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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.1
ブルキナ・ファソへ
1.はじめに
この紀行文では、最初にアジアのインドネシア、次に南米のエクアドルを書いたので、今回は3本目としてアフリカのブルキナ・ファソについて書きたい。
ブルキナ・ファソ(以下ブルキナと略すが、文脈によりブルキナ・ファソとも記す)には2011年に実施していたプロジェクトのメンバーとして行ったものである。
私の出発日は2011年3月12日(土)と決まっていた。ところが前日、東日本大震災が起こり、私は都内の勤め先から自宅に戻ることができず、職場に近い同僚の実家に泊めてもらった。出発は延期されるということだったが、3月12日の早朝、搭乗予定の飛行機便の出発が昼から夜に延期されたので、それに乗るようにと連絡がきた。午前中に何とか自宅に戻ることができ、すぐに出発の用意をして家を出て、混乱の中、成田空港に何とか着くことができた。半日遅れであったが、パリで一泊し、ブルキナの首都ワガドゥグには予定通り着くことができた。ということで、この紀行文は出発日のことから記したい。
東日本大震災の爪痕が未だに深く残る日本。改めて、大地震、大津波による犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、また、未だに帰還できない多くの原発震災被災者並びに大地震、大津波の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
2.成田空港へ
2011年3月12日午前11時頃都内から何とか帰宅できた。職場から普段は通勤に1時間程かかるが、この日は3時間以上もかかった。しかし、ともあれ家に帰れた。飛行機便は夜ではあるが、成田空港に行けるかどうかもわからないので、できるだけ早く出発することにし、まず風呂に入りさっぱりする。一緒に出発する同僚に電話するが、電車がスムーズに動いていなくて家に帰るのに苦労しているとのことだった。私は、家で昼飯を食べてすぐに午後1時に家を出た。
成田空港へ
私の娘が家にきており、途中まで一緒に行ってくれると言うのでやや心強かった。リムジンバスが動いていなく、タクシーも遠距離には行ってくれず、電車で行くことにした。
西武線の所沢駅の案内で聞くと、「京成電鉄が動いているので成田空港まで乗り継いで行けるのではないか?」と言われる。駅でも正確な情報はつかんでいない。ではととりあえず西武線で池袋駅まで行ってみようと行った。ゆっくりだが池袋駅まで着くことができた。するとJRの山手線も少しだが動いていて、上野駅まで行くことができた。JRの上野駅から京成上野駅まで歩く。駅員に聞くと途中の八千代台駅まで電車で行き、その先はバスで成田空港まで行けると言われる。切符を買おうとすると売っておらず、何でも良いから取りあえず乗って行けと入場券をくれる。それで娘と京成上野駅で発車を待っている電車に乗ろうと思ったが、あまりに満員なので、駅員に「次のがすぐ出るか?」と聞くと、「次の電車はいつ出るかわからないからこれに乗った方が良いですよ。」と言われる。仕方がないので満員電車に乗る。まもなく電車が出る。娘は日暮里で降りて帰って行った。それから各駅停車で、ゆっくりと電車が進む。
途中でかかってきた電話
途中で同僚から電話がかかってきた。「荷物が成田空港まで着かないということが分かった。仕事道具を持っていけないから今日は出発できない。あとから行くので先に行っていてくれ。」と言われる。仕方がない。私も「私の荷物が、成田空港に着いていれば先に行く。もし着いていなかったら行くのを延期するが、取り敢えず成田空港まで行って確かめる。」と答える。
満員電車の中、途中で座ることができ、ほっとした。八千代台駅に着くと、バスではなく、成田空港から来た電車と乗り換えになった。駅の渡り廊下のようなところは乗客がすれ違い、満員でごった返していたが、何とか成田空港行きに乗ることができた。
成田空港に着く
成田空港に着いたのは午後6時くらいだった。家を出てから約5時間かかった。普段は2時間半くらいだからちょうど倍の時間がかかった。しかし、何とか空港に着けてほっとした。案内板を見ると私の乗る飛行機の出発は午後10時であった。
