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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.17

森林紀行

サッカーを楽しむ

 パラグアイのスポーツと言えばサッカーである。サッカーばかりで他のスポーツはないといっても良いくらいなところである。2010年南アフリカで行われたワールドカップでは、日本、パラグアイとも予選を突破し、次のトーナメントで最初に対戦したが、日本がPK戦で敗れたのはまだ記憶に新しいところではないだろうか。私はこの時は、セネガルの森林局で、このPK戦をみていて残念な思いであった。

 

 ところで、パラグアイ人は皆サッカーが上手である。これは子供の内からサッカーばかりやっているからで、一緒に仕事をしている森林局の職員も皆上手なことは前に書いたとおりである。アスンシオンで小学校の横を通りかかった時に見た光景では、休み時間に生徒達が新聞紙をまるめてボールに見立て、廊下でサッカーをしているのであった。当時、皆貧しかったのだろうが、ボールがなくてもどこでもサッカーはできるのである。

 

 セロコラ国立公園で、キャンプをしているある日、セロコラの軍の駐屯地の軍人チームが試合を申し込んできたのでパラグアイ森林局チームとで試合をした。ここにはサッカー専用の運動場もあったのだ。

 

 森林局チームでは日本人は、私を含めて数人参加し、大部分は、森林局の職員だ。私は、このころ日本にいるときは、ランニングをしていたので、長く走るのは得意だったが、短距離を早く走るのは今一つで、走り回っているだけで、なかなかボールには触れることはできなかった。

 

 今まで、キャンプの狭い道路でサッカーを楽しんでいたが、大きなグラウンドにでるとわけが違う。狭いところでやっていた時は、体力よりもテクニックのあるものの方が上で、ウエスペやカブラルの方がオルテガよりテクニックは上ではないかと思っていたが、大きなグランドにでると、まるっきり逆であった。

 

 オルテガは、もちろん狭いところでもうまかったが、ウエスペやカブラルの方がせこさがあった。しかし、広いグランドでは、オルテガのテクニックは断然に光った。彼は走るのが早く、体力もあった。縦にロングにボールを出せとサインし、その出されたボールにうまく追いついて捉え、直接胸でトラップしてそのままボレーシュート、得点である。相手にぶつかられても倒れないし、まるでプロの選手のプレーを見ているようであった。ロングボールを出したものもうまかった。こうしてプロ並みにボールを正確にコントロールできるものが、普通の人の中にも相当いるということである。

 

 

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パラグアイ森林局チーム。

後列中央でボールを持っているのが私

 

 試合は残念ながら惜敗したが、日本人が試合にでないで、森林局のベストメンバーならば勝てた試合であっただろう。その証拠にペドロ・ファン・カバジェーロの町でもバスケットボール場で1チーム5人のサッカー大会が開かれていたが、森林局チームは優勝していたのだ。それでもセロコラでの試合の時は、我々日本人も出場し、良い親善試合となった。

 

 

 

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.16

森林紀行

ヘビ、チョウ、ラン

ガラガラヘビのとぐろの横を通る

 ガラガラヘビは非常に多く、前述したように調査をしていれば一日に数回は見るくらいに多かった。1982年9月29日 (水)のことだった。森林調査をする時には、人一人が通れるくらいに森林を切り開き進むが、その通り道は風通しが良くなり、暑い林内でも多少は涼しい場所となる。するとそこにヘビが涼を求めて出てくることがあるのだ。この日、森林調査が終わって森林内を切り開いた道を帰りに私が通ったあと、すぐ後から歩いてくる作業員が「マスイ」と呼び、「後ろを見ろ」と言う。

 

 見ると50cmくらいの幅に伐開した小道の上に、ガラガラヘビがとぐろをまいていた。私はトグロの横10cmくらいの所を歩いてしまったのだ。そこでヘビが動いたので、私はさっと飛び上がってヘビを避けた。幸いガラガラヘビがにぶかったので、ガラガラも鳴らさず、かまれなくて良かった。ふんづけたりしたら大変なところだった。

  近隣の病院でガラガラヘビの血清を手に入れ、常時注射器と一緒に持ってはいたものの、かまれたら大変なことになっていただろう。幸い誰もかまれる被害にあわなくて良かった。

 

その他のヘビ

 なにしろ北東部はヘビが多かった。キャンプ地周辺で何やら大きなヘビを捕まえた。

 

捕まえたヘビ。2m以上。.jpg

捕まえたヘビ。2m以上。太いところで7?8cm

 

 

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道路を横切るヘビ

 

 種類はわからないが、気持ちの良いものではなかった。

  また次のヘビはサンゴヘビだが、毒のあるものとないものといるとのことだった。毒のあるものの毒は、強烈な神経毒とのことである。

 

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道路上にいたサンゴヘビ

 

 現地在住で通訳だった方は、キャンプ中に、自分のテントの裏で、5m以上もある大きなスクリュウーを見たとのことだった。スクリュウーとは水ヘビとのことで、アナコンダのことだった。アナコンダは凶暴で危険な大蛇であるが何事もなくて良かった。

 

 

チョウ

 林縁や道路上では何種類もの美しいチョウを見つけた。

 

 

チョウの他に木に色々な昆虫がいるのも面白い。.jpg

チョウの他に木に色々な昆虫がいるのも面白い。

タテハチョウの類であろう。

 

 

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美しいチョウが多かった

 

 

野生ラン

 森林内には樹木に着生した美しい野生ランが咲いているのを見る機会も多かった。

 

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着生ラン

 

 

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着生ラン

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.15

森林紀行

ペローバの純林を調査

 前に記したように、この調査の目的は、この地域の森林の資源量を明らかにして、森林管理のガイドラインを作ることだった。とりわけペローバの資源量を知りたかったのだった。つまり、自然が与えてくれたこの恵みが経済的にどれだけ持続的に貢献してくれるかを知りたいということであった。

 

 実際調査をしていて、伐採という行為が入らなければ、上層の大木のほとんどがペローバという状況は、ペローバが密生した純林ではないけれどもペローバの優勢林というものだった。調査中の私の感覚は、これだけペローバが優勢なのだからどこかにペローバだけの純林があるだろうというものだった。

 

 調査前に航空写真を判読している中で、樹冠が巨大で、樹幹が柔らかく重なりあい、その密度が非常に高い場所を見つけた。これは素晴らしい森林があるに違いない。ここがペローバの純林に違いない。私の頭の中では、それが確信になっていた。そこに林立するペローバの姿は、そこに行かなくとも想像できた。しかしそれを確認するために、そこには絶対行ってみなければならない。しかし、調査チームで行かなければ一人ではそこへは到達できない。そこで密樹冠林調査チームを作り、私がそのチームのリーダーでその現場に向かった。

