【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.23_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎-下

【退院】
さて1ヵ月入院していて、血液検査の値は正常となり、A型肝炎の抗体率も98%となり、少しは歩けるようになってきたので、退院したくて仕方がなかった。医者の許可も出たので早めに退院してハラレのホテルに戻った。しかし、やはりホテル生活はきつかった。肉類を食べればもっと回復していたのだろうが、心配で食べられなかった。

【帰国】
チームの全員が帰国するので、まだ長時間の飛行はきついと感じたので、1人だけあと1週間か10日ハラレで休ませてくれるように頼んだが、事務所では一旦皆と帰れというので帰ることにした。飛行機はファーストクラスにしてもらうことにした。しかし、ハラレからヨハネスブルグまではファーストクラスがなかったのでビジネスとし、ハラレからシンガポールはファーストクラスでシンガポールで一泊、シンガポールから成田まではファーストクラスで、後輩の団員に付き添ってもらった。
一番きつかったのはハラレからヨハネスブルグだった。この間はビジネスとはいえリクライニングになるだけでフルフラットにはならなかったので2時間くらいだったがきつかった。その後は横になってきたので成田まではそれほどきつくはなく帰国できた。

乾期で枯れたグワーイ川の井戸から水を運ぶ女性達

【成田空港から我が家へ】
成田空港では妻と兄が待っていた。あとで兄はこの時の私の顔はまるで幽霊のようだったと言う。そして空港から家までタクシーで帰ることにした。ところが高速道路上で事故があり、ひどい渋滞に巻き込まれ家まで2時間以内のところを4時間以上要してしまい、私はすっかり疲弊した。家に着き、横になったらそのまま眠ってしまった。目が覚めたら丸一日以上27時間も眠り続けていた。

【日本の医者】
そして1ヵ月間我が家で休み、毎日係りつけの病院で診てもらった。日本での指示はA型肝炎は回復傾向が見えたらすぐに栄養ある食べ物を食べろということで、50kgに減った体重が1日に1kgずつ増え、2週間で約65kgまで元の体重に回復した。この時主治医が所用で不在だったので、大学病院から派遣されてきた医者が日替わりで診てくれた。5人ほど見てもらったが、4人の医者は楽観的だったが、1人の医者は悲観的だった。悲観的な医者は、A型肝炎でもこれだけ回復に長く時間がかかっていると元の生活に戻るにはやはりかなりの長期を要するし、完治を確認するために最後に大病院に行き、最終の検査をしてもらえということだった。

【日本の大病院】
そこで最後に近場の大病院で検査をしてもらった。全ての検査を終えデータを見て医者は悪いところはもう一つもないと言った。しかし、私の感覚では体が弱まっていて、少し動くと疲れてしまい、横にならないとどうにもならなかった。これでは普通の生活はできないと思ったが、データには現れないのだった。大病院の医者は人の顔色を見るのでもなく、触診をするのでもなく、ただデータを見るだけだった。これでは町医者の方がよっぽど良いと思った。

【その後】
その後、自宅で静養しつつ重要な会議等の時は呼び出され、出勤した時にはつらかった。常勤で勤め始めた後もフルタイムでの勤務は無理で、1年ほど遅く行き、早く帰らせてもらっていた。アルコールは3年以上飲めなかった。夕方5時頃、家に帰ってくると疲れてすぐに横にならなければならず、その後何もできず、テレビを見て過ごすだけで番組の時間を覚えてしまった。しかし、海外の仕事には1年ほどで復帰した。飲み会などには付き合えず、ただ単調な日々を過ごす中で段々とストレスが溜り、やはりウツとなっていった。それが4年目くらいのある時、急に元気になりアルコールが飲めるようになった。それで同僚と外の居酒屋で飲んだ時の解放感が忘れられない。そして、徐々にウツも治っていった。
この間にかかった病院代や飛行機代、その他諸々の経費はとんでもない額だったが、勤務先で入っていた保険で全てカバーされた。
今思うと、この時が最後の40才台で、それまで若い時から無茶をし過ぎたと反省した。海外では健康と安全が最も大事であるが、健康であるからと無茶をし過ぎていたのだった。それから年を重ねるにつれてより慎重になっていった。

