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【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.33_ドミニカ共和国

森林紀行

筆者紹介




絵画コンクール(ドミニカ共和国)

【環境教育】
 ドミニカ共和国で行っていたプロジェクトでは、山火事防止対策の一つとして、小中学校で山火事防止をテーマとした絵画コンクールを行い、環境教育も支援していた。援助していた4村のそれぞれの小中学校で毎年1回、3年間行った。この活動は未来を生きる子供たちへの教育活動として、大きな刺激を与えることができたのではないかと思う。子供たちを通して、親達にも、むろん全村に影響を与えることができたのではないかと思う。というのは親が読み書きできない山村の多くの家庭では、逆に読み書きができる子供から親達が字の読み書きを教わり、その内容も教えられることも多かったからだ。日本にいてはなかなか気づかないが、基礎的な読み書きの力を授けてくれる小学校の大きな役割というものを改めて感じたものである。2008年1月~2月にかけてラス・ラグーナス村の小学校で行った環境教育を紹介しよう。

【小学校での準備】
 ラス・ラグーナス村の小学校を訪問し、環境教育の一環として、子供達に森林の重要性についての授業を行ったのは、2008年1月16日のことである。小学校に電気は来ているが、計画停電で、太陽が出ている朝から夕方までは停電していることが多く、パワーポイントなどを使うため発電機などを持ち込み朝早くから準備した。

計画停電なのでパワーポイント用に発電機を持ち込み準備する

【小学校での授業】
 いつものことながら、最初に私が挨拶をした。日本から協力に来ていること、目的は森林を保護し、環境を改善し、その結果、皆さんの生活の向上を目指していること、その活動としては、はげ山にマツを植林したり果樹を植林したりし、土壌を保全し、近くのクエバス川の氾濫を防ぐことが基本だと言った。そして、この地域は昔から毎年、生産が終わった農地に焼き畑をしており、その火の後始末が悪いため、山火事が非常に多く発生し、貴重な木材資源が無くなっていることを説明した。そして皆さんの両親たちに植林をしてもらい、焼き畑をしなくても良いように、農地に灌漑施設を設置して農業生産力を上げる活動をしていることなどを紹介した。そして皆さんには森林を保護するために、山火事保護のための絵を描いてもらいたい。それは、絵画コンクールであり、山火事防止に役立つような上手な絵が描ければ表彰されることなどを説明した。

ラス・ラグーナス村の教室にて、これから始める環境教育の授業

【環境教育授業】
 その後、社会教育担当のヘススと植林担当のホルヘが授業を行った。ヘススは話が上手だ。ヘススは優秀だし、ドミニカ人特有の人懐っこさもあり、好感がもてる。多少おっちょこちょいで、ややルーズな面もあるが、ドミニカ人にしては、きちんとしている方だ。
 絵画コンクールのテーマは、山火事防止と植林推進である。これらの絵を描いてもらうにあたり、森林が果たしている役割の大きさを説明する。山火事で木がなくなれば、家を建てる木材がなくなってしまうよ、そうしたら皆困るよね。森林は山に根を張り土がスポンジのように柔らかくなっていて保水力が沢山あるのだが、森林が無くなれば、すぐに水が流出してしまって、洪水になってしまう。だから森林は洪水を防ぎ、皆の家を守ってくれているのだ。それに昔はこのあたりも森林を棲家とするピューマもいたが、今ではほとんどいなくなってしまった。鳥も少なくなってしまった。いろいろな動植物には繋がりがあって、繋がりが切れると、今まで手に入っていたものが入らなくなったりして、人間も生きていくのが難しくなるのだよ。そのために山に樹木は必要なんだと森林の保護と森林を増やす植林の重要性を訴える。そしてこれ以上森林を減らさないために、山火事は防止しなければいけないんだよと説明をする。これらをヘススは子供達に質問をしながら森林保護の大切さを教えて行く。
 「皆のお父さんはタバコを吸うかい?吸う人は手を上げて。」
 「もし、山の中でタバコの吸い殻をそのまますてたらどうなると思う?」
 「山火事になって山に木がなくなったらどうなると思う?」
 などと次々に質問をして子供達に答えさせる。子供達も質問されると、ほとんど全員と言っていいくらい、沢山の子供が手を上げて答えようと活発だ。私が小学校高学年になる頃は、子供も多かったし、日本では先生が一方的にしゃべっていたような気がする。今の日本の子供達もここの子供たちと同じように活発だろうか?

子供達に質問しながら授業を進めるヘスス

 次にホルヘが同じように森林の重要性を説明する。パワーポイントを使って、雰囲気的にはいかにも科学者といった顔で子供達に説明している。ホルヘはドミニカ人には珍しく生真面目で几帳面である。どちらかというと説明が難しく、子供たちが理解するのが難しいかもしれないと思った。 それはさておき、子供たちは非常に熱心に授業に集中していた。私も小学生の時のことをよく思い出せなかったが、このように自然に集中していたのだろうと思った。この小学生たちとの交流は私にとっても良い刺激となった。

パワーポイントを使って授業を進めるホルヘ

【絵画コンクールの入賞作品を選ぶ】
 さて、子供たちに約2週間余りの間に絵を描いてもらい、2月4日に、ラス・ラグーナス村とカーニャ・デ・カスティージャ村の小中学生の絵の審査を行った。ラス・ラグーナス村の小中学校は3年生から8年生まで、カーニャ・デ・カスティージャの小学校は3年生と4年生が対象であった。学年毎に1等から3等までを選んだ。年齢は7才から16才であった。全部で150枚以上の作品があった。これらを、講義を行った二人と私と事務所の他の社会教育担当2名を含め全員で、5人でどれが優秀作かを選定した。

作品を一覧できるように並べる

 事務所で、学校から回収してきた絵画を学年毎に一覧できるように並べた。日本の小学生に比べて、図工の授業がないので、その分ドミニカの方が不利だろうが、やはり日本の小学生の方が平均的にかなり上手のように思えた。だいたい優秀作は9割くらい全員の意見が一致した。しかし、1等から3等まで決めるとなると意見が割れる場合があるので、その時は投票で決めた。

【絵画コンクールの発表】
 ラス・ラグーナス村の小中学校で、2月14日に、絵画コンクールでの入選作を学校の掲示板に張り、発表した。各学年1等賞から3等賞までを壁に貼りつけた。この時は大勢の子供達が集まり、人だかりで、大歓声だった。自分は入賞したかどうか、皆ワクワクしながらそしてガッカリもしながら発表を見ていた。

ラス・ラグーナス小中学校で入選作を貼りだす。ワクワクの子供達
一等賞
二等賞
三等賞
子供たちと共に

【ラス・ラグーナス村の絵画コンクール表彰式】
 日曜日であったが、2月17日にラス・ラグーナス村の小中学校で絵画コンクールの表彰式を行った。小学校の教室に絵画コンクールの参加者に集まってもらい、絵画だけでなく、学芸会のようにいろいろな出し物を行い、子供達と一緒に楽しんだ。

集まった参加者の小学生
同上

 我々や先生の挨拶の後、最初に数人の小学生に身振り手振りを入れて小話をしてもらった。これが堂々とした態度で、面白く様になっているので、ドミニカの田舎の子供達もやるなあと思わされた。私が子供の時は、引っ込み思案で、大勢の人前で話すと顔が真っ赤になりなかなか上手に話せなかったが、今は日本の小学生も人前で堂々としゃべれるのだろうか。しかし、一緒に仕事をしていた技術者達にもいろいろな会議でそれぞれプレゼンテーションをやらせたが、中には上がる技術者もいて、ドミニカ人でもやはり個人差はかなりあるものだと思った時もある。

小話をする男子小学生
同じく小話をする女子小学生

 次にパドレ・ラス・カサス町の若者のグループの二人にピエロに扮してもらい、漫才のようなコントをしてもらった。これがまた、面白く子供達は笑いの渦に巻き込まれた。おそらくドミニカ人は天性として人を楽しませるすべを身に着けているのかも知れないと思わされた。

ピエロに扮した若者の劇

 続いて表彰式に移り、各学年1等から3等に入った子供達に先生から賞状を手渡してもらった。それから全員に参加賞が手渡された。それが終わってからもう一度1等から3等までの入賞者に賞品としてナップザックを手渡してもらった。

入賞者に賞状
全員に参加賞を渡す
入賞者に賞品

 こうして一通りセレモニーが終わった後に、飲み物と軽食を食べてもらい、歓談し、絵画コンクールの表彰式を終えた。学年は同年齢の子供達ばかりではなく随分歳が離れた子供も同じクラスにいるのだった。多様性がありよいのではないかと思わされた。

軽食を配る

【おわりに】
 私が見たところでは、残念ながらドミニカの子供の絵は、日本の子供達に比べてあまり上手でないと思った。上述したように、それは学校の授業の中に図工がないからだと思わされた。同様に、音楽と体育の授業がないのである。学校は子供達に勉強を教えるだけで、子供達に情操教育が欠けているのは問題と思った。一番楽しかったと私が思っていた授業がないのである。
 ドミニカ人はバチャータやメレンゲといった音楽は大好きで、ダンスも非常にうまい。子供もダンスをさせると大人顔負けにうまい子供も沢山いる。事務所で一緒に仕事をしていた秘書もしょっちゅう鼻歌のように歌を歌っており、よくこんなに沢山の歌詞を覚えているなあと感心していたが、ときどき音程がずれるので、あれっとよく思ったものである。これも音楽の基礎を習っていないからではないだろうか。
 また、ドミニカ人は体力もあり、野球も強いが体育の授業がないので、運動しないものは子供でも体力があっても体が硬かったり、バランスが悪かったりするように見え、やはり日本の体育の時間は非常に重要なものに思われ、図工もしかりと思ったものである。
 また、技術者についても記述したが、彼らと仕事をしていて、ドミニカだけでなく、どの国でも個人の能力には差がないなあと、中には私よりもよっぽど能力が髙い者もいるなあと思ったものである。しかし、日本が援助する側で、発展途上国よりも優位な立場になっている差は何なんだろうかと考えた時に、国の歴史や持っている資源の量も関係するが、それよりも社会システムの違いや人々のコンプライアンス意識の差が大きいと感じた。個人の能力もさることながら、個々人を集合させた組織が効率的、不正をすることなく動くことが経済力の差になって表れているのではないだろうかと感じていた。
 それはそれとして、このような子供に対する環境教育の成果は大きく、この子供達が大人になるまで、いやもっと長く、一世代20年~30年くらい協力できれば、もっと大きな協力の成果が得られるだろうと思ったものである。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.32_ドミニカ共和国

森林紀行

筆者紹介



ハリケーン「ディーン」(2007年8月)-ドミニカ共和国

【ハリケーン「ディーン」が襲来】
 「超大型のハリケーン『ディーン』の襲来予報が出ている。襲来は今晩だ。厳重警戒せよ。外出は禁止だ。」と首都サント・ドミンゴの事務所の担当者から、この日の午後、電話がかかってきた。2007年8月18日(土)のことである。隣国、ジャマイカを直撃し、ドミニカの南の海上を通過する予測とのことである。そういえば午前中に風が吹き出し、徐々に強くなってきた。午後1時半くらいからパラパラと雨が降り始めるがまだ、たいしたことはない。外にでても、まだそれほど強い風ではない。しかし、空を見上げると、どんよりとしたハリケーンの雲が低くたれこめ、勢いよく飛んで行くのが見える。

【天気が悪くなる】
 この時私は、パドレ・ラス・カサスの町に家を借りており、その日の午後は、通いの家政婦には掃除と洗濯だけを頼み、早く返した。土曜日とハリケーンなので、夕食は自分で作ることにした。午前中に買ってきておいた野菜と肉を弱火でじっくり煮てモロッコで味わったタジン風のものを作る。家には大きな冷蔵庫も二つあった。この家は同じ勤め先のフランキーの持ち家だったが、かなり大きな家で、二階の一部屋にフランキーを用心棒として一緒に住ませていた。フランキーの奥さんはアメリカに出稼ぎに行っており、どきどき帰国してはアメリカから様々なものを買ってくるので、家には圧力鍋もあり、台所用品はありあまるようにあった。それに、二階の物置部屋を捜すと同じようなものがいくらでも出てくるのであった。

