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[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.11 高水三山

森林紀行

冬の山歩き
 奥多摩の高水山を目的に、2023年12月16日(土)に登った。青梅線の御嶽(みたけ)駅から登り始め、グルッと回るような形で軍畑(いくさばた)駅に降りた。ここは、惣岳山(そうがくさん756m)、岩茸石山(いわたけいしやま793m)、高水山(たかみずさん759m)の三山が高水三山として有名である。この日は冬の山とは思えない暖かさで、山歩きをおおいに楽しんだ一日であった。

高水三山の地図

家を出発
 家を7時半頃出たが、今回も出発時には、暗い雲が空を覆い、またしても雨が降りそうだった。実際、高水山方面は雨だった。雨に備え、折り畳み傘とゴアテックスの雨具を持ち、登山用の杖を1本持った。しかし、天気予報では、朝の曇天は段々と晴れてきてで、気温は23℃まで上がり、冬とは思えない暖かさになるとのことだった。

集合
 集合は青梅線の御嶽駅に9時37分だったが、少し早く着いたのでひとしきり駅で皆を待っていた。駅へ来る間に、段々と晴れ間も出てきて、安心した。今回のメンバーは、リーダーはいつものレオさん。集まったのは合計10人だった。外国人3名、日本人7名。男女5名ずつだった。

朝の青梅駅。ここで乗り換え御嶽駅へ
御嶽駅、段々と晴れ間が見えてきた

御嶽駅
 御嶽駅では駅前に登山ルートの看板があった。この看板は左側が北を指している。

駅前の看板
同上
晴れ間が広がってきた

登り口を間違える
 上の地図に従い、御嶽駅を右側におり、軍畑駅方面に上に向かって歩いたが、御嶽駅を過ぎたらすぐに左側に入り、踏切を渡り、神社を通って山道に入るはずが、その左側の入り口が分からず川に沿ってしばらく上方向(下流)に行ってしまった。道路と川がカーブする場所まで来て入り口を通り過ぎたことが分かり引き返した。ほんの5分ほど、往復10分ほどのロスである。
 引き返し、踏切を渡る登り口を見つけ、踏切を渡った後に神社に入っていった。慈恩寺である。ここで、あまりに暑く、もう汗をかき始めたので、私は、夏用の速乾吸湿のTシャツに着かえた。ところがそれがまた間違いのもと、そこに置いた杖を忘れてしまったのだ。

慈恩寺へ
 慈恩寺の中を通り上へ登って行く。ここから412mのピークまで尾根を直登だ。御嶽駅が標高約250mだから約160mの直登だ。
 慈恩寺の上には寺には良く植えられるナンテンやマンリョウなど赤い実が付く木が植えられ、いかにも寺院らしい。お寺の庭に、ナンテン(南天)やマンリョウ(万両)が植えられるのは、南天は「難転じて福となす」という縁起物として、鬼門や裏鬼門に植えられ、万両は「万事成就」ということで、やはり縁起物として植えられるとのことである。
 私は、半袖のTシャツに着替えたとはいえ、暑くて汗が噴き出す。

慈恩寺の入り口
慈恩寺
ナンテン
慈恩寺の上を登っていく

慈恩寺の入り口に杖を忘れ取りに戻る
 しばらく登り、標高で約50mくらい登ったところで、杖を持っていないことに気づいた。本当にもうボケが始まっている。神社の入り口に杖を置いたことを思い出した。皆に「杖を取りに行ってくるから先に行っていてくれ。」と言って、急いで杖を取りに戻る。これにより皆より30分は遅れ、その上、自分の体力も消耗するはめとなる。

