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【森林紀行No.1 7/18】「アマゾンの町ラゴ・アグリオへ」

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ラテン気質の役所MAG

MAGでの出発の打合せ

MAGで先発隊が打合せ、現地ラゴ・アグリオへの出発は7月15日の月曜からと決まっていた。この日に調査団からは、私増井を含めて4名が現地に行き、団長は航空写真の撮影契約の署名などの関係で担当の2名とともにキトーに残ることになり、10日ほど遅れてラゴ・アグリオに入ることになった。

先発隊が打ち合わせていたところによると、MAGから運転手付きで車が2台が提供されることとなっていた。しかも運転手の支払いも燃料の支払いもMAGが行うから調査団は心配しなくとも良いと言うことだった。現地で雇う作業員などの費用だけを持ってくれれば良いということだったので、私はにわかには信じられなかったが、月曜日にMAGで朝7時に待ち合わせて、ラゴ・アグリオに向かうということになった。

またラゴ・アグリオにはヒメネスというナポ県の営林署長がおり、彼が作業員の手配などを全て行うので心配はいらないとのことだった。なんとMAGは良いところだろうと思わされた。

 

出発が一日遅れる

翌7月15日、月曜日の朝7時にホテルをチェックアウトして荷物を全部車に積んでMAGへ行くとMAGが提供すると言っていた車も運転手も来ていない。カウンターパートも来ていない。1時間ほど待つと運転手とモリーナが来た。運転手の話を聞くと出張旅費などもらってないし、すぐには出発できないと言う。

モリーナにどうなっているのか確かめさせた。車もMAGでは出せないということだ。一体どうなっているのだ。森林局側の言っていたのは体のいい繕いだけだったのか。いずれにせよこれでは今日出発するのは無理だ。

ホテルにすぐ電話しチェックアウトを取り消してもらい予約を1泊延長した。分かったのは、MAGから車も人も出せるものではないことだった。だったらはっきり最初からそう言ってくれと。そうすれば、我々はそのように手配したのに。そこのラテン気質を私はまだ分かっていなかった。

人に後で大迷惑をかけるのであるが、その時は迷惑をかけてはまずいと思うのか、あるいは、人の喜ぶ顔がみたいからだろうか、できないこともできると言いたいのだろうか?ラテン気質の気楽さである。そんなことからやはり先発隊で来るのだったと思うのだった。海外では行き違いのないように、念には念を入れて確認してもなお予定通り行かないことだらけだから人には任せておけないという気持ちだった。怒り心頭に達したが、それは顔に出さずに冷静に、では一日遅れだが、明日の出発を次の手として考え、モリーナとマンティージャを巻き込んだ。

今使っているレンタカー会社に確かめさせると明日ラゴ・アグリオまで送るだけならジープタイプの車は1台確保でき、その後別の車を2台すぐに確保できラゴ・アグリオに送ることができるというので、取り敢えずラゴ・アグリオに行くのに1台はレンタカーを使うことにした。もう1台はMAGの中から手配するようもう一度捜させると、ちょうどラゴ・アグリオから来ているヒメネスがジープタイプのランドクルーザーで帰るので、それに半分のメンバーが分乗すれば明日出発できることが分かった。

そんなことで翌日運転手付きのレンタカー1台とヒメネスの運転するジープと計2台でラゴ・アグリオに出発できることになった。その後は後から来るレンタカーを使い、運転手の給料やガソリン代は我々が出すことにした。言ってみれば、費用は当初の想定通り日本側が全て持つことになったのだが、MAG側の見栄やプライドの高さといったラテン気質が混乱を招いたのだ。

 

ラゴ・アグリオへ。

1985年7月16日(火)キトーからラゴ・アグリオに向かって2台の車で出発した。レンタカーの1台は大型のジープタイプのシボレー社製の車だ。シボレー(Chevrolet)のことをここではチェブロレットと発音しているのが何となく陽気な響きに聞こえた。

7時20分にキトーを出発する。7時の予定が20分遅れただけなんて、この国では完璧に時間ぴったりだ。一日遅れではあるが。アンデス山脈を越えるのに最初はキトーから山を登って行く。私は何故か緊張していた。たぶんレンタカーの運転手が往復だけではあるが、アマゾン川の流域に行くというので緊張していたのでそれが移ったのだろう。さすがに地元民でもアマゾンに行くと言えば身構えるのであろう。

 

赤道直下の雪

頂上の少し手前から雪が降り出した。ここは赤道上の熱帯ではないのか?この寒さは何だ。気温は0度以下だろう。長袖や薄手のジャンバーなどを重ね着するが、防寒着でないので震えるほど寒い。とうとう峠の頂上に着く。ここは標高約4,000mだ。キトーが2,800mだから約1,200mも上がったことになる。

 

アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪.jpg

 アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪

 

峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる.jpg

峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる。

 

それから下り出す。下るにつれて今度は段々と暑くなる。寒帯から熱帯へだ。10時半にバエサ(Baeza)に着く。ここは標高は約800mで、もう気温は30度もあろうというくらいで、Tシャツである。

