【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.40_ドミニカ共和国

森林紀行

筆者紹介




旅行-成田空港からサント・ドミンゴヘ(ドミニカ共和国)

はじめに
 現在(2022年1月)、世界は依然としてコロナ禍にあり、自由に観光旅行はできない状況にある。昨年末には、デルタ株は一旦収まったかに見えたが、新たにオミクロン株が出現し、今後どのような状況になるか予断は許さないところである。現在でもビジネスなどで許可証持っている方は、旅行はできるだろうが、一般人の観光旅行は当分難しいであろう。私は仕事で海外に行っていたので、今では観光旅行を楽しみたい気分であるが、上に述べたようにいつになったら再開できるかは見通せない。そこで今回は、何回も往復した成田空港からドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴヘの旅行を思い出し、旅行の楽しみ感や緊張感を書いてみたい。(カリブ海の国にはドミニカ共和国とドミニカ国があるが、以下ドミニカ共和国はドミニカと記す。)
 今回書くのは、ドミニカへ2回目に行った時のことで、2007年6月2日(土)~3日(日)である。2011年の東日本大震災の4年前のことである。

ドミニカ共和国の位置

経緯
 ドミニカでのプロジェクトの団長をしていた同僚が、ドミニカの現地、パドレ・ラス・カサスという町の奥のペリーキート村という場所で、突然、不幸にも心不全で亡くなったため、急遽、私が派遣され、同僚をサント・ドミンゴで荼毘に付し、遺骨を持ち帰ったのが5月19日(土)だった。その後日本での葬儀を5月26日(土)に行った。プロジェクトの団長は、私が引き継ぐことになり、葬儀の手配や団長交代の手続きなどで、2週間があっという間に過ぎ去った。そして、早くもドミニカへの出発の日の6月2日(土)となったのである。このころはしょっちゅう海外出張だったので、海外用の荷物は、帰国したら衣類は洗濯をして、海外用の荷物として保管していた。そのため、同僚が亡くなった時も、翌日にドミニカに飛ばなければならなかったが、いつでも準備はできていたので、用意は楽だった。

成田空港へ
 6月2日は、朝食後7時15分に家を出た。私の娘は勤めていたが、土曜日なので仕事が休みで、自転車の荷台に私のショルダーバッグを乗せて、自転車を押しながら歩いて駅まで見送ってくれた。そして最寄り駅から南浦和駅、上野駅を経て、京成上野駅からスカイライナーに乗り成田空港へ向かった。JALでニューヨークまで向かうので成田空港の第2ターミナルで降りた。着いたのは8時40分くらいだった。
 前日家から送ってあった荷物を宅配のABCのカウンターで受け取り、すぐにチェックインした。大きなスーツケースを2つも持って行った。1つは自分のもの、もう1つは仕事用である。2週間前に行った時より空港は、大分すいていた。前回はできるだけ早くサント・ドミンゴに行くため、アメリカで一泊しなくとも行けるシカゴ経由で行ったが、今回はニューヨーク周りで行く。ニューヨーク周りだとニューヨークで一泊でき休めるので、体への負担は少なくなり、翌日から仕事をする上でも一泊していったほうが効率的で、楽だった。
 成田空港の土産物売り場で、ドニニカの仕事先のお偉いさんやカウンターパート(共同作業技術者)用に沢山のお土産を買いこんだ。それで空のリックサックが一杯になった。通関してアメリカンエアラインのラウンジに入った。この時は、JALのラウンジがリニューアルの最中で使えなかったため、アメリカンエアラインのラウンジが代わりに使えたのだ。なにしろこの頃は、沢山の仕事を持っていたので、ラウンジに入ってすぐに勤め先に電話し打ち合わせをしたり、家族に電話をかけているうちに11時半になってしまい、飛行機に乗るようにとのアナウンスがあった。
 ラウンジでコーヒーを飲んだり雑誌を見たりする暇がなく、あわただしく、観光旅行とはかなり違うかなというところだった。ただし、わずか2週間前であるが、前回行ったときは、亡くなった同僚の家族を引率しての重い気持ちを引きずりながらの旅だったので、その大変さを思い出すと、この時のフライトは、かなり落ち着いて行くことができた。

