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【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.8

森林紀行

危機差し迫る状況

市場分析ワークショップ

 2011年3月30日(水)と31日(木)に森林官を集めて市場分析のワークッショプをプロジェクト事務所がある州局の会議室で開催した。参加者は皆、相当真剣に聴いている。講師はプロジェクト側で捜し、契約した専門家である。

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出席者は各地の森林官

 

 コーヒーブレイクや昼食もプロジェクト側で全て用意する。この頭休めの時間には各地の森林官と話が弾み楽しい時間である。シデラドゥグの森林官は、ガーナで勉強をし、その後ガーナ国境の営林署に長くいたとのことで、英語が上手でこの辺りの事情をいろいろと聞くことができた。

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ワークショップでのコーヒーブレイク

 

終了書を渡す

 終了書を渡すのはキニーである。これを受取るときは、皆ニコニコ顔である。こうした証明書で彼らの経歴にまた一つ箔が付くのである。

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ワークショップ終了後。全員で修了証を掲げて

 

運営委員会(Comité Pilotqge)

 4月8日(金)に、プロジェクト運営委員会を先日市場分析ワークショップを行った州局の同じ会議室で開催した。ワガドゥグから環境省の女性次官も出席した。この方は今回の内閣の組閣では変わらなかったので、それはプロジェクトにとっては良かったのだろう。その他の出席者は関係市町村長や各村落の住民管理組織の委員長達である。ブルキナ側の参加者にはプロジェクトから参加費が支払われるので、彼らはもっと沢山会議を開いてもらいたいと思っている。

 会議では最終的に何が結論づけられるかというと結局資金がない、物資がないというところに落ち着くのである。これらについては、我々日本チームは何度も何度も口を酸っぱくして説明し、もうこの点については持ち出さないという約束になっていたのに、また持ち出されてしまうのである。資金についてはどこにどう援助するかはほとんどブルキナ側の言い分が通る形で落ち着いているので、もうほとんど要求しなくなったが、物資については依然として持ち出してくるのだった。物資の援助については我々プロジェクト側が援助するのは、村落の森林管理組織が回転資金を得られるまでの必要最低限の物資で、その後は村落の自助努力で行っていくことになっているのだ。ところが住民よりも環境省側がそういった話を持ち出すのであった。特に次官などはわかっているはずなのにいつも同じことを持ち出すということは、だめもとで、言えばまた物資の援助もされると思っているのであろう。援助の負の側面が染みついてしまっている。

 この点について、我々はいつも憤慨させられている。この日はこの問題は既に片付いているはずなのにまた持ち出され、怒り心頭に発するが、再度同じ説明をせざるを得なかった。

  我々は口をすっぱくし、「自分達でプロジェクトを運営していくというオーナーシップを持ちなさい。プロジェクトは外部者が行っているのではなく、森林官や村人自身が行っているのだ。必要最低限の物質の援助はしているのだから物質的な援助が無ければできないというのではない。もっと自助努力しなさい。」と意識の向上を盛んに訴えるのであるが、………。

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プロジェクト運営委員会

 

 

バンフォラでの軍の蜂起

2011年3月30日の出来事

 また3月30日(水)に話は少し戻るが、その日の午後、ワークッショプが終わったころにJICA事務所から「政府から夜間外出禁止令が出たので、今日から夜間は絶対に外出しないように。またバンフォラの隣の都市ボボデュラッソでも威嚇発砲があったので、バンフォラでもその可能性があるので十分に注意するように。」と電話で連絡があった。

 そしてその晩にバンフォラでも軍の蜂起が実際に起こった。ここバンフォラには軍の駐屯地があるのだ。夜9時頃、遠くに機関銃を発砲する音が聞こえた。するとそれが連続するようになる。段々とこちらに近づいてくるようだ。私と団長とで手分けし、協力隊の隊員達に電話をして励ます。私が電話した協力隊の女性の一人は「怖い!」と言って震えているようだった。「落ち着いて。冷静に行動せよ。」と人には言えるが、自分ではどうだっただろうかと思い直す。「静かにしていて窓際には絶対に近づくな。家の中にどこか隠れる場所を捜せ。」とかいろいろ言ったが、幸いこの日はどこにも被害はなかった。しかし、ほとんどの隊員は機関銃の銃声を聞くのも初めてで相当なショックを受けたようである。

 私は1週間前のワガドゥグでの兵士の反乱事件がトラウマになっており、銃声を聞くのはとても耐えられないと思ったので、このような時のために持って来ていた精神安定剤を飲んだ。するとそれには睡眠導入作用があるため、簡単に寝行ってしまった。翌日団長に聞くと、軍隊はホテルの前を機関銃を打ちながら行進していき、発砲は1時間以上続き、とても恐ろしかったとのことだった。

  我々も相当に浮き足だち、仕事どころではないといった思いで、国外に脱出したい気持だった。ホテルのオーナーのフランス人と話すが、彼も相当に緊張感を高めており、脱出体制を整えていた方が良いと言った口ぶりであった。フランスでは万一の場合、フランス人観光客などをボボジュラッソから飛行機で脱出させる体制を整えつつあるとのことだった。

 

危機差し迫る状況

 我々は自らの生命の安全に非常に危機感を持ち、できればブルキナから一刻も早く脱出したくなった。そのため我々はいろいろな情報を集め万一の時の脱出のための危機管理体制をJICAに提案した。その時ダウダからの情報を要約したものが下記のものである。

 

 運転手のダウダはかつて軍隊の車両兵站部門にいたことがあり、ブルキナの軍人たちの気質についてもよく知っている。彼の言っていることがすべて正しいとは限らないが、はっきりしているのは、必ずしも司法側が正しく、兵士たちが100%間違っているとは言えず、他のいろいろな要素がからんでいるということである。

 

1.ブルキナの司法機関は必ずしも公正でない

 ブルキナの司法機関は、一般に「金持ち」には甘く、「貧しいもの」に厳しいとのこと。言い換えれば、金持ちは「カネ」で裁判結果を左右できる。

 次に、警察も含め司法機関側は、「兵隊」を嫌っており、なにかことがあってそれに兵士がからんでいると、「兵士だから」という理由だけでぶち込むことがあるとのこと。

 例えば、ファダングルマ(地名)のケースでは、ある兵士が女性を強姦したとして逮捕され、裁判で有罪となったが、「その兵士が本当に強姦をしたなら仲間が彼を支援するようなことはしない。仲間が彼を支援しようとしたのは、やってもいない罪で裁かれたからだ。」とダウダは言う。この言い分が正しいかどうかは分からないが、そういうことも可能性としてはある、ということである。

 軍人の司法に対する日ごろからのこうした不満も背景にはある。

 

2.軍の上層部は下級兵士を今のところはコントロール可能

 「軍の上層部はもう下級兵士の動きをコントロールできなくなっているのではないか」とダウダに聞いたところ、「今のところはまだできている。なぜなら、示威行動は1日だけで、後はキャンプに戻っている。むしろ、軍の幹部はそうした行動を黙認しているだけのこと。」という返答である。

 

3.ファダングルマの例はワガドゥグの示威行動に触発されたもの

 ワガドゥグに引き続いて、ファダングルマで同様のことが発生したのは、ワガドゥグで示威行動の結果、当該兵士が釈放されたので、ファダングルマでもそれが可能だということになり、やってみた。その結果、ファダングルマでも問題の兵士の釈放を勝ち取った、ということである。

 ファダングルマがワガドゥグより重大なのは、ファダングルマでは単に銃火器だけでなく、軍用車両(装甲車などを含む)なども奪って街に出ていることである。ファダングルマだけでなく、テンコドゴ(地名)あたりまで展開したとのことである。

 しかし、こうした例が続けば、どのキャンプでも同様のことが起こり得るということで、事態は一層深刻である。

 

  上述の見方の成否は分からないが、一連の発端の事件の処理そのものの真偽も実は必ずしも分からないということである。今回の一連の出来事は逆にそれだけ根が深い問題の発現とも考えられることから、我々の「司法は正しい」という“常識”だけで判断していると見通しを誤ることにもなるかも知れない。ただ、客観的に見て、どのような理由にせよ、軍隊があのような示威行動にでることが許されるものではないし、それがエスカレートする危険性は非常に高くなっている。

 

危機管理体制の提案

 非常事態として我々が緊急に出国しなければならない事態も想定されるようになったので、JICAもいろいろと安全対策マニュアルを持っているが、我々独自で個別具体的にバンフォラでの体制を検討し、危機管理体制を構築する案を作成し、JICA事務所へ提出した。特に、携帯電話も繋ながらなくなった場合や協力隊を含めたバンフォラでの在留邦人の脱出方法などである。

 

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.7

森林紀行

クーデター未遂事件の後

若い兵士にからまれたフランス人

全部が全部そうではないだろうが、一部の若い兵士は狂気の沙汰であることは間違いない。

次の出張時のことであるが、ワガドゥグでいつも行くホテルに近い食堂で、一人で食べていると、斜め向かいのテーブルに私と同年代くらいのフランス人らしき二人が食事をしていた。そこへたくましい体つきの若い兵士が一人入って来た。この辺の若者は何もしなくとも皆たくましいと言っても良いくらいではあるが。

そのフランス人が兵士と話だし、笑いながら時々からかっているようだった。軍隊での敬礼はどうやるのか行進はどうやるのかなどと言っているようだった。若い兵士は身ぶり手ぶりでそれらを行って答えていたが、その場から離れなくなった。うっとうしくなったフランス人は、もういいから向こうに行ってくれと言っても兵士はその場から去らない。そして兵士の方から何だかんだ言って、まるでフランス人にからんでいるようである。フランス人も真面目な顔つきに変わってきた。

兵士の目には狂気の影が見える。フランス人はだんだんと怯えたような顔になってきた。結局店の主人を呼んで、何がしかの取引で若い兵士は去って行った。

[反省]アルジェリア事件を見ると

2013年1月にアルジェリアで、日揮の石油施設が襲われて、日本人10人を含む39人がイスラム系武装集団に襲われて殺されたが、その時に助かった人の話ではやはり上手に隠れていたということである。私はワガドゥグのホテルの部屋の中で隠れる場所を捜したがなかった。天井裏そのものがなかったのである。ベッドと床の間は10cmくらいの高さしかなく、その間にも入れない。トイレに入っていてもだめだっただろう。このホテルは旧式で、廊下の隅に掃除道具が置いてある場所などに隠れられそうな場所があったので、事前にそのような場所を捜しておくべきだったが、そこでもきちんと隠れられるわけではないのでだめだったろう。しかし、近代的なきちんとしたホテルでは、そういう場所もないであろうし、万一踏み込まれたら無抵抗で金品を渡すしかないのであろう。命あっての物種である。