つづく

長野日報さんから取材を受けました

お知らせ

2月4日に実施した調査時に長野日報さんから取材を受けました。

令和2年 2月 5日 長野日報

カワアイサはアイサ類の中で最も大きい種で、諏訪湖には冬鳥として渡来し湖面上で大きな群れを形成している様子が湖岸からも観察できます。

2月の駒ケ岳

社窓
2020年2月の駒ケ岳
2月の駒ケ岳

昨年も雪が少なかったのですが、
今年は非常に暖かく、未だ本格的な降雪がありません。

雪かきの必要がなかったり、道路の凍結が少なかったりと非常に助かる反面、
スキー場に雪が無かったり、雪まつりなどのイベントの開催に影響がでるなど、
ご苦労をされている方も多くいらっしゃいます。
また、春以降の水不足も心配されるところです。

何事も、ほどほど、八分目くらいがちょうどいいと思うのですが・・・

暦の上では立春を迎えたとはいえ、まだまだ冬真っ只中。
インフルエンザなどのウィルス対策を万全に、
体調に気を付けてこの冬を乗り切りましょう。

2020年2月の南アルプス
2月の南アルプス

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.22_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎-中

【事務所からの指示】
 しばらくするとハラレの事務所から連絡があり、ブラワーヨの病院では回復に期待ができないから、南アのヨハネスブルグか首都のハラレの病院に移れと指示がきた。私はこの病院の施設も良いし部屋も一人部屋で居心地が良いのでここが良いと頑張ったが、だめとの指示でハラレに移ることにした。南アには国境があるので救急飛行機ではいけないだろうし、仲間はジンバブエにいるので一人になったら大変と思い首都のハラレに行くことにしたのだ。そこで、この病院で転院先を捜してもらったら、また前回と同じように感染症なので受け入れないという病院ばかりだと言われた。それでも一つ見つかりその病院に転院することになった。

ハラレの林野庁本部の建物

【ブラワーヨの病院からハラレの病院に転院】
 移動日は大変だった。ブラワーヨからハラレまでは救急飛行機で運ばれることとなった。病院からブラワーヨの空港までの救急車がきつかった。ストレッチャーで横になっているのだが、車の発進や停止、それにガタッと跳ねたりした時には体に響き苦しかった。救急飛行機はむしろ安定していて揺れないで苦しくなかった。しかし、ハラレの空港から病院までまた救急車が同じ苦しみだった。この時は後輩の同僚がずっと付き添ってくれた。 ハラレの病院はかなり大きな病院だった。着いたのにまだ部屋が空いてないからと人通りの多い廊下にストレッチャーに横たわったまま置かれ、1時間以上待たされた。感染症なのにこんなに人がいるところに置かれて大丈夫なのかと妙な心配をしたり、皆にジロジロ見られるのが嫌だった。ようやく部屋が空き、別棟の平屋の部屋に入れられた。2人部屋で、最初は一人だけだったが、途中で誰か入るかもしれないとのことだった。しかし、約1ヵ月入院し、だれも入院してこなかったので助かった。部屋は明るくきれいでいごこちがよかったが、ベッドが柔らかくてまいった。これならブラワーヨの病院の方が良いくらいだった。しかし、ジンバブエの病院の施設は、私がみたセネガルやブルキナ・ファソの病院とは比較にならないほど良かった。日本の大病院より良いのではないかと感じた。やはり宗主国がイギリスでこういったインフラには力を注いだからだろう。

