平成28年度長野県優良技術者表彰

お知らせ

このたび、平成28年度長野県優良技術者表彰において、弊社より2名が表彰を受けました。

関係者の皆様方には、この場をお借りして御礼申し上げます。

今後とも、さらなる技術の向上に努めてまいります。


 

受賞者 清水 郁

業務名 平成27年度 高遠ダム堆砂測量業務

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受賞者 代田 竜介

業務名 平成26年度 社会資本整備総合交付金(広域連合)事業に伴う物件調査業務委託

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【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.2

森林紀行

最初の会議

第1回目の調査

日本を出発

 1983年10月7日(金)に最初のカピバリ地区の調査のため日本を出発した。パラグアイまでは、すでに北東部の調査で何回か通った道である。

 メンバーは、6名、団長は当時学会でも有名な方だった。四谷から京成上野に行き、2時のスカイライナーで成田へ向かった。この時、何故か成田空港での警戒が厳しく、多数の機動隊員が立ち並び、パスポート検査が入念だった。

 書類や森林調査道具、それに個人の荷物を先に成田空港に送ってあり、全員で10数個もあり、かなりの個数であった。午後4時に荷物を受け取り、午後5時に手続きを済ませ、税関を通る。出発まで、今はなくなったバリグ航空の待合室で過ごし、午後6時半のRG833にてロスアンゼルスに向けて飛び立った。

 機内にはこれから始めてパラグアイに向かう青年海外協力隊の隊員も数名乗っており、話をするとこれから海外での仕事に臨む意気込みや気負いといった若々しさを感じた。ロスアンゼルスまでに食事が2回。到着したロスアンゼルスでは時差で眠い。アメリカではトランジットでも入国しなければならない。荷物が多いのでその出し入れに、いつも一苦労させられた。入国数時間の後、ロスアンゼルスからペルーのリマに向かった。ロスアンゼルスからリマの間にも2回の食事がでた。

 

アスンシオンへ

 リマに到着したのは夜中であった。リマの空港で数時間の待機の後、リオデジャネイロに向けて飛び立った。リオデジャネイロには翌日10月8日(土)の午前7時半に到着した。飛行機は1時間半遅れた。やれやれパラグアイに近いところまでようやく着いたかと思ったが、ここからが大変だった。通常リオデジャネイロからアスンシオンまでは約3時間であるが、この時は10時間以上もかかった。

 乗り継ぎ便はRG900でリオデジャネイロ11時発であったので3時間以上の待ち時間があった。多少遅れたが乗り継ぎ便との間に余裕を持たせておいて良かった。安心していられる。待ち時間の間に朝食のサービスがあり、朝食券をくれた。空港の上階のレストランに行き、朝食を食べた。リオデジャネイロの空港はきれいで、出発便の案内がポルトガル語ではあるが、女性の声でとてもゆっくりと丁寧に言っているように聞こえた。

 11時に予定の便のRG900に乗り込んだが、機体のテクニカルプロブレムということで、一旦降りるようにとのアナウンスがあった。飛行機の整備は大丈夫なのかなと心配になる。そしてもう一度食事券をくれたので、その間にまた食事をする。バリグ航空の脂っこい食事を連続6回と食べ、さすがに食べ飽きた。

 約8時間と大分長く待たされたが、午後3時過ぎにようやく出発することができ、サンパウロ、イグアスに降りた後に、アスンシオンには午後6時に着いた。やれやれであった。日本から約40時間、機内で仮眠を取っただけだった。

 

イグアスの滝を訪れたときの写真。.jpg

イグアスの滝を訪れたときの写真。

 

 予定より相当遅れて夕方になったが、アスンシオンに到着し、空港では関係者と森林局の長官とその息子さんまでが出迎えてくれた。

 空港から市内までは車で約30分。ホテルはパラナホテルであった。円高とグアラニー安で我々もプラサホテルから少し格上のパラナホテルに泊まれるようになった。特に高級なホテルというわけではないが、清潔で一人でいるには十分な広さがあり、日本のビジネスホテルとは比べものにならないくらい居心地は良かった。

 今回の通訳を頼んでいる方もホテルで待っていてくれた。眠いのを我慢して早速仕事の打合せである。

 その晩は、内山田へ食事に行った。内山田は日系人の経営しているホテル兼レストランで、すきやきが専門だ。機内で一緒だった協力隊員も来ており、ここで、全く時間が経っていないのに再開を喜んだ。

