新着情報TOPICS
10月の駒ケ岳
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.8
マングローブ林調査(リゾフォーラ)
マングローブの文献を調査
この地域にはマングローブは6種類あり,そのうち主要なものは,リゾフォーラとアヴィセニアという2種類だった。
村での様々な活動計画を作成する前には,マングローブ林の現状を把握していなければならない。それには当然,マングローブ林の面積や資源量を把握する必要がある。
アヴィセニアについては前に書いたように,資料も少なく,試験植林をして植林方法を確立することにしていた。一方,マングローブ林の大半を占めるリゾフォーラについては,分布面積や資源量は既に調べられているのではないかと思い,まずは文献を集めた。
セネガル国内の森林局や大学,UICN(英語でIUCN:世界自然保護連合)などを調査してみるとどの機関でもマングローブ林の分布や面積を示した資料はあるが,材積を示す,つまり資源量を示す資料はどこにも見つからなかった。
ダカール大学を訪問
調査では,マングローブ林の社会経済的な価値も算出することにしていた。つまり,マングローブ林の木材としての価値や海岸浸食を防止したり,水産資源をかん養したり,生態系を保護したり,二酸化炭素を吸収するといった目に見えない環境保全の価値を貨幣換算して算出することにしていた。
そのため,資源量の資料なども含めて,環境の価値について,どのような考えを持っているかダカール大学の環境保護専門の教授を訪ねて意見交換をした。
教授に馬鹿にされ笑われる
最初にマングローブ林の資源量のデータを尋ねたが,それらのデータはないということが分った。次に,マングローブ林が環境を保護している価値を貨幣換算する研究をしているか,あるいはその様な資料があるかを訪ねたところ,「何?環境の価値を貨幣換算?一体全体目に見えないものを推定できるわけはないだろう。」と一笑に付され,馬鹿にされてしまった。
当時,日本では林野庁では既に森林の持つ水源かん養機能や土砂流出防止機能などを貨幣換算し,推定していた。
この時のダカール大学の教授から受けた印象は,古いタイプの研究者ではないかということだった。つまり,象牙の塔に閉じこもり,自分の権威だけで生きているような人ではないのかなということだった。環境分野を専門とするなら当然フィールドにでて,調査をするものだが,どうもそのような印象は受けなかった。おそらく文献だけで,研究しているのだろう。それに自分が知らないことは,できないと片づけてしまえばそれでその先には進まない。
教授に落胆
まあ,ダカール大学の教授に対してはひどく落胆した思いを思い出す。環境の価値だって貨幣換算ができるし,今はそのためのいろいろな方法が開発されている。そもそも森林では,そこに立っている木の材木の価値は,市場からいくらというはっきりとした価値が換算できる。しかし,立っている木が土壌を守ったり,水や空気を浄化する価値をいくらであると貨幣換算するのは,市場価値がないので換算するのは難しいが,大きな価値があるのである。
例えば土壌を保護するのに治山ダムや砂防ダムの建設費に置き換えて推定もできるだろう。水なら水道料金に置き換えて推定できるかもしれない。マングローブ林の海岸浸食防止機能なら防潮堤を作ったとしたらいくらかかると置き換えることもできるであろう。実際には別な方法で換算したのであるが。
ともかく,森林の環境を保護する価値などはすぐにはわからないから,その価値はただだと思われて開発されてしまうのである。これがいくらであると金銭価値で分ればもっと保護されるだろう。
それはそれとして,マングローブ林の防潮効果,海岸浸食を防止する役目,魚介類を増やし,鳥を増やし,生態系を維持するのにどれだけ貢献しているか,本当に巨大な価値を持っているのである。
ダカール大学の教授と話していて,偉そうにふるまっているだけで,何も知らないのではないかと当時,怒りがこみあげてくるのを感じていた。
マングローブ林を調査する
資源量を示した文献はないことが分った。それじゃあ,自分で調べるしかない。限られた時間の中で,それを能率的に推定できる方法を考え,チーム(日本人調査団員とセネガル森林局職員)で協力し,調査することにした。
専用のボートが手に入る
