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森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.5

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アスンシオンの印象(2)

東京との連絡

 最初にパラグアイに行ったころは、東京の事務所との連絡方法は電話かテレックスであった。当時の国際電話はべらぼうに高く、要件を整理し、手短に必要事項だけを連絡した。

 確実性が必要なものは、テレックスで打ったが、テレックスはローマ字で日本語を書かなければならず、非常に書きにくく、きちんと意味が分かるようにその書き方に気をつかった。

 そのうちにFAXなどができて、書いたものがそのまま通信できるようになり、非常に便利になったと思ったものである。

 

 プライベートでは、家にはJICAパラグアイ事務所の住所を書いた航空便の封筒を何通か置いておき、妻には時々手紙を書いてくれるように頼んだ。職場にも同じ様に住所を書いた航空便の封筒を渡し、職場の状況を知らせてくれるように頼んだ。家からの手紙では、まだ小さかった娘が便箋に鉛筆で落書きしたようなものを送ってくれた。日本で投函したものが届くには約2週間はかかったが、当時海外で受け取る手紙ほどうれしいものはないと思ったものである。

 今は、メール全盛になり、インターネット電話を使えば、無料のものもあり、通信は日本国内にいるのと何ら変わりなく、隔世の感がある。

 

ホテル

 我々の泊まっていったホテルは、最初はプラサホテルといい、パラグアイでは2流のホテルであった。とはいえ、清潔で、ホテルの前を通る車の騒音が時々気になる程度で居心地は良かった。プラサというのは広場という意味で、確かにホテルの前には結構大きなプラサ・カバジェーロ(紳士の広場)があった。

 

  というのも最初のころの出張旅費は、余裕がなく、結構きつかったのである。当時は円が1ドル250円くらいで、グアラニー(パラグアイの通貨)が1ドル126グアラニーであったから、ちょうど1円が0.5グアラニーだった。それが、段々と円が強くなり1984年くらいには、1ドルが200円くらいになり、1グアラニーが400グアラニーくらいになったので、円とグアラニーの価値が逆転し、円の価値は4倍である。1円が2グアラニーにもなってしまった。パラグアイのインフレも相当に激しかったが、行くたびに多少の余裕もでき、泊まるホテルも少し高級なパラナホテルとかグランチャコというホテルに、泊まれるようになった。

 

時差

 パラグアイと日本との時差は11月から2月までは13時間あり、夏時間の3月?10月は12時間である。最初に到着した時の午後2時は日本では午前1時である。だから、到着後数日間は午後になると眠くてしかたがない。

  たまたま午後に仕事がなかったとして、休めたとしても眠ってはいけない。でないとなかなか時差がとれないのだ。眠いのを我慢して起きていることが早く時差を解消する。時差ぼけの時の夜は本当に気持ち良く、ぐっすりと良く眠れる。時々知らないまま寝巻にも着変えないで、そのまま眠ってしまったこともあった。

  少なくとも1週間は時差が取れない。機内で寝ないで行ったり、寝て行ったり、時差が早く取れる方法をいろいろ試したが、私は機内でできるだけ寝ていくのが時差を早く解消する最も良い方法であると思う。

 

朝のジョッグ

 到着後すぐの頃は、時差で夜中に目が覚めてしまうから、明るくなるとすぐにカバジェ?ロ公園へジョッグをしに行った。ここで、草を観察したが、南半球ではあるが、日本にある草と似たものもあり、牧野の植物図鑑がロストバゲッジで失われたのは、返す返すも残念だった。

 

店屋

 日本だと土日はかせぎどきで、ほとんどの店屋が開いているが、アスンシオンでは土曜日は半分くらいの店しか開いていなかった。それもほとんどが午前中だけで、日曜日となると全てといっていいくらい店は閉まってしまう。土日は働かず休むのである。日本みたいにガツガツ働かない。

  人生に対する考え方が違うのだろう。おいしいものを食べ、ワインを飲み、ダンスをし、恋愛を楽しむのがパラグアイスタイルであろう。

 

パラグアイ川は巨大な川

 アルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオを河口とする大河ラプラタ川の上流がパラグアイ川であり、アスンシオンはパラグアイ川の中流域にある。アスンシオンの対岸はアルゼンチンである。ここの川幅は1km くらいである。この上流が調査対象地域である。

 

パラグアイ川。.jpg

パラグアイ川。アスンシオン側から対岸のアルゼンチン方面を望む。

 