【ジャマイカ滞在中の兄夫婦に連絡】
 ちょうどこの時、兄夫婦がジャマイカに来ていた。ジャマイカの友人のところに観光に来ていて、夫婦で2週間くらいジャマイカに滞在していたのだ。そこですぐに電話し、超大型のハリケーン「ディーン」が来ていてジャマイカを直撃するとの予報だと伝えるとまだ、そのことを知らなかった。それで今晩からハリケーンが通過するまで外出せず、警戒してくれと伝えた。翌日8月19日(日)が帰国予定日だと言うことで、「無事飛行機が飛ぶことを祈る」と言って電話を切った。

【アメリカのハリケーンセンターの予報を見る】
 それからネットでアメリカのハリケーンセンターの予報を見た。すると私の住んでいるドミニカ共和国のパドレ・ラス・カサスは、予想中心進路の外側ギリギリくらいの位置にあるが、ジャマイカはまさに中心が通る予報で、直撃である。これは兄夫婦のいるジャマイカは大変だ。無事何事もなく通過してくれれば良いがと祈っていた。

ハリケーン「ディーン」の予報進路
ハリケーン「Dean」の衛星写真
ハリケーン「ディーン」の赤外線写真

【真夜中の訪問者】
 その晩、寝る時分午後10時頃、玄関のドアを開け外を見てみると、雨は土砂降り、風はゴーゴーとうなっている。しかし、家は大きな家でブロック積みだったので、風にはびくともしなかった。この辺の家の作りをみているとほとんどがブロックを積んだものである。ブロックがむき出しの家もかなり多い。借家はかなり金をかけているようで、ブロック積の上にモルタルを塗り、きれいに塗装しているので、見た目はとても美しい。しかし、耐震性は低かっただろう。幸いにもこの時のハリケーンがこの辺を直撃しなかったので、この強風にも楽々耐えていた。そのため、私は1階の奥の自分の部屋で、ハリケーンの恐ろしさも感ずることなく熟睡できた。
 ところがその晩の夜中である。事務所で一緒に働いていて、音楽教育で協力をしているフランス人の女性が突如訪ねてきた。彼女はやはり他の女性職員の家に住んでいたが、もの凄い風雨なので家までそれほど遠くはないが帰れなかったのだろう。事務所から近い我が家に助けを求め訪ねてきたのだ。彼女は、任期を終えフランスに帰国直前であったが、5~6才くらいの小さなお子さんを連れていた。この子が彼女の子供か、教えている子供か、どうかはわからなかったが、私は寝ていたところを起こされたので、目を覚まされて気分がすぐれなかった。しかし、びしょ濡れである。そこで、2階に寝ているフランキーを起こし、彼女の世話をするように言いつけてから、私は再び寝てしまった。2階にはトイレバス付の部屋が2部屋あり、一つはフランキーが使っていて、彼女は空いているもう一つの部屋にその子と共に泊まって行った。シャワーがあったので彼女も助かっただろう。人助けができて良かったとしたものである。

 後で、考えるとこの彼女にもっと丁寧に世話をしておけば良かったと思ったものである。私もこの事務所に来たばかりで、まだプロジェクトを動かすのに必死で、彼女とは事務所では挨拶をする程度で親しくなかったからである。しかし、翌年、彼女がこの地が懐かしく、夏のバカンスで訪ねてきた。この時、市場でばったりで会い、その晩ディスコ(ディスコと言っても立派なものではなく、バーベキューを食べながら踊る青空ディスコである)に踊りに行こうと誘われたのである。その時この彼女は、以前滞在していた事務所の女性職員の家に泊まっていたのである。事務所の職員多数とディスコに行ったが、この晩は大変に楽しい晩で、彼女もかない酔いが回り、陽気なフランス女性の一端を垣間見た。この話は別の機会に書ければと思う。

【兄夫婦の状況】
 さて、翌日の8月19日(日)にはハリケーンが通り過ぎた。アメリカで最大レベルの5とされたハリケーンであったが、ここパドレ・ラス・カサスでは、私が予想していたほどの雨と風ではなかった。しかし、山岳地ではかなりの雨が降ったようである。
 兄夫婦がいるジャマイカが心配である。ジャマイカでは国家非常事態宣言が出た。滞在していた家に電話をしてみると、既に空港に向かって出発した後だった。後で聞くとハリケーン通過翌日で、空港までの道路は大混乱していたが、何とか空港まではたどり着けたとのことだった。しかし、予定の便は欠航となり、変更が大変だったが、何とか夜行便に変更ができ、カナダ周りで、トロントで一泊の後、無事帰国できたとのことだった。

【ハリケーンの通過の後】
 朝10時頃、事務所の職員が、増水した川が渡れるかどうか様子を見に行こうと家を訪ねて来た。援助している村は川向こうにあるため被害状況も知りたいのだ。我が家の近所に住んでいる助手のエディを連れて3人で川の様子を見に行く。すると普段は数mの川幅で、下床路として渡れる箇所も相当に増水しており、とても車では渡れない。上流では相当降ったのだろう。何しろ上流域の山岳地帯もほとんどの土地が牧場や農地として利用されており、山地の保水力は低い。ドミニカがハリケーン銀座とはそれまであまり気に留めていなかったが、これでは下流域のサバナ・ジェグア・ダムでの堆積は相当量あると推測される。そのために住民たちに植林してもらい、その動機づけに農地に灌漑しようと協力にきているのだが、先が思いやられるのだった。この日、風は収まったが、雨は一日中シトシトと降っていた。

対岸に見える道路まで普段は河床路となっていて
渡れるのだが、この増水である。
普段は数mの川幅でおとなしいクエバス川が
激流、急流となった。
これでは下流のサバナ・ジャグア・ダムの堆積は
激しいはずだ。
何しろ上流は、牧場・農地として利用され、
はげ山だらけなのだから。
お手上げ
ハリケーンの増水で、河原の枯れ木の穴に避難していた
沢ガニを発見
自然に生きるものは、どこに避難したらいいかよく知っている

【増水で村に行けない】
 その後、クエバス川が増水で、渡れず、しばらく現場には行けなかった。ただ、この時のハリケーンではクエバス川にかかるバデン(土橋、ヒューム管を並べ水を流し、その上に土を盛り橋としたもの)は流されることはなかった。そのためバデンはすぐに復旧し、村には通えるようになった。しかし、この後10月に来たハリケーン、そして翌年8月に来たハリケーンにより、バデンは流され、その復旧には時間がかかり、プロジェクトの遅延の要因ともなった。

翌年8月のハリケーン「Fay」により流されたバデン
翌年8月のハリケーンで土橋
(ヒューム管の上に土を盛ったもの)が、
流された後に、再構築のため運ばれてきたヒューム管
上流域の森林はほとんど牧場や農地として利用されていて
保水力が低い

【その後もハリケーンに悩まされる】
 私は、この年8月に一旦帰国し、その後上述したように、10月にハリケーン「グスタボ」の襲来により、バデンは流され、次に12月に続けて来たハリケーン「オルガ」によって壊滅的な打撃を受けた。この時に事務所で働いていた同僚は、仕事が進まずハリケーンに苦しまされた。その後、公共事業省により、バデンは再構築されたが、その後も毎年ハリケーンが来る度に流され、翌年は私が同様にハリケーンで苦しまされるのであった。
 このプロジェクトが終わって数年後に、苦しめられたバデンがある場所に橋がかけられ、村人もハリケーンにより交通が遮断されることがなくなり、村はおおいに発展しているとのことである。その後のハリケーンのことについてはまた別の機会に書ければと思う。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.31_セネガル

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セネガルでの経験-アフリカ人の運動能力の高さ

【はじめに】
 アフリカ人のスポーツ選手の運動能力の高さは、誰しも認めるところであろうが、アフリカ人のスポーツ選手に言わせると「勝てるのは先天的な運動能力の高さのおかげではなく、努力のたまものだからだ。」とのことである。実際努力に負うことは確かであるが、私が見たところ走ることなどは日本人に比較して、アフリカ人の方が有利な体型であることは明らかであると思えるので、そのことについて、今回は前に書いた文章も引用して、セネガルで感じたことを書いてみたい。

【セネガルでの仕事】
 まずはセネガルでの仕事であるが、セネガル南西部にあるサルーム・デルタでのマングローブ林の保護をしながら環境を保全し、そこに住む住民がマングローブ林を利用しながら生活の向上を目指す仕事だった。マングローブ林の樹木は、建築材や薪炭材ともなり、住民の生活には欠かせない重要な資源だった。同時に水産資源も育み、防潮堤の役目も果たし、さらにエコーツーリズムなど観光資源にもなる貴重なものである。
 
 そこでマングローブの植林も行った。天然林と人工林で日隠を増やし、海水温を下げ、またマングローブの葉が海水に分解され、養分となり、プランクトンが増え、魚介類が増えるのだった。採った魚介類を販売したり、エコルートを作ったり、マングローブ林を保全しながら収入源を多様化する様々な活動を行った。


 これは村人との共同作業で行ったものだが、活動を通じ政府の職員も含めて多くのセネガル人に接した。それにより驚いたのが彼らの素晴らしい体型と運動能力だった。

干潮になるとマングローブの一種、リゾフォーラの足がでてくる

【体型】
 セネガル人は、平均的に背が高く、日本人より男女共10cmくらいは背が高いのではないかと感じた。私と一緒に仕事をしていた森林局の人と比較したのだが、彼は185cmで、私が170cmなので15cm身長が違うが、座ると座高は同じだった。つまり、足が私よりも15cmも長いのだ。それもスネが10cm、モモが5cmも長いのだ。

 本当に驚くほどスネが長い。底なし沼のようなマングローブ林に入るには、下の写真で私が履いているような日本の地下足袋が最高に適していた。だから一緒に仕事をしているセネガル人も日本から持ってきた地下足袋をプレゼントした。しかし、彼らのスネは長すぎて、日本人のスネは彼らのアキレス腱くらいで,地下足袋をフック(コハゼ)で止める場合,フックの位置を一番狭いところにしてもまだ,ゆるゆるの場合が多かった。とはいえ彼らもマングローブ林を歩くときの地下足袋の素晴らしさを満喫していた。このように足、特にスネが長い場合にはサッカーには向いているだろう。

 それに頭が小さいのだ。私は54cmくらいの帽子をかぶっていたが、彼のそれは50cmくらいで、彼が私の帽子をかぶるとブカブカだった。また、腕が私よりはるかに長かった。これは走る上で大きな素質と思った。運動の専門家に聞いてみると確かにそのとおりで、ヤジロベイのように重心が支点の下にあり、バランスが非常に良くなるとのことだった。

 腕が長いといえば、村でのワークショップ時に、壁に模造紙を貼り付ける時、私が背伸びして手が届かない所を一緒に仕事をしていた女性が手を伸ばし張り付けてくれたことがある。その女性は、身長が165cmくらいで私より5cm低いのに手を伸ばしたら私より10cmくらい上に手が行くので、びっくりした。スタイルが非常に良いのだ。その女性は細くて柔軟性が非常に高いように見え、オリンピックの200mで優勝したアリソン・フェリックスのような感じだった。

スタイルの良い女性。私から右に3番目にいる女性。
男の体型も良い。
右手を挙げている男性の左にいるのが私で
何と足が短いことでしょう。
右から2番目の白い服を着ている人と足の長さを比較した。

 それから、秘書の女性が、仕事は大変に良くできる上に、素晴らしい体形で、オリンピックの短距離選手のような体つきだった。100mをコーチについて練習すれはオリンピックでも出場できそうな体型に思えた。この方は筋肉質に見え、やはりオリンピックで優勝したジャマイカのキャンベル・ブラウンのような体つきだった。私は彼女によく「あなたは素晴らしい運動能力を持った体型に見える。100mでも練習すればオリンピックにでも出場できるのでは?」と言っていた。彼女も「私も皆からそう言われる。」と言っていたから、セネガル人の中でも特に素質があるような体型だったのだろう。