成田空港
成田空港 荷物を運ぶ車両

機内
 飛行機は定刻の12時15分に飛び立った。ニューヨークには時差の関係で同日の11時半に着く。約13時間のフライトだ。出発した時刻よりも早い時刻に着くので、時差がなければ過去への旅となる。帰りは偏西風の関係で約14時間半かかる。これは未来の1日を失う旅だ。この路線がフライト時間は一番長いであろう。この機内での半日の間は仕事を忘れて一番リラックスできる時間だった。ニューヨークから先のフライトは、目的地が近づくので、つい仕事を考えてしまうからだ。
 乗ってしばらくすると飲み物のサービスがあり、それから食事となる。缶ビールを1本か2本飲んで、ワインを飲みながら食事をする。昔は和食を食べていたが、この頃はだいたい洋食で魚よりも肉系を好んで食べていた。それは色々食べて肉系が私には一番おいしく感じられたからだった。
 その昔は、映画も大きなスクリーンで皆で見ていたので食事の時は、隣の人との会話も楽しんだものだが、映画も個別に見るようになってからは、イヤホーンをしている人が多く、話しかけられなくなり、会話も楽しめず、フライトでの面白みが一つ減った。
 機内を前から後ろまで、エコノミークラス症候群にならないように、時々歩き回った。ジュースやスナックなどが置いてある場所では、そこにいる人と良く話をした。アメリカへ向かうのでアメリカ人も多く、英語慣らしに良い準備ともなり、頭は日本語から英語もOKに切り替わる。英語の客室乗務員には、休んでいる時に、水やビールをもらう時の英語も、最初のころは「Water, please.」と言っていたが、だんだん丁寧になり、「Can I have water?」とか「May I have another beer?」とか言うようになっていった。
 13時間のフライトはかなり長く、映画を見たり本を読んだりだった。最初の食事をとった後にすぐに眠れて、次の着陸前の食事の時に起こされるくらいの時はとても調子が良いが、眠れないと着いてから余計に眠いので、できるだけ眠れるのが良かった。

ニューヨークへ到着
 さてこの時は、ニューヨークにも予定どおりに同日の11時半に着いた。この時は、降りてからはラッキーだった。前の便の到着客がいなく、すぐに通関できた。到着便が多いと入国審査でパスポートチェックなどに手間取り、多くの人が列をなして待っており、ひどいと2時間も待たされることがあったからだ。荷物を取って、予約してあるホテル・ヒルトンニューガーデンへ行く。ここへ行くには空港内を回る電車で二駅くらい乗ったところにホテルのシャトルバスが付く場所があり、そこで待っていると15分~30分おきくらいにシャトルバスが来る。
 ここは前回泊まったホテルと同じだったから気が楽だったが、一人で旅をしていると、時々これで良いのか不安になったりする。それに大きなスーツケースを2つも持っていて一人だと、トイレに行くのにも容易ではない。この時は昼間だったから良いが、夜で真っ暗であたりが見えなく、初めての場所だと、シャトルバスがちゃんとくるかなとか不安になる。幸いにも何のトラブルもなくホテルに着いた。

JFK空港からホテルに向かう

ホテルにて
 前回の帰りに泊まったホテルである。ホテルには午後1時くらいにチェックインできた。同僚と一緒に来ていればマンハッタンあたりまで行って、見学しても良いが、一人で行って何かあると嫌だし、日本から出発して徹夜状態なので、眠いけれどビールを飲んでからぐっすり眠ろうと、ホテルの売店で小瓶のビールを1本買ったら7ドル(840円:この当時の円ドルレートは120円)もし、あまりに高いのでびっくりした。
 それでビールを飲んで、うつらうつらしながらベッドに横になったら、ブレザーもズボンのそのままで眠ってしまい、気が付いたらもう午後の8時だった。起きていた方が良かったかもしれなかったが、それからレストランに行き食事して、戻ってからまた眠ってしまった。時差で気持ち良く眠れた。出発前の2週間が、ずっと忙しかったので、これで疲れも取れるだろうと思った。

