森林紀行travel

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.8_大阪-岸和田市、吹田市、大阪城

森林紀行

大阪へ
 昨年亡くなった友人宅へ弔問のため、大阪へ出かけた。岸和田市に住む友人が、昨年(2022)の11月にがんで亡くなり、その時にコロナ感染が拡大しており葬式に行けなかったため、現在(2023年6月)、コロナ感染対策が緩和されているので、改めて友人の奥様にお悔やみを述べに行ったものである。弔問したのは2023年6月21日で、日帰りは大変なので一泊した。折角、大阪に来たので、この機会を利用し、その晩は、岸和田に近い関空に勤める従弟に会い、翌日、吹田市の介護施設にいる友人を見舞い、その後、大阪城を見学したものである。今回、多少重いテーマを扱ったので、辛抱して読んでいただければ幸いである。

大阪府の地図

新幹線の切符購入
 新幹線に乗るのは、2017年以来、6年振りである。その時も大阪に行ったので、その機会を利用し、亡くなった友人にも会っている。
 事前にみどりの窓口で切符を買ったが、今年1月一杯で、最寄り駅のみどりの窓口が廃止されたので、別駅で買わざるを得なくなった。話せる指定席券売機で別列車の特急券を買ったこともあるが、時間がかかり、後ろで待っている人に文句を言われ、暴力を振るわれそうになったことがある。不快で危ない思いをさせられた。前の人が終るまでは、順番で待たなければならないという世の中の基本的ルールが守ることができずに、イライラする人が益々増えているような世の中なので、年配者はより気をつけなければならない。長距離切符の販売は、年配者には対面で対応してくれることが一番ありがたいので、みどりの窓口は是非復活させてもらいたいと思う。

大阪へ
 東京駅から7時3分発のひかり号に乗ったが、朝は一般の電車の本数が少なく、余裕を持って東京駅に着くため家を5時過ぎに出た。東京駅には発車30分以上前に着いたが、あせることなく余裕があり、安心できた。
 予定通り発車し、品川、新横浜と止まり、乗客も増えてきた。友人と二人で弔問することにしていて、その友人が静岡駅から乗ってきた。予め隣席を予約しており、そのとおり合流できた。その友人は、グループラインの仲間で、しょっちゅうメールをし、時々電話でも話していたが、会うのは久しぶりだったので、積もる話をしつつあっという間の感じで、新大阪駅に9時57分に着いた。

品川付近の再開発
多摩川付近
武蔵小杉付近のタワーマンションと高層ビル群
静岡付近、中央付近に見える頂上に
少し雪が残る富士山が薄く写っている

新大阪駅から岸和田方面へ
 新大阪駅に降りると、エスカレーターの乗り方が東京とは逆なので、早速、大阪に来たなあとの思いを強くする。歩かない人は右側に乗り、左側は歩く人用となっているのだ。
 友人宅が岸和田市だったので、新大阪駅から、岸和田市方面に向かった。新大阪駅から1時間以上かかり、私は大阪の土地勘がないので、意外に遠く感じた。大阪も案外に広いのだ。

タクシーの運転手
 最寄り駅から友人宅まで、タクシーを使ったが、往きの運転手さんは年配の方で、いかにも大阪人という感じがして、良くしゃべってくれた。良くしゃべってくれるので、私が明日行くつもりの大阪城の見学はどうかと聞くと、今は何々展をしているから是非行くべきだ、天守閣も登るべきだし、しゃちほこも見ることができると教えてくれた。とても好感が持てる方だった。
 しかし、帰りに友人宅から駅まで乗ったタクシーの運転手は、多少若かったが、無愛想で何もしゃべらず、運転も荒く、好感は持てなかった。

