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【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.6

森林紀行

熱帯多雨林と調査体制の確立

 

熱帯多雨林

 1978年11月24日初めて熱帯のジャングルに入った。夢にまでみたジャングル。正しく言えば熱帯多雨林だ。

 ノルマンの担当区なので、手前知ったる彼は、どんどんと進んでいく。早い。皆付いて行くのがやっとだ。セミが「ピージー。ピージー。」と陰気な声で鳴いている。道と言っても人が一人通れるくらいの山道だ。下はぬかるんでいてまるで、田圃の中を歩いているようだ。見上げると20m?30mくらい樹高がある木が天空を隠している。時々50mくらいの樹高がある巨大木もある。ビックリだ。

 日本でなら、山道を歩くのに航空写真を追って行けば、自分のいる位置はすぐに分かるのだが、今日は歩くのが早いせいもあり、航空写真を見る暇がないことと見晴らしが利かないので、容易に自分の位置がつかめない。

 私は、この日は風邪気味で、下痢をしており、付いて行くのが精一杯であった。それでも熱帯多雨林の状況はつかめた。この日午後からは激しい雨となった。

  

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熱帯多雨林の遠景

  

ココナツ

 帰り道、道路際で運転手のヒダヤがココナツを買ってくれた。下痢で飲む気はしなかったが、せっかくなので飲むと、サイダーに似た味で、とてもうまかった。

 

下痢

 日本でなら正露丸を少し飲めばほとんどの下痢は、簡単に治るのだが、ここではかなりの量の正露丸を飲んでも効かなかった。仕方がないので、もっと強力な下痢止めを飲んだらようやく治った。その後は、私はひどい下痢にはならなかった。この時の下痢は細菌性の下痢ではなく、水が変わったためになったのであろう。

 

流れる血

 その日、森林調査が終わってルブクリンガウのホテルに帰るとズボンの左脛が血で赤く染まっている。めくると真っ赤な血がドロドロと流れている。「なんだ。こりゃあ。大怪我をしたのかな?まずいぞ。」ズボンを脱いでまた驚いた。パンツが真っ赤である。「アレー。大変だ。一体どうしたというのか?」大事な物も大丈夫かと思い下半身を入念に点検すると、股の付け根にヒルが取りついている。ホッとしてヒルをそっと引っ張って取る。しかし、後に傷を残さないためにはタバコの火をあてるのが良く、ヒルがころりと落ちるのである。私はタバコを吸わないため引っ張って取った。

 ヒルは一旦山に入れば、片足10匹くらいは取りつく。スカラジャで雇った作業員達は平気で血を流していて、我々もすぐに慣れた。

 また、ある時森林調査をしている時に、後ろ首に汗が流れるので手でぬぐった。すると感触がヌルッとしている。手の平を見ると真っ赤である。ヒルが首すじに取り付き血を吸っていたのだ。

 

スカラジャの集落

 およその森林の状態もつかめ、11月25日はいよいよ本格調査の拠点となるスカラジャの集落へ向かった。スカラジャとは「スカは好き、ラジャは王という意味で、王に近づきたいという気持ちで付けられたのだろう。」とサガラは言う。

 現在の調査隊は、サドリがパレンバンに帰り、ルブクリンガウからタモリとノルマンが加わったので、全員で15名だ。スカラジャまでルブクリンガウから約60kmの道程をジープ3台に分乗して約3時間であった。

 スカラジャは11月25日から12月14日まで約3週間滞在した。スカラジャには約50軒の家が固まってあり、人口は約200?300人の集落である。

  

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スカラジャにて。使っていたジープの前で

  

  

スカラジャでの最初の仕事

 スカラジャでの我々の最初の仕事は、生活基盤の確保と調査体制の確立であった。我々の住む民家を借りる交渉をタモリと共に行った。

 借りた家は、ここの集落長の隣の家で、この辺りではかなり大きな家を借りることができた。集落長といっても私と同じまだ28才の青年である。彼は、我々の面倒を見るというよりもいかに金を儲けるかに頭があった。

  

