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4月の駒ケ岳

社窓


4月の駒ケ岳

さあ、新年度のスタートです。

また気持ちを切り替えて、頑張っていきましょう。

 

毎年、この時期になると桜がいつ見頃となるかが話題となります。

今年は、今のところ若干気温の低い日が多く、少しゆっくりのようですが・・・。

なにかと楽しみな季節がやってきました。

 

[南アルプス]
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【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.9

森林紀行

ガラガラ蛇など

ガラガラ蛇でのいたずら

 ある日、調査チームの全員は、セロ・ドス・デ・オロ(森林地域のほぼ中心にあった小さな山)の頂上から調査地域全体を見晴らすために、頂上に登った。登っていると早さが違うので3グループくらいに分かれてしまった。私はまだ30台前半で、疲れ知らずで、先頭グループにいた。団長は60代前半くらいで、皆のペースについてこれないので一番後ろのグループでゆっくりと登ってきた。

 先頭グループの我々はガラガラ蛇を見つけた。一緒に登っていたチームのSさんは、ヘビを捕まえたり、爬虫類などは大好きで、その時もガラガラヘビを捕まえ、頭を叩いて動けないようにした。そしてポリ袋に入れて頂上へ持って行った。そして頂上の少し下の山道の真ん中に、そのガラガラ蛇をとぐろを巻いた形で置いたのだった。

 すると後から登ってくるパラグアイの技術者達も、ここにはガラガラ蛇が沢山いるのを知っているものの、まじかでみると驚いてびっくりして肝を冷やすのであった。第2グループで登ってきた森林局の次長も飛びあがって驚いた。この方は、いつもアルコールに浸かっていて酔っぱらい気味だったかもしれない。中でも一番驚いたのは我が団長だった。本当に団長は森林局の次長よりも高く飛びあがって驚いた。腰でもぬかすのではないかとこちらが心配するほどだった。ちょっとやり過ぎたかなと後で反省した。

 

  そのガラガラ蛇をSさんは、ポリ袋に入れてペンションに持ち帰り、パラグアイ人のように尻尾のガラガラを切り、お守りとした。しかし、このガラガラ蛇は、血がかなりでていたので生臭くてまいった。

 

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた.jpg

セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた

 

大使館にて

 この時の日本大使は、日本の調査団をより活動しやすくするためにバックアップしてくれるような活動的な大使だった。その時期にパラグアイに滞在していた調査団、プロジェクトチーム、専門家等を一堂に会して意見交換会を開催してくれたことがあった。

 その時、農業関係の調査をしていた調査団の中堅どころの技術者が、「林業など土地生産力の低い場所での計画作りの協力などしてもしょうがない。農業のように収入が上がるような土地を対象として、そこで土地生産力をもっと高めるような計画作りをする協力をもっと増やすべきだ。」との趣旨の発言をした。

 まさに林業協力分野の政府開援助、ODA資金を農業協力分野に分捕ってしまえという意図があり、かなり横柄な態度でもあった。

  そのような林業批判をするべき場所でもなく、場違いな発言で、皆を失笑させ、大使にもたしなめられ、会をしらけさせてしまった。しかし、この方は、当時飛ぶ鳥も落とすいきおいのあった会社の職員だったから、恥も感じず、厚顔にもそのような場違いな発言をしたのだろう。今思えば技術者も必要なのは正しい技術的認識とともに常識と謙虚さであろう。

 

 

アスンシオンの日系女性

 北東部の調査の時から日系人が経営していた内山田という旅館に部屋が空いていれば、泊まった。当時は3階建てだったと思うが、お金が溜まると1階ずつ継ぎ足して行くのであった。鉄筋コンクリート製ではあるが、まさにおかぐら作りである。地震がないから許されるのあろうが、鉄筋とはいえその建て方をみていると強度計算などカンで行っているのではないかと思わざるを得なかった。

 内山田は1階がレストランになっており、メインメニューはスキヤキだった。パラグアイの牛は日本の牛のように油が乗っているわけではないがスキヤキ用に薄く切ると程良い固さとなり、日本の柔らか過ぎる肉よりもむしろ食べ易いと思ったほどだった。

