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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.3

森林紀行

いざパラグアイへ

予約便が変更になったこと

最初にパラグアイに行ったのは1980年11月20日(木)のことであった。2度目の海外出張であり、初めての南米、私は20代最後の出張であった。

当初はJALで、成田からニューヨーク、リオデジャネイロ経由でアスンシオンへ行く予定であった。JALだと午前10時に成田を出て、ニューヨークには時差の関係でほとんど同じ時刻の同日午前10時15分着の予定で、ニューヨークからリオデジャネイロへの便は同日午後8時発なので、約10時間の時間がありニューヨークの町を見ることができると楽しみにしていた。

しかし、出発日11月20日にはJALがストを行うと発表され、急遽JALからパンナムに変更した。パンナムは午後7時発で、ニューヨークでは飛行機の乗り換えだけで、町を見る余裕はなくなってしまい、がっかりした。

メンバーは職場の4人でチームを組み、団長を始め皆、経験豊富な技術者であり、私が一番下っ端で小間使いであった。

 

機内

午後6時20分に飛行機に乗り込んだ。PA800 である。午後7時20分に成田を飛び立った。まずは、成田を無事出発でき、わくわくしていた。ニューヨーク、ケネディ空港には同日午後5時35分に到着した。実質約12時間乗っており、夜に乗り、日が明け、また日が沈んだところである。

機内はほとんどがアメリカ人で、もう乗り込んだ瞬間からアメリカの雰囲気である。しかし、もう一方の隣の席は、アルゼンチン人であった。ブエノスアイレスに帰るとのことで、この人は、英語はあまりうまくなかったが、スペイン語を教えてくれた。まったく何という良い言葉を教えてくれたものだろう。私がスペイン語を知らないものだから。「Quiero darle un beso (キスし(てあげ)たい)というスペイン語を覚えていたら良いよ。」と教えてくれた。さすがにアルゼンチン人である。

ビジネスクラスでありがたかったが、ニューヨークで降りる時に、機内の床には新聞その他のごみが散乱しており、アメリカ人はこんなにだらしがないのかと思ったものだった。

 

日本からニューヨークへ.jpg

日本からニューヨークへ

 

 

ニューヨークでの早技

ニューヨークに着き、そのままトランジットであった。しかし、初めて降りるニューヨークの地、ここが本当にニューヨークなのか信じられない思いで興奮し、一人はしゃいでいた。到着後アメリカではトランジットでも入国しなければならず、税関での入国審査の後、荷物を受け取とった。しかし、トランジットの場合は、荷物を流す専用の場所があり、そこから荷物をベルトコンベアーに乗せても良いのである。我々は一人1個のスーツケースを持っており、チームで合計4個であった。この時は予備調査だったので、調査機材も個人のスーツケースに入るくらいの量だった。

4個のスーツケースを受け取り、トランジット専用の場所でスーツケースを「パラグアイのアスンシオンまで。」と言ってそこで働いていた黒人に渡した。この当時既に海外留学経験があったHさんがいかにも慣れた手つきで、彼にチップを1ドルやろうと思ってポケットから1ドルを取り出し渡そうとした時、もう1ドルがポケットから落ちてしまった。落ちてしまった1ドルはさっとその黒人に拾われ、渡した1ドルとともに黒人には2ドルが入った。「Thank you sir.」とチップの額はたいしたことがないもののその早技に感心した。

 

リオデジャネイロへ

午後8時半ニューヨークからリオデジャネイロに向けて、バリグ便で飛び立った。ここはエコノミークラスであったが、すいていたので、5席を横にして一人でゆっくりと眠ることができた。ところが大失敗。機内サービスでもらったチョコレートが座席に落ちたのに気がつかず、敷いて寝てしまった。寝ている間にチョコレートが溶けてジャンバーの背中にこびりついてしまった。夜中にトイレに行って気が付き、こびりついた部分だけ水洗いし、だいぶこすってチョコレートを落としたが、十分には取れなかった。翌朝7時20分にリオデジャネイロに着く。

 

ニューヨーク-リオデジャネイロ.jpg                           ニューヨーク→リオデジャネイロ→サンパウロ→イグアス→アスンシオン

アスンシオンへ

リオデジャネイロからアスンシオンへは、サンパウロ、イグアス経由であった。リオデジャネイロは午前9時15分発なので、約2時間の待ち時間だ。実際に飛んだのは午前9時50分で、サンパウロに午前10時半に着き、サンパウロ発が午前11時半。午後12時45分にイグアス着。上空からイグアスの滝が良く見えた。午後1時10分イグアス発で、午後2時にアスンシオンに到着した。

日本を出発して約33時間、この間バリグの食事をたらふく食べたが、ゆっくりとは休めず、実に長い旅だと思った。リオデジャネイロに着いた時は、もうすぐだと思ったが、それからの4時間が本当に長かった。サンパウロやイグアスでの機内での待ち時間が特に長く感じた。

 

アスンシオン空港にての出迎え

空港ではパラグアイ森林局や日本の関係者の方が出迎えてくれた。

しかし、困ったことに4人ともスーツケースが着かなかった。ロストバッゲージである。しかし、聞くと良くあることで、明日は着くだろうとのことだった。仕方がないので、ロストバッゲージの手続きをしてホテルに向かい、翌日は着の身着のままであった。

 

