森林紀行travel

               

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.24_エクアドル

森林紀行

筆者紹介





エクアドル-アマゾン川源流域でチーチャ(先住民の酒)を飲む

【許可を求めての挨拶】
 私とモリーナ(エクアドル森林局の技術者)は、森林調査の対象となっている森の前に住む先住民(インディオ)の家に来て、挨拶をしていた。数日後に、この森の調査をしたいからだった。
 幹線道路から少し入ったところに彼らは掘立小屋を立てて住んでいる。車から降りて少し歩く。直射日光は、とてつもなく暑い。 家を覗くと男は野良仕事に出ていていないようだった。奥さんと幼い子供が沢山いる。それにお婆さんがいる。お婆さんはスペイン語を解さないようだった。家の前でモリーナが挨拶をし始めると、奥さんは家の中に上がれと言う。そこで、運転手を置いてモリーナと2人で家に上がる。家は高床式になっていて、地上から1.5m程の高さの床に上がった。上がると四方の柱に加え途中に何本かの柱があるが、壁はなく屋根はカヤブキであった。雨が多く、暑いので雨をしのぐだけで風は吹き通しだ。

アマゾン川源流域

【チーチャを勧められる】
 モリーナがひとしきり世間話をし、「森林調査をしたいので、数日後にこの奥の森に入らしてもらいたい。」と説明を始める。すると、そばにいるお婆さんが何やらやり始めた。一体いくつくらいだったのだろうか。70才くらいには見えたが、このあたりの歳の取り方からみると60才台、もしかすると50才台か40才台だったのかもしれない。 そのお婆さんが、真っ黒な汚れた手を壺に突っ込んで、何やらつかみそれを絞って、やや黄色がかった半透明の液体をどんぶりのようなお椀に入れている。そしてモリーナと私との二人分の液体をどんぶりに入れるとモリーナと私の前にそのどんぶりを差し出し、「飲め。」と言う。

【チーチャとは】
 モリーナが、「これはチーチャという飲み物だ。」と教えてくれる。「これはお婆さんがユカ(南米原産で、塊根がサツマイモに似て大きく、先住民が主食としている食べ物)を噛んでツバと一緒に壺の中にはき込み発酵させたものだ。汚くないから飲め。」と言うが、なにやらバッチイ。後年ジンバブエでA型肝炎に罹り、死ぬ思いをしたことを思い出すとこの時はまだA型肝炎の抗体を持っていたのだろう。

アマゾン川の支流が交わる地点

【チーチャをどんぶり一杯飲む】
 出してくれたどんぶりは大きく、チーチャは1リットルくらいは入っている。飲むのをためらっているとモリーナが「俺も飲むから飲め。」と言う。そしてモリーナが飲み始めた。私もおそるおそる飲むと、舌がややピリピリする。少し発酵しているようだ。しかし、あまり強いアルコール分は感じなかった。ビールよりはるかに薄いようでアルコール分は、1~2%くらいだろう。300ccくらい飲んだ。不味くない。結構いける。私としては大分飲んだつもりであるが、まだ相当残っている。モリーナは「飲め。飲まないとこの奥の森に入れないぞ。」と言う。「そうか。じゃあ飲むから上手く説明して、森に入る許可を取ってくれ。今から飲むぞ。」と残り700ccくらいを一気飲みした。暑くて喉が渇いていたので一気飲みで飲み干せたのだった。アルコールが入っていたからかも知れない。

【もう一杯勧められる】
 するとお婆さんはそのどんぶりを取り上げ、「良い飲みっぷりだ。もう一杯飲め。」とまた壺の中に汚い手を突っ込んでチーチャを絞っている。彼女らにしては一番のごちそうをふるまってくれているのである。 「アー。こんなことならもっとゆっくり味わって飲むのだった。」と思っても後の祭りである。モリーナを見ると彼は1杯目をゆっくりと飲んでいる。ずるい。しかし、モリーナは、「飲め。Masui。飲まないと仕事ができないぞ。」と同じことを繰り返す。すると1杯目が効いてきたのか、体が少し熱くなり、顔も熱くなってきた。「まあいいだろう。結構うまいよ。じゃあ2杯目も飲むぞ。あとの交渉はよろしく頼む。」とモリーナに言って2杯目もまたもや一気に飲んでしまった。するとアルコールが少し効いてきた。いくらアルコールが薄いチーチャと言っても2リットルも飲んだら缶ビール1~2本分くらいのアルコールは含んでいるだろう。

【至福の時】
 モリーナの交渉も終わり、その先住民は明日以降、我々が裏の森に入るのを了解してくれた。私は眠くなってしまい、そこで横にならしてもらった。床は何となくすえた汗臭い臭いが染み付いているが、私はまるで先住民になったような気分に陥り、少しの間、転寝を楽しんだ。この瞬間は、仕事も社会のわずらわしいことも全てを忘れさり、まるで天国にいるような至福の時であった。

