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【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.4
ボートで島巡り
何事も最初に経験したことは印象に残る。同じ場所を何度も訪問したとしても最初の訪問が一番印象に残ることが多いので,最初に調査したことについて,しばらく記していくことにする。
貝殻島へ向かう(2002年1月19日(土))
トゥバクータは,調査地域の中でも南西に位置し,サルーム川を下ると大西洋までは20?くらいに位置する町である。ここでボートを借りて上流へ,つまり北に向かってサルーム川を遡って行った。
出発前のトゥバクータの桟橋
しばらく遡るとトゥバクータよりも大きな町のソコンあたりに出る。この周辺のマングローブはリゾフォーラという種類で,平均的な樹高は4?5?である。ワシ類やペリカンを見ることができる。大型の鳥類を見ると何故かワクワクする。川幅は数百?だ。
トゥバクータからソコンへ。川沿いのマングローブ林と村
左がペリカンで右は猛禽類
貝殻島に上陸
しばらくして最初の目的地,貝殻島に着いた。貝殻島はまるで貝塚でできているかのようで,貝殻だらけなので,貝殻島と名づけられた。貝殻が多いところは,バオバブが多いように見えた。バオバブは,石灰質を好むので貝殻島は,特にバオバブの適地とのことである。バオバブの樹高は15mくらいで,手前のリゾフォーラは2?3?程度である。ここに捨てられている貝は,主にサルボウガイという二枚貝の仲間である。後に我々もサルボウガイ販売の加工技術の改良を行うことになるのである。貝塚の貝殻は,5m以上も積もっているように見える。厚い場所では10?以上はあるかもしれない。波に洗われている貝塚を掘ってみると土器が出る。当然人が生活していたのだ。何千年も前のものだったら大変価値があるなと思い,その後,調べてみると1400年代のものと推定されていた。しかし,それ以前から人間は住んでいたのだろう。
貝殻島
キャンプをしているフランス人達に出会う
この島に上陸して,人に出会うとは思わなかったが,キャンプ生活をしているフランス人達に出会った。先生数人と生徒10数人,あるいはもっといたかもしれない人達が,しばらくの間,この島で過ごしているとのことだった。フランスから船でアフリカに来て,各地でキャンプをしながら1年ほど過ごし,フランスへ帰るとのことである。問題のある生徒を連れていて,彼らの社会復帰への更正教育とのことだった。おそらくこのような自然,野性的な生活をしていれば,すさんだ心も清らかになり,更生するのではないかと思った。さすがフランスは発想が違うなあと感心させられた。
この時持っていたGPSで,この位置を測ると北緯13°50′062,西経16°29′851だった。バオバブの実がジュースになることはこの時知り,飲むと甘酸っぱくとてもおいしいものだった。マングローブは島の縁のみに茂っていて,内陸はバオバブが優占する森林となっていた。
外洋の鳥島
貝殻島からまたトゥバクータ方面に戻り,次は外洋の鳥島に向かう。鳥が沢山いるので鳥島だ。日本でもアホウドリ(名前が良くないので「オキノタユウ」と最近では呼ばれる)のいる鳥島があるが,ここの鳥島は渡り鳥のための島だ。
トゥバクータ周辺では,リゾフォーラの大きいものは10?以上の樹高があるが,外洋に近づくに従って樹高は低くなり,1?3?くらいとなる。さらに外洋沿いの海岸にはマングローブは見られない。これは外洋では波が荒くて,マングローブの種子も波にさらわれてしまうからであろう。
トゥバクータからやや南に下ったシポという村のあたりで
漁をしている人々を見る
鳥島に上陸
サルーム川を下っている時は,波はとても静かで,ボートが早く走っているので揺れはあまり感じなかった。しかし,外洋に出たとたん,波が高くて,激しい揺れでびしょ濡れになる。暑いので濡れはあまり気にならない。それよりもボートが転覆しそうで怖かった。
ボートは揺れにも耐えて,何とか鳥島に上陸する。鳥島には誰も住んでいない。というか小さな島で高潮などの時は沈み込んで,人は住めないのであろう。しかしリゾフォーラの種子は,鉛筆のように細長く,この種子は鳥島にも沢山流れ着き,天然更新し,樹高は1m以下ではあるが,ところどころに固まって生えている。
