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趣味の話

ゼンシンの日々

仕事はもちろん大切ですが皆それぞれ趣味があり、息抜きやストレス発散をしているんじゃないかなと思います。
当社でも色々な趣味を持った人がいますが、ゴルフが多いのかな?、中にはバイクが趣味の人もいたと思います。
自分はと言うと、昔から車が好きでたまにサーキットを走りに行ったりして楽しんでいます。
一般道路と違い、気を遣わずに思いっきりアクセルを全開にすることが出来るので爽快感が素晴らしいです。
速く走りたいとかは別として、ある程度の装備は安全のために必要ですが、だれでも興味があれば走りに行くことが出来ます。その中でも自分はなるべくお金をかけず、楽しく安全にちょっと速く走ることをモットーとしています。
これからもあと何年走れるか分かりませんがボケ防止? のために頑張って楽しく走りたいと思っています。

追伸:当社の新社長も車が好きなのでよく話しをしますが、最近の若者は車に興味のある人が少なくて少し寂しい気がします。なのでサーキットに行って若者と車の話をするのも一つの楽しみです。結構向こうから話しかけられたりしますよ。サーキットに行くとおじいと若者と半々位ですが。



【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.3_凄い禿山、裸山で激しい侵食

森林紀行

筆者紹介




2006年7月25日(火)

現地へ
 この日の朝は、8時に朝食。昨日と同じ感じだ。朝食後、打ち合わせをした後に現場に行く。曇っていて、またしても雨が降りそうであるが、幸いにも霧雨程度で済んだ。現場までは車で約1時間くらいだった。

現地の山に近づく

現地の山(森林)
 道路際は畑になっており、畑から緩傾斜の山が続いている。山には木がない。森林がないのだ。びっくりした。どこもかしこも禿山、裸山で、草だらけである。だから物凄い土壌侵食だ。

土壌侵食
 この土壌侵食の凄さといったらどうにも表現のしようがない。アンデス山脈でも大規模な土壌侵食を見たが、原因も全く同じで、昔あった樹木を根こそぎ伐採してしまったためである。
 山の源頭部あたりの谷間から徐々に侵食が始まり、下流になるほど侵食の規模は大きくなり、平地になっても、まだかなりの侵食が見られる。扇状地から盆地になり、侵食された土砂が堆積して、ようやく侵食が収まるのである。次からの写真を見てもらえば良くわかるだろう。

道のどんつき。道を作ったので、より侵食が激しい
尾根付近の谷頭から侵食が始まり、
麓に向けて侵食が激しくなっている。
途中の二次谷、三次谷の侵食も激しい。
表層の土壌が流れてしまっているので、
斜面には石が多い。
本流の谷でも凄い侵食

 斜面を登って尾根上に出る。一面の草地で禿山である。雨期のため草地になっているが、乾期には一面茶色の斜面だそうだ。ここに茶色に広がる斜面は容易に想像できた。
 私は、半袖の上に薄いジャンバーを羽織っていたが、風が強く冷えてきて夏なのに手がかじかんで来た。

扇状地から盆地となった平地には畑が広がる
同上

植林地
 植林地域を確認する。針葉樹は、油松や満州赤松、広葉樹は榎などを植えているが、生存木が少なく、活着率は非常に悪い。
 5月~10月にかけて雨が降り、7月、8月は雨期で月に100㎜程度雨が降るとのことである。11月~4月までは乾期で雨はほとんど降らず、年間の降雨量は400㎜程度とのことだ。これでは、乾燥に強い樹種を植林したり、植林後、数年間は灌水するといった何らかの対策を考えないと活着率向上は難しいと思った。

