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【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.17_メキシコ
【徒歩でテポナクストラ村へ】
天気は良く、村の西にあたる遠く離れた国道から山道に入り、約20km先のテポナクストラ村を目指して早朝に出発した。メンバーは、私とリーダー、女性隊員2名、それにメキシコの共同作業者と計5名だった。残りのメンバーは、別の村に向かった。1997年10月30日のことである。いつもは州都オアハカから約50km、車で約1時間のイクストランという小さな町を経て、東側の悪路の山道を約60km、6-7時間かけて行くのだった。
メキシコ
しかし、この時は途中のブエナビスタ村を過ぎたあたりで、大雨のため土砂崩壊が起こり、車での通行ができなくなってしまった。村に行くには、反対側から山道を歩かざるを得なかったのだ。出発点は標高約800m、2,000mの尾根を越え、また1,000m下り、村までまた1,000m登るのだった。
大雨で土砂崩壊 進めなくなった悪路の山道
【ケーキを持っていく】
この日はリーダーの誕生日だったので、女性隊員が大きな箱入りのケーキを買ってきた。女性に持たせるわけにはいかないので、私が手持ちで歩き始めた。すぐにテポナクストラの村人に出会った。手持ちで運ぶのは大変だと思う間もなく、彼はロバを曳いていたので、自分の荷物をロバに乗せ、ケーキを背負って運んでくれることになった。全くラッキー。私は両手が空いたので楽になった。
20kmの山道を歩いてテポナクストラ村へ。右の村人がケーキを担ぐ
山は雄大で、緩やかな登り下りとくねくねとカーブが続いた。日差しは強く、夕方ようやく村に着くころにはかなり疲れていたが、皆強かった。着いたのが遅かったので、泊めてもらう民家を捜すのは難しく、最近できた病院が開業直前で、その病院に泊めてもらえることとなった。家に帰った村人がしばらくして訪ねてきた。もちろんケーキを食べるためだ。それにしてもこのケーキを食べた時の村人のうれしそうな顔は忘れられない。ケーキなどめったに食べられなかったからだろう。実際、疲れたこともあり、ケーキの甘さが五臓六腑に染みわたり、今でも忘れられない美味しさだった。女性二人はベッドのある部屋で、男三人は別な部屋の床に寝袋で寝た。翌日三人とも他の二人のいびきがうるさく眠れなかったと笑顔で言い合った。
【村の状況】
この村は本当に山奥も山奥、スペイン人達の迫害から逃れて来たためだろう。おばあさん達はスペイン語が話せず、クイカテコと言う民族語しか話せない人が多かった。しかし、男の中にまれに英語が話せる者さえいた。それはほとんどの男は一度はアメリカへ出稼ぎに出るからだった。村人と山を回る時、彼らは必ず銃を持ってきた。アメリカで手に入れたものだ。現在アメリカで密入国が問題になっているがこんな山奥の先住民も多数、出稼ぎに行っていたのだ。アル中になり戻る者もいた。村には大きなマツが多く、マツを売っての生活である。
村から搬出される大径のマツ材
村は直接民主制で、つまり住民総会で全ての物事を決めて行く。農作業の後に疲れていても総会が開かれるのはいつも夜だ。総会中に時々、論文発表の時のようなチーンという鐘の音がする。聞けば寝ている住民を起こすためだという。村には上流域から村まで等高線に沿いわずかな傾斜をつけた水路があった。先人たちが作ったものだ。こういった水路はエコツーリズムで見せることができると思ったりもした。
森を歩いている時に、村人が銃で撃ったヘビ
村にはバスケットボールコートがあるが、犬の糞を避けてドリブルするのは難しく、不潔だったがそれでうまくなるのだろう。ただし、夜の野良犬は徒党を組み怖かった。その後、行くたびに異なる民家に、それぞれ長期に泊めてもらった。
トルティージャ(トウモロコシの粉をペースト状にして焼いたもの)が中心の貧しい食事だった。しかし、村人の心は暖かく、標高2,000mの夜は冷えたが、日干し煉瓦の家は温もりがあり居心地が良かった。ここで見た澄んだ夜空に輝いていた満天の銀河も忘れられない。
