしてはいている。用を足す時は、サロンでうまく隠している。我々もサロンを買ってきて、同じようにスカートのようにしてはいていた。

夕方マンディに行くと、見物の的である。若い娘も対岸でキャーキャー言いながら我々をからかっている。子供達はすぐに集まって来る。見ぶり手ぶりで遊んでやるとすぐに打ち解ける。

 

007水浴び.jpg川でのマンディ(水浴)

私は持って来た渓流竿で早速釣りを始めた。餌はミミズとご飯つぶである。魚の姿は見えるが川は栄養たっぷりなせいか、全然あたりがこない。それより、やたらブヨが多く、かゆくてじっとしていられない。それで団長に変わってもらうと、団長が頑張り、ハヤのような形の20cmくらいの魚を釣った。

買い出し

食事の準備は、隣に住む集落長の家の者に頼んだ。食糧が足り無くなると、そこの奥さんと我々の誰か一人が付いて行き、町に買い出しに行くのである。

最初は5?6日は買い出しに行かなくとも、食糧が足りていたのだが、それが4日になり、3日になりというように、同じくらいの量を買ってくるのだが、足りなくなるのが段々と早くなるのである。

食事

ここでの一般的な食事は、ご飯に汁、それに唐辛子だ。それに買い出しに行った晩は、ヤギか鶏の肉が付き、野菜がこってりとある。しかし、2日目になると少しの野菜、3日目からは、ご飯と汁と唐辛子だけになる。

昼の弁当も買い出しの翌日は、あひるのゆで卵がつくが、その翌日からは、ご飯と唐辛子だけだ。

米は1回50kg~60kg買ってくるが、すぐになくなってしまう。我々の分だけを使うのではなく、近所の人達に分けてしまうのだ。

夕食後はコーヒーを飲みながらカウンターパート(インドネシア側共同作業技術者)や作業員達と歓談することが多かった。コーヒーも川からくんできたやや茶色く濁った水を沸かして使うのである。コーヒーの色でごまかしているのである。

もちろん新聞、テレビ、ラジオはない、情報は一切入らない。夜の明かりは石油ランプだ。

対面の家では、カセットレコーダーを持っていて、自分が持っているのを知らせたいのかボリュームを最大限に上げて朝から晩まで同じ曲をかけ続けていた。

ゴキブリとネズミ

家の中はゴキブリやネズミだらけだ。夜は、時には家の中にサルが入ってくることもある。ある日パイナップルを大量に買ってきて、食べた残りを台所へ吊るしておいた。その晩、また食べたくなって取りに行くと、確かパイナップルを吊るしておいた場所に大きな黒い塊がある。「おかしいな。」確かにパイナップルを吊るしたのにと、よくよく見るとゴキブリがパイナップル全体に何重にも取りついていたのだった。

そのまま朝までほったらかしておいたら、次はネズミにほとんど食べられてしまった。

雨のパターン

朝食後、7時頃から山へ入り午後3時頃に帰るのが日課である。ここはもう雨期が始まっていた。雨期と言っても日本の梅雨のように一日中弱い雨が降り続くということはない。スカラジャへ入った初期は、大体午後2時?3時頃から激しく降り始め、それが2時間くらい続く。後半になるとそのパターンが次第に崩れ出し、昼過ぎから降り出すようになり、なかなかやまず朝方まで降り続くことも多くなった。しかし、だいたい午前中は晴れているのが普通であった。

スコール

遠くに恐ろしく黒い雲が見えるとその下は激しい雨でスコールだ。森の中にいて、雨が葉に当たる音がバサバサと大音響で近づいてくるのは、空恐ろしく何とも言えない。そしてほとんどが雷を伴っている。

カッパなどは着ていても意味がない。だいたいカッパでよけきれるような雨ではないのである。雨音が近づき、辺り一帯耳をつんざくような葉音となると、一瞬のうちに濡れ鼠である。よっぽど早くカッパを着ていなければならないし、着ていれば、着ていたで、暑さで蒸れて中からビショビショである。

こういったスコールではなく、しとしと降る雨ならば、上層の葉が雨を受け止めてくれて、そんなに濡れることはない。

森林調査

調査は道なき道に入る。林内では、航空写真を肉眼立体視し、自分の位置を確認する。だいたい巨大木の位置が分かり易いので、それらを選ぶ。位置が確認できたら、そこを基準点にし、航空写真上には針を打ち、裏面にNo.を書き、記録する。そこから100m測量してラインを張る。そのラインの両側にある胸高直径40cm以上の大径木をデンドロメータという機械で、調査プロット(枠)の中に入るかどうかを確認し、枠内に入る木の樹種を同定し、胸高直径と樹高を測るのである。