最初に引き返したところまで戻る
 神社の入り口まで戻って杖を捜すが、杖が見つからない。「何故だ?おかしい。」何回も良く捜すが見つからない。「おかしいなあ。誰かが持って行ってしまったのかなあ?変だなあ?」と思いながら、仕方がないので、最初に駅から下った道と川がカーブし、皆で引き返した所まで戻ってみるが杖は見つからない。途中、登山道具のアウトレットの店があったので、そこに杖を届けてくれた人はいないか聞いてみるが、「いない。」と言われ、仕方がないので、杖はあきらめ、皆に追いつこうと踏切を渡り、慈恩寺の入り口まで来る。

杖が見つかる
 そこで、上方向をみると、杖があるではないか?「やあ、良かった。」とホットした。上から見る角度と下から見る角度が違うので、見つからなかったのだろうか?それにしても最初にあれほど捜しても見つからなかったのはキツネにつままれたようであった。
 とにかく良かった。この杖は中国の大連のデカスロンの店で買ったフランス製である。思い出があるので、失いたくなかったのである。

ヒノキの人工林
ヒノキの人工林

最初の鉄塔
 しばらく登ると東電の高圧線の鉄塔がある。これが尾根上にあり、地図に合わせると標高375mくらいだ。あと35mくらい登れば尾根上に出る。すぐだ。

最初の東電の鉄塔

412mのピーク
 そしてしばらく登って412mのピークに出た。ここからの眺めが良い。この周辺は森林再生事業で枝打ちをしている。

412mのピークの表示
枝打ちの表示板
標高412mのピークからの眺め

二本目の鉄塔
 ここからは尾根上の平坦な道で、歩くのは楽だった。歩いているこの道は、関東ふれあいの道である。二本目の鉄塔が出て来た。これも地図で合わせると390mくらいだからピークから30mほど下ったことになり、楽な道だったはずだ。

2本目の東電の鉄塔
関東ふれあいの道の標識石
途中の道標

何人もの登山者とすれ違う
 私が登って行くと下って来る人に沢山会った。最初に会った人は10時半過ぎだった。朝6時頃軍畑駅を出発したとのことだった。朝は土砂降りでその中を歩いたので大変だったとのことだ。途中で雨は止み、今はすっかり晴れて良い天気になり、ほっとしたとのことだった。前に行った10人ほどのグループとすれ違ったか聞いたとこころ10分前くらいにすれ違ったとのことだった。往復で20分前くらいにいるのだなと思い、追いつくよう急いだ。
 それから一人、二人連れ、グループなど何人かの人とすれ違い、その都度前のグループがどれくらい前にいるか聞いて行ったが、いずれも10分~15分前くらいだということだった。いろいろ周りを見ながら歩いていたので、結局、惣岳山の頂上まで追いつけなかった。

分収林の看板
 分収林契約地があった。土地所有者が「青渭神社」で、管理者が(公財)東京都農林水産振興財団と書いてある。
 分収林とは、地主と造林者(造林と植林は同じような用語に思えるが、植林は植栽のみを示し、造林にはその後の除伐や間伐などの手入れも含む)で契約し、伐採した後に立木を売って得た収益を分配する森林のことである。
 だからここの森林は、神社の土地に財団が資金を出し、造林し、伐採時の立ち木の販売収入をあらかじめの契約に戻づいて分配する森林ということである。

分収林契約地の看板

 私は、林学を専門に習っているので分かるがが、最初にこの言葉を聞いた時に、分からない用語だなあと思ったものだ。分収林でなく収分林なら多少は分かり易いかなと思ったものである。英語をみると「profit sharing forest」である。「収入を分ける森林」という意味で、日本語よりずっと分かり易い。
 林学というのは、明治時代の初期にドイツ語から入った用語を訳し、それも難しい言葉として訳すのが学問として当たり前と思われていたのだろうから分かりにくい。「収入分配林」とか林学会が主導して、名前を変えたらどうかなとも思うが、一旦、定着した用語を変えるのは難しいのだろう。
 他にも林学用語は非常に難しいものが多い。例えば、「法正林」、「林分」、「森林施業」、「施業団」、「作業級」などと聞いても、どのような概念なのかすぐには分からないのではないかと思う。最後に書いた「施業団」と「作業級」がほぼ同じ概念を表すものと言ってもこの言葉からはさっぱりわからないのではないかと思う。「同一作業実施森林群」とでも訳せば言葉と内容が少しは分かるのではないかと思う。
 しかし、一旦概念が分かってしまえば、内容はそれほど難しいものではないと思う。

