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【森林紀行No.1 6/18】「キトーでの仕事」
資金の管理
当時十分な情報が取れなかったこともあり、キトーに事務所を持っていたある商社にも世話になった。到着翌日、エクアドルの事情はさっぱり分からなかったので、早速、銀行口座を開くのを手伝ってもらった。
キトー市内 (1985年、2階バスも走っていた)
銀行口座を作る
キトーにはCiti Bankがあり、Citi Bankですぐに口座を開くことができ、業務費を預けることができた。これで日本から送金もできるようになり、また大量の費用を持ち歩かなくとも良くなった。そして業務費の一部をスクレに換金した。
小切手を作る
数日後、調査地周辺で、作業員らに支払うのも小切手の方が良いのだろうと現地ラゴ・アグリオにも支店がある地元の銀行(Banco Internacional:国際銀行)にも口座を作り小切手の発行を依頼した。
午前中に頼み、その日の午後にできるというので午後取りに行くと小切手ができていて受け取ることができた。当時は気がつかなかったが、今考えると小切手の作成を頼んだその日の内にできるなんていうことは信じられないくらい早い。
というのは2011年にアフリカのブルキナ・ファソの銀行で小切手を作ったが、できるのに2週間程度かかると言われて、実際できるのに2ヵ月近くかかったからである。また、ブルキナ・ファソでインターネット・バンキングをする手続きを開通させるのも数週間かかると言われ、その後何回も催促してようやく3カ月後に開通した経験と比べると四半世紀前のエクアドルの方がアフリカのブルキナ・ファソよりも、銀行の仕事効率は何十倍も良かったということだろう。ブルキナ・ファソもこんな状態でいるのでは、すぐに最貧国から抜け出すのは困難であろう。
それはそれとして、銀行の手続きに関しては、エクアドルは早かったが、その他のことに関しては、こんなに遅いのかと思わされることばかりだった。
現地では作業員などは小切手をもらっても、いちいち銀行に換金に行かなければならず面倒に感じていたようで、現金のほうが好まれた。
領収書
上述のように、銀行口座などを開くのも会計役の仕事であるが、私はこのころから会計役も行うようになった。現地で使用した業務費はすべて領収書が必要である。当たり前ではあるが、団員は誰でも業務費であれば、いかに細かいものでも領収書を取ることを忘れないように気を使う必要があった。私はそれらの領収書を整理保管し、帰国後精算報告書を作ったりもしていた。
不思議なことに、領収書をもらうことなどは日本では無意識に行っていて、何も気疲れなど無いが、外国だとまず当然のことながら日本語でないので、中身は何と書いてあるのか、きちんと書いてあるか、数量と単価はあっているかとか確かめなければならず、数字でも読めないことが多々あり、領収書をくれないこともあり、さらには、そのようなものを書いたことさえないという売り手がいたりするので、領収書一つ取るのにかなり気を使うのだった。そして数ヵ月も滞在すると領収書の数は膨大になるのだった。
準備作業
機材の購入
日本から持ってきた森林調査道具以外に、今回の調査では木を伐倒するので、歯渡り70cmの大きなチェンソーを2台買った。その他細々としたものを購入した。
当時のキトー市内には、今の日本の郊外にある大きなスーパーマーケットのような、セントロ・コメルシアル・エル・ボスケ(Centoro Comercial el Bosque:エル・ボスケ(森林)ショッピングセンター)というのがあり、そこでほとんどものを入手することができた。
IGMで地図など購入
IGMというのはInstituto Geográfico Militar(インスティトゥート・ヘオグラフィココ・ミリタール)といって軍地理院である。ここに航空写真の撮影を委託するのであるが、撮影が予定どおり進まずやきもきさせられるのであるが、その話しは後述する。そこでは各種の地形図、過去に撮影された航空写真、自然関係の資料等を販売しており、それらの資料を大量に購入した。
クリルセン
当時エクアドルにはランドサットの電波受信局があり、IGMの下部組織のCLIRSEN(Centro de Levantamientos Integrados de Recursos Naturales por Sensores Remotos : リモートセンシングによる自然資源総合分析センター)という施設で受信していた。我々はランドサットデータは日本で手に入れていたが、そこでの解析状況なども調査した。
クリルセンの入口
車の購入
調査用の車は、購入された新車が2台調査団に貸与され、調査終了後にエクアドルの森林局に供与されることになっていたが、購入の手続きが間に合わず、開始時点ではレンタカーで行うこととなった。そのため車の借り上げ用の予算がついていた。しかし、車の購入は、調査団がエクアドルで購入するか、あるいは日本から輸入するかを決め、またそれらの手続きについて調べなさいとの指示が出されていた。