JFK空港へ
 翌6月3日(日)は、午前6時に朝食を取った。12時間くらい寝たので、目覚めはばっちりだった。7時30分のシャトルバスで空港ヘ向かう。バスに乗ってからスーツケースに巻くベルトをホテルに忘れたことに気がついた。前回、帰国時に同じホテルに泊まり、ホテルからJALの乗り場まではシャトルバスで5分ほどと近かったので取りに戻ろうと思ったが、今回はJALの乗り場も過ぎ、次々と色々な国のエアラインの乗り場を止まって行く。アメリカン航空までシャトルバスで30分もかかったので、取りに行ったら乗り遅れる可能性もあるので、取りに行くのはあきらめた。

JFK 空港のjetBlue アメリカの格安航空会社

チェックイン
 8時過ぎに直ぐにチェックインできた。大きなスーツケースを2つ持っていても規定内の大きさと重さで超過料金も取られることはなかった。アメリカはこういう点は厳しくチェックされる。ここでもアメリカンエアラインのラウンジで休むことができた。ここに入っていれば何かと安心で、リラックスできた。

機内にて
 飛行機は午前10時前に離陸した。飛行時間は3時間半ほどだった。機内はスペイン語が飛び交いすっかりドミニカの雰囲気だ。スペイン語慣らしに隣の席の人話をする。頭は英語からスペイン語もOKに切り替わる。
 ここでもしばらくして食事がでる。いつも中継地から目的の国までの飛行の時は、アルコールは飲まない。到着した時に、何かトラブルがあった場合に頭が働かないと困るからだ。数え上げれば切りがない。荷物が着かなかったこと、日本から持ってきた機器が通関できず保税倉庫行きになったこと、お土産も取り上げられたことなどだ。その都度、どうやって取り戻すか頭を悩ましながら交渉しなくてはならない。
 食事が終われば、自然と頭は仕事で、一杯になってしまう。明日のアポイント先の面会予定者ごとに話す内容を反芻し、こういう質問にはこう返すと言った想定問答も繰り返している。その後の予定はどうなっているか資料を引っ張りだし、読み返す。資料は日本語だが、それを訳したスペイン語も読んでいる。段々とプレッシャーがかかってくる。いや、自分でプレッシャーをかけ過ぎていたのだろう。
 さて、飛行中、今までも何回も上空を横切り、降りたことはないキューバを見た。南米に行くときは、続いて、今回の目的地のドミニカやハイチを見ることもあった。午後1時半に予定通りサント・ドミンゴの空港へ着陸した。

到着
 やっとサント・ドミンゴの空港だ。日本を出発してから丸1日以上経過しているからかなり長時間のフライトだった。幸いこの時は何のトラブルもなく通関できた。荷物を持って外に出るとプロジェクトのメンバーと運転手との2人が出迎えてくれた。

サント・ドミンゴの空港

海岸線の通り
 強烈な太陽だった。空港から街中のホテルまでは約30分かかり、海岸線を走った。夜は、治安が悪い場所だと言われているが、昼間は大丈夫だ。前回は余裕がなかったが、今回は、周りをよく見れば、強烈な太陽の下、真っ青の海が見え、とても風光明媚で、カリブ海の景色は素晴らしいところだなと思った。

カリブ海 海の色が美しい
サント・ドミンゴに近いボカ・チカの海岸 強烈な太陽
サント・ドミンゴの街に近い場所にある海岸沿いのレストラン
別な時期の夕方

ホテルや街
 サント・ドミンゴの街に入り、この辺りでは、やや高級なホテル・サント・ドミンゴへチェックインする。前回も泊まったホテルで、その後もサント・ドミンゴでは常泊としていたホテルだ。建物は古いが、一人でいるには部屋はかなり広く居心地が良い。

