9月の駒ケ岳

社窓
2020年9月の駒ケ岳

厳しい残暑が続いていましたが、
少しづつですが、秋の気配が感じられるようになってきました。

9月に入って、台風9号・10号と立て続けに九州地方を襲いました。
気象庁はじめ各自治体もかなり早い段階から強く警告 を発して、
多くの方々が早めの備えをしたようです。

これから、台風、秋雨前線の時期となってきます。
台風などは地震と異なり、ある程度事前に到来を予想できます。
「大したことなく済んでよかった」と言えるよう、
早めの備えや避難行動に努めましょう。

2020年9月の南アルプス

令和2年度 天竜川上流河川事務所 優良業務所長表彰をいただきました

お知らせ

この度、
令和2年度 中部地方整備局 天竜川上流河川事務所 優良業務技術者所長表彰
令和2年度 中部地方整備局 天竜川上流河川事務所 優良業務所長表彰
をいただきました。

発注者様はじめ関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
この受賞を励みとして、さらなる技術の向上に努めてまりたいと思います。

天竜川上流河川事務所 優良業務技術者所長表彰

受賞技術者:境澤昌志
業 務 名:平成30年度天竜川水系下伊那地区砂防渓流調査業務

表 彰 理 由:
業務の目的をよく理解し、適切な調査により信頼度の高い渓流調査を行った。また、 UAVレーザスキャナを使用して3次元データを作成するなど品質の向上を図り、優 れた成果をあげた。 (天竜川上流河川事務所資料より)


天竜川上流河川事務所 優良業務所長表彰

業 務 名:平成30年度天竜川水系下伊那地区砂防渓流調査業務

表 彰 理 由:
業務の目的をよく理解し、精確な観測により信頼度の高い地すべり観測を行った。ま た、観測された挙動に対し適確な考察を加えるな ど品質の向上を図り、優れた成果をあげた。 (天竜川上流河川事務所資料より)

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.30_コロンビア

森林紀行

筆者紹介




不思議な夢の中の世界(コロンビア-アンデス)

 コロンビアのアンデス山脈上は、はげ山が多く崩壊地が多いことなど、この地における調査については、何回か書いた。その調査をしていたペンシルバニアという村の状況についても書いた。今回はそのペンシルバニア村で経験した不思議な夢の中の世界だったような話だ。

【ペンシルバニア村】
 ペンシルバニアの村名はまるでアメリカであるが,小さな村だった。カルダス州の州都マニサレスからペンシルバニアまで、山道の道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねと曲がりくねる上にアップダウンを繰り返すので、車の時速は20kmも出せず、ペンシルバニアまでは6時間くらいかかる。その間に見る景色は、山の斜面に牧場が広がり、牛もころげ落ちるという急斜面だ。車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。
 しかし、そこペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。カルダス州の州都マニサレス自体がコロンビアでも有名な美人の土地ということもあろう。この辺りまでは以前に書いたとおりである。

アンデス山脈中の集落ペンシルバニア
はげ山が多い。手前はマツの人工林

【ペンシルバニア】
 ペンシルバニアは標高2,100mくらいにあり、山の中の比較的平らな場所にぽつんとある集落である。街の広さはほぼ700m~800m四方くらいで、一つの通りの幅が約100mである。真ん中の東西に通る道路が中心の道路でその道路の周辺にいくつか店があった。最初は、清潔ではあるが、古いホテルを宿舎としていた。かなりの人が馬を利用しており、18~19世紀の世界に来たような感じを持った。街の真ん中にプラサ(広場、公園)があり、その西側には大きな教会があり、東側には、街の皆が利用する大きなカフェー(喫茶店)があった。数年後に街はずれにロッジ風のしゃれたホテルができたので、その後はそこを宿舎としていた。

【アレハンドロ】
 アレハンドロはコロンビア環境省の共同作業技術者グループの主査だった。非常に優秀で、呑み込みが早く、行動力があり、我々が要求する資料もすぐに提出してくるし、アポイントもすぐに取るし、行動力もあった。我々も非常に助かったし、林業や林産業関係の会社を調査するのも彼ら自身では予算がないので、我々と一緒に回れて調査ができ、非常に勉強になったと感謝もされたりした。この調査が終わった後は、大学教授に転身した。
 そして、彼がまた優れているのは、よくもてることだった。黙っていてもてるというのではなく、柔らかい人当り、巧みな話術で、老若男女誰に対しても優しかった。女性に対しては、女性の喜びそうなことを何のためらいもなく自然と口から出てくるし、まあ南米の男はほとんどそうであるが、生まれ持った天性かもしれないが、うらやましいこと限りがなかった。

【カフェー】
 街中のカフェーは、村人の情報交換場所はここしかないといった社交場であり、前に書いたアデリータと最初に会ったのもこのカフェーである。パトリッシアは、最初にペンシルバニアに来たときにカフェーで見かけた美人である。私はこの世の中にこんな整った顔をした女性は今までに見たことがないと思うくらい美人だった。だからと言って私が心を動かされたということはなかった。アレハンドロは早速話しかけ、すぐに仲良くなっている。何回かカフェーに行くうちに私もパトリッシアと話してみたが、何となく話がずれる感じを受けた。彼女は独身で21~22歳くらいに見えたが、もっと若かったのかもしれない。まるで高校生と話しているような純粋さを感じるのだった。パトリッシアに限らず、ここの若い女性は、生まれた時から人間に育てられた猫のようで、誰に対しても警戒心がないように感じた。それに外から来たもの珍しい日本人には、よけいに興味を持ったようでなついてくるようにも思えた。教会の裏あたりには、アトスという名のこの村では唯一のディスコがあり、我々も金曜や土曜の夜には時々踊りに行ったが、パトリッシアはそこには来なかったので、夜の外出は禁じられていたのだろう。