調べると当時エクアドルでトヨタのランドクルーザーや三菱のパジェロのような日本製の4輪駆動の車を当時販売している代理店もなく、購入できないことがわかった。
いろいろ調べて、エクアドル国内でトゥローパというジープタイプの車が買えることが分かった。しかし、その車は調査用には小型で、その割に高かった。我々はランドクルーザーのステーションワゴンタイプのようなやや大型でないと多くの人といろいろな機材を乗せられないので調査用にトゥローパを使うの難しかった。トゥローパを購入すれば手続きは、それほど面倒ではなかったが、やはり後の調査のことを考えトヨタのステーションワゴンを日本から輸入することを第一に、その手続きを詳しく調べることにした。
どのような手続きが必要なのかをいくつかの代理店で、詳しく聞き込んでもすぐに理解するのが困難であった。例えば、日本から車を送った場合には、エクアドル側で車を引き出す通関業務は誰が行うのか、MAGに業者を捜させるのか、その費用は誰が持つのか、また、税関から出るまでどれくらいの期間がかかり、保管料は誰が払うのか等々。また、車を引き出す時にどの機関の名義にするのかによっても手続きが違うので、頭を悩ませた。
そして輸入許可書は中央銀行から発行してもらうことが必要で、MAG大臣から企画省、産業省、大蔵省でそれぞれ許可を取った書面が中央銀行まで行くことが必要なことなどがわかってきた。しかし、すぐに対処する時間がなかったので、それは現地での調査が終わってから対処することにした。
郊外の山の中腹ではグライダーやパラグライダーが楽しまれていた
旧市街。先住民の子孫も多かった
カヤンベ山(5,790m)
つづく
萌ゆ
【森林紀行No.1 5/18】「共同作業機関と共同作業技術者など」
共同作業機関(カウンターパート機関)のMAG(農牧省)
我々のカウンターパート機関(共同作業機関)はMAG(Ministerio de Agricultura y Ganadería : 農牧省)の中の一つの局であるDirección Forestal(森林局)であった。
翌日まずMAGへ挨拶と打合せに行った。既に先発隊がいろいろと打合せをしていたので、後発隊は主に、森林局で実際に一緒に仕事をするカウンターパート(共同作業技術者)との顔合わせであった。
この時強く印象に残っているのが、森林管理部長をしていたフアン・サリーナス氏である。(Ing. Juan Salinas ; Ing.はIngeniero。技師という意味だが大卒者への敬称)この仕事が終わるころには、彼は国際関係部長に移っていた。私にはこの方はメスティッソ(スペイン人とインディオの混血)のようには見えず、先住民の顔立ちに見えた。いかにも先住民の顔立ちで、それも威厳のある堂々とした大酋長のような印象を受けた。サリーナス氏は調査地域にはほとんど入らなかったが、キトーで様々に協力してくれた。また、サリーナス氏は住民の反対運動で調査地に入れないときに、調査団は太平洋岸を調査したが、その時には現場を案内してくれた。
左からモリーナ氏、サリーナス氏、ヴィヴァンコ氏
その他、時々現場も来たが、主にキトーでいろいろ情報提供をしてくれた森林経営部の次長のオスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco)、実際に現場に良く来た森林経営課長のオスワルド・マンティージャ(Ing. Oswaldo Mantilla)、それに常時現場で一緒に働いたフアン・モリーナ(Agr. Juan Molina Agrは農業技士への敬称。)に挨拶をした。モリーナは専門学校卒でIng.ではなく、Ing.より地位が低い様な扱いを受けているように感じた。つまり日本以上の学歴社会が存在しているようだった。
共同作業技術者(カウンターパート)
キトーの森林局の本部から、この調査に最も多く参加したのは前述したように最初に挨拶した次の3人で、全員がスペイン系か、わずかにメスティソなのだろうかといったような顔立ちだった。
1.オスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco、共同作業技術者の実質のチーフ)
2.オスワルド・マンティージャ(Ing.Oswaldo Mantilla、ヴィヴァンコの下)
3. ファン・モリーナ(Agr. Juan Molina、現場の責任者)
左からマンティージャ、モリーナ、ヴィヴァンコ
3人の中で最も若いが、最も地位が高かったのがヴィヴァンコで当時40代の前半だった。モリーナが40代半ば、一番の年上がマンティージャで50才前後だったろう。
ヴィヴァンコは非常に頭が良いと感じた。仕事のことに関しては、あらゆることについて、ヴィヴァンコに聞かなければ、はっきりしないのが実情だった。だからMAGの事務所に朝行ったらまずヴィヴァンコを捉まえなければ仕事が始まらないのであった。彼がすべて知っているので、当時MAGには、国際協力で、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツなどの技術者が出入りしており、どのチームもヴィヴァンコ以外は当てにしていない状態だったので、朝ヴィヴァンコを捉まえるのが競争だった。