運動能力の高そうな秘書の女性

 男の筋肉質の体も素晴らしい。小型のエンジン付きのボートをいつも使っていたが、その船頭がウエイトトレーニングでもしているように実に素晴らしい体をしていた。エンジンが50kg以上もあり、非常に重いのに軽々と扱っていた。彼らは、米に魚を乗せたチェブジェンという食事が中心で、動物性たんぱく質はあまりとってないはずなのに何でこんなに筋肉質になるのか不思議だった。エンジンの取り付け、取り外し、その保管などが生活に取り入れた良いウエイトトレーニングになっているのだろう。腕の力こぶが自然とでていて筋肉のみというような素晴らしい体型だった。

【子供の運動能力】
 サルーム・デルタは文字通りデルタ地帯で多数の島から成っている。村での活動では島の民家に泊めてもらうことが多かった。マールファファコという村に泊めてもらったある朝、小さな女の子が井戸から水を汲んでいた。

マールファファコ村のリゾフォーラの植林

 女の子の身長は130cmくらいだった。小学校4~5年生くらいにみえたが、井戸からつるべ落としで水を汲んでいた。井戸の深さは10mくらいだったが、そのロープを持って全身を使った動きがしなやかで早く、全く無駄な力を使っていないようにも見え、素晴らしい運動能力を持っていた。私も汲んでみたが、一杯10kg程度はあり、単に力だけでなくタイミングが必要で、汲む速さは全くかなわなかった。日本の同年代の女子ではこの重さでは上がらないだろうと思われた。

 この天性の運動能力をどこかの先進国で開花させれば、オリンピックの何かの種目で金メダルを獲得するのはそれほど難しくはないのではなかろうかと思わされた。この子だけではなく、アフリカ人の多くはそのような素質を持っているのだろうが、開花させられることはなく一生を自分の村で過ごすのだろうなと思った。

マールファファコ村での井戸の中

【コロナ禍のオリンピック】
 今、世界中はコロナ禍の中にあり、そのため東京オリンピックも1年延期された。来年(2021)開かれるかどうかもまだ不透明である。もし予定通り開催されていたら、今頃はすべての結果がわかっていて、日本は、金メダルが何個とか余韻に浸っているころだっただろう。

 来年、ワクチンが行きわたり、コロナも終息していて、オリンピックが開かれることを望むが、オリンピックでは本当に最高の力を持った選手が優勝するのであろうか?世界選手権で2回銅メダルを取り、走る哲学者とも評される為末大は「銅メダルを取ったから、自分は世界で3番目に速い、ということではなくて、たまたまそういうことが評価されるような国の選手が集まった中で、3番だったということに過ぎない。世界にはすごい走者が潜在的に沢山いる。」と言っているが、その通りだと思う。一番力がある選手でも参加していない可能性がある。

 もしアフリカ人が先進国と同じ様に一般の人が豊かになり陸上の競技人口も増え、栄養も良くなれば、より潜在力がある選手が発掘されて、今よりはるかに良い記録がでるだろう。益々日本人は離されてしまう。今でさえ、マラソンでもケニアの黒人選手エウリド・キプチョゲが非公認ながら2時間を切った。これは靴やペースメーカーなど特殊な補助を受けているため非公認となっているが、相当な潜在力だろう。

 一方、これに対抗するかどうかは別として、記録を出すためにドーピングなどの不正をしているものが多いのも大問題である。今のドーピングは、単に薬を飲むということだけではなくて、ゲノム編集までやってしまい、遺伝子検査をしなくてはならないということも聞く。本来の力以上のものを出し、死に至った選手もいるし後遺症に悩まされている選手もいる。また、大企業がスポンサーになって選手を広告塔として利用するなど、他にも問題はいろいろある。

 薬物や特殊な補助に頼ることなく、人間の力だけで、そして潜在力がある人も練習し能力を開花させ参加できるオリンピックになれば良いと思う。しかし、潜在力がある人が参加するようになるまでにはまだまだ長年月が必要であろう。

 そのようなことを考えると人間の能力をオリンピックで開花させる必要もないかなどとも思ってしまう。競争とは無縁な素朴な生活を続けていくのが一番幸せであるかもしれないとも思う。

  それでもやっぱり、潜在能力を持った人達が、本当にその潜在能力を開花させたら今よりはるかに高いレベルの記録がでるのかどうかを見てみたい気もするというのも本音である。そんなことを思いながら、来年は、本当に落ち着いた年になり、本当に能力を持った人たちによる、より素朴ではあるが、ドーピングなども不正もない豊かな祭典、東京オリンピックが開催されることを望むものである。

つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.30_コロンビア

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不思議な夢の中の世界(コロンビア-アンデス)

 コロンビアのアンデス山脈上は、はげ山が多く崩壊地が多いことなど、この地における調査については、何回か書いた。その調査をしていたペンシルバニアという村の状況についても書いた。今回はそのペンシルバニア村で経験した不思議な夢の中の世界だったような話だ。

【ペンシルバニア村】
 ペンシルバニアの村名はまるでアメリカであるが,小さな村だった。カルダス州の州都マニサレスからペンシルバニアまで、山道の道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねと曲がりくねる上にアップダウンを繰り返すので、車の時速は20kmも出せず、ペンシルバニアまでは6時間くらいかかる。その間に見る景色は、山の斜面に牧場が広がり、牛もころげ落ちるという急斜面だ。車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。
 しかし、そこペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。カルダス州の州都マニサレス自体がコロンビアでも有名な美人の土地ということもあろう。この辺りまでは以前に書いたとおりである。

アンデス山脈中の集落ペンシルバニア
はげ山が多い。手前はマツの人工林

【ペンシルバニア】
 ペンシルバニアは標高2,100mくらいにあり、山の中の比較的平らな場所にぽつんとある集落である。街の広さはほぼ700m~800m四方くらいで、一つの通りの幅が約100mである。真ん中の東西に通る道路が中心の道路でその道路の周辺にいくつか店があった。最初は、清潔ではあるが、古いホテルを宿舎としていた。かなりの人が馬を利用しており、18~19世紀の世界に来たような感じを持った。街の真ん中にプラサ(広場、公園)があり、その西側には大きな教会があり、東側には、街の皆が利用する大きなカフェー(喫茶店)があった。数年後に街はずれにロッジ風のしゃれたホテルができたので、その後はそこを宿舎としていた。

【アレハンドロ】
 アレハンドロはコロンビア環境省の共同作業技術者グループの主査だった。非常に優秀で、呑み込みが早く、行動力があり、我々が要求する資料もすぐに提出してくるし、アポイントもすぐに取るし、行動力もあった。我々も非常に助かったし、林業や林産業関係の会社を調査するのも彼ら自身では予算がないので、我々と一緒に回れて調査ができ、非常に勉強になったと感謝もされたりした。この調査が終わった後は、大学教授に転身した。
 そして、彼がまた優れているのは、よくもてることだった。黙っていてもてるというのではなく、柔らかい人当り、巧みな話術で、老若男女誰に対しても優しかった。女性に対しては、女性の喜びそうなことを何のためらいもなく自然と口から出てくるし、まあ南米の男はほとんどそうであるが、生まれ持った天性かもしれないが、うらやましいこと限りがなかった。

【カフェー】
 街中のカフェーは、村人の情報交換場所はここしかないといった社交場であり、前に書いたアデリータと最初に会ったのもこのカフェーである。パトリッシアは、最初にペンシルバニアに来たときにカフェーで見かけた美人である。私はこの世の中にこんな整った顔をした女性は今までに見たことがないと思うくらい美人だった。だからと言って私が心を動かされたということはなかった。アレハンドロは早速話しかけ、すぐに仲良くなっている。何回かカフェーに行くうちに私もパトリッシアと話してみたが、何となく話がずれる感じを受けた。彼女は独身で21~22歳くらいに見えたが、もっと若かったのかもしれない。まるで高校生と話しているような純粋さを感じるのだった。パトリッシアに限らず、ここの若い女性は、生まれた時から人間に育てられた猫のようで、誰に対しても警戒心がないように感じた。それに外から来たもの珍しい日本人には、よけいに興味を持ったようでなついてくるようにも思えた。教会の裏あたりには、アトスという名のこの村では唯一のディスコがあり、我々も金曜や土曜の夜には時々踊りに行ったが、パトリッシアはそこには来なかったので、夜の外出は禁じられていたのだろう。

【土曜日の集まりに誘われる】
 1990年7月14日、土曜日のことだった。アレハンドロから、数日前に土曜日の夜に飲みに行こうと誘われていた。「マスイ、今度の土曜日の夜に、村はずれの牧場に招待されているので、一緒に行こう。招待されているのは私とマスイだけだから、他の者には秘密だよ。この村の名士達が集まるのだ。パトリッシアも来るから行こうよ。」と言われた。こんな山の中で、どのような人達が集まるかわからないので気が引け、また他のメンバーには悪いという思いがあったが、まあ何事も経験だし、パトリッシアも来るならいいだろうと思い、「OK。行くよ。」と返事しておいた。
 アレハンドロは、その性質から誰とでもすぐに友達になるのですぐに顔が広くなるし、市役所に報告に行った時に、週末の名士達の集まりを聞いたのだろう。そこで、アレハンドロと私が行くことを頼み、パトリッシアも誘ったのだろう。

【山中の一軒家へ】
 土曜日ではあるが午後までナナフシの被害状況やマツ林を調査していた。午後5時過ぎにアレハンドロの車で出発した。急斜面の山道ではあるが、道路は山の斜面に平行的に作って有り、ペンシルバニアの町から数キロ、10分ほどですぐに着いた。山と言ってもアンデス山脈は大きいので、日本のように急な侵食された崖のようなところというよりも大きな山海のうねりが続いているといった感じである。

近隣のマツの人工林

 着いた先は大きな牧場の中の一軒家だった。平らな所を選んで木造2階建ての大きな家が建っている。午後5時半頃だった。まだ、日が沈まず外には明るさがあった。早速家の中に入ると広い居間には既に、20人くらい集まっていた。男が10人、女が10人くらいだ。後から3人来たから、集まったのは全員で23人だった。中には部屋が7~8つもありそうだった。小作人に牧場を管理させ、所有者は週末に遊びに来るのだ。

【参加者】
 私は、家の中に入った途端、来なければよかったと後悔した。何となく私の来る場所ではないと感じたからだ。男は知らない人だらけだったが、女性は街中で私でも目が付くほどの美人の若い女性が数人いるのがわかった。パトリッシアがいるのも分かった。しかし、何しろ私だけが異質な日本人で、他は皆コロンビア人だからということもあるが、庶民ではないという雰囲気が漂っていたからだろう。それに日本語ではなくスペイン語だけで、彼らどうしで話す早口のスペイン語には、とてもついていけなかったこともあった。しかし、私の引っ込み思案的な性質からくる思いはすぐに杞憂に終わった。

 中に司会がいて、毎週末でもこのようなパーティをしているのだろう。とても上手に皆を紹介していく。私だけが異質なので、アレハンドロが自己紹介した後、私の紹介も簡単にしてくれたが、その後私自身で、自己紹介をさせられた。自己紹介の挨拶はスペイン語でも数えきれないくらいやっているので、コツがわっていたので、若干笑わせたりスムーズに行ってやや打ち解けた。彼らも簡単に自己紹介をしてくれた。この家の持ち主はこの村の医者だとわかる。その他の参加者は弁護士や先生達で、男の参加者は40代~50代くらいで、やや中年と見えた。南米の人は年寄り上に見えるので、実際はもっと若かったかもしれない。私もアレハンドロも40前後だったので、われわれはどちらかというと少し若い方だった。しかし、女性達は20~25才くらいで、男達よりもずっと若い。全員超がつくくらい美人でスタイルも良くびっくりだ。世の中にはこんな世界もあるのだと改めて世界の不公平さを感じた。中に夫婦が3人いるとのことだったから、若い女性を奥さんにした幸せな男も少なくとも3人はいるということだ。