ところどころに設置されている案内板

追い抜っていた人
 しばらく歩いて行くと、後ろから遠くに聞こえていたクマよけの鈴の音が、段々と近づいてくる。そして中年の女性が私を追い抜いて行った。聞けば、登山口がわからず、慈恩寺の境内を通り抜ける道もわからず、その辺りをウロウロして1時間もロスしてしまったとのことである。きっと我々グループと同じくらいの時間に登り始めたのだろう。しばらく付いて行ったが、私よりペースが早く、付けば消耗が激しくなるので、マイペースで行くことにした。
 クマと言えば、今年はクマが町周辺に出没し、被害が多いとのことである。今年の冬のようにこんなに暖かくてはクマも冬眠もできないだろうし、ドングリの成りも良くなく、目を覚まし続けていればその分食料もいるので、町周辺に出没するのだろう。

所々に生育している巨木
 仲間が発見した大きなアカマツである。根がとぐろを巻いているように見える。
 谷間にあったスギである。胸高直径は1ⅿ近くあり、樹高は30m以上はあるだろう。

途中にあったアカマツの大木
惣岳山の下の谷間の大きなスギ

惣岳山の下の真名井神社
 惣岳山にかなり近づいたところで、皆からどこにいるのだというメールがあり、惣岳山の下の「青渭の井戸」にいると返信する。皆は惣岳山頂上にいて、昼飯を食べているという。「早く上がって来い。」というが、こここそが「青渭神社」の名前の発祥の地である「青渭の井戸」がある場所なので、「青渭の井戸」を拝み、しばらく眺めていた。「青渭の井戸」はこの谷間に出る湧水で「真名井」と呼ばれているそうで、神聖な水とされている。ここにある祠(ほこら)は真名井神社とのことである。
 また、この周りにも大きなものは、胸高直径1ⅿ程度、樹高は30m以上はあるスギの大木が沢山あり、壮観だった。

末社の真名井神社。「青渭の井戸」

惣岳山
 真名井神社のすぐ上が奥宮であり、惣岳山の頂上だった。ここで皆と合流した。30分遅れだった。途中で私の名前を3回も呼んでくれた方もいたが、残念ながら聞こえなかった。
 皆が昼飯をほとんど食べ終わるころだったので、私もコンビニで買ったおにぎりを食べようとしたところ、自家製ハムとチーズなどを持ってきてくれた方がそれを挟んだパンをくれ、とても美味しかった。その後に急いで自分の持ってきたものも食べた。
 下界は23℃と冬とは思えない暖かさだったが、頂上は風も少しあり、さすがに寒く、おそらく10℃くらいだったろう。Tシャツの私を見て、皆がすぐに何か着た方が良いというので、ウインドブレーカーを着込んだ。汗も引いてきて、着込んでちょうど良かった。
 惣岳山の頂上には青渭神社の社殿があり、そこには、弘化三年再建と書いてあるので、火災にあい、再建されたのだろう。因みに弘化三年は1846年なので、今から177年前のことである。この青渭神社は、平安時代の記録「延期式」に記載されている青渭(あおい)神社だそうだ。神域では昔から樹木が大切にされ、伐採が禁じられたので、今でも大木が残っているのであろう。

