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12月の駒ヶ岳
【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.3
いざパラグアイへ
予約便が変更になったこと
最初にパラグアイに行ったのは1980年11月20日(木)のことであった。2度目の海外出張であり、初めての南米、私は20代最後の出張であった。
当初はJALで、成田からニューヨーク、リオデジャネイロ経由でアスンシオンへ行く予定であった。JALだと午前10時に成田を出て、ニューヨークには時差の関係でほとんど同じ時刻の同日午前10時15分着の予定で、ニューヨークからリオデジャネイロへの便は同日午後8時発なので、約10時間の時間がありニューヨークの町を見ることができると楽しみにしていた。
しかし、出発日11月20日にはJALがストを行うと発表され、急遽JALからパンナムに変更した。パンナムは午後7時発で、ニューヨークでは飛行機の乗り換えだけで、町を見る余裕はなくなってしまい、がっかりした。
メンバーは職場の4人でチームを組み、団長を始め皆、経験豊富な技術者であり、私が一番下っ端で小間使いであった。
機内
午後6時20分に飛行機に乗り込んだ。PA800 である。午後7時20分に成田を飛び立った。まずは、成田を無事出発でき、わくわくしていた。ニューヨーク、ケネディ空港には同日午後5時35分に到着した。実質約12時間乗っており、夜に乗り、日が明け、また日が沈んだところである。
機内はほとんどがアメリカ人で、もう乗り込んだ瞬間からアメリカの雰囲気である。しかし、もう一方の隣の席は、アルゼンチン人であった。ブエノスアイレスに帰るとのことで、この人は、英語はあまりうまくなかったが、スペイン語を教えてくれた。まったく何という良い言葉を教えてくれたものだろう。私がスペイン語を知らないものだから。「Quiero darle un beso (キスし(てあげ)たい)というスペイン語を覚えていたら良いよ。」と教えてくれた。さすがにアルゼンチン人である。
ビジネスクラスでありがたかったが、ニューヨークで降りる時に、機内の床には新聞その他のごみが散乱しており、アメリカ人はこんなにだらしがないのかと思ったものだった。
日本からニューヨークへ
ニューヨークでの早技
ニューヨークに着き、そのままトランジットであった。しかし、初めて降りるニューヨークの地、ここが本当にニューヨークなのか信じられない思いで興奮し、一人はしゃいでいた。到着後アメリカではトランジットでも入国しなければならず、税関での入国審査の後、荷物を受け取とった。しかし、トランジットの場合は、荷物を流す専用の場所があり、そこから荷物をベルトコンベアーに乗せても良いのである。我々は一人1個のスーツケースを持っており、チームで合計4個であった。この時は予備調査だったので、調査機材も個人のスーツケースに入るくらいの量だった。
4個のスーツケースを受け取り、トランジット専用の場所でスーツケースを「パラグアイのアスンシオンまで。」と言ってそこで働いていた黒人に渡した。この当時既に海外留学経験があったHさんがいかにも慣れた手つきで、彼にチップを1ドルやろうと思ってポケットから1ドルを取り出し渡そうとした時、もう1ドルがポケットから落ちてしまった。落ちてしまった1ドルはさっとその黒人に拾われ、渡した1ドルとともに黒人には2ドルが入った。「Thank you sir.」とチップの額はたいしたことがないもののその早技に感心した。
リオデジャネイロへ
午後8時半ニューヨークからリオデジャネイロに向けて、バリグ便で飛び立った。ここはエコノミークラスであったが、すいていたので、5席を横にして一人でゆっくりと眠ることができた。ところが大失敗。機内サービスでもらったチョコレートが座席に落ちたのに気がつかず、敷いて寝てしまった。寝ている間にチョコレートが溶けてジャンバーの背中にこびりついてしまった。夜中にトイレに行って気が付き、こびりついた部分だけ水洗いし、だいぶこすってチョコレートを落としたが、十分には取れなかった。翌朝7時20分にリオデジャネイロに着く。
ニューヨーク→リオデジャネイロ→サンパウロ→イグアス→アスンシオン
アスンシオンへ
リオデジャネイロからアスンシオンへは、サンパウロ、イグアス経由であった。リオデジャネイロは午前9時15分発なので、約2時間の待ち時間だ。実際に飛んだのは午前9時50分で、サンパウロに午前10時半に着き、サンパウロ発が午前11時半。午後12時45分にイグアス着。上空からイグアスの滝が良く見えた。午後1時10分イグアス発で、午後2時にアスンシオンに到着した。
日本を出発して約33時間、この間バリグの食事をたらふく食べたが、ゆっくりとは休めず、実に長い旅だと思った。リオデジャネイロに着いた時は、もうすぐだと思ったが、それからの4時間が本当に長かった。サンパウロやイグアスでの機内での待ち時間が特に長く感じた。
アスンシオン空港にての出迎え
空港ではパラグアイ森林局や日本の関係者の方が出迎えてくれた。
しかし、困ったことに4人ともスーツケースが着かなかった。ロストバッゲージである。しかし、聞くと良くあることで、明日は着くだろうとのことだった。仕方がないので、ロストバッゲージの手続きをしてホテルに向かい、翌日は着の身着のままであった。
ロストバッゲージ
困ったことにHさんとOさんの荷物には最近撮影した航空写真の一部が入っており、これが届かないと仕事に支障をきたすことになる。翌日同じ時間に空港に行ったところ団長とOさんの荷物が着き、私とHさんの荷物が着かない。仕方がない。それから毎日同じ時刻に空港に荷物を見に行ったがとうとう着かなかった。空港の荷物置き場も見せてもらったが、他の地域からアスンシオンに着いてしまったスーツケースが大量にあるのにびっくりした。これだけ多くの荷物が必要なところにつかないで迷子になっているとは、世界中で困っている人が沢山いるのだろう。行き先のタグが無くなっているのだ。結局帰国するまで2カ月間スーツケースは着かなく行方不明になってしまった。
2日目に着かなかった時に、すぐに下着やズボン、シャツなどの着物とその他の必要物はアスンシオンの町で買い、結局、何も持ってこなくても過ごせるということはわかった。ただし、愛着があるものがなくなってしまって、金では買えないと思ったものである。
特に残念だったのは、パラグアイの植物は基本的に日本とは違うものの、同じ様な形のものはあり、科名くらいはわかるのではないかと思い、使い込んだ学生版牧野植物図鑑を持って行ったのであるが、無くなってしまってがっかりした。
帰国後、新しいものを買ったが、版を重ねていたので、図がコピーのようでところどころとぎれとぎれになっており、使い物にならなかった。
しかし、当時はコンピュータ、プリンターも無いし、それらの充電機やコード、インクなど付属物も無いし、今よりはるかに荷物が少なく、仕事も紙と鉛筆があれば、なんとかできるという、よりシンプル世界だったから良かったのである。また、この時の仕事は予備調査であり、どのような方法で本格調査を行うかを検討するものであったので、航空写真はOさんのスーツケースに入っていたもので、まにあいことなきを得た。
補償
荷物がなくなったことでバリグ航空と交渉したが、荷物を預けたのがニューヨークで、責任はニューヨークまで乗ってきたパンナム航空にあると責任のがれで埒が明かない。しかし、粘り強く交渉し、最終的にバリグが補償することとなった。
さて、補償額はいくらかという時になった時に、荷物1個につき20Kgで、1Kgあたりいくらということで、中身の値段に比べて、ほんのわずかが補償されただけだった。
つづく