【土曜日の集まりに誘われる】
 1990年7月14日、土曜日のことだった。アレハンドロから、数日前に土曜日の夜に飲みに行こうと誘われていた。「マスイ、今度の土曜日の夜に、村はずれの牧場に招待されているので、一緒に行こう。招待されているのは私とマスイだけだから、他の者には秘密だよ。この村の名士達が集まるのだ。パトリッシアも来るから行こうよ。」と言われた。こんな山の中で、どのような人達が集まるかわからないので気が引け、また他のメンバーには悪いという思いがあったが、まあ何事も経験だし、パトリッシアも来るならいいだろうと思い、「OK。行くよ。」と返事しておいた。
 アレハンドロは、その性質から誰とでもすぐに友達になるのですぐに顔が広くなるし、市役所に報告に行った時に、週末の名士達の集まりを聞いたのだろう。そこで、アレハンドロと私が行くことを頼み、パトリッシアも誘ったのだろう。

【山中の一軒家へ】
 土曜日ではあるが午後までナナフシの被害状況やマツ林を調査していた。午後5時過ぎにアレハンドロの車で出発した。急斜面の山道ではあるが、道路は山の斜面に平行的に作って有り、ペンシルバニアの町から数キロ、10分ほどですぐに着いた。山と言ってもアンデス山脈は大きいので、日本のように急な侵食された崖のようなところというよりも大きな山海のうねりが続いているといった感じである。

近隣のマツの人工林

 着いた先は大きな牧場の中の一軒家だった。平らな所を選んで木造2階建ての大きな家が建っている。午後5時半頃だった。まだ、日が沈まず外には明るさがあった。早速家の中に入ると広い居間には既に、20人くらい集まっていた。男が10人、女が10人くらいだ。後から3人来たから、集まったのは全員で23人だった。中には部屋が7~8つもありそうだった。小作人に牧場を管理させ、所有者は週末に遊びに来るのだ。

【参加者】
 私は、家の中に入った途端、来なければよかったと後悔した。何となく私の来る場所ではないと感じたからだ。男は知らない人だらけだったが、女性は街中で私でも目が付くほどの美人の若い女性が数人いるのがわかった。パトリッシアがいるのも分かった。しかし、何しろ私だけが異質な日本人で、他は皆コロンビア人だからということもあるが、庶民ではないという雰囲気が漂っていたからだろう。それに日本語ではなくスペイン語だけで、彼らどうしで話す早口のスペイン語には、とてもついていけなかったこともあった。しかし、私の引っ込み思案的な性質からくる思いはすぐに杞憂に終わった。

 中に司会がいて、毎週末でもこのようなパーティをしているのだろう。とても上手に皆を紹介していく。私だけが異質なので、アレハンドロが自己紹介した後、私の紹介も簡単にしてくれたが、その後私自身で、自己紹介をさせられた。自己紹介の挨拶はスペイン語でも数えきれないくらいやっているので、コツがわっていたので、若干笑わせたりスムーズに行ってやや打ち解けた。彼らも簡単に自己紹介をしてくれた。この家の持ち主はこの村の医者だとわかる。その他の参加者は弁護士や先生達で、男の参加者は40代~50代くらいで、やや中年と見えた。南米の人は年寄り上に見えるので、実際はもっと若かったかもしれない。私もアレハンドロも40前後だったので、われわれはどちらかというと少し若い方だった。しかし、女性達は20~25才くらいで、男達よりもずっと若い。全員超がつくくらい美人でスタイルも良くびっくりだ。世の中にはこんな世界もあるのだと改めて世界の不公平さを感じた。中に夫婦が3人いるとのことだったから、若い女性を奥さんにした幸せな男も少なくとも3人はいるということだ。

【キャンプファイアーにバーベキュー】
 しばらくして、作男が、用意ができたと言ってきたので、全員で外に出るとロマンティクな黄昏時である。キャンプファイアーが焚かれ、近くではバーベキューで大量に大きな牛肉の塊が焼かれており、美味しそうな香ばしい肉汁の香りが漂っている。その周りには椅子や切株や木の幹の長椅子が用意されていて、それぞれ好き勝手なところに座る。アレハンドロはパトリッシアの隣に座り早速くどいている。
 赤道周辺は、日本のように北緯35度に比べて地球の回転速度が速いから、黄昏時間が短くて、すぐに暗くなってしまうことを感じていた。6時半くらいにはもう暗くなっていた。夏の赤道上とは言え、標高は2,100m程度なので、気温は15℃くらいと気持ちが良く、乾燥していて、赤道無風帯でもあり、そよ風が気持ち良い。

はげ山だらけのアンデス山脈

 キャンプファイアーの周りで、ビールやコーラやアグアルディエンテが回ってきた。アグアレディエンテは、コロンビアの地酒でサトウキビで作られアニスなどが含まれていて独特の味があり、透明で30度くらいの強さがある。皆それぞれ好きなものをグラスに注ぎ、乾杯である。乾杯はスペイン語ではsalud(サルー)だ。
 アグアルディエンテを飲みすぎると必ず酔っぱらうから、私はビールで乾杯し、酔っ払わないように二日酔いにならないよう、飲み過ぎないように気をつけていた。アレハンドロも最初はビールだったがピッチが速くぐいぐい飲んで、もともと陽気の上にさらに陽気になっている。若い美人の女性達に囲まれているせいもあろう。私は雰囲気に呑まれないように冷静にしていた。肉とジャガイモもどんどんと回ってくる。だんだんと打ち解けてきて、最初は合わないかなと思っていたが、南米人特有のオープンな心で歓待され、私も来て良かったと思うようになった。皆席を入れ替わり色々な人と話していたが、アレハンドロは若い女性を誰彼となく口説いている。

【ゲーム】
 そのうち司会がゲームをやろうと言い出し、全員でハンケチ落としをやって楽しむ。皆必死になって子供の様に楽しんでいる。いい大人が童心に戻って遊ぶのも楽しい。色んな遊びを楽しんだ後、段々と皆酔っぱらってきて、借り物ゲームとなった。最初は男にシャツを持ってこいというと、お互いにシャツを交換した。下着を着ているのは私だけで、全員裸の上にシャツを着ていたのにはビックリした。次に女性達にシャツを持って来いというと、全員がキャアキャア騒いで何事かと思う。女性達はジャンバーのような上着を持ち、全員家の中に一目散に駆け込み、シャツを取り換えっこし手に持ち、ジャンバーを引っ掛けて出てきた。かなりキワドイなあと思っていた。皆真剣に遊んでいる。

