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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.7

森林紀行

クーデター未遂事件の後

若い兵士にからまれたフランス人

全部が全部そうではないだろうが、一部の若い兵士は狂気の沙汰であることは間違いない。

次の出張時のことであるが、ワガドゥグでいつも行くホテルに近い食堂で、一人で食べていると、斜め向かいのテーブルに私と同年代くらいのフランス人らしき二人が食事をしていた。そこへたくましい体つきの若い兵士が一人入って来た。この辺の若者は何もしなくとも皆たくましいと言っても良いくらいではあるが。

そのフランス人が兵士と話だし、笑いながら時々からかっているようだった。軍隊での敬礼はどうやるのか行進はどうやるのかなどと言っているようだった。若い兵士は身ぶり手ぶりでそれらを行って答えていたが、その場から離れなくなった。うっとうしくなったフランス人は、もういいから向こうに行ってくれと言っても兵士はその場から去らない。そして兵士の方から何だかんだ言って、まるでフランス人にからんでいるようである。フランス人も真面目な顔つきに変わってきた。

兵士の目には狂気の影が見える。フランス人はだんだんと怯えたような顔になってきた。結局店の主人を呼んで、何がしかの取引で若い兵士は去って行った。

[反省]アルジェリア事件を見ると

2013年1月にアルジェリアで、日揮の石油施設が襲われて、日本人10人を含む39人がイスラム系武装集団に襲われて殺されたが、その時に助かった人の話ではやはり上手に隠れていたということである。私はワガドゥグのホテルの部屋の中で隠れる場所を捜したがなかった。天井裏そのものがなかったのである。ベッドと床の間は10cmくらいの高さしかなく、その間にも入れない。トイレに入っていてもだめだっただろう。このホテルは旧式で、廊下の隅に掃除道具が置いてある場所などに隠れられそうな場所があったので、事前にそのような場所を捜しておくべきだったが、そこでもきちんと隠れられるわけではないのでだめだったろう。しかし、近代的なきちんとしたホテルでは、そういう場所もないであろうし、万一踏み込まれたら無抵抗で金品を渡すしかないのであろう。命あっての物種である。

その後のブルキナでの軍の動き

その後、JICAの安全の手引きに記載された「軍等による騒乱リスク」からこの時の動きを抜粋すると次のようであった。そしてこの動きが収まらず、大使館からの命令により、我々は2011年4月29日に緊急避難帰国となるのであった。

【JICAの安全の手引き、軍等による騒乱リスクから抜粋】

1.2011年3月22日、軍兵士による騒乱が発生。軍兵士は給与増額・待遇改善を求め武器を持ち街中で発砲を繰り返し、商店などを襲った。軍人の狼藉に対して、市民が反発し与党本部・主要閣僚の自宅などを焼き打ちにかけるなどの社会混乱に発展。首都ワガドゥグから地方までこの動きは拡大していった。(我々が巻き込まれた事件)

2.同年4月14日、コンパオレ大統領公邸周辺より大統領護衛隊が大統領官邸に向けて威嚇発砲を開始。大統領は一時地方都市ジニャレへ退避した。同日夜から朝にかけ、ワガドゥグ市内各地では銃声が鳴り響き、また多くの商店・ガソリンスタンドなどが略奪の被害にあった。

3.同年4月15日、コンパオレ大統領は首相以下、全閣僚を解任。さらに軍参謀長、大統領警護連帯隊長も罷免するなど、事態の収拾を図った。しかし同日夜、前夜同様に軍兵士は武器を持って抗議活動を展開。更に軍兵士達は市内の主要ホテルの客室を遅い略奪・強姦、商店での略奪、自動車の盗難などを行った。また、同動きは地方都市へも広がり、ポー、テンコドゴ、ファダングルマなど、軍キャンプのある都市で威嚇発砲と略奪行為が行われた。軍兵士の威嚇発砲の流れ玉を被弾し、命を落とす事例も数件発生した。

4.また2011年6月初旬にはブルキナ・ファソ第2の都市ボボジュラッソにおいても軍兵士が3日連続に渡って略奪行為を行った。これに対し、政府は首都ワガドゥグより大統領警護隊を急派し、武力による事態鎮圧化を図った。公式発表ではデモ部隊6名、市民1名を含む7名の死者が発生した。

5.2011年6月初旬の政府による武力制圧以降、軍による騒乱は発生していない。

関係機関への訪問

4月14、15日の騒乱の時には、私は現地バンフォラにいたため、この被害は受けなかったが、ワガドゥグの主要ホテルは襲われた。この日は、我々が常宿としているホテルは襲われず、幸いにも宿泊していた女性メンバーは全く被害に遭わずに済んだ。全く不幸中の幸いであった。

さて、遭遇した兵士の反乱事件は3月22日(火)の夜中11時くらいから翌日3月23日(水)の朝6時くらいまでの7時間だった。3月23日(水)の仕事は中止となったので、翌日の3月24日にJICA、ブルキナ環境省、日本大使館へ団長の到着挨拶と現状の報告に行った。

