帰国へ(インドネシア編最終回)
先にルブクリンガウに降りる
私の足は益々悪化し、とうとう調査には使い物にならなくなったので、先にルブクリンガウに降りて医者に足を見てもらうことにした。タモリが付き添ってくれた。
川で遊ぶ子供達
C/Pのタモリ
スルラングンで私がボートの運転手に1万5千ルピア(約3千円)やれとタモリに渡すと、その場でタモリは1万ルピアをポケットに入れてしまい、運転手には5千ルピアしか渡さなかった。「何しているのだ。お前にやったのじゃあない。運転手にやれ。」と言っても彼は、「私がいなければこの仕事は進まない。お前も私がいなければ仕事はできない。だからこの金はアラーの神が、私にくれたものである。」となめられたものである。全く気に入らない。しかし、ここでは親分はピンハネをしなければならない社会だ。
幾つだと聞くと38才と言ったり50才と言ったりする。顔立ちから見るとおそらく50才前後だろう。まあ、言ってみれば、江戸時代の悪代官か?
仲良く私とタモリ
乗合自動車
スルラングンからムワラルピットまでは、乗合自動車で下りた。トヨタのライトバンに乗り込めるだけ詰め込むのである。20人程も乗っただろうか。ムラワルピットからルブクリンガウまではナナがジープで送ってくれる。途中スカラジャで借りていた民家前で止まり、村人と別れとお礼の挨拶をする。
映画
ルブクリンガウでは、一人でデータの整理をしながら皆の帰りを待った。その間、ルブクリンガウにある映画館に行ってみた。上映されているのはカラテ映画で、日本人やアメリカ人が悪者で、インドネシア人が正義なのである。「ヤマハ」という名の宝石泥棒がインドネシア人の秘密警察にやっつけられるという勧善懲悪ものである。言葉はほとんど分からないが、ストリーが単純で面白かった。インドネシア人が活躍する時は、大拍手である。
夜中の到着
12月27日に皆がルブクリンガウに戻る予定であった。この日の夕方にタモリもホテルに来てだいぶ遅くまで待っていた。しかし、夜遅くになっても到着しないので、タモリも帰り、戻って来るのは明日になるのであろうと思い寝てしまった。すると午前1時過ぎに到着した。雨で道路が寸断されて大変な苦労をしたとのことだった。
目標達成
ルブクリンガウで全員が集結するとやっと現地調査は終了したのだという気がしてきた。全部で91ヵ所のプロット(標本)を調査した。80点以上が当初の目標であったから、目標は達成できた。これ以上雨期の森林に入るのは危険ということで、後はデータの整理と分析にあたった。
ルブクリンガウの医者
ルブクリンガウでは一人のメンバーを除いて医者の世話になった。そのメンバーは最も若く26才で、細く締まった体で一番強かった。私は足の化膿。他のメンバーお尻に大きなおできができてしまった。団長は足の付け根のリンパ腺を腫らしてしまった。
おできができたメンバーはルブクリンガウの病院で、おできの切開をしなければならなかった。その様子を見ていると、うつぶせに寝かされ、麻酔も打たずに、おできを中心に2cmくらい切開されると棒の様な器具で突っつかれ、ぐるぐると掻き回され、膿を全部出し切った後に、消毒用のガーゼを入れられて終わりだ。彼は痛みで貧血を起こし、顔面蒼白だ。2?3日したらガーゼをとれば良いという。まことに簡単だ。だが、治りは早かった。団長と私は例によってお尻に注射を打たれた。
帰途
いよいよ帰途だ。全員体重が5Kg以上減り、まるで敗残兵だ。
ラハットへ
12月30日、ルブクリンガウの役所へ挨拶を済ませて、ノルマン、タモリに別れを告げて我々はパレンバンへ向かう。ラハットまでの道路は、まだ傷んでなくて順調に着くが、ラハットからパレンバンまでの道路は、雨で寸断されているという。その晩はラハットに泊まり、パレンバンまでのルートを検討する。
大晦日
いよいよ大晦日である。道路が寸断されているので、遠回りでも迂回して、車が通れる道を選び、インド洋に面した町ベンクールに向かう。ベンクールは静かで、思ったよりもきれいな街であった。ここで新年を迎えようとは夢にも思わなかった。インドネシアでは正月休みは元日だけらしい。イスラム教国なので、そちらの関係の行事の方がにぎやかなのである。ホテルのボーイに「スラマトタウンバルー(新年おめでとう。)」と言われる。港に行ってみると、子供が大きなタイのような魚を釣っていた。町をちょっと見物してからパレンバンへ向かった。