禿山、裸山となった原因
 禿山となった原因を聞けば、はっきりとは言わないものの、これは、毛沢東の大躍進政策の中で採られた製鉄増産運動に起因しているとのことだった。当時(1950年代後半)、製鉄のために一般人も薪を用いて製鉄を行ったとのことだ。そのため、ほとんどの森林が伐採されてしまったのだ。
 想像すれば、その頃までは多少の高木の森林があっただろう。しかし、中国では古代から人口は多かっただろうし、焼きレンガが建築材に使われたということなので、レンガを焼くためにも森林は徐々に伐採されて失われて行き、そこへ毛沢東の製鉄増産運動での燃料としての薪採取により残っていた森林の伐採に拍車がかけられ、根こそぎ森林が伐採されてしまったのだと想像した。
 そのため、この時は既に、「退耕還林」政策が採られていたが、まだ十分には進行しておらず、その効果は、ほとんど見えない状態だった。この中国のスローガンは読んで字の如し、素晴らしいと思うが、皆が「右向け右」といった号令の下に一斉にやらされるのは、それにはそぐわない人もいるだろうし、これは空恐ろしい。森林の伐採も回復も科学的根拠に基づいて行われるべきと思ったものだった。

植林の可能性
 そうは言いながら、植林が成功する可能性は十分にあると思った。というのは、表層の土壌は侵食され流されてはいるが、樹木の根を支えるその下層のかなり柔らかい土壌は十分にあるので、樹木の根は十分に支えられるからだ。
 ただし、この周辺は日本の東北地方くらいの緯度で、やや寒く、雨量は夏の7月8月が100㎜前後で、年間400㎜くらいしかないので、この雨量が少ないことが厳しい条件となる。5月から10月までは雨が降るが、11月から4月くらいまでは植林した当初は、灌水できれば良いが、手間が大変なので、別な方法も考えなければならない。
 樹種は、既存の植林樹種に加えて乾燥に強い郷土種を選ぶことになろう。とにかく低木でも森林を作り、天然更新して自然に樹木が増えるようになるまで、植林を行うことである。
 今にして、この後に私がかかわったドミニカ共和国でのプロジェクトのように、単に緑化だけでなく、中腹あたりに貯水池なども作り、果樹などを植え、点滴灌漑などを行ない、何らかの収入も上がるアグロフォレストリー的な方法を取り入れることも一計ではないだろうか、と思ったものである。
 植林は森林を伐採した後に、伐採した樹種が天然更新かクヌギ、コナラ林のように萌芽更新で元の森林に戻れば、費用がかからずに最良の方法となる。しかし、苗木作り、植え付け、灌水と手間と費用がかかれば、植林もなかなか進まないだろう。中国の土地所有は国か農民集団ということなので、国が費用を支援してくれれば良いが、農民集団の土地であれば、果樹の植林で農民が収入を上げられその一部を植林費用に回すような仕組み作りが必要であろう。

農民のトラクターがエンコ
 帰路の途中、道路で多少傾斜のあるところで農民のトラクターが雨で地盤が緩んだためそこを登れず、道路を塞いでいる。我々の車の前にいるものだから我々もストップ。近くで道路工事をしていたブルドーザーがいたので、頼んで引っ張ってもらう。最初は引っ張るために付けたナイロンロープが切れてしまった。それで、ワイヤーに付け直すと、すぐに引っ張ることができ、農民のトラクターは横にどいてもらい、我々はホテルに戻ることができた。

農民のトラクターを工事中のブルドーザーで
引っ張ってもらう
近隣の焼きレンガの家

昼食
 ホテルに戻り昼飯である。体が冷えたので、この時は乾杯を勧められるままに白酒を飲む。少し飲んで、体が温まってきてほっとした。こういう時にアルコール度の高い酒は元気も出るし、実に良いものだと思ったものである。しかし、それで中国の寒い地方やロシアにはアル中が多いのではないだろうか?ここで河北省のRiさんは戻っていった。