その後のブルキナでの軍の動き

その後、JICAの安全の手引きに記載された「軍等による騒乱リスク」からこの時の動きを抜粋すると次のようであった。そしてこの動きが収まらず、大使館からの命令により、我々は2011年4月29日に緊急避難帰国となるのであった。

【JICAの安全の手引き、軍等による騒乱リスクから抜粋】

1.2011年3月22日、軍兵士による騒乱が発生。軍兵士は給与増額・待遇改善を求め武器を持ち街中で発砲を繰り返し、商店などを襲った。軍人の狼藉に対して、市民が反発し与党本部・主要閣僚の自宅などを焼き打ちにかけるなどの社会混乱に発展。首都ワガドゥグから地方までこの動きは拡大していった。(我々が巻き込まれた事件)

2.同年4月14日、コンパオレ大統領公邸周辺より大統領護衛隊が大統領官邸に向けて威嚇発砲を開始。大統領は一時地方都市ジニャレへ退避した。同日夜から朝にかけ、ワガドゥグ市内各地では銃声が鳴り響き、また多くの商店・ガソリンスタンドなどが略奪の被害にあった。

3.同年4月15日、コンパオレ大統領は首相以下、全閣僚を解任。さらに軍参謀長、大統領警護連帯隊長も罷免するなど、事態の収拾を図った。しかし同日夜、前夜同様に軍兵士は武器を持って抗議活動を展開。更に軍兵士達は市内の主要ホテルの客室を遅い略奪・強姦、商店での略奪、自動車の盗難などを行った。また、同動きは地方都市へも広がり、ポー、テンコドゴ、ファダングルマなど、軍キャンプのある都市で威嚇発砲と略奪行為が行われた。軍兵士の威嚇発砲の流れ玉を被弾し、命を落とす事例も数件発生した。

4.また2011年6月初旬にはブルキナ・ファソ第2の都市ボボジュラッソにおいても軍兵士が3日連続に渡って略奪行為を行った。これに対し、政府は首都ワガドゥグより大統領警護隊を急派し、武力による事態鎮圧化を図った。公式発表ではデモ部隊6名、市民1名を含む7名の死者が発生した。

5.2011年6月初旬の政府による武力制圧以降、軍による騒乱は発生していない。

関係機関への訪問

4月14、15日の騒乱の時には、私は現地バンフォラにいたため、この被害は受けなかったが、ワガドゥグの主要ホテルは襲われた。この日は、我々が常宿としているホテルは襲われず、幸いにも宿泊していた女性メンバーは全く被害に遭わずに済んだ。全く不幸中の幸いであった。

さて、遭遇した兵士の反乱事件は3月22日(火)の夜中11時くらいから翌日3月23日(水)の朝6時くらいまでの7時間だった。3月23日(水)の仕事は中止となったので、翌日の3月24日にJICA、ブルキナ環境省、日本大使館へ団長の到着挨拶と現状の報告に行った。

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若い兵士が狼藉を働いたワガドゥグの市内

JICA

まずは昨日(3月23日)の事件の話である。昨日の事件の最初は、JICA事務所がある地域のグンゲンという軍隊のキャンプから発砲があり、ここから兵士が街の中央に向かい銃を打ちながら行進してきたとのことだ。これは、軍人による女性への暴力事件に対する判決に対し、その軍人が有罪になったことから、その判決に納得できなかった軍人たちの抗議行動とのことだった。

それにPKO派遣によるその貢献金が軍の上層部のみに配分され、末端の軍人にまで回らなかったことに対する政府への不満である。

そして流れ玉で中学生くらいの若い女性が死んだとのことである。

また、商人達が軍隊に反発し、デモを行ったり、与党本部や主要閣僚の自宅などを焼き打ちしているとのことだった。

治安状況については、安全の手引きなどをもらうが、今後、軍のキャンプがある地域では同じことが起こる可能性があり、バンフォラには軍のキャンプがあることから注意するようにとのことであった。しかし、この種の事件はいくら注意しても注意しきれないこともあり、我々は非常に危機感を持った。明日バンフォラに向かうが、何かあれば協力隊とも連携してすぐにワガドゥグに引き返す体制でバンフォラに向かうことにした。

環境省

次に環境省に向かったが、一昨日の事件では環境省は何ら被害を受けなかったとのことで、ひとまずほっとした。しかし、与党本部や主要閣僚の自宅が焼き打ちにあっているのに何でこんなにのんびりしていて危機感がないのだろうかと不思議な感じがした。会ったのは、前々からこのプロジェクトで最も責任を持つ立場の女性の次官であった。大柄で大きな声ではっきりとしゃべる方であった。打合せの主要なテーマはいつプロジェクトの運営委員会を開くかということで、4月8日(金)にバンフォラで開くことで、調整することとなった。

大使館

次に大使館を訪問し、大使と参事官にお会いした。JICAでも聞いた話だが、一昨日の事件の続きで、商人達がデモを行ったり、主要閣僚の自宅などを焼き打ちしているとのことだった。商人達にそんな力があるのだろうか?そういうエネルギーがあるのは素晴らしいとは思ったが、それだけ弾圧されているということだろう。江戸時代の百姓一揆のようなものだろうか?

大使は民間の商社出身の方で、私の高校の同級生が同じ商社に勤めていて、その友人もその後同じ様に民間出身で北京日本文化センターの所長になっていた。その友人とは、メールでやり取りをしていたので、そのことを大使に話すと、大使はその友人と一緒に働いたこともあり、既にその友人からメールを受け取って、連絡を受けているとのことだった。何かと世間は狭いものと思ったものである。

再びバンフォラへ

3月25日(金)再びバンフォラに団長と共に向かった。ワガドゥグの町もまた平穏を取り戻し、マリーナマーケットで肉などを買い込み、クラーボックスに入れてバンフォラに向かった。

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再びワガドゥグからバンフォラへ

午前10時過ぎに出発し、バンフォラに着いたのは午後6時前だったので、まずプロジェクト事務所に行った。ブルキナ側のプロジェクトの責任者である森林局のキニーに挨拶をした。私もまだキニーには挨拶をしていなかったので、ブルキナでは今回初めて彼に挨拶をする。しかし、彼が日本に研修に来ていたので面識があることは既に述べた。キニーは私を大歓迎してくれた。

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バンフォラの事務所にて。秘書のマリーと

事務所の同じ部屋では、協力隊の女性隊員のIさんがまだ働いていたので、一緒にホテルのレストランで食事をすることにした。

食事後、Iさんは借家の我が家でしばらく歓談していった。我が家は、協力隊の溜まり場ともなっているのだ。真っ暗の道の中、自転車で帰って行ったが、私には、若い女性が慣れているとはいえ、このような暗闇の中を1人で帰っていくのが心配であった。広い国道沿いに行くのと慣れていて安全と分かっているので大丈夫とのことだった。

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我が家の台所。ガスもある

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我が家の台所。冷蔵庫もある

協力隊員達

3月27日の日曜日の午後には協力隊員達が我が家に集まってきて、一緒に食事をした。男性隊員は1人で、女性隊員が4人である。女性隊員はバンフォラにはもう少しいるそうである。ブルキナ全体でも女性隊員の方が多いとのことであり、女性の方が勢いがある。男性隊員は病院でコンピュータや機械のメインテナンスをしていると言っていたが、自分で作ったステレオを持ってきて、良い音がでて器用なものだと思った。

モロッコへの任国外旅行から帰ってきたばかりの女性も来て、大胆で優秀そうだった。皆と打ち解けて、大変にショッキングな事件を経験した後だっただけに、とてもリラックスしてなかなか楽しい晩であった。

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.6

森林紀行

クーデター未遂事件

若い兵士の反乱

しばらくして、隣室の団長がノックする。「これは大変だぞ。銃撃戦だ。」と言う。すぐにJICAの担当のKさんに電話する。するとJICA事務所周辺やKさん宅周辺でも銃声音がするとのことである。

Kさんによると若い兵士が、国連PKOに出兵し、ブルキナ政府はその見返りの資金をもらっているのに、出兵した若い兵士には一銭も支給されていないということで、金をよこせと反乱を起こしたとのことである。空に向かって発砲している威嚇射撃なので銃撃戦ではないが、十分に注意をするようにとのこと。しかし、町中に反乱兵士があふれているようで、もうワガドゥグの中心街は逃げるにもどこにも逃げようがない。ホテルの外の方が危険だ。部屋に隠れているしかない。しばらく団長の部屋で、二人で窓側から離れ、壁際に避難するような形で座っていたが、一向に銃声は止む様子はなく、むしろ段々とひどくなってきた。これはまずい。どこにも隠れる場所がない。私は取り敢えず、自分の部屋に戻り、どこが一番安全か屋根裏に入れないかなどを調べたが、どこにも隠れる場所がない。

ブルキナ・ファソ6-1.jpgホテルの部屋の入り口。自動ロックではなく体当たりくらいで簡単に開きそうな鍵

腹に響き、ガラスも震わせるロケット砲

日付が変わり3月23日の午前1時くらいだった。まだ発砲音は間近ではないが、町のそこいら中で聞こえるようになった。機関銃に混じって時々、バズガー砲かロケット砲のようなものが発砲される音がし、腹にズーンと響く。そのうちホテルの従業員が回ってきた。「別に大丈夫だから安心しろ。」という。何の保証もないのに安心しろと言うのも無責任極まりないが、客を安心させるためにホテルの従業員達もそう言わざるを得ない。私も団長もこの時ばかりは、気が動転していて頭が全く働かず、道路に面した部屋から内側の中庭に面した部屋が空いていれば変えてくれ、ということも思いつかなかった。たぶん内側の部屋もいくつかは開いていたのではなかったろうかと後になり思った。ホテル内に踏み込まれたら終わりだが、内側の部屋の方が恐怖度は少なかっただろう。

真夜中の午前2時くらいからとうとうホテルの正面の大通りに兵士達がやって来た。まずは大通りで機関銃を「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と、やたらに発射するので、窓際には怖くて近づけない。それからホテルの入口がある横道にも兵士が入ってきて、横道でも発砲する。私の部屋は横道に面していたから、部屋の真下だ。ときどき発砲する「ズーン」という音のロケット砲でガラスがビリビリビリと震える。実距離だと10mも離れていない。これはまずい。どこにも逃げ場がない。外に出れば危ない。踏み込まれれば終わりだ。

喉が渇き、1.5リットル入りの水をやたら飲む。万一流れ弾が部屋に入ってきても大丈夫なように部屋の隅に隠れるようにしている。団長ももうどうしているかわからない。もう怖くて部屋の外にも出ることができない。

