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10月の駒ヶ岳
10月の駒ヶ岳
目に見える形で秋がやってきました!!
中央アルプスも山頂から一気に紅葉がすすみました。
秋というと、「食欲の秋」 「スポーツの秋」 「読書の秋」 などと言われます。
「食欲の秋」は、
・実りの秋といわれるように、様々な食べ物が収穫を迎える時期である。
・暑い夏が過ぎ涼しくなってきたことで、食欲が増進する。
・寒い冬を前に体に栄養分を蓄えようとする本能的な性質がある。 など
「スポーツの秋」は、
東京オリンピックが1964年(昭和39年)の10月10日から開催され、10月10日を体育の日と制定したことから。
「読書の秋」は、
唐の詩人・韓愈の詩の中で「燈火稍く親しむ可く」という一節があり、
「秋になると涼しくなり、秋の夜長は明かりをつけての読書に適している」ということ意味していたことから。
これらは一説であり、諸説あるようですが・・・・・
他にも 「芸術の秋」 「行楽の秋」 など言いますね。
楽しみ一杯の秋です(^_^)v
[南アルプス]
【森林紀行No.1 14/18】「交通事故」
交通事故
不思議なもので、悪いことは重なるものである。1985年8月12日に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したが、そのニュースを短波ラジオジャパンで聞いた日に、ここでもラゴ・アグリオに帰ったカウンターパートが交通事故を起こし、その日に残っていて仕事に行った別のカウンターパートが指を切ってしまった。これは私にとっても重大な危機管理能力不足だったので日を追って順に述べる。
いつも食べていたコカの町の食堂
カウンターパートとのせめぎあい
1985年8月9日(金)
いつも朝が遅いカウンターパート
この日は、コカから約40km先のゲレイロという名前の人の所有している森林を調査した。
前日の木曜日には「明日は朝7時に出発して午後1時までには仕事を終わらせてから、弁当を食べ、早く帰ろう。」とモリーナ達エクアドルの技術者と作業員は、共々言っていた。何故彼らがそう言うのか、頭が働かなかったのであるが、彼らはラゴ・アグリオに帰りたかったのである。
朝の出発は毎朝7時と決めていたのだが、モリーナは、いつも遅く8時過ぎになってしまうのであった。他のカウンターパートはちゃんとしているのだが、親分のモリーナがいつも遅いのであった。彼は7時には出発すると言いつつどうしても出発できないのであった。我々はいつも7時にMAGの事務所に行っていた。
彼らが木曜日に「明日は必ず朝7時に出発する。」と言うので、8月9日(金)は我々はいつもの通り、朝6時に起き朝食後、7時にコカのMAGの事務所に行きカウンターパートを待っていた。
しかし、彼らが出発準備ができたのは、やはり8時過ぎで、出発したのは8時半であった。
また、この日は一番良く働く、チェンソーマンのパスクワルが来ていないので、どうしたのかと思った。彼は先住民だからだろうか、とても真面目で、いつもは7時には来ていて、チェーンソーの手入れや、他の道具を車に乗せたり、こまごまと働くのであった。彼の息子も作業員として雇っていたので、「パスクワルは今日はどうしたのだ?」と尋ねると「昨日の夜は家に帰ってこなかった。たぶんどこかで飲んだくれて酔い潰れているのだろう。」と言う。パスクワルでもそんなことがあるのかと思う。それも先住民だからだろうかとも思う。仕方がないのでパスクワル無しで昨日と同じゲレイロの山へ入る。
入植者の家
モリーナとのせめぎ合い
モリーナはしきりに仕事は「1時までにしよう。」と言う。しかし、我々は「少なくとも2時までは行う。」と言う。しかし、前日もそうだったが、この日も雨で危険であった。前日の雨は強弱強弱のリズムで降ってきて、全員ずぶ濡れであった。カッパを来ていても中から汗でびしょ濡れである。この日は、山へ入るなり、いきなり雨が降り出し、それほど強くはないが、一定の強さでずっと降っていて、やはりずぶ濡れであった。