ちょうどその頃,最初の予備調査が終わった2002年の6月頃ではあるが,我々調査団専用のボートが手に入った。グラスファイバー製で長さ7mである。エンジンは40馬力の船外機である。エンジンは走るときのみ付け,係留時には取り外し,倉庫にしまっておくのである。これが調査におおいに威力を発揮した。
専用のグラスファイバー製ボート。7m
出発前の心配は杞憂
日本を出発前には,私はボートの係留はどこにするのか,係留場所があっても管理費にかなり出費しなければならないのではないかと心配していた。必要なら予算化しておかなければならない。何で心配したかというと,それは日本でのボートの管理には,係留しておくだけで,相当な管理費がかかるからだ。
ところがセネガルに行ってみるとそれは全くの杞憂だった。最終的にはフンジュンのホテルを拠点に動くことになったが,このホテルには,ボートの発着用に50m程度はあるかなり長い桟橋も持っており,何台かのボートも浜に上げ,管理し,エンジン保管用の倉庫も持っているのであった。ボートの管理を頼んだところ,全くのただでしてくれることとなり,ホテルで専用のボート運転手も抱えており,我々専用に雇うこともできたのである。日本のように,狭い土地に集中して管理しているわけではなく,土地もあるので,だいたいが大雑把に物事は進んでいくので,いい面も悪い面もあるが,この時は非常に気が楽になった。
ホテルフンジュンの浜でボート,倉庫でエンジンを保管
ホテルフンジュンの桟橋
マングローブ林の調査
そんなに時間があるわけではないので,標準的な箇所を数10カ所えらび,標本地を設定し,毎木調査をした。これがリゾフォーラの実態を知るのに大いに役立った。リゾフォーラの幹には節があり,1年に一つづつ増え,低木では林齢もわかり,樹高,胸高直径,材積,バイオマス量,成長量まで推定することができた。
ボートでマングローブ林の調査へ
樹高4-5mのマングローブ林
ドロドロの底なし沼
場所によっては,川底が,ドロドロで,一歩入るとずぶずぶと腿まで入り込んでしまう場所もあった。一旦はまってしまうと抜け出すのが大変だった。また,そのようなところは悪臭もして,メタンが発生しているのではないかと思われた。実際にマングローブ林はメタンの生成能力があると推定されているが,その実態はあまり明らかではない。
そうはいっても底なし沼の様な場所を歩くには体重が少なく足の裏が大きいものが,沈み方が少ないので圧倒的に有利である。一緒に行ったセネガルのフンジュンの営林署長は大きく体重は100Kg以上は,あったと思われる。我々が沈まない場所でも,彼だけがズブズブと沈んでしまい,手をかして引き上げることもあり,歩くのに苦労していた。
川底がドロドロで体重が重いとズブズブと沈んでしまう
いつもびしょ濡れになり調査
地下足袋
我々はマングローブ林内を歩くのに日本の地下足袋を持って行ったが,これが非常に重宝した。セネガルの技術者用にも沢山用意し,持ち込んだ。彼らに地下足袋を配ったが,体型が違うので,ぴったり合わせるのが難しかった。というのは,セネガル人は足が長く我々のふくらはぎが彼らのアキレス腱にあたるくらいだったからだ。
平均的にセネガル人は背が高かった。我々と仕事をしていた人の平均身長を180cmとし,我々日本人の平均身長を170cmとすると10cmは背が高かった。実際はもう少し差があったと思う。しかし,彼らが座ると座高は我々より低いくらいで,足の長さとしては,15cmくらい彼らの方が長かった。だから日本人のスネは彼らのアキレス腱くらいで,地下足袋をフックで止める場合,フックの位置を一番狭いところにしてもまだ,ゆるゆるの場合が多かったのだ。それでも彼らもマングローブ林を歩くときの地下足袋の素晴らしさを満喫していた。
大きなマングローブ林を調査
リゾフォーラの樹高は,平均的には4?5mくらいであったが,人為の影響がなく,リゾフォーラが広く分布する海に近い河口などは,水が湧き出ているところもあり,そのようなところには,ジュゴンもいると言われていたが,大きなリゾフォーラがあった。
大きなリゾフォーラは樹高が18mもあり,条件が違うと随分と成長が違うものだと思った。この大きなマングローブのある場所の塩分濃度は,海と同じで3.5%であった。サルーム・デルタでは淡水の流入がないため海水より塩分濃度が薄い場所はないのである。しかし,ジュゴンのいるような場所では湧き水が湧いていて,ひょっとするとその部分だけは塩分濃度が薄かったかも知れない。