南米
エクアドル

【蝕まれる環境】
 上記の話は1986年のことで、今から34年前のことである。この時エクアドルのアマゾン川源流域では、日本では明治時代に行った官民有林区分と同じようなことが行われていた。官民有林区分というのは、所有不明な森林を国有か私有かはっきりと区分し、所有権を確立しようというものだった。そこには林地からも地租(固定資産税)を取ろうという意図があったものだが、エクアドルの場合は、まずは、蝕まれる森林を何とか保護しようというものだった。
 誰も近づけなかった密林のアマゾン原流域に石油が発見されたため、その採掘道路が作られ、その道路に沿ってアンデス山脈上の貧しい農民が続々と入植してしまい、それが続いているのだった。密林内では先住民(インディオ)と入植者の間に軋轢が起きていた。政府はこのため、国有林、先住民地域、入植者地域と所有をはっきりさせたかったが、先住民にとっては元々彼らの土地、そこに新たに入って来た者に譲る土地はないのに、どんどんと蝕まれていくのであった。入植者にとっても死活問題で、新たに入植してくるものは奥地、奥地へと森林を切り開いていくのだった。政府がいくら線引きしても、その通りにはいかず大混乱を起こしていた。
 当時の先住民はこの時点から15年前くらいまでは、全く自然な生活で裸族であったと部族長から直接聞いたので、約半世紀前、1970年くらいまでは、上述した先住民のおばあさんたちも裸族だったはずである。入植してきたものにならい、着物を着て文明化していったと言えばそうではあるが、自然に溶け込んだ生活とどちらが幸せであったろうか? 樹高50mを超える巨木が伐採されていく光景は、壮観ではあったが、空恐ろしいものだった。それが今日、わずかではあるかもしれないが、地球温暖化の一翼を担っているであろう。森林は再生可能であるが、一旦農地になったら、それを森林に戻すのは非常に難しいことである。このあたりの森林は、現在は、ほとんど伐採されてしまったようで農地やヤシ園などに転換されたようである。急激に文明化した先住民の多くも農場で働くようになってしまったのではないかと、また、チーチャもビールやロン(サトウキビで作った蒸留酒)などにとって代わられているのではないかと想像される今日である。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.23_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎-下

【退院】
さて1ヵ月入院していて、血液検査の値は正常となり、A型肝炎の抗体率も98%となり、少しは歩けるようになってきたので、退院したくて仕方がなかった。医者の許可も出たので早めに退院してハラレのホテルに戻った。しかし、やはりホテル生活はきつかった。肉類を食べればもっと回復していたのだろうが、心配で食べられなかった。

【帰国】
チームの全員が帰国するので、まだ長時間の飛行はきついと感じたので、1人だけあと1週間か10日ハラレで休ませてくれるように頼んだが、事務所では一旦皆と帰れというので帰ることにした。飛行機はファーストクラスにしてもらうことにした。しかし、ハラレからヨハネスブルグまではファーストクラスがなかったのでビジネスとし、ハラレからシンガポールはファーストクラスでシンガポールで一泊、シンガポールから成田まではファーストクラスで、後輩の団員に付き添ってもらった。
一番きつかったのはハラレからヨハネスブルグだった。この間はビジネスとはいえリクライニングになるだけでフルフラットにはならなかったので2時間くらいだったがきつかった。その後は横になってきたので成田まではそれほどきつくはなく帰国できた。

乾期で枯れたグワーイ川の井戸から水を運ぶ女性達

【成田空港から我が家へ】
成田空港では妻と兄が待っていた。あとで兄はこの時の私の顔はまるで幽霊のようだったと言う。そして空港から家までタクシーで帰ることにした。ところが高速道路上で事故があり、ひどい渋滞に巻き込まれ家まで2時間以内のところを4時間以上要してしまい、私はすっかり疲弊した。家に着き、横になったらそのまま眠ってしまった。目が覚めたら丸一日以上27時間も眠り続けていた。

【日本の医者】
そして1ヵ月間我が家で休み、毎日係りつけの病院で診てもらった。日本での指示はA型肝炎は回復傾向が見えたらすぐに栄養ある食べ物を食べろということで、50kgに減った体重が1日に1kgずつ増え、2週間で約65kgまで元の体重に回復した。この時主治医が所用で不在だったので、大学病院から派遣されてきた医者が日替わりで診てくれた。5人ほど見てもらったが、4人の医者は楽観的だったが、1人の医者は悲観的だった。悲観的な医者は、A型肝炎でもこれだけ回復に長く時間がかかっていると元の生活に戻るにはやはりかなりの長期を要するし、完治を確認するために最後に大病院に行き、最終の検査をしてもらえということだった。

【日本の大病院】
そこで最後に近場の大病院で検査をしてもらった。全ての検査を終えデータを見て医者は悪いところはもう一つもないと言った。しかし、私の感覚では体が弱まっていて、少し動くと疲れてしまい、横にならないとどうにもならなかった。これでは普通の生活はできないと思ったが、データには現れないのだった。大病院の医者は人の顔色を見るのでもなく、触診をするのでもなく、ただデータを見るだけだった。これでは町医者の方がよっぽど良いと思った。

【その後】
その後、自宅で静養しつつ重要な会議等の時は呼び出され、出勤した時にはつらかった。常勤で勤め始めた後もフルタイムでの勤務は無理で、1年ほど遅く行き、早く帰らせてもらっていた。アルコールは3年以上飲めなかった。夕方5時頃、家に帰ってくると疲れてすぐに横にならなければならず、その後何もできず、テレビを見て過ごすだけで番組の時間を覚えてしまった。しかし、海外の仕事には1年ほどで復帰した。飲み会などには付き合えず、ただ単調な日々を過ごす中で段々とストレスが溜り、やはりウツとなっていった。それが4年目くらいのある時、急に元気になりアルコールが飲めるようになった。それで同僚と外の居酒屋で飲んだ時の解放感が忘れられない。そして、徐々にウツも治っていった。
この間にかかった病院代や飛行機代、その他諸々の経費はとんでもない額だったが、勤務先で入っていた保険で全てカバーされた。
今思うと、この時が最後の40才台で、それまで若い時から無茶をし過ぎたと反省した。海外では健康と安全が最も大事であるが、健康であるからと無茶をし過ぎていたのだった。それから年を重ねるにつれてより慎重になっていった。

つづく

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.22_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎-中

【事務所からの指示】
 しばらくするとハラレの事務所から連絡があり、ブラワーヨの病院では回復に期待ができないから、南アのヨハネスブルグか首都のハラレの病院に移れと指示がきた。私はこの病院の施設も良いし部屋も一人部屋で居心地が良いのでここが良いと頑張ったが、だめとの指示でハラレに移ることにした。南アには国境があるので救急飛行機ではいけないだろうし、仲間はジンバブエにいるので一人になったら大変と思い首都のハラレに行くことにしたのだ。そこで、この病院で転院先を捜してもらったら、また前回と同じように感染症なので受け入れないという病院ばかりだと言われた。それでも一つ見つかりその病院に転院することになった。