 

苗畑

バエサには苗畑があり、しばらく苗畑を見学する。マメ科植物の苗木が多かった。

バエサの苗畑.jpg

バエサの苗畑

 

マメ科の木が多い.jpg

マメ科の木が多い

 

 

伐採木の検問所

伐採木の税金を取る検問所もある。1立方当たり25スクレ(約50円)取るとのことだった。

伐採木を積んだトラック.jpg

伐採木を積んだトラック

 

伐採が進んでいるのだろう。バエサで昼飯を食べてから出発。

 

ドイツの協力プロジェクトを見学

午後3時頃ドイツミッションに出会った。近くでドイツが協力しているプロジェクトがあるという。そこでドイツの協力プロジェクトを見せてもらう。主に製材をしている。木材の加工技術の向上を目指しているのだ。

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ドイツの援助で作った製材所

 

セイケ(Seyke)、カネロ(Canelo)、セドロ(Cedro)という名の樹種から質の良い木材が取れ、長持ちするとの説明を受ける。

ここの名前はAssociacion Carpinteros Lumbaqui:ルンバッキ大工協会と言うそうだ。このプロジェクトスタッフとして働いていたのは、3人のスペイン人だった。ドイツの援助下でスペイン人が働いているのは言葉が通じるから雇ったのであろう。10cm×30cm×2.4mの材が普通材の倍の厚さで、セイケが240ドル(当時の円換算で約5万円)、セドロが400ドル(9万円)で売れると言っていたので、当時のエクアドルの物価水準からすると相当に儲かりそうに思えた。 

 

 ヒメネスの車がエンスト

そこを出発して、まもなくしてヒメネスの車がエンストして動かなくなる。直すのに大分時間がかかったがどうやら動くようになった。

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エンストしたヒメネスの車

 

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アンデス山脈を下ってなだらかになり始めるあたり。石油のパイプラインが並走している

 

  ラゴ・アグリオの手前にて

ラゴ・アグリオに入る手前にはかなり長い橋がかかっていたが、この橋は2年後に起きた地震で落ちたとのことだった。

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ラゴ・アグリオに入る手前の橋

 

道路の途中にあった食堂に寄るとチョウのコレクションが飾ってあり、その種類の多さに驚いた。また体の大きさだけでも10cm以上はあり、角までいれると20cmもあるカブトムシの標本が飾ってあり、これまたその大きさに驚ろかされた。アマゾン源流域の生物多様性の高さを最初から感じさせられた。同じ種類の昆虫でも体が大きくなるものは、日本のものとはこれほども違うのかと印象深かった。

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 途中の食堂の壁にかけてあった蝶のコレクション

 

いろいろあった一日であったが、夜の8時過ぎにようやくラゴ・アグリオに到着した。

 

つづく

【森林紀行No.1 6/18】「キトーでの仕事」

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資金の管理

当時十分な情報が取れなかったこともあり、キトーに事務所を持っていたある商社にも世話になった。到着翌日、エクアドルの事情はさっぱり分からなかったので、早速、銀行口座を開くのを手伝ってもらった。

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キトー市内 (1985年、2階バスも走っていた)

銀行口座を作る

キトーにはCiti Bankがあり、Citi Bankですぐに口座を開くことができ、業務費を預けることができた。これで日本から送金もできるようになり、また大量の費用を持ち歩かなくとも良くなった。そして業務費の一部をスクレに換金した。

小切手を作る

数日後、調査地周辺で、作業員らに支払うのも小切手の方が良いのだろうと現地ラゴ・アグリオにも支店がある地元の銀行(Banco Internacional:国際銀行)にも口座を作り小切手の発行を依頼した。

午前中に頼み、その日の午後にできるというので午後取りに行くと小切手ができていて受け取ることができた。当時は気がつかなかったが、今考えると小切手の作成を頼んだその日の内にできるなんていうことは信じられないくらい早い。

というのは2011年にアフリカのブルキナ・ファソの銀行で小切手を作ったが、できるのに2週間程度かかると言われて、実際できるのに2ヵ月近くかかったからである。また、ブルキナ・ファソでインターネット・バンキングをする手続きを開通させるのも数週間かかると言われ、その後何回も催促してようやく3カ月後に開通した経験と比べると四半世紀前のエクアドルの方がアフリカのブルキナ・ファソよりも、銀行の仕事効率は何十倍も良かったということだろう。ブルキナ・ファソもこんな状態でいるのでは、すぐに最貧国から抜け出すのは困難であろう。

それはそれとして、銀行の手続きに関しては、エクアドルは早かったが、その他のことに関しては、こんなに遅いのかと思わされることばかりだった。

現地では作業員などは小切手をもらっても、いちいち銀行に換金に行かなければならず面倒に感じていたようで、現金のほうが好まれた。

領収書

上述のように、銀行口座などを開くのも会計役の仕事であるが、私はこのころから会計役も行うようになった。現地で使用した業務費はすべて領収書が必要である。当たり前ではあるが、団員は誰でも業務費であれば、いかに細かいものでも領収書を取ることを忘れないように気を使う必要があった。私はそれらの領収書を整理保管し、帰国後精算報告書を作ったりもしていた。