樹高の高いマングローブ林を調査。最高樹高は18m
同上
同上
海に落ちる
ある日大きなマングローブを調査している時に,行く時は干潮で,水深は1mくらいだった。ボートでマングローブ林に近づいて,マングローブの足に飛び乗り調査をしていた。かなりの時間を調査して帰るときに,へまをしてマングローブの足の上で自分の足をすべらせ海に落ちてしまったことがある。すると水深が2mほどもあり,全身が海の中にもぐってしまい,少し驚いたことがある。調査をしているうちに潮が満ちてきて水深が深くなったのだ。
歩くリゾフォーラ
また,面白いことにリゾフォーラは歩くことができるのである。歩くといってもせいぜい数mであるが,そんなことも分かった。
普通,鉛筆のような種子が浜や川底に刺さると,それが成長して主要な幹となる。しかし,多数の枝が出てきて,その先に乳首のように黒いポッチがついている枝と何もついてない枝が伸び,何もついてない枝は普通の枝となり,黒いポッチがついているものは下に向かって伸び,それが土に着くと足になり,根となるのである。その根がどうも自分が好む方向,だいたい塩分が薄い方向に向かって伸びて行き,主幹の位置もそれに合わせて変わっていくので,歩くことが分った。
そんなことで,リゾフォーラの調査も無事終わり,マングローブ林の資源量が推定できたのである。それとともにリゾフォーラやサルーム・デルタの実態が分ってきて,調査は非常に役立った。やはり,調査は自ら経験し,体で覚え込むことが大切である。調査対象とするそのものや地域の実態を把握するためには,文献だけで分かるということは本当に分かるということではなく,自ら調査することが絶対に必要なことだと改めて思ったものである。百聞は一見にしかずということである。
リゾフォーラの種子
同上
リゾフォーラの種子の帽子。しばらくすると帽子が落ちる
リゾフォーラの花。ミツバチが集まる
リゾフォーラの花。プロジェクトでも蜂蜜生産活動を取り入れる
つづく
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.7
村での調査
この調査ではサルーム・デルタ内の島と陸側に存在する多くの村,およそ100村くらいを調査した。一般的な社会経済状況はもちろんのこと,村での村民組織や主な生産活動は何かなど,今後のパイロットプロジェクトを行う村を選定したり,そのプロジェクトで行う活動を決めるため,村長などを中心に聞き取り調査をした。
その中では,本当に孤立した村もあった。例えば,この辺りの村での使用言語は主にセレール語かウォルフ語であるが,それさえ通じない村もあり,村の言葉→セレール語→フランス語→日本語と私がインタビューする場合,三人の通訳を通さないと言葉が通じない場合もあった。ただ,セネガル人の同行者が英語ができる場合は,その人だけか,もう一つ,村の言語→セレール語→英語と二人に減る場合もあった。
そんなことも最初は強く印象に残った。それにどの村であっても最初に訪ねた時が一番印象に残るものなので,そのうちのDiogaye(ジョウガイ)村とKour Yoro村(クール・ヨロ)を最初に訪ねた時のことを取り上げてみる。これらの村はパイロットプロジェクトで選んだわけではなかったが,とても印象に残っているからだ。そして今改めてまとめてみると,この仕事で作成した報告書では現れなかった,村人の生の声が聞こえてくるようで私自身が驚いている。また,私自身同じ人生を二度目に歩いているような気がしてならない。
ジョウガイ村
ジョウガイ村を訪問したのは2002年2月9日(土)のことである。トゥバクータでボートを運転手付きで借りた。長さは15m程で,水路を上(北)に登り,幅が2?以上もあるジオンボスというサルーム川の支流に出てから,ジオンボス支流を下り,ジョウガイ村に着いた。トゥバクータから距離にして約20?。ボートは,時速20km程度はでるので,約1時間で島に着く。島に上陸し,しばらくタン(塩分が集積し,植生の侵入が困難な土地)を歩き集落に着く。
サルーム・デルタの中でジョウガイ村の位置
トゥバクータから上流へ向かうボロン(水路)
ジョウガイ村のある島に到着して集落まで歩く
集落に到着
村に到着した後に,村長宅を捜し,村長に挨拶し,調査の目的など説明し,打ち解けたあとで,いろいろと質問した。
村長に質問
私 :村の沿革を教えてくれますか?