成田空港には午後6時頃着く
まだ、4時間あるが何とはなしに安心した。宅配のABCで送ってあった荷物を取りに行くと、自分の荷物と仕事道具で計3つの荷物が無事着いていた。
荷物については、私は3月11日の午前中に家に取りに来るように頼んでいたため集荷に来たのは、地震の前であった。そしてすぐに成田空港に運んだのであろう。同僚は3月11日の午後に集荷を頼んだということだったので、地震の後で成田空港まで着かなかったのであろう。
荷物はブルキナの首都のワガドゥグまで直通で送れるということなのでそれで頼んだ。パリで降ろすことがないので楽だ。
出発前の成田空港
(2011年3月12日午後6時23分の掲示板。遅延となり21時55分発に変更されたAF277便だが、更に遅れて出発は23時過ぎだった。)
待合室にて
チェックインして、エアフラのラウンジに行き、そこでメールなどを打ちながら3時間ほど出発を待っていた。ことのきは知らなかったが、この日の午後3時ぐらいに福島第一原発の第1号機が最初の水素爆発を起こしていた。
3.成田からワガドゥグへ
パリヘ向かい出発
午後10時出発予定が、更に1時間遅れて出発は午後11時くらいであった。飛行機は、まだ就航して間もない最新のA380で、ジャンボよりも一回り大きな巨大飛行機であった。この飛行機は総2階建てで、私は2階から機内に入った。隣の席の日本人の方と話すと地震の時、都内で車を運転していてハンドルを取られ、うまく運転できなかったため事故を起こさなくて良かったとのことである。しばらくし、夕食を食べたら知らない間に寝てしまい、朝食も取らず、気が着いたらまもなくパリに着陸とのことで起こされた。10時間以上も眠っていた。よほど疲れていたのだろう。機内でこんなことは初めてであった。
パリにて
パリでは空港内のホテル・シェラトンに入る。フランスは地震がないので、急に大きな安心感を持った。しかし、飛行機は原発爆発直後の福島の上空近くを通過していた。
その後ブルキナ・ファソでも後に述べる大事件に巻き込まれ、5月1日に緊急避難帰国をした。帰国便は福島上空を通過することなく、航路を南に迂回させ、中国・四国地方の上空を通過して成田に到着したのであった。
さて、予定では日本を午後1時頃出発して、同日の午後5時頃パリに到着予定であったが約10時間遅れたので、到着は翌日の夜中の午前3時頃だった。空港内のホテル・シェラトンに入ったのは朝方の4時頃であった。次のワガドゥグ行きが午前11時発だったので、3時間ほど寝ることができ、だいぶ休まった。シャルルドゴール空港では荷物を受け取ることもなく気楽であった。
パリからワガドゥグへ
ホテルを9時前に出て、出発ゲート内に入り、ワガドゥグ行きのゲートに向かった。パリも検査が厳しくなり、荷物検査に沢山の人が並んでいて時間がかかる。東京からパリまではモロッコとセネガルを調査した時に何回も飛んでいるので、良く知ったところだった。パリからワガドゥグは初めてであるが、モロッコ、セネガルに行くのとゲートが違うだけで、違和感はない。
飛行機は最初パリからニジェールのニアメに向かった。ニアメ経由ワガドゥグ行きの便だ。隣に座っていた人はスイス人であった。ひとしきり、日本での地震、福島の原発の恐怖などを話す。その人はチェルノブイリ事故の時のヨーロッパの放射線汚染の恐怖と被害を語った。チェルノブイリから大量の放射線がばら撒かれスイスでも食品の安全には相当に気を使ったそうだ。福島でも同じようになるのか、この時は大変な事態になるだろうとは思ったが、その程度は全く想像がつかなかった。
そうこうするうちに、ニアメに着く。ニジェールの状況を空からみると点在する木が見えるがほとんど大木はなさそうで、茶褐色の地肌が見える。ここは聞きしに勝る乾燥地帯のようだ。ニアメに着くと気温は44℃と放送がかかる。ヒェッ。これは大変な暑さだなと思う。機内にニジェールの軍人が乗ってきてパスポートと荷物を確かめる。前と後ろのドアが開いていると熱風が入ってきて、機内の温度は40℃以上に上がったであろう。早く出発してもらいたいと思った。
スイス人が下りて、その席に大きな黒人が座った。聞くと中央アリカの人だった。政府の役人とのことで、この暑いのにちゃんと背広を着てネクタイを締めている。1時間半くらい駐機していただろうか。ようやくワガドゥグに向かって飛び、機内も涼しくなる。