【歌】
 遊びも飽きて、次は歌である。真っ暗であるが、キャンプファイアーの火があたりを明るくし、皆益々酔っぱらって乗ってくる。だれかがギターを持ってきて、歌い始める。何曲か歌った後に私も歌わされる。スペイン語で歌った方が受けるので、パラグアイで覚えた「イパカライ湖の思い出」と「シエリートリンド」と日本の「コモエスタ赤坂」を「コモエスタペンシルバニア」として歌ったら大喝采を浴びた。

【ダンス】
 歌が飽きて、次は定番のダンスである。コロンビアと言えばクンビアである。女性達が盛んに踊ろうと手を取り誘ってくれる。酔いも回って皆益々活発になってくる。どちらかというとこのダンスが始まるとほとんど飲まなくなるので、二日酔いにならないで済むことが多いのだ。中南米のいろいろな国で踊ったことがあるが、男女の密着度はコロンビアが一番強いと感じた。パラグアイなどは男女が離れて踊っていることも多く、エクアドルやドミニカ共和国などは日本の社交ダンスくらいであるが、コロンビアは抱き合って踊っているようなカップルも多い。
 
 先生と話していると、ここは田舎だから男女間の中は厳しく節度があるのだとのことだった。「若い女性達もああやって奔放であるが、皆最後は節度があるのだ。節度を破ればマスイもこの村に一生住まなくてはならない。だからマスイも日本に帰りたければ、節度を守らなければならない。」と忠告をしてくれる。
 
 そうこうしているうちに雨がポツポツと降って来たので、全員家の中に入り飲みなおしだ。家の中でもすぐにクンビアのダンスだ。この独特の調子のよいリズムのクンビア、コロンビア人はお腹の中にいるときからクンビアを聞き、ダンスをしているからリズム感が良くダンスがうまいのだと言われるが、さもあろう。

【雨で泥だらけに】
 しばらくして、10時ごろからポツポツと人が帰りだす。雨がだんだん強くなり、土砂降りとなった。一人の女性が車がぬかるみにはまって動けないという。雨の中、皆で車の後ろを押したら、タイヤが空回りして全員泥だらけになった。しかし、幸い車は動き、その女性は帰って行った。我々は家の中でシャワーを浴び汚れを取った。

 さて、夜中のスコールも止み11時くらいになったので、帰ろうとアレハンドロにいうと、酔っぱらっていて、もっと飲みたくて、まだ帰りたくないという。アグアルディエンテをロックでぐいぐいとまだ飲んで、残っているパトリッシアを盛んにくどいているが、パトリッシアもあきれるほどの酔っぱらいになっている。パトリッシアも帰りたがっているが、アレハンドロが引き留めている。実際にアレハンドロの酒癖は悪くて、だいたい土曜日に飲みだすと朝まで飲んでいるのが、定番のようだった。

【アレハンドロに絡まれる】
 残っている女性達と私はしばらく話をしていた。12時くらいになったので、もう帰ろうとアレハンドを連れ出す。この時パトリッシアとサンドラをいう女性も一緒に車に乗り、ペンシルバニアまで帰ることになった。街までわずか10分ほどだが、山道の酔っぱらい運転は危険だった。アレハンドロが酔っぱらっているから、酔っぱらい運転はだめだから私が運転するのでアレハンドロは助手席に来いと私が彼に言った。

はげ山になり侵食が激しいアンデス山脈

 すると酔っぱらいのアレハンドロが豹変し、私に絡んできた。「何い。マスイ。お前は外人だろ。コロンビア人ではないだろう。コロンビアの運転免許書を持っているわけはないだろう。免許書も持ってないのに、お前が運転できるわけはない。黙って座ってろ。」と大変な剣幕である。

 すると後ろの席に座っているパトリッシアとサンドラにも絡み始めた。何と言っているのかはわからなかったが、パトリッシアまで罵倒するとは思わなかった。すると二人は怒って車を降り、歩きだしてしまった。私はあわてて車を降り、二人を連れ戻そうとした。こんな真っ暗な山道を歩いて帰ったら何があるかわからず、車より危険だ。アレハンドロをなだめるから、こんな真っ暗な山道は危険だから車に乗れと説得する。パトリッシアはすぐに車に戻った。しかし、サンドラはズンズンと歩いて行く。私はサンドラに追いつき必死で説得し、ようやくサンドラも納得して車に戻った。サンドラは、この山の家で初めて会ったが、端正な顔立ちで背も高く、知的な美人に見える。怒った顔も美しく、なんでこんなに美人なんだろうと真っ暗な中で不思議に思った。

【街に戻る】
 それから車の中でアレハンドロをなだめすかしてようやく街に戻る。街で、パトリッシアとサンドラを下ろし、街ではカフェーがまだ開いていたので、アレハンドロとそこに入り水を飲ますとアグアルディエンテをくれと言う。一体、酔っぱらいとはいつまで飲むのだろう。
 
 泊まっていたホテルは、街はずれにできたばかりのコッテッジで、帰ると入り口の鉄柵が閉められていて車が入れない。真っ暗な山道を200mほどコッテッジまで歩いた。

 アレハンドロはパトリシアに気があったのにこれでは、もうだめだろうと思っていたところ翌日の日曜日にカフェーに行くとアレハンドロとパトリッシアが仲良くコロンビアコーヒーを飲んでいるのでびっくりした。まあ、酔っぱらいの酔狂は水に流されるということであろうか?

