野菜
今年はいろいろな夏野菜を作っています。
といっても、自分は収穫専門で、種をまいた後は、ほぼお任せ状態です(^_^;)
トマト、キュウリ、ナス、カボチャ、トウモロコシ、スナップエンドウ、スティックセニョールなどなど・・・
いろいろ作りましたが、
中でも珍しいのは白いナス(やわらかくて甘い)です。
トウモロコシにも白いものがあります。
トウモロコシは色々な種類を蒔きました。8月中旬頃には120本ほど採れる予定です。
MA-SAK
知らないうちに…
皆さん、缶詰って食べますか?
私は正直なところ、シー●キンくらいしか食べませんし、特に興味もありませんでした。
しかし、この間スーパーに寄ってふと缶詰コーナーを見てみると沢山の種類の缶詰が…。
定番のツナ缶・焼き鳥・サンマ缶からオイルサーディン・タイカレー・イナゴ…。知らないうちにこんなにも増えていたんですね。
そんな中で私がおすすめしたい激ウマ缶詰がコレです!
ずばり、サバのオリーブオイル漬け、その名も”サヴァ缶”です。
1缶に170gとたっぷりのサヴァ。結構お腹いっぱいになります。
ご飯のお供、お酒のお供なんでもイケます。
そのままでも十分美味しいのですが、大根おろしやスライスオニオンなんかと食べると一層美味しくいただけるかと思います。
ぜひご賞味ください!
written by 鯉
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.2
初めてのワガドゥグ
ホテルや両替商
ホテル・クルバ
ホテル・クルバは、我々プロジェクトメンバーがワガドゥグで常宿としているホテルであった。空港からすぐ近くにあり、車で5分程である。ワガドゥグの中心街の東側である。3階建てで概観はやや古い建物に感じたが、それほど古くないのかもしれない。道路幅が30mから40mほどの大通り(Av. de l’Aéroport : 空港通り)側と、道幅が5mから6mの細い道路側とに面し、L字型のホテルである。1階にロビーとカフェテリアがある。1階の大通りに面した側にはテナントが入り、客室は2階と3階である。私はシングルの客室に入る。部屋の建て付けは悪く、クロゼットのドアもきちんとかみ合わない。清潔ではあるが、私にはあまりきれいとは思われないホテルであった。
ホテル・クルバのロビー
ベッドには蚊よけのカヤがついており、マラリアに対して、少しは安心できるので、これは良かった。部屋により新しいタイプのエアコンもあり、新しいものの音は静かだが、古いタイプのエアコンでは相当な騒音が出る部屋もある。高級ホテルには程遠いが、ブルキナでは高級の部類に入るのであろう。Sさんは長期滞在者用のキッチン付きの部屋に入っている。キッチン付きの一室で以前、電気が漏電し、ぼや騒ぎがあったとのことで、幸い大事には至らず消し止めたということだったから、こういうホテルでは安心できない。
日本を出る前から、ワガドゥグでは学生のデモがあったり、ブルキナの治安状況は悪化してきているとは聞いていたが、着いた時点では落ち着いており、この10日後くらいに、このホテルで経験する生きた心地がしない大変な事件に遭遇するとは想像だにできなかった。
両替商
現地に着いてまず必要なのは現地通貨である。両替商は、携帯電話会社や食堂などと並んだ道路際にあり、ホテル・クルバからも歩いてすぐのところであったが、歩くのはひったくりなどの危険があるのでいつも車で行くのであった。最初に行ったときは当面自分の必要分だけを換金した。1ユーロが656FCAF(シェファーフラン)でホテルよりも1良かったが、ホテルでも換金率はほとんど変わらないので、ホテルは意外に良心的だと思った。しかし、ホテルでは少額しか替えられないので、大きい額を換金する必要があるときは両替商か銀行に行かなければならない。
両替商の換金窓口でユーロのトラベラーズチェックとパスポートを出すと中に持って行ってパスポートのコピーを取るので、早くパスポートを返してもらい、金をもらわないと気が気でない。現地通貨をもらうと周りの人に見られないように金をさっとカバンにいれる。ここで数えると回りに金をさらす時間が長くなり危険度が増すからである。札束の数だけ数え、100枚は信用することにするしかない。ホテルに帰ってから数えて、もし足りなくとももう返してくれることはないだろうが、今まで各国の銀行で間違えていたことは一度もないのは幸運だったのだろうか。何しろ海外での換金はいくら注意してもし過ぎることはないので、安全を優先しているのだ。
