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【森林紀行No.1 7/18】「アマゾンの町ラゴ・アグリオへ」

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ラテン気質の役所MAG

MAGでの出発の打合せ

MAGで先発隊が打合せ、現地ラゴ・アグリオへの出発は7月15日の月曜からと決まっていた。この日に調査団からは、私増井を含めて4名が現地に行き、団長は航空写真の撮影契約の署名などの関係で担当の2名とともにキトーに残ることになり、10日ほど遅れてラゴ・アグリオに入ることになった。

先発隊が打ち合わせていたところによると、MAGから運転手付きで車が2台が提供されることとなっていた。しかも運転手の支払いも燃料の支払いもMAGが行うから調査団は心配しなくとも良いと言うことだった。現地で雇う作業員などの費用だけを持ってくれれば良いということだったので、私はにわかには信じられなかったが、月曜日にMAGで朝7時に待ち合わせて、ラゴ・アグリオに向かうということになった。

またラゴ・アグリオにはヒメネスというナポ県の営林署長がおり、彼が作業員の手配などを全て行うので心配はいらないとのことだった。なんとMAGは良いところだろうと思わされた。

 

出発が一日遅れる

翌7月15日、月曜日の朝7時にホテルをチェックアウトして荷物を全部車に積んでMAGへ行くとMAGが提供すると言っていた車も運転手も来ていない。カウンターパートも来ていない。1時間ほど待つと運転手とモリーナが来た。運転手の話を聞くと出張旅費などもらってないし、すぐには出発できないと言う。

モリーナにどうなっているのか確かめさせた。車もMAGでは出せないということだ。一体どうなっているのだ。森林局側の言っていたのは体のいい繕いだけだったのか。いずれにせよこれでは今日出発するのは無理だ。

ホテルにすぐ電話しチェックアウトを取り消してもらい予約を1泊延長した。分かったのは、MAGから車も人も出せるものではないことだった。だったらはっきり最初からそう言ってくれと。そうすれば、我々はそのように手配したのに。そこのラテン気質を私はまだ分かっていなかった。

人に後で大迷惑をかけるのであるが、その時は迷惑をかけてはまずいと思うのか、あるいは、人の喜ぶ顔がみたいからだろうか、できないこともできると言いたいのだろうか?ラテン気質の気楽さである。そんなことからやはり先発隊で来るのだったと思うのだった。海外では行き違いのないように、念には念を入れて確認してもなお予定通り行かないことだらけだから人には任せておけないという気持ちだった。怒り心頭に達したが、それは顔に出さずに冷静に、では一日遅れだが、明日の出発を次の手として考え、モリーナとマンティージャを巻き込んだ。

今使っているレンタカー会社に確かめさせると明日ラゴ・アグリオまで送るだけならジープタイプの車は1台確保でき、その後別の車を2台すぐに確保できラゴ・アグリオに送ることができるというので、取り敢えずラゴ・アグリオに行くのに1台はレンタカーを使うことにした。もう1台はMAGの中から手配するようもう一度捜させると、ちょうどラゴ・アグリオから来ているヒメネスがジープタイプのランドクルーザーで帰るので、それに半分のメンバーが分乗すれば明日出発できることが分かった。

そんなことで翌日運転手付きのレンタカー1台とヒメネスの運転するジープと計2台でラゴ・アグリオに出発できることになった。その後は後から来るレンタカーを使い、運転手の給料やガソリン代は我々が出すことにした。言ってみれば、費用は当初の想定通り日本側が全て持つことになったのだが、MAG側の見栄やプライドの高さといったラテン気質が混乱を招いたのだ。

 

ラゴ・アグリオへ。

1985年7月16日(火)キトーからラゴ・アグリオに向かって2台の車で出発した。レンタカーの1台は大型のジープタイプのシボレー社製の車だ。シボレー(Chevrolet)のことをここではチェブロレットと発音しているのが何となく陽気な響きに聞こえた。