 

 

最初の会議

パラグアイ側の大きな希望

 到着翌日1983年10月9日は日曜日であったが、午前中パラナホテルの会議室を借りて、最初の会議を開いた。パラグアイ側の森林局から長官始め数人の担当官が出席した。

 誰でも希望は大きく持つ。特に南米人は大風呂敷を広げたがるからであろうか。長官は、大きな構想を語った。今回の造林予定地の土地2万7千haが森林局の土地となる予定で、そこに植林をしたい。パラグアイ側の希望としては、マツ類を約1万ha、郷土樹種を約3千ha、残りは天然林として保護したいということだった。

 パラグアイでは林産物は畜産物に次いで重要な外貨獲得の収入源となっていた。当時パラグアイの人口は約300万人(現在は倍の約620万人:2010)、牛は人口以上に多いと言われていた。広大な森林が牧場に転換されていった最盛期である。

 林産物は、もちろん天然林からの抜き伐りだけで、持続的生産など考えないで、あるだけ伐って儲けてしまおうという無計画なものであったから森林資源は急速に減少・劣化しているのであった。

 

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造林予定地ガピバリの森林。当時既に良木は伐採され、

その後残った劣化した森林。道路沿いは農民の入植が見られた

 

 植林に関しては、それまで個人か民間会社で数haから数10ha程度の植林を行ったことがある程度で、国営の大規模植林などなかったのにもかかわらず、国直営での大規模造林を望んだ。また、植林木を使って、パルプ工場などを設立し紙を輸出し、林産業を振興させ、技術普及に役立てたいなどとバラ色の構想を語った。

 本当にそのようになれば良かったが、やはり土地の管理ができなかったということから、そうは問屋が卸さなかったのだ。

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.1

森林紀行

土地問題の難しさ

 

 森の中での調査を始めて約3週間が過ぎようとしていた1983年11月3日(木)のことだった。どこからともなく現れたここカピバリの農民達に囲まれた。

 

 「お前ら何をしているのだ。ここは俺達の土地だ。黙って入って来て何をしているのだ。早く出て行け。」

「おい、カブラル。やばいな。彼ら険悪な雰囲気だぞ。ここはお前の出番だ。うまく説得してくれ。」と私がパラグアイ森林局の共同作業者のカブラルに言うと、

「まあまあ、皆さん、落ち着いて。我々は森林局の技術者です。」とカブラルは農民達を説得し始めた。

「森林局の者がここに何しに来た。」

「ここは国有地になる予定の土地で、ここで植林をすることになっています。そのため国有地の確定のための測量をしています。」

「でたらめを言うんじゃあない。ここは俺達の土地だ。かってに入るな。もう俺達は住み着いているんだ。」

 

「カブラル、待て、待て。彼らに直接説明しても分からないぞ。今は刺激することは避けて、遠まわしに説明しろ。」と私が言うとカブラルは、

「まあまあ、皆さん、落ち着いて。落ち着いて。ここは国有地ですよ、国有地。皆さんの土地ではありません。」と相変わらず直接的に説明する。

「そんなことはねえだろう。ここには所有者はいねって聞いたんだ。」

「いいえ、ここは昔製材会社の土地でしたが、今は、銀行の土地となったのです。その後政府の土地になる予定で、ここに植林する予定です。」

 

「待て、待て、カブラル。彼らに土地の状況を正確に説明したって、理解されないぞ。ほら、彼らは益々怒っているぞ。」と再度私が言うと農民は

「いいか。お前ら。そんな小難しいことは、俺たちゃあ、知ったことはねえ。何しろ俺たちゃあ全財産売っぱらって、遠くから一家そろって移り住んできたんだ。それに見ろ。畑には植えたんだよ。マンディオカを(サツマイモのような根茎があり食用にする)。森を開墾して畑にしたんだよ。耕し始めたんだよ。ここは俺達の土地だ。今さら出て行くところはねえ。」

 

 我々を取り囲んだのは、この周辺に移り住んできた農民10数名である。彼らの数人はライフルを持っている。その他はマチェーテ(南米の蛮刀の様なナタ)を持っている。雰囲気からすると、どちらかといえば人の良いおじさん達が、単に我々を脅して追い返そうとしているだけで、発砲などはしそうもなかった。

 

