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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.5

森林紀行

様々な情報

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日本の原発事故への反応

フランスのテレビのニュースでは相変わらず、日本の原発の状況ばかり流している。爆発したときの映像は、これでもかこれでもかと何回も流されている。世界を震撼させた大事故だから当然と言えば当然である。

原発事故情報は、私だけでなく、Mさんも知人などから続々とメールで送られてくる。空からヘリコプターで水をかけたとか。まさに「2階から目薬」ということが、実際にあるということを証明してくれた。そして大はしご車や消防の決死隊による水かけなど、外からみていると日本沈没というような感じを受けた。そしてMさんはホテルの女子従業員から、日本はまた世界を放射能汚染させたと文句を言われたとのことだ。

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ホテルの借家から

コートジボワールの内戦

原発事故からしばらくして、隣国のコートジボワールが内戦状態となり、フランス軍が介入したので、ニュースの主体は原発事故からコートジボワールの内戦に移った。おかげで、おかしなことながら原発事故からは多少は目がそれてややほっとした。しかし、コートジボワールの国境まではここバンフォラからは60kmくらいである。内戦は実質の首都のアビジャンだから、ここからは600km以上は離れているので影響はないと思ったが、コートジボワール人の多くが国境を超えてブルキナ側に来ているということだった。それで、治安にはいくら慎重になってもなり過ぎることはないと思った。

このコートジボワールの内戦では前大統領のバグボ側は、フランス軍などの攻撃を受け2011年4月5日に戦闘停止を表明し、バグボは降伏したが、その後の投降を拒否した。そうしたことから4月6日に現大統領のワタラ側の部隊が、バグボが潜んでいるとみられる大統領公邸を急襲した。この日にはアビジャンにある日本大使公邸もバグボ側から襲撃される事件も発生し、日本の大使らは、地下室に隠れフランス軍に救出された。その後ワタラが正式に大統領となり、今のところ平和的に安定しているようである。

団長は、この日本大使と面識があり、アビジャンの日本大使公邸襲撃事件を非常に心配していた。

また、後に述べるが、コートジボワールの前大統領のバグボが引きまわされている合成写真を、辺鄙な村の村人までが持っていたことに驚かされた。

事務所での最初の仕事

Mさんから仕事の引き継ぎ

我々日本人スタッフはプロジェクトを運営管理していくのが仕事であった。事務所での最初の仕事は、プロジェクトの資金管理や地元のNGOや技術者と契約する仕事であり、Mさんからそれを引き継いだ。例えばシアバター製造の研修を村人に行うような場合、ブルキナの経験豊かな人を研修講師として雇い、その人と契約するための事務である。プロジェクトの運営資金の管理も重要であり、その管理方法を引き継ぐことであった。それはMさんが帰国するからであった。

ブルキナ人の技術スタッフを3人、秘書1人、運転手2名、それに10人ほどの村での活動をモニタリングする技術者を雇っていたので、それらのスタッフへの給料の支払いなどいろいろと細かいことを引き継ぐ。

これらは仕事を行う上で必ず発生する事務で日本では分担業務がなされているが、プロジェクトでは日本人メンバーは何でもこなさなければならないオールラウンドプレーヤである。事務は事務として、またプロジェクトが目的とする住民自身にどのように森林を管理してもらうか、あるいは住民や森林官の能力を向上させるには、どのような活動を行っていけばよいかアイデアを出して行かなくてはならず、現在までの活動状況をMさんから詳しく聞き、今後の方向を打ち合わせる。

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プロジェクト事務所前にて

団長のグッドアイデア

そしてこれは団長のアイデアで予算化できたものだが、ブルキナ側の公務員である森林官は給料がとても安いということもあり、ブルキナ側では我々の活動に参加させる費用がないということだった。技術移転の対象者であり、彼らの森林管理の能力の向上を図るには、活動に参加させるしか方法はないのである。しかし、日本側も公務員であるカウンターパート(共同作業技術者)に支払う資金は予算化ができないのであった。そうは言っても食べるのに精一杯で、バイクのガソリン代などの交通費も自前で払えないという状況であれば、何がしかの参加費を支払わなければ参加できないのは当然であった。