不思議なことに、領収書をもらうことなどは日本では無意識に行っていて、何も気疲れなど無いが、外国だとまず当然のことながら日本語でないので、中身は何と書いてあるのか、きちんと書いてあるか、数量と単価はあっているかとか確かめなければならず、数字でも読めないことが多々あり、領収書をくれないこともあり、さらには、そのようなものを書いたことさえないという売り手がいたりするので、領収書一つ取るのにかなり気を使うのだった。そして数ヵ月も滞在すると領収書の数は膨大になるのだった。

準備作業

機材の購入

日本から持ってきた森林調査道具以外に、今回の調査では木を伐倒するので、歯渡り70cmの大きなチェンソーを2台買った。その他細々としたものを購入した。

当時のキトー市内には、今の日本の郊外にある大きなスーパーマーケットのような、セントロ・コメルシアル・エル・ボスケ(Centoro Comercial el Bosque:エル・ボスケ(森林)ショッピングセンター)というのがあり、そこでほとんどものを入手することができた。

IGMで地図など購入

IGMというのはInstituto Geográfico Militar(インスティトゥート・ヘオグラフィココ・ミリタール)といって軍地理院である。ここに航空写真の撮影を委託するのであるが、撮影が予定どおり進まずやきもきさせられるのであるが、その話しは後述する。そこでは各種の地形図、過去に撮影された航空写真、自然関係の資料等を販売しており、それらの資料を大量に購入した。

クリルセン

当時エクアドルにはランドサットの電波受信局があり、IGMの下部組織のCLIRSEN(Centro de Levantamientos Integrados de Recursos Naturales por Sensores Remotos : リモートセンシングによる自然資源総合分析センター)という施設で受信していた。我々はランドサットデータは日本で手に入れていたが、そこでの解析状況なども調査した。

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クリルセンの入口

車の購入

調査用の車は、購入された新車が2台調査団に貸与され、調査終了後にエクアドルの森林局に供与されることになっていたが、購入の手続きが間に合わず、開始時点ではレンタカーで行うこととなった。そのため車の借り上げ用の予算がついていた。しかし、車の購入は、調査団がエクアドルで購入するか、あるいは日本から輸入するかを決め、またそれらの手続きについて調べなさいとの指示が出されていた。

調べると当時エクアドルでトヨタのランドクルーザーや三菱のパジェロのような日本製の4輪駆動の車を当時販売している代理店もなく、購入できないことがわかった。

いろいろ調べて、エクアドル国内でトゥローパというジープタイプの車が買えることが分かった。しかし、その車は調査用には小型で、その割に高かった。我々はランドクルーザーのステーションワゴンタイプのようなやや大型でないと多くの人といろいろな機材を乗せられないので調査用にトゥローパを使うの難しかった。トゥローパを購入すれば手続きは、それほど面倒ではなかったが、やはり後の調査のことを考えトヨタのステーションワゴンを日本から輸入することを第一に、その手続きを詳しく調べることにした。

どのような手続きが必要なのかをいくつかの代理店で、詳しく聞き込んでもすぐに理解するのが困難であった。例えば、日本から車を送った場合には、エクアドル側で車を引き出す通関業務は誰が行うのか、MAGに業者を捜させるのか、その費用は誰が持つのか、また、税関から出るまでどれくらいの期間がかかり、保管料は誰が払うのか等々。また、車を引き出す時にどの機関の名義にするのかによっても手続きが違うので、頭を悩ませた。

そして輸入許可書は中央銀行から発行してもらうことが必要で、MAG大臣から企画省、産業省、大蔵省でそれぞれ許可を取った書面が中央銀行まで行くことが必要なことなどがわかってきた。しかし、すぐに対処する時間がなかったので、それは現地での調査が終わってから対処することにした。

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郊外の山の中腹ではグライダーやパラグライダーが楽しまれていた

 

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旧市街。先住民の子孫も多かった

 

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カヤンベ山(5,790m)

 

つづく

 

【森林紀行No.1 5/18】「共同作業機関と共同作業技術者など」

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共同作業機関(カウンターパート機関)のMAG(農牧省)

我々のカウンターパート機関(共同作業機関)はMAG(Ministerio de Agricultura y Ganadería : 農牧省)の中の一つの局であるDirección Forestal(森林局)であった。

翌日まずMAGへ挨拶と打合せに行った。既に先発隊がいろいろと打合せをしていたので、後発隊は主に、森林局で実際に一緒に仕事をするカウンターパート(共同作業技術者)との顔合わせであった。

この時強く印象に残っているのが、森林管理部長をしていたフアン・サリーナス氏である。(Ing. Juan Salinas ; Ing.はIngeniero。技師という意味だが大卒者への敬称)この仕事が終わるころには、彼は国際関係部長に移っていた。私にはこの方はメスティッソ(スペイン人とインディオの混血)のようには見えず、先住民の顔立ちに見えた。いかにも先住民の顔立ちで、それも威厳のある堂々とした大酋長のような印象を受けた。サリーナス氏は調査地域にはほとんど入らなかったが、キトーで様々に協力してくれた。また、サリーナス氏は住民の反対運動で調査地に入れないときに、調査団は太平洋岸を調査したが、その時には現場を案内してくれた。

