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森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.6

森林紀行

アスンシオンからペドロ・フアン・カバジェーロへ

 アスンシオンとペドロ・フアン・カバジェーロ間は、直線距離で約400kmあり、陸路、車で行くと約600Kmは走らなければならなかった。

 航空機で行けば1時間ほどであった。ただし、この当時飛んでいた航空機はDC-3 で第2次大戦前から使われていたものであった。運営していたのはTAM(Transporte Aéreo Militar:軍航空輸送)で軍が経営していた。空路も時々利用したが、DC-3は席に座ると既に座席は20度くらいは傾いており、寄りかかるような感じで座った。座席のシートベルトのバックルが壊れていて、シートベルトを手で結ばされたこともあった。

 

陸路ペドロ・フアン・カバジェーロへ

 1980年 (昭和55年)11月29 日(土)の早朝アスンシオンを出発する。ハイエースにランドローバー1台である。もう1台のランドローバーはカウンターパートが後からキャンピングカーを引っ張って来るのに使った。

 

コロネル・オビエド

 私はハイエースに乗り、アスンシオンから西に約150km離れたコロネル・オビエド(Coronel viedo:オビエド大佐)という町に向かい、ここでまず昼食を取った。ここにはルエダ(車輪という意味;ここで方向を変えるのでルエダと言うが付いたと思われる)という大きなレストランがあり、多少とも余裕のある人々はこのレストランで食事をするのが常であった。パラグアイは肉料理が中心であるが、ここのレストランの肉料理はおいしかった。

 

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう.jpg

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう

 

 因みに、コロネル・オビエドの名前は、1870 年三国戦争(対ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3 国)でパラグアイは敗れたものの、コロネル大佐の勇猛な活躍は後世にその名をとどめ、市の名前となったものである。スペイン人の侵略者の中にもオビエドと言う名もあり、南米各地にオビエドという地名は多い。

 

ぬかるんだ道路

 コロネル・オビエドから北上していくのだが、舗装をしてあったのは、ここから約50km北のMbutuy(ブトゥ)くらいまでであった。

 ブトゥはこの北東部の調査の後、ブトゥの奥のカピバリという地域で造林計画を作成するのであるが、その時に基地とした町である。ここから先は、未舗装となるのであった。

 この辺りの道は、平らであるということと砂利がなく、粘土か砂をベースとする赤土であったので、雨が降らなければ、走りやすかったが、埃はひどかった。しかし、一旦雨となるとぬかるみ、時にはそのぬかるみに車がはまり動けなくなり、それが邪魔になって後続車は、そこで待たなければならないのであった。

 その上、道路の所々に、運搬物の検査や道路保護のための検問所があり、雨が降るとそこで止められ、その先へ進めないのであった。

  その日も雨は降っていなかったが、ブトゥからちょっと先へ行ったところで、道がぬかるんでいて木材を積み過ぎ重すぎたトラックから木材が下ろされ、道路際に置かれていたところに、後から来たトラックがぬかるみにはまりこみなかなか抜け出せないでいた。

 

ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック.jpg

ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック

(道路際の丸太はペローバ。この木を目当てに無秩序な伐採が進んでいた)

 

 それが障害物となり、その後ろから来た我々の車もそこから前に進めなくなった。そこで2時間くらい待たされ、トラックがようやくぬかるみから抜け出たので、次のSan Estanislao (サン・エスタニスラオ)という町までたどり着くことができた。

 

 サン・エスタニスラオのことをパラグアイ人は、略してサンタニと呼んでいた。 

  しかし、そこにも検問所があり、通行を禁止していたため、先に進むことができず、サンタニの町で泊まることとした。いくつかホテルをあたり、ドイツ人が経営していて小じんまりしているが、清潔そうなホテルに泊まることにした。

 

道路がぬかるんで検問を通れず.jpg

道路がぬかるんで検問を通れず

 

 

通訳のH君とサンタニのホテルにて

 ホテルの名前はホテル・アレマンと言い、訳せばドイツホテルという意味でまさにドイツ人が経営しているからつけた名前である。

 小さなホテルで、急遽泊まったので、アスンシオンから雇用していた通訳のH君と相部屋となった。H君はペドロ・ファン・カバジェーロ近くで生まれた日系2世である。きちんとした日本語も話し、スペイン語とのバイリングアである。年は私よりも少し若く、20台後半であった。

 その後キャンプ生活もずっと共にし、長くつきあうのであったが、日本人の感覚ではなく、パラグアイ人の感覚で、こんなにも感覚が違うのかと驚かされた。

 