午前3時くらいからである。階下のカフェテリアをハンマーでたたいて壊すような音がする。それから横道の正面に店屋が沢山並んでいるが、その全てをハンマーで叩く音がする。機関銃やロケット砲の発砲音も激しく鳴りやむことなくずっと続いている。鍵も機関銃で打ち壊したのだろう。これは大変だ。ホテル内に踏み込まれたら銃を突きつけられ、抵抗したら、打たれるかもしれないと思い、抵抗しないよう、見せ金を用意した。逃げるのは無理だろうと思ったが、重要物はすぐに持ち出せるようにリュックサックにまとめ、自分の荷物はすべてスーツケースに入れた。心臓はバクバクである。その時思いついて、日本の勤め先にメールを打ち、またスカイプで静かな声で電話し、状況を説明したが、どうしようもない。日本は午後1時くらいだ。ワガドゥグの知り合いのブルキナ人にも(電話番号を知らなかったので)、可能性はほとんどないが、もしかしてメールをみてくれるかもしれないと藁をもつかむ思いでメールを入れるが、夜中なのでどうしようもない。翌日返事が来たが、郊外に住んでいるのでどうっていうことないよということで、この現場の緊迫感が全くわかっていなかった。

幸いホテル内に踏み込まれることはなかったが、機関銃とロケット砲の発砲、それに店から略奪する音が朝の6時まで続き、生きた心地はしなかった。

この時、隣室の団長の部屋では外からサーチライトが部屋内を何回も照らし、本当にロケット砲でも打ちこまれるのではないかと、彼もまた生きた心地はしなかったとのことだ。

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ホテルのロビー。幸い兵士に踏み込まれなかった

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ホテルのロビーと道路を挟み対面にある店屋。すべてハンマーで壊され金品を強奪された

被害や反省

翌日

翌日と言っても既に日付が変わっている2011年3月23日(水)は、一応街は平穏になっているが、各地で兵士による略奪、強奪で大被害である。ワガドゥグ中、機能停止状態であった。JICAも機能停止で仕事はできなかった。

私は朝まで一睡もできず、6時頃に兵士達が去っていったので、一安心であった。階下のカフェテリアや周辺の店はハンマーでたたかれ、強奪にあい、無残な状態であった。しかし、レバノン人のホテルのオーナーはカフェテリアのガラス張りの外側に、あっというまにかなり頑丈な金網を設置した。中東の人はこういった危機には敏感であろうし、今後に備えたのである。

ホテルのロビーでは他のプロジェクトで宿泊している日本人も少なからずいて、皆昨日の出来事の話で持ち切りである。私もその人達と話すと危機に対する捉え方は半々くらいで、かなり危ない状況だと言う人とこれくらいはまだたいしたことがないと言う人とがいた。ただ危ないと思っている人も昨日の危機は過ぎたので案外に落ち着いている。またたいしたことはないと言っている人でも強がりで言っているようなところも見受けられた。私は、これは大変な危機だと感じていた。30年以上の長期に亘り、海外の仕事をしてきたが、治安上の危機はこれが今までで最も危険であった。

私は緊張して夜中に1.5リットル入りの水を3本も飲んでしまった。それから疲れがどっと出た。いずれにせよ同じことが起きれば大変であるし、昨晩ホテルの客室内には踏み込まれなかったのは、ラッキーというしかないと思った。事実約3週間後に、また同じ様な事件が起きるのだが、その時は別のホテルだが、客室内にも踏み込まれ強奪、強姦と大変なことになったのである。

事件に巻き込まれなくて幸いだった女性達

そして夕方、明後日、日本に帰国するMさんもバンフォラからワガドゥグに上がって来て、北部に出張していたSさんもホテル・クルバに戻った。

その晩は危機に対する反省会も兼ねて、Sさんの部屋に4人が集まり、夕食を取ったが、女性達がこの場に遭遇していなくて本当によかったと改めて思ったものである。私もようやく落ち着いてきた。

大変な被害

後での情報では、兵士達はここがホテルとは知らず、客室までは踏み込まれなかったとのことである。一階のカフェテリアだけが踏み込まれたのであった。もし、ホテルと知っていて上階まで踏み込まれていたらと、その後のことを考えるのは恐ろしい。

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ワガドゥグの町

同じ事件の再発

その後、Mさんは3月24日(木)に帰国し、私と団長はバンフォラでの仕事に向かった。そしてバンフォラでも我々は、同じ様な兵士の反乱に遭遇した。それについては後述する。

ワガドゥグでは4月14日(土)に再度同様なことが起き、我々はバンフォラにいたため再度の被害には合わなかったが、Sさんはホテルにいた。しかし、兵士達はこの時は、我々のホテルの方面には来ず、別な方面に行って助かった。この時は、兵士の向かった周辺のホテルでは軒並み踏み込まれ、金品の強奪、女性達は強姦されたとのことだった。JICAのGさん宅は兵士に踏み込まれ4発銃を発砲されたとのことだった。

この時のことをバンフォラのホテルの主人であるフランス人の方から聞いたが、反乱軍は大統領を追い詰めたとのこと。クーデターである。しかし、大統領に代わってこの国を治められる者が軍の中におらず、結局現大統領に元の鞘に納まってもらったとのことである。何ともお粗末なクーデター未遂事件であった。

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.5

森林紀行

様々な情報

様々な情報

日本の原発事故への反応

フランスのテレビのニュースでは相変わらず、日本の原発の状況ばかり流している。爆発したときの映像は、これでもかこれでもかと何回も流されている。世界を震撼させた大事故だから当然と言えば当然である。

原発事故情報は、私だけでなく、Mさんも知人などから続々とメールで送られてくる。空からヘリコプターで水をかけたとか。まさに「2階から目薬」ということが、実際にあるということを証明してくれた。そして大はしご車や消防の決死隊による水かけなど、外からみていると日本沈没というような感じを受けた。そしてMさんはホテルの女子従業員から、日本はまた世界を放射能汚染させたと文句を言われたとのことだ。

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ホテルの借家から

コートジボワールの内戦

原発事故からしばらくして、隣国のコートジボワールが内戦状態となり、フランス軍が介入したので、ニュースの主体は原発事故からコートジボワールの内戦に移った。おかげで、おかしなことながら原発事故からは多少は目がそれてややほっとした。しかし、コートジボワールの国境まではここバンフォラからは60kmくらいである。内戦は実質の首都のアビジャンだから、ここからは600km以上は離れているので影響はないと思ったが、コートジボワール人の多くが国境を超えてブルキナ側に来ているということだった。それで、治安にはいくら慎重になってもなり過ぎることはないと思った。

このコートジボワールの内戦では前大統領のバグボ側は、フランス軍などの攻撃を受け2011年4月5日に戦闘停止を表明し、バグボは降伏したが、その後の投降を拒否した。そうしたことから4月6日に現大統領のワタラ側の部隊が、バグボが潜んでいるとみられる大統領公邸を急襲した。この日にはアビジャンにある日本大使公邸もバグボ側から襲撃される事件も発生し、日本の大使らは、地下室に隠れフランス軍に救出された。その後ワタラが正式に大統領となり、今のところ平和的に安定しているようである。

団長は、この日本大使と面識があり、アビジャンの日本大使公邸襲撃事件を非常に心配していた。

また、後に述べるが、コートジボワールの前大統領のバグボが引きまわされている合成写真を、辺鄙な村の村人までが持っていたことに驚かされた。

事務所での最初の仕事

Mさんから仕事の引き継ぎ

我々日本人スタッフはプロジェクトを運営管理していくのが仕事であった。事務所での最初の仕事は、プロジェクトの資金管理や地元のNGOや技術者と契約する仕事であり、Mさんからそれを引き継いだ。例えばシアバター製造の研修を村人に行うような場合、ブルキナの経験豊かな人を研修講師として雇い、その人と契約するための事務である。プロジェクトの運営資金の管理も重要であり、その管理方法を引き継ぐことであった。それはMさんが帰国するからであった。

ブルキナ人の技術スタッフを3人、秘書1人、運転手2名、それに10人ほどの村での活動をモニタリングする技術者を雇っていたので、それらのスタッフへの給料の支払いなどいろいろと細かいことを引き継ぐ。

これらは仕事を行う上で必ず発生する事務で日本では分担業務がなされているが、プロジェクトでは日本人メンバーは何でもこなさなければならないオールラウンドプレーヤである。事務は事務として、またプロジェクトが目的とする住民自身にどのように森林を管理してもらうか、あるいは住民や森林官の能力を向上させるには、どのような活動を行っていけばよいかアイデアを出して行かなくてはならず、現在までの活動状況をMさんから詳しく聞き、今後の方向を打ち合わせる。

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プロジェクト事務所前にて

団長のグッドアイデア

そしてこれは団長のアイデアで予算化できたものだが、ブルキナ側の公務員である森林官は給料がとても安いということもあり、ブルキナ側では我々の活動に参加させる費用がないということだった。技術移転の対象者であり、彼らの森林管理の能力の向上を図るには、活動に参加させるしか方法はないのである。しかし、日本側も公務員であるカウンターパート(共同作業技術者)に支払う資金は予算化ができないのであった。そうは言っても食べるのに精一杯で、バイクのガソリン代などの交通費も自前で払えないという状況であれば、何がしかの参加費を支払わなければ参加できないのは当然であった。

我々の活動は村人の能力を向上させ、村人が自ら指定林(国有林)を管理できるようになるということを目標にしていたから、森林官には村で様々な研修、例えば苗木作り、植林、放牧管理などの講師をしてもらうことにして、講師料を支払うという形で予算化ができ、これで彼らもプロジェクトに参加することが可能となり、この問題が解決できたのだ。これでプロジェクトがスムーズに動き始めた。これは団長のグッドアイデアであった。

暑さ

ここの暑さにはまいる。直射日光は刺すような厳しさだ。昼飯を銀行などがある地区の「カムー」という食堂に、初めてMさんに連れて行ってもらった時に、ブルキナの今と日本の夏とどちらが暑いかという話になった。日本の夏も暑い日は40℃近くある。しかし、ここでは40℃をかなり超えているのではないかと感じる。日本は湿気が高いが、ここは少し湿気があるが、日本ほどではなく乾燥しているので、焼けるような暑さである。それに食堂「カムー」のトタン板から熱気が降りて来て、めまいがしそうなほどである。そんなことで日本は湿気の不快さでまいるのであって、結局、暑さはブルキナの方が暑いだろうという結論となった。