2時まで仕事をして、山から出て、ゲレイロの家で昼飯を食べ、4時にMAGの事務所に戻った。モリーナは、「どうしてもラゴ・アグリオに行きたい。」と言う。
私は「だめだ。我々は仕事に来ているので、私的な行動は許されない。それにラゴ・アグリオまでは車で1時間半はかかる、往復すれば3時間もかかる。途中に渡し場もあるので何時間かかるかわからない。コカでの仕事が終わってから帰ることにする。ここで仕事の整理と休養をしてくれ。車での往復は疲れるだけだから。」と言って許可しなかった。
しかし、モリーナは、「大丈夫だ。増井。人生は仕事だけではないよ。我々はキトーに戻るのではなく、ちょっとその先のラゴ・アグリオまで行ってくるだけだ。心配しなさんな。月曜日の朝7時までには帰ってくるから。ウワハッハッ。」と言う。結局彼らを抑えきれず、「仕方がない。それでは月曜の朝7時までには必ず戻ってくるように。」と言ってしまい、彼らの言い分に負けた。モリーナもきちんと理由を説明してくれればよかったのだが、そうは言えなかったのだ。それはモリーナの二号さんとその子供がラゴ・アグリオに来ているからだった。
モリーナとルナとメディナのカウンターパート3人、作業員4人、運転手2名をラゴ・アグリオに帰した。車は我々が借りているトラック1台とMAG本部から提供されているランドクルーザー1台の計2台でラゴ・アグリオに帰った。MAGから借りているブロンコ(アメリカ製の車で6人~7人乗れる)は貸さなかった。
夕方になり、MAGにようやくパスクワルも顔を見せに来たが、やはり酔っぱらっていた。彼も途中までモリーナの車に乗せてもらい自分の家へ帰った。
カウンターパートの中では、アロンソがラゴ・アグリオに帰らずコカに残って、我々と一緒に行動すると言ったので安心した。一番若いアロンソの方が一番年上のモリーナよりもはるかに責任感があった。
1985年8月10日(土)
ナポ川の偵察
この日はアロンソとカスティジョ(コカのMAG職員であるが、給料が安いので我々は作業員として雇い日当を支払った。)と我々と計6人でナポ川をエンジン付きのボートを船頭付きで借り上げ、先に書いたようにプリマベーラまで往復した。
ナポ川を渡るハシケ
最高に楽しかった日
1985年8月11日(日)
楽しかった一日(日エ米仏文化交流)
この日は休みとした。コカのような辺鄙な場所にもアメリカ人の学生で医療関係のボランティアの学生が一人いた。それにフランス人の青年夫婦が探検に来ていて、同じホテルアウカに泊まっていた。午後からは彼らと一緒に日西英仏の4カ国語チャンポンで雑談をしたり、トランプ、特にポーカーなどをして楽しんだ。
我々の中ではY君が190cmほどと背が高く、彼らも背が高かったので背比べをしたが、Y君が一番高かった。
夜は、この汚い町にもディスコがあり、そこに踊りに行った。やはり南米人にはダンスがないと生きていけないのだ。夜になり暗い中で回転するミラーボールの光の中で、とてつもなく汚い場所だがその汚さは見えず、とても高級な場所にいるような錯覚を覚えた。皆で踊って、特にフランス人の若い奥さんは引っ張りだこであった。今回の調査の中では楽しい思い出であった。
事故の前触れ
1985年8月12日(月)
ラジオジャパンで日航機の墜落を聞く
この日はカウンターパートは朝9時までにラゴ・アグリオからコカへ帰ってくることになっていたが、我々はどうせ10時か11時までは帰ってこないだろうし、この日の仕事はハードにはできないだろうと思っていた。
この日はまったくついていなかった。朝6時に久しぶりに聞いたラジオジャパンで、500人以上乗った日航のジャンボ機が墜落したというニュースを流していた。日本では大変なことになっているのではないかと思った。何か不吉な予感が走った。
9時から11時半までMAGでモリーナ達を待つが帰ってこないので、この日から働くことになっているMAGのパトリシオ(職員だが作業員として雇う)のクニャード(義理の弟)の山へ行く。我々4人と残っていたアロンソと作業員3名と運転手とそれにクニャードの父親やそのとりまき計3人が付いてきて、胸高直径1m38cmのチョンチョ(ローカル名)を1本伐る。これくらいの大木を倒すのには2時間以上もかかる。そして測るのにもまた1時間以上かかり、この日はこれ1本しか測定できず、また水曜日か木曜日に来るから頼むと言ってMAGへ帰る。