 コロンビアの大田舎の中の特権階級の人々の週末の遊びを経験したのだが、オープンな心で多様性を認めるような、また、お話、ゲーム、歌、ダンスと様々に楽しみ男女の仲が近くうらやましいような、何か不思議な夢の中の世界を経験したような強い印象が、30年も経った今でも鮮明に残っているので、それを書いてみた。

8月の駒ケ岳

社窓
8月の駒ケ岳

長かった梅雨がやっと明けたと思ったら、
今度は猛暑を通り越して酷暑の日が続いています。

今年はコロナ対策でのマスク着用が不可欠となる中で、
熱中症のリスクも高くなっています。

最近では、熱中症対策グッズもいろいろなものが登場しています。
塩分補給のための飴、タブレット、
服の上からかける冷却スプレー、
ミニ扇風機、首掛け扇風機、などなど。

弊社においても、 屋外現場作業における熱中症対策の一つとして 、
ファン付き空調ベスト を導入しました。

いろいろなグッズをうまく使って、
熱中症対策、コロナウイルス感染症対策をしながら、
この夏を乗り切りましょう。

8月の南アルプス

7月の駒ケ岳

社窓
7月の駒ケ岳

梅雨明けの晴れを待っていたら、
とうとう梅雨が明けずに7月も終わりを迎えてしましました。

今年は、例年いない長雨、また降水量となっており、
各地で災害も発生しています。
また、コロナウイルス感染症も再拡大の兆候がみられるなど、
なかなか明るい話題がありません。

梅雨明けを迎え、少しでも明るくなれることを願います。

7月の南アルプス

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.29_セネガル

森林紀行

筆者紹介




砂漠飛びバッタの恐怖

【空に浮かぶ不思議な物体】
「あの遠くの空に浮かぶあれは何だ?雨雲か?」
「違うな。動いているぞ。超巨大な鳥のようだが?翼竜か?UFOか?」
 遠くの空に見えるやや黒い影のような物体。空を上に登ったり、下に降りたり、右に行ったり、左に行ったり。形は変幻自在だ。良く見ると黒い点の集合体が動いているのだった。
「あれは、今警戒されているバッタだ。」
「そうだサバクトビバッタだ。モーリタニアで発生し、まもなくセネガルに来るとの予報だったが、もうこちらに来たのか。それにしても凄い量だな。」
「こちらに来るかな。」
「どうかな。来るかもしれないし、南に飛んで行ってしまうかもしれない。こちらに来ないことを願うしかないな。野菜畑にも行かずに海に突っ込んでもらいたいな。」

飛んできたサバクトビバッタ

【植林地】
 2004年10月7日のことだった。私は砂丘の植林地の中にいた。この植林は、セネガルに協力を開始して、既に数年が経っていた。場所は、セネガルの首都ダカールから北のモーリタニアとの国境に近いサン・ルイとのちょうど中間くらいに位置するところだった。サン・ルイは、かつてはサハラ砂漠を越えてきた飛行機の中継基地となっていて、「星の王子さま」を執筆したことで有名なサン・テグジュペリも郵便飛行船のパイロットとして滞在していたことで有名だ。

植林地の位置

 この年の植林は、既に雨期に終了していて、植林してから半年ほど経っていた。
 砂丘に植林したのは、この砂丘の後背地には野菜畑が広がり、この野菜畑を砂と風から守ることと、そこに住む住民の居住環境を守ることだった。植林による防風防止効果は絶大なものがあり、数年の植林で樹高が1mとなった植林木でもその効果があり、住民は野菜生産量が上がったと語っていた。
 約700haの砂丘全体に植林を行っていた。植林地は20m×20mに区切り、鉄の杭とネットにより防風柵を設置した。さらに、傾斜15°以上の土地はネットで覆い、砂が飛ばないような対策を施した。植林密度は2m×2.5mでhaあたり2,000本だった。何しろ地元住民の協力も得て苦労して植林した木が、バッタに食べられ枯れてしまったら元も子もない。
 砂丘での植林は難しいと思われたが、雨期には5㎝くらい、乾季でも10㎝くらい砂を掘ると湿気を感じるので、乾燥に強いモクマオウとユーカリであれば成功するとの調査結果から植林の実施に至ったのだった。
  植林した木の根を観察するとここでの根の張り方は下に伸びるのではなく、水分を求めて横に伸びるのだった。水分を求めての適応というのは素晴らしいものだ。

見渡す限りの植林地。モクマオウを植林
手前はユーカリ

【植林地にやってきたバッタ】
 そうこう言っている間に、ついにバッタが植林地上空にやって来た。と思う間もなく我々の目の前に数匹が飛んで来た。するとあっという間に次から次へと大量のバッタが飛んで来て、我々はバッタの集団に囲まれた。 「まずいな。我々が植林したユーカリやモクマオウは食べないだろうな。」

モクマオウの植林地の上空を飛ぶバッタ

「今大量にユーカリやモクマオウにたかっているが、おそらく全部は食べないだろう。ユーカリの葉はバッタの嫌う香気を放っているし、モクマオウの葉は硬くてバッタ好みではない。」
「我々を襲ってくることはないだろうか?」
「ないはずだ。ソレ」と私がバッタをめがけて走り寄り、手を上げ追い払おうとすると、私を襲うことなく一斉に飛び立って逃げていく。しかし、猛烈な羽音だ。ウワーンとうなり声を上げている感じだ。小さい音が重なりあい、共鳴して大きな音を出している。大きな耳鳴りを感じているようだった。もし、これが襲ってきたら逃れようもなく、骨になるまで食べられてしまうような恐怖を感じる。
「困ったものだ。バッタは葉が柔らかくおいしそうな野菜の葉を好むそうだ。」そうこう言っている間に、バッタは野菜畑の方向にも飛んでいく。

【サバトビバッタにたかられたモクマオウ】
 ここにいるだけでも物凄い数だな。一体どれくらいの数のバッタがいるのだろう。数億匹はいるのだろう。モクマオウは物凄い数のバッタにたかられたが、ほんの少し食べられただけで、ことなきを得た。予想どおり葉が硬かったのとバッタ好みでなくまずかったのだろう。ユーカリもほとんど被害なくバッタは飛んでいった。

サバクトビバッタにたかられたモクマオウ

【サバクトビバッタにたかられた木】
 しかし、近くの農家に生えていた樹木の葉が柔らかいものは、葉が食べられ瞬く間に丸裸になっていく。

近くの畑にあった葉の柔らかい木は
バッタにたかられると瞬く間に食べられていく

【サバクトビバッタにたかられたマンゴー畑】
 マンゴーの木の被害もひどかった。緑の葉が茂っていたが、バッタが一斉に葉にたかり、そして飛び立っていくと、緑の葉は一枚もなくなっていたのだった。まるで枯れた木だ。ここでもその飛び立つ羽音の凄さと言ったら表現しようもない恐ろしさだ。

