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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.18

森林紀行

パラグアイ北東部の調査のまとめ

超大規模森林破壊

 パラグアイ北東部で起こった、この信じられないくらい大規模な森林破壊は何だったのだろうか?ブラジルではもっと巨大な面積の森林破壊が起こり、それがパラグアイに波及し、パラグアイの森林も破壊されてしまったのだが、これを現実のものとして信じられる人がどれほどいるだろうか?この森林破壊面積はブラジルでは日本の国土面積の何倍もあり、パラグアイでも北海道や九州に匹敵するくらいの面積があった。この影響が化石燃料の使用とともに地球温暖化に影響を与えていることは間違いないと考えるのが普通の考えであろう。

 例えば、日本で生態系を区切って考えてみると小規模なものでは、家の近くの池の周り、あるいは神社など、もう少し大きくなると森林に囲まれた公園、近くの山林、さらに大きくなって国定公園や国立公園規模の様々な生態系が考えられる。せいぜい1ha程度のものから数万ha程度のものではあるが、たとえ小規模なものでも破壊されれば日本では大問題となるが、パラグアイではこれらとは比較にならないほど大規模な面積を持ち、そしてその連続性からみて一つの生態系と考えてもよいような森林が、さほど大きな問題ともならずに、破壊されてしまったのである。

  ここに住んでいたありとあらゆる生き物が絶滅させられるという方向で影響を受けただろう。もちろんここに住んでいた先住民も影響を受けた。

 

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元々の森林(再掲)

 

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有用樹が伐採された後、牧場や農地に転換するため焼かれた森林(再掲)

 

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森林から牧場に転換された土地

 

 それが地球温暖化、それによる台風の大型化増加、竜巻の増加、局地的豪雨という形で、全人類へしっぺ返しが起きているのだろうと推測されるが、もっと恐ろしいしっぺ返しが起きるのではないだろうか。経済至上主義がある限り、自然を守るのは難しいのだろうか。

  あるいは近く発効されるパリ協定(2016.11)などが効力を発揮して温暖化防止を良い方向へ戻せるのか。日本では、1997年に京都議定書が採択され、日本は第一約束期間の2008年から2012年に1990年比6%削減を実現させたと言われているのに、第2約束期間の2013年?2020年には京都議定書に参加せず、パリ協定も日本は、未だに(2016.10時点)未締結のまま発効される状態にある。日本は何をしているのだろうとビックリするくらい二酸化炭素排出問題からは後退している。

 さて、我々が最終的に作成した森林管理のガイドラインには、土地利用区分、森林施業区分、適正な伐採量、植林方法など多様で非常に基本的な森林管理方法を具体的に示したが、残念ながら、それが水の泡に帰してしまったとも言える。しかし、考え方はパラグアイ政府側には残ったわけだから、今でもこの考え方は十分に通じると思うので、どこかで応用してもらえないかと思うのが、まだ私が持っているかすかな望みである。

 

森林破壊の原因を考える

 このような森林破壊が起こった原因としては次のようなことが考えられる。

1.ブラジル側で木材需要が高まった

2.森林の所有が私有であった

3.ブラジルの製材業者などが木材を求めてパラグアイの森林を購入していた

4.ブラジル系の資本を持つ者が、土地所有、牧場経営を目的としてパラグアイの土地を購入していた

5.パラグアイでは外国人の土地売買も自由であった

6.パラグアイ政府として森林を保全するという意識が低く、対策を取るのが遅すぎた

7.政治体制も独裁で、軍や役所の力が強く、腐敗も激しかった

8.土地が平らなため伐採搬出が容易だった

 