ホテル・サント・ドミンゴの入り口
ホテル・サント・ドミンゴの部屋
サント・ドミンゴの市内

 この日は、日曜日。ホテルで落ち着いてからしばらくして、近くのスーパーマーケットに買い物に出かけた。暑くて外に出ると汗が噴き出る感じだった。ただし、ホテルの周りでも治安が悪いので、出かける時はいつも車だ。もちろん運転手が待っている。行った先は、巨大なショッピングセンターで、ここで必要なものは何でも手に入るのだった。ホテルに戻ってから、同僚に仕事の状況はどうなっているか、ずっと説明を受け、明日の月曜日からの仕事に備え、急ピッチで準備を進めるのであった。

 観光旅行気分を味わおうと往きの旅行時のことを書いてみたが、書いてみるとやはり仕事の旅行になってしまい、開放感が味わえないなあと思ったが、致し方がなくご容赦願いたい。


つづく 

1月の駒ケ岳

社窓
2022年1月の駒ケ岳

新年あけましておめでとうございます。
皆様にとって本年が佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。

本年の十二支は寅(虎)、 干支は「 壬寅 」 。

「寅」という字は「家の中で矢をまっすぐに伸ばす様子」表したものであることから、
“まっすぐに伸ばす、引っ張る”の意味から“動き始め、胎動”を意味するようになり、
そこから転じて、
昨年の「丑」の「種子の中で 曲がった芽が 殻を破ろうとしている状態」から、
今年の「寅」は「根や茎が生じて成長する、草木が伸び始める状態」を意味しているともいわれています。

「壬」は「妊→生まれる」の意味、
また、十干の9番目にあたり、次の命を育む準備の時期を表すともいわれています。

二つの組み合わせである「壬寅」は、
正に、「生まれたものが成長する」「新しく立ち上がる」といったことを表しているといえます。

コロナ禍の厳しい冬を超え、新たな成長の年となることを切に願うところです。

2022年1月の南アルプス

東山ブルー

ゼンシンの日々

本格的に雪が降り積もる前でCOVID‑19〈δandο〉の状況を鑑み、「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」観覧に長野県立美術館〔NAM〕(旧信濃美術館)に出掛けました。 二十数年前の1998年6月に奈良を訪れた際、思いも寄らず唐招提寺「鑑真和上特別開扉」で御影堂を拝観する機会を得て、そこで目にした障壁画を再び長野で観られる事と、改築なったNAMの見学を目当てに長野市に向かいました。

Part1 障壁画展は御影堂の内部を部分的に再現し、全68面の障壁画が公開されているとの事です。以前に観た時は、混雑するなか畳上から立った姿勢での目線でしたが、今回は正座して観る目線の高さに展示されています。再現した“宸殿の間”にある「濤声(とうせい)」は印象深く、波が大きく打ち寄せる海景のスケールは圧巻で、画伯の静謐な“青”とは違った、穏やかな“緑青”の世界に魅了されます。鑑賞後は、二十数年前の記憶の欠落部分が補完されたような安堵感も漂いました。

Part2 NAMは長野県信濃美術館が改築され、2021年4月にオープンしました。旧館は建築家 林 昌二氏(日建設計)が手掛けた双曲放物面シェル構造が特徴的な建築でした。新館は建築家 宮崎 浩氏(プランツアソシエイツ)がプロポーザルにより選出されました。(安曇野高橋節郎記念美術館が同氏の作品です)また、NAMに先立ちリニューアルされた東山魁夷館は、世界で最も美しい美術館をつくる建築家と言われている谷口吉生氏(谷口建築設計研究所)によります。

現在、高台にある城山公園が臨時駐車場であるため、施設へのアプローチは3階からとなりました。3階エントランスの「風テラス」からは、善光寺を望む絶好の眺望が楽しめます。周辺一帯も整備され、善光寺との回遊性も増し、明るく開放感のある建物となっています。

Part3 館内スタッフユニフォームは深いブルーで、「マメクロゴウチ」の黒河内真衣子氏(伊那市出身のパリコレデザイナー)の手によるものとの事です。似合う人もいましたが・・・。