南米の地図.jpg

南米の地図

 

 我々は日本人の調査団員数名に共同作業者のパラグアイの森林局の技術者数名、それに作業員などと人数は彼らと同じくらいだった。しばらく、彼らが暴力を働かないように、なだめるようにおとなしく話し込んでいたが、らちが明かなかった。

 

 この時に農民達をなだめたのは、我々日本側調査団の責任者だったSさんだった。南米は初めてであったが、東南アジアでの仕事のキャリアが長く、現場の住民相手に鍛えた手八丁口八丁で一旦は農民達の矛を納めさせた。

 

 結局、我々は当面皆さんの生活に迷惑はかけないように測量などの仕事を進める。ただ、森林局の幹部が、皆さんに説明するためここへ来て話すことになるだろう。また、周辺に軍隊の土地となるところもあるので、それらが今後どう関わってくるかはわからない。とそこでの結着は先延ばしにし、調査を進めることで、その場での住民達の了解を得た。

 

 ここは、パラグアイのサン・ペドロ県のカピバリ(Capibary、先住民の言語グアラニー語ではカピバルゥーと発音するが、ここでは日本語表記に従いカピバリと書く)という地区で、我々は造林計画を作成するための調査を始めたのである。しかし、土地所有のあいまいさにより、最終的に我々は、当初の予定の土地の半分以上もの多くを手放さざるを得なくなったのだ。

 なかなか厄介な仕事ではあったが、そのような経緯も含めて、前回のパラグアイの北東部の紀行文につづき、今回はカピパリでの造林計画調査について記したい。

 

パラグアイの地図.jpg

パラグアイの地図

 

 

 

11月の駒ケ岳

社窓


11月の駒ケ岳

初冠雪も観測されて、いよいよ秋から冬へと移ってきました。

みなさんは、防寒着、暖房器具、スタッドレスタイヤなど、冬への準備はできましたか。

 

世の中は、10月31日までは「ハロウィン」で飾られていたものが、

11月1日になったとたんにクリスマス仕様に変わっていました。

変わり身の早さに驚くとともに、「もうクリスマスかー」と思う今日この頃です。

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.18

森林紀行

パラグアイ北東部の調査のまとめ

超大規模森林破壊

 パラグアイ北東部で起こった、この信じられないくらい大規模な森林破壊は何だったのだろうか?ブラジルではもっと巨大な面積の森林破壊が起こり、それがパラグアイに波及し、パラグアイの森林も破壊されてしまったのだが、これを現実のものとして信じられる人がどれほどいるだろうか?この森林破壊面積はブラジルでは日本の国土面積の何倍もあり、パラグアイでも北海道や九州に匹敵するくらいの面積があった。この影響が化石燃料の使用とともに地球温暖化に影響を与えていることは間違いないと考えるのが普通の考えであろう。

 例えば、日本で生態系を区切って考えてみると小規模なものでは、家の近くの池の周り、あるいは神社など、もう少し大きくなると森林に囲まれた公園、近くの山林、さらに大きくなって国定公園や国立公園規模の様々な生態系が考えられる。せいぜい1ha程度のものから数万ha程度のものではあるが、たとえ小規模なものでも破壊されれば日本では大問題となるが、パラグアイではこれらとは比較にならないほど大規模な面積を持ち、そしてその連続性からみて一つの生態系と考えてもよいような森林が、さほど大きな問題ともならずに、破壊されてしまったのである。

  ここに住んでいたありとあらゆる生き物が絶滅させられるという方向で影響を受けただろう。もちろんここに住んでいた先住民も影響を受けた。

 

元々の森林(再掲).jpg

元々の森林(再掲)

 

有用樹が伐採された後、.jpg

有用樹が伐採された後、牧場や農地に転換するため焼かれた森林(再掲)

 

森林から牧場に転換された土地.jpg

森林から牧場に転換された土地

 

 それが地球温暖化、それによる台風の大型化増加、竜巻の増加、局地的豪雨という形で、全人類へしっぺ返しが起きているのだろうと推測されるが、もっと恐ろしいしっぺ返しが起きるのではないだろうか。経済至上主義がある限り、自然を守るのは難しいのだろうか。