ワガドゥグにて
ワガドゥグに着いたのは午後6時くらいだった。着陸時の放送では気温は42℃とのことである。ニアメよりも2℃も低いことで少し安心した。機内を出て、ターミナルまで少し歩くが熱風を感じていた。空港にはプロジェクトのメンバーのSさんが出迎えてくれた。
三菱の大型のパジェロを運転している運転手は、プロジェクトで雇っている。まだ若そうだが愛想がなくブスッとしている。身長は私(170cm)より少し高いくらいだが、かなり太っていて100kgくらいはありそうだ。それからメンバーが常宿としているホテル・クルバに向かう。空港からホテルまではすぐそばだ。ホテルにチェックインをして当面必要な資金として100ユーロを替える。ここは655シェーファーフラン(FCAF)で、公定レートの655.957とほとんど変わらない。シェファーフランは西アフリカ一帯の共通通貨で私はセネガルでも使っていた。もう長年固定レートである。
日本の状況や家族のことを思うと心苦しかったり、不安感が湧き上がるのであったが、何はともあれワガドゥグに到着し、ホテルに入ったのでほっとし、明日からの仕事への期待も膨らむのであった。
アフリカ(ブルキナ・ファソはマリ、ニジェール、べナン、
トーゴ、ガーナ、コートジボワールに囲まれた内陸国)
ブルキナ・ファソ(面積27万km2(日本の約7割)、人口1,750万人(2012))
つづく
明りと灯り
先週の土曜日、6月21日は北半球で最も昼の時間が長くなると言われている日でした。
日本では夏至と呼ばれているものですが、
夏至とは、四季をそれぞれ六つに分けて(何で分けたのかな)二十四節気としたうちのひとつ。
さらに、二十四節気をそれぞれ五日ずつに分けた七十二候では 『乃東枯(なつくさかれる)』 と言うそう。
(ちょっと調べた)
色々と面白くなって調べてみたけれど、暦が・・・太陽年が・・・24とか72とか・・・
ちょっとよく分からなくなってきたからこのへんにして。
最近では夏至の日は違った意味でも注目されている日なのです!!!
数年前から『キャンドルナイト』という言葉をよく聞くようになりましたが、
夜電気を消して、ろうそくの日だけで過ごすというもので、夏至の日(、と冬至の日)に行われているものです。
これがなぜ夏至の日に行われるのかというと、特定の国の記念日とかじゃなく、世界共通である日だからだそう。。
( 南半球の夏至は北半球の冬至の日で、冬至の日は北の夏至・・・ ) ○。.(´ω`)? )
夜8時から10時の2時間電気を消すことで省エネや平和や、
意味は色々とあるみたいですがそういった試みがなされています。
電気を使わない、エコといった視点もありますが、
ろうそくの原料が石油などの場合はCO2削減にはならないから、なんたらかんたら・・・
とはいえ、たまにはろうそくを灯してゆったりとした時間を過ごす、リラックスして癒されるのも悪くはないのでは。
( しかし私はろうそくを点けてそのまま寝てしまうことがしばしば・・・ ) ○。.(´ω`;)アブナイ!! )
たぁぼ
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.11
帰国へ(インドネシア編最終回)
先にルブクリンガウに降りる
私の足は益々悪化し、とうとう調査には使い物にならなくなったので、先にルブクリンガウに降りて医者に足を見てもらうことにした。タモリが付き添ってくれた。
川で遊ぶ子供達
C/Pのタモリ
スルラングンで私がボートの運転手に1万5千ルピア(約3千円)やれとタモリに渡すと、その場でタモリは1万ルピアをポケットに入れてしまい、運転手には5千ルピアしか渡さなかった。「何しているのだ。お前にやったのじゃあない。運転手にやれ。」と言っても彼は、「私がいなければこの仕事は進まない。お前も私がいなければ仕事はできない。だからこの金はアラーの神が、私にくれたものである。」となめられたものである。全く気に入らない。しかし、ここでは親分はピンハネをしなければならない社会だ。
幾つだと聞くと38才と言ったり50才と言ったりする。顔立ちから見るとおそらく50才前後だろう。まあ、言ってみれば、江戸時代の悪代官か?