ハラレの林野庁本部の建物

【ブラワーヨの病院からハラレの病院に転院】
 移動日は大変だった。ブラワーヨからハラレまでは救急飛行機で運ばれることとなった。病院からブラワーヨの空港までの救急車がきつかった。ストレッチャーで横になっているのだが、車の発進や停止、それにガタッと跳ねたりした時には体に響き苦しかった。救急飛行機はむしろ安定していて揺れないで苦しくなかった。しかし、ハラレの空港から病院までまた救急車が同じ苦しみだった。この時は後輩の同僚がずっと付き添ってくれた。 ハラレの病院はかなり大きな病院だった。着いたのにまだ部屋が空いてないからと人通りの多い廊下にストレッチャーに横たわったまま置かれ、1時間以上待たされた。感染症なのにこんなに人がいるところに置かれて大丈夫なのかと妙な心配をしたり、皆にジロジロ見られるのが嫌だった。ようやく部屋が空き、別棟の平屋の部屋に入れられた。2人部屋で、最初は一人だけだったが、途中で誰か入るかもしれないとのことだった。しかし、約1ヵ月入院し、だれも入院してこなかったので助かった。部屋は明るくきれいでいごこちがよかったが、ベッドが柔らかくてまいった。これならブラワーヨの病院の方が良いくらいだった。しかし、ジンバブエの病院の施設は、私がみたセネガルやブルキナ・ファソの病院とは比較にならないほど良かった。日本の大病院より良いのではないかと感じた。やはり宗主国がイギリスでこういったインフラには力を注いだからだろう。

【ハラレの病院での入院生活】
 ここでの担当医はドクターハキムと言い、これまたとても親身だった。毎日血液検査と糖尿の検査などを行った。点滴はずっとやりっぱなしである。
 この時ジンバブエに感染症の研究できていた若い日本人の医者が3人いてしょっちゅう見舞いに来てくれた。彼らは診断はしてはいけないことになっていたので診断はできなかったが、観察していたのだろう。いろいろとアドヴァイスをくれた。女性の若い医者は本当によく来てくれ、血液検査の値が日々悪くなっていくデータをみて、心配顔が益々心配顔になっていくので、こちらも心配になってきた。私の感覚としてはこの病院に来て、回復してきていると感じていた。
 また、男性医師の一人は、この病気は治ってもこの後遺症は数年間続くので、以前のように元気に働けるようになるには数年かかるだろうと言われ、そんなものかなと思ったが、実際にそうだった。
  ただここのドクターの治療方法は古い方法だった。日本に帰国すると日本の医者は、回復傾向が見えたらすぐに栄養のあるもの、タンパク質や脂質をどんどん取りなさいということだったが、ここではタンパク質や脂質は取ってはいけないだった。だから回復が相当に遅れてしまったのだった。病院食もいつもポーリッジ(お粥)で、また事務所の健康担当職員の方が毎日おにぎりやふかした野菜等を持ってきてくれて、感謝の言葉もなかったが、野菜と糖質ばかりをとっていた。
 ときどきハキム医師には冗談を言えるようになり、朝の診療の時には、”High doctor, owing your good treatment, I’m still living.” “It’s good. You are getting better day by day. It’s not my power, but the strength of your strong will to live makes you restore.” などと良いことを言ってくれた。
 そして退院するときには、このような大病をした後にはウツ病になり易いからくれぐれもウツにならないように気をつけなさいと言ってくれた。私は何でそんなことを言われるのかこの時は理解できなかったが、その後ウツになり、このドクターの正しさに実に感心したのだった。 そして私の回復傾向が見えてくると事務所の担当者が退屈しのぎに文庫本などを沢山持ってきてくれた。こういう時に暗い内容の本を読むのは良くなかった。それで池波正太郎や藤沢周平の時代物や椎名誠のエッセイなど事務所にあったものをほとんど読んでしまった。何しろトイレに行く時くらいしか立つことができないので、一日に数冊も読めてしまうのだった。

【ここで聞いた東海村原発事故】
 ここで日本の1999年9月30日だが、持ってきていたラジオで日本の短波放送をつけた時に、「近隣の住民は直ちに避難して下さい。」と緊張してしゃべるアナウンサーの声を聞き恐怖を感じた。東海村JCO臨界事故だった。ジンバブエで寝ながらも原発事故で日本は沈没してしまうのではないかと震撼した。

【隣の病室】
 私の隣の部屋は産科の部屋だった。お腹の大きい女性が入院して来るとほぼその日の内にオギャーという声がして、一泊して翌日には退院して行くのだった。中にはその日のうちに退院して行く人もいた。まあ丈夫なものだと思ったが、経済的にも入院するのは大変だからだろう。

つづく

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.21_ジンバブエ

森林紀行

ジンバブエで罹ったA型肝炎 -上-

【A型肝炎への感染がわかる】
「ミスターマスイ。病名が分かった。A型肝炎だ。これで助かるぞ。でもここは救急病院なので24時間しか置いてやれない。ずっと面倒みるわけにいかないから、入院できる病院をすぐに捜す。」と医者が言った。私も妙に納得がいった。私はB型肝炎の予防注射は受けていたが、A型肝炎の予防注射は受けておらず、知識もなかったからA型肝炎とは気が付かなかった。もしその知識があれば自分でもっと早く気付いたはずなのに、わからなかったために危うく命を落とすところだった。

【感染の原因】
1999年9月のことだった。ジンバブエでの仕事のことは既に数回書いた。A型肝炎は、ここで森林調査をしている時に、発症した。この国第2の都市ブラワーヨからビクトリアの滝へ向かって20kmくらいに位置するホテルの一軒家を数軒借りて、同僚や雇っていた南アの技術者達と住んでいた。家のトイレは水洗だったが土への自然浸透で、広大だった庭の中に井戸があったから感染したのだろうと思う。しかし同居の後輩の同僚にも他のチームメンバーには感染しなかった。私のように昭和20年代生まれは子供の頃には肥料は人糞だったので、ほとんどの人はA型肝炎に感染し抗体を持っているはずだが、世の中が清潔になり抗体率が落ちてきたのだろう。話は違うが、南アの白人技術者の人種差別発言についても書きたいが、あまりにひどいので今後も書くことができないだろう。