  この内山田でアルバイトをしていたパラグアイだけでなく日系の女性達とも親しくなり、休日にはイパカライ湖に遊びに行ったりした。

 

 

オリンピック

 1984年の夏はちょうどロスアンゼルスオリンピックが開催されていた。パラグアイではオリンピックなどに興味がある人は、当時いなかったようである。パラグアイのテレビも新聞もほとんど報道がなかった。私は、昔陸上部にいたこともあり、マラソンはどうなったかを知りたかった。そのため機材として持っていっていた短波の入る大きなラジオでラジオジャパンのニュースで結果を聞いた。短波の入るラジオも今では考えられないくらい大きかった。25cm×15cm×5cmくらいもあり、重さも1kg以上あっただろう。雑音だらけの音声で、3位までの順位だけが聞けた。すると日本選手は3位以内に一人も入っていなかった。瀬古選手と宗兄弟が出場しており、一人も3位以内に入らないなんて考えられなかった。短波ではっきり聞き取れなかったので、間違いであることを願ったが、聞いた通りの結果だった。期待が大きかっただけにそんなこともあるのかと不思議な感じがした。

 

 

サンパウロへ

  第3回目の調査の帰国時には、アスンシオンからサンパウロに立ち寄った。ブラジルのサンパウロで行っていた森林・林業関係の技術協力プロジェクトで行っているブラジルの植林状況の調査で立ち寄ったのだった。

 

サンパウロにて。1984年8月17日.jpg

サンパウロにて。1984年8月17日

 

 そのプロジェクトのリーダーや専門家が懇切丁寧にブラジルの林業事情を説明してくれた。このリーダーは我々のカピバリにも調査に来ていたので、我々調査団にとても親切にしてくれたのだった。

 

 

アナコンダの頭蓋骨

 その時に、毒蛇研究所の博物館にも案内してもらった。

  学生時代に、中公新書で「アマゾン河」(神田錬蔵)という本を読んだことがあったが、その中にアナコンダが馬を飲み込む記述があった。この話は「椎名誠」が書いたりしゃべったりしているが、当時は本当にそんな話があったのか信じられない思いであった。しかし、その毒蛇研究所にはアナコンダの頭蓋骨が飾ってあり、あごの下から頭のてっぺんまでの高さが50cm以上はありそうな標本が2つも並んでいた。これなら口を開けば軽く1m以上にもなり、馬を飲み込むのも可能であろうと思ったものである。

 

 

同郷の人に出会う

 その時泊まったホテルで働いていた日系人で、横浜の六角橋に住んでいて、神奈川大学を卒業した方がおられた。私の生まれが横浜の六角橋で、昔、我が家には神奈川大学の下宿生が沢山いたので、話しが弾み、世間は狭いと思ったものである。

  この話を帰国してから母親にしたところ、今は六角橋に住んでいないからなおさら六角橋が懐かしかったのだろう、母親は今でもこの話を覚えており、良く思い出話しの話題に上る。

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.8

森林紀行

入植者達や気晴らし

 

入植者達

 入植者達はたくましかった。入植地はミニフンデ (minifunde 零細農地、小農場) と呼ばれていた。土地の地権はないが,軍から許可を貰っているし、住民達は逆に軍が守ってくれるからと安心していられたのだろう。

 入植者はブタやニワトリを連れて遠くからやって来て、オノとナタで木を伐り倒し、掘っ建て小屋を建て、住み込んだ。たくましい限りに見える。

 

  この調査の最初には、造林予定地全体の地図を作成するために、トランシットで正確な測量を行ったが、それが半分以上も役に立たないことになってしまった。

 

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者.jpg

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者

 

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ロバを引く入植者の小さな娘

 

 

黄疸になった入植者を病院へ運ぶ

 入植者がいくらたくましくても病気には勝てない。ある日調査が終え、ブトゥのペンション(ホテル)に帰る途中だったが、まだ調査地に近いところで、道路をブトゥ方面に歩いている二人連れのカップルを車で追い抜いた。夫が妻の手を引いており、歩き方が不安定である。

