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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.29
緊急避難帰国(最後までトラブル)
ワガドゥグへ
4月28日(木)の朝、ダウダの運転で団長とワガドゥグに向かった。ワガドゥグではSさんと合流し、明日3人で東京に発つ予定である。出発してしばらくするとJICAから団長に電話がかかってきた。
「何ですって?我々が予約している明日のワガドゥグからパリ行きのエールフランスの便がキャンセルされたのですか?ブルキナの治安が悪化しているのでエアフラは運航を中止したのですか。本当ですか?それではもう一回パリまでの便を取りなおさなければならないんですね?我々は昨日便を変更したばかりですが、エアフラが飛ばないのならすぐに別な航空会社の便に変更しなければならないですね。それと我々は明日の4月29日までにブルキナを緊急避難で出国しなければならないということは変更できないのですね。分かりました。でも我々は今、バンフォラからワガドゥグに向かう車の中にいるのですぐに便を変更できないので、この電話の後で、ワガドゥグで働いているSさんに電話して、エアフラから何か別の便への変更を東京の旅行代理店に聞いてもらうことを頼みます。またはっきりしたら連絡します。」ということで電話を切った。
バンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる
そして団長がワガドゥグで働いているSさんに電話し、Sさんが日本の旅行代理店に連絡し、エアフラから別の便でパリに行ける便への変更を頼んだ。Sさんが日本に電話したところ生憎休日で、それも午後5時を過ぎていたので担当者はいなかったが、緊急デスクが働いてくれ、便を見つけることができた。それはワガドゥグからセネガルのダカールに飛び、ダカールからパリに行き、パリから東京へ戻る便だった。ワガドゥグからダカールまではブルキナ航空で、ダカールからパリ経由で成田まではエアフラであった。そして旅行代理店はE-チケットをその日の日本時間の朝9時以降にEメールで我々に送ってくれることになった。それはブルキナでは翌日の午前1時であった。
ボボジュラッソの踏切
ホテル・クルバにて
ホテル・クルバにはSさんと一緒に働いていて苗木案件の団長のNさんも宿泊していた。Nさんも明日緊急避難帰国しなければならない。Nさんはガーナ周りの便が取れたとのことだ。Nさんはこの程度の治安の悪化は全くたいしたことがないといった感想である。
実際に兵士の反乱事件に直接巻き込まれていないからであろう。しかし、長年国際機関で働いていた経験もあり、もっと大変な修羅場をいくつも潜り抜けてきたとのことである。ガーナの首都のアクラは良く知っているので問題ないとのことだった。
私は翌日の午前4時に起きてE-チケットが届いているかEメールを確かめたが、届いていなかった。それでスカイプで東京の旅行代理店に電話し、確かめた。するとワガドゥグからダカール便のE-チケットは発行でき、すぐにそれを送るとのことで、電話の後メールで受け取ることができ、持って来ていた小型のプリンターで印刷した。しかし、ダカールからパリまでの便はすぐに発行できないということだったので、予約番号を聞いた。予約番号があれば大丈夫とのことだった。
結局E-チケットを入手できたのはワガドゥグからダカールまでで、ダカールの空港では予約No.で対応することにした。
ホテルクルバのロビー
パイロットが来ないワガドゥグの空港
ホテルを朝8時に出て、空港に行った。空港までは5分である。飛行機の出発時間は10時である。
空港でのチェックインはスムーズにいった。待合室に入ると緊急避難帰国する日本人専門家が沢山いた。女性達は仲が良い。「あなたはどこへ行くの?セネガルのダカールね。私はガーナのアクラ周りよ。」他にもこの周辺の首都の名前が飛び交っている。