マンティージャはかなり小柄であったが、アゴ髭をヤギのように生やし、ゆっくりと話をし、とても気の良いおじさんだった。マンティージャがゆっくり話すものだから私にも彼のスペイン語は良くわかった。
マンティージャと私
マンティージャは調査の終わるころに日本に研修に来たのであるが、その時に大層疲弊した。カルチャーショックに耐えられなかったのであろう。大変に残念なことであったが、帰国後まもなく心臓マヒ(と奥さんから聞いた)で亡くなられた。
マンティージャと親しくなってからマンティージャは、「MAGはエレファンテ(象)と呼ばれている。」と私に言った。「どういう意味だ?」と聞くと「大きいばかりで何の役にもたっていない。」と答えた。
最初はそんなものかと思っていたが、実態を知れば知るほど、マンティージャの言う通りだと実感するようになったものだ。MAGの建物は新市街のはずれに位置し、白い十数階の大きな建物で、近隣に大きな建物が少なかったので目立ち、図体ばかり大きいエレファンテといったところだったのだろう。
そして、マンティージャはこう言った。「MAGの職員が働くのは週に1日、水曜日くらいなものだ。」と。一体なぜなのか尋ねると、「土日は、飲んだくれて夜中まで遊ぶのが当たり前だから、月曜日は疲れていて仕事にならない。火曜日もまだ疲れていて似たようなものだ。ようやく疲れのとれた水曜日に働ける。木曜日は週末の遊びを考えるのに忙しい。金曜日はそれでそわそわして仕事ができない。」と言うことであった。まさに実態を現していた。
私がマンティージャやモリーナの部屋で仕事をしていると別の部屋の職員が入ってきておしゃべりを始めるのであった。ひとしきりしゃべっていると別の職員が入ってきて、交代するか一緒になってしゃべっている。誰もこないと彼らが別な部屋に行っておしゃべりをしている。観察しているとだいたい勤務時間の大半がおしゃべりに費やされ、1日が暮れるのであった。
それでも秘書のマリアさんは、おしゃべりに時間を費やすこともなく、真面目に良く働いてくれた。とても陽気な方だった。
MAG森林局の秘書 主婦でもあったSra. マリアさん
ヴィヴァンコはモリーナを馬鹿にしていたように見える。いつもきつい態度で接していた。モリーナはヴィヴァンコに頭が上がらず、いつもヴァイヴァンコに気を使っていた。人間関係の難しさはいずこも同じと感じた。
モリーナは現場の責任者になるのだが、ラテン気質そのもので、私から見れば全てにいい加減のように思え、最初は波長が合わなくていつもイライラさせられていた。しかし、だんだんと彼にしこまれていき、私もモリーナとは良い友人となった。
私はモリーナにいつもこう言われていた。「マスイ。急ぐな。そんなに仕事ばかりやるな。人生は仕事だけじゃあない。イライラしたときのしかめっつらはやめろ。仕事も楽しく行え。楽しく生きろ。最後は全てうまくいく。ウワハッハッ。」と最後はやや甲高い声で大きく笑うのであった。
そして彼らの「明日できることは今日するな。」、「明日は明日の風が吹く。」といった生き方にだんだんと染まっていき、これこそがストレスを感じない生き方だと思うようになったのである。
モリーナと私
MAGでの通訳
このとき、キトーの市内での通訳をしてくれた方は、結婚後キトーに住んでいる方だった。この方は日本の大学のスペイン語科在学中、東京のエクアドル大使館でアルバイトをしていた時に、大使館に勤務していたご主人に捉まり、結婚し、キトーに住むことになったとのことだった。
当時、10歳前後のお子さんがいた。日本の男の子よりもませているようで、お母さんにデートの相談などをしていた。通訳の方のしゃべるスペイン語はとても美しい響きがあり、エクアドル人よりも上手ではないかと思わされた。書いたりすると、実際向こうの人より、はるかに正確だった。
材積表
さて、作成する材積表はS/W(Scope of Work : 調査の枠組み ; 調査の内容を決め、最初に二国間で結ぶ協定書)調査団が概ね打ち合わせていたが、決まったものではなかった。そこで先発隊がエクアドル側と詳しく打ち合わせ、現在調査地域内で伐採利用されていて、かつ大木となる樹種6種とその他の樹種に分けて、2つの材積表を樹皮付きのものと樹皮無しのものと合計4種類のものを作成することとなった。その樹種はエクアドルではチュンチョ(Chuncho)、グアランゴ(Guarango)、イゲロン(Higueron)、グアパ(Guapa)、サンデ(Sande)、サポーテ(Zapote)と呼ばれている樹種だった。これは重要な決定だったので、その経緯を知っているべきで、私はやはり、これらの打合せの時には先発隊でいるべきだったと思った。
どこまでも続くアマゾンの原生林
原生林の上空から
つづく