村の風景。日干し煉瓦の家は温もりがある
我々が歩いた道は、拡張工事をしていて、何年か後には車が通れる道となるということだった。グーグルアースで見ると、開通しているようだが、実際はどうだろうか。確かめも兼ねてもう一度村を訪ねてみたいものである。
つづく
9月の駒ケ岳
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.16_ホンジュラス
最近のホンジュラスは、人口当たりの殺人事件の発生件数が世界一のため、世界一治安の悪い国と言われている。それはホンジュラスにギャングの拠点があることらしいが、警察も政府も脆弱のためギャングを強く取り締まることができないため、犯罪が起きているとのことだ。私が仕事をしていた時も治安は悪いと言われていたが、差し迫った危険は感じなかった。また、ドミニカ共和国で一緒に仕事をしていた職員が、数年前に青少年教育のためホンジュラスのグラシアス・レンピーラという町に2年ほど滞在していたが、高官達の別荘が多い地域なので、治安は悪くはなかったとのことである。
ホンジュラスの位置
それはさておき、ホンジュラスでは奇遇とも言えるような出会いがいくつかあった。一つは大使館付きの医者が兄の友人だったことである。私が目にものもらいができ、その医者の世話になったことがあったが、その方はホンジュラスに来る前はタンザニアの大使館付きの医者だった。私の兄がタンザニアでチンパンジーの研究をしている時に兄と友人となっていた方だった。
また、私の娘の友人にも会った。娘が高校生の時に家の近くの教会のバイブルクラスに通っていて、そのクラスにいた男子が、たまたまホンジュラスに留学し、テグシガルパの下宿を訪ねて励ましたことがあった。
今回の話は、私の友人夫婦の奥さんがホンジュラスのある子どものフォスターマザー(養母という意味であるが、日本の支援団体を通じて発展途上国の貧しい子 供に援助金を送るシステムで、たまたまホンジュラスの子となった)になっていたので、私がその子の家を訪ねて行った時の話である。
さて、クリスマスも近づいた1995年の12月16日の土曜日に、一緒に仕事をしていたホンジュラスの林野庁の技術者にお願いし、そのフォスターチルドレンの家に同行してもらった。ダンリから首都のテグシガルパを通過し、そこからその子の住んでいる家に向かったので車で片道3時間くらいかかった。
訪ねた家族が住んでいた家の周り
お土産には何がいいか相談すると、貧しいだろうから米とか食料品がいいだろうというので、それらとチョコレートなどクリスマスプレゼントを大量に買って持って行った。
その村につくと目的の家はすぐに見つかり、子供と母親に会うことができた。
家の中
子供は小学校高学年、お母さんは30代半ばに見えた。やはり貧しかった。雑木林を切り開いたような所の掘立小屋に住んでいた。と言ってもブロック積みの家であったが。クリスマスプレゼントを渡したら一番喜んだのは母親だった。多少の生活のたしになると思ったからだろう。家の中にはハンモックがあり、小さな子供が寝ていた。部屋の仕切りは汚れた薄いカーテンだった。調理には薪を用いていた。子供は5人ほどおり、旦那とは離婚したばかりだと言っていたが、実際は良く分からなかった。
訪ねた家族とホンジュラスの技術者と私
この辺の主食のトルティージャ(水でこねたトウモロコシの粉を、鉄板の上焼いたもの)とフリホーレス(ペースト状にした豆)は十分に食べて行けるように思え安心した。貧しいながらもラテン系の例にもれず母親の性質は明るく、また子供の目もキラキラ輝いていたのが救いだった。とても賢そうに見えた子供で、よく勉強するよう励ました。今は35歳くらいになっているはずである。
アメリカへ向かってのキャラバンの参加者は、町の治安の悪さから町に住む人々が中心と思うが、このように田舎に住んでいた人たちはどうなっているか、とても気になっているところである
以前に書いたように、1998年ハリケーンミッチーに襲われ甚大な被害を蒙り,多くの国の援助が入り焼け太りし,建物も近代化し,2001年に訪問した時には,随分とアメリカナイズされたなと思わされたものだが、発展したと見せかけられたのはほんの一瞬だったのだろうか?