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6月の駒ケ岳

社窓


6月の駒ケ岳

全国的に梅雨入りし、夏へと季節は変わっていきます。

今年の梅雨入りは概ね平年並みとこと。

 

6月の旧暦の月名は「水無月」。

諸説あるようですが、

“無”とゆうのは助詞の”の”であり、「水の月」という意味だそうです。

 

ちなみに、10月の「神無月」も元々はこれと同じ「神の月」という意味で、

神様が出雲大社へ集まるために神様が不在となるので「神無し月」というのは、

後付けで中世平安時代以降に信仰とともに広まった俗解である、とも言われているそうです。

 

6月は、田んぼには水が入り、梅雨が始まる。まさに「水の月」ですね。

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.12

森林紀行

最終報告書

最後の報告書の説明会へ

 報告書が出来上がった後に、1985年2月8日から2月23日までの2週間、最後の報告会に行ったのであった。報告会が無事終わり、帰国後、パラグアイ側の希望などを取りこんで最終の報告書を作成した。

 

 

計画の概要

 今から30年以上も前のことではあるが、ここで計画の概要をごく簡単に述べると、毎年約1,000haずつ6年間に渡って植林する計画であった。植林面積はもちろん初年度が少なく、徐々に増やして6年目が植林面積は最も多い。植栽培樹種は、針葉樹のエリオッティマツ、テーダマツ、カリビアマツを中心として伐期を20年とした。一般建築用材を生産目標にし、間伐材はパルプ材や牧柵用材とした。

 パラナマツは材質が良質なので、伐期を30年とし、一般建築材でも良質材を生産目標にした。

 その他、広葉樹でユーカリ、パライソ(成長が早い)の外来種と郷土樹種でラパチョとペテレビを植栽することとした。

 針葉樹と広葉樹の植栽割合は90%対10%である。

 初期6年間は天然林の伐採収入が入り、9年目から間伐収入を予定した。

 雇用する労働者は多い年で約300人、少ない年で約60人程度であり、50年間で述べ約5,000人、年平均で約100人だった。

 林道は10m幅で幅員は6m、左右2mは伐開整理し、保護樹帯も設けることとした。施設は中央事務所、修理工場、倉庫などと職員アパート、診療所、学校、教会なども計画した。

 機材も重機、消防自動車、ジープ等の車両類から事務機器まで非常に細かいところまで設計した。

 50年間に支出する額は約4,000億グアラニー(約2,700億円、1$=350G、1$=240¥)で、収入は約8,000億グアラニー(約5,400億円)となった。収支が黒字に転じるのは19年目からで、内部財務収益率は19.6%となった。これは50年間も実行すれば非常に儲かる数字である。

  資金は15?16年目くらいまで借りる必要があり、30億グララニー(約20億円)借りられれば、計画は実行できたのではないかと思う。

 

 

その後

 それから2年たった1987年3月に別の仕事でパラグアイを訪れた。

 

森林局にて1987年3月28日.jpg

森林局にて1987年3月28日

 

 その時パラグアイの森林局には日本から専門家が派遣されていた。我々の作成した計画の実行立ち上げのため、森林局の技術者達を鍛えていた。

 

 専門家の指導は厳しく森林局の技術者と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地におり、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールであった。森林局の技術者も音を上げていた。

 

  この時皆で日本式に最初の木に斧入れをするので安全祈願祭を行い、私も参加した。お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。ご神木として選んだ木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。その後、全員が各々お祈りをした。

 

安全祈願祭 1987年3月31日.jpg

安全祈願祭 1987年3月31日

 

技術者全員に訓示をする長官.jpg

技術者全員に訓示をする長官

 

 

カブラルとウエスペ

 この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、カブラルが家に招待してパーティを開いてくれた。ウエスペともう2組の友人達も来た。カブラルは新婚であった。カブラルの奥さんは、ずっと以前から私は知っていて、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりした。奥さんは薬局を経営していた。ウエスペの奥さんはもう少しで子供が生まれるくらいの時期であった。

 

カブラルから手紙をもらい.jpg

 

 その後、カブラルから手紙をもらいそれには「増井、家族ともども元気だよね。息子の写真を送るよ。早くパラグアイに遊びに来なよ。待っているよ。カブラル夫婦」と記されていた。

 

 

通訳の若者

 この時は、前に通訳をしてくれた若者にも会った。彼は、カピバリの調査が終わる頃の彼女と結婚をしており、一児をもうけていた。彼にしてもそうだが、前の二人もとても夫婦仲が良さそうに見えた。これは日本人では人前では恥ずかしがって見せられないのが、オープンに仲が良いところを見せられて、とってもいい雰囲気に見えた。私も人前で仲良くみせられたら、もっと良かったかもしれない。日本人も一般にもっと人前での夫婦仲が良いのを見せれば世の中も明るくなるだろう。

 

 

それからのその後

 その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は日本代表として派遣されたのだった。

 コリエンテスはパラグアイの対面で、アスンシオンから近く、もしかしたらパラグアイの代表もきているのではないかと期待していたところ長官とエンシーソーが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。

 その後、前述したようにエンシーソーとは彼が2000年くらいに日本に研修で来た時にあった。その後、彼は森林局の長官となった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、長官とそっくりになったのには驚いた。

  これにて、パラグアイのカビバリの造林計画についての話は終わりにし、次からはセネガルのマングローブ林について書く予定である。

 

 

 

「パラグアイ – 造林計画調査編」終わり

 

 

 

石楠花

社窓


石楠花

社屋前の石楠花=シャクナゲ が綺麗に咲きました。

このシャクナゲ、「高嶺の花」の由来になった花だそうです。日本に自生するシャクナゲはもともとは標高の高い山に分布し、滅多にみられない珍しい存在とされていたようです。

明治時代になり、西洋種が入ってきたことで、観賞用の園芸種が広がったそうです。

俗に言う「日本シャクナゲ」と「西洋シャクナゲ」に見分け方ですが、一般的に葉裏に細かな毛があるものが「日本シャクナゲ」、葉裏がつるっとしているものが「西洋シャクナゲ」といわれています。

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