【ハラレの病院での入院生活】
 ここでの担当医はドクターハキムと言い、これまたとても親身だった。毎日血液検査と糖尿の検査などを行った。点滴はずっとやりっぱなしである。
 この時ジンバブエに感染症の研究できていた若い日本人の医者が3人いてしょっちゅう見舞いに来てくれた。彼らは診断はしてはいけないことになっていたので診断はできなかったが、観察していたのだろう。いろいろとアドヴァイスをくれた。女性の若い医者は本当によく来てくれ、血液検査の値が日々悪くなっていくデータをみて、心配顔が益々心配顔になっていくので、こちらも心配になってきた。私の感覚としてはこの病院に来て、回復してきていると感じていた。
 また、男性医師の一人は、この病気は治ってもこの後遺症は数年間続くので、以前のように元気に働けるようになるには数年かかるだろうと言われ、そんなものかなと思ったが、実際にそうだった。
  ただここのドクターの治療方法は古い方法だった。日本に帰国すると日本の医者は、回復傾向が見えたらすぐに栄養のあるもの、タンパク質や脂質をどんどん取りなさいということだったが、ここではタンパク質や脂質は取ってはいけないだった。だから回復が相当に遅れてしまったのだった。病院食もいつもポーリッジ(お粥)で、また事務所の健康担当職員の方が毎日おにぎりやふかした野菜等を持ってきてくれて、感謝の言葉もなかったが、野菜と糖質ばかりをとっていた。
 ときどきハキム医師には冗談を言えるようになり、朝の診療の時には、”High doctor, owing your good treatment, I’m still living.” “It’s good. You are getting better day by day. It’s not my power, but the strength of your strong will to live makes you restore.” などと良いことを言ってくれた。
 そして退院するときには、このような大病をした後にはウツ病になり易いからくれぐれもウツにならないように気をつけなさいと言ってくれた。私は何でそんなことを言われるのかこの時は理解できなかったが、その後ウツになり、このドクターの正しさに実に感心したのだった。 そして私の回復傾向が見えてくると事務所の担当者が退屈しのぎに文庫本などを沢山持ってきてくれた。こういう時に暗い内容の本を読むのは良くなかった。それで池波正太郎や藤沢周平の時代物や椎名誠のエッセイなど事務所にあったものをほとんど読んでしまった。何しろトイレに行く時くらいしか立つことができないので、一日に数冊も読めてしまうのだった。

【ここで聞いた東海村原発事故】
 ここで日本の1999年9月30日だが、持ってきていたラジオで日本の短波放送をつけた時に、「近隣の住民は直ちに避難して下さい。」と緊張してしゃべるアナウンサーの声を聞き恐怖を感じた。東海村JCO臨界事故だった。ジンバブエで寝ながらも原発事故で日本は沈没してしまうのではないかと震撼した。

【隣の病室】
 私の隣の部屋は産科の部屋だった。お腹の大きい女性が入院して来るとほぼその日の内にオギャーという声がして、一泊して翌日には退院して行くのだった。中にはその日のうちに退院して行く人もいた。まあ丈夫なものだと思ったが、経済的にも入院するのは大変だからだろう。

つづく

新年会 兼

ゼンシンの日々

先日、1月18日 土曜日に、しゃぶしゃぶ&お鍋会が開催されました
社内でお昼の時間にみんなで食べました🤤

スタートはしゃぶしゃぶ。お肉かお魚です
鯛と鰤,牛と豚  🐮🐷🐟

沸いたお湯と食べる人の熱気で室内の湿気が.....

お肉!!!!!!(魚の写真を撮り忘れました・・・・・🤕)
(撮影者はインスタ映えなど言うものがよく解っていないため写真下手で魅力を伝え切れず。)

個人的に毎年楽しみなのは、レタス&餅しゃぶをゴマだれで食すことです
薄くスライスした大根とブリをポン酢で合わせても美味です(もはやブリ大根)

お肉が美味なのは勿論ですが…

しゃぶしゃぶの次はお鍋です
寄せ鍋とキムチ鍋

この、キムチ鍋が、うまい!!!!
味の秘密を教えてもらいました(作る様子も後ろで見てました)

写真では少し判りにくいかもしれませんが大鍋が2杯分😗
〆にうどんを投入・・・・


みんな食べ疲れちゃった…..


