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【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.9

森林紀行

スカラジャでの楽しみ、ムワラルピットへ

リクリエーション

その遭難騒ぎの後は、我々も慎重になり早立ち早帰りを心掛けた。こうした困難な調査では心身共に疲れて来る。息抜きも必要だが、家に帰るとその日の整理をしなければならず、なかなか息抜きはできなかった。

ただ、寝袋の上に横になって日本から持ってきた小説を良く読んだ。自分が持って来た2冊と他のメンバーが持ってきた2冊をそれぞれ3回ずつ読んだ。夕食後はコーヒーが美味い。あるいは缶ビールを飲みながら歓談するのも飽きることがない。団長は博学で何でも講釈ができ、その講釈が面白いものだから、このような苦労が伴う調査では、団を陽気にする大きな役割を果たした。

ここで私は29才、別の団員が31才の誕生日を迎え、ビールで乾杯をした。ある晩、私とそのメンバーが日本の歌を歌っていると、下でノルマン達がインドネシアの歌を大声で歌いだした。ここで、上と下で日本とインドネシアの歌合戦が始まった。2時間も歌ったろうか、種がつきてくると「もうないのか。それ歌え。」と下からどなってくる。そうして楽しい晩も更けて行った。

スポーツ

仕事後まだ明るいと、作業員達が遊びに行こうと誘いに来る。近くの小学校で、バレーボールやバドミントンをやろうというのだ。バトミントンはさすがにこの当時、世界チャンピオンがいた国だ。皆うまくて、我々は全然歯がたたない。どんな小さな集落にも細い木をライン代わりにしたコートがある。

バレーボールコートは、学校に一つあった。先生達は、「私達は貧しい。もしできればボールを一つ寄付してくれないだろうか。」と言ってくる。そこで、我々は、ルブクリンガウに買い出しに行った時に、ボールを一つ買ってきて寄付をした。

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小学校の先生達。女性が多い

盗まれる物

しかし、我々の物が盗まれるのにも困ったものだった。まず、スカラジャに入ったその日に団長の作業靴と私のビーチサンダルが盗まれた。ビーチサンダルならすぐに手に入るが、作業靴には困った。幸い11月28日に現地を去り、帰路に発った他のメンバーと団長の足のサイズが同じだったので、そのメンバーの作業靴を譲り受け、その間は運動靴で仕事をした。その他、シャンプーや整髪料あるいは缶詰などが、毎日少しずつ減るのである。我々は大目に見てやっていたが、一番困ったのはひとりのメンバーの時計が盗まれたことだ。彼のその時計は恋人と交換してきた大切なものだったからだ。隣に住む集落の長に「時計がなくなった。どうしても大事なものだから絶対に捜してくれ。」と頼み込んだ。すると彼は翌日、「子供達が持って遊んでいた。」と時計を持って来た。

結婚式

また、我々が感激したのは、結婚式に出られたことである。12月8日(金)の夕方、太鼓や鉦を叩きながら行列が通った。何かと思っていると花婿と花嫁の行進である。夜8時から披露宴があるという。我々も招待されたので、そこへ行って見た。会場は野外に作られた仮設ステージである。発電機で電気を起こし、エレキバンドの演奏もある。この日団長は、換金でジャカルタに降りていたので、私を含め残っていたメンバー合計3人は、一番前の主賓席へ通された。ごちそうのナシゴレン(焼き飯)が出てくる。まずは音楽。続いて祝辞。そしてまた音楽。祝辞の間に音楽が続く。

ご祝儀が集められる段になった。一人一人がステージに上がって新郎新婦にご祝儀を渡すのである。それを司会者が大声でいくらだったか公開するのだ。周辺の人々は貧しいので、それほど多くの金額は渡せない。我々は、金蔓として招待されたのだということはわかっていたから、相場よりも少し多めにご祝儀を渡したら、我々が渡した額が一番多かった。すると司会者は最も大きな身振りと大声で我々を称えるのだった。本当にわずかな額しか出せない人は新郎のポケットにそっと入れ、額は公開されないようにする。

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結婚式

我々のメンバーの一人がステージに上り、インドネシア語で祝辞を述べ、「椰子の実」を歌った。続いて歌が延々と続く。これが、イスラム教のアラビア的な感じで、全部同じように聞こえる。そしてもう一人のメンバーと私がステージに上がり、アラビアンリズムに合わせてディスコダンスを始めた。すると大喝采である。特に同僚のメンバーのセクシーな最新のディスコダンスは大好評であった。宴会は花婿花嫁そっちのけで延々と続く。新郎新婦は、雛壇の飾りだ。明日の仕事は休みというものの午前も2時を過ぎたので我々は帰った。翌日会う人全てに我々が踊ったディスコダンス風に挨拶をされるのであった。

ブヨやカで腫れた足 

それやこれやで2週間もスカラジャで過ごすと全員ブヨやカにさされた足が、凸凹に腫れ上がって来た。12月3日に、一人のメンバーは帰国のため、団長は換金のためにジャカルタに向かった。団長は大使館の医者に足を見せたとのこと「ひどいですねえ。」と言われて塗り薬を大きなビンに一杯貰って帰って来た。その後、仕事から帰ってくると薬の塗りあいである。それでもそのうち、皆足の付け根のリンパ腺が腫れて来た。

スカラジャ最後の晩

それやこれやで苦労したが、スカラジャでの仕事も終わり、最後の晩となった。我々は、集落の人を招いて、お礼の宴会を開いた。ここでも箒をマイクに見立てて大歌会であった。

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スカラジャ最後の晩のパーティー

ムワラルピットへ 

翌日荷物を片付けていると、人々はあれをくれ、これをくれと物乞いに来る。作業員達は、これから先も是非連れて行ってくれという。皆大変良く働いてくれたので、48才の年寄りのヌルを除いて、ディン、アミール、アルパンは連れて行くことにした。作業員達の給料の支払いは、最初タモリを通して払っていたが、タモリがいつも何割かをピンハネするので、最後は一人一人呼んで、我々から支払ってやると、大いに感謝された。

我々がここから向かったのは、さらに奥地のムラワクラムというカンポン(集落)である。ムワラルピットという町までジープで行き、それから先は道がないのでボートで川を遡るのである。ムワラルピットは、ルブクリンガウより少し小さな町だ。

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ムワラルピットへ向かう

 

つづく

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