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【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.2
最初の会議
第1回目の調査
日本を出発
1983年10月7日(金)に最初のカピバリ地区の調査のため日本を出発した。パラグアイまでは、すでに北東部の調査で何回か通った道である。
メンバーは、6名、団長は当時学会でも有名な方だった。四谷から京成上野に行き、2時のスカイライナーで成田へ向かった。この時、何故か成田空港での警戒が厳しく、多数の機動隊員が立ち並び、パスポート検査が入念だった。
書類や森林調査道具、それに個人の荷物を先に成田空港に送ってあり、全員で10数個もあり、かなりの個数であった。午後4時に荷物を受け取り、午後5時に手続きを済ませ、税関を通る。出発まで、今はなくなったバリグ航空の待合室で過ごし、午後6時半のRG833にてロスアンゼルスに向けて飛び立った。
機内にはこれから始めてパラグアイに向かう青年海外協力隊の隊員も数名乗っており、話をするとこれから海外での仕事に臨む意気込みや気負いといった若々しさを感じた。ロスアンゼルスまでに食事が2回。到着したロスアンゼルスでは時差で眠い。アメリカではトランジットでも入国しなければならない。荷物が多いのでその出し入れに、いつも一苦労させられた。入国数時間の後、ロスアンゼルスからペルーのリマに向かった。ロスアンゼルスからリマの間にも2回の食事がでた。
アスンシオンへ
リマに到着したのは夜中であった。リマの空港で数時間の待機の後、リオデジャネイロに向けて飛び立った。リオデジャネイロには翌日10月8日(土)の午前7時半に到着した。飛行機は1時間半遅れた。やれやれパラグアイに近いところまでようやく着いたかと思ったが、ここからが大変だった。通常リオデジャネイロからアスンシオンまでは約3時間であるが、この時は10時間以上もかかった。
乗り継ぎ便はRG900でリオデジャネイロ11時発であったので3時間以上の待ち時間があった。多少遅れたが乗り継ぎ便との間に余裕を持たせておいて良かった。安心していられる。待ち時間の間に朝食のサービスがあり、朝食券をくれた。空港の上階のレストランに行き、朝食を食べた。リオデジャネイロの空港はきれいで、出発便の案内がポルトガル語ではあるが、女性の声でとてもゆっくりと丁寧に言っているように聞こえた。
11時に予定の便のRG900に乗り込んだが、機体のテクニカルプロブレムということで、一旦降りるようにとのアナウンスがあった。飛行機の整備は大丈夫なのかなと心配になる。そしてもう一度食事券をくれたので、その間にまた食事をする。バリグ航空の脂っこい食事を連続6回と食べ、さすがに食べ飽きた。
約8時間と大分長く待たされたが、午後3時過ぎにようやく出発することができ、サンパウロ、イグアスに降りた後に、アスンシオンには午後6時に着いた。やれやれであった。日本から約40時間、機内で仮眠を取っただけだった。
イグアスの滝を訪れたときの写真。
予定より相当遅れて夕方になったが、アスンシオンに到着し、空港では関係者と森林局の長官とその息子さんまでが出迎えてくれた。
空港から市内までは車で約30分。ホテルはパラナホテルであった。円高とグアラニー安で我々もプラサホテルから少し格上のパラナホテルに泊まれるようになった。特に高級なホテルというわけではないが、清潔で一人でいるには十分な広さがあり、日本のビジネスホテルとは比べものにならないくらい居心地は良かった。
今回の通訳を頼んでいる方もホテルで待っていてくれた。眠いのを我慢して早速仕事の打合せである。
その晩は、内山田へ食事に行った。内山田は日系人の経営しているホテル兼レストランで、すきやきが専門だ。機内で一緒だった協力隊員も来ており、ここで、全く時間が経っていないのに再開を喜んだ。
最初の会議
パラグアイ側の大きな希望
到着翌日1983年10月9日は日曜日であったが、午前中パラナホテルの会議室を借りて、最初の会議を開いた。パラグアイ側の森林局から長官始め数人の担当官が出席した。
誰でも希望は大きく持つ。特に南米人は大風呂敷を広げたがるからであろうか。長官は、大きな構想を語った。今回の造林予定地の土地2万7千haが森林局の土地となる予定で、そこに植林をしたい。パラグアイ側の希望としては、マツ類を約1万ha、郷土樹種を約3千ha、残りは天然林として保護したいということだった。
パラグアイでは林産物は畜産物に次いで重要な外貨獲得の収入源となっていた。当時パラグアイの人口は約300万人(現在は倍の約620万人:2010)、牛は人口以上に多いと言われていた。広大な森林が牧場に転換されていった最盛期である。
