森林紀行travel

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.6

森林紀行

製炭、製紙などの調査

製炭調査

 当時パラグアイではアセパル(Acepal)という会社が、1985年から年間約15万トンの製鉄を行う計画があり、その開業準備中であった。そのためにアセパルにも調査に行った。製鉄には炭を用い、その需要は年間約10万トンとのことだった。製炭するのには、直径5mのレンガ製の炭釜を400基作る計画であった。一釜で1回約6トンの炭ができ、製炭に8日?10日かかるということで、フル稼働すれば年間約10万トンの炭ができる計算であった。

  これは良い炭材の供給先ができたとカピバリからの供給を考えた。我々の計画は頓挫してしまったが、その後アセパルはどうなったのであろうか。

 

調査地内で住民が行っていた炭焼き、レンガで釜を作っている.jpg

調査地内で住民が行っていた炭焼き、レンガで釜を作っている

 

 

日本でも製炭釜の調査

 製炭も調査対象としたころからパラグアイへ出発前には当時の林業試験場に、炭研究の第一人者だった先生に製炭技術や移動式炭釜など教えを乞いに訪ねたものだった。

 

アルゼンチンでの調査

 1983年11月17日(木)から25日(金)まで1週間ほどパラグアイ南部のエンカルナシオン周辺及びアルゼンチンのミシオネス州に調査に行った。

  ミシオネス州は、パラグアイの南部と隣接しており、半島のようにブラジル内に突き入っている。ここにはパラナマツ(Araucaria南洋スギ)やエリオッティマツなどの人工林が多く、その材を用いた林産業関係の工場が多く、植林地、パルプ会社や製材工場などを調査したのである。

 

エンカルナシオン

 エンカルナシオンはパラグアイの南部イタプア県に位置し、アルゼンチンの北東部ミシオネス州と接している。当時エンカルナシオンはパラグアイでは首都のアスンシオン、東部のストロエスネル(ストロエスネルは当時の独裁大統領の名、彼が失脚した後、エステという都市名に変更された。)についで、3番目に大きな都市といわれていた。当時のエンカルナシオンは都市というよりも少し大きな田舎町といった感じで、石畳の町並みと平屋建ての家並みが、薄暗くあるいは薄汚い感じがしたが、落ち着いていた。

 

領事館

 ここに日本の領事館があり、領事へ挨拶へ行った。すると領事は機嫌が非常に悪い。何らかの行き違いがあり、我々の訪問は昨日と予定し、待っていたのだ。領事は我々が約束をすっぽかしたと思っていた。昨日17日(木)は我々はエンカルナシオンに着いた後、すぐに製材所などの聞き込み調査を行っていたのだった。我々は予定通りだったけれども、何がなんだかわからなっかた。しかし、我々が謝ることでひとまず領事の機嫌は治まった。

 

CEDEFOへ

 領事への挨拶の後、エンカルナシオンから車で北へ約1時間のピラポ(Pirapo)という町にあるCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal 林業開発センター)を訪ねた。ピラポは日本人移住地があり、町には日本語の看板もあちこちに立っていた。ここでは、CEDEFOの他にも農業関係でCRIA (地域農業研究センター)と CEMA (農業機械化センター)という施設があり、これは日本が技術協力を行っていたものだった。移住の関係もあり、パラグアイへの技術協力に力を入れ始め数年たったころだった。

 CEDEFOには建物を建て、林業関係の様々な資機材の供給を援助していた。苗木作りから植林、保育、伐採、製材まで様々な技術指導を行っていた。日本の技術者が常時数人、年単位でCEDEFOに派遣され、交代する形で専門家として長期派遣されていた。この時、当時の私の職場からも派遣されていた技術者もおり、いろいろ親切にセンター内を案内してくれた。パラグアイの森林局の共同作業者は多数働いていた。

  この日はエンカルナシオンで日本人が経営している小田旅館という名のホテルに泊まった。

 

ポサーダスの町

 アルゼンチンに行くにはエンカルナシオンからフェリーで対岸のポサーダスに渡るのであった。待ち時間に港で釣りをしたらナマズが釣れた。エサは道端で捜したミミズだった。

  ポサーダスの町はきれいに整っており、先進国の町並みようだった。先の北東部の調査紀行でも書いたが、パラグアイ北東部の町ペドロファンカバジェーロとブラジル側の町ポンタポラ側との差と同じ様な差を感じた。つまり、パラグアイ側のエンカルナシオン側は道路は石畳で落ち着いてはいるが、家並みも木造で薄汚れ見栄えがしないのに対し、アルゼンチン側のポサーダスは道路も舗装され、数階建てのビルも多く近代都市のように見えた。街並みもきれいで、ホテルも清潔で従業員もパラグアイよりずっと洗練されていると感じた。

 

アルゼンチンに移住した日本人

 ミシオネス州へ移住されて植林を行い森を育てている日系人の方も幾人か訪問した。尤も森を育てるといっても木材を販売する商売のためであったが。

 その中の一人広島県出身でKさんという方の話しは次のようだった。ミシオネスに移住して約25年とのことだったので、1950年台の後半に移住されたのであろう。Kさんは60才前後と見えたから30代半ばに移住されたのであろう。今(2012年)から見れば50年以上も前のことである。家は特に裕福でも貧しいとも見えなかったが、パラグアイの平均的な田舎への移住者に比較すれば、かなり余裕はありそうに思えた。

 1983年当時、植林木のパラナマツやエリオッティマツは約15年生であった。これくらいの年数でも日本の同年生のスギやマツより成長はかなり良く、植林木の胸高直径は約20cmになっており、伐採木のパルプ工場への売れ行きは非常に良いとのことだった。

 この植林をするにあたり、アルゼンチン政府から植林費用の融資を受け、その返済条件は利子4%、返済開始までには10年の猶予をみてくれたとのことだった。このころアルゼンチンは大インフレで、返すときにはほとんどただみたいなもので、非常に助かったとのことだった。その後アルゼンチンは更に超大インフレに陥るのであったが。

 キリは10年で約60cmになり、日本に輸出しているとのこと、日本のスギは成長が悪く、ミシオネスには適していないということだった。

  樹種としてはパラナマツの方がエリオッティマツや他のマツ類よりもずっと材質が良く、同じ量で値段は倍には売れるとのことであった。

 

パルプ会社

 Papel misioneroというパルプ会社に1983年11月24日に訪ねた。この時、訪問許可を取っていたが、工場内を見学させてもらうのにパスポートまで預けさせられた。このころは、今のようにテロが起きるということは少なく、会社管理も厳重なところは少なかったから、企業秘密を守るため厳重な警備をしていたのであろう。

 ここは従業員が500人もいるとのことで、かなり大きなパルプ工場であった。日本の商社を経由して日本の大きな製紙会社の技術援助を受けているとのことであった。クラフト紙(褐色の丈夫な紙でセメント袋や封筒などに用いる)の生産が1日110トンとのことで、パラグアイやボリビアにも輸出しているとのことだった。

  このパルプ工場を調査する前に、パラグアイの古紙再生工場なども調査したが、その旧式な機械や劣悪な労働環境に比べれば、機械類も巨大で近代的であるし、労働環境もかなり良く見えた。しかし、パルプ工場というのは激しい騒音と化学薬品の匂いで、勤めるのはとても大変であろうと思われた。

 

 

 

 

 

Page Top