友人宅
 友人宅では奥さんが待っていてくれた。早速仏壇に手を合わせ、お線香を上げさせてもらった。その後、積もる思い出話を延々とさせてもらった。奥さんも友人に代わって昔からの友人のような感じがした。沢山しゃべってくれ、良い慰問になったと思う。しかし、沢山ごちそうにもなり恐縮した。私も一緒に訪問した友人も若い時に、この友人宅に泊めさせてもらったことがあるのだったが、その時のことについてはよく思い出せなかった。
 息子さんの家から持ってきてもらったギターで、讃美歌の星の界などを弾かせてもらい、友人に捧げた。また、今日弔問に来られなかったライングループの友人が歌い録音してくれた、同じく、星の界、雪山に消えたあいつ、喜びも悲しみも幾歳月を改めて聞き、皆でしんみりとした。また、息子さん達が編集した友人の元気な頃のビデオを見て、亡くなった友人を偲んだ。

友人のがんの経緯
 友人は、昨年(2022年)の始めまで、小学校の先生をしていた。定年後の再雇用も終了し、その後は、ベテランの味を乞われて臨時の先生として学級崩壊しそうなクラスの理科を任されて苦労していたのだった。ずっと働き詰めであったが、マラソンや卓球などスポーツも続けていたし、体はいたって丈夫なはずだった。つい最近まで実際のマラソンの距離(42.195km)の市民レースなどにも出場していたのだった。
 それが昨年(2022年)2月に体調に少し異変を感じたことで、勤めを辞め、病院で検査をしたところ、がんと分かり、3月から直ちに大阪市大病院で抗がん治療を始めたのだった。抗がん治療によりがんを小さくしてから手術をしてがんを取り除くという方針で、最初は6月くらいの手術を予定していたが、「コロナ」の感染拡大などの影響で手術は8月に伸びた。
 この間、抗がん治療は上手く行き、徐々にがんは小さくなってきているとのことだった。ただし、抗がん剤の副作用で最初は元気で何ともなかったのが、治療を重ねるごとに、徐々に体が弱まってきているとのことだった。
 そして8月の手術は成功した。これで友人の家族も私も他の友人も一安心だった。しかし、その後、しばらくして熱が出て、なかなか安定した状態にならなかった。何らかの感染症に罹ったようで、効く抗生物質を捜し、いろいろ変えて試していたが、上手くいかず、とうとう様々な合併症を発症し、結局、昨年11月にこの世を去って行った。

仲間のライングループ
 「コロナ」が流行し始めたころに、大学時のクラブの友人達、私とその友人を含め4人でラインのグループを作り、メールをしたり、時々オンラインで飲み会をしたりしていた。この友人ががんとわかった頃からは、毎日のように頻繁にメールのやり取りをするようになり、励ましたり、逆に励まされたりしていた。

がんは思考を深めてくれる病気
 ある友人は、がんは生き方が問われる病気と言ったが、確かにがんは、死に直面し、治る場合もあろうし、治らなくとも直ちに死ぬわけではなく、それまでにかなりの時間がある。そのため、がんは、人生の終わりを確かめる時間を与えてくれる、つまり、思考を深めてくれる病気と思う。
 がんは、治療の進歩によって、完治することもあれば、長期間にわたって治療を続けることもある。がんの種類や進行度、治療法などによって、予後や生存期間は異なり、また、がんの治療は、効果だけでなく副作用や資金面、家族などの負担も伴う。がんになった人は、医師から説明を受けたり、自分で情報を集めたりして、納得のいく治療を選択しようとするだろう。しかし、治療の結果や将来の見通しは不確実である。いずれにせよ、残されたと思われる時間の中で、自分の価値観や目標を見つめ直したり、大切な人との関係を深めたりすることで、より充実した時間を過ごすことができるかもしれないのである。つまり、自分の生き方や死に方について考える時間が増えるのである。それは必ずしもネガティブなことではなく、充実した時間ともなり得るのである。

友人とのメールのやり取り
 友人ががんとわかってからは、友人は「死」と向き合った。私と健常の友人達も最初は「死」という言葉は避けて、あえて使わなかった。しかし、メールをやり取りしていて、「死」という言葉を使ってももう友人も大丈夫、いや、むしろ使うべきだと思った時点からグループの仲間は皆「死」という言葉を使いだし、皆が死と向き合った。その後は、人は健常者でも病人でも死ぬまでは生きているのだから、生きている限りは病人も回復の可能性はあるし、何らかの思考ができるのだから充実した時間にすることもできるだろうし、他にもいろいろな可能性はまだあるだろうと言ったやり取りをしていた。