 

 キャンプから車で、他には全く車が通らない森林内の砂地の道路を3時間ほど走った遠い場所であったが、ワクワクしながらその調査地に向かった。

 

 道路際に車を止め、その森林を目指して測量をしながら約2kmほど、人ひとりが歩けるくらいに森林を伐開して進んだ。数時間後ようやくその場所に行きついた。想像していた通り、樹高30m以上、胸高直径1m以上のペローバの大木が林立しているのであった。最大のものは直径2m以上もあり、この大木が1本だけでなく、大木はこのペローバ以外には見当たらない姿には圧倒された。

 

 ペローバというのはキョウチクトウ科の樹木である。パラグアイではセドロ、ラパーチョについて3番目に良い木とされていた。何に良いかと言えば、もちろん材木としての利用である。樹皮はクヌギのような縦割れが入り、やや粉っぽい白肌である。最大樹高は40m以上にもなる。それがhaあたり70本?80本もあるのである。つまり12m×12m四方くらいに巨大木が1本あるのである。他の樹種の巨大木は全く見当たらない、この姿が今はないのが残念だ。今残っていれば、遺伝子資源保存林など貴重な森林に分類され保存されただろうと。これも普通の木材の利用として、何百年も生きてきたのに一瞬のうちに伐採されてしまったのだ。

 

ペローバの巨大木の下で.jpg

ペローバの巨大木の下で

 

 

 この地域は全体的に平坦であるが、大きく波を打ったような土地で、多少高い土地と低い土地があり、ここは周辺の土地より高かったから、水分条件などで、この木にぴったりあう適地があるのである。

 しかし、私はこの時、ドジなことに車にカメラを忘れてきてしまった。車まで約2Kmを2往復。カメラを取ってきて写真を撮ったが、残念なことに、このペローバの純林の全体像を示す写真を失ってしまった。

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.14

森林紀行

悩まされた車

調査途中でエンコ

 ランドローバーは最初の予備調査の時は、新車で非常に強く、山の中をまるで戦車のように走った。道路からはずれても樹木が少ない所は林内でも小灌木をなぎ倒しながら、ゆっくりと進むことができた。しかし、それが良くなかったのだろう、やたらにギアを入れ替え、無理して走ったからすぐに故障気味となった。その後ずっと故障続きであったが、パラグアイでは中古車が多かったため、故障を直し直し使うのはむしろ得意であった。

 

川を渡るランドローバー.jpg

川を渡るランドローバー

 

 1982年9月23日(木)のことであった。普通は朝7時頃出発していたのであるが、この日はその時間には雨だったため、出発をためらい、しばらく様子を見ることにした。

 私はこの日は団長とカブラルと次に調査をするプロットのアプローチを探る仕事であった。30分ほど様子を見ていると雨は小降りになったので、カブラルの運転で7時半頃に出発した。10時頃まで車は順調に動いており、次に調査する起点をいくつか調べることができた。その後別な点を調べ終えてからエンジンをかけようとするとかからない。

  「いやいや、まいったぞ。」山中の草道であったが、多少の傾斜があったのが幸いした。カブラルが運転席に座り、バックにギアを入れ、車の前から団長と私の2人で押した。傾斜があったから動いたので、エンジンがうまくかかった。

 

 ほっとして次の点を捜しに行く。次の点でエンジンを止めて、しばらく調査をした後に、出発しようとするとエンジンは、またかからない。車が重いから相当に焦った。しかし、幸いなことに同じように多少の傾斜があったので、押しがけでエンジンがかかった。それからその日はカブラルにもうエンジンは止めるなとずっと動かしぱっなしで、帰りに国道沿いの修理屋で修理してもらい、何とかキャンプに帰ることができた。

 

 しかし、これが呼び水となったのであろうか。車の故障は完全には直っていなかった。これに続いてもっと恐ろしいことが起こったのである。

 

私のグループの車がエンコ、他のメンバーに助けてもらう

 翌々日の1982年9月25日 (土) にキャンプから車で3時間以上も離れたプロット61と62の偵察に他のメンバーとカブラルとの3人で朝7時に出発する。出発前に各チームは、今日はどのあたりに行くと150万haの調査地域全体をまとめたモザイク写真上に印をして出発するのであった。私は、いつものように、この日の調査地をモザイク写真に示し、他のメンバーに口頭でも伝えておいた。いくつかのグループが分散して夫々の調査プロットに向かった。

 

  目指すところはキャンプからは大分遠いところで、国道5号線から、1号線(ペドロ・ファン・カバジェーロとコンセプシオンを繋ぐ)に入り、1号線から途中行き止まりとなるが、森林に向かう道路があり、その道を約20Km 入ったところであった。そのあたりで、周囲を見ようと止まって観察してから、再度出発しようとしたところ、ランドローバのエンジンがかからない。その時、午前11時半であった。周囲は全く人の気配がなく、車も全く通らない。むしろこのようなところで人にあったら不思議なくらいであった。

 

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車がエンコした近くの道路

 

 その後雨が降ってきて、しばらくすると土砂降りとなる。3人で車の中で雨が上がるのを待った。雨が上がった後、不思議なことにどこからともなくブラジル人2人が現れた。カブラルも彼らが何者かわからず、かなり警戒していて不安そうだった。しかし、彼らはこのあたりに侵入してきた土地なし農民だったようで、親切だった。彼らがポルトガル語で話し、カブラルがスペイン語で話して、よどみなく話が通じるのが、不安を感じつつも面白かった。彼らが車を押してくれ、4人で押した。しかし、平らな砂地では車が重く、エンジンがかからない。そして残念ながら彼らは帰っていった。

 

 しかたなく我々だけではどうすることもできず、車の中で他の車が通るのを待った。他の車が通れば引っ張ってもらい、エンジンをかけるのだ。しかし、他の車は全く通らない。午後4時になった。その時わずかに太陽が顔を見せた。するとさっきのブラジル人が他に3人連れてきてくれ合計5人のブラジル人が現れた。我々はまったく人気のないところから現れる彼らに警戒心を抱いたが、どうも親切そうだ。

 

 もう一度車を押してくれた。今度は全員で7名で押したのだ。しかし、砂地の道路では車は重くやはり、エンジンはかからなかった。1時間くらい奮闘したが、再度雨が降り出し、急に激しくなった。そしてブラジル人は再びどこかへ帰っていった。そして夜の闇が迫ってきた。腹も減って来たが食べるものがない。午後8時には真っ暗になった。「困ったな。誰か助けにきてくれるだろうか。明日になれば車は通るだろうか?」

 