関係機関
JICA
翌日(2011年3月14日(月))は、Sさんと共に、最初にJICA事務所に挨拶に行く。担当は若い方であるが、東京では海外からの研修生の受け入れなどで世話になっていたので旧知である。いつものように、今回のプロジェクトの活動内容や日程を説明し、細かい打ち合わせをする。
打ち合わせの後に、治安関係について説明を受けた。現在学生がストライキを計画中で、明日(3/15)はワガドゥグ で大きな集会があるので気をつけよとのこと。地方でも小中高の学校が今は全て臨時休校となっているとのことである。1ヵ月前くらいにクドゥグというブルキナ第3の都市で学生が警察の取り調べを受けた後に死亡した事件があり、それは警察官の暴行と言われており、その後学生と警察の衝突が激化しているとのことである。その他北部では「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」による誘拐リスクがあるとのことである。我々のプロジェクトは南部であるので、多少は安心だが、苗木の案件をもっているSさんはやや北部までも行かなければならないので細心の注意が必要だ。その他一般犯罪や交通事故、これらは日本よりもはるかに多いとのことである。
ブルキナはアフリカにおいて近隣諸国と比べても、とても治安の良い国だと言われていた。アラブの春がちょうどチュニジアで始まったばかりで、すぐにエジプトやリビア、コートジボアールなどアフリカの多くの国に波及し、情勢不安な状態の中でも、2010年の11月にあった大統領選も大きな混乱が起こることもなかったのだが、ブルキナの治安も段々と悪くなってきたのだった。
森林局
その後森林局に行く。局長が不在だったので、Sさんが行っている苗木案件のプロジェクトの部屋に行き、スタッフに挨拶をする。苗木プロジェクトの団長さんも不在であった。英語をしゃべれるスタッフを2人雇っていたので、話はしやすかった。
使用している車のフロントガラスにひびが入っており換えなければならないこともあり、もう一日森林局で仕事をした。発展途上国では舗装をしてあっても小石が跳ねてフロントガラスにひびが入る場合が非常に多いので、気をつけねばならない。
森林局の前の通り
その間に地図局に行き、地図を買ったり、ブルキナやアフリカの地勢に関する本などを買って、プロジェクト地域周辺の自然条件を改めておさらいをした。
森林局(Difor)の入り口の看板
森林局
森林局の庭
ワガドゥグの町
ワガドゥグの町をイスフ(運転手)の運転で走っていると車は多いし、荒い運転が多いので、日本以上に気をつけないといけない。バイクも非常に多く、特に女性は子供を背負って運転している人も多く、本当に気をつけないといけない。最初にイスフに「気をつけろ。」とは言ったもののあまり言うのも運転がしにくいだろうし、運転手はワガドゥグでの運転にも慣れているのであまり気をつけろというのは控えていた。それにしても非常に埃っぽい。セネガルのダカールも非常に埃っぽかったが、ワガドゥグの方がもっと埃っぽい感じである。サハラ砂漠から飛んで来る微砂がいつも舞っているのだ。
ワガドゥグの町。サハラからの微砂で埃っぽい
バイクの2人乗りが非常に多い
コンピュータもカバーを付けないとすぐに故障するとのことである。キーボードカバーが絶対に必要とのことから、それを日本から用意してきた。
バンフォラへ
2011年3月16日(水)にワガドゥグからプロジェクト事務所のあるバンフォラに向かった。ワガドゥグからバンフォラまでは約430Kmである。車で6時間ほどだ。ワガドゥグで食糧の肉類などをマリーナマーケットというスーパーマーケットで買い込み9時過ぎにワガドゥグを発つ。道路の舗装状態はまあまあ良い部類なので、時速約100Kmで飛ばしていける。しかし、平均時速は70?80kmくらいだ。