鳥島は渡り鳥が休む島で,渡ってくる鳥の種類は繁殖期により異なるとのことだが,概ね,産卵期は2月の終わりから10月までで,その時は,人は上陸しても産卵場所に入るのは禁止とのことだ。卵は主として3月に産む種類が多いとのこと。鳥は巣を高い位置に作るというが,高いマングローブ林がないので比較的に高いところ,と言っても1?2?程度の高さではあるが,そこに作るのだろう。
外洋(大西洋)は波が高く,小さなボートで来るのは危険
鳥島に上陸
鳥島に生えていたリゾフォーラを観察。
細長いのは種子で,周りから流れつく。うまく砂に刺されば発芽する
比較的,波が静かな場所で天然更新する
ベタンティ島へ上陸
鳥島の近くには牛島という名の島もある。ベタンティ村の住民が牛を放しに来るとのことだ。鳥島からベタンティ島に渡った。ベタンティ島は大きな島で,この島には沢山の村があるが,ベタンティ村が代表して島の名前となっている。
ベタンティ島に上陸前
上陸すると子供達が沢山寄ってきて,「ドネモワカドー(お土産ちょうだい)」と人懐っこい。このときは,私は「ドネモワカドー」の意味が解らなかったから,ただ人懐っこくて親しみやすいなと思っていた。しかし,しばらくして,その意味が解るようになると,とても親しみやすかったものが,戦後の日本の「ギヴミーチョコレート」のようで,興ざめしてしまった。実際,小学校時代の私や友人はアメリカ兵に「ギヴミーチョコレート」とやって「そんなはしたないことをするものではない。」と先生に叱られたものである。村内には,伐ったマングローブの薪の塊が,沢山積んである。ココヤシも沢山生えている。
ベタンティの村に上陸
村の有力者へ聞き込み
この村で,マングローブの管理をしている人の話を聞いた。聞き込みをするときは,最初は村長にするが,村長が不在だったからだ。村には浜委員会というものがあり,マングローブの管理をしているとのことで,浜委員会のメンバーは12人で,マングローブの伐採の監視と村の衛生状態を保つ活動を行っているとのことだった。また,この辺りはウミガメやマナティも現れるので,それらを捕獲しようとするものの監視も行っているとのことである。村人全員の行動の監視は,村長の役割でもあるとのことだった。
住民の生業は漁業と農業と半々で,漁業では,まき網,流し網をしているとのことだ。マングローブは伐採しなくなったが,自家消費はOKで伐採しているといったところ,森林局の職員が何人も同席していることに,その人が気づき,態度が急変し,マングローブは伐採禁止なので一切伐採はしておらず,枯れ木のみを取っていると言い換えた。森林局の職員は警察権もあるようで,一般住民には怖い存在で,急に慎重な言葉づかいになった。
マングローブ林は,島の奥にあり,そこでは10??15?くらいの樹高があり,その中の枯れ木のみを伐採して利用していると言い換えたが,伐採しているマングローブを見れば生木を伐っていることは明らかだった。しかし,役人は怖い存在なので,「私は法律を守っていますよ。」という形で言ったのだった。マングローブは時々,ガンビアにも売りにいくとのことだった。ガンビアはセネガルの中に口のような形で入り込んだ面白い形の国だ。リゾフォーラの植林は,鳥島で2001年9月に10ha行い,十分に成熟した種子を使ったので活着率は良かったとのことなどがわかった。
インタビューするときは,村の誰かと親しくなるとその人を中心に聴きこんでいくことが多いが,それでときどき失敗をすることがある。村の状況の全体をつかんでいるつもりでも,村の中に対立するグループなどがあると,その勢力関係により活動計画などを作った時にひっくり返ることがある。また,親しくなった人は村人から信頼があるのだろうなと思っていると,住民総会などで,村人から総すかんを食う場合もあるので,かなり長い期間村で観察しないと人間同士の力関係はなかなか分からない。また,利益が偏ったり,不満を持つ村人が表れたり,公平に援助するのは本当に難しいものだ。また,上述したように役所の人が同席すると圧迫感を住民が感じる場合があるので,普通の服装をしたり,リラックスして本音を聞けるような配慮がないと,聴き込んだ意見は偏っている場合がある。
船が座礁