タモリのピンハネ

 我々のいる間、この家の住民は、近所の親類の家に行っているという。我々は随分悪いことをしたと思ったが、この辺りではこのようなことは普通に行われているようで、何しろ物は持っていないので、住民も他人の家に移り住んでも大して困らないのだ。実際は、現金収入が少ないので、家を貸すということはかなりの収入になり、どちらかというと貸したがった家がかなりあった。

 家賃は1日1万ルピア(約2,000円)で話がまとまった。少々高いようであるが、大部分がタモリにかすめとられ、また集落長にもかすめとられ、家主に渡ったのはこのうちわずかであったようだ。

  

借家

 この家は、この辺りでは一般的な高床式である。気温が高く、湿気が高いからである。半地下の下階と上階に分かれていて、普段下階は、倉庫として使っているが、板塀で囲ってあり、3部屋くらいある。上階は30畳くらいの大部屋と6畳くらいの小部屋が2つと台所がある。

 

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借家 

借家の内部.jpg

借家の内部

 

集落の人々

 我々が荷物を運びこんでいると、集落中の人々が集まってきてジーと見つめている。これは日本でも引っ越して来たりすると何者だろうかと探っているのと同じである。

 こんなに小さい集落に、外国人が住んだなどということは未だかつてなかったのであろうと思っていた。しかし、戦争中に日本軍が入り込んでいたのであろう。ここの人々と交流するうちに、「見よ、東海の空明けて、・・・」と我々を歓迎する意味で日本語で軍歌を歌い出す老人がいたのだ。あるいは日本軍のために働いたか?

 

部屋割

 さて、我々日本からの一行7名とサガラ、ジョコが上の部屋を使い、下に運転手のヒダヤ、ナナ、ローカニ、それにノルマン、タモリ、フォージーとが入った。

 

 

雇用

 次は炊事と洗濯等、家事一切の世話を焼く人を捜すことと道案内の作業員を雇うことであった。これは簡単に見つかった。隣の集落長の家で一切の家事を引き受けてくれた。というよりも向こうから家事をやらせてくれと頼んできた。

 しかし、法外な金額を要求してきたので、食糧は我々が仕入れる、洗濯はシャツ一枚につき50ルピア(約10円)というように細かく値段を決めた。

 この辺りの人々は現金収入が少ないので、多くの人々が作業員として雇ってくれと集まった。しかし、我々は1パーティーで2人ずつ、2パーティーで、計4人の案内人がいれば十分であった。一人は、集落長の叔父のヌルがどうしても雇ってくれと頑張るので、住民の力関係なども考慮して雇うことにした。ヌルは48才で、我がチームの団長のIさんと同年齢であるが、白髪が多くIさんよりもずっと老けて見えた。残り3人は強そうで良く働きそうな者を選んだ。ディン27才、やせて

はいるが、口髭が長く、精悍に見える。アミール24才、背丈は普通だが、筋肉質で強そう。アルパン30才、樹木の名前をほとんど知っていて、人が良さそう。こうしてひととおりの生活条件と調査体制が整った。

 

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焼畑で減少していく熱帯多雨林

 

 

                                                                                                                                  続く

 

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.5

森林紀行

ラハットにて

 ラハットでは、陸軍の宿泊施設に泊まった。ヤモリが沢山いて、「キュ、キュ」と鳴いている。ここのコーヒーはうまかった。インドネシア語の達人のメンバーが「コピーマシアダカ?(コーヒーはまだあるか?)」と尋ねた。これは日本語とほとんど同じで簡単なフレーズだからすぐに覚えた。次から私もコーヒーの有る無しにかかわらず、「コピーマシアダカ?」と尋ねることにした。すると何らかの会話に発展するのである。そしてインドネシア側のカウンターパート(共同作業技術者)が言うインドネシア語をノートに書きとり、意味を辞書で調べたり聞いたりし、そのフレーズを同じ場面で言ってみる。上達するのが自分でもわかるようだった。若くてエネルギーがあったからできたことで、年齢を重ねるに連れてそうはいかなくなったが、まことに外国語の習得は、まずは人のオウム返しからである。

 

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宿泊した施設

 