我々の活動は村人の能力を向上させ、村人が自ら指定林(国有林)を管理できるようになるということを目標にしていたから、森林官には村で様々な研修、例えば苗木作り、植林、放牧管理などの講師をしてもらうことにして、講師料を支払うという形で予算化ができ、これで彼らもプロジェクトに参加することが可能となり、この問題が解決できたのだ。これでプロジェクトがスムーズに動き始めた。これは団長のグッドアイデアであった。

暑さ

ここの暑さにはまいる。直射日光は刺すような厳しさだ。昼飯を銀行などがある地区の「カムー」という食堂に、初めてMさんに連れて行ってもらった時に、ブルキナの今と日本の夏とどちらが暑いかという話になった。日本の夏も暑い日は40℃近くある。しかし、ここでは40℃をかなり超えているのではないかと感じる。日本は湿気が高いが、ここは少し湿気があるが、日本ほどではなく乾燥しているので、焼けるような暑さである。それに食堂「カムー」のトタン板から熱気が降りて来て、めまいがしそうなほどである。そんなことで日本は湿気の不快さでまいるのであって、結局、暑さはブルキナの方が暑いだろうという結論となった。

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事務所の前の道をゆっくりと歩く人々

兵士の反乱事件

一旦バンフォラからワガドゥグへ戻る

共同作業を行う技術者達とうまくやっていけそうだと思えたのと事務所の状況やプロジェクトの内容も概ねつかめ、また自分の生活基盤も確かめられたので最初のバンフォラ行きはとても良かった。

そして、一緒にブルキナに来る予定だった団長は、地震の影響で仕事道具が成田空港に間にあわず、一旦飛行機をキャンセルすると今度は原発事故の影響でフランスへ避難する日本国内の多くの外国人の予約が殺到し、飛行機のチケットがなかなか取れずにいた。しかし、ようやく席が確保でき3月22日(火)にワガドゥグに到着となった。

私は打ち合わせや出迎えのためワガドゥグに戻った。今度は運転手のダウダと一緒だ。3月22日、朝7時半にダウダと二人でバンフォラを出発し、途中ボロモで遅い昼食を取り、ワガドゥグには2時半に到着した。食事を1時間として約6時間かかったから平均時速は約70kmだ。ホテル・クルバにいるSさんとまず、打ち合わせる。Sさんは苗木のプロジェクトで、この日はこれから北部の町にでかけ、今晩はそちらで泊まり、明日の夜帰るとのことである。

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バンフォラとワガドゥグ間にあるボボジュラッソの踏切。

手動で遮断機を移動する

嵐の前の静けさ

不幸中の幸い

何が幸いするかわからない。これから起こる軍の兵士の反乱事件にメンバーの女性達が巻き込まれなくて良かった。Sさんは地方出張ということとMさんはバンフォラに残って仕事をしていて、ワガドゥグにいなかったことは何はともあれ幸いであった。Mさんは団長との交代で日本に帰国する予定であるが、仕事の関係で、ワガドゥグに上がるのは一日遅れとしたのだ。本当にこれは不幸中の幸いだった。

ワガドゥグの空港に出迎えに

3月22日午後6時頃に空港に団長を出迎えに行った。いつものように飛行機は1時間ほど遅れ、午後7時にワガドゥグに無事到着した。団長が空港ビルから出てくると、ほんの数ヵ月日本に帰国していただけなのに、何年か振りかで会ったかのようにダウダが喜んだ。空港からホテル・クルバまでは、車で5分ほどですぐ近くだ。団長がホテルにチェックインした後、打合せを兼ねて一緒に夕飯を食べに行った。何しろとてつもなく暑い。湿度は日本より少し低いくらいで、夜でも気温は40°だ。

夕食に外出

ホテルから歩いて2分くらいのところのいつもの地元料理屋に行った。あまり清潔とは言えない。我々からするとかなり不潔に見えるが、歩いていけるところにはこの程度の食堂しかない。少し遠くなると歩くのは危険度が増すから、車がない場合できるだけ近いところにしか行かない。