ベタンティからトゥバクータへ帰る途中,潮が引いてきて,海が遠浅のため途中で砂に乗り上げてしまった。皆で船を下りて海の中に入り,水深が多少深い所まで,船を押した。全身びしょ濡れである。帰りの船の中では,風が強いので着ているものはすぐに乾いたが,熱帯とは言え,体は冷えた。上体には,ライフジャケットを付けていたので,ライフジャケットが防寒着として非常に役立った。
トゥバクータのホテルに戻る
トゥバクータのホテルに戻るとヨーロッパからの客が釣り上げたバラクーダ(オニカマス)が吊り下げられていた。1m以上もある巨大なオニカマスだ。これを見てもマングローブ林がある川の栄養が豊かなことが良く分かる。
釣り目当ての観光客が釣り上げたバラクーダ(オニカマス)
トゥバクータのホテルにて
カヤックの候補地を見に行く
仕事ではエコツーリズムも行うことになっているので,村に滞在した人がカヤックでマングローブ林を観察しながら楽しむという活動も計画に入れていた。そこで,一旦ホテルに帰ったもののもう一度,夕方になりカヤックに適した場所を見に行った。朝行った貝殻島付近まで来て,その前の小さなボロン(水路)に入る。まったく波だっていない静かなボロンだった。サギ類が沢山みられるとのことだったが,この日は,あいにく鳥はほとんど見られなかった。少し時間が遅かったのだ。しかし,あまりに静かな水路で,この辺でのカヤックによる観光は良いのではないだろうかと一つの候補地に上げておいた。
リゾフォーラの足に付いた沢山のカキ。
干潮になり,リゾフォーラの足がでてくる
全く波がない静かな水路でカヤックの適地を捜す
つづく
収穫
歴代第3位となった長寿台風もようやく過ぎ去りました。
ノロノロと長く居座ったため、各地で大雨や暴風での影響があったそうです。
幸いにもこの辺りは大きな被害はなかったと思うのですが、何だか最近は、
雨が降れば【大雨】に、風が吹けば【暴風】に、と色々が極端な気がします。
自然のことなので、どうにも仕方ないのですが、なかなかうまくいきませんね。
・・・そして・・・
我が家のジャガイモも、今年は極端に【ビッグサイズ】です。
この前の日曜日に収穫したのですが、この大きさでした!
このバケツ、おもちゃではありません。どこのご家庭にもあると思われる
昔ながらの普通サイズの金バケツです。
大した量じゃないだろうし、バケツで何回か往復して畑から運びましょう・・・
と始めましたが、芋が大きくて数個入れるとすぐ一杯に・・・何往復したのか、
もう汗だくで、クタクタで、ヘロヘロで、ボロボロでした ( ̄▽ ̄;) ← (ちょっと大袈裟)
N.A (^^)V
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.3
調査地域周辺の概況
ダカールでの宿泊地
ダカールでは最初,市内の中心にある有名な名前のホテルに泊まっていた。ホテルの値段は高級だったが,何となく小汚く,設備も良いものではなかった。
しばらくしてから,砂丘での植林のプロジェクトを行っている者が宿泊しているキッチン付のアパート形式のホテルの方が,仕事がしやすいとわかった。当時の電話回線によるインターネットの接続の具合は良かったし,部屋は清潔で広く,メンバー全員が集まっての仕事もやりやすかったので,そのホテルをダカールでの仕事の基地とした。
ホテルの入り口ではきちんとチェックされ,治安上も安全性が高かった。アパート形式であるので,食事は外食か作るかだったが,スーパーマーケットも近くにあった。値段は高級ホテルと変わらなかったが,仕事優先でそのホテルを,その後ずっと基地として使った。
ダカールのアパート形式のホテル
ホテルの周辺では喧噪としていて,埃っぽく,夜になると薄暗く,実際にポリ袋のゴミが舞っている汚い場所も多々あった。その点,ホテルは清潔で,部屋はキッチンと寝室と分かれていて,居心地が良く,仕事がしやすく別天地であった。
こんなことがあった。ホテルでは沢山のメイドさんが,掃除などで働いていた。メイドさんといえば,中年くらいの方が多いのかなと思っていたが,良く見ると若い方が多いのである。廊下で掃除しているメイドさんにすれ違った時に,「このホテルはとてもきれいだね。」と言うつもりで,「ボンジュール。セ・トレ・ジョリ(これはきれいですね。)」とホテルを抜かして言ってしまったところ,「えっ。私がきれいですって。」「ウィ,ウィ,あなたはとても美しいですね。」「ありがとう。私いつも皆からとてもきれいって言われているのよ。うれしい!」