友人の悟り
 友人は、大学に入ってから知り合ったのであるが、高校の時にはインターハイにも出場し、スポーツでは活躍していた。ただし、大学に入学以降は、思索を深め、民主的な思想の持ち主として育っていった。特にそのように考えが育っていったのは、この友人が学生時代に休学し、世界放浪の旅をしたことにあると思う。友人は、「個人レベルで付き合えば、どこの国の人も家族、隣人を大切にするし、そこには国境という線引きはない。」と常々語っていた。
 私も海外の仕事をしていたので、この言葉は良く理解できる。だから旅から帰り復学した後は、学部の自治会の役員も行っていた。卒業後は、小学校の先生となり、未来を担う子供達を育て、地域活動も積極的に行っていた。
 そして、「がん」を宣告された時に、こう語った。「命の時間を否応なしにカウントすることになりました。でももし、命を拾えたら大切にしよう。もしダメでもそれはそれでいいではないか。できなかったことは次に生まれかわったときに置いておこう。というのが率直な受け止めで、本当に落ち込んだり、へこんだりはしませんでした。自分ではこの状況と日々の生活に精一杯向きあおうと思いました。」このようにガンになっても決してへこたれずに、今までと同じように日常生活を続けるという強い意志が感じられた。
 それで、私は、友人が死や俗事をも超越し、悟りの境地に達したと感じたので、私が彼に、「達観したね。」との趣旨のメールを送ったら、その後に返ってきた彼の言葉は、次のようなものだった。
 「これまでの数々の失敗や取り返しのつかない間違いを思うと「達観など許さない」というと自分の声が聞こえてくる。ロシアのウクライナ侵攻、日本の中国やアジア諸国への侵略、沖縄問題、日本人のあり様などを思うにつけ、「生きる」とは自らの思いやこれまでの経験、積み上げてきたことに「こだわり続けること」、「KEEP ON」すること。「現実の矛盾に悶え続け、学び続けること」ではないか、というのが今の私の到達点です。」
 まさにこれこそが、この時点で彼が到達した悟りの境地と思った。彼は、自身の状態を「迷悟一如」と言った。「迷悟一如」の意味は「迷うことと悟ることは一体である。」とのことである。しかし、彼の言葉を読めば、彼は「迷い」から脱却し、悟りの境地に達したと感じた。その悟りは到達点ではなくて、人生の途上にあり、命の続く限り、より上位の所まで、そしてその上位の所は、到達点ではなくて、そこに到達したら、さらに上位の所を目指す、そういうことに気づいたのが「今の悟り」ということだと思った。
 つまり、彼は、「現実の矛盾→学び→実践→ある到達点→さらなる現実の矛盾→」とスパイラル回転して上に向かっているということだったのだ。このように彼は、ずっと上を目指していた。
 彼は、達観など許さないと言いつつも、やはり達観した境地に到達していたのだ。だから天国へと旅立って行けたのだ。それだけ密度の濃い生き方をしたのである。

東岸和田駅へ
 メールでこのようなとても重い話のやり取りをしていたが、奥様とはとりあえずは、元気だったころの思い出話を中心に話をしていたのである。奥様とはいくら話していても話は尽きなかったが、夕方近くになったので、友人宅をお暇した。一緒に訪問した友人は、日帰りのため新大阪駅へ向かい、私は東岸和田駅へ向かった。この日は東岸和田駅近くのルートインホテルに予約しておいたのだ。私の従弟が関空に勤めており、夜は岸和田で飲もうということにしていたのだ。

大阪環状線

東岸和田のルートインへ
 ルートインホテルは駅を降りたらそのままホテルに入れるくらい駅から近かった。チェックイン時に、東側には線路を挟んで大きな建物があるので、岸和田駅の先に海が見えるかもしれない西側方面の部屋にしてくれと頼んだところ、普通サイズの部屋が空いてなかったのか、多少広い部屋にしてくれた。いつも駒ヶ根のルートインホテルに泊まっていたけれど、その部屋よりも若干広く、それだけでも多少楽に感じた。