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左からモリーナ氏、サリーナス氏、ヴィヴァンコ氏

その他、時々現場も来たが、主にキトーでいろいろ情報提供をしてくれた森林経営部の次長のオスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco)、実際に現場に良く来た森林経営課長のオスワルド・マンティージャ(Ing. Oswaldo Mantilla)、それに常時現場で一緒に働いたフアン・モリーナ(Agr. Juan Molina Agrは農業技士への敬称。)に挨拶をした。モリーナは専門学校卒でIng.ではなく、Ing.より地位が低い様な扱いを受けているように感じた。つまり日本以上の学歴社会が存在しているようだった。

 

共同作業技術者(カウンターパート)

キトーの森林局の本部から、この調査に最も多く参加したのは前述したように最初に挨拶した次の3人で、全員がスペイン系か、わずかにメスティソなのだろうかといったような顔立ちだった。

1.オスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco、共同作業技術者の実質のチーフ)

2.オスワルド・マンティージャ(Ing.Oswaldo Mantilla、ヴィヴァンコの下)

3. ファン・モリーナ(Agr. Juan Molina、現場の責任者)

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左からマンティージャ、モリーナ、ヴィヴァンコ

 

3人の中で最も若いが、最も地位が高かったのがヴィヴァンコで当時40代の前半だった。モリーナが40代半ば、一番の年上がマンティージャで50才前後だったろう。

ヴィヴァンコは非常に頭が良いと感じた。仕事のことに関しては、あらゆることについて、ヴィヴァンコに聞かなければ、はっきりしないのが実情だった。だからMAGの事務所に朝行ったらまずヴィヴァンコを捉まえなければ仕事が始まらないのであった。彼がすべて知っているので、当時MAGには、国際協力で、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツなどの技術者が出入りしており、どのチームもヴィヴァンコ以外は当てにしていない状態だったので、朝ヴィヴァンコを捉まえるのが競争だった。

マンティージャはかなり小柄であったが、アゴ髭をヤギのように生やし、ゆっくりと話をし、とても気の良いおじさんだった。マンティージャがゆっくり話すものだから私にも彼のスペイン語は良くわかった。

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マンティージャと私

 

マンティージャは調査の終わるころに日本に研修に来たのであるが、その時に大層疲弊した。カルチャーショックに耐えられなかったのであろう。大変に残念なことであったが、帰国後まもなく心臓マヒ(と奥さんから聞いた)で亡くなられた。

マンティージャと親しくなってからマンティージャは、「MAGはエレファンテ(象)と呼ばれている。」と私に言った。「どういう意味だ?」と聞くと「大きいばかりで何の役にもたっていない。」と答えた。

最初はそんなものかと思っていたが、実態を知れば知るほど、マンティージャの言う通りだと実感するようになったものだ。MAGの建物は新市街のはずれに位置し、白い十数階の大きな建物で、近隣に大きな建物が少なかったので目立ち、図体ばかり大きいエレファンテといったところだったのだろう。

そして、マンティージャはこう言った。「MAGの職員が働くのは週に1日、水曜日くらいなものだ。」と。一体なぜなのか尋ねると、「土日は、飲んだくれて夜中まで遊ぶのが当たり前だから、月曜日は疲れていて仕事にならない。火曜日もまだ疲れていて似たようなものだ。ようやく疲れのとれた水曜日に働ける。木曜日は週末の遊びを考えるのに忙しい。金曜日はそれでそわそわして仕事ができない。」と言うことであった。まさに実態を現していた。

私がマンティージャやモリーナの部屋で仕事をしていると別の部屋の職員が入ってきておしゃべりを始めるのであった。ひとしきりしゃべっていると別の職員が入ってきて、交代するか一緒になってしゃべっている。誰もこないと彼らが別な部屋に行っておしゃべりをしている。観察しているとだいたい勤務時間の大半がおしゃべりに費やされ、1日が暮れるのであった。

 それでも秘書のマリアさんは、おしゃべりに時間を費やすこともなく、真面目に良く働いてくれた。とても陽気な方だった。

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MAG森林局の秘書 主婦でもあったSra. マリアさん

 

ヴィヴァンコはモリーナを馬鹿にしていたように見える。いつもきつい態度で接していた。モリーナはヴィヴァンコに頭が上がらず、いつもヴァイヴァンコに気を使っていた。人間関係の難しさはいずこも同じと感じた。

モリーナは現場の責任者になるのだが、ラテン気質そのもので、私から見れば全てにいい加減のように思え、最初は波長が合わなくていつもイライラさせられていた。しかし、だんだんと彼にしこまれていき、私もモリーナとは良い友人となった。