林産物は、もちろん天然林からの抜き伐りだけで、持続的生産など考えないで、あるだけ伐って儲けてしまおうという無計画なものであったから森林資源は急速に減少・劣化しているのであった。
造林予定地ガピバリの森林。当時既に良木は伐採され、
その後残った劣化した森林。道路沿いは農民の入植が見られた
植林に関しては、それまで個人か民間会社で数haから数10ha程度の植林を行ったことがある程度で、国営の大規模植林などなかったのにもかかわらず、国直営での大規模造林を望んだ。また、植林木を使って、パルプ工場などを設立し紙を輸出し、林産業を振興させ、技術普及に役立てたいなどとバラ色の構想を語った。
本当にそのようになれば良かったが、やはり土地の管理ができなかったということから、そうは問屋が卸さなかったのだ。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.1
土地問題の難しさ
森の中での調査を始めて約3週間が過ぎようとしていた1983年11月3日(木)のことだった。どこからともなく現れたここカピバリの農民達に囲まれた。
「お前ら何をしているのだ。ここは俺達の土地だ。黙って入って来て何をしているのだ。早く出て行け。」
「おい、カブラル。やばいな。彼ら険悪な雰囲気だぞ。ここはお前の出番だ。うまく説得してくれ。」と私がパラグアイ森林局の共同作業者のカブラルに言うと、
「まあまあ、皆さん、落ち着いて。我々は森林局の技術者です。」とカブラルは農民達を説得し始めた。
「森林局の者がここに何しに来た。」
「ここは国有地になる予定の土地で、ここで植林をすることになっています。そのため国有地の確定のための測量をしています。」
「でたらめを言うんじゃあない。ここは俺達の土地だ。かってに入るな。もう俺達は住み着いているんだ。」
「カブラル、待て、待て。彼らに直接説明しても分からないぞ。今は刺激することは避けて、遠まわしに説明しろ。」と私が言うとカブラルは、
「まあまあ、皆さん、落ち着いて。落ち着いて。ここは国有地ですよ、国有地。皆さんの土地ではありません。」と相変わらず直接的に説明する。
「そんなことはねえだろう。ここには所有者はいねって聞いたんだ。」
「いいえ、ここは昔製材会社の土地でしたが、今は、銀行の土地となったのです。その後政府の土地になる予定で、ここに植林する予定です。」
「待て、待て、カブラル。彼らに土地の状況を正確に説明したって、理解されないぞ。ほら、彼らは益々怒っているぞ。」と再度私が言うと農民は
「いいか。お前ら。そんな小難しいことは、俺たちゃあ、知ったことはねえ。何しろ俺たちゃあ全財産売っぱらって、遠くから一家そろって移り住んできたんだ。それに見ろ。畑には植えたんだよ。マンディオカを(サツマイモのような根茎があり食用にする)。森を開墾して畑にしたんだよ。耕し始めたんだよ。ここは俺達の土地だ。今さら出て行くところはねえ。」
我々を取り囲んだのは、この周辺に移り住んできた農民10数名である。彼らの数人はライフルを持っている。その他はマチェーテ(南米の蛮刀の様なナタ)を持っている。雰囲気からすると、どちらかといえば人の良いおじさん達が、単に我々を脅して追い返そうとしているだけで、発砲などはしそうもなかった。
南米の地図
我々は日本人の調査団員数名に共同作業者のパラグアイの森林局の技術者数名、それに作業員などと人数は彼らと同じくらいだった。しばらく、彼らが暴力を働かないように、なだめるようにおとなしく話し込んでいたが、らちが明かなかった。
この時に農民達をなだめたのは、我々日本側調査団の責任者だったSさんだった。南米は初めてであったが、東南アジアでの仕事のキャリアが長く、現場の住民相手に鍛えた手八丁口八丁で一旦は農民達の矛を納めさせた。
結局、我々は当面皆さんの生活に迷惑はかけないように測量などの仕事を進める。ただ、森林局の幹部が、皆さんに説明するためここへ来て話すことになるだろう。また、周辺に軍隊の土地となるところもあるので、それらが今後どう関わってくるかはわからない。とそこでの結着は先延ばしにし、調査を進めることで、その場での住民達の了解を得た。
ここは、パラグアイのサン・ペドロ県のカピバリ(Capibary、先住民の言語グアラニー語ではカピバルゥーと発音するが、ここでは日本語表記に従いカピバリと書く)という地区で、我々は造林計画を作成するための調査を始めたのである。しかし、土地所有のあいまいさにより、最終的に我々は、当初の予定の土地の半分以上もの多くを手放さざるを得なくなったのだ。
なかなか厄介な仕事ではあったが、そのような経緯も含めて、前回のパラグアイの北東部の紀行文につづき、今回はカピパリでの造林計画調査について記したい。
パラグアイの地図