という事で、暗くなる前に当地を後にして家路につきました。

12月の駒ケ岳

社窓
2021年12月の駒ケ岳

今年もあと残すところ僅かとなりました。
一旦は終息への気配を見せており、
徐々に外出なども増えつつあったところへ、
新たな変異株による感染拡大が世界中で報告されてきている昨今。
昨年と変わらずコロナウィルスに振り回されています。

さて、毎年、公益財団法人 日本漢字能力検定協会が発表している「今年の漢字」。
いくつか予想をしてみました。

金・・・オリンピック開催年恒例。今年はイメージが薄いか。
災・・・コロナ禍が続く。災害等のあった年の定番。
変・・・変異株。コロナ禍での生活様式の変化。
禍・・・コロナウイルスが流行るまではほとんど使うことが無かった字。

なんか、あまり良い字が思い浮かびませんでした。
もっと前向きな漢字が思い浮かぶような世相となることを期待します。

2021年12月の南アルプス

現場にて

ゼンシンの日々

日に日に寒くなってきましたが、
深まる秋の景色を楽しみながらの現場です。

橋の部材(高欄)の状況を撮影した写真なのですが、
バックの紅葉の主張がかなり強いです。

紅葉をみて癒しを感じる齢になりました。

新たな発見

ゼンシンの日々

土石流対策施設の点検のためにたまたま車を停めた所から、飯田市街が一望できました。

夜に来れば夜景が綺麗そうですね。

普段の生活ではなかなか知りえないような場所ですが、こうした発見もこの仕事の面白みのひとつかなと思います。

長野県は全国4位の広さで、移住者の私は行ったことのないところばかりです。

新型コロナウイルスで県外移動自粛の時期もありましたが、県内でまだまだ楽しめそうです。

部分月食

社窓

11月19日の夕方から宵にかけて、全国で部分月食が見られるとのこと。
部分月食というものの、食分がおおよそ98%という、
皆既月食に限りなく近い部分月食がみられるとのことで、
観察してみました。

月が登ってしばらくは若干雲がかかってぼやけていましたが、
「食の最大」に近づくにつれて、はっきり見ることができるようになりました。

左の写真が「食の最大」前、右が「食の最大」後になります。

天気に恵まれ、天体ショーを楽しむことができました。

【採用情報】👷‍♂️👷‍♀️「かみいなではたらく」を知るオンライン 参加について

お知らせ

12月6日(月)から12月12日(金)にかけて、上伊那地域31社が参加する
インターンシップ・企業研究のライブ説明会『「かみいなではたらく」を知るオンライン』
に下記の日程にて当社も参加いたします。

12月6日(月) 17:00~17:25

12月7日(火) 16:30~16:55

👷‍♂️予約はこちらから👷‍♀️(受付期間:11/20~12/3)
https://bitshift-webservices.tokyo/_inacci-web-event-2021/applyform.html

👷‍♂️詳細はこちらより👷‍♀️
「かみいなではたらく」を知るオンライン
https://inajob-55.jp/(伊那職業安定協会HP)

是非、ご参加ください。

駒ケ根市より災害対応に対して感謝状をいただきました。

お知らせ

令和3年8月12日から15日にかけての大雨による災害対応に対して、
駒ヶ根市(伊藤祐三市長)より感謝状をいただきました。

被災した駒ヶ根市道新春日街道線(農道)に架かる新大田切橋について、
被災直後よりUAVも活用しながら被災の状況を確認し、
洗掘による橋梁への影響の有無を調査・記録するための緊急点検を実施しました。

当社は今後も、地域に根差した総合建設コンサルタントとして、
快適で安心・安全な暮らしに貢献してまいります。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.39_アルゼンチン

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(アルゼンチン)

【チリのサンティアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ】
 チリの首都サンティアゴでの仕事が終わり、次はアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かった。アルゼンチンへはパラグアイの調査をしている時に行ったことがあった。パラグアイに隣接するアルゼンチンのミシオネス州は当時(1980年以前)から植林や林産業も進んでいたので、パラグアイと土地条件が似たミシオネス州の森林や林産業の状況を調査することにより、パラグアイにも応用できるだろうと調査したものだった。パラグアイ側のエンカルナシオンという町から対岸のアルゼンチンのポサーダスという町にフェリーで渡り、アルゼンチンに入国したのだった。これについては、以前、この紀行文の「パラグアイ-造林計画編」で書いた。そういう訳で、アルゼンチンには既に足を踏みいれていたため、ブエノス・アイレスは初めて訪れるというものの、初めての土地という気はしなかった。

【機内からみたアンデス山脈】
 1987年4月10日に、サンティアゴをPA209便にて14:00に出発し、ブエノス・アイエスに15:30に到着した。この間の距離は1,140kmで時差はないので、1時間半のフライトだった。
 アンデス山脈を越えるときには、幾重にも重なった山並みが連なって見えた。地図でみるとこのルートの下には6,000m級~5,000m級の山がかなりある。例えばトゥプンガート山(6,570m)、プロモ山(5,430m)、マルモレホ山(6,108m)、マイボ山(5,323m)、ネバド・ピケネス(6,019m)などだ。氷河で削られた大きな谷のカール地形も見えた。このあたりの山はヒマラヤよりは2,000mほど低いが、同じく荒々しい。しかし、登山者はヒマラヤよりは少ないようで、登頂した人もきっと少ないだろうから登りがいはあるだろう。

手前の谷は大きく削られたカール地形
幾重にも山並みが連なるアンデス山脈

【着陸前の景色】
 アンデス山脈を越えたら、さすがにアルゼンチンの大草原、パンパが続いた。パンパがずっと続いていたが、着陸前のブエノス・アイレスに近い場所では農場である。防風林らしき植林地も見えた。

着陸前。パンパから農場へ。ブエノス・アイレス空港の近郊
ブエノス・アイレス空港の着陸前に見えた防風林らしき植林

【既にパタゴニアに行っていた同僚】
 さて、当時の私と同じ職場で、私より数年先輩の方が、その当時30才前後だったが、専門家としてアルゼンチンに派遣されたことがあった。我々は若かったが、その方は優秀だったので、その若さで、アルゼンチンの森林研究所に林業技術の指導のために派遣されたのだった。帰国後の話では、その方は、その時パタゴニアの森林も調査していた。残念。先を越されたと思った。前回のチリの調査でも書いたが、私は学生の時に「パタゴニア会」を作り、いつかパタゴニアに行きたいと思っていたからだ。その時、私はまだ専門家として派遣されるほどの実力を備えていなかったので仕方がないことだった。しかし、いつかパタゴニアに行こう、きっといけるだろうと思っていた。実際には今でも実現はしていないが。

【IFONA】
 ブエノス・アイレスで訪問したのはIFONAである。IFONAとはInstituto Forestal Nacional で森林研究所のことである。ここは、上述した同僚が派遣されていた研究所であり、その方と常時一緒に仕事をしていた女性の技術者がいた。その方は日本に研修にも来ていたことがあり、私も日本で会っていたので、ここアルゼンチンで再会できてとても歓迎してくれた。そこで、ここでの話は非常にやりやすかった。
 私にこの研究所の上席の研究者を紹介してくれた。この方にアルゼンチンの森林や林業の状況を聞き込んだが、この方の話によるとアルゼンチンにしてもこの当時はまだ森林の基礎的調査が全てできているわけではなく、森林分布や資源量といったものが、地域により把握されていないところがあるとのことだった。特にパラグアイと接する地域はチャコ地域と呼ばれ乾燥地帯であるが、未調査地域だった。この地域だけで、日本の森林面積と同程度の面積の森林があるが、森林内容は把握されていなかった。ここにはケブラーチョやアガローボという名の有用樹があるが、その資源量をアルゼンチン側としては把握したいとのことだった。その土地所有のほぼ1/3は国有地で、2/3が民有地とのことだった。この国有地の中にも農民が無許可でどんどん入植し、森林を伐採し、牧場へ転換しているとのことで、森林消失の圧力は相当に高いということだった。