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事務所の前の道をゆっくりと歩く人々

兵士の反乱事件

一旦バンフォラからワガドゥグへ戻る

共同作業を行う技術者達とうまくやっていけそうだと思えたのと事務所の状況やプロジェクトの内容も概ねつかめ、また自分の生活基盤も確かめられたので最初のバンフォラ行きはとても良かった。

そして、一緒にブルキナに来る予定だった団長は、地震の影響で仕事道具が成田空港に間にあわず、一旦飛行機をキャンセルすると今度は原発事故の影響でフランスへ避難する日本国内の多くの外国人の予約が殺到し、飛行機のチケットがなかなか取れずにいた。しかし、ようやく席が確保でき3月22日(火)にワガドゥグに到着となった。

私は打ち合わせや出迎えのためワガドゥグに戻った。今度は運転手のダウダと一緒だ。3月22日、朝7時半にダウダと二人でバンフォラを出発し、途中ボロモで遅い昼食を取り、ワガドゥグには2時半に到着した。食事を1時間として約6時間かかったから平均時速は約70kmだ。ホテル・クルバにいるSさんとまず、打ち合わせる。Sさんは苗木のプロジェクトで、この日はこれから北部の町にでかけ、今晩はそちらで泊まり、明日の夜帰るとのことである。

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バンフォラとワガドゥグ間にあるボボジュラッソの踏切。

手動で遮断機を移動する

嵐の前の静けさ

不幸中の幸い

何が幸いするかわからない。これから起こる軍の兵士の反乱事件にメンバーの女性達が巻き込まれなくて良かった。Sさんは地方出張ということとMさんはバンフォラに残って仕事をしていて、ワガドゥグにいなかったことは何はともあれ幸いであった。Mさんは団長との交代で日本に帰国する予定であるが、仕事の関係で、ワガドゥグに上がるのは一日遅れとしたのだ。本当にこれは不幸中の幸いだった。

ワガドゥグの空港に出迎えに

3月22日午後6時頃に空港に団長を出迎えに行った。いつものように飛行機は1時間ほど遅れ、午後7時にワガドゥグに無事到着した。団長が空港ビルから出てくると、ほんの数ヵ月日本に帰国していただけなのに、何年か振りかで会ったかのようにダウダが喜んだ。空港からホテル・クルバまでは、車で5分ほどですぐ近くだ。団長がホテルにチェックインした後、打合せを兼ねて一緒に夕飯を食べに行った。何しろとてつもなく暑い。湿度は日本より少し低いくらいで、夜でも気温は40°だ。

夕食に外出

ホテルから歩いて2分くらいのところのいつもの地元料理屋に行った。あまり清潔とは言えない。我々からするとかなり不潔に見えるが、歩いていけるところにはこの程度の食堂しかない。少し遠くなると歩くのは危険度が増すから、車がない場合できるだけ近いところにしか行かない。

地元料理のリーグラを食べる。リーグラとはフランス語であり、リーは米、グラが油で、ご飯を油で炊き、その上に多少の肉か魚、場合によっては野菜が乗っている料理とも言えないような料理である。だが、西アフリカでは後に紹介するスンバラという調味料を使っているので、やや酸っぱく、独特の風味を引き出している。私はセネガルで似たような味のチェブジェンをいつも食べていたので懐かしい味である。

それを食べながら仕事の話をした。団長も長旅で疲れているのでホテルに早々に引き揚げた。9時ちょっと前くらいだった。

ホテル・クルバ

ホテルの部屋はブルキナ(フランス)方式でいうと2階であるが、日本でいうと3階である。団長は常連であるので、ホテル側が大通りと横道とが見えるスイートの一番良い部屋を用意していてくれた。一番良い部屋といっても先進国の一流ホテルと比べると作りは格段に落ちる。作りは三流でも値段は一流いったホテルである。しかし、ブルキナではこれでも1.5流くらいのホテルである。経営者はレバノン人で、一階は受付けで2階からが部屋となっている。今日はいつも団長が泊まるキッチン付きの部屋が満員で取れなかったのである。

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ホテルの前の横道の通り。店屋が多く並び、にぎやか

若い兵士の反乱

銃声

それは、夜の11時過ぎであった。遠くで銃声のような音がする。耳を澄ませて聞くとどうも多数の機関銃が発砲されているようである。私は、これは大変なことが起きているのに違いないと思った。銃声は段々とホテルの方に近づいてくる。こちらにこないことを祈りつつ、非常な恐怖感を持った。万一流れ玉が窓から入ってきても当たらないように、ベッドから下りて、ベッドを盾にするような形で床に横になった。

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.4

森林紀行

事務所にて

事務所

事務所へ

3月17日(水)は初めてプロジェクト事務所に行く。朝はイスフともう一人の運転手ダウダの2人が7時過ぎにホテルに来るので、車の鍵を渡し、それから事務所に出勤することになっている。6時に起き、6時半頃、Mさんが家の近くの屋台のような店屋で売っている長いフランスパンを買って来る。それをコーヒーで食べる。

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事務所に行く時に通る道路

 事務所にて

家から事務所までは距離にして約3km、車で10分ほどである。メーンストリートの国道だけが舗装されていて、その他は未舗装の道路だ。時々ハルマッタン(乾期に吹く北東の貿易風、日本の黄砂のような感じ)がサハラ砂漠から微砂を飛ばして来るので、遠くがかすみ視界が悪くなる。

事務所は、環境省のカスカード州の州局とコモエ県の県局の中にあり、このなかに森林局の地方事務所もあり、プロジェクトの事務所はその一つの建物を借りている。

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環境省州局の入口の看板。この中に県局もあり、プロジェクト事務所もある

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事務所の庭

 4年前にプロジェクトが始まった時は、プロジェクト事務所も決まっておらず、団長はこの建物を確保するだけでも大変に苦労したそうで、その後、建物の修理費の予算を確保したり、苦労の連続だった。私はその当時勤め先の国際関係の仕事をする部の責任者だったので、それらの報告をいつも受けていた。私は最後の段階になり参加したので、その苦労はしなくとも済んだ。私も数々のプロジェクトを行っており、どんなプロジェクトでも最初の立ち上げのときは、事前交渉の行き違い、文化や考え方の違い、コミュニケーション不足などから多くの「ゆき違い」が発生し、大変な苦労があることは良く分かっている。それを一つ一つ解決していき、お互いにバランスがとれたところに落ち着かせるのが団長の腕の見せ所である。プロジェクトによっては、ずっと落ち着かない場合もあるのではあるが。

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事務所の入口

事務所に入るといきなり部屋になっており、その部屋には、プロジェクトで雇っている現地技術スタッフのカッソン、ママドゥ、ドゥニーズがいる。カッソンとママドゥが男性でドゥニーズが女性である。それに秘書のマリーがいる。Mさんはドゥニーズの隣の机で仕事をしている。それに協力隊員のIさんの机がスタッフと同じ部屋にある。そして、その部屋の奥にもう一つ部屋があり、そこにブルキナ側のプロジェクトの責任者のキニーの机がある。その部屋に団長の机もあり、そこがチーフ部屋になっている。私は、団長と一緒に来る予定であったが、地震の影響で彼が遅れてくるのでひとまず、キニーの机のあるチーフ部屋に入り、団長の机に座る。

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州局内に苗畑がある

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森林局内に炭も運び込まれていた。炭は指定されたもののみが作れるシステムである

事務所のトイレ

ブルキナ・ファソに限らず、セネガルやジンバブエなど発展途上国全体に言えることだが、主にはアフリカの国が多いが、なぜ物を大事に扱えないのか不思議である。

物が少なく、修理もできない(しない?)のに物を丁寧に扱わないのである。特に公共のものとか共同使用のものはだめである。これはまさにコモンズの悲劇(共有資源は乱獲されるということから)と言える。ここではトイレがそうだったが、ほんの少し、丁寧に使うとか掃除をすれば清潔に使えるのが、そのように使えないのである。例えばドアにしてもそうだ、静かに丁寧に閉めれば長持ちし、ずれたりしないのであるが、力任せに閉めるのですぐにピッタリと閉まらなくなり、ドアノブも緩んでしまう。それに電球が切れたら、電球のストックがあっても誰も取り変えない。使用した後、汚してしまったら便器を拭いてきれいにしようという気がないのでいつまでたっても汚いままである。

ここのトイレも汚かった。そこでイスフとマーケットに行って掃除道具を一式買ってきて、すぐに便所掃除である。きれいになって皆気持が良いようだが、その後誰も便所掃除をしないので、いつも私がするようになった。それを見ていたイスフが手伝うようになったので、イスフに任せたが、しばらくするとまたしなくなるのである。習慣が定着しないというのもこの辺りの特徴であろうか。

きっと、きれいとか汚いとかの感覚のレベルが違うのであろう。私が汚いと思っている汚いはこの辺りでは決して汚くなく、だから汚くとも平気なのだ。ドアも壊れているのが普通で、ちゃんとしていると安心できないのであろう。

 

事務所のスタッフ 

事務所には前に述べた我々の雇用した技術スタッフと共に他の職員もいた。

 

環境省州(カスカード(Cascades)州)局長

先入観を持って人を見てしまうのは、問題であるが、アフリカの多くの国の公務員の幹部は汚職まみれであるというのが、今までつきあってきた人達から受ける私の印象である。ブルキナ・ファソとは現地語で「高潔な人」とか「誠実な人」と言った意味であるが、一般的に公務員から受ける印象はその対極に位置しているのではないかというものである。だからブルキナ・ファソ「高潔な人」になりたいのだろうという印象を州局長からも受けた。これは他のプロジェクトメンバーから聞いていた先入観がなせるわざであろう。私は交代した副総括として新たに参加することになり、国際協力の仕事では長年の経験があると言うと大歓迎してくれた。

 

コモエ県局長 

県局長は女性であった。印象としては、州局長と同じ様に、ブルキナ・ファソが表す現地語の意味からは対極にいるのではないかと思わされた。私の感覚は正しくないかもしれないが、どうしても先入観がそうさせてしまうのであった。とはいえ、コモエ県局長も大歓迎してくれた。

 

技術スタッフ

キニー

キニーは前年日本に研修に来た時に事務所で会っていた。私はその時、部の責任者だったので、各国のプロジェクト関係者が日本に研修などで訪れたときは、責任者として面会するので面識があったのである。体は大きくがっちりしているが、どちらかというと人当たりの良い方だった。私が今度このプロジェクトに参加することを歓迎してくれた。ただ、キニーにしてもクリーンということはないということを他のメンバーから聞いていた。