地元料理のリーグラを食べる。リーグラとはフランス語であり、リーは米、グラが油で、ご飯を油で炊き、その上に多少の肉か魚、場合によっては野菜が乗っている料理とも言えないような料理である。だが、西アフリカでは後に紹介するスンバラという調味料を使っているので、やや酸っぱく、独特の風味を引き出している。私はセネガルで似たような味のチェブジェンをいつも食べていたので懐かしい味である。

それを食べながら仕事の話をした。団長も長旅で疲れているのでホテルに早々に引き揚げた。9時ちょっと前くらいだった。

ホテル・クルバ

ホテルの部屋はブルキナ(フランス)方式でいうと2階であるが、日本でいうと3階である。団長は常連であるので、ホテル側が大通りと横道とが見えるスイートの一番良い部屋を用意していてくれた。一番良い部屋といっても先進国の一流ホテルと比べると作りは格段に落ちる。作りは三流でも値段は一流いったホテルである。しかし、ブルキナではこれでも1.5流くらいのホテルである。経営者はレバノン人で、一階は受付けで2階からが部屋となっている。今日はいつも団長が泊まるキッチン付きの部屋が満員で取れなかったのである。

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ホテルの前の横道の通り。店屋が多く並び、にぎやか

若い兵士の反乱

銃声

それは、夜の11時過ぎであった。遠くで銃声のような音がする。耳を澄ませて聞くとどうも多数の機関銃が発砲されているようである。私は、これは大変なことが起きているのに違いないと思った。銃声は段々とホテルの方に近づいてくる。こちらにこないことを祈りつつ、非常な恐怖感を持った。万一流れ玉が窓から入ってきても当たらないように、ベッドから下りて、ベッドを盾にするような形で床に横になった。

つづく

8月の駒ヶ岳

社窓


8月の駒ヶ岳

8月になり、台風11号が日本列島を横断し、その後台風一過で晴れるかと思いきや、

お盆中は梅雨のような空模様。

中央アルプスも稜線付近を見られる時もあまりなく、毎日がこんな感じ・・・・・

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お盆が明けて、やっと青空の下で姿をみせてくれました(^^;)

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.4

森林紀行

事務所にて

事務所

事務所へ

3月17日(水)は初めてプロジェクト事務所に行く。朝はイスフともう一人の運転手ダウダの2人が7時過ぎにホテルに来るので、車の鍵を渡し、それから事務所に出勤することになっている。6時に起き、6時半頃、Mさんが家の近くの屋台のような店屋で売っている長いフランスパンを買って来る。それをコーヒーで食べる。

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事務所に行く時に通る道路

 事務所にて

家から事務所までは距離にして約3km、車で10分ほどである。メーンストリートの国道だけが舗装されていて、その他は未舗装の道路だ。時々ハルマッタン(乾期に吹く北東の貿易風、日本の黄砂のような感じ)がサハラ砂漠から微砂を飛ばして来るので、遠くがかすみ視界が悪くなる。

事務所は、環境省のカスカード州の州局とコモエ県の県局の中にあり、このなかに森林局の地方事務所もあり、プロジェクトの事務所はその一つの建物を借りている。

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環境省州局の入口の看板。この中に県局もあり、プロジェクト事務所もある

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事務所の庭

 4年前にプロジェクトが始まった時は、プロジェクト事務所も決まっておらず、団長はこの建物を確保するだけでも大変に苦労したそうで、その後、建物の修理費の予算を確保したり、苦労の連続だった。私はその当時勤め先の国際関係の仕事をする部の責任者だったので、それらの報告をいつも受けていた。私は最後の段階になり参加したので、その苦労はしなくとも済んだ。私も数々のプロジェクトを行っており、どんなプロジェクトでも最初の立ち上げのときは、事前交渉の行き違い、文化や考え方の違い、コミュニケーション不足などから多くの「ゆき違い」が発生し、大変な苦労があることは良く分かっている。それを一つ一つ解決していき、お互いにバランスがとれたところに落ち着かせるのが団長の腕の見せ所である。プロジェクトによっては、ずっと落ち着かない場合もあるのではあるが。