ビクトリアフォールズ道路沿いの森林

【発症するまで】
それはそれとして、森林調査をしている時に一日毎に段々体がだるくなり、数日休んで横になっていた。ブラワーヨの病院に行き調べてもらったが、マラリアでもなく、何だかわからなかった。それでまた森林調査に行き、営林署でコーヒー色に近い尿がでた。この時に気が付くべきだった。このコーヒー色の尿がA型肝炎の特徴である。私は、疲れた時に出ると言われる血尿と思い、これくらいなら大したことはないと思った。そしてまた木金と横になっていた。まだ大丈夫だった。ところが土日になると益々具合が悪くなってきた。土日は病院が休みだった。食事は家政婦が作ってくれていたが食べられず4日間ジュースだけで過ごしていた。月曜になると起きるのもつらく、すぐにブラワーヨの救急病院に行った。車の中では普通に座っておられずに横になって車に揺られ、この30分が非常につらかった。チームには英語と日本語が完璧な外国人の同僚がいたので、付き添ってもらい病院では、すぐに点滴をしてくれるように頼んだ。

【救急病院】
私はしゃべるのもつらかったがすぐに点滴を始めてもらい助かった。点滴でかなり元気を回復した。ここで血液検査をしたが、まだ病名はわからなかった。ジンバブエで見てもらった医者は、当然ながら皆黒人であるが、イギリスに留学しており、腕も良さそうだし、日本の医者と決定的に違うのは親身で、まず人の体を丁寧に観察することだと感じた。ただ、最初の医者は血液検査でほんのわずかだがサルモネラに反応があったとのことで、点滴の中に抗生物質を入れた。親身ではあるがいかにも自信たっぷりで、これが誤診だったので余計に体を弱めたかもしれない。 この病院の施設は大層立派に思えたが、大部屋にいて、網戸を潜り抜けた蚊がかなりいたのが嫌だった。マラリアになるのではないかと不安になったりした。そして夜になり、別の医者が来て、「ミスターマスイ。わかったぞ。A型肝炎だ。」と冒頭の言葉となったのだった。この医者は大柄だが、こんなに優しく親身な人はいないと思われるくらいに親身で、大きな手で触診をしてくれ、これまで黄疸がはっきりと出ていなかったのだが、このころから黄疸が出始め、はっきりと肝炎とわかった。この肝炎への触診は転院するハラレの病院の医者も帰国して日本の医者も全く同じで、全世界共通なのだと妙な安心感を持った。その後、感染症なので受け入れてくれる病院がないからもう少し捜すからと言われ、感染症だから病院は受け入れなければならないはずだのに受け入れてくれなければ皆死んでしまうだろうと妙に腹が立った。結局、翌日になり入院して24時間ぎりぎりになるところで転院先の病院が決まった。

【転院したブラワーヨの病院】
次の病院は同じブラワーヨの市内であるが、かなり大きな病院で施設も素晴らしかった。ここには4日いた。A型肝炎の治療薬はなく、ただ横になって体力が回復するのを待つだけである。この時は本当につらかった。チームメンバーが見舞いにきてくれるのだが、自分の意識ははっきりしているのだが、人の気配を感じるだけでつらかった。雇っていた運転手が、とても良い人で運転手だから、同僚を連れてきて部屋の片隅に座っているのだが、時々喉がいがらっぽいのか喉を鳴らす音さえ、ダンゴ虫のように丸く横になっている私の気分に響くので折角だが、皆さんにはすぐに退室してもらっていた。 病院食も少し食べられるようになり、点滴で少しずつ回復はしているようだった。シャワーの時間になるとジンバブエの若い女性の看護士がシャワーに入れてくれた。その時私はやせ細り、黄疸が出て黄色い体で、私のソノモノも極端に縮こまり、裸になったときに日本の男子とはこのように弱々しいものかと思われるのが妙に恥ずかしかった。相手は見慣れているしテキパキときちんと仕事をしてくれた。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.20_コロンビア

森林紀行

コロンビア-アンデスの山守の美少女-

コロンビアの森林は崩壊地だらけと前回のコロンビア編で書いたが、その他コロンビアと聞けば皆さんは何を思い起こすだろうか?コーヒーか、サッカーか、美女か?あるいは治安の悪さや麻薬などだろうか?
コロンビアを走るアンデス山脈は3つの支脈に分れており、その中の中央山脈に位置するマニサレスという町を基地として私は調査を行っていた。マニサレスからさらに奥地に入った村、村名はペンシルバニアと言い、アメリカの州の名前と同じだが、ペンシルバニアの人工林の山守をしていたのがアデリータだった。アデリータと言えばスペインの作曲家でギタリストが作曲したアデリータが有名である。アデリータの正式名はアデーラだが「ちゃん」づけすると「アデーラちゃん」がスペイン語だとアデリータになるのである。
マニサレスからペンシルバニアまで、道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねとまたアップダウンを繰り返すので、時速は20kmも出せず、6時間くらい車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。しかし、ここペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。

ペンシルバニアへ向かう途中の集落にて

1990年の2月にペンシルバニアに着いた我々のチームは顔なじみの村長や営林署長などに挨拶や調査の説明などをした後、村の中心にある広場に面したカフェテリアに入った。広場のもう一方には大きな教会があった。まさにコロンビアコーヒーを飲みながら調査の打合せなどをしていると山の上の方からカウボーイハットをかぶった少年らしき二人が馬に乗りゆっくりと降りて来た。そこで顔を始めて合わせた一人がアデリータであった。17才くらいの少年と思ったが、二十歳の女性だった。アデリータも村の女性に勝るとも劣らない美人の上、知的で澄んだ目をしていて思わず引き込まれそうな感じを受けたが、そこでは挨拶をしただけだった。