  あるいは近く発効されるパリ協定(2016.11)などが効力を発揮して温暖化防止を良い方向へ戻せるのか。日本では、1997年に京都議定書が採択され、日本は第一約束期間の2008年から2012年に1990年比6%削減を実現させたと言われているのに、第2約束期間の2013年?2020年には京都議定書に参加せず、パリ協定も日本は、未だに(2016.10時点)未締結のまま発効される状態にある。日本は何をしているのだろうとビックリするくらい二酸化炭素排出問題からは後退している。

 さて、我々が最終的に作成した森林管理のガイドラインには、土地利用区分、森林施業区分、適正な伐採量、植林方法など多様で非常に基本的な森林管理方法を具体的に示したが、残念ながら、それが水の泡に帰してしまったとも言える。しかし、考え方はパラグアイ政府側には残ったわけだから、今でもこの考え方は十分に通じると思うので、どこかで応用してもらえないかと思うのが、まだ私が持っているかすかな望みである。

 

森林破壊の原因を考える

 このような森林破壊が起こった原因としては次のようなことが考えられる。

1.ブラジル側で木材需要が高まった

2.森林の所有が私有であった

3.ブラジルの製材業者などが木材を求めてパラグアイの森林を購入していた

4.ブラジル系の資本を持つ者が、土地所有、牧場経営を目的としてパラグアイの土地を購入していた

5.パラグアイでは外国人の土地売買も自由であった

6.パラグアイ政府として森林を保全するという意識が低く、対策を取るのが遅すぎた

7.政治体制も独裁で、軍や役所の力が強く、腐敗も激しかった

8.土地が平らなため伐採搬出が容易だった

 

 つまりは、経済的な利益追求の前には自然資源は犠牲になるということである。木材需要が高まるまでは、森林にはアクセスが不可能で、関心がなかったのであろう。それが徐々に材質の良い樹木ならば高価に販売できることがわかり、アクセス道路を作り、木材伐採・搬出が盛んになったのである。土地も平坦であるので、きちんとした道路を造らなくとも伐採しながらトラックで森林に入り込むことが可能であった。そして有用樹を伐った後は、森林としてそのまま置いて置くよりは、牧場として食肉を生産した方が儲かるとわかったので、次はかなりの有用樹が残っていても燃やして牧場へ転換していったのである。

 

このような大木を.jpgこのような大木を積んだトラックが引っ切り無しに国道を走っていた。

 

土調査所有の歴史

 パラグアイの土地所有の歴史をみると、スペインの植民地時代には中小農牧所有者層が多く、大土地所有制は未発達だったので、未開の森林は国有だった。その後1870年にパラグアイが三国(ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの同盟軍)戦争に敗れると、戦争賠償金が要求され、それを工面するため国有林や国有地がブラジル、アルゼンチン、イギリス等の企業に売却された。この時点まではパラグアイの土地は、98%が国有だったとのことである。

  その後1950年代以降、地域の安全保障の観点からパラグアイへのブラジル人の入植が促進され、1970年代の後半にピークに達したとのことである。我々が調査を開始したころは多くのブラジルの企業が森林を購入しており、多数の零細農民が入植していた時期である。この当時パラグアイのIBR(土地改革院)はパラグアイ人のみでなく、ブラジル人にも公用地を農地として分譲していたのである。

 

調査地域の土地所有

 調査地域の当時の国有林は、自然保護区に設定されていたセロコラ国立公園の5,300haのみであった。また、先住民インディオの保護地区が、アマンバイ県に26カ所32,000haあった。その他の土地は全て私有地であった。

  元々この地域の広大な森林の所有者は二人しかいないと言われていたので、三国戦争後、国有地を購入したのがその二人だったのであろう。その後分割が進み多くの所有者に販売されたのである。しかし、その記録は2004年まで公表されなかったとのことである。それはストロエスネル大統領だったときの独裁体制の影響からである。その後IBRは、2003年にINDERT(農村土地開発院)に変更され民主化された。それにより1950年以降の土地売買の履歴の情報は公開されたとのことから、これらは今後解明されると思われる。

 

影響

 もちろん貴重な森林が消失し、学術的価値も高かったペローバの純林も失われたということは大きな損失である。牧場で裸地となった土地の疲弊も大きかったし、そこに住む住民も大きな被害を蒙った。

 