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事務所の入口

事務所に入るといきなり部屋になっており、その部屋には、プロジェクトで雇っている現地技術スタッフのカッソン、ママドゥ、ドゥニーズがいる。カッソンとママドゥが男性でドゥニーズが女性である。それに秘書のマリーがいる。Mさんはドゥニーズの隣の机で仕事をしている。それに協力隊員のIさんの机がスタッフと同じ部屋にある。そして、その部屋の奥にもう一つ部屋があり、そこにブルキナ側のプロジェクトの責任者のキニーの机がある。その部屋に団長の机もあり、そこがチーフ部屋になっている。私は、団長と一緒に来る予定であったが、地震の影響で彼が遅れてくるのでひとまず、キニーの机のあるチーフ部屋に入り、団長の机に座る。

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州局内に苗畑がある

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森林局内に炭も運び込まれていた。炭は指定されたもののみが作れるシステムである

事務所のトイレ

ブルキナ・ファソに限らず、セネガルやジンバブエなど発展途上国全体に言えることだが、主にはアフリカの国が多いが、なぜ物を大事に扱えないのか不思議である。

物が少なく、修理もできない(しない?)のに物を丁寧に扱わないのである。特に公共のものとか共同使用のものはだめである。これはまさにコモンズの悲劇(共有資源は乱獲されるということから)と言える。ここではトイレがそうだったが、ほんの少し、丁寧に使うとか掃除をすれば清潔に使えるのが、そのように使えないのである。例えばドアにしてもそうだ、静かに丁寧に閉めれば長持ちし、ずれたりしないのであるが、力任せに閉めるのですぐにピッタリと閉まらなくなり、ドアノブも緩んでしまう。それに電球が切れたら、電球のストックがあっても誰も取り変えない。使用した後、汚してしまったら便器を拭いてきれいにしようという気がないのでいつまでたっても汚いままである。

ここのトイレも汚かった。そこでイスフとマーケットに行って掃除道具を一式買ってきて、すぐに便所掃除である。きれいになって皆気持が良いようだが、その後誰も便所掃除をしないので、いつも私がするようになった。それを見ていたイスフが手伝うようになったので、イスフに任せたが、しばらくするとまたしなくなるのである。習慣が定着しないというのもこの辺りの特徴であろうか。

きっと、きれいとか汚いとかの感覚のレベルが違うのであろう。私が汚いと思っている汚いはこの辺りでは決して汚くなく、だから汚くとも平気なのだ。ドアも壊れているのが普通で、ちゃんとしていると安心できないのであろう。

 

事務所のスタッフ 

事務所には前に述べた我々の雇用した技術スタッフと共に他の職員もいた。

 

環境省州(カスカード(Cascades)州)局長

先入観を持って人を見てしまうのは、問題であるが、アフリカの多くの国の公務員の幹部は汚職まみれであるというのが、今までつきあってきた人達から受ける私の印象である。ブルキナ・ファソとは現地語で「高潔な人」とか「誠実な人」と言った意味であるが、一般的に公務員から受ける印象はその対極に位置しているのではないかというものである。だからブルキナ・ファソ「高潔な人」になりたいのだろうという印象を州局長からも受けた。これは他のプロジェクトメンバーから聞いていた先入観がなせるわざであろう。私は交代した副総括として新たに参加することになり、国際協力の仕事では長年の経験があると言うと大歓迎してくれた。

 

コモエ県局長 

県局長は女性であった。印象としては、州局長と同じ様に、ブルキナ・ファソが表す現地語の意味からは対極にいるのではないかと思わされた。私の感覚は正しくないかもしれないが、どうしても先入観がそうさせてしまうのであった。とはいえ、コモエ県局長も大歓迎してくれた。

 

技術スタッフ

キニー

キニーは前年日本に研修に来た時に事務所で会っていた。私はその時、部の責任者だったので、各国のプロジェクト関係者が日本に研修などで訪れたときは、責任者として面会するので面識があったのである。体は大きくがっちりしているが、どちらかというと人当たりの良い方だった。私が今度このプロジェクトに参加することを歓迎してくれた。ただ、キニーにしてもクリーンということはないということを他のメンバーから聞いていた。