【「ガウチョ(カーボーイ)」ツアー】
 日曜日に休日の牧場へ気晴らしに行った。ホテルで行っているツアーの一つで、昼にはアサード(焼肉)も食べられるし、ガウチョ(カウボーイ)と遊べることとのことで、きっと楽しいと思い選んだのだった。ところが、牧場の一か所でじっとして過ごしているだけで、退屈で面白くなく、やはりいろいろ動き回って沢山見学したいと思い、私も日本人としての習性が染みついていると思ったものである。しかし、この面白くなかったということが、印象に強く残り、34年経った今でも、鮮明に思い出せるのだ。面白くなかったことのご利益だ。
 朝9時にホテルを出発し、2時間ほどバスに乗り、郊外の牧場に着いた。ブエノス・アイレスの中心地からそんなに遠くに行かなくとも牧場は広がっているのに、何故かかなり遠くまで行った。100km以上は中心街から離れていただろう。
 着いてから、あとはすることがなく、昼食でアサードを食べたり、食べている間に、テントを張った野外舞台でのダンスを見たりして過ごし、その後はカウボーイが馬に乗ってのパン食い競争のようなものを見たり、自分で馬にのって庭を散歩したりであった。すぐに飽きてしまい、ただボーと牧場内で昼寝をしているような状態だった。これがこちらの人には、それがリラックスできて良いのだろう。私は牧場風景もパラグアイの仕事で見飽きていた。それでも忙しく動き回っている日々から解放され、良いリラックスだった。午後4時頃再びバスに乗り、6時ごろにホテルに戻った。しかし、今思い出しても退屈なツアーだった。

ツアーで行った牧場
牧場内で他のツアー客と
牧場の野外テントの中で昼食を食べながら見学したダンス
ガウチョ(カウボーイ)が馬に乗ってのパン食い競争

【ブエノス・アイレスの町】
 ブエノス・アイレスは南米のパリだと言われていた。確かに、古いオペラ劇場(コロン劇場)などがある通りの外観などはそのような雰囲気を醸し出しているようだった。しかし、近代的な街に変身しているように思われた。

ブエノス・アイレスの町
イングリッシュタワー

 写真はブエノス・アイレスの町で見たイングリッシュタワーという名の時計塔である。これはアルゼンチンで起きた1810年の5月革命の100周年を記念してアルゼンチンのイギリス人コミュニティから送られたものとのことだ。しかし、1982年にアルゼンチンとイギリスはフォークランドで戦争に突入したので、それ以来イングリッシュタワーと言う名は変更され、単に記念塔と呼ばれているとのことだった。
 アルゼンチンの5月革命とは、南米のリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都はブエノス・アイレス)で起きた革命とのことで、この革命によりスペインから派遣される上流貴族の副王は廃止され、リオ・デ・ラプラタ革命政府が樹立され、アルゼンチンの独立の契機となったということだ。

【銀行の支店長等との会食】
 ある晩、当時ブエノス・アイレスに支店を持っていた日本の有名な銀行の支店長と商社の方達など6~7人で会食をしたことがあった。とても印象に残った会食だった。会食はこの支店長の方が全般的に話の流れを仕切っていた。私が感心したのは、この支店長の方の話がとても上手な上に、参加している皆さん夫々に上手に話題を振り分け、それぞれから話を引き出すのが非常に上手だったことだ。
 私はどちらかというと遠慮がちにしゃべるよりも聞き役に回っていたが、この時は、私にも上手に話を振ってくれ、皆さんと同じようにいろいろとしゃべることができ、皆さんも熱心に聞いてくれた。会食とはいえ、洗練されたその采配が大変に勉強になったことが強く印象に残っている。
 これ以後、私も大勢で会食をする時は、皆に気を配り、一人でかってにしゃべるばかりの人も時にはおとなしく聞き役にも回ってもらうよう、また遠慮がちの人にはうまく話しを引き出すよう、話を振り分けることが上手になったと思う。