1979年元日のベンクール
ここで子供が釣った魚
パレンバンにて
パレンバンに到着した時は、丸2日間もジープで揺られ、疲れきっていた。皆しゃべる気力もない。しかし、ここでもの凄く辛い唐辛子が乗ったパダン料理を食べたら皆シャキッとして何の疲れも感じていない様に変身したのには驚いた。
パレンバンの営林局
1月2日は休養し、3日はパレンバンの営林局へ、挨拶へ行った。ここの局長はなかなか英語がうまく、日本をちくりと皮肉った。「戦争中は、我々は皆日本の方向へ向かっておじぎをさせられたものである。戦後、日本は平和になり、日本人の体格は大きくなった。戦争中は我々と同じくらいの体格であった。オリンピックへ出てくる日本選手などは大きくてビックリする。日本は発展し、日本人はたいしたものだ。しかし、今はもの凄い経済侵略だ。今後は侵略すること無しに、純粋に協力してもらいたい。何はともあれ、皆無事でご苦労様でした。」などと言う。
ジャカルタ到着
そして、1月4日ようやくジャカルタへ戻った。ジャカルタでは再度プレジデントホテルに向かった。このホテルは一流で、清潔でまるで天国だ。世の中にこんなにきれいな所があったのかと思うくらいである。環境が清潔な状態になった途端に、私の足も急速に快方に向かった。一体なんだったのだろうか?
報告
翌5日、早速大使館へ行き現地の報告をした。皆の無事ジャカルタ到着を喜んでくれた。ジャカルタではボゴールの林業総局へ、現在までのまとめを報告するためデータの整理と解析を行った。
ボゴールの林業総局へ
調査の疲れも癒え、我々は資料のまとめも終わり、ボゴールの林業総局へ最後の挨拶へ行った。ここでの会議で、フォージーは次長のカヒルマンにこっぴどく怒られたが、どうも茶番のようでもあった。なんやかやでどうやら友好的雰囲気のうちに話は終わった。
また一悶着
この調査では、航空写真の複製はインドネシアの会社に委託していた。しかし、別な地域の航空写真の複製の値段について、例のごとく金額面で折り合いがつかず、一悶着あった。この調査は、まだ続いており、次回調査団が来るまでに解決しようということになった。
日本へ
そして1月11日とうとうジャカルタを発たなければならなかった。様々な思いが駆け巡り、スカラジャでの人と自然はとりわけ忘れ難かった。都会の喧騒にしか住めない我々にとっては、それは理想郷だったのかもしれない。どんなに貧しく、不潔であっても、おおらかで、清々と生きているではないか。
だが、そこも徐々に文明に侵されつつある。我々日本人が彼らのためにといって森林の管理計画を立てるのだ。彼らにとっては原生林と見えるような森林を焼畑で燃やしてしまうことなど何でもないことである。確かに焼畑を行うことは自然破壊に通じるように見えるかもしれないが、彼らは延々と大昔からそうした生活をしてきたのだ。我々の計画が彼らの生活に制限を与えるような恐れもある。
しかし、それよりも当面の利益を追求し、チェンソーで森林を伐採し、ブルドーザーで伐り開いて行くことに許可を与えてしまう方が、はるかに早く、壊滅的に森林が無くなってしまうのだ。
作業員達は良く働いたし、信じられないくらい動物的な感覚が発達していた。おそらく人間本来持っている能力を普通に発揮していたのだろう。そして人懐っこく、素朴な連中で、とても好感が持てた。
しかし、都会でも田舎でも役人達は、どうしても好きになれなかった。いつでも金をせびることしか頭にない連中ばかりであった。だが、それも彼らにとっては生きる知恵であろう。裏でこそこそやるよりも、はるかに素直かもしれない。
インドネシアとの別れを惜しみつつ、手を振りながら一歩ずつタラップを登って行った。ドアが閉められ飛行機は日本に向かって飛び立った。様々な思いが脳裏を駆け巡った。
インドネシア編終わり
次回からアフリカのブルキナ・ファソ編を書く予定