仲良く私とタモリ
乗合自動車
スルラングンからムワラルピットまでは、乗合自動車で下りた。トヨタのライトバンに乗り込めるだけ詰め込むのである。20人程も乗っただろうか。ムラワルピットからルブクリンガウまではナナがジープで送ってくれる。途中スカラジャで借りていた民家前で止まり、村人と別れとお礼の挨拶をする。
映画
ルブクリンガウでは、一人でデータの整理をしながら皆の帰りを待った。その間、ルブクリンガウにある映画館に行ってみた。上映されているのはカラテ映画で、日本人やアメリカ人が悪者で、インドネシア人が正義なのである。「ヤマハ」という名の宝石泥棒がインドネシア人の秘密警察にやっつけられるという勧善懲悪ものである。言葉はほとんど分からないが、ストリーが単純で面白かった。インドネシア人が活躍する時は、大拍手である。
夜中の到着
12月27日に皆がルブクリンガウに戻る予定であった。この日の夕方にタモリもホテルに来てだいぶ遅くまで待っていた。しかし、夜遅くになっても到着しないので、タモリも帰り、戻って来るのは明日になるのであろうと思い寝てしまった。すると午前1時過ぎに到着した。雨で道路が寸断されて大変な苦労をしたとのことだった。
目標達成
ルブクリンガウで全員が集結するとやっと現地調査は終了したのだという気がしてきた。全部で91ヵ所のプロット(標本)を調査した。80点以上が当初の目標であったから、目標は達成できた。これ以上雨期の森林に入るのは危険ということで、後はデータの整理と分析にあたった。
ルブクリンガウの医者
ルブクリンガウでは一人のメンバーを除いて医者の世話になった。そのメンバーは最も若く26才で、細く締まった体で一番強かった。私は足の化膿。他のメンバーお尻に大きなおできができてしまった。団長は足の付け根のリンパ腺を腫らしてしまった。
おできができたメンバーはルブクリンガウの病院で、おできの切開をしなければならなかった。その様子を見ていると、うつぶせに寝かされ、麻酔も打たずに、おできを中心に2cmくらい切開されると棒の様な器具で突っつかれ、ぐるぐると掻き回され、膿を全部出し切った後に、消毒用のガーゼを入れられて終わりだ。彼は痛みで貧血を起こし、顔面蒼白だ。2?3日したらガーゼをとれば良いという。まことに簡単だ。だが、治りは早かった。団長と私は例によってお尻に注射を打たれた。
帰途
いよいよ帰途だ。全員体重が5Kg以上減り、まるで敗残兵だ。
ラハットへ
12月30日、ルブクリンガウの役所へ挨拶を済ませて、ノルマン、タモリに別れを告げて我々はパレンバンへ向かう。ラハットまでの道路は、まだ傷んでなくて順調に着くが、ラハットからパレンバンまでの道路は、雨で寸断されているという。その晩はラハットに泊まり、パレンバンまでのルートを検討する。
大晦日
いよいよ大晦日である。道路が寸断されているので、遠回りでも迂回して、車が通れる道を選び、インド洋に面した町ベンクールに向かう。ベンクールは静かで、思ったよりもきれいな街であった。ここで新年を迎えようとは夢にも思わなかった。インドネシアでは正月休みは元日だけらしい。イスラム教国なので、そちらの関係の行事の方がにぎやかなのである。ホテルのボーイに「スラマトタウンバルー(新年おめでとう。)」と言われる。港に行ってみると、子供が大きなタイのような魚を釣っていた。町をちょっと見物してからパレンバンへ向かった。
1979年元日のベンクール
ここで子供が釣った魚
パレンバンにて
パレンバンに到着した時は、丸2日間もジープで揺られ、疲れきっていた。皆しゃべる気力もない。しかし、ここでもの凄く辛い唐辛子が乗ったパダン料理を食べたら皆シャキッとして何の疲れも感じていない様に変身したのには驚いた。