山中の裸足の少女と

翌日、山に入るのに営林署長に案内人を頼んでいたが、その案内人としてきたのがアデリータだったのでびっくりした。「あなたは昨日会った方ではないですか。この山の管理をしているのですか?」「そうです。私はこの山のグアルダーボスケ(山守)です。」と答えるではないか。「メデジンに住んでいましたが、この村の森で勉強も兼ねて森の管理人として働いているのです。」とのことだった。
我々はこの村のマツとサイプレス(ヒノキの仲間)の人工林を中心に調べていたが、アデリータが「マツの人工林でナナフシが大量発生していて困っている。」というので、現場に行って調査すると、まさに様々の種類のナナフシが大量に発生していて、マツの葉を食べている。枯れ枝と全く同じ形をしたナナフシもいて、ナナフシを見ると進化の不思議を感じざるを得ない。たまたま色や形が変わり、鳥に食べられることなく生き残ったナナフシが進化に進化を重ねて枯れ枝のように進化したというような説明だけで皆さんは納得できるだろうか?コノハチョウや目玉の文様があるチョウなどを見ても何か目的を持って進化してきたのではないかとつい思ってしまう。獲得形質は遺伝しないことになっているが、本当だろうかとも思ってしまう。
それはさておき、アデリータはいろいろ対策をたてていた。殺虫剤を木の根元に塗ってみたが、能率が上がらず、腰が痛いなどという。そこで私は「ナナフシが食べるのは葉だから、塗る位置が根元でも胸高でも効果は変わらないだろうから、作業効率や健康面から立って塗れる位置に塗ったら良い。」また、林内が暗いので、「間伐して光を入れてみたらどうだろうか。」といったことをアドバイスした。
それからしばらくして、「実験的に間伐をしてみたらその林からナナフシがいなくなった。」とアデリータは言う。「良かった。良かった。人工林は除伐や間伐を定期的に行い、光を入れて健全に育てなければだめだよね。」と私。そうしてペンシルバニアの森林を調査する時は、アデリータに手伝ってもらった。アデリータが森の隅々まで知っているので、調査はおおいにはかどり助かった。まさに山の守だった。しかし、それから1年ほど経ってアデリータは自分の郷のメデジンに戻って行った。

林内が真っ暗なサイプレスの人工林

我々はその後も調査を継続してこの周辺の森林の管理計画を作成してこの仕事は終えた。その後アデリータとは何の連絡もなく忘れ去っていたが、一昨年フェイスブックで友達リクエストがあり、驚いた。本当にアデリータなのだろうか。すぐにOKして近況が分った。あれから30年、母親となり50才となったアデリータと連絡できるとは。SNSの力は不思議なものだ。今はアンティオキア州の環境省に勤め、環境保護の先頭に立って活躍している。 アデリータだけでなく、その後もモロッコやドミニカ共和国で一緒に働いていた男性の技術者などからもリクエストが続々とあり、改めでSNSの力に驚いている。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.19_コスタリカ

森林紀行

海外の仕事で常に気をつけていなければならないのは、安全と健康である。私が死の危険に直面したのは2度あり、以前に書いたブルキナ・ファソでのクーデタ未遂事件に巻き込まれたこととジンバブエで肝炎に感染したことである。この類の経験は、ネガティブな面が強いので取り挙げるのに多少の抵抗を感じるが、受けてしまった経験の事実を述べてみたい。

【ネガティブな経験の種類】
まずは上記の2つ以外のネガティブな経験を上げると、地元民の集団に鉄砲を突きつけられたことが2度、秘密基地を発見し逃げたこと、ビジネスバッグの盗難が2度、借家に泥棒に入られたこと、引っ越しの際の盗難、協力国に保管していた機材が売られてしまったこと、脅しやたかりは数えられないほど直面した。運転手が起こした交通事故や山中の崖にぶつかり谷底に落ちそうになったことや、ゾウに襲われたことが2度、ハチやアリの襲撃は何度も、ヘビにかまれそうになったり、南京虫やダニ、それに巨大な水虫のような皮膚病の被害や遭難騒ぎ、カミナリに打たれそうになったり、地震やハリケーンも経験し、飛行機のロストバッゲジも数度、マラリアの感染数度、原因不明な下痢、上げれば限がない。幸いにスリ・追いはぎには何度もあいそうになりながらも回避できている。同僚には死亡者が数人おり、もっとひどいか同様な被害や病気にあっているものが多い。

【コスタリカで国際会議に出席】
その中でも1990年5月にコスタリカでビジネスバッグを盗難されたことが、自分の不注意に起因しているだけに、今でも悔しく、これについて今回は書かせてもらう。当時、熱帯林を保護するために、FAOが採択した熱帯林行動計画があり、行動計画作りへの支援事業などの会議に日本代表で参加した。会議は首都サンホセの高級ホテルのシェラトンで行われた。ホテルは2階建てで、廊下は厚い絨毯が敷かれていた。古いホテルだったが、部屋の扉は自動ロックだった。ただ、内装の改修を行っており、多数の労働者が出入りしていて雰囲気が良くないなと思っていた。会議は3日間行われたが、初日の午前の会議が終わり、昼休みにレストランに昼食を食べに行ったが、時間が短かったので急いでいた。

【ホテルの部屋から盗難】
部屋に戻りビジネスバッグ(この時はアタッシュケースだった)を机の上にドンと置き、ドアをバタンと閉めてレストランに向かった。昼食から戻ってくると部屋のドアがわずかに開いているではないか。変だなと思って部屋に入るとビジネスバッグがない。やられた。絨毯が厚くてバタンと閉めたつもりのドアが閉まっておらず、少し開いていたのだ。その間に誰かが部屋に入り盗んだのだ。