惣岳山頂
山頂の本社(奥宮)社殿
ここに弘化三年再建と書いてある

スギとヒノキの植林地
 ここから先もずっとスギとヒノキの植林地であったが、開けた場所にでた。また、ここも見渡す限りスギとヒノキの植林地であった。

スギとヒノキの植林地

滑りやすい岩場
 この辺りの岩場はとても滑りやすい。節理が見られ、火山岩でないので堆積岩で砂岩、泥岩、頁岩の類と思われる。昔は海の中にあり隆起したものだろう。ただ、チャートがところどころ貫入しているようだ。チャートは、珪質(二酸化ケイ素を多く含む)で細かい石英からなる硬い岩石で、乳白色であることが多く、放散虫や珪質海綿・珪藻などが深海底に集積してできたものと考えられている。いずれにせよこの辺りの山地は海底から隆起してできたのだ。

岩に節理がみられる
急な岩場
岩茸石山を望む
振り返り惣岳山を望む

岩茸石山の頂上
 13時20分くらいに岩茸石山の頂上に着いた。「岩茸石山」の名前の由来は、かつてこの山で採れた「イワタケ」というキノコにあるとのことだ。イワタケは、岩の上に生え、岩茸石山のような岩の多い山地に生息しているため、このキノコにちなんで「岩茸石山」と名付けられたとされている。
 イワタケ(岩茸・石茸、Umbilicaria esculenta)は、地衣類で、中国、朝鮮、日本の温帯に分布し山菜、生薬として利用するそうだが、食べたことがない。

岩茸山山頂

 岩茸石山の山頂には神社はなかったが、ここにある青謂神社は、惣岳山の青渭神社とは異なり、「延喜式」には「岩茸石山青謂神社」と記載されているとのことである。「青謂」と「青渭」の字が違う。

高水山に向かう
 岩茸石山の後に、高水山に向かったが、高水山に登ったのは私とあと2人、計3人だけだった。残りの7人は頂上を巻いて行く楽な道で行くという。「高水山に登りに来たのに何故高水山の頂上まで行かないの?まあ、それならそれでいいでしょう。高水山を下りたところで会いましょう。」と、3人で頂上へ向かった。私としては、今回の山行の目的地は高水山だったのに、この山頂に行かないわけにはいかない。他の人達は、レオさんに従って、何故いかないのか不思議であった。くたびれていたのだろうか?

高水山への道標

高水山頂上
 高水山山頂のやや手前には祠(ほこら)があった。この祠を過ぎたらすぐに山頂だった。山頂には何かあるというわけではなく、ここを下りるとすぐに常福院不動堂だった。皆とここで合流した。

高水山山頂直下にある祠
高水山山頂
高水山山頂

 皆と合流した後に、私はもう一度言った。「高水山にきて高水山に登らないのはもったいない、頂上はすぐそこだから行ってきた方が良いよ。」そうしたら数人が駆け出して頂上まで行ってきた。高水山を目標に登ってきたのだから、これで登った人は満足だろう。まあ、頂上まで行かなかった人は、特に頂上にこだわっているわけでもなく、冬の山の自然を歩いて楽しんでいるのだからそれはそれで良かったのであろう。

高水山頂上まで走って登る

常福院不動堂
 ここにあった常福院不動堂は、青渭神社とは異なるとのことだ。常福院不動堂は、真言宗豊山派の寺院で、高水山不動堂の本堂であったとされているとのことである。源平・鎌倉時代の有力な御家人である畠山重忠が、この地に深く帰依し、不動明王を祀ったもので、数度にわたる山火事のため焼失し、現在の不動堂は1822年に再建されたものとのことである。

常福院不動堂
同上
不動堂の前の狛犬。犬か狼か?