食後のデザート、アイスは別腹…? 😑

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.21_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎 -上-

【A型肝炎への感染がわかる】
「ミスターマスイ。病名が分かった。A型肝炎だ。これで助かるぞ。でもここは救急病院なので24時間しか置いてやれない。ずっと面倒みるわけにいかないから、入院できる病院をすぐに捜す。」と医者が言った。私も妙に納得がいった。私はB型肝炎の予防注射は受けていたが、A型肝炎の予防注射は受けておらず、知識もなかったからA型肝炎とは気が付かなかった。もしその知識があれば自分でもっと早く気付いたはずなのに、わからなかったために危うく命を落とすところだった。

【感染の原因】
1999年9月のことだった。ジンバブエでの仕事のことは既に数回書いた。A型肝炎は、ここで森林調査をしている時に、発症した。この国第2の都市ブラワーヨからビクトリアの滝へ向かって20kmくらいに位置するホテルの一軒家を数軒借りて、同僚や雇っていた南アの技術者達と住んでいた。家のトイレは水洗だったが土への自然浸透で、広大だった庭の中に井戸があったから感染したのだろうと思う。しかし同居の後輩の同僚にも他のチームメンバーには感染しなかった。私のように昭和20年代生まれは子供の頃には肥料は人糞だったので、ほとんどの人はA型肝炎に感染し抗体を持っているはずだが、世の中が清潔になり抗体率が落ちてきたのだろう。話は違うが、南アの白人技術者の人種差別発言についても書きたいが、あまりにひどいので今後も書くことができないだろう。

ビクトリアフォールズ道路沿いの森林

【発症するまで】
それはそれとして、森林調査をしている時に一日毎に段々体がだるくなり、数日休んで横になっていた。ブラワーヨの病院に行き調べてもらったが、マラリアでもなく、何だかわからなかった。それでまた森林調査に行き、営林署でコーヒー色に近い尿がでた。この時に気が付くべきだった。このコーヒー色の尿がA型肝炎の特徴である。私は、疲れた時に出ると言われる血尿と思い、これくらいなら大したことはないと思った。そしてまた木金と横になっていた。まだ大丈夫だった。ところが土日になると益々具合が悪くなってきた。土日は病院が休みだった。食事は家政婦が作ってくれていたが食べられず4日間ジュースだけで過ごしていた。月曜になると起きるのもつらく、すぐにブラワーヨの救急病院に行った。車の中では普通に座っておられずに横になって車に揺られ、この30分が非常につらかった。チームには英語と日本語が完璧な外国人の同僚がいたので、付き添ってもらい病院では、すぐに点滴をしてくれるように頼んだ。

【救急病院】
私はしゃべるのもつらかったがすぐに点滴を始めてもらい助かった。点滴でかなり元気を回復した。ここで血液検査をしたが、まだ病名はわからなかった。ジンバブエで見てもらった医者は、当然ながら皆黒人であるが、イギリスに留学しており、腕も良さそうだし、日本の医者と決定的に違うのは親身で、まず人の体を丁寧に観察することだと感じた。ただ、最初の医者は血液検査でほんのわずかだがサルモネラに反応があったとのことで、点滴の中に抗生物質を入れた。親身ではあるがいかにも自信たっぷりで、これが誤診だったので余計に体を弱めたかもしれない。 この病院の施設は大層立派に思えたが、大部屋にいて、網戸を潜り抜けた蚊がかなりいたのが嫌だった。マラリアになるのではないかと不安になったりした。そして夜になり、別の医者が来て、「ミスターマスイ。わかったぞ。A型肝炎だ。」と冒頭の言葉となったのだった。この医者は大柄だが、こんなに優しく親身な人はいないと思われるくらいに親身で、大きな手で触診をしてくれ、これまで黄疸がはっきりと出ていなかったのだが、このころから黄疸が出始め、はっきりと肝炎とわかった。この肝炎への触診は転院するハラレの病院の医者も帰国して日本の医者も全く同じで、全世界共通なのだと妙な安心感を持った。その後、感染症なので受け入れてくれる病院がないからもう少し捜すからと言われ、感染症だから病院は受け入れなければならないはずだのに受け入れてくれなければ皆死んでしまうだろうと妙に腹が立った。結局、翌日になり入院して24時間ぎりぎりになるところで転院先の病院が決まった。