零細農民の哀れ

 前に書いたが零細農民は富裕層が所有している森林に、所有者がいないとのうわさが流れると我先に入植するのである。そして彼らが森林に火をつけ焼き、また焼いた木を切り倒し、農業ができる耕地に転換する。そして一時期を過ぎると地主が現れ、貧しい農民は脅かされ、追い出されるのであう。そして富裕者はただで森林から耕地に転換でき、貧しい人達はいつまでも貧しいのである。

 

保護地に追い込まれる先住民

 パラグアイには先住民のグァラニー族が多い。最近のDNA鑑定によれば、遺伝的には日本人には中国人や韓国人よりも近いとのことだ。そうした意味で私はグララニー族に親しみを持つが、彼らも森林内に自由に住めず、保護地にしか住めなくなっていった。

 

森に住んでいた先住民(再掲).jpg

森に住んでいた先住民(再掲)

 

 

当時書いた危機的な状況

 1980年代初頭、調査中に書いていた文書により、その危機的状況が良く分かるのでここに載せる。

 「パラグアイ国のアマンバイ県を中心とする北東部の森林資源は計量的に把握されておらず、確たる方針のないまま伐採が行われている。かつて、森林は、木材利用のための道路がなく開発がなされず、むしろ農耕地開発の障害とみなされる場合が多かった。しかし、1970年代より近隣諸国の木材需要の高まりから急速に森林開発が進み、森林に関する計画も確立されないまま乱伐や農牧地への転用が激しく行われだした。資源実態が不明のまま無計画な森林の伐採や農耕地開発が行われるならば、国の長期展望における森林資源維持の危機を招くのみならず、土壌保全及び地域の自然環境保全等にも悪影響を及ぼすことは必至である。

 さて、この北東部の森林資源の特徴はペローバの蓄積がすぐれて高いことである。森林の伐採はこのペローバを主体として行われており、それは、きわめて急速かつ広範な地域にわたっている。これは、特にブラジルにおいてペローバが市場価値を確立し、需要が急速に高まったためである。伐採のテンポについて、パラグアイ林野庁は、1980年代になってからの伐採は、鈍ってきており、1970年代のような急激な伐採は緩和していると見ている。

 しかし、北東部に限っていえば、伐採のテンポが緩和したというより、むしろ伐採現場がより広範化し、より奥地へ進展していると見るべきであろう。それはブラジル側に通じる最大の流通基地であるペドロ・ファン・カバジェーロ市へ通じる国道5号線における木材搬出トラックの通行量の減少に基づいているようであるが、ペドロ・ファン・カバジェーロ市の製材工場群も、周辺森林の伐採が進んだため約70km南部の町カピタン・バードへ移りつつあり、製材所所有者でもペドロ・ファン・カバジェーロ市の周辺ではもう数年で利用木が、枯渇すると見ているものが多い。いずれにせよ、このままでは、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進む危険がある。

  また、こうした急速な伐採をもたらした理由のひとつに、セロ・コラ国立自然公園を除いて、すべてが私有地であることがあげられる。パラグアイ国ではブラジル国に比べて地価が低く、また外国人による土地所有売買等が自由であり、更に、この地域はブラジルと国境を接していることもあって、ブラジル国籍を有する者のほか、ブラジル系の資本を背景とする者が、土地所有、牧場経営を目的として激しく侵入している。それらの当面の意向は、伐採による収益と、牧場への土地利用の変換であって、森林の経営、木材の持続的生産には、まったく意を払っていないのが実情である。」

  ここで書いたように、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進んでしまったのである。

 

 

終わりに

 30数年も経ち、なぜパラグアイの森林破壊について書いたかと言うと、この森林破壊があまりにも理不尽で、この経験を思うと今になっても怒りがこみ上げてきて、伐採されたペローバの痛みを感じるからである。この地域は亜熱帯地域であるが、冬の気温はマイナスになることもあり、ペローバには年輪があり、それより成長量調査も行った。それによると胸高直径1mに達するには254年かかり、2mにも達する巨大木もあったので、スペイン人が南米に来る前から存在したペローバも多々あったと思われる。それがチェーンソーによりたかだか数時間で伐採されていたのである。

 この森林を守るにはパラグアイ政府が、たとえ私有林であっても保安林として伐採規制をかけなければならなかったのだろう。しかし、当時は、森林を守るよりも伐採させて伐採税を取り立てる方向にあったのだ。