 車を運転していた森林局の技術者に車を止めるようにいい、二人のところに戻って話すと、奥さんと思われる女性は、顔がもう真っ黄色というくらい黄色く黄疸がでていた。肝炎だなと思った。どこへ行くのか訪ねるとブトゥの病院へとのことだった。ここから20Kmも歩いていくつもりだったのだ。こんなに黄疸がでていて歩くのはとても無理である。へたをすると死んでしまうだろう。

 肝炎の感染の恐れもあるかとも思ったがそんなことは言ってられない、車に乗れとブトゥの病院まで送り届けた。仕事ついでの人助けといったところだったが、その後どうなっただろうか。

  肝炎といえば、私もこの調査の15年後くらいではあるが、アフリカのジンバブエでA型肝炎に罹り、死の淵をさまよったことがある。全身のけだるさで、全く動けなくなるのだが、黄疸がでるあたりまでは、食欲は全くないのだが、動けることはできた。この話は、またジンバブエ編で書く予定である。

 

気晴らしなど

調査基地としたペンション

 この調査で滞在していたのは、国道沿いのブトゥという町にあるペンション(ホテル)である。パラグアイ人がペンションと言っていた。ここから調査地までは約20Kmあり、道路が砂地であるため毎日約1時間かけて通った。

 南半球なので7月~8月の冬は寒かった。毎朝霜が降りるほど寒かった。厚手のジャンパーを着こみ、車には暖房を入れて現場まで行く。着くころには少し暖かくなり、昼頃には大分暑くなる。

  それに引き換え、夏にあたる11月から3月くらいは非常に暑かった。直射日光の下ではすぐに熱中症になってしまいそうである。森林内では暑さがかなりしのげ、林内にいる方が楽であった。

 

ペンションの娘達

 このペンションには16才から25才くらいの3人の娘がおり、ペンション経営を手伝っていた。この姉妹全員、目を見張るような美人で、皆の注目の的であった。今写真を失ってしまい、見せられないのが、残念である。やはり、メスティッサで、白人系統が強い様に見えたが、美人なのはスペイン人と先住民の混血だからだろうか。美人とは関係ないが、最近のDNA研究によれば、パラグアイの先住民グアラニー族は日本人と相当近いそうだ。

 一番下に5才くらいの息子がおり、これは娘達の甥っ子だったかもしれない。一番下の娘はフアニータと言い、16才である。ある時、フアニータが、その男の子のいたずらを怒るのに「¿Qué estás haciendo? ケ・エスタス・アスィエンドー(何しているの?)」と怒った声で言っているのが聞こえた。この時、怒り方は、日本語と同じ全く同じ言い方だと思ったものである。徐々にではあるが、スペイン語もかなり聞き取れるようになってきて、言葉は、やはり現場で状況に合わせて覚えるのが最も良い方法だと思ったものである。

  森林局の連中は何番目の娘に手をだしたとか、あることないことを気晴らしで、この姉妹たちのうわさ話ばかりを話していた。彼らのあこがれが昂じて、想像をあたかも現実のようにしゃべっているようなところがあった。

 

ダンス

 パラグアイではダンスが盛んでフィエスタ(パーティー、宴会)といえばダンスをしていた。やたらにフィエスタが多く、毎週末には行っていたようなものだった。もちろん男女ペアで踊るのであるが、パラグアイでは、組んで踊るよりも離れて踊る方が多かった。後に仕事をするコロンビアやエクアドルでは組んで踊る方が多かった。

  私もこのペンションの一番上の娘とは良く踊ったものだった。日本人チームの若い仲間は、良く踊っていたが、40台以上のメンバーは、ほとんど踊らなかった。パラグアイ人も年は関係なく踊っているのだから、踊れば良いのに、楽しみの一つを失っていると思ったものである。

 

 このペンションにはときどき、近くに住むおじさんが(40才前後だったろう)がギターを片手に歌いに来た。体が大きく、腹が出て太り気味であるが、すごい声量で、澄んだ通る声で歌が上手なので驚いた。プロとしても十分にやっていけそうに思えた。また、森林局の共同技術者の中にいたレオンというのが、ギターを弾くのが非常に上手で驚いた。

 