【大騒ぎしたが後の祭り】
すぐにレセプションに行き、犯人を捜せと、出入りの労働者だろうと疑い、大騒ぎしたが、どうにもならず、バッグは出てこなかった。警察を呼んでもらい、調べてもらったがだめだった。しかたがないので盗難証明書を書いてもらった。当時はデスクトップの大きなパソコンが利用され始めた頃で、まだノートパソコンもなく、手書きの時代だったので、バッグの中には一番大事な仕事の資料、カメラ、カセット録音器、計算機、予備メガネ、西和と和西の辞書等が入っていた。幸いなことにパスポートや金は大きなスーツケースに鍵をかけて入れており、そのスーツケースはチェーンで部屋の固定物に繋いでいたので、最も大事なものは盗まれないで助かった。レセプションに重要物は預けられるが、それも信用できないので、そのようにしていたのだ。帰国後、保険で盗難物と同額程度を補償されたが、愛着のあるものを失ったことは大きかった。

【ショックで上の空】
その日の午後は、討議内容が全く頭に入らなくなってしまった。会議はスペイン語と英語の同時通訳で行われているのでなおさらである。その時の発言は一緒にいった同僚に頼み、翌日からはショックも少しずつやわらいでいった。帰国して報告会や専門誌への報告で弱ったが、幸いにもこのような会議ではレジメが配られ、集めていた資料もあり、多少は頭に入っており事なきを得た。 その後CATIE(熱帯農業研究高等教育センター)や森林を訪ねたがうわの空だった。幻の鳥、神の鳥と言われるケツアールが見られるのではないかと期待していたが、失せた気力が回復しなかった。ケツアールが見られれば、不幸一転して幸せになれたかもしれなかったのに。絶対にここは回復させなければならなかったところである。良い写真も残っていないのも残念だ。

【良い国だが印象の悪いコスタリカ】
コスタリカは国立公園が多く、きちんと自然が保護されている国であり、軍隊がなく軍事予算を平和構築に注いできた良い国という評判だが、私にとっては非常に印象が悪い国である。

カルタゴ(首都サンホセの近隣)の町のロスアンヘルス大聖堂

つづく

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.18_ブルキナ・ファソ

森林紀行

ブルキナ・ファソ―ロロペニの世界文化遺産を見た一日

【別ルートで首都へ帰る】

2011年10月26日、この日はバンフォラ(ブルキナ・ファソの南部コートジボワールに近い町)からワガドゥグ(首都)に上がる日だった。3月にクーデター未遂事件に巻き込まれ、恐怖の体験をしたことから、複数の避難ルートを確保しておくため、いつもとは別なルートでワガドゥグに戻ることにした。200kmくらい余分に走るが、途中のロロペニ(地名)にブルキナ・ファソで唯一の世界文化遺産があるので、それを見学した。

【出発】

いつもと同じ時間に朝食を取り、運転手のダウダが7時に家に来た。同僚と7時20分に家(ホテルの中の一軒家を借りメンバーでシェアハウス)を出発。ブヌナ村への曲がり角まで来る。普通はここから北へ真っすぐワガドゥグに向かって行くがここで、右(東)にまがりプロジェクトを行っているグアンドゥグやコングコ国有林方面に向かう。ここからシデラドゥグまでの道は舗装されているが、雨期で道路が痛み、水溜まりや穴ぼこが多い。車がそれらを避けるので、左右に揺れるし、時々、穴ぼこに落ちるのでガタンとする。9時にシデラドゥグに着く。森林官事務所前を通過し、10分ほど走ると道が狭くなる。溜池があるが、この辺りからは道路が広くなったり細くなったりする。

シデラドゥグを過ぎたあたりの大きな溜池

ロロペニの遺跡】

10時25分にロクソを通過し、10時35分にロロペニに着く。ここがブルキナ・ファソ唯一の世界文化遺産がある場所である。遺跡に着くと見学者は一人もいない。ガイドが1人いたので、案内を頼む。

ロロペニ遺跡のガイド

ここは昔、金の精錬が行われていたとのことで、千年以上の歴史があるとのことだった。以前の土壌分類だとラテライトだ。その鉄塊を積んで壁にしており、まるで要塞のように周囲を囲んでいる。いや要塞だったのだ。ところが、大部分の壁が壊れている。壁の高いところで5mほどだが、昔は12mはあったそうだ。ライオンやその他の動物から人間を守るためのものだったとのことだ。しかし、人間という最も恐ろしい敵もいたであろう。

鉄塊を積んだ擁壁

ブルキナ・ファソ政府には、この遺跡を保護するための資金もないのだろう。何の管理もなされていない。観光客がおらず、日本のように観光客だらけの世界遺産とは全く対照的である。そのため静かで、落ち着いてゆっくりと見学することができる。はるか遠い昔に戻ったような気分を味わえ、ざわついた日本の観光地よりもずっと良いと思った。そして見学が終わり、帰途につこうと思った時にフランス人らしき数人が見学に来た。説明板には次のように書いてあった。「世界文化自然遺産保護条約に従い、遺産資格を獲得したブルキナ・ファソのロロペニ遺跡は世界遺産リストに登録される。全人類の利益を確実に守るため、普遍的な価値を持つ文化あるいは自然がリストへ登録される。」 遺跡の中にはシアバターの木が沢山残されていた。自然に生えてきたシアバターの木は伐らずに残したものである。

遺跡の中はシアバターの木が沢山生えている

【ロロペニからワガドゥグへ】

我々はほぼ1時間ほどここにいた。このロロペニから西のガウアに出ないで、北に35kmほど走り、そこから更に西に30kmほど走ってブルンブルンに出る。ブルンブルンとは面白い響きの町の名だ。

ブルンブルン辺りにて

その後、ジブグエという町に午後1時に着く。そこで道路際の食堂で昼飯を食べる。ここもオープンスペースだ。外で起こした火の上で作っている鶏のスープが美味そうに見え、それを食べる。美味しかったが、量が少なかった。この道路際には普通並木道として植えられているカヤ・セネガレンシス(アフリカンマホガニーと呼ばれて大木に成長するセンダン科の木)ではないが、樹高が20mに達する立派な並木があった。2時前にブルンブルンを出発し、午後2時45分にパの町を通過する。ようやくいつもの道路に戻った。途中車がパンクした。下りて確かめると1本のタイヤが裂けてしまっている。これは危険だった。残りのタイヤを見ると皆すり減っている。取りあえずパンクしたタイヤを交換し残りはワガドゥグにいる間に新しいタイヤと付け替えることとする。午後5時過ぎにワガドゥグのホテルに到着する。長時間の車から解放され、夜はいつも行く近くの食堂で、シュワルマを食べる。相変わらず町中は暗いし、車は多いし、信号も少ないので、ホテルの前の大通りを横断するのは危ない。こうしてブルキナ・ファソでの一日は過ぎて行った。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.17_メキシコ