 つまりは、経済的な利益追求の前には自然資源は犠牲になるということである。木材需要が高まるまでは、森林にはアクセスが不可能で、関心がなかったのであろう。それが徐々に材質の良い樹木ならば高価に販売できることがわかり、アクセス道路を作り、木材伐採・搬出が盛んになったのである。土地も平坦であるので、きちんとした道路を造らなくとも伐採しながらトラックで森林に入り込むことが可能であった。そして有用樹を伐った後は、森林としてそのまま置いて置くよりは、牧場として食肉を生産した方が儲かるとわかったので、次はかなりの有用樹が残っていても燃やして牧場へ転換していったのである。

 

このような大木を.jpgこのような大木を積んだトラックが引っ切り無しに国道を走っていた。

 

土調査所有の歴史

 パラグアイの土地所有の歴史をみると、スペインの植民地時代には中小農牧所有者層が多く、大土地所有制は未発達だったので、未開の森林は国有だった。その後1870年にパラグアイが三国(ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの同盟軍)戦争に敗れると、戦争賠償金が要求され、それを工面するため国有林や国有地がブラジル、アルゼンチン、イギリス等の企業に売却された。この時点まではパラグアイの土地は、98%が国有だったとのことである。

  その後1950年代以降、地域の安全保障の観点からパラグアイへのブラジル人の入植が促進され、1970年代の後半にピークに達したとのことである。我々が調査を開始したころは多くのブラジルの企業が森林を購入しており、多数の零細農民が入植していた時期である。この当時パラグアイのIBR(土地改革院)はパラグアイ人のみでなく、ブラジル人にも公用地を農地として分譲していたのである。

 

調査地域の土地所有

 調査地域の当時の国有林は、自然保護区に設定されていたセロコラ国立公園の5,300haのみであった。また、先住民インディオの保護地区が、アマンバイ県に26カ所32,000haあった。その他の土地は全て私有地であった。

  元々この地域の広大な森林の所有者は二人しかいないと言われていたので、三国戦争後、国有地を購入したのがその二人だったのであろう。その後分割が進み多くの所有者に販売されたのである。しかし、その記録は2004年まで公表されなかったとのことである。それはストロエスネル大統領だったときの独裁体制の影響からである。その後IBRは、2003年にINDERT(農村土地開発院)に変更され民主化された。それにより1950年以降の土地売買の履歴の情報は公開されたとのことから、これらは今後解明されると思われる。

 

影響

 もちろん貴重な森林が消失し、学術的価値も高かったペローバの純林も失われたということは大きな損失である。牧場で裸地となった土地の疲弊も大きかったし、そこに住む住民も大きな被害を蒙った。

 

零細農民の哀れ

 前に書いたが零細農民は富裕層が所有している森林に、所有者がいないとのうわさが流れると我先に入植するのである。そして彼らが森林に火をつけ焼き、また焼いた木を切り倒し、農業ができる耕地に転換する。そして一時期を過ぎると地主が現れ、貧しい農民は脅かされ、追い出されるのであう。そして富裕者はただで森林から耕地に転換でき、貧しい人達はいつまでも貧しいのである。

 

保護地に追い込まれる先住民

 パラグアイには先住民のグァラニー族が多い。最近のDNA鑑定によれば、遺伝的には日本人には中国人や韓国人よりも近いとのことだ。そうした意味で私はグララニー族に親しみを持つが、彼らも森林内に自由に住めず、保護地にしか住めなくなっていった。

 

森に住んでいた先住民(再掲).jpg

森に住んでいた先住民(再掲)

 

 

当時書いた危機的な状況

 1980年代初頭、調査中に書いていた文書により、その危機的状況が良く分かるのでここに載せる。

 「パラグアイ国のアマンバイ県を中心とする北東部の森林資源は計量的に把握されておらず、確たる方針のないまま伐採が行われている。かつて、森林は、木材利用のための道路がなく開発がなされず、むしろ農耕地開発の障害とみなされる場合が多かった。しかし、1970年代より近隣諸国の木材需要の高まりから急速に森林開発が進み、森林に関する計画も確立されないまま乱伐や農牧地への転用が激しく行われだした。資源実態が不明のまま無計画な森林の伐採や農耕地開発が行われるならば、国の長期展望における森林資源維持の危機を招くのみならず、土壌保全及び地域の自然環境保全等にも悪影響を及ぼすことは必至である。