【キャンプファイアーにバーベキュー】
 しばらくして、作男が、用意ができたと言ってきたので、全員で外に出るとロマンティクな黄昏時である。キャンプファイアーが焚かれ、近くではバーベキューで大量に大きな牛肉の塊が焼かれており、美味しそうな香ばしい肉汁の香りが漂っている。その周りには椅子や切株や木の幹の長椅子が用意されていて、それぞれ好き勝手なところに座る。アレハンドロはパトリッシアの隣に座り早速くどいている。
 赤道周辺は、日本のように北緯35度に比べて地球の回転速度が速いから、黄昏時間が短くて、すぐに暗くなってしまうことを感じていた。6時半くらいにはもう暗くなっていた。夏の赤道上とは言え、標高は2,100m程度なので、気温は15℃くらいと気持ちが良く、乾燥していて、赤道無風帯でもあり、そよ風が気持ち良い。

はげ山だらけのアンデス山脈

 キャンプファイアーの周りで、ビールやコーラやアグアルディエンテが回ってきた。アグアレディエンテは、コロンビアの地酒でサトウキビで作られアニスなどが含まれていて独特の味があり、透明で30度くらいの強さがある。皆それぞれ好きなものをグラスに注ぎ、乾杯である。乾杯はスペイン語ではsalud(サルー)だ。
 アグアルディエンテを飲みすぎると必ず酔っぱらうから、私はビールで乾杯し、酔っ払わないように二日酔いにならないよう、飲み過ぎないように気をつけていた。アレハンドロも最初はビールだったがピッチが速くぐいぐい飲んで、もともと陽気の上にさらに陽気になっている。若い美人の女性達に囲まれているせいもあろう。私は雰囲気に呑まれないように冷静にしていた。肉とジャガイモもどんどんと回ってくる。だんだんと打ち解けてきて、最初は合わないかなと思っていたが、南米人特有のオープンな心で歓待され、私も来て良かったと思うようになった。皆席を入れ替わり色々な人と話していたが、アレハンドロは若い女性を誰彼となく口説いている。

【ゲーム】
 そのうち司会がゲームをやろうと言い出し、全員でハンケチ落としをやって楽しむ。皆必死になって子供の様に楽しんでいる。いい大人が童心に戻って遊ぶのも楽しい。色んな遊びを楽しんだ後、段々と皆酔っぱらってきて、借り物ゲームとなった。最初は男にシャツを持ってこいというと、お互いにシャツを交換した。下着を着ているのは私だけで、全員裸の上にシャツを着ていたのにはビックリした。次に女性達にシャツを持って来いというと、全員がキャアキャア騒いで何事かと思う。女性達はジャンバーのような上着を持ち、全員家の中に一目散に駆け込み、シャツを取り換えっこし手に持ち、ジャンバーを引っ掛けて出てきた。かなりキワドイなあと思っていた。皆真剣に遊んでいる。

【歌】
 遊びも飽きて、次は歌である。真っ暗であるが、キャンプファイアーの火があたりを明るくし、皆益々酔っぱらって乗ってくる。だれかがギターを持ってきて、歌い始める。何曲か歌った後に私も歌わされる。スペイン語で歌った方が受けるので、パラグアイで覚えた「イパカライ湖の思い出」と「シエリートリンド」と日本の「コモエスタ赤坂」を「コモエスタペンシルバニア」として歌ったら大喝采を浴びた。

【ダンス】
 歌が飽きて、次は定番のダンスである。コロンビアと言えばクンビアである。女性達が盛んに踊ろうと手を取り誘ってくれる。酔いも回って皆益々活発になってくる。どちらかというとこのダンスが始まるとほとんど飲まなくなるので、二日酔いにならないで済むことが多いのだ。中南米のいろいろな国で踊ったことがあるが、男女の密着度はコロンビアが一番強いと感じた。パラグアイなどは男女が離れて踊っていることも多く、エクアドルやドミニカ共和国などは日本の社交ダンスくらいであるが、コロンビアは抱き合って踊っているようなカップルも多い。
 
 先生と話していると、ここは田舎だから男女間の中は厳しく節度があるのだとのことだった。「若い女性達もああやって奔放であるが、皆最後は節度があるのだ。節度を破ればマスイもこの村に一生住まなくてはならない。だからマスイも日本に帰りたければ、節度を守らなければならない。」と忠告をしてくれる。
 
 そうこうしているうちに雨がポツポツと降って来たので、全員家の中に入り飲みなおしだ。家の中でもすぐにクンビアのダンスだ。この独特の調子のよいリズムのクンビア、コロンビア人はお腹の中にいるときからクンビアを聞き、ダンスをしているからリズム感が良くダンスがうまいのだと言われるが、さもあろう。

【雨で泥だらけに】
 しばらくして、10時ごろからポツポツと人が帰りだす。雨がだんだん強くなり、土砂降りとなった。一人の女性が車がぬかるみにはまって動けないという。雨の中、皆で車の後ろを押したら、タイヤが空回りして全員泥だらけになった。しかし、幸い車は動き、その女性は帰って行った。我々は家の中でシャワーを浴び汚れを取った。

 さて、夜中のスコールも止み11時くらいになったので、帰ろうとアレハンドロにいうと、酔っぱらっていて、もっと飲みたくて、まだ帰りたくないという。アグアルディエンテをロックでぐいぐいとまだ飲んで、残っているパトリッシアを盛んにくどいているが、パトリッシアもあきれるほどの酔っぱらいになっている。パトリッシアも帰りたがっているが、アレハンドロが引き留めている。実際にアレハンドロの酒癖は悪くて、だいたい土曜日に飲みだすと朝まで飲んでいるのが、定番のようだった。

【アレハンドロに絡まれる】
 残っている女性達と私はしばらく話をしていた。12時くらいになったので、もう帰ろうとアレハンドを連れ出す。この時パトリッシアとサンドラをいう女性も一緒に車に乗り、ペンシルバニアまで帰ることになった。街までわずか10分ほどだが、山道の酔っぱらい運転は危険だった。アレハンドロが酔っぱらっているから、酔っぱらい運転はだめだから私が運転するのでアレハンドロは助手席に来いと私が彼に言った。

はげ山になり侵食が激しいアンデス山脈

 すると酔っぱらいのアレハンドロが豹変し、私に絡んできた。「何い。マスイ。お前は外人だろ。コロンビア人ではないだろう。コロンビアの運転免許書を持っているわけはないだろう。免許書も持ってないのに、お前が運転できるわけはない。黙って座ってろ。」と大変な剣幕である。

 すると後ろの席に座っているパトリッシアとサンドラにも絡み始めた。何と言っているのかはわからなかったが、パトリッシアまで罵倒するとは思わなかった。すると二人は怒って車を降り、歩きだしてしまった。私はあわてて車を降り、二人を連れ戻そうとした。こんな真っ暗な山道を歩いて帰ったら何があるかわからず、車より危険だ。アレハンドロをなだめるから、こんな真っ暗な山道は危険だから車に乗れと説得する。パトリッシアはすぐに車に戻った。しかし、サンドラはズンズンと歩いて行く。私はサンドラに追いつき必死で説得し、ようやくサンドラも納得して車に戻った。サンドラは、この山の家で初めて会ったが、端正な顔立ちで背も高く、知的な美人に見える。怒った顔も美しく、なんでこんなに美人なんだろうと真っ暗な中で不思議に思った。

【街に戻る】
 それから車の中でアレハンドロをなだめすかしてようやく街に戻る。街で、パトリッシアとサンドラを下ろし、街ではカフェーがまだ開いていたので、アレハンドロとそこに入り水を飲ますとアグアルディエンテをくれと言う。一体、酔っぱらいとはいつまで飲むのだろう。
 
 泊まっていたホテルは、街はずれにできたばかりのコッテッジで、帰ると入り口の鉄柵が閉められていて車が入れない。真っ暗な山道を200mほどコッテッジまで歩いた。

 アレハンドロはパトリシアに気があったのにこれでは、もうだめだろうと思っていたところ翌日の日曜日にカフェーに行くとアレハンドロとパトリッシアが仲良くコロンビアコーヒーを飲んでいるのでびっくりした。まあ、酔っぱらいの酔狂は水に流されるということであろうか?

 コロンビアの大田舎の中の特権階級の人々の週末の遊びを経験したのだが、オープンな心で多様性を認めるような、また、お話、ゲーム、歌、ダンスと様々に楽しみ男女の仲が近くうらやましいような、何か不思議な夢の中の世界を経験したような強い印象が、30年も経った今でも鮮明に残っているので、それを書いてみた。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.29_セネガル

森林紀行

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砂漠飛びバッタの恐怖

【空に浮かぶ不思議な物体】
「あの遠くの空に浮かぶあれは何だ?雨雲か?」
「違うな。動いているぞ。超巨大な鳥のようだが?翼竜か?UFOか?」
 遠くの空に見えるやや黒い影のような物体。空を上に登ったり、下に降りたり、右に行ったり、左に行ったり。形は変幻自在だ。良く見ると黒い点の集合体が動いているのだった。
「あれは、今警戒されているバッタだ。」
「そうだサバクトビバッタだ。モーリタニアで発生し、まもなくセネガルに来るとの予報だったが、もうこちらに来たのか。それにしても凄い量だな。」
「こちらに来るかな。」
「どうかな。来るかもしれないし、南に飛んで行ってしまうかもしれない。こちらに来ないことを願うしかないな。野菜畑にも行かずに海に突っ込んでもらいたいな。」

飛んできたサバクトビバッタ

【植林地】
 2004年10月7日のことだった。私は砂丘の植林地の中にいた。この植林は、セネガルに協力を開始して、既に数年が経っていた。場所は、セネガルの首都ダカールから北のモーリタニアとの国境に近いサン・ルイとのちょうど中間くらいに位置するところだった。サン・ルイは、かつてはサハラ砂漠を越えてきた飛行機の中継基地となっていて、「星の王子さま」を執筆したことで有名なサン・テグジュペリも郵便飛行船のパイロットとして滞在していたことで有名だ。

植林地の位置

 この年の植林は、既に雨期に終了していて、植林してから半年ほど経っていた。
 砂丘に植林したのは、この砂丘の後背地には野菜畑が広がり、この野菜畑を砂と風から守ることと、そこに住む住民の居住環境を守ることだった。植林による防風防止効果は絶大なものがあり、数年の植林で樹高が1mとなった植林木でもその効果があり、住民は野菜生産量が上がったと語っていた。
 約700haの砂丘全体に植林を行っていた。植林地は20m×20mに区切り、鉄の杭とネットにより防風柵を設置した。さらに、傾斜15°以上の土地はネットで覆い、砂が飛ばないような対策を施した。植林密度は2m×2.5mでhaあたり2,000本だった。何しろ地元住民の協力も得て苦労して植林した木が、バッタに食べられ枯れてしまったら元も子もない。
 砂丘での植林は難しいと思われたが、雨期には5㎝くらい、乾季でも10㎝くらい砂を掘ると湿気を感じるので、乾燥に強いモクマオウとユーカリであれば成功するとの調査結果から植林の実施に至ったのだった。
  植林した木の根を観察するとここでの根の張り方は下に伸びるのではなく、水分を求めて横に伸びるのだった。水分を求めての適応というのは素晴らしいものだ。

見渡す限りの植林地。モクマオウを植林
手前はユーカリ

【植林地にやってきたバッタ】
 そうこう言っている間に、ついにバッタが植林地上空にやって来た。と思う間もなく我々の目の前に数匹が飛んで来た。するとあっという間に次から次へと大量のバッタが飛んで来て、我々はバッタの集団に囲まれた。 「まずいな。我々が植林したユーカリやモクマオウは食べないだろうな。」