森林紀行

【徒歩でテポナクストラ村へ】

 天気は良く、村の西にあたる遠く離れた国道から山道に入り、約20km先のテポナクストラ村を目指して早朝に出発した。メンバーは、私とリーダー、女性隊員2名、それにメキシコの共同作業者と計5名だった。残りのメンバーは、別の村に向かった。1997年10月30日のことである。いつもは州都オアハカから約50km、車で約1時間のイクストランという小さな町を経て、東側の悪路の山道を約60km、6-7時間かけて行くのだった。

メキシコ.jpg

メキシコ

 しかし、この時は途中のブエナビスタ村を過ぎたあたりで、大雨のため土砂崩壊が起こり、車での通行ができなくなってしまった。村に行くには、反対側から山道を歩かざるを得なかったのだ。出発点は標高約800m、2,000mの尾根を越え、また1,000m下り、村までまた1,000m登るのだった。

大雨で土砂崩壊 進めなく.jpg

大雨で土砂崩壊 進めなくなった悪路の山道

【ケーキを持っていく】

 この日はリーダーの誕生日だったので、女性隊員が大きな箱入りのケーキを買ってきた。女性に持たせるわけにはいかないので、私が手持ちで歩き始めた。すぐにテポナクストラの村人に出会った。手持ちで運ぶのは大変だと思う間もなく、彼はロバを曳いていたので、自分の荷物をロバに乗せ、ケーキを背負って運んでくれることになった。全くラッキー。私は両手が空いたので楽になった。

20kmの山道を歩いてテポナ.jpg

20kmの山道を歩いてテポナクストラ村へ。右の村人がケーキを担ぐ

 山は雄大で、緩やかな登り下りとくねくねとカーブが続いた。日差しは強く、夕方ようやく村に着くころにはかなり疲れていたが、皆強かった。着いたのが遅かったので、泊めてもらう民家を捜すのは難しく、最近できた病院が開業直前で、その病院に泊めてもらえることとなった。家に帰った村人がしばらくして訪ねてきた。もちろんケーキを食べるためだ。それにしてもこのケーキを食べた時の村人のうれしそうな顔は忘れられない。ケーキなどめったに食べられなかったからだろう。実際、疲れたこともあり、ケーキの甘さが五臓六腑に染みわたり、今でも忘れられない美味しさだった。女性二人はベッドのある部屋で、男三人は別な部屋の床に寝袋で寝た。翌日三人とも他の二人のいびきがうるさく眠れなかったと笑顔で言い合った。

【村の状況】

 この村は本当に山奥も山奥、スペイン人達の迫害から逃れて来たためだろう。おばあさん達はスペイン語が話せず、クイカテコと言う民族語しか話せない人が多かった。しかし、男の中にまれに英語が話せる者さえいた。それはほとんどの男は一度はアメリカへ出稼ぎに出るからだった。村人と山を回る時、彼らは必ず銃を持ってきた。アメリカで手に入れたものだ。現在アメリカで密入国が問題になっているがこんな山奥の先住民も多数、出稼ぎに行っていたのだ。アル中になり戻る者もいた。村には大きなマツが多く、マツを売っての生活である。

村から搬出される大径のマツ.jpg

村から搬出される大径のマツ材

 村は直接民主制で、つまり住民総会で全ての物事を決めて行く。農作業の後に疲れていても総会が開かれるのはいつも夜だ。総会中に時々、論文発表の時のようなチーンという鐘の音がする。聞けば寝ている住民を起こすためだという。村には上流域から村まで等高線に沿いわずかな傾斜をつけた水路があった。先人たちが作ったものだ。こういった水路はエコツーリズムで見せることができると思ったりもした。

森を歩いている時に.jpg

森を歩いている時に、村人が銃で撃ったヘビ

 村にはバスケットボールコートがあるが、犬の糞を避けてドリブルするのは難しく、不潔だったがそれでうまくなるのだろう。ただし、夜の野良犬は徒党を組み怖かった。その後、行くたびに異なる民家に、それぞれ長期に泊めてもらった。

 トルティージャ(トウモロコシの粉をペースト状にして焼いたもの)が中心の貧しい食事だった。しかし、村人の心は暖かく、標高2,000mの夜は冷えたが、日干し煉瓦の家は温もりがあり居心地が良かった。ここで見た澄んだ夜空に輝いていた満天の銀河も忘れられない。

村の風景。日干し煉瓦.jpg

村の風景。日干し煉瓦の家は温もりがある

 我々が歩いた道は、拡張工事をしていて、何年か後には車が通れる道となるということだった。グーグルアースで見ると、開通しているようだが、実際はどうだろうか。確かめも兼ねてもう一度村を訪ねてみたいものである。

つづく

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.16_ホンジュラス

森林紀行

 最近のホンジュラスは、人口当たりの殺人事件の発生件数が世界一のため、世界一治安の悪い国と言われている。それはホンジュラスにギャングの拠点があることらしいが、警察も政府も脆弱のためギャングを強く取り締まることができないため、犯罪が起きているとのことだ。私が仕事をしていた時も治安は悪いと言われていたが、差し迫った危険は感じなかった。また、ドミニカ共和国で一緒に仕事をしていた職員が、数年前に青少年教育のためホンジュラスのグラシアス・レンピーラという町に2年ほど滞在していたが、高官達の別荘が多い地域なので、治安は悪くはなかったとのことである。