 しかし、午後9時頃になると車のエンジンの音がはるかかなたから聞こえるようになった。ひょっとして別のグループが助けに来てくれたのかもしれない。そしてエンジンの音からはっきりともう1台のランドローバーのものだと分かった。音は徐々に徐々に大きくなり近づいて来る。我々は確信を持った。我々の仲間だと。助かったと。そして約1時間後の午後10時、別のランドローバーで他のメンバーと通訳、それにクエバス、オルテガが助けに来てくれたのだった。

 

  そのランドローバーでエンコしていたランドローバーを引っ張るとエンジンはいとも簡単にかかった。この助けに来てくれたメンバーによると、今朝、印をつけたモザイク写真をみれば、このあたりは一本道なので、この辺にいるだろうとあたりをつけて来てくれたとのことだった。我々は本当にうれしかった。

 

検問所での仮眠

 それから来た道を引き返したが、また、また一苦労である。途中の検問所で止められた。夜中の1時であった。夜中は車を通さないとのことだったので、仕方がない。朝、関門が開くまで車の中で仮眠を取った。朝6時に関門が開き、キャンプには翌日の朝7時に戻ることができた。

 

 幸いというかその日9月26日は日曜日で雨だったので、調査は中止にした。翌9月27日(月)も終日もの凄い雨だったので調査は中止にした。キャンプのテントの中にいたが浸水するテントも出る始末であった。

  それから南風が吹きだし、ようやく天気が良くなった。しかし南風はここでは寒くなる証拠だ。南風は南極から吹いてくるとのことで極端に寒くなる。しかし、我々には暑いよりは寒い方がずっと楽で、仕事がはかどることになる。

 

 

つづく

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.13

森林紀行

第3回目の調査

旅行

 これまで2回の調査が終わり、第3回目の出発日は1982年9月13日(月)であった。この時は勤め先に午前11時に集合し、昼食後にメンバー6名全員で箱崎へ向かった

 

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成田17:45発ロスアンゼルス行きに乗る

 

 東京駅からリムジンバスで成田空港へ向かい午後2時半に着いた。午後4時半にチェックイン。待合室にいた外人を相手に英会話の慣らしをしようと近くにいた人に話かけるとイギリス人であった。こちらの話に、きさくに乗ってくれて話がはずみ、ちょうど良い練習となった。ロスアンゼルス行きの定刻は17時45分であったが、出発は18時半くらいだった。

 

ロスアンゼルスでスーツケースの行き先のタグがはずれていたこと

 最初にパラグアイに行った時に荷物が着かなかったことから、それ以降は荷物には、より慎重になり、トランジットの時に荷物を受け取って再度預けるような時には、荷物のタグがちゃんと行き先宛に付いているかどうか確かめるようにしていた。

  ロスアンゼルスではペルー行きへのトランジットであるが、荷物は、一旦受け取ってから、もう一度荷物専用のボックスに入れるのであった。その時、受け取った荷物を確認すると機材を入れたジュラルミンのスーツケースのアスンシオン行きのタグがはずれて無くなっていた。こんなことは信じられないが、空港の係員を呼んで、再度付けさせた。信じられなかったが、このようなことがあるのだ。いや、実際にあったのだ。これでは荷物は無くなるのも当たり前だと、再度思ったものである。本当に、航空会社のタグ付けにはよくよく気をつけていないと危ないと思ったものだった。今から35年ほども前のことなので、今ではもっとシステムやタグの付け方が良くなっているだろうから、このようなことは相当に少なくなってきてはいるだろうとは思う。今では積み残しの荷物が到着便とともに着かず、翌日とか数日先に着くようなことが、たまにあるが、ほとんど着くようなので、タグはきちんと付いているのだろう。

 

バレーボールの選手と同じ便

 ロスアンゼルスから日本のバレーボールの選手と近くの席だった。有名選手で大きい人ばかり。南、花輪など当時の有名選手である。女子も有名選手がいた。日本から持ってきた雑誌を見せてくれませんかと選手が言ってきたので、貸したりした。エコノミークラスにいたので、折り曲げた膝が前の座席にくっついてしまい、大きな選手がエコノミークラスにいるのがかわいそうであった。彼らはペルーで降りた。ペルーで試合があったのだろう。

 

森林調査(第3次本格調査)

 既に我々もパラグアイのカウンターパートも調査には慣れていたので、アスンシオン到着後すぐに調査に入った。

 

キャンプ生活

 予備調査の時からキャンプ生活をしたが、1981年と1982年の本格調査の時はそれぞれ1カ月半ずつくらいテントでのキャンプ生活をし、合計3カ月もキャンプ生活で過ごした。

 キャンプは川沿いできれいな水が流れている場所を選んだ。移動も慣れて来るとテキパキとできた。キャンプを中心に森林調査をし、終わると移動するのであるが、概ね1週間から10日程度で移動していった。

 

 おおむね30人の大部隊であり、長期であることからテントは4人用のものに2人ずつ入り、15張りくらい張った。キャンピングカーには団長と副団長が入り、航空写真など重要物を保管した。

 パラグアイの技術者達は、私のチームが来る前に第2次本格調査で、別なチームと既にキャンプ生活を長期にしているので慣れたものだった。移動時には大活躍であった。

 

  自分のテントを張るのは、皆それぞれ自分で行い、簡単であった。共同の休み場所なども大きなシートで屋根を作り、ジーゼル発電機を持って行ったので、それから電気をとるためのコードを張るのであった。また、木の枝の二股のところに横木を渡せるように3mくらいの長さに適当に伐ってきて、それを柱のように4本立て、そこに横木を渡し、その上にシートをかけ天井を作り、雨よけとした。その下には、同様な方法で、簡易なベンチを作り、皆が座れるようにした。この作業が楽しく、たいした時間がかからずでき、すぐに快適とはいかないまでも、その場で最善といったような住処ができるのであった。

 

キャンプ.jpgキャンプ

 

 穴を掘ってトイレも作り、発電機で電気を起こした。トイレは用を足したあとに土をかけて、次の人が使い易いようにしていたが、そうは言っても虫の量がもの凄いので、早技でするのであった。もたもたしていると大量のハエに悩まされ、また大量のブヨにさされてしまうのであった。

 

  食事は炊事係のおばさんを雇い、作業員と夫婦で雇った。炊事おばさんは、まだ若くなかなかかわいい人で、化粧でもすれば随分と美人になるだろうと思われた。小ざっぱりした格好で、朝からずっと料理の準備であったが、キャンプ生活も楽しいようで、旦那と一つのテントで過ごしていた。

 

キャンプでの炊事おばさん.jpg

キャンプでの炊事おばさん

 