サバクトビバッタにたかられたマンゴーの木
近づくと一斉に飛び立つサバクトビバッタ
同上。もうマンゴーの葉が食べられてしまった

【車のフロントガラスにあたり油で曇る】
 我々が引き上げるときにもまだバッタは残っていた。車が走るとフロントガラスに無数のバッタがぶつかるのだった。ぶつかったバッタが出す白や黄色の油汁でフロントガラスも曇ってくる。ドンドンドンとぶつかってくる。ときどきフロントガラスを拭かなければならなかった。そして国道にでてからはガソリンスタンドでフロントガラスを洗わなければならなかった。
  舗装道路に出るとつぶれたバッタの油汁で車が滑る。とても危ないのでそろそろとしか走れなかった。

サバクトビバッタから逃れる
周りはサバクトビバッタだらけ
フロントガラスにぶつかりつぶれて白や黄色の汁をだす
フロントガラスにとまったサバクトビバッタ

【ウイキペディアから(要約)】
 サバクトビバッタ(学名:Schistocerca gregaria )は、代表的なワタリバッタ(locust)として知られ、時々大発生し、有史以来、アフリカ、中東、アジアに被害を与え続けている。サバクトビバッタは体が大きく、移動距離が長く速度も速い。
 成虫のオスの体長は40-50mm、メスの体長は50-60mmで、前翅は半透明で多数の斑点があり、後翅はほぼ透明で斑点が無い。体色は、成虫になった直後はピンク、しばらくするとバラ色、茶色、オレンジブラウンなどになる。成熟するとオスはくすんだ黄色、メスは明るい黄色になる。
 サバクトビバッタの寿命は3-6ヶ月、1年当たりの世代交代回数は2-5回である。雨季になるまで、1匹1匹が別々に暮らしている。雨季になって草が生長すると、雌が草地に卵を産む。卵が孵った時に、草が餌と隠れ家になるためである。
 ところが草地が元々少なかったり、降水量が減って草地が減ったりすると、幼虫は残された餌場を求めて集まってくる。さらに、互いを引き寄せるフェロモンを放ち、群れを作るようになる。群れは10-16世代にわたって増加を続け、1つの群れは最大で1,200平方キロメートルを移動し、1平方キロメートルあたりに4,000万から8,000万匹が含まれている。

 大発生期を除いて、サバクトビバッタの分布はモーリタニアを西端としてサハラ砂漠、アラビア半島、インド北部までの1,600万平方キロメートルに集中している。群れは、風に乗って移動するため、移動速度は概ね風速に近い。1日あたりの飛行距離は100-200キロメートルである。到達高度は最高で海抜2,000メートルであり、これ以上は気温が低すぎるため上ることができない。

 サバクトビバッタは、毎日自分の体重と同じ量の緑の植物を食べる。種類は葉、花、皮、茎、果実、種と問わない。農作物、非農作物のいずれも食し、農被害としてはトウジンビエ、米、トウモロコシ、モロコシ、サトウキビ、大麦、綿、果樹、ナツメヤシ、野菜、牧草地、アカシア、マツ、バナナなどが多い。さらにはバッタからの排泄物が食べ残した食物を腐らせる。

 西アフリカでの2003年10月から2005年5月のサバクトビバッタの大量発生は、農業に大打撃を与え、地域の食糧安全保障に大きな影響を与えた。始めはモーリタニア、マリ、ニジェール、スーダンでそれぞれ独立した小規模の群れが発生した。この後、セネガルのダカールからモロッコの付近で2日間の異常な大雨が降り、それが原因で6ヶ月にわたってサバクトビバッタは急速に増え続けた。群れは移動で拡散し、20ヶ国以上、130,000平方キロメートルが被害を受けた。国際連合食糧農業機関(FAO)の見積もりによると、この対策費は4億ドル以上、農被害は25億ドルに上った。この被害は2005年前半に降水量が減り、気温が下がることでようやく終結した。

【この時遭遇したバッタ】
 上記のウイキペディアの記事を読むと私が遭遇したサバクトビバッタは2003年から2005年にかけて西アフリカで発生したものとわかる。この群れは発生してからしぶとく数年間生息しこの周辺国に甚大な被害を及ぼしたのだ。

【現在も確認できる植林地】
 さて、肝心な植林地であるが、この植林地はその後、この地域にチタンやジルコンが埋蔵されているということで、セネガル政府はこの植林地を掘り返してそれらの鉱物を採掘したいとのことだった。周辺の砂丘にも植林を進める予定であったが、それでこのプロジェクトは中断となった。しかし、セネガル政府は、採掘は断念したようで、2020年の現在、グーグルアースでみると植林地は残っている。ただし、成長は良くないようであるが、何とか初期の目的の機能は果たしているようだ。

白い鉤型のものが植林用道路。
黒く丸っぽい樹冠が植林したモクマオウとユーカリ
同上。植林用道路が良くわかる。右の緑が畑地

【重い課題】
 サバクトビバッタの異常発生について記してきたが、これも環境破壊が関係していると思われ、現在、コロナ禍もあり、環境問題について少し記したい。
 上記のように環境改善をしょうと協力をしている森林(あるいは土地)を他の用途に使用したいから伐採してしまいたいという例は、ジンバブエでも経験した。森林は環境を守るかもしれないが、経済的価値は生まないものとして、目先の利益に目くらまされて、森林はより経済的価値が高い土地利用に転換されていくことにより減少していくのだ。環境は経済に勝てないとしたものであってはならないと思うがなかなか阻止できない。実際に環境の価値を正確に測れれば、他の用途に利用するよりもはるかに高い価値を有する場合は沢山あるのだ。しかし、理解されないのである。
 昨今の新型コロナウイルスの発生源は、中国奥地のコウモリなどと推測されているが、ウイルスが病気をもたらすエイズやサーズやマーズなどは、熱帯林の破壊など環境破壊が原因ではないかとも思われている。確かにここ50年の熱帯林の破壊はすざまじいものがある。短期間で莫大な量の森林を破壊したという意味で取り返しがつかないものがある。この巨大な破壊がウイルス病などと関連しているとすれば、現在のコロナ禍などはこの程度で済んでいるのはある意味幸運かもしれない。
 地球温暖化にしても自然の摂理で地球が暖かくなる以上に人間活動が二酸化炭素の排出などにより拍車をかけているからで、パリ協定などが守られ、環境を保全できれば地球温暖化も平準化するであろう。環境と経済の両立、正常な感覚を持っている人々にとっては昔からずっとわかっていることと思われるが、為政者が理解し、本当にバランスを取っていくことが、これからの人類に課せられた重い課題である。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.28_ボツワナ共和国