ホンジュラスの位置.jpg

ホンジュラスの位置

 それはさておき、ホンジュラスでは奇遇とも言えるような出会いがいくつかあった。一つは大使館付きの医者が兄の友人だったことである。私が目にものもらいができ、その医者の世話になったことがあったが、その方はホンジュラスに来る前はタンザニアの大使館付きの医者だった。私の兄がタンザニアでチンパンジーの研究をしている時に兄と友人となっていた方だった。

  また、私の娘の友人にも会った。娘が高校生の時に家の近くの教会のバイブルクラスに通っていて、そのクラスにいた男子が、たまたまホンジュラスに留学し、テグシガルパの下宿を訪ねて励ましたことがあった。

  今回の話は、私の友人夫婦の奥さんがホンジュラスのある子どものフォスターマザー(養母という意味であるが、日本の支援団体を通じて発展途上国の貧しい子 供に援助金を送るシステムで、たまたまホンジュラスの子となった)になっていたので、私がその子の家を訪ねて行った時の話である。

 さて、クリスマスも近づいた1995年の12月16日の土曜日に、一緒に仕事をしていたホンジュラスの林野庁の技術者にお願いし、そのフォスターチルドレンの家に同行してもらった。ダンリから首都のテグシガルパを通過し、そこからその子の住んでいる家に向かったので車で片道3時間くらいかかった。

訪ねた家族が住んでいた.jpg

訪ねた家族が住んでいた家の周り

 お土産には何がいいか相談すると、貧しいだろうから米とか食料品がいいだろうというので、それらとチョコレートなどクリスマスプレゼントを大量に買って持って行った。

その村につくと目的の家はすぐに見つかり、子供と母親に会うことができた。

家の中.jpg

家の中

   子供は小学校高学年、お母さんは30代半ばに見えた。やはり貧しかった。雑木林を切り開いたような所の掘立小屋に住んでいた。と言ってもブロック積みの家であったが。クリスマスプレゼントを渡したら一番喜んだのは母親だった。多少の生活のたしになると思ったからだろう。家の中にはハンモックがあり、小さな子供が寝ていた。部屋の仕切りは汚れた薄いカーテンだった。調理には薪を用いていた。子供は5人ほどおり、旦那とは離婚したばかりだと言っていたが、実際は良く分からなかった。

訪ねた家族とホンジュラス.jpg

訪ねた家族とホンジュラスの技術者と私

  この辺の主食のトルティージャ(水でこねたトウモロコシの粉を、鉄板の上焼いたもの)とフリホーレス(ペースト状にした豆)は十分に食べて行けるように思え安心した。貧しいながらもラテン系の例にもれず母親の性質は明るく、また子供の目もキラキラ輝いていたのが救いだった。とても賢そうに見えた子供で、よく勉強するよう励ました。今は35歳くらいになっているはずである。

 アメリカへ向かってのキャラバンの参加者は、町の治安の悪さから町に住む人々が中心と思うが、このように田舎に住んでいた人たちはどうなっているか、とても気になっているところである

 以前に書いたように、1998年ハリケーンミッチーに襲われ甚大な被害を蒙り,多くの国の援助が入り焼け太りし,建物も近代化し,2001年に訪問した時には,随分とアメリカナイズされたなと思わされたものだが、発展したと見せかけられたのはほんの一瞬だったのだろうか?

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.15_ブルキナ・ファソ

森林紀行

 TBSからこの紀行文に載せているネレの木やそれから作る調味料のスンバラの写真を使用してよいか許可を求めてきた。良く捜すものだと思ったが、ネットサーフィンの時代、捜すのは簡単だっただろう。放映の3日前だったが、OKした。その番組は2019年3月14日23時56分からの「世界くらべてみたら」という番組で、国分太一や渡辺直美がご飯のお供にはどんなものが良いか、世界各国のご飯のお供を比較したもので、なかなか楽しい番組だった。その番組ではコートジボアールの代表としてスンバラが取り上げられていた。

 以下は、既にブルキナ・ファソ編で載せている紀行文であるが、再読していただければ幸いである。

 スンバラとは西アフリカの料理には欠かすことのできない発酵食品の調味料である。フランス語では「ネレ」と呼ばれるマメ科の樹木の種子から製造する。ネレの木は樹高が10~15m(最大では20m程度)までに成長する。私が住民の生活向上を支援をしていた地域はブルキナ・ファソで、コートジボアールの国境まで約60㎞くらいと近かった。「シアバターの木」の方が有名で、この木と共に「ネレの木」もこの地域では、点々と農地の中に存在している。重要な木は昔から住民は残しておいたのだ。これがこの地域の独特の景観を形成している。

 「スンバラ」は、このネレの木の種子の果肉を発酵させたもので、納豆菌と同じ仲間の菌である。そのため独特の香りがし、酸っぱく、これを調味料として用いるのが、西アフリカ料理の特徴である。

 種子が取れるのは4月~6月で、収穫後は軒に干してから、種子と果肉を採取する。残った莢は、粉末にし、水に溶かして防水材として壁に塗ったりするということである。スンバラは村の女性の貴重な現金収入源ともなっていて、プロジェクトでは森林管理グループの生計向上支援の一つとして、スンバラの加工方法の改善指導を行っていたのである。

  私はスンバラ自体は好んで食べたいとは思わなかったが、ご飯にふりかけて食べたりはした。また、セネガルやブルキナ・ファソの主食であるチェブジェン(洗面器のような大きな器を用い、魚の煮汁でご飯を炊き、炊いたご飯の上にその魚を載せて食べる)の調味料は、スンバラというからいつもスンバラを味わっていたようなものだ。酸味があり、独特の香りでチェブジェンは食べずにいられなくなるものだった。

ネレの木の莢.jpg

ネレの木の莢

莢の中身。黄色.jpg

莢の中身。黄色の果肉の中に種子がある

果肉の中から種子を取り出し.jpg

果肉の中から種子を取り出し、乾燥させてから発酵させる

独特の風味がある.jpg

独特の風味がある

Page Top