まるでテレビ番組の「ローハイド」

 仕事が終わり、夕方帰って来ると、明るいうちは虫が多いので、暗くなってから食事である。それまで皆サッカーを楽しんだ。

 食事時間になるとサラとスプーンを持って順番に並び、炊事おばさんから料理をよそってもらう。30人分の食事は一日中準備が必要だが、献立は毎日似たようなものだった。だいたいが肉でもスパゲッティでも全部一緒に煮込んだものがほとんどであったが、疲れて腹が減っていたせいもあるが、とてもうまかった。この場面は、昔のアメリカのテレビ番組の「ローハイド」で、カウボーイ達がキャンプで食事をする場面とまったく同じであった。

  肉はすぐに腐ってしまうが、炊事おばさんは干し肉にして、保存するのであった。肉を細く切って物干し用のひもにぶら下げて作るのだ。干し肉がこんなにもおいしいものだとは、それまで私は知らなかった。干し肉にするときっとうまみ成分がにじみでるのだろう。

 

買い出し

 キャンプから近くの商店といっても、国道沿いにたまにある店屋に買いにいくのであるが、キャンプ地から国道まで20Kmも30kmも離れており、買い出しも買い出し係りが行うのであった。肉やその他の食糧やビールなどを大量に買ってくるのだったが、かなりの頻度で買い出しに行かなければならなかった。

 

つづく

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.12

森林紀行

調査中のエピソード

メノニータの入植地

 街道沿いにメノニータというドイツ人の宗教団体の入植地があった。彼らが入植している道路沿いに、彼らが経営している店屋が一軒あり、よく食糧の買い出しやガソリンの補給に行った。また、彼らに、周辺の状況を調べるために、状況を聞きに家を訪ねたことがあった。男女とも内部の付き合いだけで、外部の人達とは付き合うことはしていなかった。男達は我々が訪ねていけば、普通のパラグアイ人と同じように、何の違和感も感じることなしに話をしてくれた。だいたいは外で野良作業をしているのだが、馬車を使っているのが珍しく思えた。

 

 女性達はなかなか人前には出てこなかった。家を訪ねた時は、家の中できれいな格好で着飾っていたのには驚いた。我々が挨拶しても全く見向きもせず無視されたのには、さらに驚いた。

 当時はナチの残党もパラグアイにもかなり隠れているような話も聞いたが、このような閉鎖社会であれば、もしそのようなことがあればかくまうのは、それほど難しくはないのではないかとも思ったりもした。

 

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馬車を使っていたメノニータの人々

 

 

ホタルの目玉に驚く

 セロコラでキャンプをした時に、同じテントで過ごしていた同僚が、夜中に小用をたしに出てからあわててテントに飛び込んできた。大きな火の玉が2つ、自分の方に向かって飛んできたというのだ。この辺りには、ホタルが多く、パラグアイでは強い光を発するホタルがいる上に、外は真っ暗闇だったので、これはホタルだったのだろう。懐中電灯は持っていたが、その後肝試しのような怖い話をしあったので、二人とも恐ろしくなり、その後テントの外にでることができず、怖い思いのまま寝袋に入って寝たのであった。

 

 

ウラ(体に卵を産み付けるハエ)に刺されたこと

 周囲には、牧場が非常に多く、牛にはブヨやハエが無数と言っていいくらいにたかり、周囲をブンブン飛んでいる。そして、牛の肉の中に卵を産みつけ、卵からかえったウジが肉の中を動きまわるウラという名のハエがいた。牛の表面の皮が盛り上がっているとウラがいて太い血管のようで、中には血を流している牛もいた。このウラが人間にも卵を産み付け、地元の人はだいたいが、そのウラに卵を産みつけられ、その個所が膿んでくると膿を押しだして、膿とともにウジも一緒にでてくるのであった。

 同僚が、首の後ろをさされ、膿んできたので押してやると膿とともにウジが一緒に出てきた。その後、その場所が痛痒く、彼はそれでしばらく苦しんだ。帰国した後も、かなりの期間痛痒かったようだ。私も左肩の上の方をさされ、膿んできた。痛みが相当強く、自分で、押すと膿と一緒にウジがでてきた。私も帰国後も数か月という長い間、痛みを感じていた。

 

 

ピローポ

 スペイン語にはピローポ(Piropo)という言葉がある。これは街頭で、男が女にかけるほめ言葉であるが、知っている女性には言わず、知らない女性に声をかけるのである。おせじとかナンパ言葉とか訳されるが実態はそんな変なものではなく、美しいピローポはまるで美しい詩である。

 私が最初に聞いたピローポはウエスペのものである。これはきれいなピローポで、ウエスペもなかなかやるじゃんと思ったものである。

 アスンシオンからペドロ・ファン・カバジェーロに行った時であるが、ハイエースの車にウエスペと同乗していた。

 前述したサンタニの町よりやや北に、グアジャイビという町があるが、グアジャイビとは木の名前である。町の名前に木の名前がついているのであるが、その名のとおりこの町にはグアジャイビの木が多かったのだ。グアジャイビとはムラサキ科で、白い花が沢山咲き、ちょうどその時、その木の花期であった。

 その町で、少しの間車を止め、降りて休んでいたのであったが、道路の向こうから若いセニョリータがこちらに向かって歩いて来た。娘さんがちょうどグアジャイビの花の下を通りかかった時、ウエスペはその下で待っていて、私はその横にいたのであるが、その娘さんにこう言ったのであった。

 

 「お嬢さん。あなたは大変に美しい。今、花が真っ盛りなこのグアジャイビの美しい花を見て下さい。あなたは、あたかもグアジャイビの花のようだ。」

 そのセニョリータは、ウエスペの言葉が全く聞こえないかのごとく、無視して通り過ぎて行った。

 男にとって無視されるのは、全く問題ないことで、女は反応してはいけないのだ。それが習慣だということだ。しかし、気に入れば反応するのであろうとは思ったが。

 それから彼らを観察していれば、もうありとあらゆる若い女性に声をかけている。女性にとっても声をかけられないのは不名誉なことなのだ。ピローポとは実に素晴らしい習慣だと思う。日本にもこのような習慣があれば、人生はもっと楽しいものになっているだろうに。

 

 

カジノ

 ペドロ・ファン・カバジェーロは、田舎といった雰囲気であったが、ルーレットが公認されていることもあり、カジノが一軒あった。後学のために、ある晩、その店に連れて行ってもらった。小さなカジノで暗く汚く、華やいだ雰囲気は全くなく、客層も貧しい人が多そうだった。皆、大きな額は、かけてないし、私は勝負ごとは、得意でないので、見て楽しんでいた。見ているとそこにいたある中国人らしき人は、有り金のほとんどをすってしまい、最後の大勝負とばかりに持っていたチップをすべて、ある数字にバンという大きな音をたてて賭けた。そして、ルーレットが回転しだし、球が転がされると後ろを向いて祈っていた。回転が止まると球は、その数字の上にぴったりと止まり、大儲けをした。そのようなこともあるのだと驚いたものである。