しかし、先入観とは別に、ここで会った州局長、県局長それにキニーなどは汚れているかもしれないが、根は良い人だと思わせるものがあった。きっとそうに違いない。私が多くの国で仕事をしてきた中で、他国では、もっと悪に染まったような人達とは違う純粋さも見て取れた。もし、汚れている部分があるとすればそれは外部からのもの、例えば援助のようなものがそうしているのかもしれないと思う部分もあったのである。

 

技術者

普通のプロジェクトでは、技術者は協力対象とする機関、ブルキナの場合であれば、政府環境省の森林官がカウンターパート(共同作業技術者)として、つまりは技術移転の対象者として、プロジェクトの仕事にあたるのであるが、ここではプロジェクト責任者のキニーのみが公務員で、直接のカウンターパートとなっているだけである。あとのプロジェクト運営の技術者はプロジェクトのファッシリテーター(プロジェクトを円滑に進める役目の技術者)として我々プロジェクトが雇っているのであった。3人のファッシリテーターがいて、いずれも優秀だった。このようなシステムを構築するのも最初の段階で、団長は大変に苦労した。

 

カッソン

カッソンは私が来て、すぐに4月6日に結婚した。後にタバスキ(ラマダン(断食月)が明けて1ヶ月と10日後、イスラム暦の11月10日に行われる祭り)の日、2011年11月に家に招待してくれた。奥さんは先進的活動を行っているNGOに勤めており、インテリである。カッソンは英語をしゃべるので、私には非常に助かった。英語は国境を接するガーナで覚えたとのことだったが、現地語とフランス語がネイティブなので、英語の習得は容易だったようだ。このプロジェクトが始まる前の調査段階では英仏の通訳として活動していた。

 

ママドゥ 

ママドゥは、奥さん2人に愛人が2人いると言っていた。とつとつとしゃべるのが特徴である。イスラム教なので、奥さんは4人まで持っても大丈夫だと言う。アフリカはNGO産業が盛んなので、いろいろなプロジェクトを渡り歩いているとのことであった。援助が続く限り、このようにキャリアがある人は食べるのには困らないだろうと思わされた。

 

ドゥニーズ

ドゥニーズは女性の技術者であった。彼女は未亡人で、だんなさんは数年前に肝臓を痛めて亡くなったと言っていた。黄疸と言っていたから肝炎であろう。9歳のお子さんがいた。月から金まではバンフォラで働き、土日はボボジュラッソに帰ると言っていた。子供さんは、彼女のお母さんが育てていて、単身でバンフォラに住んでいた。彼女はブルキナの政治や社会には愛想をつかしており、アメリカで生活したいと言っていた。

 

秘書のマリー

秘書のマリーは、ドゥニーズと同じくらいの年の男のお子さんがいた。そしてこの時2人目を妊娠しており、10月に出産予定とのことだった。彼女はプロジェクトの資金管理や書類管理を行っており、きちんとしていてしっかりしているので、彼女が抜けたらプロジェクトは動かないような存在になってしまうだろうと気がかりだった。肝っ玉母さんのように落ち着いていた。

 

運転手

ダウダ 

ダウダは、運転もうまいし、全てのことに自信満々のような態度に見えた。それは、かつて軍隊の車両兵站部門にいたことがあることからきているのだろう。軍の上層部とも繋がりがあり、ブルキナの軍人たちの気質についてもよく知っていた。それで、これから起きる軍のクーデター未遂事件の時には、ダウダから情報を得て、随分と助かった。

 

イスフ

イスフはまだ若く、茶目っけがあった。彼はぶっきらぼうではあるが、運転は信頼が置けた。少し飛ばし過ぎることがあるので、スピードは押さえろといつも言っていた。毎朝彼と車に乗って行くと早口で何を言っているか良くわからないからゆっくりしゃべろといっても早口はなおらない。しかし、ある日彼の言っていることが全てわかる日があった。耳が慣れてきたのである。それから段々と聞き取れるようになった。

協力隊のIさん

部屋には協力隊員のIさんがいた。Iさんは村落開発隊員で、このバンフォラに来ており、後にプロジェクトのメンバーとしてくるK君の後任である。この事務所で苗木作りをしたり、村に行って村人と共に働いている。協力隊員としては非常に素直で、すれているところがなく、真面目で優秀という印象を受けた。 

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事務室、左からKasson、Denise、Mamadou、私

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.3

森林紀行

初めてのバンフォラ


バンフォラにて

ホテルなど 

プロジェクトで借りていた家

  バンフォラにはいくつかホテルがあったが、外国人が泊まれるような大きく安全だと思われるホテルは郊外と町中にほんの少しあるだけだった。小さく小汚い地元民が利用するようなホテルはいくつかあった。町中で州局内にあるプロジェクト事務所まで近いホテルは、ホテル・カンナ・スクレ(Canne à sucre サトウキビという意味)というホテルだけであった。このホテルには、観光で来る外国人も泊まっており、警備もきちんとされ安全だった。プロジェクトではホテルの敷地内に建つ一軒家を借りていた。ホテルにはレストランもあった。レストランと言えるようなきちんとした食事場は町中ではここだけと言っても良く、その他は小さな食堂といった程度のものだった。そのレストランといくつかの部屋が連なっている建物とその前を通る幅20mくらいの道路を挟んで向かい側に、我々の借家と宿泊客用のブルキナスタイルの小屋がいくつか大きな庭の中に点在している。

 

借家の入り口。鉄のトビラが付いている。手前は仕事用テーブル.jpg

借家の入り口。鉄のトビラが付いている。手前は仕事用テーブル

 

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借家内の庭に車を保管

 

宿泊客用のブルキナスタイルの小屋が庭の中に点在.jpg

宿泊客用のブルキナスタイルの小屋が庭の中に点在

 

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水道があり、この辺で洗濯

 

 

  家は決してきれいとは言えないが、中には6畳程度の部屋が3つあり、それに台所とバス・トイレ、もう一つ結構広い居間があった。私はこのブルキナのプロジェクトの前にはドミニカ共和国でプロジェクトを行っており、その時にもやはり家を借りていたが、その家は、広くきれいで清潔でもっと大きな家を借りていたので、かなりのレベルダウンと感じた。しかし、これでもこの辺りでは最高級の家の部類に入るだろう。居間の壁沿いには、不在のメンバーの荷物などが沢山おいてあり、ソファーやテレビもあり雑然としていた。台所には冷蔵庫とガスがあった。それに日本から持ってきた食材が沢山あった。私も持って来た食材を全て出して共有した。1つの部屋は他のメンバーが使っており、私は開いている2つの部屋のうち、居心地のよさそうなやや大きい方に入った。部屋の中には傾きかけ、ちゃんと戸が閉まらず、あまりきれいとは言えない衣装ダンスがあった。タンスの中にはしきりも何もない。

  我々メンバーはまさにシェアハウスで生活していたのである。しかし、これも住めば都、不思議なことに案外に居心地が良く、すぐに我が家という感覚になるのである。

 

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借家内の居間

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私の使用した部屋。同様な部屋が3部屋ある

 

 

 

  バンフォラに着いた3月16日(水)のその晩は、ホテルのレストランでメンバーのMさんと夕食を取りながら、いままでの経緯を聞き、いろいろと打ち合わせをしたり、バンフォラの事情を聞いたりした。そして日本の地震のことについて話題に出すとMさんは神戸の地震の時に中心地付近にいて恐怖の経験をしており、それが相当のトラウマとして残っていたので、地震の話はやめた。日本から持参した地震のニュースが載っている新聞もMさんは読むことができなかった。

  テレビを見ると、ここではフランスからの衛星放送を流している。日本では私が出発した後に原発がもう一基が爆発したとのことでフランスの国内放送が、一日中原発のニュースを流している。日本は大変な状況になっており、このような時に私が日本にいないのは、もし放射能が降り注ぐような場合には私自身はブルキナにいるので被害はないが、万一東京周辺が避難せざるを得なくなった場合には、家族はどこにどう避難するのだろうかと、気が気ではなかった。

  Mさんとは、セネガルのマングローブのプロジェクトでずっと一緒に働いていたので、気心は良く知れていた。国際協力を専門に勉強し、セネガルで村落開発の協力隊員としてのキャリアもあり、落ち着いていて仕事が良くできた。

 

女子協力隊員の両親と食事

  バンフォラに着いて5日目の日曜日の晩、3月20日のことだが、協力隊の隊員達と共にホテルのレストランで食事をした。この時は、バンフォラから約200kmくらい離れていて、ボボジュラソよりももっと北で、国道から西に何10kmも入った僻地で活動している女性の協力隊員の御両親が我が子の活動振りを見学に来たので、周辺の協力隊員が集まってきて、一緒に食事をして歓迎することになったのだった。活動地からバンフォラまでは相当な遠距離であるが、ご両親はワガドゥグやバンフォラ周辺の観光も兼ねていたのである。

  食事をしながらいろいろ話していると、日本の大震災直後のショックをかなり引きずっているように見られた。ご両親は、千葉県からとのことであった。地震の後ではあったが、本人達は被害を受けなかったし、ずっと前に大枚をはたいて予約してあったので、決心して出発してきたと言っていたが、やはり娘さんの様子を見たいとの思いが強かったのであろう。お父さんは私より少し若く50代半ばくらいに見え、娘さんとお父さんの顔立ちはそっくりだった。友人の協力隊員も女性が多く、今では全体に女性隊員の方がだいぶ多い。皆日本の状況を思うと心が重くなるのであるが、一時それを忘れ楽しい晩であった。

  確かにこの御両親もこの時にブルキナに来てよかったと思う。その後起こる事件により1ヵ月後には、協力隊員は全員日本に緊急避難帰国をさせられ、別な国に再派遣させられたりしたからである。

 

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.2

森林紀行

初めてのワガドゥグ

ホテルや両替商

ホテル・クルバ

ホテル・クルバは、我々プロジェクトメンバーがワガドゥグで常宿としているホテルであった。空港からすぐ近くにあり、車で5分程である。ワガドゥグの中心街の東側である。3階建てで概観はやや古い建物に感じたが、それほど古くないのかもしれない。道路幅が30mから40mほどの大通り(Av. de l’Aéroport : 空港通り)側と、道幅が5mから6mの細い道路側とに面し、L字型のホテルである。1階にロビーとカフェテリアがある。1階の大通りに面した側にはテナントが入り、客室は2階と3階である。私はシングルの客室に入る。部屋の建て付けは悪く、クロゼットのドアもきちんとかみ合わない。清潔ではあるが、私にはあまりきれいとは思われないホテルであった。