モクマオウの植林地の上空を飛ぶバッタ

「今大量にユーカリやモクマオウにたかっているが、おそらく全部は食べないだろう。ユーカリの葉はバッタの嫌う香気を放っているし、モクマオウの葉は硬くてバッタ好みではない。」
「我々を襲ってくることはないだろうか?」
「ないはずだ。ソレ」と私がバッタをめがけて走り寄り、手を上げ追い払おうとすると、私を襲うことなく一斉に飛び立って逃げていく。しかし、猛烈な羽音だ。ウワーンとうなり声を上げている感じだ。小さい音が重なりあい、共鳴して大きな音を出している。大きな耳鳴りを感じているようだった。もし、これが襲ってきたら逃れようもなく、骨になるまで食べられてしまうような恐怖を感じる。
「困ったものだ。バッタは葉が柔らかくおいしそうな野菜の葉を好むそうだ。」そうこう言っている間に、バッタは野菜畑の方向にも飛んでいく。

【サバトビバッタにたかられたモクマオウ】
 ここにいるだけでも物凄い数だな。一体どれくらいの数のバッタがいるのだろう。数億匹はいるのだろう。モクマオウは物凄い数のバッタにたかられたが、ほんの少し食べられただけで、ことなきを得た。予想どおり葉が硬かったのとバッタ好みでなくまずかったのだろう。ユーカリもほとんど被害なくバッタは飛んでいった。

サバクトビバッタにたかられたモクマオウ

【サバクトビバッタにたかられた木】
 しかし、近くの農家に生えていた樹木の葉が柔らかいものは、葉が食べられ瞬く間に丸裸になっていく。

近くの畑にあった葉の柔らかい木は
バッタにたかられると瞬く間に食べられていく

【サバクトビバッタにたかられたマンゴー畑】
 マンゴーの木の被害もひどかった。緑の葉が茂っていたが、バッタが一斉に葉にたかり、そして飛び立っていくと、緑の葉は一枚もなくなっていたのだった。まるで枯れた木だ。ここでもその飛び立つ羽音の凄さと言ったら表現しようもない恐ろしさだ。

サバクトビバッタにたかられたマンゴーの木
近づくと一斉に飛び立つサバクトビバッタ
同上。もうマンゴーの葉が食べられてしまった

【車のフロントガラスにあたり油で曇る】
 我々が引き上げるときにもまだバッタは残っていた。車が走るとフロントガラスに無数のバッタがぶつかるのだった。ぶつかったバッタが出す白や黄色の油汁でフロントガラスも曇ってくる。ドンドンドンとぶつかってくる。ときどきフロントガラスを拭かなければならなかった。そして国道にでてからはガソリンスタンドでフロントガラスを洗わなければならなかった。
  舗装道路に出るとつぶれたバッタの油汁で車が滑る。とても危ないのでそろそろとしか走れなかった。

サバクトビバッタから逃れる
周りはサバクトビバッタだらけ
フロントガラスにぶつかりつぶれて白や黄色の汁をだす
フロントガラスにとまったサバクトビバッタ

【ウイキペディアから(要約)】
 サバクトビバッタ(学名:Schistocerca gregaria )は、代表的なワタリバッタ(locust)として知られ、時々大発生し、有史以来、アフリカ、中東、アジアに被害を与え続けている。サバクトビバッタは体が大きく、移動距離が長く速度も速い。
 成虫のオスの体長は40-50mm、メスの体長は50-60mmで、前翅は半透明で多数の斑点があり、後翅はほぼ透明で斑点が無い。体色は、成虫になった直後はピンク、しばらくするとバラ色、茶色、オレンジブラウンなどになる。成熟するとオスはくすんだ黄色、メスは明るい黄色になる。
 サバクトビバッタの寿命は3-6ヶ月、1年当たりの世代交代回数は2-5回である。雨季になるまで、1匹1匹が別々に暮らしている。雨季になって草が生長すると、雌が草地に卵を産む。卵が孵った時に、草が餌と隠れ家になるためである。
 ところが草地が元々少なかったり、降水量が減って草地が減ったりすると、幼虫は残された餌場を求めて集まってくる。さらに、互いを引き寄せるフェロモンを放ち、群れを作るようになる。群れは10-16世代にわたって増加を続け、1つの群れは最大で1,200平方キロメートルを移動し、1平方キロメートルあたりに4,000万から8,000万匹が含まれている。

 大発生期を除いて、サバクトビバッタの分布はモーリタニアを西端としてサハラ砂漠、アラビア半島、インド北部までの1,600万平方キロメートルに集中している。群れは、風に乗って移動するため、移動速度は概ね風速に近い。1日あたりの飛行距離は100-200キロメートルである。到達高度は最高で海抜2,000メートルであり、これ以上は気温が低すぎるため上ることができない。

 サバクトビバッタは、毎日自分の体重と同じ量の緑の植物を食べる。種類は葉、花、皮、茎、果実、種と問わない。農作物、非農作物のいずれも食し、農被害としてはトウジンビエ、米、トウモロコシ、モロコシ、サトウキビ、大麦、綿、果樹、ナツメヤシ、野菜、牧草地、アカシア、マツ、バナナなどが多い。さらにはバッタからの排泄物が食べ残した食物を腐らせる。

 西アフリカでの2003年10月から2005年5月のサバクトビバッタの大量発生は、農業に大打撃を与え、地域の食糧安全保障に大きな影響を与えた。始めはモーリタニア、マリ、ニジェール、スーダンでそれぞれ独立した小規模の群れが発生した。この後、セネガルのダカールからモロッコの付近で2日間の異常な大雨が降り、それが原因で6ヶ月にわたってサバクトビバッタは急速に増え続けた。群れは移動で拡散し、20ヶ国以上、130,000平方キロメートルが被害を受けた。国際連合食糧農業機関(FAO)の見積もりによると、この対策費は4億ドル以上、農被害は25億ドルに上った。この被害は2005年前半に降水量が減り、気温が下がることでようやく終結した。

【この時遭遇したバッタ】
 上記のウイキペディアの記事を読むと私が遭遇したサバクトビバッタは2003年から2005年にかけて西アフリカで発生したものとわかる。この群れは発生してからしぶとく数年間生息しこの周辺国に甚大な被害を及ぼしたのだ。

【現在も確認できる植林地】
 さて、肝心な植林地であるが、この植林地はその後、この地域にチタンやジルコンが埋蔵されているということで、セネガル政府はこの植林地を掘り返してそれらの鉱物を採掘したいとのことだった。周辺の砂丘にも植林を進める予定であったが、それでこのプロジェクトは中断となった。しかし、セネガル政府は、採掘は断念したようで、2020年の現在、グーグルアースでみると植林地は残っている。ただし、成長は良くないようであるが、何とか初期の目的の機能は果たしているようだ。

白い鉤型のものが植林用道路。
黒く丸っぽい樹冠が植林したモクマオウとユーカリ
同上。植林用道路が良くわかる。右の緑が畑地

【重い課題】
 サバクトビバッタの異常発生について記してきたが、これも環境破壊が関係していると思われ、現在、コロナ禍もあり、環境問題について少し記したい。
 上記のように環境改善をしょうと協力をしている森林(あるいは土地)を他の用途に使用したいから伐採してしまいたいという例は、ジンバブエでも経験した。森林は環境を守るかもしれないが、経済的価値は生まないものとして、目先の利益に目くらまされて、森林はより経済的価値が高い土地利用に転換されていくことにより減少していくのだ。環境は経済に勝てないとしたものであってはならないと思うがなかなか阻止できない。実際に環境の価値を正確に測れれば、他の用途に利用するよりもはるかに高い価値を有する場合は沢山あるのだ。しかし、理解されないのである。
 昨今の新型コロナウイルスの発生源は、中国奥地のコウモリなどと推測されているが、ウイルスが病気をもたらすエイズやサーズやマーズなどは、熱帯林の破壊など環境破壊が原因ではないかとも思われている。確かにここ50年の熱帯林の破壊はすざまじいものがある。短期間で莫大な量の森林を破壊したという意味で取り返しがつかないものがある。この巨大な破壊がウイルス病などと関連しているとすれば、現在のコロナ禍などはこの程度で済んでいるのはある意味幸運かもしれない。
 地球温暖化にしても自然の摂理で地球が暖かくなる以上に人間活動が二酸化炭素の排出などにより拍車をかけているからで、パリ協定などが守られ、環境を保全できれば地球温暖化も平準化するであろう。環境と経済の両立、正常な感覚を持っている人々にとっては昔からずっとわかっていることと思われるが、為政者が理解し、本当にバランスを取っていくことが、これからの人類に課せられた重い課題である。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.28_ボツワナ共和国

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ボツワナでゾウに脅かされた話

【ボツワナへ】
 ボツワナへ行ったのは、2003年の9月下旬から10月初旬にかけてのことだった。目的は、ボツワナの林業と森林状態を調べ、どのような協力ができるのかを調べることだった。それはそれとして今回の話はチョベ国立公園でゾウに脅かされた話だ。

アフリカ大陸の南部に位置するボツワナ共和国

 成田から香港で乗り換え、南アのヨハネスブルクに向かった。飛行機の隣席はイギリス人の若い女性で、私がいろいろ話かけても最初は静かだったが、話すうちにだんだんと打ち解けてきて、会話がはずみ、南アにいる恋人に休暇を利用して会いに行くのだと、当てられっぱなしだったが、良い思い出だ。隣席に誰が座るかわからないが、私は誰とでも良く話したものだった。 ヨハネスブルクの空港で、別の国から飛んできた同僚と落ち合い、ボツワナの首都ハバローネに向かった。ボツワナの仕事が終わった後はハバローネの空港で、その同僚は別な国の調査へと向かい、私はヨハネスブルクに戻り、そこで、また別な国から来た他の同僚と落ち合い、次に調査するザンビアに向かったのだった。

【私の状態】
 私の状態と言えば、ボツワナの東の国ジンバブエで肝炎を患い、回復してから約3年が経っていた。まだアルコールは全く飲めなかったが、普通に活発に活動できる状態だった。このころは世界中を股にかけて飛び回っていたような感じだったが、ジンバブエで肝炎を患う前の怖いものなしの状態から、健康と治安には相当に気を使うようになり、慎重に行動するようになっていた。

【首都ハバローネ (Gaborone)の森林局】
 首都のハバローネのスペルの最初にGが付くのが面白い。ツワナ語と言う現地語だそうだ。「悪くはないんじゃない」くらいの意味のようだ。 ボツワナの森林局を訪ねた。森林局の地図部門には、「CUSTOMERS WE DON’T GIVE INFORMATION IN MAP SALES BUT INSTEAD, WE SELL THE INFORMATION.」(お客さんへ 我々は地図を売って情報を与えているのではなくて、我々は情報を売っているのだ。)としゃれたことを書いてあった。つまり、地図は単なる図形ではなく、様々な情報を読み取れるのだよと言っているのだった。

農業省の下にある森林局
地図局の入り口の文言

【何となくクリーンな印象】
 私が調査したことがあるジンバブエ、ザンビア、モザンビークなどボツワナの周辺の国の森林局の上層部には相当に、うさんくささが漂っていたが、ボツワナではその匂いを感じなかった。アフリカ諸国は援助付けでもあるし、これは先進国にも問題があるのではあるが、構造的に汚職を生む土台がそろっているので、この問題を取っ払うのは難しいだろう。
 ボツワナはダイアモンドが産出され、国家財政が豊かであるということから道路などのインフラ整備も進んでいたし、そのために職員の給料も良くクリーンな感じを受けたのだろう。

【チョベ国立公園へ】
 森林局から二人の技術者についてもらい、森林と森林の管理状況を調べながら、南の首都ハバローネから北のチョベ国立公園まで、国を縦断するように往復した。ハバローネから車で1,000㎞以上もある。ついてくれた技術者の一人の名前はセックゴポさんと言った。

 ボツワナの地図、北部のZAMBIAと書いてあるあたりのボツワナ側にチョベ国立公園があり、国境は、ボツワナ側がカサネ、ザンビア側がカズングラという町である 。

【途中のNataで一泊】
 チョベ国立公園は、何万頭ものゾウがおり、世界最多のゾウが集まっているという。一日ではチョベ国立公園にはつけないので、途中のナタという町で一泊した。ナタには良いロッジがあった。

ハバローネを出発。道路は整っている
途中の街路樹の花と実
しゃれたロッジの室内
ナタ周辺にはダチョウも沢山いる
ナタの国有林の営林署
営林署の火の見やぐら
火の見やぐらから。乾季で葉が落ちている。
樹種などはジンバブエで調査した森林とほとんどかわらない。
ナタの営林署の近くにもゾウがいる