 今では、森林を伐採する場合にはその一部を保全しなければならないと森林法では規定しているとのことだが、もう森林はほとんどないのだから、この条項が役立つことは少ないだろう。だからこれを逆にし、牧場へ転換してしまった土地の一部は造林し森林に復元しなければならないといった条項を加えるべきと思う。

 感情的ではあるが、パラグアイのペローバにも魂が宿っていたのではないかと思う。巨木を見ると感動の思いを禁ずることができない。伐採された時の痛みはどれほどのものだっただろう。「草木国土悉皆成仏」といった自然崇拝の思想が人類を救うと哲学者の梅原猛氏も書かれている。

 自然を敬う気持ちだけで森林破壊が阻止できるとは思わないが、少なくともそのような心がなければ森林は守れないだろうし、ひいては人類を救うことができないだろう。少しでも森林に戻す働きかけをし、自然を敬う心を育むことが必要である。

 

  パラグアイの森林調査時の紀行文はこれで終わりとし、次は、同じパラグアイで行った造林計画作成のための調査について書きたい。

10月の駒ケ岳

社窓


10月の駒ケ岳

9月の下旬、台風や秋雨前線の影響で雨模様の天気が続いているうちに、

山はすっかり秋の色に染まっていいました。

毎年恒例、信州のお約束 「今年のキノコはどうかなあ」 の時期です。

昨年は大豊作でしたが、今年は如何に。

また、おいしい季節がやってきました。

 

[南アルプス]
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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.17

森林紀行

サッカーを楽しむ

 パラグアイのスポーツと言えばサッカーである。サッカーばかりで他のスポーツはないといっても良いくらいなところである。2010年南アフリカで行われたワールドカップでは、日本、パラグアイとも予選を突破し、次のトーナメントで最初に対戦したが、日本がPK戦で敗れたのはまだ記憶に新しいところではないだろうか。私はこの時は、セネガルの森林局で、このPK戦をみていて残念な思いであった。

 

 ところで、パラグアイ人は皆サッカーが上手である。これは子供の内からサッカーばかりやっているからで、一緒に仕事をしている森林局の職員も皆上手なことは前に書いたとおりである。アスンシオンで小学校の横を通りかかった時に見た光景では、休み時間に生徒達が新聞紙をまるめてボールに見立て、廊下でサッカーをしているのであった。当時、皆貧しかったのだろうが、ボールがなくてもどこでもサッカーはできるのである。

 

 セロコラ国立公園で、キャンプをしているある日、セロコラの軍の駐屯地の軍人チームが試合を申し込んできたのでパラグアイ森林局チームとで試合をした。ここにはサッカー専用の運動場もあったのだ。

 

 森林局チームでは日本人は、私を含めて数人参加し、大部分は、森林局の職員だ。私は、このころ日本にいるときは、ランニングをしていたので、長く走るのは得意だったが、短距離を早く走るのは今一つで、走り回っているだけで、なかなかボールには触れることはできなかった。

 

 今まで、キャンプの狭い道路でサッカーを楽しんでいたが、大きなグラウンドにでるとわけが違う。狭いところでやっていた時は、体力よりもテクニックのあるものの方が上で、ウエスペやカブラルの方がオルテガよりテクニックは上ではないかと思っていたが、大きなグランドにでると、まるっきり逆であった。

 

 オルテガは、もちろん狭いところでもうまかったが、ウエスペやカブラルの方がせこさがあった。しかし、広いグランドでは、オルテガのテクニックは断然に光った。彼は走るのが早く、体力もあった。縦にロングにボールを出せとサインし、その出されたボールにうまく追いついて捉え、直接胸でトラップしてそのままボレーシュート、得点である。相手にぶつかられても倒れないし、まるでプロの選手のプレーを見ているようであった。ロングボールを出したものもうまかった。こうしてプロ並みにボールを正確にコントロールできるものが、普通の人の中にも相当いるということである。

 

 

パラグアイ森林局チーム2.jpg

パラグアイ森林局チーム。

後列中央でボールを持っているのが私

 

 試合は残念ながら惜敗したが、日本人が試合にでないで、森林局のベストメンバーならば勝てた試合であっただろう。その証拠にペドロ・ファン・カバジェーロの町でもバスケットボール場で1チーム5人のサッカー大会が開かれていたが、森林局チームは優勝していたのだ。それでもセロコラでの試合の時は、我々日本人も出場し、良い親善試合となった。

 

 

 