森林紀行

筆者紹介




ボツワナでゾウに脅かされた話

【ボツワナへ】
 ボツワナへ行ったのは、2003年の9月下旬から10月初旬にかけてのことだった。目的は、ボツワナの林業と森林状態を調べ、どのような協力ができるのかを調べることだった。それはそれとして今回の話はチョベ国立公園でゾウに脅かされた話だ。

アフリカ大陸の南部に位置するボツワナ共和国

 成田から香港で乗り換え、南アのヨハネスブルクに向かった。飛行機の隣席はイギリス人の若い女性で、私がいろいろ話かけても最初は静かだったが、話すうちにだんだんと打ち解けてきて、会話がはずみ、南アにいる恋人に休暇を利用して会いに行くのだと、当てられっぱなしだったが、良い思い出だ。隣席に誰が座るかわからないが、私は誰とでも良く話したものだった。 ヨハネスブルクの空港で、別の国から飛んできた同僚と落ち合い、ボツワナの首都ハバローネに向かった。ボツワナの仕事が終わった後はハバローネの空港で、その同僚は別な国の調査へと向かい、私はヨハネスブルクに戻り、そこで、また別な国から来た他の同僚と落ち合い、次に調査するザンビアに向かったのだった。

【私の状態】
 私の状態と言えば、ボツワナの東の国ジンバブエで肝炎を患い、回復してから約3年が経っていた。まだアルコールは全く飲めなかったが、普通に活発に活動できる状態だった。このころは世界中を股にかけて飛び回っていたような感じだったが、ジンバブエで肝炎を患う前の怖いものなしの状態から、健康と治安には相当に気を使うようになり、慎重に行動するようになっていた。

【首都ハバローネ (Gaborone)の森林局】
 首都のハバローネのスペルの最初にGが付くのが面白い。ツワナ語と言う現地語だそうだ。「悪くはないんじゃない」くらいの意味のようだ。 ボツワナの森林局を訪ねた。森林局の地図部門には、「CUSTOMERS WE DON’T GIVE INFORMATION IN MAP SALES BUT INSTEAD, WE SELL THE INFORMATION.」(お客さんへ 我々は地図を売って情報を与えているのではなくて、我々は情報を売っているのだ。)としゃれたことを書いてあった。つまり、地図は単なる図形ではなく、様々な情報を読み取れるのだよと言っているのだった。

農業省の下にある森林局
地図局の入り口の文言

【何となくクリーンな印象】
 私が調査したことがあるジンバブエ、ザンビア、モザンビークなどボツワナの周辺の国の森林局の上層部には相当に、うさんくささが漂っていたが、ボツワナではその匂いを感じなかった。アフリカ諸国は援助付けでもあるし、これは先進国にも問題があるのではあるが、構造的に汚職を生む土台がそろっているので、この問題を取っ払うのは難しいだろう。
 ボツワナはダイアモンドが産出され、国家財政が豊かであるということから道路などのインフラ整備も進んでいたし、そのために職員の給料も良くクリーンな感じを受けたのだろう。

【チョベ国立公園へ】
 森林局から二人の技術者についてもらい、森林と森林の管理状況を調べながら、南の首都ハバローネから北のチョベ国立公園まで、国を縦断するように往復した。ハバローネから車で1,000㎞以上もある。ついてくれた技術者の一人の名前はセックゴポさんと言った。

 ボツワナの地図、北部のZAMBIAと書いてあるあたりのボツワナ側にチョベ国立公園があり、国境は、ボツワナ側がカサネ、ザンビア側がカズングラという町である 。

【途中のNataで一泊】
 チョベ国立公園は、何万頭ものゾウがおり、世界最多のゾウが集まっているという。一日ではチョベ国立公園にはつけないので、途中のナタという町で一泊した。ナタには良いロッジがあった。

ハバローネを出発。道路は整っている
途中の街路樹の花と実
しゃれたロッジの室内
ナタ周辺にはダチョウも沢山いる
ナタの国有林の営林署
営林署の火の見やぐら
火の見やぐらから。乾季で葉が落ちている。
樹種などはジンバブエで調査した森林とほとんどかわらない。
ナタの営林署の近くにもゾウがいる

【ナタの営林署】
 ナタ営林署を訪ねるが、周辺にはダチョウやゾウも見られ、林相はジンバブエの森林とほとんど同じだ。このあたりはミオンボ林と呼ばれ、モパネやムクワという樹種などが目立つ。しかし、乾季でみな葉を落としているので、ゾウは剥いだ幹の皮も食べている。
 営林署には火の見やぐらがある。乾季は山火事が多いのである。もちろん登ってみるが、たかが20mくらいであるが、上の段に着くまでの階段では上に上がるにつれ足が震える。多かれ少なかれ高所恐怖症だ。慣れれば大丈夫だろう。 林内は砂地で近くのカラハリ砂漠から飛んできた砂が何万年もの間に積もったものだ。養分が少ないせいもあろう。上層の樹高は15mくらいだ。

【チョベ国立公園】
 翌日、カサネの町に着き、営林署に挨拶した後に、早速チョベ国立公園のゾウを観察に行く。遠方に沢山のゾウをみることができる。大型動物を見るだけでワクワクするというのは誰しも持つ感情であろう。双眼鏡で見ているだけでも飽きずにずっとみていたい。公園内にいくつか走っている道路を進んで行くが、車の前をキリンが横切ったりする。ライオンもいるはずだが、ライオンを見ることはできなかった。

