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【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.34_コロンビア

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(コロンビア)

 1987年の3月~4月にかけて南米の6ヵ国(コロンビア、エクアドル、ボリビア、パラグアイ、チリ、アルゼンチン)を約1週間ずつかけて訪問したことがあり、その時のことを書いてみたい。目的は、各国の森林や林業の状況の調査と、地震の影響で調査が中断していたエクアドルの状況や、既に調査が終了した後のパラグアイの状況なども調べに行ったのだ。訪問した国の順に書いてみたい。最初はコロンビアに行った。

【ニューヨークへ】
 1987年3月13日に成田からニューヨークに向かった。今コロナ禍の中、以前のように海外旅行や仕事で海外の国に行けるようになるだろうかと不安に思ったりするが、ワクチン接種も始まったことであるし、いずれ行けるようになるとは思う。
 ニューヨークには午前中に着き、翌日のコロンビア便までほぼ1日あった。一緒に行った同僚がスーツケースの鍵を失くしたため、カバン屋を捜すとホテルの前にカバン屋があり、そのカバン屋の店員が合う鍵をすぐに見つけてくれ、随分と親切だったことを思い出す。その後、エンパイアステートビルなどニューヨークの町を見学し、夜は日本レストラン、名前は初花と言ったが、そこで寿司を食べたりした。今でもあるのだろうか。ニューヨークでの寿司は美味かった思いが残っている。その後、映画を見たりし、わずかな時間を利用し楽しんだ。

【コロンビアへ】
 翌日ボゴタに向けて飛び立ったが、中南米行きの飛行機の機内の荷物入れは、客がアメリカで買った大量の電化製品などを母国に持ち帰るので、いつも一杯であり、自分の席の上の棚に早く自分の手荷物を置かないと、空いてる場所が無くなり、場所を確保するのが大変だった。客の友人同士は、飛行機が飛び立っても席を越えて大声で話しあっており、人の迷惑などお構いなしで、うるさくてかなわんと思ったものである。

【ボゴタの空港での出来事】
 初めてのボゴタである。空港で荷物を受け取る時にスーツケースの腹巻のバンドが無くなっていた。なんで無くなるのだ。空港の作業員に取られたのだなと疑ったが、たいした被害ではないので、腹を立てると碌なことがないので、落ち着いていようと思った。
 ところが通関時にかなり腹が立つことが起こったのだった。まずは、荷物を開けられた。係官は、「これは何だ。これは何だ。」とスーツケースに入っている荷物、一つ一つにいちいち細かく聞いてくる。そしてこれから会う人ようにかなり沢山のお土産を持ってきていて、日本茶も持っていた。すると、お茶のお土産用の包装紙をビリビリと破られた。「これは何だ。」と問われた。すごい嫌がらせである。「何で、紙を破るんだ。お土産用に持ってきたのに。」と抗議し、日本語で馬鹿野郎とつぶやく。すると、「これはだめだ。通関させられない。」と言われる。全然たいしたものではないのにいちゃもんをつけてくるのである。「何にも悪いものではない。返してくれ。」と頼んでも、「だめだ。渡すには100$(当時だと15,000円くらい)が必要だ。」だと言われる。とんでもない。買った値段が2千円くらいなのに。しばらく押し問答していたが、らちが明かないので、「もういらないからお前にそれをやる。」と言って荷物を閉めて、空港建物の外にでた。
 そうしたらその職員が追っかけてきて、「20$で良い。」と言う。「もういらないから、お茶はあんたにあげるから勝手にしろ。」と言うと「10$、5$」と値下げしてくる。あまりにかわいそうになり、お茶を取りあげ20$をあげた。空港職員だから公務員だろうと思ったが、コロンビアでこの先、起きるであろう出来事が思いやられた。
 かつてインドネシアでもわずかなワイロを上げれば、すぐに仕事が終わっただろうが、それを知らずに1日つぶされたことがあったが、私は真面目だし、普通の日本人であればワイロを上げるわけにはいかないだろう。しかし、ワイロ社会はそれで社会が動いているのだろうから、ワイロがないと社会は動かないのであろう。このような小さなワイロが国の上層部では巨悪となり、国家が発展しない理由の一つでもある。