ゼンシンの日々


虹.jpg日本では虹は七色と言われていますが、七色を順番に言うと
「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」 「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」 だそうです。
先日夕方4時頃、すごく綺麗な虹が出ていて、車中から写真撮りました。
この写真では今一つですが(未だにガラケーのため尚更)実際には赤から紫まで本当にくっきり見えました。
しかもよーく見ると二重なんです。

虹の始まりというのか端っこのところがちょうど自宅のあたりだったので

「すごい!家の屋根から虹が生えてる!」って笑いながらの帰路でした。
久しぶりに綺麗な虹を見たので、ネットで少し調べてみると、これは人間が識別できる限界であって
赤よりも波長が長すぎて視覚で捉えられないものを赤外線
紫よりも波長が細く視覚で捉えられないものを紫外線と呼ぶのだそうです。
なので、虹のアーチの外側に赤外線が、アーチの内側に紫外線が存在している。とありました。
何気なく耳にし、口にしている「赤外線」・「紫外線」の名の由来も実は虹の色と関係していたのです。
調べながら『へー』って感心したので書いてみました(きっとすぐ忘れちゃうんだろうけど…)

 

(^^)V

 

9月の駒ケ岳

社窓


9月の駒ケ岳

8月の終わりから立て続けに台風がやってきています。

今年は、1号の発生が非常に遅かったり、

発生した台風が西へ進んでからまた東へ戻ってきたり、

例年とは少し様子が違うようです。

また、これからは秋雨前線もかかってきて、一段と大雨になる可能性が高くなってきます。

9月は防災月間です。

これまでは、地震に対する備えが中心でしたが、

これからは、大雨・土砂災害に対する備えも大切になりそうです。

 

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.16

森林紀行

ヘビ、チョウ、ラン

ガラガラヘビのとぐろの横を通る

 ガラガラヘビは非常に多く、前述したように調査をしていれば一日に数回は見るくらいに多かった。1982年9月29日 (水)のことだった。森林調査をする時には、人一人が通れるくらいに森林を切り開き進むが、その通り道は風通しが良くなり、暑い林内でも多少は涼しい場所となる。するとそこにヘビが涼を求めて出てくることがあるのだ。この日、森林調査が終わって森林内を切り開いた道を帰りに私が通ったあと、すぐ後から歩いてくる作業員が「マスイ」と呼び、「後ろを見ろ」と言う。

 

 見ると50cmくらいの幅に伐開した小道の上に、ガラガラヘビがとぐろをまいていた。私はトグロの横10cmくらいの所を歩いてしまったのだ。そこでヘビが動いたので、私はさっと飛び上がってヘビを避けた。幸いガラガラヘビがにぶかったので、ガラガラも鳴らさず、かまれなくて良かった。ふんづけたりしたら大変なところだった。

  近隣の病院でガラガラヘビの血清を手に入れ、常時注射器と一緒に持ってはいたものの、かまれたら大変なことになっていただろう。幸い誰もかまれる被害にあわなくて良かった。

 

その他のヘビ

 なにしろ北東部はヘビが多かった。キャンプ地周辺で何やら大きなヘビを捕まえた。

 

捕まえたヘビ。2m以上。.jpg

捕まえたヘビ。2m以上。太いところで7?8cm

 

 

道路を横切るヘビ.jpg

道路を横切るヘビ

 

 種類はわからないが、気持ちの良いものではなかった。

  また次のヘビはサンゴヘビだが、毒のあるものとないものといるとのことだった。毒のあるものの毒は、強烈な神経毒とのことである。

 

道路上にいたサンゴヘビ.jpg

道路上にいたサンゴヘビ

 

 現地在住で通訳だった方は、キャンプ中に、自分のテントの裏で、5m以上もある大きなスクリュウーを見たとのことだった。スクリュウーとは水ヘビとのことで、アナコンダのことだった。アナコンダは凶暴で危険な大蛇であるが何事もなくて良かった。

 

 

チョウ

 林縁や道路上では何種類もの美しいチョウを見つけた。

 

 

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チョウの他に木に色々な昆虫がいるのも面白い。

タテハチョウの類であろう。

 

 

美しいチョウが多かった.jpg

美しいチョウが多かった

 

 

野生ラン

 森林内には樹木に着生した美しい野生ランが咲いているのを見る機会も多かった。

 

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着生ラン

 

 

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着生ラン

 

 

つづく

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