遠方に見えた沢山のゾウ
キリンが車の前を走っていく

【ゾウがねぐらに帰る】
 夕方になると水辺にいた全部のゾウが一斉に移動を始めた。何百、何千ものゾウが10頭ずつぐらいのグループになり、グループ毎に移動していく。グループはファミリー単位だろう。それぞれのねぐらへ戻っていくのだろう。
 ゾウのグループのリーダーはメスだとのことだ。そうすると体高が2m強くらいの体が2番目くらいに大きく、先頭でグループを引っ張っているゾウがリーダーなのだろう。グループの最後にいる大きくキバ(象牙)が長いゾウはオスだと思われる。ただし、ここのゾウは他の地区のゾウに比べてキバが短いとのことだ。それはここの土地が砂地で養分が少ないことが関係しているとのことだ。

【車がスタック】
 運が悪いことに、ゾウが移動している通り道の近くで車がスタック(タイヤが空回りして前にも後ろにも動かせない)状態になってしまった。砂地だからだ。エンジンをふかすたびに砂地にめりこんでいく。ゾウの通り道のすぐそばだ。30mくらいしか離れていない。 次から次へとグループが通り過ぎていく。観察するにはもってこいだ。先頭のゾウの後にはそれより小さなゾウや子供のゾウがいて、最後に一番大きなゾウがファミリーを守るようにやってくる。体高が3m以上もあるような巨大なゾウだ。これはオスに違いない。ゾウの移動速度は結構早い。大きいから遅く見えるが、人間が歩くよりはかなり早く、時速10km近く出ているのではないかと思われる。

【巨大なゾウに脅かされ車から逃げる】
 スタックしてしまった車はなかなか砂地から出られない。大きなエンジン音を吹かしたら、あるグループの癇に障ったか、グループを守るように最後にいた巨大なゾウがこちらへ前足を上げたかとおもうといきなり走りながら近づいてきた。
 これはやばいと運転手含めて5人乗っていた全員が「Get away(逃げろ)」とドアを開けて飛び降りるやいなやゾウと反対方向に50mほど猛ダッシュで逃げた。私は昔、陸上部にいたおかげで、このような時の逃げ足はいつも一番早い。昔の間隔を足が覚えていて反応する。しかし、筋肉が衰えているので、全力で走ってしまうと怪我をする恐れがある。そうは言っても全力で走らなければならない。砂地なので、我々が逃げてもせいぜい時速25kmくらいだっただろう。ゾウは本気になれば時速40km以上で走れるということだから、あの巨体で人間より早いのだ。ゾウが本気なら逃げても無駄と言うことになる。

【運よく助かる】
 しかし、人慣れしているせいもあろう、運よく、巨ゾウは車の2~3m手前で止まり、大きな声を発して、くるりと翻り、グループに戻り、また、一番最後からグループを守るように帰っていった。 危うく車を踏みつぶされるところだった。誰かが車の中に残っていたら確実に踏みつぶされただろう。一瞬のことだったが、全員逃げて助かった。それから皆で車を押し、ようやく砂地から脱することができた。

足が見えているのがグループの先頭の2番目に大きなゾウ。
次に子供や中くらいのゾウが続く
最後に一番巨大なゾウがグループを守っている
去っていくグループ

【カサネの苗畑】
 カサネには営林署の苗畑もあり、何種類もの苗木を生産していた。ここで働いていたおばさん達は体も大きく、力もありそうだったが、とても陽気だった。

カサネの苗畑
苗畑から見えるチョベ川

【カズングラのフェリー】
 カサネはボツワナ側の町で対岸のカズングラはザンビアの町である。川はここで、北側のザンベジ川と西側のチョベ川が合流する。ビクトリアの滝のあるリビングストンの町より約70km上流にある。ジンバブエで仕事をしていた時には、ジンバブエ側からリビングストンまで、ビクトリアの滝を見に来たことがある。
 カサネの町からカズングラの町までの川幅は広く、700m以上はありそうに見えた。このザンベジ川をわたるフェリーが運航していた。このフェリーは、ここでは最も大きな水上交通手段である。
 この後、この場所に、日本の協力で橋が建設されているそうで、長さは約930mとのことである。計画よりも若干遅れているようだが、今年(2020)あたりに完成するもようである。

「ガズングラのフェリーを清潔に保て」という看板
カズングラのフェリー

【その後】
 私がボツワナを訪れたのは2003年だったが、その後、約10年経って、ボツワナでの森林調査の協力が始まった。その時、私は既に、この時の勤め先は退職していたが、この時一緒についてくれた技術者のセックゴポさんが、日本に研修に来た。そして私に会いたいと前の勤め先に私を呼んでくれた。前の勤め先で会ったのが2013年12月5日だったからちょうど10年経って会ったのだった。お互いにこの時のことを鮮明に覚えていて、あの時は命拾いをしたなあと抱き合って旧交を温めたのであった。


今年もやって来ました

ゼンシンの日々

今年も我が家にこの時期恒例のお客さんがやってきました。

ここ数年、この時期になるとツバメが玄関に巣作りをして、飛び立っていきます。

写真だとわからないですが、現在、6羽の雛が日々成長しており、近いうちに巣立っていきそうです。

おかげで玄関の周りは大変な状況で、毎年、自分で後始末をしてから巣立っていってくれと愚痴ってますが、それも無理な話なので、あと少しの辛抱だと思って我慢してます。

T.M

6月の駒ケ岳

社窓
2020年6月の駒ケ岳
6月の駒ケ岳

緊急事態宣言が解除され、
少しではありますが、
これまでの日常に戻る気配が感じられるようになりました。

とはいうものの、
コロナウイルスが無くなった訳はないので、
引き続き対策を講じながら、注意深く過ごす必要があると感じます。

さて、
STAY HOMEのうちに春は過ぎ、夏の気配が感じられるようになりました。
これから気温も上がり、熱中症などへの対策も必要となってきます。

兎にも角にも、体調の変化には十分注意してお過ごしください。

6月の南アルプス

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.27_メキシコ

森林紀行

筆者紹介




ブエナビスタ村の山火事の後-メキシコ(シエラファレス山脈の村)