Sさんは、今は苗木プロジェクトの担当となっているためワガドゥグに残る。運転手のイスフと二人でバンフォラに向かう。バンフォラでは、別のプロジェクトスタッフのMさんが仕事をしている。運転手のイスフには交通事故には十分に気をつけさせないといけない。あまり言わないがやはりスピードの出し過ぎに注意する。
ワガドゥグから約180km行ったボロモという町に12時近くに着き、ここで昼食を取る。レストランというほど立派ではないが、ここは外国人の多くが立ち寄り食事をするようだ。
途中の樹木の状況
国道沿いには大きなカヤ・セネガレンシス(Khaya senegalensisセネガル原産のセンダン科で高木に成長する樹木)の並木がある場所が多い。大きい木だと樹高は20m以上もあり、胸高直径は80cmくらいもある。これはフランスが統治していたときに地元民に植えさせたとのことだが、これは宗主国が行ったほんのわずかの良い行いの部類だったろう。畑の中にも随分と木が残っている。これはあとでわかったが、シアバターの木だった。私がシアバターの木を見るのは初めてだった。
ワガドゥグからバンフォラへ。すぐに都市から畑作地滞へ
地元民の伝統的なわら葺きの小さな家が見える
私はセネガル、モロッコ、ジンバブエといった乾燥地帯のアフリカで主に仕事をしてきたので、このような大木があったり、樹木が多い場所を見るのは珍しく、ここで植生回復のプロジェクトなどを行えば回復の可能性は非常に高いと思った。
ボボジュラッソを通過
バンフォラへあと80kmくらいの所に位置し、ワガドゥグからは手前に在るボボジュラッソの町に午後5時頃に着く。ここはワガドゥグに次いでブルキナでは2番目に大きな町だ。イスフにガソリンを入れていかないのかと聞くと、まだバンフォラまで行けるし、バンフォラにガソリンスタンドがあるので心配ないと言う。まだイスフは私に打ち解けてないので、かなり無口で、ぶっきらぼうである。
バンフォラに到着
バンフォラに着いたのは午後6時半くらいだった。フランス人が経営しているカンナ・スクレというホテルに着く。バンフォラはやはり随分と埃っぽい町だと感じた。しかし、セネガルの町に比べて緑が多いのでビックリだ。
つづく
7月の駒ヶ岳
Korea-ソウルへ
6月に初めての韓国-ソウルへ行ってきました・・・・・
成田からソウル仁川国際空港へ向けテイクオフ===
韓国の首都ソウルは流石に大都会
でも裏路地は、東京のアメ横を思わせる雰囲気です
1日目の夕食に入ったお店です。人気があって時間帯によっては地元の人や観光客で行列ができるようです。
メインは参鶏湯(サムゲタン)鳥を洗面器のような鍋で煮こみ、トウガラシに効いた味噌につけ、少し甘めの焼酎でおいしくいただきました。(><)! by N.k
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.1
ブルキナ・ファソへ
1.はじめに
この紀行文では、最初にアジアのインドネシア、次に南米のエクアドルを書いたので、今回は3本目としてアフリカのブルキナ・ファソについて書きたい。
ブルキナ・ファソ(以下ブルキナと略すが、文脈によりブルキナ・ファソとも記す)には2011年に実施していたプロジェクトのメンバーとして行ったものである。
私の出発日は2011年3月12日(土)と決まっていた。ところが前日、東日本大震災が起こり、私は都内の勤め先から自宅に戻ることができず、職場に近い同僚の実家に泊めてもらった。出発は延期されるということだったが、3月12日の早朝、搭乗予定の飛行機便の出発が昼から夜に延期されたので、それに乗るようにと連絡がきた。午前中に何とか自宅に戻ることができ、すぐに出発の用意をして家を出て、混乱の中、成田空港に何とか着くことができた。半日遅れであったが、パリで一泊し、ブルキナの首都ワガドゥグには予定通り着くことができた。ということで、この紀行文は出発日のことから記したい。
東日本大震災の爪痕が未だに深く残る日本。改めて、大地震、大津波による犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、また、未だに帰還できない多くの原発震災被災者並びに大地震、大津波の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