私はモリーナにいつもこう言われていた。「マスイ。急ぐな。そんなに仕事ばかりやるな。人生は仕事だけじゃあない。イライラしたときのしかめっつらはやめろ。仕事も楽しく行え。楽しく生きろ。最後は全てうまくいく。ウワハッハッ。」と最後はやや甲高い声で大きく笑うのであった。

そして彼らの「明日できることは今日するな。」、「明日は明日の風が吹く。」といった生き方にだんだんと染まっていき、これこそがストレスを感じない生き方だと思うようになったのである。

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モリーナと私

 

MAGでの通訳

このとき、キトーの市内での通訳をしてくれた方は、結婚後キトーに住んでいる方だった。この方は日本の大学のスペイン語科在学中、東京のエクアドル大使館でアルバイトをしていた時に、大使館に勤務していたご主人に捉まり、結婚し、キトーに住むことになったとのことだった。

当時、10歳前後のお子さんがいた。日本の男の子よりもませているようで、お母さんにデートの相談などをしていた。通訳の方のしゃべるスペイン語はとても美しい響きがあり、エクアドル人よりも上手ではないかと思わされた。書いたりすると、実際向こうの人より、はるかに正確だった。

 

材積表

さて、作成する材積表はS/W(Scope of Work : 調査の枠組み ; 調査の内容を決め、最初に二国間で結ぶ協定書)調査団が概ね打ち合わせていたが、決まったものではなかった。そこで先発隊がエクアドル側と詳しく打ち合わせ、現在調査地域内で伐採利用されていて、かつ大木となる樹種6種とその他の樹種に分けて、2つの材積表を樹皮付きのものと樹皮無しのものと合計4種類のものを作成することとなった。その樹種はエクアドルではチュンチョ(Chuncho)、グアランゴ(Guarango)、イゲロン(Higueron)、グアパ(Guapa)、サンデ(Sande)、サポーテ(Zapote)と呼ばれている樹種だった。これは重要な決定だったので、その経緯を知っているべきで、私はやはり、これらの打合せの時には先発隊でいるべきだったと思った。

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どこまでも続くアマゾンの原生林

 

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原生林の上空から

 

 

つづく

【森林紀行No.1 4/18】「キトーにて」

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到着

キトーの空港では先発隊が借りあげていたレンタカーで出迎えてくれ、予約してあったホテルアラメダに向かう。ホテルアラメダはキトーでは高級なホテルだった。

チェエクインした後に町を散歩する。まだ、キトーの町がどのようなものだが皆目わからなかったが新市街と旧市街とに分かれているキトーで、ホテルアラメダは新市街外の中心にあったからまずは新市街を散歩した。日本でいうと銀座通りにあたるカジェ・アマソーナス(Calle Amazonas:アマゾン通り)に行ってみた。

何と乾いて澄んだ空気だろうか、何と深い空だろうか。キトーは標高2,800mの高地だ。それでこんなに空がきれいなのだろう。ペルーから続いたインカ帝国に来たような気分がした。実際、エクアドルは15世紀にはインカ帝国の領土だった。心は高揚し、何と素晴らしいところだというのが、キトーの第一印象だった。

しかし、どことなく暗い、それは強い光の中でサングラスをかけて見ているような感じだった。空気が乾燥しひんやりしており、夕方でビルの影が長くなってきて、光の強度が落ちて来たためだったのだろうか。赤道直下の高地だからコントラスが強いのであろう。

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キトー市、先住民も多かった

 町で見つけたカンビオ(Cambio:両替商)で早速、当面必要な自分の費用をドルからスクレ(Sucre:当時のエクアドルの通貨)に変える。この当時1ドルが約110スクレだった。円は1ドル約250円だった。

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 町で物売りをする先住民

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MAGからキトー市内を望む(1985.7.11)

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キトーから見える山ではピチンチャ山(4839m)が最高峰。中央のとがったところ

 

翌朝の不思議な頭痛

翌日起きると二日酔いのように頭が痛い。おかしいな?昨晩はアルコールは一滴も飲まなかったのに。時差で眠くてしょうがなくすぐに寝てしまったからだ。何だろうかと思っていた。しかし、朝食を食べ終わった頃には頭痛はなくなっていた。「そうだ。高山病だ。そうに違いない。」キトーの標高は2,800mもあり空気が薄いのだ。その後どこへ行っても階段を上ると息が切れるのがわかった。その後キトーに着くたびに翌日は同じ様な頭痛が起こった。

メンバー全員合流

前述したが今回の調査の目的は、2つに分かれていて、立木材積表作成調査グループと航空写真の撮影グループだった。メンバー全員が合流して、先発隊のMAG(農牧省)森林局での打合せ内容、準備作業の状況、今後の調査方針などを打ち合わせる。

ホテル

ホテルアラメダ

最初キトーで滞在したホテルは、既に述べたアラメダであった。値段は一流であり、部屋はまあまあ良かったが、全体としては一流半と言ったところであった。アラメダの長期滞在は経済的にちょっと大変だったので、そのときキトーに事務所を持っていた商社にも世話になっていたので、商社の方に紹介してもらい、もっと手頃なエンバシーというホテルに翌日7月10日に移った。ただ、アラメダのロビーは使い易かったので、人との面会や打合せに良く使わせてもらった。