 アスンシオンの郊外で、パラグアイ川のほとりに多くの貧しい人達が住んでいた。そのあたりを見ていると、雨期になるとアスンシオンは晴れて良い天気なのであるが、徐々に川の水位が上がってくる。1日に10cm?20cmくらい上がる。1週間もする1m も水位が上がるので、家を川岸から高台に上げて避難している人達をよく見た。もっとも物も持っていないし家も掘立小屋なので、移動は簡単なのであった。彼らはこうして毎年雨期と乾期で家を移動させているのであろう。大河の水位の上がり方は非常にゆっくりとだが、確実に上がって来て、日本の川とは随分違うものだと驚いた。

 

ソモサ事件

 アスンシオンに到着する少し前の1980年9月17日にニカラグアのかつての独裁者、アナスタシオ・ソモサがアスンシオンの路上を車で走行中に、アルゼンチンのゲリラ組織、人民革命軍(ERP)にバズーカ砲で暗殺されるという事件が起こった。ソモサは暗殺を恐れて身辺を警戒し、防弾車に乗っていたということであるが、爆殺された。

 

 当時パラグアイの大統領は、ストロエスネルと言ってやはり独裁者であった。独裁者が独裁者を庇護していたのであるが、防護できなかった。

 聞くところによれば市内には見張りが沢山おり、それらは町の物売りや一般市民に混じった私服だとのことであった。そんなに見張りがいても街中で暗 殺されてしまったのだ。その通りを走っている時に、ここで殺されたのだと教えられたが、市内は平穏に見え、そのような恐ろしい事件が起きたことが遠いところの出来事のように感じた。

  いろいろ聞いているとパラグアイの治安も決して良いわけではなく、殺人事件は日常茶飯事のようであったし、日系人も様々な被害に会っていた。

 

スペイン語

 習ったスペイン語では「おはようございます」は、「ブエノス・ディアス」なのにアスンシオンでは「ブエン・ディア」と言っているようだ。自分の耳が悪いのかと思ったが、そんなことがないだろうと、聞けば、パラグアイでは複数形で言わず、単数形で言っているのだ。

 「ありがとう」の「グラシアス」も「グラシア」としか聞こえず、変だなと思った。店で買い物をした時も、200グアラニーが習った通りなら「ドス・シエントス」なのに「ドス・シエント」としか聞こえない。まだスペイン語が全くわからなかったので、方言のように地域によりなまりがあることもさっぱりわからなかったのだ。あまり「S」を発音しないのだと後になってわかった。

 

 最初に銀行に換金に行った時に、スペイン語はまだほとんど聞き取れなかったが、「エストイ・エノハード」といって、行員にいかにも怒ったようにまくし立てていたおばさんがいた。いつも辞書を持っていたので、その時エノハードを引くとエノハールというのが動詞の原形で、「怒る」と言う意味で、状況のとおり「私は怒っている」ということがわかってうれしかった。

 ただし、これを見ていて、パラグアイ人の方が日本人より大分気性が荒いのではないかと思った。

 

  最初はチンプンカンプンのスペイン語であったが、2ヵ月間パラグアイの森林局の技術者と共同作業をする中で、森林調査の時に彼らの言う言葉を書きとめ、簡単な森林調査用語集を作った。これを次の本格調査の時のメンバーに渡したら大いに役立ったと言ってくれた。ただこれにはかなりのグアラニー語も混ざっていた。

 

調査用の資機材

 調査用の資機材ではアスンシオンに到着した時には、既にランドローバー2台と、トヨタのハイエース1台、それにキャンピングカーを1台用意してくれていた。予備のタイヤや車がぬかるみにはまってしまった時の脱出用にウインチも用意してくれていた。

 ウインチを使うなどとはあまりうれしくないことだが、現場あるいは現場までの道路がぬかるむことが多く、ウインチをそれほどまでに使うとは思っていなかった。しかし、ぬかるみにはまってしまうことが多く、はまった車を引き揚げるのにウインチは大いに役立った。

 

 キャンピングカーには冷蔵庫やガスボンベなども付いていたが、冷蔵庫はすぐに故障してしまったし、大部隊での食糧保存用には小さすぎ、あまり役にはたたなかった。ガスも野外の料理では薪利用の方が圧倒的に便利であり、ほとんど必要はなかった。

  キャンピングカー自体は、団長、副団長の寝床や航空写真や資料の保管場所となり大いに役立った。

 

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