2.成田空港へ
2011年3月12日午前11時頃都内から何とか帰宅できた。職場から普段は通勤に1時間程かかるが、この日は3時間以上もかかった。しかし、ともあれ家に帰れた。飛行機便は夜ではあるが、成田空港に行けるかどうかもわからないので、できるだけ早く出発することにし、まず風呂に入りさっぱりする。一緒に出発する同僚に電話するが、電車がスムーズに動いていなくて家に帰るのに苦労しているとのことだった。私は、家で昼飯を食べてすぐに午後1時に家を出た。
成田空港へ
私の娘が家にきており、途中まで一緒に行ってくれると言うのでやや心強かった。リムジンバスが動いていなく、タクシーも遠距離には行ってくれず、電車で行くことにした。
西武線の所沢駅の案内で聞くと、「京成電鉄が動いているので成田空港まで乗り継いで行けるのではないか?」と言われる。駅でも正確な情報はつかんでいない。ではととりあえず西武線で池袋駅まで行ってみようと行った。ゆっくりだが池袋駅まで着くことができた。するとJRの山手線も少しだが動いていて、上野駅まで行くことができた。JRの上野駅から京成上野駅まで歩く。駅員に聞くと途中の八千代台駅まで電車で行き、その先はバスで成田空港まで行けると言われる。切符を買おうとすると売っておらず、何でも良いから取りあえず乗って行けと入場券をくれる。それで娘と京成上野駅で発車を待っている電車に乗ろうと思ったが、あまりに満員なので、駅員に「次のがすぐ出るか?」と聞くと、「次の電車はいつ出るかわからないからこれに乗った方が良いですよ。」と言われる。仕方がないので満員電車に乗る。まもなく電車が出る。娘は日暮里で降りて帰って行った。それから各駅停車で、ゆっくりと電車が進む。
途中でかかってきた電話
途中で同僚から電話がかかってきた。「荷物が成田空港まで着かないということが分かった。仕事道具を持っていけないから今日は出発できない。あとから行くので先に行っていてくれ。」と言われる。仕方がない。私も「私の荷物が、成田空港に着いていれば先に行く。もし着いていなかったら行くのを延期するが、取り敢えず成田空港まで行って確かめる。」と答える。
満員電車の中、途中で座ることができ、ほっとした。八千代台駅に着くと、バスではなく、成田空港から来た電車と乗り換えになった。駅の渡り廊下のようなところは乗客がすれ違い、満員でごった返していたが、何とか成田空港行きに乗ることができた。
成田空港に着く
成田空港に着いたのは午後6時くらいだった。家を出てから約5時間かかった。普段は2時間半くらいだからちょうど倍の時間がかかった。しかし、何とか空港に着けてほっとした。案内板を見ると私の乗る飛行機の出発は午後10時であった。
成田空港には午後6時頃着く
まだ、4時間あるが何とはなしに安心した。宅配のABCで送ってあった荷物を取りに行くと、自分の荷物と仕事道具で計3つの荷物が無事着いていた。
荷物については、私は3月11日の午前中に家に取りに来るように頼んでいたため集荷に来たのは、地震の前であった。そしてすぐに成田空港に運んだのであろう。同僚は3月11日の午後に集荷を頼んだということだったので、地震の後で成田空港まで着かなかったのであろう。
荷物はブルキナの首都のワガドゥグまで直通で送れるということなのでそれで頼んだ。パリで降ろすことがないので楽だ。
出発前の成田空港
(2011年3月12日午後6時23分の掲示板。遅延となり21時55分発に変更されたAF277便だが、更に遅れて出発は23時過ぎだった。)
待合室にて
チェックインして、エアフラのラウンジに行き、そこでメールなどを打ちながら3時間ほど出発を待っていた。ことのきは知らなかったが、この日の午後3時ぐらいに福島第一原発の第1号機が最初の水素爆発を起こしていた。
3.成田からワガドゥグへ
パリヘ向かい出発
午後10時出発予定が、更に1時間遅れて出発は午後11時くらいであった。飛行機は、まだ就航して間もない最新のA380で、ジャンボよりも一回り大きな巨大飛行機であった。この飛行機は総2階建てで、私は2階から機内に入った。隣の席の日本人の方と話すと地震の時、都内で車を運転していてハンドルを取られ、うまく運転できなかったため事故を起こさなくて良かったとのことである。しばらくし、夕食を食べたら知らない間に寝てしまい、朝食も取らず、気が着いたらまもなくパリに着陸とのことで起こされた。10時間以上も眠っていた。よほど疲れていたのだろう。機内でこんなことは初めてであった。