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ホテル・クルバのロビー

ベッドには蚊よけのカヤがついており、マラリアに対して、少しは安心できるので、これは良かった。部屋により新しいタイプのエアコンもあり、新しいものの音は静かだが、古いタイプのエアコンでは相当な騒音が出る部屋もある。高級ホテルには程遠いが、ブルキナでは高級の部類に入るのであろう。Sさんは長期滞在者用のキッチン付きの部屋に入っている。キッチン付きの一室で以前、電気が漏電し、ぼや騒ぎがあったとのことで、幸い大事には至らず消し止めたということだったから、こういうホテルでは安心できない。

日本を出る前から、ワガドゥグでは学生のデモがあったり、ブルキナの治安状況は悪化してきているとは聞いていたが、着いた時点では落ち着いており、この10日後くらいに、このホテルで経験する生きた心地がしない大変な事件に遭遇するとは想像だにできなかった。

 

両替商

現地に着いてまず必要なのは現地通貨である。両替商は、携帯電話会社や食堂などと並んだ道路際にあり、ホテル・クルバからも歩いてすぐのところであったが、歩くのはひったくりなどの危険があるのでいつも車で行くのであった。最初に行ったときは当面自分の必要分だけを換金した。1ユーロが656FCAF(シェファーフラン)でホテルよりも1良かったが、ホテルでも換金率はほとんど変わらないので、ホテルは意外に良心的だと思った。しかし、ホテルでは少額しか替えられないので、大きい額を換金する必要があるときは両替商か銀行に行かなければならない。

両替商の換金窓口でユーロのトラベラーズチェックとパスポートを出すと中に持って行ってパスポートのコピーを取るので、早くパスポートを返してもらい、金をもらわないと気が気でない。現地通貨をもらうと周りの人に見られないように金をさっとカバンにいれる。ここで数えると回りに金をさらす時間が長くなり危険度が増すからである。札束の数だけ数え、100枚は信用することにするしかない。ホテルに帰ってから数えて、もし足りなくとももう返してくれることはないだろうが、今まで各国の銀行で間違えていたことは一度もないのは幸運だったのだろうか。何しろ海外での換金はいくら注意してもし過ぎることはないので、安全を優先しているのだ。

 

関係機関

JICA

翌日(2011年3月14日(月))は、Sさんと共に、最初にJICA事務所に挨拶に行く。担当は若い方であるが、東京では海外からの研修生の受け入れなどで世話になっていたので旧知である。いつものように、今回のプロジェクトの活動内容や日程を説明し、細かい打ち合わせをする。

打ち合わせの後に、治安関係について説明を受けた。現在学生がストライキを計画中で、明日(3/15)はワガドゥグ で大きな集会があるので気をつけよとのこと。地方でも小中高の学校が今は全て臨時休校となっているとのことである。1ヵ月前くらいにクドゥグというブルキナ第3の都市で学生が警察の取り調べを受けた後に死亡した事件があり、それは警察官の暴行と言われており、その後学生と警察の衝突が激化しているとのことである。その他北部では「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」による誘拐リスクがあるとのことである。我々のプロジェクトは南部であるので、多少は安心だが、苗木の案件をもっているSさんはやや北部までも行かなければならないので細心の注意が必要だ。その他一般犯罪や交通事故、これらは日本よりもはるかに多いとのことである。

ブルキナはアフリカにおいて近隣諸国と比べても、とても治安の良い国だと言われていた。アラブの春がちょうどチュニジアで始まったばかりで、すぐにエジプトやリビア、コートジボアールなどアフリカの多くの国に波及し、情勢不安な状態の中でも、2010年の11月にあった大統領選も大きな混乱が起こることもなかったのだが、ブルキナの治安も段々と悪くなってきたのだった。

 

森林局

その後森林局に行く。局長が不在だったので、Sさんが行っている苗木案件のプロジェクトの部屋に行き、スタッフに挨拶をする。苗木プロジェクトの団長さんも不在であった。英語をしゃべれるスタッフを2人雇っていたので、話はしやすかった。

使用している車のフロントガラスにひびが入っており換えなければならないこともあり、もう一日森林局で仕事をした。発展途上国では舗装をしてあっても小石が跳ねてフロントガラスにひびが入る場合が非常に多いので、気をつけねばならない。

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森林局の前の通り

 

その間に地図局に行き、地図を買ったり、ブルキナやアフリカの地勢に関する本などを買って、プロジェクト地域周辺の自然条件を改めておさらいをした。

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森林局(Difor)の入り口の看板

 

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森林局

 

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森林局の庭

 

ワガドゥグの町

ワガドゥグの町をイスフ(運転手)の運転で走っていると車は多いし、荒い運転が多いので、日本以上に気をつけないといけない。バイクも非常に多く、特に女性は子供を背負って運転している人も多く、本当に気をつけないといけない。最初にイスフに「気をつけろ。」とは言ったもののあまり言うのも運転がしにくいだろうし、運転手はワガドゥグでの運転にも慣れているのであまり気をつけろというのは控えていた。それにしても非常に埃っぽい。セネガルのダカールも非常に埃っぽかったが、ワガドゥグの方がもっと埃っぽい感じである。サハラ砂漠から飛んで来る微砂がいつも舞っているのだ。

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ワガドゥグの町。サハラからの微砂で埃っぽい

 

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バイクの2人乗りが非常に多い

コンピュータもカバーを付けないとすぐに故障するとのことである。キーボードカバーが絶対に必要とのことから、それを日本から用意してきた。

 

バンフォラへ

2011年3月16日(水)にワガドゥグからプロジェクト事務所のあるバンフォラに向かった。ワガドゥグからバンフォラまでは約430Kmである。車で6時間ほどだ。ワガドゥグで食糧の肉類などをマリーナマーケットというスーパーマーケットで買い込み9時過ぎにワガドゥグを発つ。道路の舗装状態はまあまあ良い部類なので、時速約100Kmで飛ばしていける。しかし、平均時速は70?80kmくらいだ。

Sさんは、今は苗木プロジェクトの担当となっているためワガドゥグに残る。運転手のイスフと二人でバンフォラに向かう。バンフォラでは、別のプロジェクトスタッフのMさんが仕事をしている。運転手のイスフには交通事故には十分に気をつけさせないといけない。あまり言わないがやはりスピードの出し過ぎに注意する。

ワガドゥグから約180km行ったボロモという町に12時近くに着き、ここで昼食を取る。レストランというほど立派ではないが、ここは外国人の多くが立ち寄り食事をするようだ。

 

途中の樹木の状況

国道沿いには大きなカヤ・セネガレンシス(Khaya senegalensisセネガル原産のセンダン科で高木に成長する樹木)の並木がある場所が多い。大きい木だと樹高は20m以上もあり、胸高直径は80cmくらいもある。これはフランスが統治していたときに地元民に植えさせたとのことだが、これは宗主国が行ったほんのわずかの良い行いの部類だったろう。畑の中にも随分と木が残っている。これはあとでわかったが、シアバターの木だった。私がシアバターの木を見るのは初めてだった。

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ワガドゥグからバンフォラへ。すぐに都市から畑作地滞へ

 

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地元民の伝統的なわら葺きの小さな家が見える

 

私はセネガル、モロッコ、ジンバブエといった乾燥地帯のアフリカで主に仕事をしてきたので、このような大木があったり、樹木が多い場所を見るのは珍しく、ここで植生回復のプロジェクトなどを行えば回復の可能性は非常に高いと思った。

 

ボボジュラッソを通過

バンフォラへあと80kmくらいの所に位置し、ワガドゥグからは手前に在るボボジュラッソの町に午後5時頃に着く。ここはワガドゥグに次いでブルキナでは2番目に大きな町だ。イスフにガソリンを入れていかないのかと聞くと、まだバンフォラまで行けるし、バンフォラにガソリンスタンドがあるので心配ないと言う。まだイスフは私に打ち解けてないので、かなり無口で、ぶっきらぼうである。

 

バンフォラに到着

バンフォラに着いたのは午後6時半くらいだった。フランス人が経営しているカンナ・スクレというホテルに着く。バンフォラはやはり随分と埃っぽい町だと感じた。しかし、セネガルの町に比べて緑が多いのでビックリだ。

 

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.1

森林紀行

ブルキナ・ファソへ

1.はじめに

この紀行文では、最初にアジアのインドネシア、次に南米のエクアドルを書いたので、今回は3本目としてアフリカのブルキナ・ファソについて書きたい。

ブルキナ・ファソ(以下ブルキナと略すが、文脈によりブルキナ・ファソとも記す)には2011年に実施していたプロジェクトのメンバーとして行ったものである。

私の出発日は2011年3月12日(土)と決まっていた。ところが前日、東日本大震災が起こり、私は都内の勤め先から自宅に戻ることができず、職場に近い同僚の実家に泊めてもらった。出発は延期されるということだったが、3月12日の早朝、搭乗予定の飛行機便の出発が昼から夜に延期されたので、それに乗るようにと連絡がきた。午前中に何とか自宅に戻ることができ、すぐに出発の用意をして家を出て、混乱の中、成田空港に何とか着くことができた。半日遅れであったが、パリで一泊し、ブルキナの首都ワガドゥグには予定通り着くことができた。ということで、この紀行文は出発日のことから記したい。

東日本大震災の爪痕が未だに深く残る日本。改めて、大地震、大津波による犠牲者の方々のご冥福をお祈りし、また、未だに帰還できない多くの原発震災被災者並びに大地震、大津波の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。

 

2.成田空港へ

2011年3月12日午前11時頃都内から何とか帰宅できた。職場から普段は通勤に1時間程かかるが、この日は3時間以上もかかった。しかし、ともあれ家に帰れた。飛行機便は夜ではあるが、成田空港に行けるかどうかもわからないので、できるだけ早く出発することにし、まず風呂に入りさっぱりする。一緒に出発する同僚に電話するが、電車がスムーズに動いていなくて家に帰るのに苦労しているとのことだった。私は、家で昼飯を食べてすぐに午後1時に家を出た。

 

成田空港へ

私の娘が家にきており、途中まで一緒に行ってくれると言うのでやや心強かった。リムジンバスが動いていなく、タクシーも遠距離には行ってくれず、電車で行くことにした。

西武線の所沢駅の案内で聞くと、「京成電鉄が動いているので成田空港まで乗り継いで行けるのではないか?」と言われる。駅でも正確な情報はつかんでいない。ではととりあえず西武線で池袋駅まで行ってみようと行った。ゆっくりだが池袋駅まで着くことができた。するとJRの山手線も少しだが動いていて、上野駅まで行くことができた。JRの上野駅から京成上野駅まで歩く。駅員に聞くと途中の八千代台駅まで電車で行き、その先はバスで成田空港まで行けると言われる。切符を買おうとすると売っておらず、何でも良いから取りあえず乗って行けと入場券をくれる。それで娘と京成上野駅で発車を待っている電車に乗ろうと思ったが、あまりに満員なので、駅員に「次のがすぐ出るか?」と聞くと、「次の電車はいつ出るかわからないからこれに乗った方が良いですよ。」と言われる。仕方がないので満員電車に乗る。まもなく電車が出る。娘は日暮里で降りて帰って行った。それから各駅停車で、ゆっくりと電車が進む。