【転院したブラワーヨの病院】
次の病院は同じブラワーヨの市内であるが、かなり大きな病院で施設も素晴らしかった。ここには4日いた。A型肝炎の治療薬はなく、ただ横になって体力が回復するのを待つだけである。この時は本当につらかった。チームメンバーが見舞いにきてくれるのだが、自分の意識ははっきりしているのだが、人の気配を感じるだけでつらかった。雇っていた運転手が、とても良い人で運転手だから、同僚を連れてきて部屋の片隅に座っているのだが、時々喉がいがらっぽいのか喉を鳴らす音さえ、ダンゴ虫のように丸く横になっている私の気分に響くので折角だが、皆さんにはすぐに退室してもらっていた。 病院食も少し食べられるようになり、点滴で少しずつ回復はしているようだった。シャワーの時間になるとジンバブエの若い女性の看護士がシャワーに入れてくれた。その時私はやせ細り、黄疸が出て黄色い体で、私のソノモノも極端に縮こまり、裸になったときに日本の男子とはこのように弱々しいものかと思われるのが妙に恥ずかしかった。相手は見慣れているしテキパキときちんと仕事をしてくれた。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.20_コロンビア

森林紀行

コロンビア-アンデスの山守の美少女-

コロンビアの森林は崩壊地だらけと前回のコロンビア編で書いたが、その他コロンビアと聞けば皆さんは何を思い起こすだろうか?コーヒーか、サッカーか、美女か?あるいは治安の悪さや麻薬などだろうか?
コロンビアを走るアンデス山脈は3つの支脈に分れており、その中の中央山脈に位置するマニサレスという町を基地として私は調査を行っていた。マニサレスからさらに奥地に入った村、村名はペンシルバニアと言い、アメリカの州の名前と同じだが、ペンシルバニアの人工林の山守をしていたのがアデリータだった。アデリータと言えばスペインの作曲家でギタリストが作曲したアデリータが有名である。アデリータの正式名はアデーラだが「ちゃん」づけすると「アデーラちゃん」がスペイン語だとアデリータになるのである。
マニサレスからペンシルバニアまで、道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねとまたアップダウンを繰り返すので、時速は20kmも出せず、6時間くらい車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。しかし、ここペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。

ペンシルバニアへ向かう途中の集落にて

1990年の2月にペンシルバニアに着いた我々のチームは顔なじみの村長や営林署長などに挨拶や調査の説明などをした後、村の中心にある広場に面したカフェテリアに入った。広場のもう一方には大きな教会があった。まさにコロンビアコーヒーを飲みながら調査の打合せなどをしていると山の上の方からカウボーイハットをかぶった少年らしき二人が馬に乗りゆっくりと降りて来た。そこで顔を始めて合わせた一人がアデリータであった。17才くらいの少年と思ったが、二十歳の女性だった。アデリータも村の女性に勝るとも劣らない美人の上、知的で澄んだ目をしていて思わず引き込まれそうな感じを受けたが、そこでは挨拶をしただけだった。