【ナタの営林署】
 ナタ営林署を訪ねるが、周辺にはダチョウやゾウも見られ、林相はジンバブエの森林とほとんど同じだ。このあたりはミオンボ林と呼ばれ、モパネやムクワという樹種などが目立つ。しかし、乾季でみな葉を落としているので、ゾウは剥いだ幹の皮も食べている。
 営林署には火の見やぐらがある。乾季は山火事が多いのである。もちろん登ってみるが、たかが20mくらいであるが、上の段に着くまでの階段では上に上がるにつれ足が震える。多かれ少なかれ高所恐怖症だ。慣れれば大丈夫だろう。 林内は砂地で近くのカラハリ砂漠から飛んできた砂が何万年もの間に積もったものだ。養分が少ないせいもあろう。上層の樹高は15mくらいだ。

【チョベ国立公園】
 翌日、カサネの町に着き、営林署に挨拶した後に、早速チョベ国立公園のゾウを観察に行く。遠方に沢山のゾウをみることができる。大型動物を見るだけでワクワクするというのは誰しも持つ感情であろう。双眼鏡で見ているだけでも飽きずにずっとみていたい。公園内にいくつか走っている道路を進んで行くが、車の前をキリンが横切ったりする。ライオンもいるはずだが、ライオンを見ることはできなかった。

遠方に見えた沢山のゾウ
キリンが車の前を走っていく

【ゾウがねぐらに帰る】
 夕方になると水辺にいた全部のゾウが一斉に移動を始めた。何百、何千ものゾウが10頭ずつぐらいのグループになり、グループ毎に移動していく。グループはファミリー単位だろう。それぞれのねぐらへ戻っていくのだろう。
 ゾウのグループのリーダーはメスだとのことだ。そうすると体高が2m強くらいの体が2番目くらいに大きく、先頭でグループを引っ張っているゾウがリーダーなのだろう。グループの最後にいる大きくキバ(象牙)が長いゾウはオスだと思われる。ただし、ここのゾウは他の地区のゾウに比べてキバが短いとのことだ。それはここの土地が砂地で養分が少ないことが関係しているとのことだ。

【車がスタック】
 運が悪いことに、ゾウが移動している通り道の近くで車がスタック(タイヤが空回りして前にも後ろにも動かせない)状態になってしまった。砂地だからだ。エンジンをふかすたびに砂地にめりこんでいく。ゾウの通り道のすぐそばだ。30mくらいしか離れていない。 次から次へとグループが通り過ぎていく。観察するにはもってこいだ。先頭のゾウの後にはそれより小さなゾウや子供のゾウがいて、最後に一番大きなゾウがファミリーを守るようにやってくる。体高が3m以上もあるような巨大なゾウだ。これはオスに違いない。ゾウの移動速度は結構早い。大きいから遅く見えるが、人間が歩くよりはかなり早く、時速10km近く出ているのではないかと思われる。

【巨大なゾウに脅かされ車から逃げる】
 スタックしてしまった車はなかなか砂地から出られない。大きなエンジン音を吹かしたら、あるグループの癇に障ったか、グループを守るように最後にいた巨大なゾウがこちらへ前足を上げたかとおもうといきなり走りながら近づいてきた。
 これはやばいと運転手含めて5人乗っていた全員が「Get away(逃げろ)」とドアを開けて飛び降りるやいなやゾウと反対方向に50mほど猛ダッシュで逃げた。私は昔、陸上部にいたおかげで、このような時の逃げ足はいつも一番早い。昔の間隔を足が覚えていて反応する。しかし、筋肉が衰えているので、全力で走ってしまうと怪我をする恐れがある。そうは言っても全力で走らなければならない。砂地なので、我々が逃げてもせいぜい時速25kmくらいだっただろう。ゾウは本気になれば時速40km以上で走れるということだから、あの巨体で人間より早いのだ。ゾウが本気なら逃げても無駄と言うことになる。

【運よく助かる】
 しかし、人慣れしているせいもあろう、運よく、巨ゾウは車の2~3m手前で止まり、大きな声を発して、くるりと翻り、グループに戻り、また、一番最後からグループを守るように帰っていった。 危うく車を踏みつぶされるところだった。誰かが車の中に残っていたら確実に踏みつぶされただろう。一瞬のことだったが、全員逃げて助かった。それから皆で車を押し、ようやく砂地から脱することができた。

足が見えているのがグループの先頭の2番目に大きなゾウ。
次に子供や中くらいのゾウが続く
最後に一番巨大なゾウがグループを守っている
去っていくグループ

【カサネの苗畑】
 カサネには営林署の苗畑もあり、何種類もの苗木を生産していた。ここで働いていたおばさん達は体も大きく、力もありそうだったが、とても陽気だった。

カサネの苗畑
苗畑から見えるチョベ川

【カズングラのフェリー】
 カサネはボツワナ側の町で対岸のカズングラはザンビアの町である。川はここで、北側のザンベジ川と西側のチョベ川が合流する。ビクトリアの滝のあるリビングストンの町より約70km上流にある。ジンバブエで仕事をしていた時には、ジンバブエ側からリビングストンまで、ビクトリアの滝を見に来たことがある。
 カサネの町からカズングラの町までの川幅は広く、700m以上はありそうに見えた。このザンベジ川をわたるフェリーが運航していた。このフェリーは、ここでは最も大きな水上交通手段である。
 この後、この場所に、日本の協力で橋が建設されているそうで、長さは約930mとのことである。計画よりも若干遅れているようだが、今年(2020)あたりに完成するもようである。

「ガズングラのフェリーを清潔に保て」という看板
カズングラのフェリー

【その後】
 私がボツワナを訪れたのは2003年だったが、その後、約10年経って、ボツワナでの森林調査の協力が始まった。その時、私は既に、この時の勤め先は退職していたが、この時一緒についてくれた技術者のセックゴポさんが、日本に研修に来た。そして私に会いたいと前の勤め先に私を呼んでくれた。前の勤め先で会ったのが2013年12月5日だったからちょうど10年経って会ったのだった。お互いにこの時のことを鮮明に覚えていて、あの時は命拾いをしたなあと抱き合って旧交を温めたのであった。


【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.27_メキシコ

森林紀行

筆者紹介




ブエナビスタ村の山火事の後-メキシコ(シエラファレス山脈の村)

【山火事後にメキシコに派遣される】
 山火事の後、プロジェクトでは、ブエナビスタ村の復興のための森林管理計画を作成したのであるが、予定の期間がきたため1999年の初めにプロジェクトは終了した。その後、その計画を住民のみで実行していくのは、やはり難しかった。そのため、計画の実行を継続して支援する技術者が派遣され、村に森林委員会を設立させ、侵食防止柵を作ったり、植林をしたりしたが、その技術者も派遣期間が終わったので帰国した。その後も継続して技術者の指導が求められたので、どのような方向で指導するかを定めるために2001年3月から4月にかけて私が派遣された。その時のブエナビスタ村の山火事後の状況は次のようだった。

山火事後に再生しつつあるマツ林

【ブエナビスタ村の水道の状況】
 村の状況を調べると、壊された水道設備は既に復旧されていた。水道は、山火事の後に起きた大きな土壌侵食により、取水口、そこから村まで水を引くパイプラインが破壊されたのだった。その復旧の資材を村の資金で賄うことは難しかったので、我々は日本大使館に、草の根無償という返済しなくても良い、資金援助を頼んだところ、それが認められて、日本大使館が資材費などの支援をしてくれた。これが大いに役立ち、水道を復旧することができた。
 実際に働いたのは村人がテキオ(村のための無償労働)で再建したもので、村のタンクには感謝の碑が張り付けられていた。再建された主なものは、取水口のタンク、約5kmにも及ぶパイプライン、それに村での貯水タンクだった。

沢に設置された村の水道の取水口
新たに引いたパイプライン。5km
村の中の貯水タンク。ここから各家庭に配水

 山火事直後の調査時には、水源はもっと奥の水が豊富な沢からとるように計画していたが、労働が大変だったためだろう、村からより近い沢に取水タンクを設置してしまった。そこで、その沢の上流は水源保全林として伐採しないで、マツとカシの大きな混交林になるように育てるように計画を変更し、そのような森林の取り扱い方法を村人とともの現地を回り説明した。

森林の取り扱い方法を説明する
説明に使った図など

【村人から感謝される】
 村人からは、日本大使館から資材の援助を受けたことを私に盛んに感謝してくれた。実際にこの草の根無償のアイデアを出したのは社会経済関係を担当している女性団員だったし、その団員や大使館の方が感謝されるべきだったが、私に感謝してくれ、私は役得だった。

【村での計画の実行状況】
 山火事の後に派遣された技術者の指導のもと、村人は被害を受けた森林を早急に元に戻すため、様々なことを実行していた。まずは、土壌侵食防止として、約10haのマツの火災跡地に、焼けた木を横に並べ侵食防止策を行っていた。これは侵食防止にとても役立った。 次に森林の回復であるが、天然更新(マツの種子が地面に落ち、自然に発芽させる)と人工更新(植林)対策を行っていた。天然更新の補助作業として、落ちた種子が発芽しやすいように、マツ林の林床を下刈(草刈り)していた。分散し多くの場所で行っていたが全体としては約1haだった。天然更新状況を調べてみると、どの箇所も非常に良好だった。マツの発芽には、光を求めるので、山火事などで焼けた跡地には光が入り、また種子が大量にマツカサ(球果)から落ちるので天然更新し易いということもあるが、本当に良く発芽していた。

発芽後やや成長した稚樹
大量に天然更新し、成長しつつある次世代の木

 植林は、マツの苗木35,000本を約30ha(3m×3m)に植林していた。実際のところマツの天然更新は、非常に良く、あえて労力をかけて植林しなくとも元のマツ林に戻ることはあきらかであったが、植林を奨励した。それは、植えるという行為は森林を育てることに意欲を保つために良い効果があるからだった。

マツの球果。これから種子を採取する
村の苗畑

【森林の伐採】
 そして、我々が作成した森林管理計画をもとに、メキシコの技術者が具体的に伐採箇所を指定し、25,500㎥を伐採した。伐採は、最初、村の住民自らが行っていたが、その後、会社に一括請負し、その会社に材を販売し、村の収入としていた。山火事跡地の材なので、品質が悪く、買いたたかれていたが、他に買ってくれる会社もなく、やむを得なかったのである。それでも村の大きな臨時収入となり、いわば村は焼け太ったのだった。

伐採したマツ

【伐採収入の用途】
 思わぬ資金を村では手にしたので、バスを購入した。36人が座れる大型バスである。このバスで、州都のオアハカまで週に2階往復することにした。片道50ペソとのことで、円換算すると約500円だった。このバスにより、買い物、病院への診療、親類への訪問等、村の発展に大いに役立つこととなった。今まではなかなか町には出られなかったが、予定を立てて州都オアハカへ出かけられるようになり、このため特に女性達が森林の重要さを認識したのだった。 この他、木材運搬用の12トントラック、それに住民が利用する1トントラックなども購入した。伐採収入は、車の燃料や住居の水道整備などにも使われていた。

村で購入したバス

【村の発展を願う】
 村の最大の資源である、森林が燃えてしまうという未曽有の山火事に会い、村は一大危機に遭遇したが、焼け残った豊富なマツを売ることにより、村にはかえって臨時収入が入った。外部からの支援としては日本大使館の支援があったが、いわば自前の貯金の切り崩しだった。災い転じて福をなす、まさに焼け太り状態だった。おかげで村のバスやトラックなども買うことができた。これらの村の政策実行は村人自身が考えたことで、これもかなりの頻度で行われる住民総会、つまり直接民主制が効果を発揮しているからだった。自分達でいろいろと考えて行動してきた結果である。
 水道の再建で住民生活に快適さが戻った。バスのオアハカまでの定期運行で便利になった。そのためか新築の家も増えた。なによりも、住民が明るさと活気を以前にも増して取り戻したのが素晴らしかった。
 ただし、日本大使館が水道再建に援助したため、日本に頼めば何でもしてくれるといった雰囲気も漂っていて、私もその後の援助を頼むと盛んに言われたものである。
 思わぬ森林火災により、伐採収入が入り、住民は森林の重要さを再認識した。この意識を持続することが重要であるが、村役員がしっかりしているので、これを持続することは困難ではないと思われた。 私がこの協力に参加した後、既に20年近くも経過しており、村は各段に発展しているのではないかと想像される。今はどのような状態にあるかできればいつか訪問してみたいものである。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.26_メキシコ