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若い兵士が狼藉を働いたワガドゥグの市内

JICA

まずは昨日(3月23日)の事件の話である。昨日の事件の最初は、JICA事務所がある地域のグンゲンという軍隊のキャンプから発砲があり、ここから兵士が街の中央に向かい銃を打ちながら行進してきたとのことだ。これは、軍人による女性への暴力事件に対する判決に対し、その軍人が有罪になったことから、その判決に納得できなかった軍人たちの抗議行動とのことだった。

それにPKO派遣によるその貢献金が軍の上層部のみに配分され、末端の軍人にまで回らなかったことに対する政府への不満である。

そして流れ玉で中学生くらいの若い女性が死んだとのことである。

また、商人達が軍隊に反発し、デモを行ったり、与党本部や主要閣僚の自宅などを焼き打ちしているとのことだった。

治安状況については、安全の手引きなどをもらうが、今後、軍のキャンプがある地域では同じことが起こる可能性があり、バンフォラには軍のキャンプがあることから注意するようにとのことであった。しかし、この種の事件はいくら注意しても注意しきれないこともあり、我々は非常に危機感を持った。明日バンフォラに向かうが、何かあれば協力隊とも連携してすぐにワガドゥグに引き返す体制でバンフォラに向かうことにした。

環境省

次に環境省に向かったが、一昨日の事件では環境省は何ら被害を受けなかったとのことで、ひとまずほっとした。しかし、与党本部や主要閣僚の自宅が焼き打ちにあっているのに何でこんなにのんびりしていて危機感がないのだろうかと不思議な感じがした。会ったのは、前々からこのプロジェクトで最も責任を持つ立場の女性の次官であった。大柄で大きな声ではっきりとしゃべる方であった。打合せの主要なテーマはいつプロジェクトの運営委員会を開くかということで、4月8日(金)にバンフォラで開くことで、調整することとなった。

大使館

次に大使館を訪問し、大使と参事官にお会いした。JICAでも聞いた話だが、一昨日の事件の続きで、商人達がデモを行ったり、主要閣僚の自宅などを焼き打ちしているとのことだった。商人達にそんな力があるのだろうか?そういうエネルギーがあるのは素晴らしいとは思ったが、それだけ弾圧されているということだろう。江戸時代の百姓一揆のようなものだろうか?

大使は民間の商社出身の方で、私の高校の同級生が同じ商社に勤めていて、その友人もその後同じ様に民間出身で北京日本文化センターの所長になっていた。その友人とは、メールでやり取りをしていたので、そのことを大使に話すと、大使はその友人と一緒に働いたこともあり、既にその友人からメールを受け取って、連絡を受けているとのことだった。何かと世間は狭いものと思ったものである。

再びバンフォラへ

3月25日(金)再びバンフォラに団長と共に向かった。ワガドゥグの町もまた平穏を取り戻し、マリーナマーケットで肉などを買い込み、クラーボックスに入れてバンフォラに向かった。

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再びワガドゥグからバンフォラへ

午前10時過ぎに出発し、バンフォラに着いたのは午後6時前だったので、まずプロジェクト事務所に行った。ブルキナ側のプロジェクトの責任者である森林局のキニーに挨拶をした。私もまだキニーには挨拶をしていなかったので、ブルキナでは今回初めて彼に挨拶をする。しかし、彼が日本に研修に来ていたので面識があることは既に述べた。キニーは私を大歓迎してくれた。

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バンフォラの事務所にて。秘書のマリーと

事務所の同じ部屋では、協力隊の女性隊員のIさんがまだ働いていたので、一緒にホテルのレストランで食事をすることにした。

食事後、Iさんは借家の我が家でしばらく歓談していった。我が家は、協力隊の溜まり場ともなっているのだ。真っ暗の道の中、自転車で帰って行ったが、私には、若い女性が慣れているとはいえ、このような暗闇の中を1人で帰っていくのが心配であった。広い国道沿いに行くのと慣れていて安全と分かっているので大丈夫とのことだった。

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我が家の台所。ガスもある

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我が家の台所。冷蔵庫もある

協力隊員達

3月27日の日曜日の午後には協力隊員達が我が家に集まってきて、一緒に食事をした。男性隊員は1人で、女性隊員が4人である。女性隊員はバンフォラにはもう少しいるそうである。ブルキナ全体でも女性隊員の方が多いとのことであり、女性の方が勢いがある。男性隊員は病院でコンピュータや機械のメインテナンスをしていると言っていたが、自分で作ったステレオを持ってきて、良い音がでて器用なものだと思った。

モロッコへの任国外旅行から帰ってきたばかりの女性も来て、大胆で優秀そうだった。皆と打ち解けて、大変にショッキングな事件を経験した後だっただけに、とてもリラックスしてなかなか楽しい晩であった。

つづく

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