岸和田駅へ
 従弟との待ち合わせが、岸和田駅だったので、東岸和田から岸和田駅まで歩いて行った。ホテルのフロントで聞くと、岸和田駅までは道路が直線でわかりやすいが、歩けば20~30分かかると言われたが、待ち合わせ時間まで余裕があったので、ゆっくりと歩いて行った。やはり30分ほどかかった。途中、府立和泉高校などがあった。

大阪府立和泉高校
南海 岸和田駅

岸和田で飲む。
 予定通り、岸和田駅で従弟と会い、下の写真の左側に写っている居酒屋で飲んだ。今年の2月に私の母が97才で、残念ながらコロナに感染して亡くなり、コロナのため家族葬とせざるを得なかったが、その葬式に遠路大阪から来てくれた。それで会ったのは、4ヵ月ぶりだった。水ナスが上手いというので、これはとても美味しく感じた。私よりも大分若く年が離れた従弟だが、もう還暦に近い。子供の時一緒に遊んだわけではないが、齢が行ってから会う機会が増えたというところである。従弟が話し上手で、話がはずみ楽しかった。

岸和田駅前の居酒屋で飲む

再び東岸和田のルートインへ
 岸和田からの帰りはタクシーでルートインホテルに帰った。ここのルートインの建物は駒ヶ根のものよりだいぶ大きく、部屋数もかなり多そうだ。階下の大風呂も、駒ヶ根のものより3~4倍程度は広く、温泉のようで、とてもリラックスできた。部屋も多少広いだけで過ごしやすかった。

東岸和田駅

吹田市へ
 翌日6月22日(木)は、東岸和田駅から大阪駅に向かい、大阪駅で乗り換え、別の友人が入っている介護施設に向かった。東岸和田駅から大阪駅まで走っている電車は、JR阪和線で左側一列一人座りの椅子と右側二人座りの椅子だった。朝8時半くらいに乗ったので東岸和田駅からは座れなかった。1時間近く立っているのは大変だなあと思っていたところ、しばらくして座れたのでほっとした。友人の入っている施設の近くに、巨大な建物の吹田市民病院があった。

吹田市民病院

友人を見舞う。
 見舞った友人は大学時の同学科の同級生で、学生時代には山岳部にも入り、頑丈な体を持っていた。事前に今度大阪に行くから、食事でもしながら積もる話をしようとのつもりで電話をかけたところ、2年前から体調を崩し、施設に入っているというのでびっくりしたのである。それなら見舞に行くよといって見舞に行ったものである。
 残念ながら友人は腎臓を悪くしていた。週に3回、透析を行っているとのことで、施設と病院を往復しているとのことだった。コロナ感染予防で面会時間は30分と制限され、この日10時からと指定されていた。5年ほど前に、学生寮に入っていた仲間数人と名古屋で会ったが、その時はとても元気だったので、信じられない思いであった。あっという間に面会時間は過ぎ、積もる話もほんの少ししかできなかったのは、残念だった。前述した友人はがんで亡くなるし、この目の前にいる友人は体調不良であるし、自分の健康も考えざるを得なかった。健康は個人差が大きいものの私も平均の健康寿命が終るころであり、誰でも寄る歳の波には勝てないであろう。結局、どう生きるかはその時の健康状態次第であるので、私は、今のところ健康で、先に逝ったり、健康でない友人には申し訳ないが、先のことを考える状態ではないので、今はできるだけ同じ生活を続け、残された人生を楽しもうと思うのであった。