パレンバンの営林局
1月2日は休養し、3日はパレンバンの営林局へ、挨拶へ行った。ここの局長はなかなか英語がうまく、日本をちくりと皮肉った。「戦争中は、我々は皆日本の方向へ向かっておじぎをさせられたものである。戦後、日本は平和になり、日本人の体格は大きくなった。戦争中は我々と同じくらいの体格であった。オリンピックへ出てくる日本選手などは大きくてビックリする。日本は発展し、日本人はたいしたものだ。しかし、今はもの凄い経済侵略だ。今後は侵略すること無しに、純粋に協力してもらいたい。何はともあれ、皆無事でご苦労様でした。」などと言う。
ジャカルタ到着
そして、1月4日ようやくジャカルタへ戻った。ジャカルタでは再度プレジデントホテルに向かった。このホテルは一流で、清潔でまるで天国だ。世の中にこんなにきれいな所があったのかと思うくらいである。環境が清潔な状態になった途端に、私の足も急速に快方に向かった。一体なんだったのだろうか?
報告
翌5日、早速大使館へ行き現地の報告をした。皆の無事ジャカルタ到着を喜んでくれた。ジャカルタではボゴールの林業総局へ、現在までのまとめを報告するためデータの整理と解析を行った。
ボゴールの林業総局へ
調査の疲れも癒え、我々は資料のまとめも終わり、ボゴールの林業総局へ最後の挨拶へ行った。ここでの会議で、フォージーは次長のカヒルマンにこっぴどく怒られたが、どうも茶番のようでもあった。なんやかやでどうやら友好的雰囲気のうちに話は終わった。
また一悶着
この調査では、航空写真の複製はインドネシアの会社に委託していた。しかし、別な地域の航空写真の複製の値段について、例のごとく金額面で折り合いがつかず、一悶着あった。この調査は、まだ続いており、次回調査団が来るまでに解決しようということになった。
日本へ
そして1月11日とうとうジャカルタを発たなければならなかった。様々な思いが駆け巡り、スカラジャでの人と自然はとりわけ忘れ難かった。都会の喧騒にしか住めない我々にとっては、それは理想郷だったのかもしれない。どんなに貧しく、不潔であっても、おおらかで、清々と生きているではないか。
だが、そこも徐々に文明に侵されつつある。我々日本人が彼らのためにといって森林の管理計画を立てるのだ。彼らにとっては原生林と見えるような森林を焼畑で燃やしてしまうことなど何でもないことである。確かに焼畑を行うことは自然破壊に通じるように見えるかもしれないが、彼らは延々と大昔からそうした生活をしてきたのだ。我々の計画が彼らの生活に制限を与えるような恐れもある。
しかし、それよりも当面の利益を追求し、チェンソーで森林を伐採し、ブルドーザーで伐り開いて行くことに許可を与えてしまう方が、はるかに早く、壊滅的に森林が無くなってしまうのだ。
作業員達は良く働いたし、信じられないくらい動物的な感覚が発達していた。おそらく人間本来持っている能力を普通に発揮していたのだろう。そして人懐っこく、素朴な連中で、とても好感が持てた。
しかし、都会でも田舎でも役人達は、どうしても好きになれなかった。いつでも金をせびることしか頭にない連中ばかりであった。だが、それも彼らにとっては生きる知恵であろう。裏でこそこそやるよりも、はるかに素直かもしれない。
インドネシアとの別れを惜しみつつ、手を振りながら一歩ずつタラップを登って行った。ドアが閉められ飛行機は日本に向かって飛び立った。様々な思いが脳裏を駆け巡った。
インドネシア編終わり
次回からアフリカのブルキナ・ファソ編を書く予定