 

 

気晴らし

 森林調査が終了してから、パラグアイ全体の林業事業調査などを行っていた。パラグアイの南部で協力している日本のプロジェクトなどへもインタビュー調査に出かけた。その折、イグアスの滝やイタイプのダムなどを見学する機会もあった。

 

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イグアスの滝

 

 イグアスの滝は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ3国の国境にまたがり、その幅、水量は世界一。落差はそれほどでもないが、その迫力には感動した。

 

 イタイプのダムはまだ建設中であったが、ロックフィルで堰き止めているダムで、長さだけでも8kmもあるとのことで、その巨大さに驚いた。

 

つづく

 

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.11

森林紀行

本格調査

チームに先駆けて出発

 2回目にパラグアイに行った時は、他のメンバーに先駆けて2週間ほど早く出発し、パラグアイで準備作業を行った。最初のパラグアイへの旅行で、ロストバッゲージとなったため、責任会社のバリグでは、補償金以外に、成田からロスアンゼルスまでファーストクラスを用意してくれた。1981年9月4日(金)の夜に出発した。初めてのファーストクラスであったので、やや緊張し、逆に何となく落ち着かなかった。

  この頃の座席はフルフラットにはならなかったが、10席ほどの座席は、一つ一つ独立していてステュワーデスがやたら親切に世話をやいてくれ、逆に見張られているような感じだった。ロスアンゼルスまでは、10時間弱なので、一眠りしたらもう到着という感じだった。

 

 時差の関係で同日9月4日(金)の午前中にロスアンゼルスに着くが、1984年のオリンピックに備えて大規模な空港の改修工事が行われており、大きなテント型のドームで待たされた。単なるトランジットであるが、入国し、数時間の後、ペルーのリマに向かう。リマでは、給油のため降りるのだ。既に夜だった。リマの空港内で2時間ほど待ち、リオデジャネイロに向かった。リオデジャネイロは朝である。ここではバリクの若い職員が待っていてくれ案内してくれた。前回のロストバゲッジのおかげでサービスは非常によかったが、ロストバゲッジとなった身としては、たまったものではないと思ったものだった。そして、リオデジャネイロからサンパウロ、イグアスと経由し、9月5日(土)の夕方アスンシオンに到着した。東京から36時間も乗り継ぎでくたくたに疲れるので、前回大使に勧められたように翌日は日曜で休日としたのだ。

 

 

冷や汗ものの第2グループ、予定日に到着せず

 さて、2週間ほどの間にペドロ・ファン・カバジェーロの現地に行って、作業員や必要な物資の手配など準備を行って、後発組が来るためアスンシオンに戻り、空港へ迎えにいった。第2グループは4人であった。1981年9月18日(金)に日本を経ち、翌日の19日にアスンシオン着の予定だった。空港で待っていたが、乗ってくる予定の便がその日、キャンセルになり、4人は到着しなかった。当時は今のように情報がすぐに伝わらず、到着しない理由はわからなかった。それに南米のパラグアイなので、明日には着くだろうとのんびりしたものだった。

 

  翌日、もう一度昨日と同じ時間に空港に、迎えに行くと1日遅れだが、前日の予定時間に第2グループが着いた。聞くとロスアンゼルスを飛び立った直後に、ジェットエンジンに鳥が吸い込まれ、同空港に引き返したとのことだった。離陸してすぐに着陸ということで、メンバーの一人はユカタン半島に着陸すると想像したそうだが、実際はロスアンゼルス空港に戻ったのである。ちょっとした冷や汗ものだったということだが、無事、ロスアンゼルス空港に着陸できて良かった。

 

 

激しいジンマシンになる

 最初にカウンターパートと共に日本人は私一人で、現場に行っていろいろと準備をしていた。作業員や必要物を手配した後に、調査地域の外周を車で走れる範囲で回ってみた。その偵察には、数日間要し、森林の概況を調べた。その時、森林内で、何かにかぶれたのだろう。ホテルに戻ってから全身が腫れあがるほどジンマシンが出て、かゆくてたまらず、怖いほどであった。そのようなときのため、レスタミンの錠剤を持っていた。この時、抗ヒスタミン剤は、非常に良く聞くと思った。まだ、時差もあり、強い睡魔におそわれて、着の身着のままで寝てしまったが、翌日にはすっかり直っていてほっとした。

 

 

森林調査

 本格調査では、調査グループもグループに配置した人数も多く、日本人、パラグアイ側のカウンターパート(共同作業技術者)、それに通訳や運転手、作業員や炊事員などを入れると合計で30名と大部隊となった。

 

伐採地から森林へ入る。既に多くの森林が伐採されていた。.jpg

伐採地から森林へ入る。既に多くの森林が伐採されていた。

 

 これを動かすのは私の仕事で、人と車を配置し、班編成をする。単純なのだが、能率的に動かそうと分割するほどに複雑になり、難しかったが、パズルを解くようで、面白かった。

  また、航空写真の枚数が非常に多く、毎日キャンプに帰っては、その日のまとめと、翌日どこへ行くか、航空写真でルートを追うのに苦労した。

 

 

車の借り上げや保険の手配

 30名近い人数になると調査団が用意した車両だけではまにあわず、ランドローバーのようなジープタイプの車も数台借りあげる必要があった。これらも日本のように大きなレンタカー屋があったわけではないので、知り合いのつてを頼って、車を沢山持っているアルゼンチン人やドイツ人などから個人的に借りる交渉をし、車がちゃんと動くのかとか金銭面の交渉とかこまごました準備が続いた。

 

  また、雇用する作業員や運転手などには万一の場合に備えて傷害保険を掛けることとし、こういったことの交渉や金銭の管理や事務続きなど、仕事を動かす上での縁の下的な管理も私が行っていたので、いろいろな面で苦労したが、良い経験であった。

 

 

買い物

 調査はキャンプが中心になるため日本から10張り程度軽くてコンパクトなテントを持って行ったが、必要数の半分ほどであり、10張り程度はアスンシオンで調達した。パラグアイ製のものは(輸入品かもしれなかったが)昔の日本のテントと同じで、家形の黄色い布で作られ、重いものであった。細かい食器類等はペドロ・ファン・カバジェーロで買った。

 

 

逃げたこと

 調査は、伐開班は技術者が測量しながら、その先を作業員3名で、斧やマチェーテ(ナタ)で人が歩けるように邪魔になる樹木を伐採しながら、数百mから数km進んで調査プロットにたどりつくのであった。