 

途中でかかってきた電話

途中で同僚から電話がかかってきた。「荷物が成田空港まで着かないということが分かった。仕事道具を持っていけないから今日は出発できない。あとから行くので先に行っていてくれ。」と言われる。仕方がない。私も「私の荷物が、成田空港に着いていれば先に行く。もし着いていなかったら行くのを延期するが、取り敢えず成田空港まで行って確かめる。」と答える。

満員電車の中、途中で座ることができ、ほっとした。八千代台駅に着くと、バスではなく、成田空港から来た電車と乗り換えになった。駅の渡り廊下のようなところは乗客がすれ違い、満員でごった返していたが、何とか成田空港行きに乗ることができた。

 

成田空港に着く

成田空港に着いたのは午後6時くらいだった。家を出てから約5時間かかった。普段は2時間半くらいだからちょうど倍の時間がかかった。しかし、何とか空港に着けてほっとした。案内板を見ると私の乗る飛行機の出発は午後10時であった。

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成田空港には午後6時頃着く

まだ、4時間あるが何とはなしに安心した。宅配のABCで送ってあった荷物を取りに行くと、自分の荷物と仕事道具で計3つの荷物が無事着いていた。

荷物については、私は3月11日の午前中に家に取りに来るように頼んでいたため集荷に来たのは、地震の前であった。そしてすぐに成田空港に運んだのであろう。同僚は3月11日の午後に集荷を頼んだということだったので、地震の後で成田空港まで着かなかったのであろう。

荷物はブルキナの首都のワガドゥグまで直通で送れるということなのでそれで頼んだ。パリで降ろすことがないので楽だ。

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出発前の成田空港

(2011年3月12日午後6時23分の掲示板。遅延となり21時55分発に変更されたAF277便だが、更に遅れて出発は23時過ぎだった。)

 

待合室にて

チェックインして、エアフラのラウンジに行き、そこでメールなどを打ちながら3時間ほど出発を待っていた。ことのきは知らなかったが、この日の午後3時ぐらいに福島第一原発の第1号機が最初の水素爆発を起こしていた。

 

3.成田からワガドゥグへ

パリヘ向かい出発

午後10時出発予定が、更に1時間遅れて出発は午後11時くらいであった。飛行機は、まだ就航して間もない最新のA380で、ジャンボよりも一回り大きな巨大飛行機であった。この飛行機は総2階建てで、私は2階から機内に入った。隣の席の日本人の方と話すと地震の時、都内で車を運転していてハンドルを取られ、うまく運転できなかったため事故を起こさなくて良かったとのことである。しばらくし、夕食を食べたら知らない間に寝てしまい、朝食も取らず、気が着いたらまもなくパリに着陸とのことで起こされた。10時間以上も眠っていた。よほど疲れていたのだろう。機内でこんなことは初めてであった。

 

パリにて

パリでは空港内のホテル・シェラトンに入る。フランスは地震がないので、急に大きな安心感を持った。しかし、飛行機は原発爆発直後の福島の上空近くを通過していた。

その後ブルキナ・ファソでも後に述べる大事件に巻き込まれ、5月1日に緊急避難帰国をした。帰国便は福島上空を通過することなく、航路を南に迂回させ、中国・四国地方の上空を通過して成田に到着したのであった。

さて、予定では日本を午後1時頃出発して、同日の午後5時頃パリに到着予定であったが約10時間遅れたので、到着は翌日の夜中の午前3時頃だった。空港内のホテル・シェラトンに入ったのは朝方の4時頃であった。次のワガドゥグ行きが午前11時発だったので、3時間ほど寝ることができ、だいぶ休まった。シャルルドゴール空港では荷物を受け取ることもなく気楽であった。

 

パリからワガドゥグへ

ホテルを9時前に出て、出発ゲート内に入り、ワガドゥグ行きのゲートに向かった。パリも検査が厳しくなり、荷物検査に沢山の人が並んでいて時間がかかる。東京からパリまではモロッコとセネガルを調査した時に何回も飛んでいるので、良く知ったところだった。パリからワガドゥグは初めてであるが、モロッコ、セネガルに行くのとゲートが違うだけで、違和感はない。

飛行機は最初パリからニジェールのニアメに向かった。ニアメ経由ワガドゥグ行きの便だ。隣に座っていた人はスイス人であった。ひとしきり、日本での地震、福島の原発の恐怖などを話す。その人はチェルノブイリ事故の時のヨーロッパの放射線汚染の恐怖と被害を語った。チェルノブイリから大量の放射線がばら撒かれスイスでも食品の安全には相当に気を使ったそうだ。福島でも同じようになるのか、この時は大変な事態になるだろうとは思ったが、その程度は全く想像がつかなかった。

そうこうするうちに、ニアメに着く。ニジェールの状況を空からみると点在する木が見えるがほとんど大木はなさそうで、茶褐色の地肌が見える。ここは聞きしに勝る乾燥地帯のようだ。ニアメに着くと気温は44℃と放送がかかる。ヒェッ。これは大変な暑さだなと思う。機内にニジェールの軍人が乗ってきてパスポートと荷物を確かめる。前と後ろのドアが開いていると熱風が入ってきて、機内の温度は40℃以上に上がったであろう。早く出発してもらいたいと思った。

スイス人が下りて、その席に大きな黒人が座った。聞くと中央アリカの人だった。政府の役人とのことで、この暑いのにちゃんと背広を着てネクタイを締めている。1時間半くらい駐機していただろうか。ようやくワガドゥグに向かって飛び、機内も涼しくなる。

 

ワガドゥグにて

ワガドゥグに着いたのは午後6時くらいだった。着陸時の放送では気温は42℃とのことである。ニアメよりも2℃も低いことで少し安心した。機内を出て、ターミナルまで少し歩くが熱風を感じていた。空港にはプロジェクトのメンバーのSさんが出迎えてくれた。

三菱の大型のパジェロを運転している運転手は、プロジェクトで雇っている。まだ若そうだが愛想がなくブスッとしている。身長は私(170cm)より少し高いくらいだが、かなり太っていて100kgくらいはありそうだ。それからメンバーが常宿としているホテル・クルバに向かう。空港からホテルまではすぐそばだ。ホテルにチェックインをして当面必要な資金として100ユーロを替える。ここは655シェーファーフラン(FCAF)で、公定レートの655.957とほとんど変わらない。シェファーフランは西アフリカ一帯の共通通貨で私はセネガルでも使っていた。もう長年固定レートである。

日本の状況や家族のことを思うと心苦しかったり、不安感が湧き上がるのであったが、何はともあれワガドゥグに到着し、ホテルに入ったのでほっとし、明日からの仕事への期待も膨らむのであった。

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アフリカ(ブルキナ・ファソはマリ、ニジェール、べナン、

トーゴ、ガーナ、コートジボワールに囲まれた内陸国)

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ブルキナ・ファソ(面積27万km2(日本の約7割)、人口1,750万人(2012))

つづく

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.11

森林紀行

帰国へ(インドネシア編最終回)

先にルブクリンガウに降りる

私の足は益々悪化し、とうとう調査には使い物にならなくなったので、先にルブクリンガウに降りて医者に足を見てもらうことにした。タモリが付き添ってくれた。

 

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川で遊ぶ子供達

C/Pのタモリ

スルラングンで私がボートの運転手に1万5千ルピア(約3千円)やれとタモリに渡すと、その場でタモリは1万ルピアをポケットに入れてしまい、運転手には5千ルピアしか渡さなかった。「何しているのだ。お前にやったのじゃあない。運転手にやれ。」と言っても彼は、「私がいなければこの仕事は進まない。お前も私がいなければ仕事はできない。だからこの金はアラーの神が、私にくれたものである。」となめられたものである。全く気に入らない。しかし、ここでは親分はピンハネをしなければならない社会だ。

幾つだと聞くと38才と言ったり50才と言ったりする。顔立ちから見るとおそらく50才前後だろう。まあ、言ってみれば、江戸時代の悪代官か?

 

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仲良く私とタモリ

乗合自動車

スルラングンからムワラルピットまでは、乗合自動車で下りた。トヨタのライトバンに乗り込めるだけ詰め込むのである。20人程も乗っただろうか。ムラワルピットからルブクリンガウまではナナがジープで送ってくれる。途中スカラジャで借りていた民家前で止まり、村人と別れとお礼の挨拶をする。

映画

ルブクリンガウでは、一人でデータの整理をしながら皆の帰りを待った。その間、ルブクリンガウにある映画館に行ってみた。上映されているのはカラテ映画で、日本人やアメリカ人が悪者で、インドネシア人が正義なのである。「ヤマハ」という名の宝石泥棒がインドネシア人の秘密警察にやっつけられるという勧善懲悪ものである。言葉はほとんど分からないが、ストリーが単純で面白かった。インドネシア人が活躍する時は、大拍手である。

夜中の到着

12月27日に皆がルブクリンガウに戻る予定であった。この日の夕方にタモリもホテルに来てだいぶ遅くまで待っていた。しかし、夜遅くになっても到着しないので、タモリも帰り、戻って来るのは明日になるのであろうと思い寝てしまった。すると午前1時過ぎに到着した。雨で道路が寸断されて大変な苦労をしたとのことだった。

目標達成

ルブクリンガウで全員が集結するとやっと現地調査は終了したのだという気がしてきた。全部で91ヵ所のプロット(標本)を調査した。80点以上が当初の目標であったから、目標は達成できた。これ以上雨期の森林に入るのは危険ということで、後はデータの整理と分析にあたった。

ルブクリンガウの医者

ルブクリンガウでは一人のメンバーを除いて医者の世話になった。そのメンバーは最も若く26才で、細く締まった体で一番強かった。私は足の化膿。他のメンバーお尻に大きなおできができてしまった。団長は足の付け根のリンパ腺を腫らしてしまった。