山中の裸足の少女と

翌日、山に入るのに営林署長に案内人を頼んでいたが、その案内人としてきたのがアデリータだったのでびっくりした。「あなたは昨日会った方ではないですか。この山の管理をしているのですか?」「そうです。私はこの山のグアルダーボスケ(山守)です。」と答えるではないか。「メデジンに住んでいましたが、この村の森で勉強も兼ねて森の管理人として働いているのです。」とのことだった。
我々はこの村のマツとサイプレス(ヒノキの仲間)の人工林を中心に調べていたが、アデリータが「マツの人工林でナナフシが大量発生していて困っている。」というので、現場に行って調査すると、まさに様々の種類のナナフシが大量に発生していて、マツの葉を食べている。枯れ枝と全く同じ形をしたナナフシもいて、ナナフシを見ると進化の不思議を感じざるを得ない。たまたま色や形が変わり、鳥に食べられることなく生き残ったナナフシが進化に進化を重ねて枯れ枝のように進化したというような説明だけで皆さんは納得できるだろうか?コノハチョウや目玉の文様があるチョウなどを見ても何か目的を持って進化してきたのではないかとつい思ってしまう。獲得形質は遺伝しないことになっているが、本当だろうかとも思ってしまう。
それはさておき、アデリータはいろいろ対策をたてていた。殺虫剤を木の根元に塗ってみたが、能率が上がらず、腰が痛いなどという。そこで私は「ナナフシが食べるのは葉だから、塗る位置が根元でも胸高でも効果は変わらないだろうから、作業効率や健康面から立って塗れる位置に塗ったら良い。」また、林内が暗いので、「間伐して光を入れてみたらどうだろうか。」といったことをアドバイスした。
それからしばらくして、「実験的に間伐をしてみたらその林からナナフシがいなくなった。」とアデリータは言う。「良かった。良かった。人工林は除伐や間伐を定期的に行い、光を入れて健全に育てなければだめだよね。」と私。そうしてペンシルバニアの森林を調査する時は、アデリータに手伝ってもらった。アデリータが森の隅々まで知っているので、調査はおおいにはかどり助かった。まさに山の守だった。しかし、それから1年ほど経ってアデリータは自分の郷のメデジンに戻って行った。

林内が真っ暗なサイプレスの人工林

我々はその後も調査を継続してこの周辺の森林の管理計画を作成してこの仕事は終えた。その後アデリータとは何の連絡もなく忘れ去っていたが、一昨年フェイスブックで友達リクエストがあり、驚いた。本当にアデリータなのだろうか。すぐにOKして近況が分った。あれから30年、母親となり50才となったアデリータと連絡できるとは。SNSの力は不思議なものだ。今はアンティオキア州の環境省に勤め、環境保護の先頭に立って活躍している。 アデリータだけでなく、その後もモロッコやドミニカ共和国で一緒に働いていた男性の技術者などからもリクエストが続々とあり、改めでSNSの力に驚いている。

1月の駒ケ岳

社窓
2020年1月の駒ケ岳

新年あけましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。

本年の十二支は子(鼠)、 干支は「庚子」 。

“子”は 本来は「孳」という字で、
「新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態」
を表しているとわれています。

また、ねずみは繁殖力が強いことから
「子孫繁栄」の象徴とも言われています。

今年は、いよいよ2020東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。
この祭典を存分に楽しむととともに、
様々な分野における発展や成長のきっかけとなればと願うところです。

2020年1月の南アルプス
1月の南アルプス

12月の駒ケ岳

社窓
2019年12月の駒ケ岳
12月の駒ケ岳

昨年に引き続き、比較的緩やかな冬の訪れとなっています。

令和元年もあと僅かとなりました。
今年は新しい元号となり、区切りの一年となりました。
また、ラグビーワールドカップが大いに盛り上がり、来年の東京オリンピックが一段と楽しみになりました。
一方で、今年も全国で台風などの大きな災害に見舞われた一年もでありました。

来年が穏やかで、また楽しい一年となるよう願いつつ、
良い年の瀬を迎えられたらと思います。

2019年12月の南アルプス
南アルプス

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.19_コスタリカ

森林紀行

海外の仕事で常に気をつけていなければならないのは、安全と健康である。私が死の危険に直面したのは2度あり、以前に書いたブルキナ・ファソでのクーデタ未遂事件に巻き込まれたこととジンバブエで肝炎に感染したことである。この類の経験は、ネガティブな面が強いので取り挙げるのに多少の抵抗を感じるが、受けてしまった経験の事実を述べてみたい。