ホテル アラメダの案内の女性

ホテルでキトー市内の地図を買ったり、絵葉書を買ったりした。

ホテルアラメダのインフォーメーションに座っていた女性は感じが悪かった。何かを聞いた時に、彼女が何と答えたか私には良くわかったのだが、スペイン語の練習のつもりで「Perdón. Otra vez, por favor? すみません。もう一度お願いします。」と言ったところ、「うるさい。あっち行け。」と言われた。まだこのときは、このような女性をなだめるほどスペイン語はうまくなかった。これでホテルアラメダの印象がすっかり悪くなった。

ホテル エンバシー

エンバシーは普通のホテルのスタイルの部屋とアパート形式のホテルがあり、アパート形式では、中に入ると大きな居間と2?4部屋くらいに分かれているタイプがあり、打ち合わせや、作業を行う関係もあり、アパート形式の部屋を借りることが多かった。値段が手ごろで居心地も良かった。

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 ホテル エンバシー

 

つづく

【森林紀行No.1 3/18】「いざエクアドルへ」

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先発隊が出発

第1回目の調査は、エクアドルへは初めて行くことになるので、先発隊が約1週間早く出発し、エクアドルの森林局と調査計画を打合せ、調査用の車両の手配や必要な資機材の調達などの準備作業を行うことになった。先発隊は、団長と団員のY君、それと航空写真の撮影をエクアドルの機関に委託して行うため、その契約と撮影監督のため、UさんとNさんの2人、合計4人が1985年7月1日に出発した。

私は後発隊となったのだが、この調査はすぐに私を中心に動くことになったことを思えば、先発隊で出発すべきだった。というのは、調査の立ち上げ時には、相手国の森林局とお互い見知らぬ同士、相当の緊張感を持って、会議、打合せをする最も重要な時期だったからだ。特に最初の会議で決まったことは後々まで影響するし、それを他のメンバーから伝え聞くだけでは、私自身の理解が十分でなくなる恐れもあったからだ。

最初に相手国と打ちわせる時には、本来、団員全員が出席するべきであると私は思っていたが、準備作業には、それほど多くのメンバーも必要ではあるまいという上司の意見に押されて、私は先発メンバーからはずされてしまった。その時、強く主張すれば私も先発メンバーに入れたが、初めて行く国での調査の立ち上げ時の困難さは、私が南米で最初に調査したパラグアイで経験しており、それに団の中での私の担当は、立木材積表作成の中心的技術者ではなく、補佐的な立場になっていたので、自分が先頭に立って行うというモチベーションが失われ、そのような意思と自覚にも欠けていたのである。

団長とY君が先発隊となったのは、エクアドルのカウンターパート機関(共同作業機関の森林局)への説明や交渉などを団長が行うのは当然のこととして、Y君はスペイン語がかなり上手になっていて団長補佐として適任だったからである。もちろんエクアドル国内で、通訳は雇うことになっていたが、団の中にも言葉ができるメンバーがいることは大きな強みだった。Y君は既にかなり込み入ったことでも通訳をできるくらいのレベルになっていた。それというものY君は青年海外協力隊で中米の国に2年間派遣され、スペイン語の基礎を身につけ、その後、この調査と同じ様なパナマの調査団のメンバーとなり、現地調査の後、何百ページもある報告書の翻訳を翻訳会社から派遣されたスペイン人と二人でかなりの長期にわたり、小部屋に閉じこもって、その作業にあたり、スペイン語の能力を飛躍的に向上させていたからだった。

さて、調査をするうちに、私は段々と先頭に立ち、責任感が増してきた。というのは、本来仕事の責任は団長がすべて取らなければならないはずであるが、団長が調査期間中、常時エクアドルに滞在しているわけではなく、団長の不在中は私が団長の代理をしなければならなかったからである。その結果、この仕事を通じて私が仕事を動かして行くのだという意思と自覚が強くなったのである。

 

後発隊として日本を出発

何はともあれ約1週間遅れて、1985年7月8日(月)に、後発隊として、WさんとI君との3人で日本を出発した。

成田空港17時20分発のJL0062便でロスアンゼルスに、差の関係で同日午前11時5分に着いた。ロスアンゼルスまでは、パラグアイの調査の時に何度も通った道で、もう目新しさは感じなかった。

ロスアンゼルは13時半に出発し、マイアミには21時15分に到着し、ここで一泊した。この間はアメリカの国内線で、パンナムを利用したが、そのサービスの悪さには閉口した。例えばパンを食べるのにも買わなければならず、それが6ドルで、10ドル渡すとおつりをすぐに持ってこないのであった。下りる間際までに何回かの催促をして、ようやく持ってくるありさまであった。催促をしなければ持ってこなかっただろうし、スチュワードはチップとしてごまかそうと思っていたのかも知れない。

