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麦草峠

ゼンシンの日々

小海町の調査の帰りに、昨日4月18日(木)午前11時に冬期間の通行止めが解除された、茅野市と小海町を結ぶ国道299号(通称メルヘン街道)にある「麦草峠」標高2,127mを通ってきました。

道路の周りは、雪景色で除雪された雪の壁が1.5m位あったかと思います。

おりしも今日19日は、気温も低くすごく寒かったです。歩いていた人も冬支度でした。

夏の避暑や秋の紅葉の時期に訪れて見るのもいいかもしれません。・・・・NK

駒ヶ根の春

ゼンシンの日々

京都から信州駒ヶ根に移住して、5年目に突入しました。

いまだ体が慣れきれない、駒ヶ根名物のひとつである “凍み”

(=しみ、と読みます。信州では冬の朝の挨拶は、「今朝は凍みるね!!」から始めるのが大人のたしなみです。ちなみに、関西圏では高野豆腐と称されていたスポンジみたいな食物が、信州では凍み豆腐と呼ばれています。その他に、凍み大根、凍み餅(別名:氷餅)などがあり、信州人の「凍み」好きは留まることを知らない。)

がやっと終わり、春が猛ダッシュでやって来ました。

この時期は空気が澄んでいて、中央アルプスの山景色は素晴らしいです。


現在、駒ヶ根市内の至るところで、花が見頃となっています。

 

mokoji

 

 


 



 


【森林紀行No.1 3/18】「いざエクアドルへ」

森林紀行

先発隊が出発

第1回目の調査は、エクアドルへは初めて行くことになるので、先発隊が約1週間早く出発し、エクアドルの森林局と調査計画を打合せ、調査用の車両の手配や必要な資機材の調達などの準備作業を行うことになった。先発隊は、団長と団員のY君、それと航空写真の撮影をエクアドルの機関に委託して行うため、その契約と撮影監督のため、UさんとNさんの2人、合計4人が1985年7月1日に出発した。

私は後発隊となったのだが、この調査はすぐに私を中心に動くことになったことを思えば、先発隊で出発すべきだった。というのは、調査の立ち上げ時には、相手国の森林局とお互い見知らぬ同士、相当の緊張感を持って、会議、打合せをする最も重要な時期だったからだ。特に最初の会議で決まったことは後々まで影響するし、それを他のメンバーから伝え聞くだけでは、私自身の理解が十分でなくなる恐れもあったからだ。

最初に相手国と打ちわせる時には、本来、団員全員が出席するべきであると私は思っていたが、準備作業には、それほど多くのメンバーも必要ではあるまいという上司の意見に押されて、私は先発メンバーからはずされてしまった。その時、強く主張すれば私も先発メンバーに入れたが、初めて行く国での調査の立ち上げ時の困難さは、私が南米で最初に調査したパラグアイで経験しており、それに団の中での私の担当は、立木材積表作成の中心的技術者ではなく、補佐的な立場になっていたので、自分が先頭に立って行うというモチベーションが失われ、そのような意思と自覚にも欠けていたのである。

団長とY君が先発隊となったのは、エクアドルのカウンターパート機関(共同作業機関の森林局)への説明や交渉などを団長が行うのは当然のこととして、Y君はスペイン語がかなり上手になっていて団長補佐として適任だったからである。もちろんエクアドル国内で、通訳は雇うことになっていたが、団の中にも言葉ができるメンバーがいることは大きな強みだった。Y君は既にかなり込み入ったことでも通訳をできるくらいのレベルになっていた。それというものY君は青年海外協力隊で中米の国に2年間派遣され、スペイン語の基礎を身につけ、その後、この調査と同じ様なパナマの調査団のメンバーとなり、現地調査の後、何百ページもある報告書の翻訳を翻訳会社から派遣されたスペイン人と二人でかなりの長期にわたり、小部屋に閉じこもって、その作業にあたり、スペイン語の能力を飛躍的に向上させていたからだった。

さて、調査をするうちに、私は段々と先頭に立ち、責任感が増してきた。というのは、本来仕事の責任は団長がすべて取らなければならないはずであるが、団長が調査期間中、常時エクアドルに滞在しているわけではなく、団長の不在中は私が団長の代理をしなければならなかったからである。その結果、この仕事を通じて私が仕事を動かして行くのだという意思と自覚が強くなったのである。

 

後発隊として日本を出発

何はともあれ約1週間遅れて、1985年7月8日(月)に、後発隊として、WさんとI君との3人で日本を出発した。

成田空港17時20分発のJL0062便でロスアンゼルスに、差の関係で同日午前11時5分に着いた。ロスアンゼルスまでは、パラグアイの調査の時に何度も通った道で、もう目新しさは感じなかった。

ロスアンゼルは13時半に出発し、マイアミには21時15分に到着し、ここで一泊した。この間はアメリカの国内線で、パンナムを利用したが、そのサービスの悪さには閉口した。例えばパンを食べるのにも買わなければならず、それが6ドルで、10ドル渡すとおつりをすぐに持ってこないのであった。下りる間際までに何回かの催促をして、ようやく持ってくるありさまであった。催促をしなければ持ってこなかっただろうし、スチュワードはチップとしてごまかそうと思っていたのかも知れない。

マイアミに到着したのは夜で、予約してあったホテルまで空港のタクシーを利用したが、最初のタクシーには乗車拒否にあい、次のタクシーでホテルに向かった。何となく馬鹿にされた気分に陥ったが、1人でいてモンモンとするのではなく、3人で旅行していればストレスも3分の1で、何より安心感がある。

Wさんは人生を楽しむという点では人一倍長けていたから、ホテルに夜遅く着いたのにもかかわらす、バーに飲みに行こうという。一緒に一杯飲んでいるとアメリカに着いたばかりの緊張感が解け、リラックスでき、元気が出てくるのを感じた。リラックスさの重要さを改めて認識した次第である。

翌日7月9日(火)にマイアミを早朝出発し、午後2時にキトーに着いた。エクアドルには5,000m以上の高山が多い。天気が良ければ離着陸時はそれらを見ることができる。エクアドルの最高峰チンボラッソ山(Chimborazo)6,310mとカリウアイラッソ(Carihuairazo)山5,018mとも知らずに撮ったのが次の写真である。この他コトパクシ山(Cotopaxi)5,897m、カヤンベ山(Cayambe)5,790mなど有名なコニーデ型火山があり、赤道直下ににもかかわらず頂上付近には万年雪を抱き、その美しさは富士山に勝るとも劣らない。

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エクアドルの最高峰チンボラッソ(Chimborazo)山(6,310m)とその隣のカリウアイラッソ(Carihuairazo)山(5,018m)。共に火山

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キトー(手前が旧市街、ビル街が新市街)

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旧市街の市場 (1985年)

 

つづく

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