おできができたメンバーはルブクリンガウの病院で、おできの切開をしなければならなかった。その様子を見ていると、うつぶせに寝かされ、麻酔も打たずに、おできを中心に2cmくらい切開されると棒の様な器具で突っつかれ、ぐるぐると掻き回され、膿を全部出し切った後に、消毒用のガーゼを入れられて終わりだ。彼は痛みで貧血を起こし、顔面蒼白だ。2?3日したらガーゼをとれば良いという。まことに簡単だ。だが、治りは早かった。団長と私は例によってお尻に注射を打たれた。

帰途

いよいよ帰途だ。全員体重が5Kg以上減り、まるで敗残兵だ。

ラハットへ

12月30日、ルブクリンガウの役所へ挨拶を済ませて、ノルマン、タモリに別れを告げて我々はパレンバンへ向かう。ラハットまでの道路は、まだ傷んでなくて順調に着くが、ラハットからパレンバンまでの道路は、雨で寸断されているという。その晩はラハットに泊まり、パレンバンまでのルートを検討する。

大晦日

いよいよ大晦日である。道路が寸断されているので、遠回りでも迂回して、車が通れる道を選び、インド洋に面した町ベンクールに向かう。ベンクールは静かで、思ったよりもきれいな街であった。ここで新年を迎えようとは夢にも思わなかった。インドネシアでは正月休みは元日だけらしい。イスラム教国なので、そちらの関係の行事の方がにぎやかなのである。ホテルのボーイに「スラマトタウンバルー(新年おめでとう。)」と言われる。港に行ってみると、子供が大きなタイのような魚を釣っていた。町をちょっと見物してからパレンバンへ向かった。

 

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1979年元日のベンクール

 

 

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ここで子供が釣った魚

パレンバンにて

パレンバンに到着した時は、丸2日間もジープで揺られ、疲れきっていた。皆しゃべる気力もない。しかし、ここでもの凄く辛い唐辛子が乗ったパダン料理を食べたら皆シャキッとして何の疲れも感じていない様に変身したのには驚いた。

パレンバンの営林局

1月2日は休養し、3日はパレンバンの営林局へ、挨拶へ行った。ここの局長はなかなか英語がうまく、日本をちくりと皮肉った。「戦争中は、我々は皆日本の方向へ向かっておじぎをさせられたものである。戦後、日本は平和になり、日本人の体格は大きくなった。戦争中は我々と同じくらいの体格であった。オリンピックへ出てくる日本選手などは大きくてビックリする。日本は発展し、日本人はたいしたものだ。しかし、今はもの凄い経済侵略だ。今後は侵略すること無しに、純粋に協力してもらいたい。何はともあれ、皆無事でご苦労様でした。」などと言う。

ジャカルタ到着

そして、1月4日ようやくジャカルタへ戻った。ジャカルタでは再度プレジデントホテルに向かった。このホテルは一流で、清潔でまるで天国だ。世の中にこんなにきれいな所があったのかと思うくらいである。環境が清潔な状態になった途端に、私の足も急速に快方に向かった。一体なんだったのだろうか?

報告

翌5日、早速大使館へ行き現地の報告をした。皆の無事ジャカルタ到着を喜んでくれた。ジャカルタではボゴールの林業総局へ、現在までのまとめを報告するためデータの整理と解析を行った。

ボゴールの林業総局へ

調査の疲れも癒え、我々は資料のまとめも終わり、ボゴールの林業総局へ最後の挨拶へ行った。ここでの会議で、フォージーは次長のカヒルマンにこっぴどく怒られたが、どうも茶番のようでもあった。なんやかやでどうやら友好的雰囲気のうちに話は終わった。

また一悶着

この調査では、航空写真の複製はインドネシアの会社に委託していた。しかし、別な地域の航空写真の複製の値段について、例のごとく金額面で折り合いがつかず、一悶着あった。この調査は、まだ続いており、次回調査団が来るまでに解決しようということになった。

日本へ

そして1月11日とうとうジャカルタを発たなければならなかった。様々な思いが駆け巡り、スカラジャでの人と自然はとりわけ忘れ難かった。都会の喧騒にしか住めない我々にとっては、それは理想郷だったのかもしれない。どんなに貧しく、不潔であっても、おおらかで、清々と生きているではないか。

だが、そこも徐々に文明に侵されつつある。我々日本人が彼らのためにといって森林の管理計画を立てるのだ。彼らにとっては原生林と見えるような森林を焼畑で燃やしてしまうことなど何でもないことである。確かに焼畑を行うことは自然破壊に通じるように見えるかもしれないが、彼らは延々と大昔からそうした生活をしてきたのだ。我々の計画が彼らの生活に制限を与えるような恐れもある。

しかし、それよりも当面の利益を追求し、チェンソーで森林を伐採し、ブルドーザーで伐り開いて行くことに許可を与えてしまう方が、はるかに早く、壊滅的に森林が無くなってしまうのだ。

作業員達は良く働いたし、信じられないくらい動物的な感覚が発達していた。おそらく人間本来持っている能力を普通に発揮していたのだろう。そして人懐っこく、素朴な連中で、とても好感が持てた。

しかし、都会でも田舎でも役人達は、どうしても好きになれなかった。いつでも金をせびることしか頭にない連中ばかりであった。だが、それも彼らにとっては生きる知恵であろう。裏でこそこそやるよりも、はるかに素直かもしれない。

インドネシアとの別れを惜しみつつ、手を振りながら一歩ずつタラップを登って行った。ドアが閉められ飛行機は日本に向かって飛び立った。様々な思いが脳裏を駆け巡った。

 

インドネシア編終わり

次回からアフリカのブルキナ・ファソ編を書く予定

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.10

森林紀行

No.10 ムワラクラムにて

ムワラルピットの不潔なホテル

ムワラルピットのホテルに、12月14、15日と2泊した。しかしホテルとは名ばかりで、不潔きわまりないものだった。湿った布団。汚い水。暗い部屋。不潔なトイレ。ここを流れるルピット川は汚水のようだ。あまりに汚いのでマンディ(水浴)はしないで、雨が降って来ると外へ飛び出しシャワー代わりとした。布団にダニがいるらしく、かゆくてほとんど眠れなかった。もしかすると南京虫だったかも知れない。

 

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ムワラルピットの町(どの町にもモスクがある)

 

ムワラルピットにいる間、サガラの替わりにアセップという名のカウンターパート(インドネシア側の共同作業技術者)がやって来た。アセップはまだ25歳だが、しっかりしていた。英語もかなり堪能である。「私の友人のフォージーが働かなくて申し訳ない。」と、しきりに謝っていた。

 

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アセップ等との打ち合わせ

ムワラクラムへ

このムワラルピットから奥地に入るボートの値段の交渉でまた難儀した。ムワラピットから10?程離れたスルラングンという地域の役所で交渉を行ったが、10?20人乗りのエンジン付きのスピードボートが1日2万5千ルピア(約5千円)だと船主は言った。これは、この辺りの相場としては、あまりに法外な値段である。1日1万ルピア(約2千円)が相場と聞いていたからだ。長時間の交渉の末、こちらはかなり値切ったつもりでも、まだ相当に高かったのだろう。それでも値段を決めたので、後にもめないように契約書を作った。往復その他毎日少しずつの送り迎えで合計8万ルピア(約1万6千円)ということで双方がサインした。しかし、サインをした後すぐに、もう3万ルピア(約6千円)出せと言ってきたのには驚いた。一体契約というものが分からないのだろうか。「それならもう別な場所で調査をするからムワラクラムには行かない。この契約書は破棄する。あんたには金は入らない。」と言うと、元の8万ルピアで良いと言う。

 

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エンジン付きスピードボート

化膿する足

私は、左足の甲の先端部が水虫のようなものにかかったようで、とうとう化膿してしまい、スルラングンの病院で見てもらった。医者はペニシリンを打つという。この辺りはまだ何でもペニシリンが効くようだ。お尻にペニシリンを打ってもらいボートに乗り込んだ。(帰国後ペニシリンショックも検査せずに良くペニシリンを打ったものだねと同僚から言われ、後から空恐ろしく感じたものだ。)ここの役所から陸軍の兵士が2人ライフルを持って警護にあたった。 

ムワラクラム

ムワラクラムには、我々は、12月16日から12月24日まで滞在した。ここは、スルラングンからスピードボートで約4時間。途中の川岸では、体長3mはあろうかとも見える大トカゲを見た。全く中生代の恐竜の生き残りといった感じだ。ムラワクラムでは川沿いの役所の施設に泊まった。簡易ベッドが10本程あり、壁には日本の女優のモデルのインドネシア語のカレンダーが掛けてある。

良く見ると10年程前の吉永小百合である。新幹線と名神高速道路と女優。山肌を削って道路を作った所も見える。日本の発展と自然破壊と浮き出た女優。日本のアンバランスを見せしめているような奇妙なカレンダーであった。こんな自然豊かな奥地に外国のアンバランスな発展を示すようなカレンダーがあるのが不思議な思いがした。

 

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ムワラクラムで泊まった宿舎

 

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宿舎の庭で遊ぶ子供達

ムワラクラムでの生活

ここでの調査はすべてスピードボート使い、川を遡り、上流域の森林で行った。川沿いはほとんどが天然林で、焼畑が少ないので、林内は歩きやすく、却って調査はやり易かった。しかし、私の足は完全に化膿してしまい、痛くて靴が履けなくなってしまった。ここの医療機関に行くと、保健士が一人いて、抗生物質の注射をしてくれ、やたらに抗生物質の飲み薬をくれる。私は山に入れなくなったので、皆が山に行っている間、データの整理をしていた。その合間を見て釣りをした。

 

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スピードボートで川を遡り、上流の森林を調査する

 

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川沿いの森林

ムワラクラムでの釣り

宿舎の前の川は川幅が50m程もあり、相当に水量がある。ここで釣れたのは20cm?30cm程のナマズである。いくらでも釣れる。もし長い海竿とリールを持って来ていれば、ムワラルピットの市場で売っていた1m以上もあるナマズが釣れただろうにと残念であった。

ヘビ

岸まで水が来ているものだから、そこに浮いているイカダの上で用を足した。ある時、用を足しているとお尻のすぐ後ろでヘビが鎌首を持ち上げた。私は驚いて立ち上がった時に、足をイカダを組んでいる木の間に挟んでしまった。その音に驚いたヘビは水中に潜ってしまったが、こちらに向かって来なくて良かった。あれが毒蛇だったらと思うとゾクゾクッとし、出るものも引っ込んでしまった。

卓球やドミノ

ムワラクラムには卓球台があり、ここでは我々日本人チームがインドネシア人チームに勝利し、バドミントンのお返しをした。

誰が持って来たか知らないが、タモリ達は盛んにドミノをしていた。我々はもっぱら歓談して夜を過ごした。

 

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調査で行き当った洞窟

つづく

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