タクロク県に行く
 食事後、豚鹿県(豚ではなく月片がサンズイ、タクロク県と言う)に行く。途中でタクロク県の町で県庁に立ち寄り県知事に挨拶をする。それから公安と書いた車(警察権をもった林業局の車)が先導してくれる。町はやはり立派である。幅広の道路は、片側が2車線ずつあり、その外側に街路樹植林用のスペースが広がり、それとビルとの間にはもう1車線ある。ビルは7~8階の大きなビルが余裕を持って建てられている。どうみても日本の市役所所在地などよりもはるかに余裕がある。しかし、このビルの耐震構造を考えると外見のきれいさだけでは判断できないところがあろうと思えた。

ぶどう園
 そこから30分くらい未舗装の道を行くと、段々畑ならぬ段々ぶどう園が広がっている。
 ここは世銀のプロジェクトの援助でできたふどう畑で6年目とのことだ。6年でそれほど立派な木になるとは思われないので、既存のぶどう畑のところを拡張的に整備したのだろう。ここはワイン生産を中心に行っているそうだ。階段切りを行って、井戸を掘り、灌漑用のパイプを通し、230haのぶどう園を造成したとのことである。1,500万元(2億2千5百万円)借り、利子は0.2%で25年返しだそうだ。それ以外に800万元(1億2千万円)は無償だそうだ。
 しかし、農薬のかけ方が凄い。半端ではない。多くの人が農薬タンクを背負い、マスクもしないで一斉に農薬をかけている。手前の農地で作業している農民を見ても同様にマスクをするわけでもなく、農薬タンクを背負い、噴霧器でかけている。これを見て、中国農民や中国人自体の農薬中毒の怖れが心配になった。それに中国のワインもおいしいけれど飲むのは止めようと思ってしまった。日本で売っている中国産の野菜もできるだけ買わないようにしようとも思ったものである。
 しかし、今では中国人の農薬に対する意識に変化が見られ、クリーンな野菜を食べたいと思う人も増えているようだ。

文学館
 帰りに丁玲さんという人の文学記念館があったので立ち寄ってみた。丁玲さんの銅像が入り口に立っていた。
 丁玲さんは中国の女流作家で、左翼作家連盟に属し、夫の刑死後、共産党に入党し、解放区で文化宣伝工作に従事し、1954年頃から批判を受け第一線から退いたが、1979年に名誉を回復した方とのことだった。
 面白いものとは感じなかった。ただ、そこで遊んでいた子供達が元気で、日本の子供と同じようで心が和んだ。

丁玲さんの銅像

タクロク県のホテル
 この日は、豚鹿県のホテルに泊まった。ホテルの概観は病院のようである。中は普通のホテルといった感じだった。ツインの部屋を一人で使いかなり広いが、ここでも赤城県のホテルと同様にバスタブの排水が悪かった。

夜の接待攻勢
 夜は、また接待攻勢である。このタクロク県の県知事よりも偉いと思われる方の隣に座らされた。この方は随分と態度が大きかった。年は私より少し若いくらいに思われたが、非常に尊大で高慢のような感じを受けた。今まで様々な国の偉い人達とも会食をしたことがあるが、常識的で尊大と感じたことはなかった。接待受けるのも仕事の一部と思っていたが、お客さんである私に対してまるで自分の部下であるかのような物言いだ。こんなひどい目にあう接待は受けたくもない。このような態度は、中国の政治体制が影響しているのだろうと思わざるを得なかった。
 ここでも随分と白酒を飲まされた。ビールは相変わらずまずい。相手が悪いからよけいに不味く感じたのであろう。しかし、ここでも夕食は2時間くらいでピタッとお開きとなり、ほっとした。

街中
 少し余裕ができたので町に出た。Shuさんが大きな瀬戸物の金魚蜂を以前に買って、明日行く承徳市の事務所に置いてあるとのことである。今回、それを日本に持ち帰りたく、機内持ち込みにしたいとのことだった。そのために布でくるんで割れないよう、大きな布袋を作ってもらうため、布屋に入った。私も中国風の布を少し買う。
 そのあと中国式のマッサージ屋に行き、体をほぐしてもらった。45分で70元(約千円)だった。男の人だったのでかなりきつくもんで貰った。


つづく

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