森林紀行

筆者紹介





ブエナビスタ村の山火事-メキシコ(シエラファレス山脈の村)

【村での山火事】
 ブエナビスタ村は、メキシコのオアハカ州のシエラファレス山脈の中の奥深い山中にあり、先住民のチナンテコ族の村ということについては、前の紀行文で記したとおりである。

ブエナビスタ村の位置

 さて、この村で1998年5月7日に、近隣の村の農地での火入れが原因で山火事が発生した。この山火事は周辺の多くの村にも延焼し、ブエナビスタ村にもこの2日後の5月9日午後3時過ぎに到達した。折から乾季であったことと、村は急傾斜地にあり、南からの風が火災をあおり、瞬く間に急斜面に火災が広がった。そのため、わずか一日、あっというまに、この村全域の森林に燃え広がり大規模な山火事となった。そしてこの山火事は一週間も続き、村の西の境界として流れている川で止まり、また山の上部はメソフィロ林と呼ばれる雲霧林まで到達した。さすがに雲霧林は湿気が高く、そこまでは延焼できず、メソフィロ林で鎮火したのだった。

ブエナビスタ村の遠景。
真ん中あたりの緑がある場所が村で、周りの森林は焼かれた

【人的被害等】
 幸い村は住居、村の周囲は農地として切り開かれており、村人は必死の防水で村までの火の侵入は防ぐことができた。村は大変な灼熱地獄だったとのことであったが、何らの人的被害はなかったことは、不幸中の幸いだった。しかし、火災の後に発生した土砂災害によって、村の上部に設置してあった取水口と村までのパイプラインが破壊され、その後、村は水不足に陥り、水道が復旧するまでは大変な苦労をすることになった。

山火事後、侵食された土砂で破壊された村の取水口

【森林の被害状況】
 我々は森林をどう取り扱うかの計画を作っていたが、計画を切り替え、山火事後の復旧計画作りをすることにした。まずは森林の被害の把握であるが、山火事跡地の森林を調査し、微害地、中害地、激害地と3ランクに分けた。微害地は樹木の枯死率が概ね40%以下とし、中害地は樹木の枯死率が40~80%の地域とし、激害地は樹木の枯死率が80%以上の地域とした。このランク分けでの結果は、微害地が7割、中害地が1割、激害地が2割だった。見た目は木の葉が燃え、茶色くなっているので、大被害を受けたかと思ったが、7割が微害地だったので回復は望めるとやや安堵したものである。
 激害を受けた場所は、南向きの急斜面、尾根沿い、下層植生が多かった森林や密度の高いマツ林だった。要するに風通しの良い場所や燃えるものが沢山ある場所だった。標高の高い雲霧林は湿気が高いので被害がなく、標高の低い乾燥林は下層植生が少ないためほとんど被害がなかった。 激害地では、完全に焼き焦がれた樹木もかなりの量であったが、枯死し、枝が焼けても幹は立木として残っているものも多く、そういった立木は使えるので、製材所への販売が急がれた。

山火事後に枯死した流木を販売するため伐採

【山火事の影響】
 山火事後の被害は、樹木が失われるという被害よりも、いわば二次被害であるが、土壌侵食に起因する土砂災害がとてつもなく大きかったことである。この土砂災害は教科書で習った通りで、現実に目の当たりにしたのは初めてであった。 それは森林の樹木が失せるとまず、表面侵食(sheet erosion)が起きることである。これは地表を面上に流れる雨水によって、表土が面状に薄く剥離されていく現象である。

表面侵食により流されてきた表土。すでにガリー侵食もみえる

 続いて、リル侵食(rill erosion)が起きることだった。これは、地表のわずかな凹んだ箇所に集中した雨水が斜面の下方に向かって流れ、多数の溝を並行的に刻む現象である。

この写真は急斜面であるが、並行的に多くの溝が刻まれている。
その下部は既に崩壊が起きている

 そしてこのリル侵食がもっと進み、ガリ侵食(gully erosion)を引き起こすのだった。これはリル侵食を深くし、谷のようにする場合もあるし、斜面と斜面の接合部などを谷にし、深い峡谷状の切れ込みにして行く。そしてガリ侵食が、渓岸浸食を引き起こすのである。この侵食以外に、焼けた樹木では、昆虫類が発生し、虫害となっていった。

ガリ侵食。山火事発生2か月後。
土砂が堆積し、小さな扇状地となっている
同じ場所。山火事発生5か月後。土砂が厚く堆積
下層まで焼けた森林でのガリ侵食
渓岸浸食。
真ん中の谷間のガリ侵食から斜面に崩壊が起きている
ガリ侵食で道路も寸断

 大規模な表面侵食が発生し、リル侵食、ガリ侵食となり、その土砂が流出し、さらに渓岸浸食を誘発したのだった。この侵食によって、既に述べたように、村の上部に設置されていた水源の取水口とパイプラインが破壊されてしまった。このため村では深刻な水不足をきたした。今までは、この水源から村に設置されていた大きなタンクまで鉄パイプで水を引き、このタンクに水を溜め、各家庭に水道を敷き、配水されていたのだが、水道から水が出なくなったため、村人は川までバケツを持って、水を汲みにいかなければならなくなり、大変な重労働が生活の一部に加わった。

【復旧対策】
 このような大被害に対し、我々は村人とともに、いろいろな対策を考えた。直接民主制の良いところは、村人が自分の思いを主張できることで、皆が納得して決まれば、自ら進んで計画の実行に参加することだった。実行に際しては、村にはテキオ(共同体での村を良くするための個人の無償の労働力提供)があることで、これは例えば、日本での町内会でも清掃に皆が参加するようなものであるが、実際は、もっと大規模で多くの時間を村のために費やさなければならないが、伝統的な良い制度だと私は思った。 色々な対策では、取水口の復旧や水管理、消火団の創設や通信網整備などの水に関連したプロジェクト、山火事で薪不足に陥ったために、薪林を作ったり、マツ林に手を入れ改良していくことや各家庭でかまどを改良し薪消費量を抑えるなどの薪関連プロジェクト、その他として復旧のための補助金を捜したり、人材を投入する対策などを立てた。

【緊急な土砂災害対策】
 特に緊急な土砂災害対策は次のようなものを立てた。基本的には、まず村として守らなければならない保全対象がある箇所に対策を立てることとした。具体的には農地や道路などを守るべき対象として、それに侵食が及ばないような防護対策を立てたのである。そしてその対策は、資材は村で調達でき、村人自身によって簡易に建設できる工法としたのである。
 具体的には、石積や丸太や枝を使ってのガリ箇所などでの土留めである。専門的にはチェックダムと呼ばれるものである。これは簡素で低費用な構造物である。これらは4~5年程度の耐久性は見込めたので、この間に森林が回復し、森林の下層に植生が再生すれば侵食の進行を抑えることができるのである。また、ひび割れが生じた土地には、すぐに土を埋め込み、大きなリルやガリーに発達しないような防御策を取った。 作った構造物を保護し、植生の更新と成長を促進するために、構造物の周囲の土地では、放牧を禁止し火災から保護したり、持続的に保全活動を行い、構造物の維持管理を定期的に行うために村人自身が規律を作った。

【天然更新】
 上層の樹木がなくなった後に、その木の次世代の芽が生えてくることを天然更新というが、マツ類は上木がなくなり、裸地になるとすぐに、大量に次世代の芽がでてくるのだった。この中で大きくなりそうなものを選んでいけば植林をすることなく、次のマツの林になることが期待されるのだった。

真ん中の芽が新たに生えてきたマツ。山火事後5か月
同じくロブレ(カシ類)の天然更新

【その後】
 プロジェクトは計画を作った段階で終了したが、村の取水口とパイプラインの再建には、日本大使館で草の根無償という資金援助の制度があったため、これをお願いし、資金を出してもらい村人自身で再建した。また我々は、メンバーの何人かが交代で村に入り、技術的な支援を続けたのであった。こうして村は徐々に復興していった。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.25_メキシコ

森林紀行

筆者紹介




メキシコ-シエラファレス山脈の村-ブエナビスタ

【信用されない最初の訪問】
「我々は、皆さんの村が持っている森林、特にその中のマツを皆さんが、持続的に利用して、村の発展に寄与できるような森林計画作りを協力するためにはるばる日本からやって来ました。是非とも我々がこの村に入ること、そして村の皆さんと共に計画を作ることに協力して下さい。」
「今、何といった?どこから来たって?」
「日本からです。」
「なんで日本から来たんだ?日本がどこだかわからんが、はるか遠い国だとは知っている。なんでわざわざそんな遠い日本からきて我々の森林をいじるのだ?」

ブエナビスタ村の位置

「それは、我々はメキシコの環境省に協力しているからで、具体的にはメキシコの森林を保護し持続的に利用する計画作りに協力しているからです。その一環で、天然林が沢山残っているこの村がモデル的に選ばれ、皆さんの村の発展を手助けできると思うからです。」
「金は誰がだすのだ?」
「もちろん協力側の我々です。村の資金は一切使いません。ただ、皆さんには森林を調査するのに手伝ってもらうことになると思います。」
「あんたたちは、我々が今までそうやってずっと騙されてきたことを知っているだろう。この村の上の道路だって、製材会社が道路を作ってやるといって、道路を作ったが、ついでに周りのいいマツを皆伐って持って行ってしまったのだ。上の道路からこの村に来る道だって同じだ。村まで道路を作ってやると言って製材会社が皆マツを伐って持っていってしまったのだ。我々の村の資金を皆持って行ってしまったのと同じだ。あんたたちだって同じだろう?」
「いいえ、我々はマツを伐ることはしません。守りながら持続的に使う計画を作るのです。あなたたちを騙すなんてことは絶対にしません。森林を上手に使えば成長した分だけを利用し、持続的に利用できるのです。再生可能な資源なのです。我々は国際協力でこの仕事をしているのですから、もちろん村の発展のためにしていて、ましてや騙すなんてことは絶対にしません。」

マツとカシの混交した天然林

「いいや、信用ならねえ。」
「ここにちゃんとメキシコの環境省の技術者もいるとおり、2国間で協力してやっているのですから、是非協力して下さい。」
「だいたい、誰がただで、森林の計画を作ってくれて、村の発展に協力してくれるのかっていうんだ?ただで何かをしてくれるなんてことは今までだって一度もあったためしがない。ウソに決まっている。帰ってくれ。」
「わかりました。今日のところは引き揚げます。でも、また説明に来させてもらいます。この周りの森林を見てください。伐られたといってもまだまだ、沢山良いマツがあるではないですか。これを持続的に利用できれば、村の資金となり、本当に村の発展に寄与できます。」
「もういいから帰れ。二度と来るな。」
「まあ、そう、言わずに。また、来ますからよろしくお願いします。」

と言って我々はその日は引き揚げたのだが、村人が今までどんなに迫害を受け、騙されてきたか、それが外部の人間を受け付けなくしているということが良く分かった。

【ブエナビスタ村の位置、民族】
ここは、メキシコ、シエラファレス山脈の中の村、ブエナビスタと言った。メキシコのオアハカ州の州都オアハカから北に向かい、我々はイクストランという村を拠点にしていたが、そこからまた約80km、車で約5時間の山道を入ったところにある村だった。ブエナビスタ村は、シエラファレス山脈の大森林の中を切り開いた村であるが、切り開いたのは、先住民のチナンテコ族だった。その昔、スペイン人達の迫害を逃れて、このような奥山に住み込んだものと想像される。そのそもそもの初めから外部の人間を信用できないのは当然だったのだろう。

