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【森林紀行No.1 15/18】「交通事故の対処」

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交通事故の状況

 1985年8月13日(火)、この日8時にMAGへ行って署長に話しを聞くが、キトーに電話したところ、キトーの本部では何も知らないということである。署長は本来コカに居るべき者が、コカ以外で重大事故を起こしたことを心配している。

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事故を起こし、使い物にならなくなった車

 

 Y君が確かなことをつかんだらすぐに関係者に連絡するとするが、万一死亡事故の場合には、すぐにキトーに戻り、MAG、大使館、東京(JICA、JAFTA)に連絡するという体制を取った。

 

 こういった事故が起きた原因を考えてみると、道路が石油を取った後の残りカスを敷いたものでアスファルトではなく、雨が降ると非常にすべり易くなり、スピードの出し過ぎは危ない。それにカウンターパートの現場の親分であるモリーナはMAGの車なので、運転手がいても自分で運転したがり、また運転している時は横を向いてしゃべりながら運転する悪いくせがある。実際には事故を起こしたのはMAGの運転手であって、モリーナではなかったことは後でわかった。

 

 しかし、何とか事故を避けれなかったかと思うと避けることができたような気がしてならない。幸い我々日本人4人は、全員コカに残っていたから事故に会わず、よかったようなものの、彼らを強引に引き止めるべきであった。しかし、今回は相当強力なリーダーがいても引き留められなかったであろう。ラゴ・アグリオに家を持っているカウンターパートや作業員は家を見に行く必要があったので、だから少なくともそれ以外の者は引き留めるべきであった。

 

 午後3時過ぎにY君達が、打ち身だけで済んだモリーナとメディナを連れて帰ってきた。それによると全員無事であるとのことでホッとした。

 

 事故車に乗っていたのは6人で、

1.モリーナは多少の打撲で元気。すぐ治りそうとのこと。ここにいる。

2.モリーナの二号さんは、みけんを切り、25針縫う大怪我だった。当分安静が必要だが、元気。

3.二号さんの子供は10才くらいで、全身打撲だが元気で、すぐに治りそう。

4.ルナは頭と顔を激しく打撲したが、意識ははっきりしている。しかし、当分安静が必要。

5.メディーナは、全身打撲だが元気で、すぐに治りそう。ここにいる。

6.運転手はどこかを怪我しているはずだが、捕まるのが怖くて逃亡してしまった。

  

 とのことで、ルナとモリーナの二号さんが当分のあいだ安静が必要とのことで寝ているとのことだった。

 

 事故の起きた状況は次のようなことだった。時速40kmくらいでラゴ・アグリオからコカへ向かって走っている途中、テキサコの基地があるサンチェスというあたりで自転車をよけようとしたら、折からの雨でスリップし、路肩へ落ち、パイプラインに衝突、車が一回転した。ルナとモリーナの二号さんが完全に失神。全員がかなりの打撲で、一時的に全員気を失ったとのこと。

 ルナは特に頭が床と座席の間に入って挟まれてしまった。モリーナはコカへ誰にも秘密で二号さんとその子供をラゴ・アグリオに呼んでいた。サンチェスのテキサコの施設からすぐにセスナでラゴ・アグリオに運ばれ、ラゴ・アグリオの病院で二号さんはすぐに25針も縫ったということだった。

 

 

一旦ラゴ・アグリオに引き上げる

 モリーナとメディナは、全員ショックを受けているので、一旦ラゴ・アグリオに引き上げて、全員を落ち着かせてから仕事を再開しようと言う。Wさんはせっかく、いい木があるところを見つけたので、1班だけでも残って仕事を続けようと主張するが、私は日航機事故を聞いたことやアロンソの指きり事件もあり、この交通事故では完全に気が疲れたので、このような時に山へ入るのはもっと危険であると判断し、一旦ラゴ・アグリオに引き上げるように主張し、Wさんもそれに納得したので、一旦ラゴ・アグリオに引き上げることにした。

 

 すぐに全員荷物を片付けた。渡し船の最終時間が午後4時半なので、あと30分しかない。ホテル代や作業員への賃金などを大急ぎで支払い、なんとか最終の渡し船に間に会った。

 

はしけによる渡し場.jpg

はしけによる渡し場

 

事故証明を取る

 