【カミニート】
 せっかくブエノス・アイレスまで来たので、タンゴの発祥地カミニートに行ってみた。スペイン語でカミーノが「道」という意味で、カミニートはその縮小辞で「小道」という意味だ。ここはボカ地区というところにある。ボカは口という意味で、「河口」ということだ。ここはラプラタ河の河口だ。中高生の頃は何故か南米に憧れを持っていた。ラプラタと聞いただけで、心躍る思いがしたものである。実際にこのラプラタ側の上流地域のパラグアイで調査できたことは、ある種の夢を実現できたことであり、このことは既にこの紀行文で書いた通りである。
 さて、この河口は、ヨーロッパからの移民の到着地だったとのことで、この港町は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町だったとのことである。様々な国の人種が共存したため、いろいろな軋轢が生じ、そのフラストレーションのはけ口として、最初は男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりとのことである。しかし、次第に男は女を求め娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来て行ったそうである。そしてボカ地区は、船乗り、移民者に加え労働者なども夜な夜な集まり、安酒場でタンゴを踊るようになったとのことである。
 ある晩、この一角にある有名なタンゴレストランに行ってみた。哀愁を帯びたバンドネオンの音、そしてその独特のリズムと踊り、女性は独特のスリットの入ったスカートを着て、足を振り上げたり、あたかも床に着く寸前まで体を倒しそれを支える男の踊り手など、とても印象に残っている。

カミニートの入り口のカフェー・バー
河沿いの店
壁に描かれた絵画、その前で売られている絵画
ボカ地区のラプラタ河の河口
ここで釣れた魚

【アルゼンチンのカフェー・バー】
 また、ある晩、まだ宵の口だったが飲みに行った時に、できるだけ安全で健全そうな店を選んでカフェー・バーに入った。中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンター席に座った。カウンター内では数人のウエイトレスが働いていた。その中の一人が「あなたどこから来たの?(ちゃんとした意味は、どこの出身なの?)」と聞かれ、私は「チリから来たよ。」と言った。相手は、「チリ人だよ。」と解釈したはずである。だから「違うね。あんたはチリ人じゃあないね。あんたにはチリ人のなまりがないもの。たぶんボリビア人だと思うね。あたっているでしょ?」と言われた。「残念でした。違うよ。私は、本当は日本人だよ。今回は仕事で、東京を出発してから南米の各国を回って、最近チリからアルゼンチンに来たんだよ。」と、私は、この時、初めて自分のスペイン語がネイティブと間違えられるくらいうまくしゃべれるようになったんだなとうれしく思った。ボリビアは先住民の比率が高いので、祖先がアジア系で日本人に似たような顔の人も多いのだ。そんなことがあり、話が弾んだ。この一晩で私のスペイン語は随分とレベルアップしたと感じたものだった。

【帰国】
 この時は予定していた6ヵ国の訪問が終わり目的も達成できたので、帰国することにした。この当時、日本はバブルの最中であり、世の中全体に余裕があったようで、私も自由に動かせてもらいとても良い経験となった。この後バブルがはじけて日本全体が大変な状況に陥ったのではあるが。
 帰国は1987年4月16日にブエノス・アイレスを20:00にAR332便にて出発し、ニューヨークに向かった。途中リオデジャネイロとマイアミでトランジットで降りたので、空港でお土産を買ったり、コーヒーを飲んだりしてリラッックスできた。ニューヨークには翌日4月17日の午前11時に到着した。一人だったので、ニューヨーク市内も何回か見学しているので、一泊せずにそのままJL005便に乗り継いだ。ニューヨークを13時半に出発し、翌日4月18日の16時半に成田空港に着いた。やはりブエノス・アイレスから成田まで3回のトランジットはあったものの出発してから24時間以上のフライトはとても長かった。余裕があったのだから一泊しニューヨークで疲れを取っていけば良かったと後で思った。とにかく仕事も終わり、無事帰国できた。これで南米6ヵ国訪問の話は終わる。


つづく

Page Top