 何しろ私は日本人の中で育って来たから、他人に対する遠慮とか、上司の意見を尊重するとかといったものをおそらく無意識に身に付けていたのだろうが、H君にはそんなものはなかった。

 まったくフランクで誰でも対等な人間として付き合っているように思えた。自分のしたいと思うことをさっさとやるし、遠慮などはまったくなかった。それに馬力があり、顔が日本人なので、同じような感覚が持っているのかと思っていたが、全く違った。パラグアイ人がそうなのであろう。

 アメリカ人はフランクで上下関係はあまり意識しないようなことを学校の英語の授業で聞いていたが、そのような感じであった。人に気を使わなくて良いのはこちらも気楽であった。日本の社会や教育により、私は随分と枠にはめられ、不自由に育ったのではないかとも感じた。

 

  パラグアイでは学歴による上下関係は前に述べたように強かったが、社会全体では横の関係が強く、アミーゴの世界で動いているようであった。役所のような所では、大卒はエリートなので縦の関係が強かったのだろう。

 

サンタニからペドロ・ファン・カバジェーロへ

 翌日の1980年11月30日(日)にサンタニのホテルを朝7時に出発。この日はサンタニの検問所は開いていた。私はハイエースからランドローバに乗り換えてこちらで進む。

 

待ち時間を利用して森林を見る

 更に2時間くらい進んだところに、また検問所があり、そこで止められた。ここは晴天なのに、この先が雨でぬかるんでいるという。しばらくすれば開くという。そこで待ち時間を利用して森林を見に行くことにする。

 

くたびれもうけ

 道路際の牧場は、はるかかなたにまで続いているように見える。その向こうが森林だ。牧場の入り口に鍵が掛っており、車が入れない。国道沿いを歩いていた人に聞くと、その鍵の所から家まで約2Kmとのこと。家まで車が通れる道がついている。森林まではそれからまだ10kmくらいはありそうだ。

 とりあえず、その家まで鍵を借りに往復4Kmの道を歩くことにする。暑い。汗が噴き出て来るが、空気が乾燥しているのでベトつかないのが救いだ。30分ほど歩いて、その家に着く。

 

 「こんにちは。ご主人はいますか?」カウンターパート(共同作業技術者)のウエスペが尋ねる。

 「いませんよ。」

 「あなたは?」

 「私はここの使用人だ。」

 「そうですか。我々はパラグアイの森林局のものですが、奥の森林を見せてもらいたいと思い、牧場の入り口の鍵を借りにきたのです。」

 「そうか、それはおあいにく様でしたな。鍵は道路沿いの家にあるよ。主人はこの奥の家へ行っている。」

 「えッ。本当ですか。これはくたびれもうけだったなあ。」

  「まあ、あんた達、テレレでも飲んで行きなよ。」と、その人は我々にテレレを勧めた。テレレを飲みながらひとしきり談笑した後、また元の道を半時間ほど歩いて戻ったのであった。テレレはパラグアイ独特の飲み物である。

 

ピューマの頭蓋骨

 道路沿いの家なら最初に車で止まったところからすぐそばだった。その家にあった鍵を借り、牧場の入口の錠を開ける。今度は、奥までランドローバで進む。途中でさっき訪ねた家を通り過ぎ、10kmほど奥まで進む。そこに家があり、その先が森林だ。

 

 「こんにちは。ご主人ですか?」

 「そうだよ。名前はロペスという。」

 「我々は森林局のものですが、森林を調べており、この奥の森林を見せてもらいたいのですが。」

  「ああ、いいよ。でもこの辺りにはもう大きな木は無いよ。ブラジル人がみんな伐って持っていってしまったよ。」

 「そうですか。残念ですね。それでも森林を見せて下さい。ところで、そこの壁にかけてある頭蓋骨は何のものですか?」

 「ピューマだよ。私が撃ったものだ。今でも沢山いるよ。」

 「大したものですね。」

 

 ロペスさんは、子供3人と掘立小屋に住んでおり、この辺りに高木林はないと言う。ピューマの頭蓋骨が飾ってあり、それを銃で打った時の写真を見せてくれた。

 我々が森林を見ると確かに、伐採が入っていて、大きな木は皆伐られた跡で、がっかりした。

  道路へ戻ると午後1時過ぎで、通行止めが解除されている。それからペドロ・ファン・カバジェーロへ向かった。

 

 

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