【受け入れてくれる】
村のことはコムニダ(共同体)と言った。最初に行った時は、上で述べたように、村人から我々は全く信用されずに、追い返されたのだったが、 ねばり強く何回も通っているうちに、いままで村に来たメキシコ人にはない誠実さのようなものを日本人が持っていることを見出してくれたのだろう。 村人も打ち解けてきて、 人を騙すのではなく、本当に国際協力であることを理解し始めたように思えた。そしてとうとう、日本人が村に入ることを受け入れると言ってくれた 。マツを伐って持ってしまうことは絶対になく、マツを持続的に利用する計画作りで、それが村人自身が実行する計画なら森林には何の危害も加えられないということで、我々の調査を受け入れてくれたのだった。
我々はうれしくほっとした。おそらく先住民は、はるか太古にベーリング海を渡り南米に広がったものの子孫だろうが、日本人とも一部は同じ遺伝子を持っているはずだ。そのような同類としての潜在意識のようなものもあったのかもしれない。 そして調査を始めるや否や、最初から非常に協力的になってくれた。

シエラファレス山脈の林相

この村は調査中に山火事で大被害を受け、計画作りは山火事あとの森林の復旧計画にせざるをえなかったが、それはまた後に書くとしたい。

【宿泊】
最初に受け入れてもらってからは、村にはたびたび訪れ、長いと2週間~3週間くらい滞在した。泊めてもらったのは、村役場の施設か民家である。食事は民家で作ってもらった。村役場は住民たちがマツを売って儲けたお金で自ら建てたものである。役場の2階にサマーベッドと寝袋を持ち込み、多いと10人くらいで泊まった。女性団員も数名おり、それぞれ好きな場所を陣取り、雑魚寝である。いびきがすごい人がいてまいったことも多々あった。

マツを売った資金で村人自ら建設した立派な村役場

【食事】
我々は朝食、夕食は民家で頼んでおり、ほとんどがトウモロコシの粉をこねて焼いたトルティージャだけだった。昼もトルティージャの弁当だった。簡単と言えば簡単だが、これでは栄養失調になるもの仕方がないであろう。後にスペインに行ったときにトルティージャを頼んだら、オムレツのようで中身も沢山入っていて、全く違うもので、メキシコのシエラファレス山脈のトルティージャをかわいそうに感じた。11月の死者の日(日本のお盆に当たる)には村でパンを焼いたが、そのパンがコチコチに硬くなっても終わるまで毎日だされた。

【トイレ事情】
尾籠な話で恐縮であるが、トイレは生活する上で非常に重要である。役場の2階に宿泊していた時は、水洗ではあったが、すぐに故障し修理が大変で、溜め置き式の方がずっと清潔と感じたりしていた。そして民家に泊まったときには、トイレは溜め置き式であるが、水洗と同じように板の上に座って行う方法だった。そばにバケツに入ったトウモロコシの食べガラが沢山入っているのでなんだろうと思っていたところ用をたした後にそれで拭くのであった。私はできなかったので紙を使っていたが、ものがないところでは、いろいろと工夫しているものだと思ったものである。

【全員参加の直接民主制】
コムニダは、全員参加の直接民主制で、住民は農作業が終わってから夜8時くらいから遅くまでよく会議を開いていた。時々、論文発表の時のように金の音がチンとならされるので、もう発言をやめろという合図なのかと思っていると延々としゃべっている。あとで聞けば、眠る者がいるので、眠らないように居眠りを始めた者がいたらチンと鳴らすのだとのことだった。我々を受け入れるのも住民総会で口角泡を飛ばしさんざん議論したそうだ。 村の役員は何人か決まっていたが、いろいろ調べていくと影の支配者がいるようだった。それが誰なのかは最後まで分からなかったが、いることは確かな雰囲気だった。

【村の施設】
村にはバスケットコートがあり、若者は皆遊んでおり、我々も時々一緒に遊んだが、放し飼いのイヌが多く、イヌの糞がコートのそこら中に散らばっていて、糞の間をぬってドリブルをするのが難しかった。この不潔さはどうにもならないほどイヌが多く、イヌと共存している感じだった。 時々お祭りがあり、お祭り時には、張りぼての大きな人形が持ち出され、かぶると3m近くも背が高くなるのだった。

村のお祭りの時に持ち出された大きな人形、
バスケットボールコートもある

【村人】
テポナックス村の記事でも書いたが、おばあさんたちはスペイン語が話せないものが多く、この村の若者もアメリカへの出稼ぎが多かった。そして銃を持ち帰るものが多かった。中には英語がちゃんと話せるようになって帰るものもいて、非常に助かった。通訳を雇うこともあったが、基本的にメンバーは英語ができてほぼスペイン語が出来るのだったが、中には英語だけのものもいて、その団員には案内人として英語がしゃべれる村人を通訳としても雇うことで大いに仕事がはかどった。 村の入り口には村人のためではあるが小さいながらも万事屋(よろずや:食料品、日用雑貨を売るなんでも屋)があり、ここではメスカルというリュウゼツランで作った焼酎を売っていたので、我々も時々ペットボトルを持っていき、量り売りで売ってもらった。夜はちびりちびりとそのメスカルを村人と共に飲みながら親睦をはかるのだった。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.24_エクアドル

森林紀行

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エクアドル-アマゾン川源流域でチーチャ(先住民の酒)を飲む

【許可を求めての挨拶】
 私とモリーナ(エクアドル森林局の技術者)は、森林調査の対象となっている森の前に住む先住民(インディオ)の家に来て、挨拶をしていた。数日後に、この森の調査をしたいからだった。
 幹線道路から少し入ったところに彼らは掘立小屋を立てて住んでいる。車から降りて少し歩く。直射日光は、とてつもなく暑い。 家を覗くと男は野良仕事に出ていていないようだった。奥さんと幼い子供が沢山いる。それにお婆さんがいる。お婆さんはスペイン語を解さないようだった。家の前でモリーナが挨拶をし始めると、奥さんは家の中に上がれと言う。そこで、運転手を置いてモリーナと2人で家に上がる。家は高床式になっていて、地上から1.5m程の高さの床に上がった。上がると四方の柱に加え途中に何本かの柱があるが、壁はなく屋根はカヤブキであった。雨が多く、暑いので雨をしのぐだけで風は吹き通しだ。

アマゾン川源流域

【チーチャを勧められる】
 モリーナがひとしきり世間話をし、「森林調査をしたいので、数日後にこの奥の森に入らしてもらいたい。」と説明を始める。すると、そばにいるお婆さんが何やらやり始めた。一体いくつくらいだったのだろうか。70才くらいには見えたが、このあたりの歳の取り方からみると60才台、もしかすると50才台か40才台だったのかもしれない。 そのお婆さんが、真っ黒な汚れた手を壺に突っ込んで、何やらつかみそれを絞って、やや黄色がかった半透明の液体をどんぶりのようなお椀に入れている。そしてモリーナと私との二人分の液体をどんぶりに入れるとモリーナと私の前にそのどんぶりを差し出し、「飲め。」と言う。

【チーチャとは】
 モリーナが、「これはチーチャという飲み物だ。」と教えてくれる。「これはお婆さんがユカ(南米原産で、塊根がサツマイモに似て大きく、先住民が主食としている食べ物)を噛んでツバと一緒に壺の中にはき込み発酵させたものだ。汚くないから飲め。」と言うが、なにやらバッチイ。後年ジンバブエでA型肝炎に罹り、死ぬ思いをしたことを思い出すとこの時はまだA型肝炎の抗体を持っていたのだろう。

アマゾン川の支流が交わる地点

【チーチャをどんぶり一杯飲む】
 出してくれたどんぶりは大きく、チーチャは1リットルくらいは入っている。飲むのをためらっているとモリーナが「俺も飲むから飲め。」と言う。そしてモリーナが飲み始めた。私もおそるおそる飲むと、舌がややピリピリする。少し発酵しているようだ。しかし、あまり強いアルコール分は感じなかった。ビールよりはるかに薄いようでアルコール分は、1~2%くらいだろう。300ccくらい飲んだ。不味くない。結構いける。私としては大分飲んだつもりであるが、まだ相当残っている。モリーナは「飲め。飲まないとこの奥の森に入れないぞ。」と言う。「そうか。じゃあ飲むから上手く説明して、森に入る許可を取ってくれ。今から飲むぞ。」と残り700ccくらいを一気飲みした。暑くて喉が渇いていたので一気飲みで飲み干せたのだった。アルコールが入っていたからかも知れない。

【もう一杯勧められる】
 するとお婆さんはそのどんぶりを取り上げ、「良い飲みっぷりだ。もう一杯飲め。」とまた壺の中に汚い手を突っ込んでチーチャを絞っている。彼女らにしては一番のごちそうをふるまってくれているのである。 「アー。こんなことならもっとゆっくり味わって飲むのだった。」と思っても後の祭りである。モリーナを見ると彼は1杯目をゆっくりと飲んでいる。ずるい。しかし、モリーナは、「飲め。Masui。飲まないと仕事ができないぞ。」と同じことを繰り返す。すると1杯目が効いてきたのか、体が少し熱くなり、顔も熱くなってきた。「まあいいだろう。結構うまいよ。じゃあ2杯目も飲むぞ。あとの交渉はよろしく頼む。」とモリーナに言って2杯目もまたもや一気に飲んでしまった。するとアルコールが少し効いてきた。いくらアルコールが薄いチーチャと言っても2リットルも飲んだら缶ビール1~2本分くらいのアルコールは含んでいるだろう。

【至福の時】
 モリーナの交渉も終わり、その先住民は明日以降、我々が裏の森に入るのを了解してくれた。私は眠くなってしまい、そこで横にならしてもらった。床は何となくすえた汗臭い臭いが染み付いているが、私はまるで先住民になったような気分に陥り、少しの間、転寝を楽しんだ。この瞬間は、仕事も社会のわずらわしいことも全てを忘れさり、まるで天国にいるような至福の時であった。

南米
エクアドル

【蝕まれる環境】
 上記の話は1986年のことで、今から34年前のことである。この時エクアドルのアマゾン川源流域では、日本では明治時代に行った官民有林区分と同じようなことが行われていた。官民有林区分というのは、所有不明な森林を国有か私有かはっきりと区分し、所有権を確立しようというものだった。そこには林地からも地租(固定資産税)を取ろうという意図があったものだが、エクアドルの場合は、まずは、蝕まれる森林を何とか保護しようというものだった。
 誰も近づけなかった密林のアマゾン原流域に石油が発見されたため、その採掘道路が作られ、その道路に沿ってアンデス山脈上の貧しい農民が続々と入植してしまい、それが続いているのだった。密林内では先住民(インディオ)と入植者の間に軋轢が起きていた。政府はこのため、国有林、先住民地域、入植者地域と所有をはっきりさせたかったが、先住民にとっては元々彼らの土地、そこに新たに入って来た者に譲る土地はないのに、どんどんと蝕まれていくのであった。入植者にとっても死活問題で、新たに入植してくるものは奥地、奥地へと森林を切り開いていくのだった。政府がいくら線引きしても、その通りにはいかず大混乱を起こしていた。
 当時の先住民はこの時点から15年前くらいまでは、全く自然な生活で裸族であったと部族長から直接聞いたので、約半世紀前、1970年くらいまでは、上述した先住民のおばあさんたちも裸族だったはずである。入植してきたものにならい、着物を着て文明化していったと言えばそうではあるが、自然に溶け込んだ生活とどちらが幸せであったろうか? 樹高50mを超える巨木が伐採されていく光景は、壮観ではあったが、空恐ろしいものだった。それが今日、わずかではあるかもしれないが、地球温暖化の一翼を担っているであろう。森林は再生可能であるが、一旦農地になったら、それを森林に戻すのは非常に難しいことである。このあたりの森林は、現在は、ほとんど伐採されてしまったようで農地やヤシ園などに転換されたようである。急激に文明化した先住民の多くも農場で働くようになってしまったのではないかと、また、チーチャもビールやロン(サトウキビで作った蒸留酒)などにとって代わられているのではないかと想像される今日である。

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