村長:この村はバスールの漁民用のキャンプ地だ。(バスールというのは大きな島にある大きな村で,村落共同体(郡のようなもの)の事務所もある。後にパイロットプロジェクトを行う村)
ここでは,ひい爺さんのころから魚を捕ったり貝を採ったりして,このような生活をずっと続けてきた。ひょっとするともっともっと長い間,この様な生活をしてきたのかも知れない。この出先の漁民キャンプで10ヵ月間過ごし、タバスキ(羊犠牲祭)の前後2ヵ月くらいはバスールに帰って過ごす。
私 :それではここの生業は漁業ですね。
村長:そうだ。魚,貝,エビを採っている。
私 :それらは自家用だけでなく,売ったりもするのですか?
村長:そうだ。ここに住んでいる者は少ないからほとんどの魚をソコン(調査地域の陸側の大きな町)に売りに行く。魚介類をソコンに売りに行ったついでに、ソコンから米とかミル(キビ)とかを買ってくる。ここで一番困っているのは水で、ソコンから買ってきている。
(注:この辺りの土地の標高は概ね1m?2mで,川(海水である)の水面よりも少し高いくらいである。後に別な村で,水がでるかと土を掘ってみたことがあるが,海水面よりも深く掘ると水が出て来るが,塩分濃度は低く0.1%くらいであった。しかし,0.1%くらいでも塩分があると,飲めるがとてもまずく,コーヒーを入れてもコーヒーがまずくなる。因みに海水の塩分濃度は3.5%である。掘った場所の周りが海水で,何で塩分濃度が高くないかは不思議であるが,雨水などが溜まる層があるのであろう。調査では塩分濃度をいつも計っていて,精密な塩分濃度測定器を持っていた。調査では‰を使うが,分かり易いように%で示す。)
私 :ソコン以外に売りに行く場所はありますか?
村長:ソコンに売るのは,塩干しした魚だ。鮮魚はアイスボックスに入れ,この辺りでは,ここからジフェールの間くらいに売り,ガンビア(サルームデルタの隣接する隣国)にも売っている。ここで取ったら,そのまま持って行って売る。取れたものは良く売れる。
私 :漁獲高は変化していますか?
村長:昔は,魚が多かったが、今は少なくなった。以前は村の入り口のボロン(水路)でよく取れたが、今は取れなくなった。
私 :マングローブ林が多いと魚が取れ,マングローブ林が少ないと魚が取れないという関係がありますか?
村長:漁獲高とマングローブ林との関係があるとは思わない。マングローブ林は増えていると思うが、漁獲高はむしろ落ちている。
私 :それではマングローブ林の状況はどうなのか教えて下さい。
村長:マングローブ林は,干ばつがあった時に減った。ここ6年間は雨量が増えているので、ボロンの水量も増え、マングローブ林も増えてきた。ここからみて川には中洲があるが段々と狭くなってきている。私が小さかった時は中州はもっと広かったのだ。それでマングローブ林が増えてこちら陸側に押し寄せてきているのだ。
私 :中州が小さくなって来ているから水量は増えてきていると思いますが,水量が増えたことによる影響が,村にありますか?
村長:村の土地の位置だが,昔は大潮でも浸からなかったが、今は大潮のときは水に浸かる様になった。
私 :それは困りましたね。住居には影響があるのですか?
村長:住居まで水に浸ることはないが,以前水田があった場所が水に浸かるようになり稲作ができなくなった。
私 :このあたりに見えるのはリゾフォーラですが,アヴィセニアもありましたか?
村長:アヴィセニアは昔もっとあったが,最近はリゾフォーラが増えた。
私 :マングローブの材は何に利用していますか?
村長:家の柱や屋根の梁だ。その他枯れ木を薪で使っている。アヴィセニアの根は魚網直しの道具として使っている。リゾフォーラの幹を伐ると横に枝が張り出し、途中からそれがまた上に伸び幹のようになる。こういう幹は使い勝手が悪い。
私 :村の人口はどれくらいですか?
村長:だいたい60人くらいだ。老若男女全部合わせてだ。家族は10家族くらいだ。もう少し多いかもしれない。人口は,ここ最近変化していない。
私 :子供達の教育はどうしているのですか?