しかし、10時になってもダカール行きの飛行機への搭乗案内はない。セネガル以外の国に脱出する人達は皆出発してしまった。すると予定しているセネガル便のパイロットが来ないので別なパイロットを捜しているとアナウンスがあった。「エッ。何?考えられないなあ。そんなことで大丈夫なんだろうか?ブルキナ航空はパイロットだけでなく機体も大丈夫なのだろうか?」と不安感が浮かぶ。しかし、待っているしかない。12時少し前になり別なパイロットが来たとアナウンスがあり、我々も機内に入ることができた。長い4時間の待時間だった。とうとうワガドゥグを脱出できたのだった。何だってとても不安であわただしい日々だったので、飛び立った瞬間は、ブルキナ航空の飛行機ではあったが、これで治安の悪い場所から逃れられたととても安心感が湧いた。飛び立った飛行機は最初マリの首都バマコに降りた。バマコで降りた客に代わり新たな客が乗ってきた。約1時間駐機していたが、とても暑かった。そしてバマコからセネガルのダカールに向かった。私はセネガルのプロジェクトに約7年ほどかかわっていたので、ダカールの空港は勝手知ったる空港で、ほっとした。ここで7時間ほど待って夜行便でパリに翌日の早朝着いた。ホテルで数時間休みパリから成田へ向かった。そして最初に記したように飛行機は福島上空を避け、航路を南に南下させ、中国・四国地方の上空で日本列島を横断し、成田空港に無事到着した。
私は今回の出発前日の地震からワガドゥグでの兵士の反乱事件などいろいろなダメージを受け相当神経過敏になっていた。成田空港へついたとたんに2か月前の大地震と原発事故の恐怖が思い起こされるのである。そして空港の地下の電車のホームに行く時も恐怖感を感じた。しかし、電車に乗ったら万一地下が崩れても車両がつぶれなければ、それが楯となり瓦礫からは護ってくれるだろうと妙な安心感も湧くのであった。
終わりに
ブルキナ・ファソはこの後政情も落ち着き、半年後にプロジェクトは再開となった。その時のことはまた、機会を改めて述べてみたい。
ブルキナ・ファソでは最近(2015年9月17日)、コンパオレ前大統領の側近がクーデターを起こした。コンパオレ前大統領は、昨年(2014)の抗議デモの激化により27年間続いた長期政権から退陣した。その後カファンド暫定大統領やジダ首相らが政権運営をしていたが、この日大統領警護隊に拘束され、軍が全権を掌握した。しかし、首都ワガドゥグにクーデターを支持しない他の軍部隊が国内各地から集結し、警護隊への圧力が高まり9月23日、カファンド暫定大統領が解放され職務に復帰した。続いて警護隊とクーデター反対派の兵士も衝突回避で合意し、クーデターは失敗に終わった形となった。
この紀行文の最初では2011年3月?4月にかけて起きたクーデター未遂事件を書いたが、西アフリカ全体に不安定な政権が多い。国際協力や民間の事業でこの地域で働いている日本人も多いが、この地域も平和で安定し、皆さん無事で過ごせることを願ってやまない。
さて、ひとまずここでブルキナ・ファソ編は終わり、次回からは、パラグアイで行った仕事について書く予定である。
飲み比べ
9月も終わりが近づき、夜はめっきり涼しくなってきました。
自他ともに認める日本酒党の自分にとっては、これからが美味しく酒を味わえる季節です。
晩酌は夜遅くなった日以外はほぼ毎晩なので、普段飲んでいるのは2リッター1000円以下の紙パックが主ですが、先日ネットでいいものを見つけたので、試しに取り寄せてみました。
今回取り寄せたのは、「新潟の地酒720ml6本飲み比べセット」で、量もあり送料無料の5000円(1本当り900円程度)とかなりお得です。
既に6本全部飲み干してしまいまいしたが、味もそれぞれに違いがあって、なかなか楽しめました。
最近は外で飲むことがほとんどないので、たまにはプチ贅沢で全国の地酒を取り寄せて楽しんでみたいと思っています。
myst
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.28
緊急避難帰国(残務整理)
帰国への算段
プロジェクトの活動は継続しており、私も多くの村で活動状況を見て、プロジェクトの内容をほとんど理解したから、さあこれからというところであった。しかし、2011年4月14、15日とワガドゥグではクーデター未遂事件が起き、それ以後ブルキナの治安は益々悪化していった。16日の晩にはポー(Po)で、17日の晩にはテンコドゴ(Tenkodogo)で兵士による威嚇発砲事件が起きた。
急激な治安の悪化といっても良いような状況になった。よりによって、私は最も治安の悪い時期にブルキナに来てしまったようだ。次に交代で来る予定のK君も日本の外務省が渡航延期勧告を出したので、予定通り来るのが難しくなった。
そして協力隊員には、ついに緊急避難帰国命令が出て、バンフォラにいる隊員達は4月19日(火)にワガドゥグに集合し、すぐに帰国しなければならなくなった。我々は、同じ日本の協力なのに協力隊員だけが緊急避難帰国で、何故専門家は残って仕事を継続しなければならないのか不可解であった。