マイアミに到着したのは夜で、予約してあったホテルまで空港のタクシーを利用したが、最初のタクシーには乗車拒否にあい、次のタクシーでホテルに向かった。何となく馬鹿にされた気分に陥ったが、1人でいてモンモンとするのではなく、3人で旅行していればストレスも3分の1で、何より安心感がある。

Wさんは人生を楽しむという点では人一倍長けていたから、ホテルに夜遅く着いたのにもかかわらす、バーに飲みに行こうという。一緒に一杯飲んでいるとアメリカに着いたばかりの緊張感が解け、リラックスでき、元気が出てくるのを感じた。リラックスさの重要さを改めて認識した次第である。

翌日7月9日(火)にマイアミを早朝出発し、午後2時にキトーに着いた。エクアドルには5,000m以上の高山が多い。天気が良ければ離着陸時はそれらを見ることができる。エクアドルの最高峰チンボラッソ山(Chimborazo)6,310mとカリウアイラッソ(Carihuairazo)山5,018mとも知らずに撮ったのが次の写真である。この他コトパクシ山(Cotopaxi)5,897m、カヤンベ山(Cayambe)5,790mなど有名なコニーデ型火山があり、赤道直下ににもかかわらず頂上付近には万年雪を抱き、その美しさは富士山に勝るとも劣らない。

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エクアドルの最高峰チンボラッソ(Chimborazo)山(6,310m)とその隣のカリウアイラッソ(Carihuairazo)山(5,018m)。共に火山

キトー(手前が旧市街、ビル街が新市街).jpg

キトー(手前が旧市街、ビル街が新市街)

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旧市街の市場 (1985年)

 

つづく

【森林紀行No.1 2/18】「アマゾン川源流域調査の内容と調査地域」

森林紀行

調査時期

エクアドルは、私には南米ではパラグアイに次いで、2番目に行った国である。海外出張ではインドネシアに次いで3番目に調査をした外国である。

エクアドルの地を最初に踏んだのは1985年7月だった。パラグアイの調査がその年の3月一杯で終わり、その後はエクアドルの調査の準備にかかり始めた。現在2013年だから、今から28年前のことである。この調査の中途には、住民(アマゾン川源流域への入植者と先住民)の調査への反対運動にあったり、1987年にはアンデス山脈の麓で地震があり、調査地域へ通じる橋が落ちたために調査が一時中断した。そのような影響で調査期間は当初の予定は3年間であったが、1年間延長され4年間となった。そのためエクアドルには1985年から1988年の4年間の間に7回訪問し、合計で約8カ月間滞在した。

調査計画

第1回目のエクアドルでの現地調査は立木材積表(立っている単木(一本の木)の幹の材積(体積)を求めるための表)の作成調査、第2回目が森林予備調査、第3回目が森林本格調査、第4回目が森林施業開発調査(森林を保護し、持続的に利用する計画作りのための調査)、第5回目が現地検証・審議調査、第6回目がドラフト・ファイナル・レポートの報告(最終報告書の原稿段階での報告)とされた。

調査団はこの調査計画に沿って調査を行ったのであるが、実際の調査に際しては、調査を進めるに従って分かってくる現実と机上で想定した状況との差、自然災害、人為災害など様々な障害となる事柄が起こり、また調査に関して二国間で結んだ協定の中身をエクアドル側が理解していないことなどもあり、修正に修正を重ねつつ調査を行い、ようやくにして最終報告書の作成までたどり着いたのである。

調査地域

調査地域はエクアドルのアンデス山脈を下ったアマゾン川源流域であった。「アンデス」や「アマゾン」と言う名前、この名前を聞くだけで、血湧き肉踊る。

「エクアドル」という単語は、スペイン語で「赤道」を意味し、「エクアドール」とドにアクセントがある。実際に国の北部に赤道が通っていることからエクアドルという国名になった。ついでながらダーウィンが「ビーグル号」で訪れ、進化論の着想を得たガラパゴス諸島もエクアドルに属している。

エクアドルの面積は約27万平方キロメートルで、日本が約38万平方キロメートルであるから日本の約4分の3の大きさである。人口は、現在は1,300万人(2010年)と推定されているが、1982年には約800万人と推定されていた。

中央にアンデス山脈が走り、太平洋岸がコスタ(Costa 海岸)、中央がシエラ(Shierra 山脈)、東側がオリエンテ(Oriente 東部)というように3地域に分けられ呼ばれている。調査地域はオリエンテのアマゾン川源流域であった。

オリエンテ地方が最も大きな面積を持つが、当時の人口は全人口のわずか2%程度で、未だに原始生活を保つ先住民(インディオ)の棲み家と言われていた。特に、敵の男の首を狩り、その頭骨を抜き取り、握りこぶしくらいの大きさに収縮させた干し首を作るヒバロ族がいるとのことだった。

そこは、アンデス山脈の東部にあたり、山脈の起伏部末端から平坦部に移行する標高500m付近からさらに東部に向かって標高が300m~200mで推移する地域であった。調査をしていると全体的に平坦に感じられたが、細かな波状地形となっていて、小丘、小谷が数多く存在している。