7時20分にキトーを出発する。7時の予定が20分遅れただけなんて、この国では完璧に時間ぴったりだ。一日遅れではあるが。アンデス山脈を越えるのに最初はキトーから山を登って行く。私は何故か緊張していた。たぶんレンタカーの運転手が往復だけではあるが、アマゾン川の流域に行くというので緊張していたのでそれが移ったのだろう。さすがに地元民でもアマゾンに行くと言えば身構えるのであろう。

 

赤道直下の雪

頂上の少し手前から雪が降り出した。ここは赤道上の熱帯ではないのか?この寒さは何だ。気温は0度以下だろう。長袖や薄手のジャンバーなどを重ね着するが、防寒着でないので震えるほど寒い。とうとう峠の頂上に着く。ここは標高約4,000mだ。キトーが2,800mだから約1,200mも上がったことになる。

 

アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪.jpg

 アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪

 

峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる.jpg

峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる。

 

それから下り出す。下るにつれて今度は段々と暑くなる。寒帯から熱帯へだ。10時半にバエサ(Baeza)に着く。ここは標高は約800mで、もう気温は30度もあろうというくらいで、Tシャツである。

 

苗畑

バエサには苗畑があり、しばらく苗畑を見学する。マメ科植物の苗木が多かった。

バエサの苗畑.jpg

バエサの苗畑

 

マメ科の木が多い.jpg

マメ科の木が多い

 

 

伐採木の検問所

伐採木の税金を取る検問所もある。1立方当たり25スクレ(約50円)取るとのことだった。

伐採木を積んだトラック.jpg

伐採木を積んだトラック

 

伐採が進んでいるのだろう。バエサで昼飯を食べてから出発。

 

ドイツの協力プロジェクトを見学

午後3時頃ドイツミッションに出会った。近くでドイツが協力しているプロジェクトがあるという。そこでドイツの協力プロジェクトを見せてもらう。主に製材をしている。木材の加工技術の向上を目指しているのだ。

ドイツの援助で作った製材所.jpg

ドイツの援助で作った製材所

 

セイケ(Seyke)、カネロ(Canelo)、セドロ(Cedro)という名の樹種から質の良い木材が取れ、長持ちするとの説明を受ける。

ここの名前はAssociacion Carpinteros Lumbaqui:ルンバッキ大工協会と言うそうだ。このプロジェクトスタッフとして働いていたのは、3人のスペイン人だった。ドイツの援助下でスペイン人が働いているのは言葉が通じるから雇ったのであろう。10cm×30cm×2.4mの材が普通材の倍の厚さで、セイケが240ドル(当時の円換算で約5万円)、セドロが400ドル(9万円)で売れると言っていたので、当時のエクアドルの物価水準からすると相当に儲かりそうに思えた。 

 

 ヒメネスの車がエンスト

そこを出発して、まもなくしてヒメネスの車がエンストして動かなくなる。直すのに大分時間がかかったがどうやら動くようになった。

エンストしたヒメネスの車.jpg

エンストしたヒメネスの車

 

アンデス山脈を下ってなだらかになり始めるあたり.jpg

アンデス山脈を下ってなだらかになり始めるあたり。石油のパイプラインが並走している

 

  ラゴ・アグリオの手前にて

ラゴ・アグリオに入る手前にはかなり長い橋がかかっていたが、この橋は2年後に起きた地震で落ちたとのことだった。

ラゴ・アグリオに入る手前の橋.jpg

ラゴ・アグリオに入る手前の橋

 

道路の途中にあった食堂に寄るとチョウのコレクションが飾ってあり、その種類の多さに驚いた。また体の大きさだけでも10cm以上はあり、角までいれると20cmもあるカブトムシの標本が飾ってあり、これまたその大きさに驚ろかされた。アマゾン源流域の生物多様性の高さを最初から感じさせられた。同じ種類の昆虫でも体が大きくなるものは、日本のものとはこれほども違うのかと印象深かった。

途中の食堂の壁にかけてあった蝶のコレクション.jpg

 途中の食堂の壁にかけてあった蝶のコレクション

 

いろいろあった一日であったが、夜の8時過ぎにようやくラゴ・アグリオに到着した。

 

つづく

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