団長と相談し、このような現状を考えると専門家に対するJICAの緊急避難帰国命令が出るのを待っていては遅すぎる。この治安の悪化状況ではバンフォラでも何があってもおかしくないので予定を早めて帰国する算段をした。我々には3月22日にワガドゥグでの兵士の反乱事件に巻き込まれた後遺症が強く残っていて、2度とあのような恐怖の時間を過ごしたくはなかった。
しかし、我々はJICAと契約しているので、決められている帰国日が来るまでは勝手に帰国することはできない。そこで、早く帰国することによって残ってしまう仕事は、次回治安が回復してから来る時に行うような先送りする対応案を作り、JICA事務所へ提出した。その案では私と団長は5月6日にワガドゥグを発ち、5月8日に日本に到着する案だった。
するとその対応案が認められ、我々はとにかく5月初旬には帰国できることとなった。そして東京の旅行代理店に連絡し、航空便の変更を依頼し、5月6日ワガドゥグ発の便が確保でき、一安心した。
バンフォラの我が家
協力隊の帰国
4月19日(火)村で建設した倉庫の検査に行く前の早朝、ワガドゥグへ戻る協力隊員をバンフォラのバスのターミナルへ見送りに行った。このバスターミナルはラキエタバスのもので、このオーナーがラキエタ・センターを持っていて、そこでシアバター石鹸を製造している。
この周辺の5名程の隊員達が集まっていて、皆と別れの挨拶をする。どちらかというと隊員達は帰国はしたくないようであるが、バンフォラでも兵士の威嚇発砲事件に遭遇しているし、ブルキナ全体で同じ事件が起きるようになってきていては、帰国もやむなしといったところであった。
その中の一人の女性隊員は地元の青年と恋仲になっていたようで、その青年と抱き合ったままぴったりとくっついて離れられない。とても悲しく可哀そうな光景であった。実際このシーンにはびっくりしたが、こうしてオープンにできた人は良いだろう。中にはひっそりと別れた人もいるかもしれない。生物として人間を見れば、遠いところの男女が引きつけ合うのは当たり前のことである。
専門家の帰国
そんなことで協力隊員がいなくなり、事務所からはIさんが消え、急にさみしくなった。我が家にも時々訪ねてくる協力隊員がいなくなってしまったというだけで、幾日も経っていないのに急に寂しさを感じるようになった。
ブルキナでは4月18日に新首相が任命され、軍の参謀総長など指揮官クラスが大幅に交代させられた。しかし、若手兵士の反乱を抑えられず、治安は悪くなる一方である。
すると協力隊よりも約10日遅れではあるが、4月25日(月)の夜になり、JICA事務所から4月29日(金)に緊急避難帰国せよと電話が入った。これは決定であるとのことである。やはりそうなのだ。我々は独自に提案していたが、このような状況では仕事どころではない。
それで再び東京の旅行代理店に連絡し、5月6日ワガドゥグ発に変更した航空券を再々度、4月29日(金)発に変更してもらった。幸い同じルートで席を確保することができた。
バンフォラの我が家の私の部屋
暫定的残務整理
4月26日(火)、27日(水)は事務所と家では暫定的な残務整理を行った。26日(火)に事務所でブルキナ側責任者のキニーに我々が緊急避難帰国することになった事情を話し了解してもらった。しかし、プロジェクトは中断ではなくブルキナ側スタッフだけで継続して運営していく必要があり、それには運営資金が必要であった。プロジェクトが再開されるまでの繋ぎ資金はブルキナ側に立て替えておいてもらいたいところであったが、何しろブルキナ側は彼らが用意すべき予算さえ全て用意できているわけでもなく、プロジェクトが一部を立て替えている状態だったので、繋ぎの立て替えも頼めない状態だった。しかし、立て替えている予算はまもなく降りるということだったので、とりあえず6月一杯までの資金を渡し、その後は立て替えてある予算で運営するとのことで話はついた。
我々はプロジェクト資金の整理や仕事の継続方法などブルキナ側のスタッフとの打ち合わせに忙殺された。
そして家では共通の荷物や自分の荷物の片づけで忙しかった。部屋は台所だけずっとキープし、その他の部屋、居間、バストイレはホテル側が客に貸すために明け渡すことにし、残していく荷物はすべて台所に押し込んだ。
我が家の台所
多くの食材を残していったが、半年後に来たときはほとんどを捨てざるを得なかった
つづく