 測樹班がその後に入るのであるが、ある日、伐開班が前日から伐開しており、伐開班後に続いて測樹班も後を追って入っていった。その日私は測樹班で、周辺にある樹木を観察しながら後から進んでいた。森林に入った起点から約2kmほど進んだところに来たところ、ずっと先の方で先頭を伐っていた作業員やらパラグアイの技術者たちが「逃げろ」といいながらこちらに全速力で走って戻って来る。彼らが何を言っているのが詳しくは分からないが「マフィア」と言う言葉が聞きとれ、大声で「逃げろ」という。

 訳が分からなかったが、取り敢えず、全速力で一緒に走って逃げた。道路際においてあった車に駆け込み、全員が乗り込んだ。乗り込み終わるのを見届けるや一目散にペドロ・ファン・カバジェーロに戻った。

 ペドロ・ファン・カバジェーロに着いて、カウンターパート等に良く聞くと、先頭を伐採していた作業員が、伐開している先に黄色のテントを見たとのことだった。それは麻薬栽培をしているマフィアのものに間違いなく、もし、彼らに見つかれば殺されるのは必定だとおびえながら語った。

 

 それで彼らに発見される前にすぐに逃げ出したとのことであった。その場所は航空写真上では森林として映っていたので、撮影後に伐開されたのだろう。実際に航空写真上には所々であるが、大森林の中にポツンとわずかに切り開かれたような場所がある。私はインディオの家かと思っていたのだが、彼らならばもう少しまとまって住むだろう。麻薬栽培の可能性は高いと思った。非常に恐ろしいことだった。

  JICA事務所にも連絡を取り、そのプロットは棄て、航空写真上で、森林内で切り開かれたところは避けることにし、調査を再開したのであった。

 

 

つづく

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.10

森林紀行

森林調査方法の決定

軽飛行機でフライトサーベイ

 翌12月10日(水)は、前日よりさらに暑く、また前日の晩、ホテルの部屋のクーラーが壊れ、クーラーが入らず、朝から熱中症気味だった。

 しかし、この日は軽飛行機で、調査対象地の上空を3時間も飛んだ。いろいろな発見ができ、面白かった。しかし、森林の伐採は予想以上に激しく、原生林の存在は本当に貴重なものになっているのが良く分かった。

 

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軽飛行機で偵察飛行。

 

大変な伐採量

 どこでも牧場が入り込み、木を伐り出すための道路を勝手に作る。全く伐採量と言ったら凄いものである。国道5号線を20m3ほども大量に丸太を積んだトラックが1時間に20台くらい通る。朝から晩まで通っているが単純に考えて、約半日トラックが通ったとしても1日5,000m3もの木材が伐り出されていることになる。伐採木は優良木で太い木しか伐っていないし、優良木は平均して1haに50m3程度しかないから1日に100haもの森林から抜き伐られていることになる。1年で3万ha近くもの森林が伐採される。これでは100万haの森林があっても30年で無くなってしまう。実際は、そんなことはないだろうと思ったが、3年後の調査終了時に森林管理のガイドラインが完成した頃には、本当に役だてられるか不安に感じたものである。実際には、それよりもっと早いスピードで森林は無くなってしまったのだ。

 

山が静かだったという印象

 日本の山だと鳥の鳴き声をかなり聞いたり、夏であればセミの声に、耳も痛くなるくらいにうるさいところがあるのに、パラグアイでは飛んでいる鷹類は見たが、鳥の声はあまり聞かず、セミの声もほとんど聞かなかった。何か、森林全体が静かだったとの印象がある。

 

動物

 森の中で調査をしていると、人間の声などがうるさいので、動物は逃げてしまう。ピューマやバクがいるということだったが、それらは見なかった。作業員らの話では、ピューマに襲われ、亡くなった人もいるとのことだった。ピューマはペドロ・ファン・カバジェーロに来る前に途中で調べた森林近くに住む人が頭蓋骨を小屋に飾っていたことは既に述べた。アルマジロは良く見た。みつけると作業員がすぐにオノで叩いて捕まえた。家に持って行き食べるとのことだった。

 

アスンシオンに戻る

 予備調査ではその後、アスンシオンに一旦戻り、パラグアイの林野庁の長官などに森林の伐採状況のひどさや調査の状況を報告し、危機感をあおったが、あまり感じていないようであった。

 

調査方法を打ち合わせる

 アスンシオンで森林調査方法の打合せをしたが、この当時、林業分野での日本の国際的技術協力も始まったばかりで、南米の森林状況の情報も少なく、調査方法も手探りな状況であった。そのため森林開発計画のガイドラインを作るといっても、我々の得意な分野、それは航空写真を判読しての土地利用図や林相図(樹種、樹冠測樹密度、樹冠の大小、樹高などにより示される森林の様相)などを作り、森林調査を行って資源量がどれくらいあるかを明らかにするまでは、それほど難しくなかった。

 その後、森林調査以外に、土壌調査や林産業調査などの社会関係調査などを行うか行わないか、また行う場合にはどのように行うかは、調査を開始したものの、その方法はまだ検討中だった。

 そこでは土壌状況がわからなければ植林樹種もきまらないと、当然ながら次の調査から土壌調査を行うことになった。また、社会関係調査も当然行うべきとなり、後の調査では、林産業調査や関係者や住民へのアンケート調査などを行った。

  そして疲れた体にアスンシオンで活力を入れ、体制を立て直し、もう一度ペドロ・ファン・カバジェーロに向かい、森林予備調査の続きを行い、正月前にアスンシオンに再度戻ったのであった。

 

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プロットに到達するため小川を渡る

 

元日

 1981年の元日、調査で疲れた体で、人気のない、アスンシオンの町をぶらぶらと散歩した。軍隊の基地の前を通った時は、番兵が銃を持ち、正面を警護しており、こちらを怪しいものを見るような目で見ている。ここはやばそうだとそっと避けるようにして回り道をした。その後森林局での打合せや報告を行い、1月6日(火)にアスンシオンを発ち、1月8日(木)に日本に一旦、帰国した。

 

帰国後の森林調査方法の検討

 帰国後、予備調査の結果を分析した。森林の状況が分かったので、それに基づいて森林調査方法を決めた。まず、航空写真の判読基準を決めて、土地利用の区分と森林の区分を作った。森林資源に関してはどこにどのようなタイプの森林があり、各タイプにはどのような樹種があり、どれだけの資源量があるかを推定することにした。林相図に対応する森林調査簿も作成するのである。