若い娘さんが皆から美しいと言われる言葉を待っているのは世界共通である。
森林局の位置
森林局はホテルから車で渋滞がなければ15分くらいで行ける位置にあり,半島の付け根の方向にあった。土日は車がそれほどでもなくスムーズに行けたが,平日はいつも渋滞が激しかった。それも調査が始まった頃はまだましだった。その後調査の終了する数年後には,渋滞は益々激しくなった。渋滞に巻き込まれると森林局まで少なくとも30分,時には1時間もかかることがあった。
森林局のメンバー
調査中は,日本とセネガル間を何回も往復した。ダカールに着いた時には,森林局の本局で,その都度,調査の進捗状況やその後の調査の方向など,何らかの会議を行った。いつでも局長か局長代理には報告をした。
調査開始の最初の会議では,調査の全体計画について説明し,セネガル森林局の幹部や関係者と会議を行った。
事前に全体計画を説明した報告書を送っていたので,非常に詳しく中身を読んでいる職員もおり,突っ込んだ質問をしてきて,感心した。失礼ながらその方は,体も大きく,声も大きく,表情は厳しく見え,実際はやさしい方ではあったが,怒られているような印象を受けた。私はまだフランス語が良くわからなかったが,通訳を通すと,普通にしゃべっており,もっともなことを言っているのであった。
森林局の職員では,日本のプロジェクトに以前から関わっていた方が,セネガル側の責任者として,この仕事を動かしてくれることになっており,良くやってくれた。すぐ後に,この方に代わって責任者となる方も最初から中心的に動いてくれた。二人ともとても協力的だった。
セネガル森林局での最初の会議。調査の全体計画を説明
最初の現地
調査地域を掲げると次の地図のとおりで,プティット・コート(小さい海岸という意味)からサルーム・デルタまで相当に広い地域で,最初に現地に向かったときはダカールから南に下り,ティエス州のムブール県あたりから海岸線を観察しながら,途中のホテルで泊まりながら徐々にサルーム・デルタに近づいて行った。
ダカールからファティックへ
ダカールからファティックまでの道は,海岸線を行く道路とやや内陸側の大きな町,ティエスを通り行く国道があった。どちらも舗装され,良く整備されていて,車は,かなりのスピードを出すことができた。交通事故には十分に気を付けなければならず,運転手にはいつも口を酸っぱくし,スピードを出し過ぎるなと注意していた。
ダカールを出たあたりの国道にて
ダカールからティエスに向かう途中。
タバスキ(断食明けの犠牲祭)の時期には羊が売り買いされる
ダカールからファッティックへ
調査地域
調査地域内の主な町
調査地内には,活動の拠点となる大きな町が,東にカオラック,北にファティック,南西にトゥバクータ,北西にムブール,中心付近にフンジュンがあった。
主な町はカオラック,ファティック,フンジュン,ソコン,ソコンの南にトゥバクータがある
一番大きな町はカオラックで,町は縦横に道路が広がっていて,人口は2000年には17万人ほどだった。ムブールもほぼ同じくらいの規模だったが,マングローブ林が広がっているというわけではなかったので,活動の対象からは,はずした。
ファティックは2万5千人程度,フンジュンが5千人程度,トゥバクータが千人程度の町だった。
活動拠点をどこに置くか
ざっとした計画の流れでは,1年目は,全体のマングローブ林を持続的に管理する全体計画を作成し,住民の生活向上に役立つ活動を幾つか計画し,実際にその活動を始め,その後ほぼ2年間その活動を行うことだった。そのため最初に行ったときは,活動の拠点をどこに置くか,いろいろと現地調査をしなければならなかった。
ファティックの営林局
森林局の拠点としてはファティックに営林局があり,ここには職員が20人ほどおり,この管内の各地区に営林署があり,そこには署長が一人と,若干の助手がいる場合があった。
最初にファティックの営林局に着いた時は,とても暑いと感じた。ファティックの営林局の空いている部屋を活動の拠点にしても良いとのことをセネガルの森林局本局から言われていたし,ファティックの営林局長も提供する意向を持っていた。