村長:コーランの学校があり,そこで教えている。といっても学校の建物があるわけではない。家の外や軒下などで教えている。先生はジャンバンという村から来る。
この様な感じで質問していき,村を見せてもらい,このジオンボスの大きな水路は塩分濃度3.7%であり,マングローブは天然性のものが多くあり,この村には植林する場所もないということが分って来た。
ジョウガイ村の子供達
ボラを日干しにしている
クール・ヨロ村
クール・ヨロ村を訪ねたのは2002年2月20日(水)のことである。クール・ヨロはフンジュンから約20kmほど東に位置している。村の北側にサルーム川が流れており,その上流には大きな町カオラックがある。この日は,フンジュンを拠点に活動し,この後我々の活動を委託するNGOのWAAME(West African Association for Marine Environment)の技術者も同行していた。
クール・ヨロ村の位置。フンジュンから東に約20?。サルーム川の支流に面している。
インタビュー
村につき,村長のIsmaela Saw さんと村の技師と称したSeydou Ndiayeにインタビューした。マングローブや村落林について聞いたので,答えたのはほとんどSeydouさんだった。
私 :川沿いにリゾフォーラの植林がわずかにみられるが,いつ植林したのでしょうか?
村人:2000年に0.5ha,2001年に2.0ha植えた。
私 :このあたりは塩分濃度が高く(6?7%くらいだった)リゾフォーラもようやく生きながらえている程度に見えますが,活着率はどの程度ですか?また,リゾフォーラ以外の種類も天然にありますか?
村人:最初に天然のマングローブだが,コノカルプス(マングローブの1種。非常に少ない。塩分にはアヴィセニアよりも強いと言われている)がわずかにだがある。大潮のときにしか海水がこない場所にある。もう一つの種類のラグンクラリアはフンジュンからこのあたりにはない。
リゾフォーラの植林木の活着率だが,川が巻いていて島状になったところでは活着率は,90%くらいある。しかし,樹高はたったの50cmくらいまでしか成長しない。こちら側の川沿いに植林した場所では全滅した。植林したのは砂地だったが,砂地はどこもだめである。
その後,ずっと観察を続けていると,リゾフォーラもアヴィセニアも生育できるのは塩分濃度では6%くらいまでだとわかってきた。6%くらいが限界だとほぼフンジュンくらいまでは生育が可能でそれより上流での植林は難しいことがわかってきた。
塩分濃度が高く,リゾフォーラの植林はほとんど失敗。
白く点々と見えるのはフラミンゴ
村落林
その後,村落林を見に行った。村落林にはユーカリが植えられていた。植えられていたユーカリは,かなりが活着していて,このように塩分濃度が高い土地にもかかわらず,素晴らしくうまく植林できたと思えた。この土地はタンであるが,タンに植えても活着しているのである。植林前はタンで,草もなかったといっているが,今では,ユーカリの周りにも草が生えているのである。植林地を有刺鉄線で囲い、1区画を200m×1Kmで区切り全部で10区画ある。よく管理されている。ほとんどがユーカリであるが、良く見るとメラリュウカとアカシア・オロもある。樹高は8?10m,胸高直径は5?10cmくらいである。メラリュウカの見た目はユーカリと似ており,同じフトモモ科でオーストラリア原産,実際そっくりな樹種である。
WAAMEの技術者の話
ここで同行したWAAMEの技術者がタンには2種類あり、1.タンビフ(草も何も生えていないところ)と2.タンエルヴェ(草が生えているところ)と教えてくれた。また,ユーカリはカマドゥルレンシスで,ユーカリよりメラリュウカの方が塩分に強いとのことである。
以下,村長と村人の話
植林地→この土地に植林したのは,不毛のタンの土地を活用したかったからだ。ユーカリを植える前はわずかに草が生えているような土地であったが,このタンビフにもタンエルヴェにも植えた。土地は10区画に分けて植林した。
川は潮汐により干満差があるので,現在も水位計が埋めてあり水位を計測している。植林したのは1992年(この時2002年だから植林後10年である)で,2年間で10ha植えた。植林間隔は4m×5mで最初は75%が活着した。今は65%が活着している。何でわかるかといえば毎年数えているからだ。当初,25%は補植したが,現在は捕植しなくても大丈夫なので捕植はしていない。