 森林というのは広大で、一本一本全ての木について調べられるわけではないので、一部を調べて全体を推定する統計的な手法を用いた。層化無作為抽出法というものを用いたのである。

 

 ごく簡単に言葉で説明すると次のような方法である。これは航空写真を判読して似たような森林にグループ化し、そのグループの面積割合により、サンプルであるプロット(標本地)を選び、その標本の中にある木を全て調べるという方法である。層とはグループのことで、グループ内の偏差(かたより)を少なくする、つまりできるだけ均一(同じ様)なグループになるようにグループ化し、グループ間の偏差を大きくするのである。つまり層間の偏差を大きくし、できるだけ異なったグループに分けることができれば、より少ない標本で、全体が推定できるのである。層内分散を小さくし、層間分散を大きくするということである。

  プロットは地図上にメッシュ(縦横の網目)を描き、行(横方向)と列(縦方向)に番号をつけ、ランダムに必要数を選定した。

 

森林調査方法の決定

 プロットの大きさは500m×20mとし、その中を50m×20mの小さな10の部分(小プロット)に分けて調べることとした。統計的手法で精度と誤差率を推定し、総数で約90点を調査する設計となった。

 調査グループは3班に分けることとした。

 1班は、偵察部隊で航空写真や地図上に落とした標本までアプローチする道があるか調べ、無い場合にはどこを起点にしてその標本の始点まで行きつくか、所有者への許可取りなどを担当することとした。プロットを調べる場合、その場所が、国の所有になっている場合には森林に入るのに、問題はないのだが、森林の前に牧場が広がっていて所有者がいたり、所有者でなくとも近隣に住民が住んでいる場合には、それらの人の同意を得る必要があった。

 第2班は、伐開班で、標本設定グループである。アプローチ起点から標本の始点までと標本内の500mの中心のラインを伐開して、次の測樹班が歩けるようにする。標本は50mおきに杭を打ち、杭には赤の標識テープを付け、分かるようにする。また、その中心ラインから左右に10m離れたところには25m置きに杭を打ち、同様に赤の標識テープを付け、プロットの境界がどこかわかるようにプロットを設定することとした。

  第3班は測樹班である。パラグアイの森林局で樹種判定ができるものを配置し、樹種名を判定し、樹高と枝下高はブルーメライスという測高器を用い、胸高直径は直径巻尺、枝下高の直径はペンタプリズマを用いて測ることとした。

 

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測樹

 

 

 

つづく

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.9

森林紀行

セロコラでの森林調査

キャンプでの朝

翌1980年12月4日(木)、キャンプ地では、朝霧が晴れてモルゲンロートという感じのきれいな朝焼けであった。

 

調査地に入る前の挨拶

昨日偵察しておいた場所へ行く。どこの森林に入るにも牧場を通らねばならず、必ず持ち主に挨拶が3回くらいある。それに非常に時間がかかる。話好きのパラグアイ人はテレレやお菓子を出してきて、話していれば1時間でも2時間でも平気でしゃべっている。永遠にしゃべるのではないかと思わされる。

言葉はポルトガル語かスペイン語かグアラニー語である。この時は、スペイン語もさっぱり聞き取れず、何語で話しているのかさえわからなかった。

 

テレレというのは、牛の角を容器にし、その中にマテ茶を入れて、冷たい水を注ぎ、ボンビージャと言って、先にマテ茶の葉をこすものがついた金属製のストローのようなもので吸って飲むのである。そこにいる全員がボンビージャを吸って回し飲みする。何人もの人が同じ吸い口に口をつけるものだから何となく、ためらいを感じてしまうが、酒のおちょこの回し飲みも似たようなもので、慣れるとどうということはない。お湯をいれたものをマテと言う。

 

調査地の設定

牧場からようやく森林の端に到達する。起点を決めて航空写真上に指針(その位置を航空写真上に針で刺し裏側にそのポイントがわかるように記載)する。起点から林縁の影響を避けるため、測量して約250m奥に進む。ここは、高木は予想外に少なく、既に抜き伐りされている。そのため光が入るとやたらに灌木が生え、ブッシュとなっている。その後プロット(標本地:大きさを500m×20mとした)の長さ500mを加え合計750m進むのに、作業員3人がブッシュを伐り開き、その後を別な3人で測量して進むだけでも丸々1日かかってしまった。

 

虫ノイローゼ

最初森林に入った時はブヨの多いのにびっくりした。虫ノイローゼという言葉があるというのを聞いていたが、なるほどと思った。長袖を着ていたが、顔の回りや皮膚がでているところにはブンブン、ブンブンとブヨが飛びまわり、葉っぱのついた細い木の枝で常に顔の周りをはたいていないと無数のブヨがたかるのであった。一瞬でも手を休めると、すぐにブヨだらけになってしまう。さされるとかゆくてしかたがない。

 

これは周辺に牧場が多いからだ。牛の周りには無数のブヨがたかっている。近くに牧場がある森林に入ると無数のブヨが寄ってくる。近くに牧場がなければブヨはかなり少なくなる。

日本からはセンスを持って来ていたが、ロストバッゲージになってしまったために無い。しかし、センスでよけられるようなブヨの量ではない。次回からはうちわを持ってこようと思う。

 

測樹

翌12月5日(金)は昨日設定したプロット内を測樹する。プロットは50m×20mの小プロットを10個つなぎ合わせたものにし、合計で500m×20mとし、1haの大きさとした。その枠の中に入る胸高直径(1.3mの胸の高さ)10cm以上の樹木全てについて、樹種、樹高、枝下高、胸高直径、枝下高の直径を測るのである。

その日は1日かかって、プロットの半分も測樹できなかった。枝下高の直径はアメリカ製のペンタプリズマを日本に取り寄せて、日本からパラグアイに持ち込んだ。ペンタプリズマというのは、簡易に直径を測ることができる機械で、機械の中にプリズムが入っていて樹木までの距離に関係なく、カメラのファインダーのようなものを覗くと、樹木の幹の左端と右端を直線で合わせられるようになっていて、それを合わすと、バーが幹の直径と同じ長さにスライドし、幹の直径が測れるものである。

 

林内でのバーベキュー

昼は持って行った肉を林内で焼いて食べた。朝国道沿いの店で大量に買って持ってきた。

しかし、暑いので肉はすぐに痛む。焼こうと思ったところ、既にウジが湧いているのもある。しかし、焼いてしまうので大丈夫だろう、ちょっと痛みかけた肉の方がおいしいだろうと焼いて食べた。これが何とも言えずおいしいのである。

しかし、パラグアイ人達も食べ過ぎか肉が痛んでいたかで、翌日は腹を痛めた模様である。幸い私はこの時は大丈夫であった。

 

