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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.4

森林紀行

アスンシオンの印象(1)

こじんまりした町

1980年当時のアスンシオンはかなり小さな町だった。町自体はかなりの広がりがあるのだが、中心街は1km四方程度にかたまっていた。しかし、市内には路面電車も走っており、郊外には蒸気機関車も走っていた。燃料は木炭だった。ホテルでもっとも有名だったのは、グアラニーホテルで当時三角柱形のものが建っていた。

 

1980年当時のアスンシオン中心街。.jpg

1980年当時のアスンシオン中心街。

 

アスンシオンの郊外を走る蒸気機関車.jpg

アスンシオンの郊外を走る蒸気機関車

 

蒸気機関車.jpg

蒸気機関車

 

JICA事務所

到着して最初の仕事はいつもJICA事務所への挨拶と打合せである。当時のJICA事務所の職員の方は、一緒に仕事をしていこうという姿勢で、ひと安心だった。我々の仕事を担当してくれた方は、アスンシオンで育った現地採用の方だったが、とても良く面倒を見て下さった。その上司で課長は、東京から派遣されていた方で、また、とても親切だった。担当の方は、パラグアイ側との会議や打ち合わせなどにも参加し、通訳がいないときは通訳もしてくれた。また、我々がパラグアイにいない時には、パラグアイ森林局とコンタクトを取り、連絡をくれ、我々の仕事を様々にバックアップしてくれた。

 

大使館

JICA事務所の挨拶のあとは、大使館への表敬訪問である。大使と担当の書記官が対応してくれる。その後、調査の度に大使館を訪れたが、大使が代わると大使館の雰囲気はかなり違うように感じた。

この時は、ロストバッゲージとなってしまい、私とHさんは背広がなく、私はネクタイをOさんから借りた。現地調査の合間には晩さん会などに招待してくれた。私は下っ端なので、やや緊張して大使のお話を聞き、あいづちをうちながら食事をして、話し相手はもっぱら団長であった。

 

パラグアイ森林局

当時パラグアイの森林局 (Servicio Forestal Nacional)は、農牧省(Ministerio de Agricultura y Ganadería)の外局であった。パラグアイ森林局の長官はカラブレッセ氏だった。日本の林野関系でパラグアイに関係していた方では、知らない方はいないほど有名だった。

というのは当時我々の調査が始まった時には、JICAは林業関係では南米で初めての技術協力プロジェクトを前年の1979年から開始し、日本から林野庁の職員の方を中心に何人かの専門家の方が長期に渡って(2年?4年くらい)派遣されていたからである。この技術協力プロジェクトはCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal : 林業開発センター)と呼ばれるセンターを作り、センターで苗木生産や植林、伐採、製材など林業全般に渡り技術移転などの協力をし始めたところだった。それで日本の林野庁もこのプロジェクトの成功を期待していたからであった。

そのセンターはパラグアイ南部のエンカルナシオンというやや大きな町に近い、ピラポという小さな町にあったのだが、アスンシオンの森林局にも事務室があり、その専門家の方達にも随分とお世話になった。

その中で、当時専門家でパラグアイに派遣されていたTさんには特にお世話になった。Tさんは豪快な方で、家族はアスンシオンに住んでいて、本人はほとんどピラポで仕事をしており、たまにアスンシオンに帰って来た。その時に、家でごちそうになったり、日系人がホテルとレストランを経営していた内山田という店でスキヤキなどを一緒に食べたりした。

 

カウンターパート

我々の技術移転の対象で、パラグアイの森林局の共同作業を行う技術者は、カウンターパートと呼ばれる。そのトップがカラブレッセ長官で、実質のチーフはウエスペという若い技術者であった。専任で参加したのは、ウエスペ、カブラル、エンシーソー、オルテガの4人であった。その他何人もの技術者が一時的に参加した。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーの3人がIngeniero(インヘニエーロ:技術者という意味であるが、大卒技術者への敬称)であり、オルテガが林業専門学校卒でTécnico(技術者という意味であるが、専門学校卒者への敬称)であった。4人ともまだ独身であった。

ところで、インヘニエーロは一目おかれる存在であった。学歴差別というのか、実力よりも学歴が日本以上に重んじられていると強く感じた。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーは当時26?27才くらいで私より少し若かったが、オルテガは私と同じくらいの年であった。オルテガは仕事もでき、人間も良くできていたように感じた。しかし、彼はインヘニエーロの3人の言うことを素直に聞き、自分の意見は前面に出さないように努力しているのが常々見えた。オルテガは、3回目の調査の後、スイスの女性と結婚し、ヨーロッパに行ってしまった。

彼らとはほぼ同年代だったので、すぐに打ち解けアミーゴとなった。しかし、ウエスペは少し気取っていて、彼らの中でも常に自分が一番上位であるかのようにふるまった。カブラルは一見、真面目に見え、実際真面目だったのであるが、年よりも落ち着いて見えた。エンシーソーはその逆で、陽気なやんちゃ坊主であった。カラブレッセ長官にも、もっとおとなっぽい態度で臨むようにと怒られたり、ウエスペやカブラルにも頼るような感じがあった。疲れてきたりすると、私にも良く弱音を吐いたが、人懐っこく正直でとても好感が持てた。

彼らと一緒に仕事をする中で、彼らがメモを取らないので、私はいつも彼らにメモを取るように口を酸っぱくして言っていたが、メモをとらないからだろうか、非常に記憶力が良いのに驚いた。皆、頭の中に入れてしまうのだろう。

ウエスペは調査終了後すぐに大学教授へと転身した。1987年にパラグアイに行った時は、皆、既に結婚していて、ウエスペ、カブラルが奥さん同伴で歓待してくれた。彼らは研修で日本にも来た。特にエンシーソーはその後、何回か日本にきて、最後にあったのは15年くらい前(2000年くらい)だった。その後、彼は森林局の長官になった。

 

 

 

 

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