パリにて
パリでは空港内のホテル・シェラトンに入る。フランスは地震がないので、急に大きな安心感を持った。しかし、飛行機は原発爆発直後の福島の上空近くを通過していた。
その後ブルキナ・ファソでも後に述べる大事件に巻き込まれ、5月1日に緊急避難帰国をした。帰国便は福島上空を通過することなく、航路を南に迂回させ、中国・四国地方の上空を通過して成田に到着したのであった。
さて、予定では日本を午後1時頃出発して、同日の午後5時頃パリに到着予定であったが約10時間遅れたので、到着は翌日の夜中の午前3時頃だった。空港内のホテル・シェラトンに入ったのは朝方の4時頃であった。次のワガドゥグ行きが午前11時発だったので、3時間ほど寝ることができ、だいぶ休まった。シャルルドゴール空港では荷物を受け取ることもなく気楽であった。
パリからワガドゥグへ
ホテルを9時前に出て、出発ゲート内に入り、ワガドゥグ行きのゲートに向かった。パリも検査が厳しくなり、荷物検査に沢山の人が並んでいて時間がかかる。東京からパリまではモロッコとセネガルを調査した時に何回も飛んでいるので、良く知ったところだった。パリからワガドゥグは初めてであるが、モロッコ、セネガルに行くのとゲートが違うだけで、違和感はない。
飛行機は最初パリからニジェールのニアメに向かった。ニアメ経由ワガドゥグ行きの便だ。隣に座っていた人はスイス人であった。ひとしきり、日本での地震、福島の原発の恐怖などを話す。その人はチェルノブイリ事故の時のヨーロッパの放射線汚染の恐怖と被害を語った。チェルノブイリから大量の放射線がばら撒かれスイスでも食品の安全には相当に気を使ったそうだ。福島でも同じようになるのか、この時は大変な事態になるだろうとは思ったが、その程度は全く想像がつかなかった。
そうこうするうちに、ニアメに着く。ニジェールの状況を空からみると点在する木が見えるがほとんど大木はなさそうで、茶褐色の地肌が見える。ここは聞きしに勝る乾燥地帯のようだ。ニアメに着くと気温は44℃と放送がかかる。ヒェッ。これは大変な暑さだなと思う。機内にニジェールの軍人が乗ってきてパスポートと荷物を確かめる。前と後ろのドアが開いていると熱風が入ってきて、機内の温度は40℃以上に上がったであろう。早く出発してもらいたいと思った。
スイス人が下りて、その席に大きな黒人が座った。聞くと中央アリカの人だった。政府の役人とのことで、この暑いのにちゃんと背広を着てネクタイを締めている。1時間半くらい駐機していただろうか。ようやくワガドゥグに向かって飛び、機内も涼しくなる。
ワガドゥグにて
ワガドゥグに着いたのは午後6時くらいだった。着陸時の放送では気温は42℃とのことである。ニアメよりも2℃も低いことで少し安心した。機内を出て、ターミナルまで少し歩くが熱風を感じていた。空港にはプロジェクトのメンバーのSさんが出迎えてくれた。
三菱の大型のパジェロを運転している運転手は、プロジェクトで雇っている。まだ若そうだが愛想がなくブスッとしている。身長は私(170cm)より少し高いくらいだが、かなり太っていて100kgくらいはありそうだ。それからメンバーが常宿としているホテル・クルバに向かう。空港からホテルまではすぐそばだ。ホテルにチェックインをして当面必要な資金として100ユーロを替える。ここは655シェーファーフラン(FCAF)で、公定レートの655.957とほとんど変わらない。シェファーフランは西アフリカ一帯の共通通貨で私はセネガルでも使っていた。もう長年固定レートである。
日本の状況や家族のことを思うと心苦しかったり、不安感が湧き上がるのであったが、何はともあれワガドゥグに到着し、ホテルに入ったのでほっとし、明日からの仕事への期待も膨らむのであった。
アフリカ(ブルキナ・ファソはマリ、ニジェール、べナン、
トーゴ、ガーナ、コートジボワールに囲まれた内陸国)
ブルキナ・ファソ(面積27万km2(日本の約7割)、人口1,750万人(2012))
つづく