 さて、この北東部の森林資源の特徴はペローバの蓄積がすぐれて高いことである。森林の伐採はこのペローバを主体として行われており、それは、きわめて急速かつ広範な地域にわたっている。これは、特にブラジルにおいてペローバが市場価値を確立し、需要が急速に高まったためである。伐採のテンポについて、パラグアイ林野庁は、1980年代になってからの伐採は、鈍ってきており、1970年代のような急激な伐採は緩和していると見ている。

 しかし、北東部に限っていえば、伐採のテンポが緩和したというより、むしろ伐採現場がより広範化し、より奥地へ進展していると見るべきであろう。それはブラジル側に通じる最大の流通基地であるペドロ・ファン・カバジェーロ市へ通じる国道5号線における木材搬出トラックの通行量の減少に基づいているようであるが、ペドロ・ファン・カバジェーロ市の製材工場群も、周辺森林の伐採が進んだため約70km南部の町カピタン・バードへ移りつつあり、製材所所有者でもペドロ・ファン・カバジェーロ市の周辺ではもう数年で利用木が、枯渇すると見ているものが多い。いずれにせよ、このままでは、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進む危険がある。

  また、こうした急速な伐採をもたらした理由のひとつに、セロ・コラ国立自然公園を除いて、すべてが私有地であることがあげられる。パラグアイ国ではブラジル国に比べて地価が低く、また外国人による土地所有売買等が自由であり、更に、この地域はブラジルと国境を接していることもあって、ブラジル国籍を有する者のほか、ブラジル系の資本を背景とする者が、土地所有、牧場経営を目的として激しく侵入している。それらの当面の意向は、伐採による収益と、牧場への土地利用の変換であって、森林の経営、木材の持続的生産には、まったく意を払っていないのが実情である。」

  ここで書いたように、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進んでしまったのである。

 

 

終わりに

 30数年も経ち、なぜパラグアイの森林破壊について書いたかと言うと、この森林破壊があまりにも理不尽で、この経験を思うと今になっても怒りがこみ上げてきて、伐採されたペローバの痛みを感じるからである。この地域は亜熱帯地域であるが、冬の気温はマイナスになることもあり、ペローバには年輪があり、それより成長量調査も行った。それによると胸高直径1mに達するには254年かかり、2mにも達する巨大木もあったので、スペイン人が南米に来る前から存在したペローバも多々あったと思われる。それがチェーンソーによりたかだか数時間で伐採されていたのである。

 この森林を守るにはパラグアイ政府が、たとえ私有林であっても保安林として伐採規制をかけなければならなかったのだろう。しかし、当時は、森林を守るよりも伐採させて伐採税を取り立てる方向にあったのだ。

 今では、森林を伐採する場合にはその一部を保全しなければならないと森林法では規定しているとのことだが、もう森林はほとんどないのだから、この条項が役立つことは少ないだろう。だからこれを逆にし、牧場へ転換してしまった土地の一部は造林し森林に復元しなければならないといった条項を加えるべきと思う。

 感情的ではあるが、パラグアイのペローバにも魂が宿っていたのではないかと思う。巨木を見ると感動の思いを禁ずることができない。伐採された時の痛みはどれほどのものだっただろう。「草木国土悉皆成仏」といった自然崇拝の思想が人類を救うと哲学者の梅原猛氏も書かれている。

 自然を敬う気持ちだけで森林破壊が阻止できるとは思わないが、少なくともそのような心がなければ森林は守れないだろうし、ひいては人類を救うことができないだろう。少しでも森林に戻す働きかけをし、自然を敬う心を育むことが必要である。

 

  パラグアイの森林調査時の紀行文はこれで終わりとし、次は、同じパラグアイで行った造林計画作成のための調査について書きたい。

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