アロンソが指を切る
帰る途中、ハシケの渡し船を渡ったところで、カウンターパートのアロンソが誰かがサトウキビをむいていたマチェーテ(ナタ)にぶつかって左手の人差し指をかなり深くきってしまった。白い肉が見えたと思ったら血が噴き出してきた。すぐに応急のバンドエイドを貼ってやる。
近くに最近できたばかりの病院があるので、すぐに行こうと言ったのだが、医者に行くのをすごくいやがる。無理に連れて行くとまだ若い医者は指をすぐに洗い、針で縫うと言う。麻酔もかけずにすぐに縫おうとする。たぶん麻酔も無いのであろう。するとアロンソは怖がって逃げてしまった。
捉まえると「あの医者は野蛮だ。麻酔もかけずに縫おうとした。」と言う。「たいしたことないんだから、痛いのを少し我慢すればいいんだよ。」と私が言うが、「あの医者は野蛮だ。」の一点ばりだ。応急の絆創膏をはがしたので、また血がどんどんと流れている。仕方がないので上腕をしばり、またガーゼを巻いて絆創膏で固定してやる。
交通事故とのうわさが流れて来る
さて、5時頃MAGへ帰るとMAGの車が事故を起こしたとのうわさなので、署長が見に行っているとのことだった。我々はモリーナ達カウンターパートは、まだ戻って来ていないと頭に来ていた。MAGの車と言っても沢山あるので、我々の仲間だとは思わなかったし、思いたくなかった。それにまだはっきりしていない。
それからホテルへ6時頃帰る。アロンソはその後ホテルの私の部屋に訪ねて来たので、飲み薬の抗生物質を3日分やり、ガーゼをはずし、クロマイをたっぷり塗りつけ包帯をしてやった。すると3日くらいで治ってしまった。あまり薬のお世話になったことがなかったのだろう。あまりに早く治ったので驚いた。
交通事故
カウンターパートの交通事故だった
夕食を近くの食堂で食べていると借上げ車の運転手が来て、事故は我々の仲間でかなりひどいと言う。午後7時頃で、既に暗かったが、すぐにMAGに行くと事故にあったのは我々がMAGから借りているランドクルーザーだった。署長が別の車でそのランドクルーザーを引っ張ってきて、かなりひどい状態である。フロントガラスは全てなく、横の三角窓も壊れている。車の天井は歪んでひし形になっている。バンバーは付いているが、ところどころへこんで歪んでいる。エンジン部のふたはしまらず、歪みが大きい。タイヤは、パンクはしていないが軸が曲がったのだろう少し傾いでいる。内部の運転席の横に血がついている。
交通事故を起こしたランドクルーザー
署長が行った時には車は道端に捨てられており、もう周りには人は誰もおらず、車だけ引っ張って帰って来たということだった。
口コミの話をまとめると乗っていたのは8人で3人は背骨をやれており、内2人が重体だとのこと。朝10時頃、コカから30kmくらい離れたラゴ・アグリオよりのサンチェスという場所で事故が起きたとのこと。
事故車の前部
事故車のフロントガラス
当時雨が降っており、かなりのスピードでカーブを曲がり切れず、石油のパイプラインにぶつかって一回転したとのことだった。しかし、正確なことはわからない。すぐに電話局へ行くがコカとラゴ・アグリオの間には電話はないという。また、また仕方がない。
署長は明朝キトーへ電話し情報を得るという。口コミでは、事故が起きた近くにテキサコの施設があり、そこに収容され、セスナでキトーに運ぼうとしたらしいが、雨が激しく、運べずにラゴ・アグリオに運んだらしいとのことだった。
明日朝6時にならないと渡し船が動かないので、6時にアロンソ、Y君、運転手の3人をラゴ・アグリオに行かせ情報を得ることにする。私を含めた日本人3人は、残って署長の情報を待つことにした。
中秋の名・
19日は、1年でも最も美しいといわれる「中秋の名月」でした。大きな丸い月が上ってきましたが、写真を撮るタイミングを逃し、9時頃撮った写真ですが、ただの丸い点にしか見えません・・・残念 by NK