しかし,ファティックはとても暑く,クーラーは設置されてなく,部屋も狭く,机や書棚も用意されておらず,すぐに事務所として使うのは難しいので,他の場所をいろいろ見てから決めることとした。
ファティックの営林局の看板
ファティック営林局の事務所。この右側の空き室が
プロジェクトの事務所として提供されるはずだった
ファティック営林局の幹部。右の方が当時の営林局長
このファティックの営林局の局長は,とても親分肌で,この後もこの営林局によれば必ず食事をして行けと,引き留められた。特に覚えているのはマフェと言って,ピーナツバターをペーストにしてシチューにしたもので,食べるとあとで腹がパンパンに膨らんでくるのであった。
ファティックの営林局長の家のガスコンロ。これで料理
ファティックからフンジュンへ
ファティックからフンジュンの手前の川の渡しまでは車で30分ほどであるが,道が悪くガタガタであった。当時一旦は舗装されていたが,その舗装に穴が開き,段々と広がり既に舗装の後は見えないほどに傷んでいた。
ファティックからフンジュンへ
白い土はタンと呼ばれ,マングローブ地帯に広がる。塩分が集積し,植生の侵入は困難
この状態はフンジュンから東の方面に向かって行き,カオラックから南に下る国道とぶつかるパッシという町までも同様だった。舗装がはがれひどい状態である。むしろ舗装がなく土がむき出しの道路の方が走りやすい状態だったので,運転手は舗装が完全にはがれた土のみの所を選んでくねくねと走るのだった。それで私は車酔い気味になるのだった。
フンジュンの渡し場
ファティックからフンジュンに向かって行くとフンジュンの手前でサルーム川を渡らなければならず,ここにはしけがあり,車を10台ほど渡せるのであったが,いつも待っている車をうまく船上に収めるのだった。
最後の渡しの時間が午後6時だったので,その時間に間に合うよう,時間が迫っている時はいつもひやひやものだった。
この渡しは乗っている時間は10分?15分ほどだったが,車を乗せたりし,30分ほどかかるのだった。
フンジュンの渡し場の前で 川幅約2?
ときどきフンジュンの渡しに観光船がきている
フンジュンのはしけ
植林のプロジェクトの時から長い間使っていた運転手と
渡し場で沈む夕陽。いつもきれいな夕陽が沈む
基地としたホテル
フンジュンのホテル
調査地内をいろいろ調査し,大きな町のホテルにもいろいろ泊まり,仕事上一番拠点となるフンジュンのホテルを仕事の基地とした。それはフンジュンからデルタ地帯に広がる島にある多くの村にボートで行くには最も適した位置にあったからである。
だいたいどこでも部屋は,小屋作りで,一戸建ての真ん中で仕切られ,二部屋続きの長屋が多かった。
居心地は,快適とは言えないまでも,ベッド,シャワー,音はうるさいが古いクーラーもあり,朝晩の二食付きで,仕事用のテーブルを入れてもらい,仕事をするには問題はなかった。
どちらかと言えば,ヨーロッパからの観光客を目当てに作られたものだ。
しかし,このフンジュン以外にも,南の村を調べにトゥバクータのクールサルームという名のホテル,北の村を調べに行くには,フィムラという町にあるペリカンという名のホテルを基地にした。
フンジュンのホテルへの入り口の道
フンジュンのホテルの入り口付近
左は野外の休憩所
食堂
プールもある。ライフジャケットの試作品を付け試し泳ぎをしたくらいしか泳げなかった
桟橋があり,ここからデルタ内の村に向かった
これはジナックという村のホテルの部屋であるが,どこでも似たスタイルの部屋だ。
フンジュンのホテルは木造りで柔らかみがあった。
トゥバクータ
トゥバクータではクールサルームホテルと言う名前の大きなホテルを基地にした。ここも同じように小屋スタイルのホテルだった。そこはセメントで作られた小屋でフンジュンの木作りの部屋の方が,ずっと居心地が良かった。
やはりヨーロッパ人用のリゾートとして作られたホテルでここからボートで鳥やマンブローブを眺めたり,観光客用のものだった。
ドイツ人など一週間くらい何もせずに,ただボーッとして過ごしている客もいた。
ヨーロッパからバラクーダ(オニカマス)釣りの客が来る。
ホテルの送迎用バス
ホテルの前にはサルーム・デルタが広がり,マングローブ林だらけだ
ボート発着用の桟橋がある
つづく