林内で肉を焼く.jpg

林内で肉を焼く

 

ようやく1プロット終わる

翌12月6日(土)はペドロ・ファン・カバジェーロから昨日と同じプロットに向かい、残りの測樹を行い、ようやく1プロットの調査が終わる。終了後、再度キャンプへ向かう。

 

グアラニー族の大酋長に会う

12月7日(日)は朝7時に出発。別のプロットを捜す。途中、先住民に会う。筋骨隆々で、背中に銃とアルマジロを背負っている

 

銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民.jpg

銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民

 

9時頃先住民の部落へ着く。パラグアイの先住民はグアラニー族というが、その中のAba族と言った。聞くと75才だというじいさんが孫の面倒を見ている。いろいろ話していると大酋長がいるからそこへ挨拶に行こうという。

すぐ近くで約1Kmの道程だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いつくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。着いてみれば決して近くはなく、1時間以上、約5km程歩かされて、大酋長の家に着く。この辺の先住民達には1時間歩くなんてたいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。

 

残念ながら、大酋長は、全くの文明人となっていて、大酋長というよりもそこらの「おっさん」という感じであり、期待はずれであった。グアラニー語を話し、スペイン語は話さない。

知事の保護認定書を持っており、その内容は「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をするな。」というものであった。

 

グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。.jpg

グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。

 

先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう.jpg

先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう

 

先住民の大酋長の家では弓を引かせてもらったり、ハンモックで休ませてもらった。

その後、その日は昨日のプロットに戻り、そのプロットの500mのラインを設定して終わる。直射日光は森林のないサバンナ状の場所ではもの凄い強さで、とてつもなく暑い。林内も雨が降らなくなり段々と暑くなってきた。

 

ひどい下痢になる

翌12月8日(月)はもう一度プロット1を確認しに行く。途中でシカを見る。アリ塚がもの凄くある牧場がある。この日の暑さはもの凄く厳しかった。

 

キャンプに戻るとグロッキー状態だ。すぐに横になる。熱中症だ。水を十分に取り、元気になり、回復した。その後、下痢となり、ひどい状態だ。原因は昼に飲んだテレレに違いない。汲んできた川の水をテレレにそのまま注ぎ、飲み回し、回りに牧場が多かったので、牧場から牛の糞などが混じっていたのだろう。パラグアイ人も同じようにテレレを飲んでいたが、彼らは慣れているので何ともなかった。もっと気をつけるべきであった。

 

レラスコープの使い方のトレーニング

翌12月9日(火)は、3番目のプロットの偵察を行いつつパラグアイ技術者へレラスコープの使い方を教え、トレーニングをする。レラスコープというのはオーストリアのビッターリヒ博士により考えられた「林分胸高断面積測定法」を応用し、森林の万能測樹高器として発明されたものである。傾斜地の距離、樹木の直径、樹高、胸高断面積などを測れるのである。扱い方が少し難しく、慣れが必要で、皆すぐには使えるようにはならなかった。

測定には、レラスコープよりも樹高はブルーメライスという簡易な測定器、直径は直径巻尺とペンタプリズマで測るのが簡単で効率はずっと良さそうだった。

午後はキャンプを片付けてポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケへ戻った。

 

 

つづく

 

 

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.8

森林紀行

森林調査

セロ・コラ国立公園でキャンプ

  1980年12月3日(水)は、ペドロ・フアン・カバジェーロから車で約1時間半、南に行ったところにセロ・コラ(Cerro Cora) 国立公園のキャンプ場があるので、そこでまず森林調査の予行演習をしようとそこへ向かう。途中ガソリンを入れにいくが停電で30分待たされた。

 

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セロ・コラ セロはスペイン語で切り立った岩山、コラはグアラニー語で周辺という意味

 

  正午に国立公園の事務所に着いた。事務所は軍隊が管理しており、その隊長へ挨拶の後、午後からキャンプを設営する。

  キャンピングカーの冷蔵庫は、早くも故障し、冷えなくなった。午後国道5号線(コロネル・オビエドからペドロ・ファン・カバジェーロ間の国道)をペドロ・フアン・カバジェーロ方向に戻り、森林に入る。

 

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キャンピングカーと近くに張ったテント

 

ガラガラヘビを捕まえる

  途中山の中の道路上で、ガラガラヘビを捕まえる。約1mの長さで太い。パラグアイではガラガラヘビの尻尾の先端で、ガラガラがついた部分をお守りとするそうで、パラグアイの技術者が、そこを切り取りお守りとして大事そうにしまう。

 

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ガラガラヘビを捕まえる

 

  ガラガラヘビの尻尾の先端は小さな粒のような殻が、重なってくっ付いていてその中に小さな玉が入っている。その小粒の石のようなものが、ヘビが興奮して尻尾を震わせると殻に当たりガラガラなるのである。その殻の数から8才のヘビと分かる。1年に1つづつ殻が増えるのだ。

 

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ガラガラヘビの尻尾

 

  それにしてもパラグアイの北東部地域はガラガラヘビとトカゲが多いと思った。山道をやたらに1m前後のトカゲが横断するのである。

  ガラガラヘビは山に入れば1日に数回は見るのである。ガラガラヘビは乾燥地帯のサバンナに多いと思っていたが、このような森林地帯にも多いのである。

   ある時、1mくらいのトカゲが車にぶつかったので、つかまえて車に乗せてホテルに持ってかえったが、車の中は生臭くなり、この匂いにはまいった。

 

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車にぶつかったトカゲ

 

キャンプ地でサッカー

  パラグアイの森林局の技術者や作業員達はキャンプに戻り暗くなるまで必ずサッカーをする。狭い道で10mくらいの長さでゴールは1m幅くらいである。強くは打てないのでボールの取り合いである。私も混ざってやるが、彼らのテクニックには驚かされる。子供の時からサッカー漬けなので、皆うまい。ボールを取ってもすぐに取り返されてしまう。彼らにフェイントのかけ方なども教わった。

 

初めてのキャンプ

  キャンピングカーのベッドは2段で、下は広いが上は狭い。下には大きい2人が入り、下には小柄な私ともう一人が入る。上は幅がせまくて50cmくらいで寝にくい。一晩くらいなら4人でも泊まれるが、長期では難しい。

   キャンピングカーで泊まるのは疲れるので、この時の調査時だけとし、次の調査からはテントに泊まるようにした。パラグアイの技術者達もテントで寝る。夜は南十字星がきれいに見える。

 

キャンピングカーの中.jpg

キャンピングカーの中

 

キャンプでの一時。昼間.jpg

キャンプでの一時。昼間

 

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キャンプにて。火を囲み皆でテレレを飲む。

 

 

つづく

 

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