ルブクリンガウへ

 11月22日は、ラハット郡庁に挨拶。役所の長の部屋には必ずスハルト大統領とアダムマリク副大統領の大きな肖像画が掛けてあった。挨拶後、ルブクリンガウへ向かった。

  

途中で出会った人々.jpg

途中で出会った人々

途中で出会った子供達.jpg

途中で出会った子供達

 

 ルブクリンガウまでは、154Kmである。道は悪くてもの凄い埃が舞い上がる。髪は、ポマードを塗りたくり、スプレーで固定したようになった。途中、滝のようなスコールにも出会い、ようやくルブクリンガウに着いた。ここはこの辺りの最後の町らしき町である。

 

途中で見た田植え風景.jpg

途中で見た田植え風景

鉄道も通っていた.jpg

鉄道も通っていた

 

 人口は数万人と言ったところか。相当に田舎に来たという感じだ。日本では今では都会も田舎も生活水準にそれほど大きな差は無くなったが、ここでは月とスッポンである。

 まず、一般の家庭には電気は来ておらず、ランプを使っている。町にも、ちゃんとした下水がなく、家庭排水が自然の側溝となって流れているようなところは実に不潔である。

 通りにはベチャと呼ばれる人力三輪車が数多く走っている。ヤギに荷物を引かせた人も通る。私には物珍しく、いくら見ていても見飽きない。

 

1978年当時のルブクリンガウの町.jpg

1978年当時のルブクリンガウの町

 

 ここでは、リンタンスマトラというホテルに泊まった。最近建てられたらしく、真新しい。電気も有るし、なかなか住み心地は良かった。夕食は外に食べに行くが、連日のパダン料理で、ほとんどのメンバーが食欲を失っている。すべてのものが、唐辛子で味付けられていて強烈に辛く、油はヤシ油で匂いが非常にきつい。米はパサパサで、日本のどんな不味い米よりも不味いと感じる。私はどちらかといえば辛党なので、ヤシ油の匂いには閉口したが、美味い美味いと言って食べていた。

 

病院

 11月23日。今日からいよいよ予備調査だ。ここから更に奥地のスカラジャというカンポン(部落)に入るまでの2日間だ。メンバーの一人が、ジンマシンが出たと言って、病院へ行った。「お尻に注射を打たれた。」と言って帰って来た。この辺りの病院ははたして清潔で、腕は確かなのであろうか?

 

C/P(インドネシア側共同作業技術者)

 ルブクリンガウからは、ここの郡庁の役人タモリンと森林官のノルマンが同行した。タモリンとは愉快な名だ。我々はタモリ、タモリと呼んだ。しかし、我々はまたしてもこの下っ端の小役人にしょっちゅう腹を立たされるはめになったのだった。

 

航空写真の判読誤り

 さて、いよいよ森林へ向かった。もちろん、周囲は、ほとんど森林である。日本での準備期間に予備判読しておいた航空写真を持ち、まずは入り易すそうな森林に向かった。しかし、行ってみるとそこはゴムのプランテーションであった。最初から判読間違いである。しかし、ゴム園の映り方のパターンは分かった。

 

ゴム園

 ゴムを採取するには、ゴムの幹にラセン状に溝を掘り、上から流れ出してくる白い樹液を下の皿で受け止め溜めるのである。物資が無いのであろう、その受け皿の多くは、木の葉を巻いて作ったものである。これでは流れ出てしまう分も相当に多い。

 とにかく、我々の調査は天然林であるから、航空写真上では、ゴム園のパターンは除かなければならなかった。

 

ゴムの木の幹への溝掘り.jpg

ゴムの木の幹への溝掘り

 

 

続く

3月の駒ケ岳

社窓


3月の駒ケ岳

いよいよ春間近の弥生。

 

先月は、記録的な大雪に見舞われました。

今月の社窓の写真をよくよく見ると、

大雪の影響でしょうか、千畳敷カールで雪崩が起こっています。

わかりますか?

 

それでも、街のあちこち山のようになっていた雪の山は随分小さくなりました。

梅や桜の便りももうすぐ聞こえてきそうですね。

 

[南アルプス]

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