【山火事後にメキシコに派遣される】
 山火事の後、プロジェクトでは、ブエナビスタ村の復興のための森林管理計画を作成したのであるが、予定の期間がきたため1999年の初めにプロジェクトは終了した。その後、その計画を住民のみで実行していくのは、やはり難しかった。そのため、計画の実行を継続して支援する技術者が派遣され、村に森林委員会を設立させ、侵食防止柵を作ったり、植林をしたりしたが、その技術者も派遣期間が終わったので帰国した。その後も継続して技術者の指導が求められたので、どのような方向で指導するかを定めるために2001年3月から4月にかけて私が派遣された。その時のブエナビスタ村の山火事後の状況は次のようだった。

山火事後に再生しつつあるマツ林

【ブエナビスタ村の水道の状況】
 村の状況を調べると、壊された水道設備は既に復旧されていた。水道は、山火事の後に起きた大きな土壌侵食により、取水口、そこから村まで水を引くパイプラインが破壊されたのだった。その復旧の資材を村の資金で賄うことは難しかったので、我々は日本大使館に、草の根無償という返済しなくても良い、資金援助を頼んだところ、それが認められて、日本大使館が資材費などの支援をしてくれた。これが大いに役立ち、水道を復旧することができた。
 実際に働いたのは村人がテキオ(村のための無償労働)で再建したもので、村のタンクには感謝の碑が張り付けられていた。再建された主なものは、取水口のタンク、約5kmにも及ぶパイプライン、それに村での貯水タンクだった。

沢に設置された村の水道の取水口
新たに引いたパイプライン。5km
村の中の貯水タンク。ここから各家庭に配水

 山火事直後の調査時には、水源はもっと奥の水が豊富な沢からとるように計画していたが、労働が大変だったためだろう、村からより近い沢に取水タンクを設置してしまった。そこで、その沢の上流は水源保全林として伐採しないで、マツとカシの大きな混交林になるように育てるように計画を変更し、そのような森林の取り扱い方法を村人とともの現地を回り説明した。

森林の取り扱い方法を説明する
説明に使った図など

【村人から感謝される】
 村人からは、日本大使館から資材の援助を受けたことを私に盛んに感謝してくれた。実際にこの草の根無償のアイデアを出したのは社会経済関係を担当している女性団員だったし、その団員や大使館の方が感謝されるべきだったが、私に感謝してくれ、私は役得だった。

【村での計画の実行状況】
 山火事の後に派遣された技術者の指導のもと、村人は被害を受けた森林を早急に元に戻すため、様々なことを実行していた。まずは、土壌侵食防止として、約10haのマツの火災跡地に、焼けた木を横に並べ侵食防止策を行っていた。これは侵食防止にとても役立った。 次に森林の回復であるが、天然更新(マツの種子が地面に落ち、自然に発芽させる)と人工更新(植林)対策を行っていた。天然更新の補助作業として、落ちた種子が発芽しやすいように、マツ林の林床を下刈(草刈り)していた。分散し多くの場所で行っていたが全体としては約1haだった。天然更新状況を調べてみると、どの箇所も非常に良好だった。マツの発芽には、光を求めるので、山火事などで焼けた跡地には光が入り、また種子が大量にマツカサ(球果)から落ちるので天然更新し易いということもあるが、本当に良く発芽していた。

発芽後やや成長した稚樹
大量に天然更新し、成長しつつある次世代の木

 植林は、マツの苗木35,000本を約30ha(3m×3m)に植林していた。実際のところマツの天然更新は、非常に良く、あえて労力をかけて植林しなくとも元のマツ林に戻ることはあきらかであったが、植林を奨励した。それは、植えるという行為は森林を育てることに意欲を保つために良い効果があるからだった。

マツの球果。これから種子を採取する
村の苗畑

【森林の伐採】
 そして、我々が作成した森林管理計画をもとに、メキシコの技術者が具体的に伐採箇所を指定し、25,500㎥を伐採した。伐採は、最初、村の住民自らが行っていたが、その後、会社に一括請負し、その会社に材を販売し、村の収入としていた。山火事跡地の材なので、品質が悪く、買いたたかれていたが、他に買ってくれる会社もなく、やむを得なかったのである。それでも村の大きな臨時収入となり、いわば村は焼け太ったのだった。

伐採したマツ

【伐採収入の用途】
 思わぬ資金を村では手にしたので、バスを購入した。36人が座れる大型バスである。このバスで、州都のオアハカまで週に2階往復することにした。片道50ペソとのことで、円換算すると約500円だった。このバスにより、買い物、病院への診療、親類への訪問等、村の発展に大いに役立つこととなった。今まではなかなか町には出られなかったが、予定を立てて州都オアハカへ出かけられるようになり、このため特に女性達が森林の重要さを認識したのだった。 この他、木材運搬用の12トントラック、それに住民が利用する1トントラックなども購入した。伐採収入は、車の燃料や住居の水道整備などにも使われていた。

村で購入したバス

【村の発展を願う】
 村の最大の資源である、森林が燃えてしまうという未曽有の山火事に会い、村は一大危機に遭遇したが、焼け残った豊富なマツを売ることにより、村にはかえって臨時収入が入った。外部からの支援としては日本大使館の支援があったが、いわば自前の貯金の切り崩しだった。災い転じて福をなす、まさに焼け太り状態だった。おかげで村のバスやトラックなども買うことができた。これらの村の政策実行は村人自身が考えたことで、これもかなりの頻度で行われる住民総会、つまり直接民主制が効果を発揮しているからだった。自分達でいろいろと考えて行動してきた結果である。
 水道の再建で住民生活に快適さが戻った。バスのオアハカまでの定期運行で便利になった。そのためか新築の家も増えた。なによりも、住民が明るさと活気を以前にも増して取り戻したのが素晴らしかった。
 ただし、日本大使館が水道再建に援助したため、日本に頼めば何でもしてくれるといった雰囲気も漂っていて、私もその後の援助を頼むと盛んに言われたものである。
 思わぬ森林火災により、伐採収入が入り、住民は森林の重要さを再認識した。この意識を持続することが重要であるが、村役員がしっかりしているので、これを持続することは困難ではないと思われた。 私がこの協力に参加した後、既に20年近くも経過しており、村は各段に発展しているのではないかと想像される。今はどのような状態にあるかできればいつか訪問してみたいものである。



つづく

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