 サンチェスを通るときにモリーナが頼んでいた事故証明を警察に取りに行くという。MAGへの報告や保険で当然必要である。警官と言ってもサッカーパンツのみで上半身は裸のあんちゃん風である。事故証明は当然のごとくできていない。仕方がないので、モリーナが学校へ行き、自分でタイプを打って、警官にサインとスタンプを押させる。1時間以上もかかった。しかし、1時間程度でできるなんて信じられないくらい早い。やればできるのだが、ここでは警官も本当に必要になるまでやらないのだ。しかし、モリーナもやるじゃんと思った。

  

夜道を歩く  

 ラゴ・アグリオの手前の渡し船の最終は午後7時半。結局まにあわなかった。仕方がないので、車をそこに預け、カヌーで人と荷物のみが渡る。渡ったはいいが、対岸にタクシーがあるわけではない。真っ暗な夜道を重い荷物を担いで、約5kmも歩かなければならない。動物や人間、危険なものが一杯である。

 とぼとぼと歩きだすと約1kmほど歩いたところで、止まっていたトラックがあり、それに頼んでラゴ・アグリオまで載せてもらい助かった。

 ホテルで遅い夕飯を食べたあと、ルナを見舞いに行く。かなりの重体に見えた。しかし、何とかしゃべれる。もともと体が細く、弱々しく見えていたので、やせてなおさら弱々しく見える。

 モリーナの二号さんもみけんを十字に縫ったあとが痛々しい。彼女は健気にも「いい土産話ができた」と笑って言ったが。

 

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道路に出てきたアリクイ。走っているので焦点があわなかった。

 

 

事故報告とその後 

1985年8月14日(水) 

大使館に事故の報告

 我々は、カウンターパートが事故が起きたことを大使館に報告した。

 

 昨晩キトーにいる仲間のNさんに電話をしたが通じなかった。この日も電気がないということで、昼までは電話ができなかった。午後2時になりようやく電話が開通した。

 

 大使館の担当書記官に電話局から電話をするが1時間以上も待たなくてはならなかった。順番待ちである。ラゴ・アグリオからは電話回線がキトーへ2本、コカからは1本しかなかったのである。

 

 「カウンターパートが交通事故を起こし、エクアドル側のカウンターパート3名が怪我をし、1人が重体であるが、命には別状ない。日本人は誰も乗っていなかったので、無事である。仕事は予定通り進める。」と伝えた。

 

 カウンターパートに事故があったが無事だったということと、我々が事故には巻き込まれなかったということで、大使館ではあまり重要なこととは思われなかった。危機管理というか安全対策などで、何らかの指示があるであろうと予想していたが、何のおとがめも無かった。

 この当時の電話といったら無線で繋いでいるので、アマゾンからアンデスの山の上へかけているからか雑音がものすごく、良く聞きとれない。それで大使館も良く事情がわからず、とりあえず無事だからあまりたいしたことはないと思われたのだろう。

 大声でしゃべらなければならないので、そこで待っている地元民が日本語など聞いたことがないものだから何事が起きたのかと不思議そうな目でこちらを見ている。 

  

ラゴ・アグリオの町の中の市場.jpg

 

ラゴ・アグリオの町の中の市場

 

 

衰弱していたルナ

 さて、今のところ全員元気で、ルナ一人が心配であるが、歩けるようにもなり、どこも骨も折れていない。しかし、明日か明後日キトーの病院へ送りたいと思った。しかし、ラゴ・アグリオ空港の滑走路の拡張工事が進んでおらず、TAME(軍の飛行機)とテキサコの便が少なく金曜日と土曜日は既に満員である。あとは体力の回復を待つだけなので、結局家で静養してもらうことになった。いざというときには、本当に陸の孤島というところである。

 

朝礼

 それから私は、毎朝出発前に朝礼をして、訓示をすることにした。「木を倒す時は気をつけろ。木の下敷きになったり、根に跳ね飛ばされないように遠くに離れていろ。交通事故には気をつけろ。スピードは出すな。」と口を酸っぱくして毎日同じことを繰り返し訓示した。

  

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森の中の入植者の家。コーヒーを栽培している。

 

 金曜日の朝は「皆今週の疲れがたまっているようだから、特に気を入れて行え。土日は休みとする。だから今日は頑張れ。しかし、事故には気をつけろ。特にチェンソーマンは油断するな。運転手は、交通事故には気をつけろ。スピードはだすな。」と繰り返した。

 

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道路開設の最先端で障害物となる大木を伐採していた黒人

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