大阪城へ
 友人の見舞いを終え、大阪駅に向かった。大阪駅で乗り換え森ノ宮駅で降り、大阪城公園を歩いて城まで行き、天守閣に登ることにした。

大阪城公園 矢印の線に沿って歩き、
極楽橋を渡り森の宮に戻った

大阪城
 大阪城公園は広い。100ha以上はあるとのことだ。秀吉が築城した時の、大阪城の惣構(そうがまえ、城下町の外側に堀や土塁を築き、町ごとぐるりと取り囲んだ防衛ライン)は、約420haもあったとのことである。豊臣期の大坂城天守は地上から約49mとのことで、現在の再建された大坂城天守は約42mとのことだから、今よりも7mも高かったのである。
 あまりに広いので、江戸城より大きかったのではと思ったが、実際は江戸城の方が大きいとのことである。江戸城は、徳川秀忠が築城した当時は、内郭(内濠に囲まれた区域で、本丸・二ノ丸・三ノ丸などがある)だけで約420haもあったとのことで、これは大阪城とほぼ同じである。しかし、外郭(外濠に囲まれた区域で、大名や幕臣の屋敷、御殿や寺社などがあった)を含めると約2,100haもあったとのことである。だから豊臣期の大坂城の惣構までの広さが、江戸城の内郭とほぼ同じであり、外郭を含めると江戸城は大坂城の約5倍以上の広さであったとのことである。
 それに徳川期の江戸城天守は地上から約68m、現在、天守は残ってないが、代わりに建てられた皇居二重橋付近の富士見櫓は約25.5mだそうだ。しかし、現在、江戸城は再建されてないし、皇居ないも見学できないので、現在は大阪城が一番大きな城だろう。

森の宮の大阪城公園への入口
お堀から見える高層ビル
空堀
桜門
外国人の観光客が多い

天守閣に登る
 天守閣に登った。入場料は600円だった。入場券を買うのに多くの人が行列を作り待っている。ほとんどが外国人だった。コロナ対策が緩和され多くの外国の観光客が来ている。やはり多いのは中国人、マレーシアなどのアジア系の人。私の前に二人づれの白人の若者が待っていたので、話しかけてみるとフランス人だった。日本は3回目だと言っていた。これから京都に行くとのことだった。待っている間しばらく話をしていたが、一人の若者はフランス語のみしか話せなかったが、もう一人の若者は、英仏西と三ヵ国語を自在に喋れるのだった。私は長く海外で働いていたので、だいたい喋れるので三ヵ国語チャンポン会話だった。ヨーロッパ言語は、似ている言葉が多いから自在に何ヵ国後もしゃべれる人は案外多くいるのだ。日本に観光にきた外国人に、母国語でしゃべりかける日本人がいると、彼らは驚いたりうれしかったりするものだ。私も海外で、日本語でしゃべりかけてくれる現地の人がいると驚き、うれしかったことを思い出す。私がその若者に何でそんなに色々な言葉が話せるのか聞くと、スペイン語はフランスの学校で習い、英語はオーストラリアにいたので、話せるとのことだった。
 その後、天守閣に登ったらスペイン語が聞こえてきたので、話しかけてみるとスペイン人とアルゼンチン人だった。その方々は前の若者より一層うれしそうな顔をして、びっくりしていた。最近の世の中の情勢ではたとえ海外からの観光客で知らない人であっても、たわいもない話で収めておくのが無難と思った。昔、海外で話しかけられた人の中には不審な感じの人もいたので、逆に私が不審な人に思われないためにも、その程度が良いのではないかと思った。残念なことではあるが。

黄金の鯱と伏虎

 内部は、エレベータで5階まで上がれ、8階が展望台となっている。全体に、お土産屋が多く、そのほか資料の展示物が多い。「黄金の鯱と伏虎」は、金ぴかで、これはすごいものだと感じた。7階には秀吉の金ぴかの居室があるとのことだが、見学はできない。全体に、秀吉の権力の巨大さを改めて感じた次第である。

展望台からは大阪全体が眺望できる。
金のしゃちほこ
お堀巡りの遊覧船
極楽橋

新大阪駅へ
 森ノ宮駅に戻り、駅近くで昼飯を食べ、大阪駅で乗り換え、新大阪駅に戻った。帰りのひかり号が15時48分発だったので、余裕を持って少し前に新大阪駅に着いた。

新大阪駅の待合室

東京駅へ
 東京駅までは約3時間かかった。大阪駅で乗った時は空いていたが、次の京都駅あたりから混みだして、途中はほとんど満席だった。スピードがあるので小揺れし、乗り心地は良くなく本も読めず、眠ることもできず、往きと違い一人でしゃべる相手もいないので、随分と長く感じた。

つづく


Page Top