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【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.9

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ガラガラ蛇など

ガラガラ蛇でのいたずら

 ある日、調査チームの全員は、セロ・ドス・デ・オロ(森林地域のほぼ中心にあった小さな山)の頂上から調査地域全体を見晴らすために、頂上に登った。登っていると早さが違うので3グループくらいに分かれてしまった。私はまだ30台前半で、疲れ知らずで、先頭グループにいた。団長は60代前半くらいで、皆のペースについてこれないので一番後ろのグループでゆっくりと登ってきた。

 先頭グループの我々はガラガラ蛇を見つけた。一緒に登っていたチームのSさんは、ヘビを捕まえたり、爬虫類などは大好きで、その時もガラガラヘビを捕まえ、頭を叩いて動けないようにした。そしてポリ袋に入れて頂上へ持って行った。そして頂上の少し下の山道の真ん中に、そのガラガラ蛇をとぐろを巻いた形で置いたのだった。

 すると後から登ってくるパラグアイの技術者達も、ここにはガラガラ蛇が沢山いるのを知っているものの、まじかでみると驚いてびっくりして肝を冷やすのであった。第2グループで登ってきた森林局の次長も飛びあがって驚いた。この方は、いつもアルコールに浸かっていて酔っぱらい気味だったかもしれない。中でも一番驚いたのは我が団長だった。本当に団長は森林局の次長よりも高く飛びあがって驚いた。腰でもぬかすのではないかとこちらが心配するほどだった。ちょっとやり過ぎたかなと後で反省した。

 

  そのガラガラ蛇をSさんは、ポリ袋に入れてペンションに持ち帰り、パラグアイ人のように尻尾のガラガラを切り、お守りとした。しかし、このガラガラ蛇は、血がかなりでていたので生臭くてまいった。

 

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた.jpg

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた

 

大使館にて

 この時の日本大使は、日本の調査団をより活動しやすくするためにバックアップしてくれるような活動的な大使だった。その時期にパラグアイに滞在していた調査団、プロジェクトチーム、専門家等を一堂に会して意見交換会を開催してくれたことがあった。

 その時、農業関係の調査をしていた調査団の中堅どころの技術者が、「林業など土地生産力の低い場所での計画作りの協力などしてもしょうがない。農業のように収入が上がるような土地を対象として、そこで土地生産力をもっと高めるような計画作りをする協力をもっと増やすべきだ。」との趣旨の発言をした。

 まさに林業協力分野の政府開援助、ODA資金を農業協力分野に分捕ってしまえという意図があり、かなり横柄な態度でもあった。

  そのような林業批判をするべき場所でもなく、場違いな発言で、皆を失笑させ、大使にもたしなめられ、会をしらけさせてしまった。しかし、この方は、当時飛ぶ鳥も落とすいきおいのあった会社の職員だったから、恥も感じず、厚顔にもそのような場違いな発言をしたのだろう。今思えば技術者も必要なのは正しい技術的認識とともに常識と謙虚さであろう。

 

 

アスンシオンの日系女性

 北東部の調査の時から日系人が経営していた内山田という旅館に部屋が空いていれば、泊まった。当時は3階建てだったと思うが、お金が溜まると1階ずつ継ぎ足して行くのであった。鉄筋コンクリート製ではあるが、まさにおかぐら作りである。地震がないから許されるのあろうが、鉄筋とはいえその建て方をみていると強度計算などカンで行っているのではないかと思わざるを得なかった。

 内山田は1階がレストランになっており、メインメニューはスキヤキだった。パラグアイの牛は日本の牛のように油が乗っているわけではないがスキヤキ用に薄く切ると程良い固さとなり、日本の柔らか過ぎる肉よりもむしろ食べ易いと思ったほどだった。

  この内山田でアルバイトをしていたパラグアイだけでなく日系の女性達とも親しくなり、休日にはイパカライ湖に遊びに行ったりした。

 

 

オリンピック

 1984年の夏はちょうどロスアンゼルスオリンピックが開催されていた。パラグアイではオリンピックなどに興味がある人は、当時いなかったようである。パラグアイのテレビも新聞もほとんど報道がなかった。私は、昔陸上部にいたこともあり、マラソンはどうなったかを知りたかった。そのため機材として持っていっていた短波の入る大きなラジオでラジオジャパンのニュースで結果を聞いた。短波の入るラジオも今では考えられないくらい大きかった。25cm×15cm×5cmくらいもあり、重さも1kg以上あっただろう。雑音だらけの音声で、3位までの順位だけが聞けた。すると日本選手は3位以内に一人も入っていなかった。瀬古選手と宗兄弟が出場しており、一人も3位以内に入らないなんて考えられなかった。短波ではっきり聞き取れなかったので、間違いであることを願ったが、聞いた通りの結果だった。期待が大きかっただけにそんなこともあるのかと不思議な感じがした。

 

 

サンパウロへ

  第3回目の調査の帰国時には、アスンシオンからサンパウロに立ち寄った。ブラジルのサンパウロで行っていた森林・林業関係の技術協力プロジェクトで行っているブラジルの植林状況の調査で立ち寄ったのだった。

 

サンパウロにて。1984年8月17日.jpg

サンパウロにて。1984年8月17日

 

 そのプロジェクトのリーダーや専門家が懇切丁寧にブラジルの林業事情を説明してくれた。このリーダーは我々のカピバリにも調査に来ていたので、我々調査団にとても親切にしてくれたのだった。

 

 

アナコンダの頭蓋骨

 その時に、毒蛇研究所の博物館にも案内してもらった。

  学生時代に、中公新書で「アマゾン河」(神田錬蔵)という本を読んだことがあったが、その中にアナコンダが馬を飲み込む記述があった。この話は「椎名誠」が書いたりしゃべったりしているが、当時は本当にそんな話があったのか信じられない思いであった。しかし、その毒蛇研究所にはアナコンダの頭蓋骨が飾ってあり、あごの下から頭のてっぺんまでの高さが50cm以上はありそうな標本が2つも並んでいた。これなら口を開けば軽く1m以上にもなり、馬を飲み込むのも可能であろうと思ったものである。

 

 

同郷の人に出会う

 その時泊まったホテルで働いていた日系人で、横浜の六角橋に住んでいて、神奈川大学を卒業した方がおられた。私の生まれが横浜の六角橋で、昔、我が家には神奈川大学の下宿生が沢山いたので、話しが弾み、世間は狭いと思ったものである。

  この話を帰国してから母親にしたところ、今は六角橋に住んでいないからなおさら六角橋が懐かしかったのだろう、母親は今でもこの話を覚えており、良く思い出話しの話題に上る。

 

 

つづく

 

 

 

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