 不動堂前の左右に鎮座する狛犬は、和犬の石像に見える。どうみても犬だが、オオカミのような感じも受ける。オオカミが絶滅する前には、この辺りにはオオカミが沢山いたので、オオカミにも見えるようにも作ったのであろう。

軍畑(いくさばた)駅に向かって降りる
 常福院から軍畑駅に向かって降り始めたところは、緩やかな下りでモミジなどの葉が厚く積もり、ふかふかしてこれを踏みしめながら歩くのはとても気持ちが良かった。

常福院の下の道標
落ち葉を踏みしめて歩く

途中メンバーの一人を待つ
 半分のメンバーが先に降り、残りのメンバーが少し遅れており始めたが、その時後ろのグループの内の一人の女性が、先に行っててくれというので、先に降り始めた。しかし、参道と思われるが、歩きにくい階段状の道が続き、また、まだ午後2時半というのに、山道は薄暗くなってきた。一人で、後から追うのは良くないということで、しばらく歩いてからそのメンバーを待つことにした。止まったところで大声を張り上げると、そんなに遠くでなく声が返ってきたので、安心した。しばらく待ち、後発メンバーが一緒になり降り始めると先発メンバーも案外に近いところで待っていた。全員がまとまり、安心した。

急斜面が続く
 この後、ある程度平らになるところまで急斜面が続き、所々にある階段の段差がとても高い所もあり、膝が笑うようであった。

急斜面が続く

舗装道路手前の砂防ダム
 ようやく下りきったところに大きな砂防ダムがあった。平溝川砂防ダムだそうだ。
 東京都が平成4年から6年間を要し土砂災害から守るために設置した砂防ダムとのことだ。約30年前だ。この堰堤は、堤高19m、堤長32mと西多摩地域でも大きな構造とのことで、20,000㎥の貯砂量に対してまだかなり余裕があるように見えた。

貯砂量には余裕がある
19mの高さがある堰堤

スズメバチの巣
 堰堤に大きなスズメバチの巣が作られていた。オオスズメバチかキイロスズメバチの巣かわからなかったが、巣は一年しか使わないとされているので、再利用はないだろう。この巣からの危険はないだろうが、この周辺にはスズメバチが沢山いるだろうから来年の8月~9月くらいには活発に動くので、ここを歩くには注意が必要だろう。とはいえ、巣や蜂自体に刺激を与えなければ攻撃してくることはほとんどないので、刺激を与えなければ大丈夫だろう。私のことを言えば、キイロスズメバチとオオスズメバチと一回ずつ刺され、その他のハチには相当回刺されているので気をつけないといけない。

スズメバチの巣
下からみた堰堤
堰堤の下部にはヤマメの釣り堀もある

舗装道路を歩き軍畑駅へ
 ここから舗装道路を軍畑駅まで歩いた。山道から降りると舗装道路は歩きにくいものだと感じたものである。

舗装道路に降りた

軍畑駅には下山した沢山の人が電車を待っていた。16時20分の電車に乗り家路についた。 師走の冬とは思えない暖かい日で絶好の山歩き日だった。



つづく

令和6年能登半島地震への技術者派遣について

お知らせ

このたび石川県能登地方を震源とする令和6年能登半島地震により、
被災されました皆様に心からお見舞い申し上げます。

弊社が所属します「南信防災情報協議会」におきまして、
災害協定に基づき、
国土交通省中部地方整備局 天竜川上流河川事務所のTEC-FORCE(緊急災害対策派遣隊)に、
技術者3名を派遣することととなりました。

このうち弊社から2名の技術者がUAVなどの機材を携えて、
被災状況の把握など行うべく被災地へ派遣されまた。

災害支援にあたられる皆様が、安全に、また体調に気を付けて作業にあたられることを願うとともに、
われわれの持つ技術や知識が、いち早い被災地の復興に寄与できればと思っております。




1月の駒ケ岳

社窓

新年にあたり、ご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。

令和6年1月1日に発生した石川県能登地方を震源とする令和6年能登半島地震により
被災されました皆様に心からお見舞い申し上げます。
皆様の安全と、一刻も早い復旧、復興を心よりお祈り申し上げます。
また、被災地にて活動される皆様におかれましては、
どうぞご自愛のうえご尽力いただきたく思います。

2024年1月の駒ケ岳

2024年1月の南アルプス
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