そして1960年代にこの熱帯降雨林の中に石油が発見され、1970年代に本格的に石油開発が進んだ。我々の調査の基地としたラゴ・アグリオ(Lago Agrio:酸っぱい湖という意味、今はNueva Lojaという名で呼ばれる)という町に石油開発の基地が設けられ周辺の道路の整備が進んだ。すると政府が入植政策を進めていたこともあるが、石油開発道路に沿ってアンデス山脈上の貧しい農民が、土地の権利書も無く、無許可のままこぞって入植、森林を伐採、焼却、開墾を始めた。そして、木材の利用者も無秩序に森林の伐採を始めたのだった。

無尽蔵にあると考えられていた森林資源は瞬く間に減少して行き、今衛星画像を見ると昔広大に広がっていた森林は相当に失われ、小さかったラゴ・アグリオやコカ(Coca)の町が大きく拡大しているのがわかる。

アマゾン川支流の住居_石油開発道路.jpg

アマゾン川支流の住居          石油開発道路に沿って伐採が進む

 

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南米の地図              エクアドルの地図

 

調査地周辺の地図(Lago Agrio?Coca).jpg

調査地周辺の地図(Lago Agrio~Coca)

 

つづく

 

 

 

 

 

 

【森林紀行No.1 1/18】「インディオの神秘な世界」

森林紀行

ここはアマゾン川の源流域。コカという小さな町の近くの森の中の湖である。湖の畔で、ターザンのように「アッアーアー」とか「ヤッホー」とか大きな声を出した。あたりは熱帯降雨林。高さが30mほどもある樹木が林立し、森閑としている。私の叫び声が静寂を破り、湖畔にこだまする。

アマゾン川源流域.jpg

アマゾン川源流域

昨日、我々の道案内をしてくれたインディオはどこから現れるのだろうか?すぐには誰も現れない。彼は約束を忘れたのではないか?あるいはまだ起きてないのか?さらに大きな声を出す。

すると湖の対岸に何やら動くものが現れた。対岸まで300m以上はあるだろう。何だろうか?良く見るとカヌーのようだ。双眼鏡で眺めると昨日のインディオが一人小さなカヌーに乗り、櫂を漕ぎながらこちらに向かってくる。「何事だ、これは?こんなことがあり得るのだろうか?」

森閑とした森の湖畔ではかなり先でも我々の声は聞こえるのであろう。あるいはそのインディオが我々とは違った超聴力を持っているのであろうか?

湖水は波一つたたず、透明度はなく、濃緑茶色の粘性の強い底なし沼のようにドロンとしている。不気味な湖水からは恐竜のような生き物が現れるのではないかと思わされるほどである。そこを静かに櫂を漕ぎ渡って来るインディオ。待つことしばし半時間。

何か不思議な神秘な世界に入ったように私は感じていた。

昨日仕事が終わった後のインディオとの話はこうだった。

「明日も続けて道案内を頼みたいので、明朝迎えに来るがどこに来たらいいのかな?」

その日の仕事が終わり、森の道案内人として雇ったインディオ(先住民)に尋ねると彼は、次のように答えた。

「この湖のほとりに来て、何か声を出してくれ。そうしたらここに現れる。」と言う。

「わかった。明日この湖畔に来たら大声で呼ぼう。そしたらここに来てくれるのだな。」

「そうだ。」

「本当にそれで会えるのだな。」と念を押した。

「心配するな。」

「じゃあ明日7時頃、夜が明けてしばらくしたらここに来るからよろしく頼む。」

「オーケー」

「じゃあ、きょうは、ムーチャス・グラシアス。アスタ・マニャーナ。(どうもありがとう。また明日。)」と言ってその日は分かれた。

インディオは、もちろん時計など持っていないから時間などはだいたいのところだ。家の位置などわかればとも思ったが、特に必要でもなかったし、雇ったのはこの日が初日で、エクアドル森林局のカウンターパート(共同作業の技術者)達もいたこともあり、詳しく聞かなくとも信頼できる雰囲気があった。

彼とは森の入り口付近でたまたま出会い、その森に詳しいということだったので、道案内を臨時に頼んだのだった。彼は、釣りのビクから針金を外したような網状に編んだよれよれの物入れを肩からかけ、汚れて破れかけたTシャツを着ている。彼のすぐ後ろにはとてもついて歩くことができない。というのは強烈な匂いを発しているからだった。風呂など入ったことがないのだろう。風向きにもよるが10m以上離れていても匂ってくる。少し間を置き、数m離れて歩いているのだが、それでも鼻がひん曲がりそうだった。しかし、森に詳しかったので、翌日も道案内を頼むことにしたのだった。我々は、車で鶏小屋のように汚いホテルに戻り、翌日の早朝7時頃、昨日と同じ湖畔に来たのだった。

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多雨そのものの熱帯雨林                森林調査

 

つづく

略歴

増井 博明 (ますい ひろあき) 神奈川県生まれ

(株)ゼンシン 技術調査室長

技術士(森林部門)、林業技士(森林土木)

信州大学 農学部森林工学科卒

 

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