援助→最初の年はOSDILというNGOが援助してくれ,2年目はCRAEDというNGOが援助してくれた。OSDILは内部で揉め事があり、分裂し、それでCRAEDが新しくできたのである。OSDILはAfrican Found Development(アフリカ開発基金)が基となって作られた。
OSDILは最初この周辺の13村を対象にユーカリ植林を募ったが、住民参加により植林をするので,住民の合意ができない村が多く、参加したのはこのYORO村とKeur Renam (=Keur Djindak)村の2つだけだった。
有刺鉄線はOSDILが専門家をつれてきて張った。
住民の参加→Yoro村では,子供も含めて住民の全員が植林に参加した。毎週,月曜日と木曜日に子供も参加し,植林した。Keur Rnam村は参加者が限られていたようである。
植林方法→最初に苗畑で苗木を作った。ポットに種を蒔いたものと、播種床に蒔き発芽したものをポットに移植したものと両方を作った。両方ともうまくいった。淡水がないので、女性達が隣村の井戸で水をもらい運んだ。植林は1992年7月12日から9月9日まで行い,50人で800本?1,000本/日を植えた。土が固くて、雨期でもつるはしを使って植えた。
植林後の影響→土壌が改良された。植林地の前(浜側)も後ろ(陸側)も土壌が良くなった。以前は水を得るのが難しかったが、今では井戸を2mも掘れば水が得られるようになった。
伐採→昨年始めて伐採した。伐採木は棒材にして村内、周辺の村に売った。売上金はわずかではあるが、銀行に預け、村で何かのために資金が必要になるまで下ろさず溜め続ける。
今後→ユーカリは萌芽をするので,森林局から援助される苗木には頼らない。植林を増やすときは自前で苗畑を作る。(この時,私はなぜ森林局に頼らないかよくはわからなかったが,村長は自立をなぜかこだわった。役所を信用していないような雰囲気だった。)
村の組織→森林管理委員会(Comite de gestion)がある。植林地の監視は,有刺鉄線の管理で15人の男性が行っている。(後の私の観察では,人や家畜の影響を避ければ,かなり早く森林の様相を呈するようになる。)
村落林の拡張→財政支援があればもちろん拡張したい。
ユーカリの薪→ほとんどとらない。時期を決めていて,その時だけ女性が枯れ木を取る。
整然と植林されたユーカリ
植林地は有刺鉄線で囲い保護
白い土からタンの土地に植林されたことがわかる
再びマングローブの話
マングローブの状態→今ここでは全くマングローブが見られなくなってしまったが,以前は水面にもぎっしりとマングローブがあった。集落から川まで達するにはマングローブを伐って通路を作らなければ行けないほどだったが,今はまったくなくなってしまった。
今のユーカリの村落林の半分くらいまではマングローブだった。(およそ200m?300mくらいの幅)タンの一部はマングローブが生えていたしタンにも草が生えていた。
(川の塩分濃度がこのあたりは,この時点では6?7%であったが,その昔は4?5%程度ではなかったかと想像される。ということは上流から淡水の流入があったか,あるいは雨量がもっとあり,塩分濃度が今より薄かったということである。こういう話を聞くと自然の気候の変遷の不思議さを感じる。)
干ばつ→1966年から始まった。1973年くらいからマングローブが激減した。この村の上流の町カオラックの方から徐々になくなり、1980年頃からほとんどなくなった。Rhizophoraは完全に消え,Avicenniaが少し残った。回復傾向はまったくみられない。(観察したところでは砂地では回復は無理)
砂地→川沿いは,昔は砂地ではなかった。粘土質であった。以前はマングローブが沢山あり、砂が流れてくることはなかったが、砂が堆積し、川が浅くなった。カオラックの方から流れてくる。それから最下流のサンゴマールが決壊して,その後それまでみられなかった魚がみられるようになった。
マングローブの利用→昔は棒材の材料として良く利用したが今はできない。また,マングローブの足にはカキが良く着くので,カキを採りよく食べた。今の若者はカキの味を知らない。
マングローブ植林の動機→年寄りから以前はマングローブが沢山あり、マングローブがあると魚も多くカキもあり良かったという話を聞いたので,実際そうだと思い、マングローブ植林を始めたのであるが,うまく育たない。
このような調子で100以上もの村を調査したのであった。
つづく