【環境庁など】
 この時、森林や林業の状況を調べるため、それらを管轄する自然環境保護庁(環境庁)を訪問した。この時まで私は、南米ではパラグアイとエクアドルでしか仕事をしたことがなく、これらの国での仕事は、のんびりしたもので、資料を頼んでもいつまでたっても提出されず、いつもイライラさせられ、スピーディだったためしがなかった。しかし、コロンビアの職員は上の二つの国とは全く違い、資料を集めてくれと頼めばすぐに集めるし、情報をまとめてくれと頼めば文書ですぐに提出されるし、コロンビアの職員は相当スピーディに働くと感じた。空港での出来事がウソのようで、仕事振りはまるで先進国のようだった。ただ、この環境庁には給料以外に何かを行う予算が全くないということだったので、実際に仕事ができるかどうかは、当然ながら実際に行ってみないとわからなかった。
 環境庁では、アマゾン川源流域の森林は全く管理できておらず、その地域を調査してもらいたいとのことだった。この当時、私はエクアドルのアマゾン川源流域を調査しており、ランドサットでエクアドルとコロンビアの国境を見るとコロンビアの森林の方が、虫食い状態が大きいことは分かっていた。当時アマゾン川地域では麻薬栽培が行われているということだったので、調査をするなら危険地域は避けたいと思った。とはいえアマゾン地域でも日本の協力では、京大の人類学研究者達が南米の類人猿を調査していた。
 アンデス山脈の状態はどうか聞き込んだところ、アンデスの山間地は相当に傾斜がきついが、アンデス地域でもアマゾン流域と同じように国有地を決定しようと線引きをしているとのことだった。すると国有地というか管理が行き届かない地域にはかってに入植する者が多く、国との間で相当の争いがあるとのことだった。アマゾン川流域でもアンデス山域でも入植が問題で、森林は侵食され農地や牧場に転換されていくということで、パラグアイやエクアドルと共通の問題があった。アンデスは急傾斜のため崩壊地も多いとのことだった。(これについては以前にこの紀行文で「コロンビアのアンデスは崩壊地だらけ)を書いた。)この環境庁は自然保護に力を入れていたが、実際には森林の把握のレベルは相当に低かった。

【ボゴタの状況】
 この後に1989年から1992年にかけてアンデス地域で仕事を行ったが、ボゴタに行ったのはこの時が初めてだった。それまで南米の首都としては、パラグアイのアスンシオン、エクアドルのキトーを知っていたが、当時パラグアイ全土の人口が約300万人、アスンシオンは約40万人、エクアドルの人口は約1,000万人、キトーは100万人都市だったが、コロンビアの人口は約3,000万人、ボゴタは500万都市だったから、この3つの首都ではボゴタが断トツに大きく、発展具合も他の2首都と比較して断然発展しているように感じた。郊外の高台のモンセラーテ(標高3,100m)にはロープウェイが設置され、観光地というか市民の憩いの場のようになっていた。第2の都市メデジンにも今はロープウエイが設置され、市民の通勤に使われているとのことだ。
 郊外には巨大なショッピングセンターもあり、当時は東京よりも整備されているのではないかと感じられた。しかし、麻薬戦争があり、地方は立ち遅れていた。
 街の中の日本食レストランではニューヨークでの日本食レストランと同じ名前の「初花」があった。ここでは鉄板焼きで料理人が包丁さばきなど芸を見せてくれながらの食事であったが、味はイマイチだった。

ケーブルカーでモンセラーテに上がる
モンセラーテの見晴らし台からボゴタ市内を望む

【大使館の書記官】
 ボゴタの日本大使館も訪ねて、環境庁やコロンビアの状況を尋ね、今後環境庁と一緒に仕事ができる場合のバックアップをお願いに行った。その時対応してくれたのが、農水省から出向されていた書記官だった。この方は、非常に気さくで協力的で、すぐに環境庁に対して働きかけてくれ、私もおおいに助かった。その後も含め色々な国の大使館の書記官と知り合いとなったが、この方は大変に身の動きが軽くとても好印象が残っていた。

【大使館の書記官との寄寓】
 その後30年近く経ち、私も60も半ばになった時に、技術士会の委員に任命され4年間仕事をした。その会の副委員長と委員長をしたのが、コロンビアで応対してくれた書記官だった。30年近くたっているので、最初はお互いに全然覚えてなかった。その方が1987年はコロンビアの大使館で働いていたと言うので、その時私は大使館を訪ねましたが、あの時一生懸命働いてくれたのがあなたさんだったのですねと。記録を調べてみるとまさにその通りで、お互いに寄寓でしたなあとびっくりしたものである。その後、私がクラッシクギターを趣味にしているというと、その方もクラッシクギターを趣味にしているとのこと。えっとまたびっくりした。その方は、小川和隆さんという有名なギタリストから習っているとのことだった。それで、クラッシクギターの大本山のGGサロンというところで行われた小川教室の発表会を一度聴きに行った。小川さんが10弦ギターを使用していることは、その時知った。その方はソルの「月光」を弾かれ、私より一日の長があると思った。それでその後、その方をライバルの一人として頑張ろうと思っている次第である。
 犬も歩けば棒に当たるではないが、旅すればいろいろな人との出会いがあり、あっと驚くような寄寓も沢山あったので、追々書いていきたい。



つづく

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