しかし、先入観とは別に、ここで会った州局長、県局長それにキニーなどは汚れているかもしれないが、根は良い人だと思わせるものがあった。きっとそうに違いない。私が多くの国で仕事をしてきた中で、他国では、もっと悪に染まったような人達とは違う純粋さも見て取れた。もし、汚れている部分があるとすればそれは外部からのもの、例えば援助のようなものがそうしているのかもしれないと思う部分もあったのである。

 

技術者

普通のプロジェクトでは、技術者は協力対象とする機関、ブルキナの場合であれば、政府環境省の森林官がカウンターパート(共同作業技術者)として、つまりは技術移転の対象者として、プロジェクトの仕事にあたるのであるが、ここではプロジェクト責任者のキニーのみが公務員で、直接のカウンターパートとなっているだけである。あとのプロジェクト運営の技術者はプロジェクトのファッシリテーター(プロジェクトを円滑に進める役目の技術者)として我々プロジェクトが雇っているのであった。3人のファッシリテーターがいて、いずれも優秀だった。このようなシステムを構築するのも最初の段階で、団長は大変に苦労した。

 

カッソン

カッソンは私が来て、すぐに4月6日に結婚した。後にタバスキ(ラマダン(断食月)が明けて1ヶ月と10日後、イスラム暦の11月10日に行われる祭り)の日、2011年11月に家に招待してくれた。奥さんは先進的活動を行っているNGOに勤めており、インテリである。カッソンは英語をしゃべるので、私には非常に助かった。英語は国境を接するガーナで覚えたとのことだったが、現地語とフランス語がネイティブなので、英語の習得は容易だったようだ。このプロジェクトが始まる前の調査段階では英仏の通訳として活動していた。

 

ママドゥ 

ママドゥは、奥さん2人に愛人が2人いると言っていた。とつとつとしゃべるのが特徴である。イスラム教なので、奥さんは4人まで持っても大丈夫だと言う。アフリカはNGO産業が盛んなので、いろいろなプロジェクトを渡り歩いているとのことであった。援助が続く限り、このようにキャリアがある人は食べるのには困らないだろうと思わされた。

 

ドゥニーズ

ドゥニーズは女性の技術者であった。彼女は未亡人で、だんなさんは数年前に肝臓を痛めて亡くなったと言っていた。黄疸と言っていたから肝炎であろう。9歳のお子さんがいた。月から金まではバンフォラで働き、土日はボボジュラッソに帰ると言っていた。子供さんは、彼女のお母さんが育てていて、単身でバンフォラに住んでいた。彼女はブルキナの政治や社会には愛想をつかしており、アメリカで生活したいと言っていた。

 

秘書のマリー

秘書のマリーは、ドゥニーズと同じくらいの年の男のお子さんがいた。そしてこの時2人目を妊娠しており、10月に出産予定とのことだった。彼女はプロジェクトの資金管理や書類管理を行っており、きちんとしていてしっかりしているので、彼女が抜けたらプロジェクトは動かないような存在になってしまうだろうと気がかりだった。肝っ玉母さんのように落ち着いていた。

 

運転手

ダウダ 

ダウダは、運転もうまいし、全てのことに自信満々のような態度に見えた。それは、かつて軍隊の車両兵站部門にいたことがあることからきているのだろう。軍の上層部とも繋がりがあり、ブルキナの軍人たちの気質についてもよく知っていた。それで、これから起きる軍のクーデター未遂事件の時には、ダウダから情報を得て、随分と助かった。

 

イスフ

イスフはまだ若く、茶目っけがあった。彼はぶっきらぼうではあるが、運転は信頼が置けた。少し飛ばし過ぎることがあるので、スピードは押さえろといつも言っていた。毎朝彼と車に乗って行くと早口で何を言っているか良くわからないからゆっくりしゃべろといっても早口はなおらない。しかし、ある日彼の言っていることが全てわかる日があった。耳が慣れてきたのである。それから段々と聞き取れるようになった。

協力隊のIさん

部屋には協力隊員のIさんがいた。Iさんは村落開発隊員で、このバンフォラに来ており、後にプロジェクトのメンバーとしてくるK君の後任である。この事務所で苗木作りをしたり、村に行って村人と共に働いている。協力隊員としては非常に素直で、すれているところがなく、真面目で優秀という印象を受けた。 

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事務室、左からKasson、Denise、Mamadou、私

つづく

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