 

007インドネシア森林調査.jpg森林内での測量

たった100m測量するだけでも、相当量の灌木を伐り払わなければならない。作業員達はパラン(ナタ)を持っている。我々が日本から持って来たナタよりも刃渡りは長く、いつも研いでいるので良く切れる。

だが、林内は思ったより空間がある。北海道のササが繁茂したエゾ・ドド林の方がはるかに歩くのが困難だ。しかし、やたらニッパヤシのトゲが靴底に突き刺さる。

案内人のディンとアルパンは靴を履いているのだが、ヌルとアミールは裸足だ。彼らの足はタコで固まって硬く、トゲのある木を踏んでも平気だ。

樹高はブルーメライスという機械で測るのだが、広葉樹は樹冠が丸く広がっているので、樹高が30m以上くらいになるとどこが先端か良く分からない。だから枝下高は正確に測れるのだが、総樹高は頂点の位置を定めるには場所を変えて何回も測り直し、平均値を取る。50m以上もある木になると、樹高を測るだけでも相当に時間がかかる。

 

007_50m以上の巨大木.jpg50m以上の巨大木

 

胸高直径は直径巻尺というものを1.3mの高さ(胸高)の幹の回りに1周させて測るのだが、大木は板根を2m以上の高さまでも発達させているものが多く、その場合は板根の上を測るのだが、板根の上に乗らなければならず、測るのには苦労した。

樹種名は我々にはほとんどわからない。熱帯は本当に木の種類が多い。多様性に富んでいる。北海道のようにトドマツやエゾマツだけが、一面にはびこるということはなく、同じ樹種は少なく、多樹種が共存している。

ノルマンとアルパンは、まず幹の肌を見て同定する。それでも同定できないと、パランで板根の部分を少し削って内部の色と木の匂いやなめて味などで同定する。樹高が高く、葉が取れないものが多いので、葉では同定できない。我々も慣れてくると、特徴がはっきりしている木は、同定できるようになったが、樹種名はノルマンとアルパンに任せた。

森の中の人、動物

こうして調査をしていて驚くことは、どんな奥地にも、一人あるいは数人で山中に住んでいる人がいることである。11月27日には川沿いをスカラジャから10km 程上流に進んだ。途中何度も川を徒渉する。腰までたっぷり水に浸かり、たまには泳がなければならないから、いつでも下半身はグショグショで、靴の中もいつも水が入ったままである。

いろいろ珍しいムシが林内には居る。体長10cm程の大きなダンゴムシ、ケラ、クモ。時には猛毒と言われているグリーンスネークにも出っくわす。

 

007グリーンスネーク.jpgグリーンスネーク (Dryophis prasinus)

始末が悪いのはアリだ。乾いた林内には、そこら中に大群がいる。体にくっついてはやたらに刺す。日本では見た事のないムシが多く、気味が悪く見えるものも多い。南米に住むホエザルとは違うのだろうが、遠く近くにサルが良く通る大きな声で呼びかわす声が「ホォッフ、ホォッフ」と聞こえる。

そんな奥地で、木を伐り出している3人の少年に出会った。2mくらいの長さの大きな鋸を使い、両側をそれぞれが持ち、2人で鋸を引いている。まだ、15?16才くらいであろう。この子らは2ヵ月くらい一カ所にこもり、掘立小屋を作り、製材してから木を運び出すと語っていた。

 

007チュルミン山からサム山とスカラジャ方面を望む.jpgチュルミン山からサム山とスカラジャ方面を望む

その帰りには森林を焼畑で開き、陸稲を作り、バナナやパイナップルを食べて生活している一軒家で休ませてもらった。一軒家といっても高床式のニッパヤシをまぶした掘立小屋である。少年と少女3人が住んでおり、1人の少女が赤ん坊を抱いていた。少年とその少女は夫婦であると言う。少年は18才、少女は15才とのことだった。帰国後、この時の8mmで撮影した映像をある中学生に見せたら「勉強も無くて、清々した生活をしていてうらやましい。でもあんなに早く結婚するのはいやだ。」という感想があった。ここでパイナップルやパパイヤをたらふくごちそうになり、スカラジャへ戻った。

 

007調査後の休憩.jpg調査後の休憩

 

つづく

 

 

 

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