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【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.11_エルサルバドル

森林紀行

エルサルバドルで見た同時多発テロ

【エルサルバドルの森林】

 2001年9月6日(木)エルサルバドルへ派遣された。森林と林業の政策や技術などのアドヴァイザーとして農牧省で働いた。到着翌日、農牧大臣と面会し、森林と林業の現状や将来の方向性等を話あった。四国程度の面積しかない小国なので、最初からトップと話せるのだとびっくりしたり、妙に感心した。

 私の机は、森林局の大部屋の中の一角に設けてくれ、周りは当然ながら皆ラテン系の初めての人ばかりだったが、日本の職場を離れ新鮮味があった。転職してリフレッシュしたような感じだろうか。共同で働く専属の職員としてホスエという職員を付けてくれた。ほぼ同年代で、共同で働いた外国人の中では最も優秀な一人だった。

 

 ホスエは、我が国の人が意見を言っても誰も聞かないが、外国人の増井が言えば皆聞くので増井は預言者になれるよと言った。何のことはない。日本と同じではないか。専門家であっても日本人の言うことは聴かないのに、外国人が言うことで世の中が動く日本と同じだ。

 最初はインタビュー調査や国内の森林を調査した。遠くに行くには一泊は必要だろうと思っていたが、小国なのでどこでも日帰りだった。出張旅費も役所の車もなく、調査に行くのも個人の車でガソリン代しかでず、ホスエも困っていた。予算がないのだ。人口は当時600万人と稠密だった。因みに四国の人口数は2018年で約375万人だから人口密度は相当に高い。

 そのため、農地開発や薪炭材利用などで森林はほとんど伐られたはげ山だった。とはいえ所々に森林は残り、農地や牧場は緑で、一見緑は豊かに見える。だから、餡子が詰まってない饅頭のような森林だった。また、良いマツの天然林や成長の良いチークの人工林もあった。きちんと管理できれば森林への回復の可能性は大だった。

 林業関係者とのワークショップでのグループディスカッションなど私自身の勉強になった。ちょうど住民参加型森林管理でワークショップが盛んに行われるようになるのだが、その初期にあたるころだった。雇用創出のため木材を利用した手工芸品製作も行われていた。

 

 

【同時多発テロの日の朝】

主に女性達の手で作製.jpg

 さて、到着して1週間も経たない2001年9月11日(火)のことだった。首都サンサルバドルの中心からややはずれたホテルに宿泊し、森林局の職員が車で送り迎えしてくれていた。治安が悪いのでホテルからあまり出るなと言われていた。朝食後部屋に戻り、出発まで少し時間があったので、テレビをつけた。

 

 7時45分くらいだった。時差が2時間あるからニューヨークでは9時45分くらいのはずだ。ニューヨークのツインビルが燃えているではないか。一瞬現実のものとは思えず、映画のCGだろうと思ったが、様子がおかしい。どうもテロらしい。飛行機が衝突した後だった。そのうちに一方のビルが崩れ始めた。次にペンタゴンも襲われたという映像が入ってきた。一体どうなっているのだ。身震いするような恐ろしさだ。

 ブッシュ大統領の演説も放映された。仕事に行かなければならないのでロビーで運転手を待つ間、JICA事務所に電話し、様子を聞くが、テレビで見ていること以外の情報はなかった。しかし、アメリカが関係するところは、危険なのでアメリカ大使館には絶対に近づくなとの指示があった。

 

 

【事務所にて】

 到着したばかりで身近な職員からと、同じ部屋の森林課の職員へインタビューをしていたが、この日は全くインタビューにならなかった。皆アメリカのことが気になり、上の空だった。まだ7?8機も同時にハイジャックされ、ペンタンゴンはさらに襲撃されそうだとか言ったうわさが飛び交っていた。他にも農業分野で協力している日本人の専門家もおり、お互いの気持ちを落ち着けるために話す。皆にいくらインタビューしても意識が散漫で、まともな答が返ってこない。

 私もくたびれて、インタビューの後、食堂へ行き昼食を食べるが、皆テロの話で持ちきりで、落ち着きがなく不安そうである。午後からのインタビューもできないので、午前中のまとめをしていると、森林局内の女性職員がいろいろと補助してくれるが、やはり話がテロの話になってしまい、まとめられない。この日の仕事はあきらめテレビがある部屋でテレビを見ていたが、結局この日は一日テロの話だけだった。

 

 そうこうしているうちにJICA事務所から電話があり、当面アメリカ入国は禁止としたので、帰りの便をニューヨーク周りからメキシコ周りに変更しろという指示がきた。すぐにメキシコ周りに変更し、おかげで帰国時に、助手として働いてもらったメキシコ国立大学の院生に再会することができたが、私自身もこの後の世界は大きく変わるだろうと不安だった。アメリカがどう報復するのか、日本と家族は大丈夫か、大きな衝撃を受けた一日だった。

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