【ネガティブな経験の種類】
まずは上記の2つ以外のネガティブな経験を上げると、地元民の集団に鉄砲を突きつけられたことが2度、秘密基地を発見し逃げたこと、ビジネスバッグの盗難が2度、借家に泥棒に入られたこと、引っ越しの際の盗難、協力国に保管していた機材が売られてしまったこと、脅しやたかりは数えられないほど直面した。運転手が起こした交通事故や山中の崖にぶつかり谷底に落ちそうになったことや、ゾウに襲われたことが2度、ハチやアリの襲撃は何度も、ヘビにかまれそうになったり、南京虫やダニ、それに巨大な水虫のような皮膚病の被害や遭難騒ぎ、カミナリに打たれそうになったり、地震やハリケーンも経験し、飛行機のロストバッゲジも数度、マラリアの感染数度、原因不明な下痢、上げれば限がない。幸いにスリ・追いはぎには何度もあいそうになりながらも回避できている。同僚には死亡者が数人おり、もっとひどいか同様な被害や病気にあっているものが多い。

【コスタリカで国際会議に出席】
その中でも1990年5月にコスタリカでビジネスバッグを盗難されたことが、自分の不注意に起因しているだけに、今でも悔しく、これについて今回は書かせてもらう。当時、熱帯林を保護するために、FAOが採択した熱帯林行動計画があり、行動計画作りへの支援事業などの会議に日本代表で参加した。会議は首都サンホセの高級ホテルのシェラトンで行われた。ホテルは2階建てで、廊下は厚い絨毯が敷かれていた。古いホテルだったが、部屋の扉は自動ロックだった。ただ、内装の改修を行っており、多数の労働者が出入りしていて雰囲気が良くないなと思っていた。会議は3日間行われたが、初日の午前の会議が終わり、昼休みにレストランに昼食を食べに行ったが、時間が短かったので急いでいた。

【ホテルの部屋から盗難】
部屋に戻りビジネスバッグ(この時はアタッシュケースだった)を机の上にドンと置き、ドアをバタンと閉めてレストランに向かった。昼食から戻ってくると部屋のドアがわずかに開いているではないか。変だなと思って部屋に入るとビジネスバッグがない。やられた。絨毯が厚くてバタンと閉めたつもりのドアが閉まっておらず、少し開いていたのだ。その間に誰かが部屋に入り盗んだのだ。

【大騒ぎしたが後の祭り】
すぐにレセプションに行き、犯人を捜せと、出入りの労働者だろうと疑い、大騒ぎしたが、どうにもならず、バッグは出てこなかった。警察を呼んでもらい、調べてもらったがだめだった。しかたがないので盗難証明書を書いてもらった。当時はデスクトップの大きなパソコンが利用され始めた頃で、まだノートパソコンもなく、手書きの時代だったので、バッグの中には一番大事な仕事の資料、カメラ、カセット録音器、計算機、予備メガネ、西和と和西の辞書等が入っていた。幸いなことにパスポートや金は大きなスーツケースに鍵をかけて入れており、そのスーツケースはチェーンで部屋の固定物に繋いでいたので、最も大事なものは盗まれないで助かった。レセプションに重要物は預けられるが、それも信用できないので、そのようにしていたのだ。帰国後、保険で盗難物と同額程度を補償されたが、愛着のあるものを失ったことは大きかった。

【ショックで上の空】
その日の午後は、討議内容が全く頭に入らなくなってしまった。会議はスペイン語と英語の同時通訳で行われているのでなおさらである。その時の発言は一緒にいった同僚に頼み、翌日からはショックも少しずつやわらいでいった。帰国して報告会や専門誌への報告で弱ったが、幸いにもこのような会議ではレジメが配られ、集めていた資料もあり、多少は頭に入っており事なきを得た。 その後CATIE(熱帯農業研究高等教育センター)や森林を訪ねたがうわの空だった。幻の鳥、神の鳥と言われるケツアールが見られるのではないかと期待していたが、失せた気力が回復しなかった。ケツアールが見られれば、不幸一転して幸せになれたかもしれなかったのに。絶対にここは回復させなければならなかったところである。良い写真も残っていないのも残念だ。

【良い国だが印象の悪いコスタリカ】
コスタリカは国立公園が多く、きちんと自然が保護されている国であり、軍隊がなく軍事予算を平和構築に注いできた良い国という評判だが、私にとっては非常に印象が悪い国である。

カルタゴ(首都サンホセの近隣)の町のロスアンヘルス大聖堂

つづく

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