農牧省に派遣されていた専門家

 農牧省に個別に派遣されていた専門家の方も我々の仕事をバックアップしてくれ、ときどき現場にも来てくれた。その方の39才の誕生日の誕生パーティーをペンションのレストランでしたことがあった、私より5才年上であったが、彼がしみじみと「もう39才になってしまい、来年は40才で不惑です。」と年を取るのを嘆いていたが、当時は別にあまり自分の齢を感じなかったが、今の私は60才をだいぶ超えてしまい、まさに「光陰矢のごとし」である。

 

食事

 現場にいる時はブトゥのペンションで、朝昼晩とも用意してもらった。昼は弁当のサンドイッチである。朝はパンとコーヒー。晩のご飯の味付けはほとんどどれも同じで、牛カツか、硬い肉のステーキだった。Tallarin(タジャリン:麺)もあり、ねっちゃりとしたスパゲッティで、それに肉を付けてもらったりもした。タジャリン・コン・ポージョ(麺と鶏肉)と言って注文するが、その響きがなんとなく楽しげであった。

 

 アスンシオンにいる時は、外食であった。食べにいったのは第1が和食、次が中華、韓国、続いてドイツ、チリ、といった外国料理が中心であった。移住者が多いので前述した内山田以外にもいくつか日本料理屋があったのだ。どうしても東洋系の食事になってしまうのだった。

  パラグアイ料理といってもステーキかステーキにころもをかぶせたミラネッサ(ミラノ風カツ)というカツばかりで、単調な料理だったので、値段は安いが、パラグアイ料理はたまに食べに行く程度だった。

 

釣り

 ペンションから1?2kmくらい離れた場所に湿地があり、そこにいくつも小さな池があった。現場から帰ると暗くなるまで、サッカーをするか釣りに行くかだった。パラグアイの技術者はサッカーをしていることが多かったが、釣りにも何人かで一緒に行った。

 私は、出張の時には、竿をいつも持って行っていた。エサはペンションでもらう牛肉である。肉を1cm四方程度の大きさにして針につけ、浮きでも、重りを付けて投げ込んで沈めても、ボガというコイのような魚が良く釣れた。大きさはだいたい10cm?20cm程度で、それほど大きくはなかった。腹に黒い点があった。時にはピラニアも釣れた。

 

  それに珍しい魚で、口が吸盤になっている魚も釣れた。釣った魚はペンションに持ち帰り、スープと一緒に煮てもらい食べた。ボガは少し泥臭い感じがしたが、牛肉ばかりで飽きているところに良いおかずとなった。一方ピラニアは、やはり小さなヒピラニアで、あごの肉が発達しているが、ほど良く堅く、泥臭くもなく、ボガよりおいしいと思った。

 

口が吸盤になっている珍しい魚.jpg

口が吸盤になっている珍しい魚

 

カピバラ

 ある時、皆とは別な池で、一人で静かに釣っていると対面にカピバラが現れた。10mくらい離れているが、カピバラがこちらに気が付いていないので静かに観察していた。しばらくしてカピバラが私に気が付くとあわてて水の中に飛び込み逃げていった。

 

ゴキブリに好かれる人もいる

 ブトゥのペンションにはゴキブリが多かった。パラグアイのゴキブリは茶色で、日本のようにこげ茶色ではなかった。大きさは日本のよりも少し大きかった。

  それがメンバーのHさんの部屋には特別に沢山でるのであった。ゴキブリが天井から落ちて来るというので、Hさんは時々眠れずに、ゴキブリ退治に大騒ぎしているのであった。Hさんは男らしい体臭が強かったからそれがゴキブリを引きよせていたのだろう。すると集まってきたのはメスのゴキブリだったのだろうか?

  人により、虫を引き付けるフェロモンを出す人がいるのだろう。他にも日本で私と一緒に調査で山に入った後に、出てくると、私には全くダニがたかっていないのに、その人はダニだらけといったこともあった。

 

ヒキガエル(ガマガエル)

 スペイン語ではヒキガエルはサポと言う。暖かくなり始める8月の終わりくらいだったろうか。ブトゥのペンションには沢山のヒキガエルが集まってきた。日本のヒキガエルよりは少し緑かかっていてやや大きい。ペンションの通路がサポだらけになってしまったこともあり、ときどきは部屋の中にも入ってきた。

 

 

つづく

 

 

 

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