スマトラへの出発前のひと悶着
林業総局にて
到着の翌日11月15日はボゴールにある林業総局へ最初の挨拶(表敬)に行った。ここでの会議はすんなりとはいかなかった。話し合いは、まず英語で始まった。インドネシア側はほとんどが欧米留学の経験がありそうで、英語は上手そうだった。インドネシア側は、最初から「今回の協力事業の継続として、日本人技術者を3年くらい派遣して、指導を続けて欲しい。」と言って来た。今思えばだめもとで、何でも要求してやれという態度だったのであるが、まだ調査も始めてもない段階なのに、その後の継続の話である。
しかし、インドネシア側にしても英語では細かい話はしにくいのであろう。話が込み合ってくると林業総局次長がインドネシア語でしゃべりだした。そこで、こちらもインドネシア語が得意なメンバーがインドネシア語で応対することにした。すると私には何を話しているのか、話しの内容がさっぱりわからなくなった。ときどき通訳してくれる内容を聞いているだけだった。
とにかく、今回は予定通り仕事をし、今後引き続き技術者を派遣するかどうかは検討するということで話はまとまった。そして、今回の仕事の段取り、誰がインドネシア側のカウンターパート(C/P、共同作業技術者)として同行するかなどもまとまり、さあ明日はいよいよスマトラに出発となった。
ボゴールの林業総局前にて
出発前のひと悶着
いざ、出発だ。ということになって、ひと悶着である。スマトラ島での通行許可書がおりていないというのだ。言ってみれば昔の通行手形だ。我々が来ると分かっていながらインドネシア側がさぼっていたのだ。そんなものすぐに取れるだろうと高をくくっていると、5日後の11月20日までかかるという。どうも信じがたいが、いくら言っても埒が明かない。どこの国でも役所の事務手続きは遅いらしいが、この国は更に特別であるらしい。
仕方がないので急遽予定を変更し、私一人がジャカルタに残り、通行許可書を取った後、スマトラのパレンバンで落ち合うこととした。私なら役所の人間とは英語で通じるし、一人で残しておいても適当にできると判断された。
他のメンバーは、空路で先に行く者が、パレンバンの営林局で打合せ、様々な手配をし、残りが陸路ジープで行くこととした。
ジャカルタ市内(1978年)
大騒動の換金
そんなトラブルで、その日に換金する予定が、できなかった。しかし、何が幸いするかわからない。その11月15日にルピアのレートが一挙に1.5倍にも引き下げられたのである。1ドル400ルピアだったものが、600ルピアになった。まったくインドネシア政府は、恐ろしいことをするものだ。円だって、今は円高だとは言え、1ドル360円が200円近くになるのに何年もかかったではないか。それとは逆であり、性質は違うが、こんな無茶をすると政情不安になるのではないかと思った。しかし、我々にとっては全く幸運にも損をしなくてよかった。1.5倍も儲かったような気分になった。
ところが、ホテルの売店では、直ちに正札を1.5倍に書き換えていた。
16日に銀行に行くと、大騒ぎで、全く換金停止である、団長が東京銀行支店で掛け合って、ようやく1,000ドルだけ換金できた。全くまいった。後は、パレンバンで換金しようということにして現地に赴くこととした。しかし、パレンバンの銀行はずっと取引停止で、調査中に団長がわざわざジャカルタまで換金に引き返さなければならなかった。なんともトラブルが多く、これから先が思いやられる思いであった。
一人ジャカルタに残る
さて、11月17日に皆がパレンバンに出発してしまうと私一人が残された。最初は、インドネシア語は、全く通じないので困ったが、いろいろ冒険できて面白かった。「スラマトパギー(おはようございます。)」とボーイに挨拶されるが、「スラマトパギー」とすぐには出てこない。しかし、それも一日だけで、すぐに慣れた。
食事も最初はホテルで全く言葉が通じなくてまいったが、身振り手振りで悪戦苦闘の上、「イニ、イニ(これ、これ)」と指差すだけで十分に分かってもらえることが分かった。あとは、「テレマカシー(ありがとう)」だけで通じてしまう。
それからジャカルタの町を沢山散歩できたのは物珍しく面白かった。しかし、治安や迷子になることに気をつけて、常に大通りだけを歩いた。店屋でシャツを買ったり、絵葉書を買って日本へ出したりした。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省へ
20日になり、農業省へ通行許可書を取りに行った。タクシーはぼられると聞いていたが、どうということはなかった。それよりインドネシア語を試してみた。「バガイマナ?(どうだい?)、ハリイニパナス(今日は暑いねえ)」と言うと、運ちゃんは後ろを向いて「ヤーヤー、パナススカリ(暑すぎる)」と言った。実はそれだけが聞き取れた言葉である。後は、運ちゃんが一人でひっきりなしにしゃべっている。適当に相槌を打っていると、時々後ろを振り返りながら、猛スピードで飛ばして行くものだから恐ろしかった。タクシーはほとんどがトヨタと日産のお古だ。バスやトラックは、シボレーのお古だ。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省でのひと悶着
午前9時に農業省に行き、担当者にまず挨拶。ここで、この小賢しい小役人に随分と迷惑を蒙らされた。
この日こそは、すぐに許可書を渡してくれると思っていたが、局長クラスの人に挨拶した後、1時間以上も待たされた。あげくのはてに、「今日は、できない。明日来てくれ。」という。冗談じゃあない。一体何日待たされているというのだ。そして、この日の午後5時のパレンバン行きの航空券に変更してあるのだ。3時までにどうしてもホテルに戻らなければならない。
英語で事情を説明するが、どうも許可書はでそうもない。JICAの担当者に電話するが、いない。再び電話をするが繋がらない。その後は、何度電話しても繋がらない。回線が少ないのだ。仕方がないので、「もう行かなければならない。もし、今日出ないなら明日また来る。」と担当者に言ってから事務所を出ようとした。すると「ちょっと待て。」という。彼は、自室に戻ると「今できた。」と書類を持って来た。
何ということはない。書類はもうとっくに、エライさんのサインはしてあったのだ。彼らは要するに袖の下を要求していたのだ。ところが、私にはそれが通じないものだから諦めて、ようやく出したのだ。まともに交渉するとこういうことになる。
彼にして見れば、「何て頭の悪い奴なのだ、いくらか掴ませてくれればすぐに渡せるのに何時間待たせてもわからない奴だ。」ということだったのだ。言ってみればチップのようなものだが、習慣として、世の中を動かすには、あらゆる事柄に袖の下が必要だったのだ。しかし、袖の下で物事が動くと知っていたとしても、当時の私の性格からして袖の下は許せず、使えなかっただろうと思う。
後で考えると最初に打ち合わせたときに、通行許可書ができていないのもおかしい。こんな簡単なものはすぐに作れるはずである。どこかで誰かが袖の下を出す必要があったのであろう。そうすれば、今日も5時間も無駄に過ごすことはなかった。腹立つこと甚だしかったが、ともかく通行許可書は取れたのでホッとした。
けちな小役人根性にだいぶ暇を取らされたが、その日のうちにようやくパレンバンに飛ぶことができた。
つづく