ロストバッゲージ

困ったことにHさんとOさんの荷物には最近撮影した航空写真の一部が入っており、これが届かないと仕事に支障をきたすことになる。翌日同じ時間に空港に行ったところ団長とOさんの荷物が着き、私とHさんの荷物が着かない。仕方がない。それから毎日同じ時刻に空港に荷物を見に行ったがとうとう着かなかった。空港の荷物置き場も見せてもらったが、他の地域からアスンシオンに着いてしまったスーツケースが大量にあるのにびっくりした。これだけ多くの荷物が必要なところにつかないで迷子になっているとは、世界中で困っている人が沢山いるのだろう。行き先のタグが無くなっているのだ。結局帰国するまで2カ月間スーツケースは着かなく行方不明になってしまった。

 

2日目に着かなかった時に、すぐに下着やズボン、シャツなどの着物とその他の必要物はアスンシオンの町で買い、結局、何も持ってこなくても過ごせるということはわかった。ただし、愛着があるものがなくなってしまって、金では買えないと思ったものである。

特に残念だったのは、パラグアイの植物は基本的に日本とは違うものの、同じ様な形のものはあり、科名くらいはわかるのではないかと思い、使い込んだ学生版牧野植物図鑑を持って行ったのであるが、無くなってしまってがっかりした。

帰国後、新しいものを買ったが、版を重ねていたので、図がコピーのようでところどころとぎれとぎれになっており、使い物にならなかった。

 

しかし、当時はコンピュータ、プリンターも無いし、それらの充電機やコード、インクなど付属物も無いし、今よりはるかに荷物が少なく、仕事も紙と鉛筆があれば、なんとかできるという、よりシンプル世界だったから良かったのである。また、この時の仕事は予備調査であり、どのような方法で本格調査を行うかを検討するものであったので、航空写真はOさんのスーツケースに入っていたもので、まにあいことなきを得た。

 

補償

荷物がなくなったことでバリグ航空と交渉したが、荷物を預けたのがニューヨークで、責任はニューヨークまで乗ってきたパンナム航空にあると責任のがれで埒が明かない。しかし、粘り強く交渉し、最終的にバリグが補償することとなった。

さて、補償額はいくらかという時になった時に、荷物1個につき20Kgで、1Kgあたりいくらということで、中身の値段に比べて、ほんのわずかが補償されただけだった。

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.2

森林紀行

出発準備

初めてのパラグアイ

パラグアイは、私が最初に行った南米の国である。海外出張ではインドネシアに次いで2番目の国である。最初に行ったのは1980年。現在2015年だから、今から35年前のことである。パラグアイでは2つの調査を行った。一つは今書いている北東部の森林資源調査であり、続けてカピバリという地区で、森林造成計画を作成する仕事を行った。

その後、1987年に南米全体の森林や林業の状況を調査に行った時に、パラグアイに滞在したので、パラグアイには3つの仕事を通じて8回ほど行っている。

北東部の調査の目的は、森林の資源量を調査し、森林開発計画のガイドラインを作成するというものであった。開発計画と言っても樹木を伐採し利用するための計画ではなく、持続的に木材を生産し、森林を保護するための森林管理計画の作成であった。いわば、林業サイドから見た地域開発計画の作成であり、どちらかといえば自然保護に重点を置いたものである。

 

 

出発前の準備

航空写真の判読

パラグアイ国の面積は約40万k?で日本よりやや大きい国である。国を南北に流れるパラグアイ川(ラプラタ川の上流)により国が東西に分けられる。国の半分以上を占める西側はチャコと呼ばれる乾燥地域で、当時はわずかに牧場がある程度でほとんど人は住んでいなかった。乾燥地であるのでタンニンを含む有用樹のケブラーチョなどが多く生育している。利用されている土地は東側のみと言ってよく、それは日本の約半分くらいの面積である。

 

パラグアイ地図.jpg

パラグアイ地図

 

その東側でも北東部にある町ペドロ・フアン・カバジェーロを基地にしての調査だった。北東部は当時まだ原生林が残っていたが、すでに多くの森林で有用樹の伐採が行われている森林であった。最初の予備調査の前に撮影した航空写真を入手し、出発前に予備的に判読した。

判読というのは、室内で立体鏡というのを用いて航空写真を立体的に見て、森林を密度の濃い森林や薄い森林、樹高の高い森林や低い森林、それらを林相というのであるが、林相の基準を作って、各々の林相にグループ分けして行く作業である。

航空写真は、上空から東西方向に一定間隔で撮影したもので、隣り合った写真を2枚用いて、同じ個所を右側と左側から見て、それを重ねあわせると立体的に見えるのである。3次元の絵や柄合わせと、原理は同じである。これは言ってみればかなり専門的な作業であるが、上空の至近距離から森林を観察しているのと同様で、様々な発見ができ、興味津津、楽しみながらできた仕事であった。

今は、森林を見るのも航空写真からほとんど衛星情報に替わり、この専門的技術はすたれてしまった。この技術を身に付ければ現場では、2枚の航空写真を肉眼で立体視して、地形の変化も読めるし、大木を目印に自分がどこにいるかも容易につかめ、森林内にいても迷うことはなかったのである。今はGPSなど便利なものがあるからアナログ技術はすたれてしまった。

ただし、この調査でも当時自由につかえるようになったランドサットのデータを使って1981年3月と1983年3月の2年間の森林と土地利用の面積の変化を調べた。この時の結果では2年間で約5.3%の森林が減少していた。単純に推移すれば38年で森林が無くなってしまうのであるが、現実には森林の伐採が加速され、その倍くらいの早さで森林はなくなってしまったのだ。

 

濃い緑が森林。今ではほとんど森林が消滅.jpg

濃い緑が森林。今ではほとんど森林が消滅

 

大森林内の不思議な道

さて、パラグアイ北東部の森林の航空写真を判読している時に、大森林地帯にかなりの密度で縦横に道路らしきものが判読できるのだった。しかし、密林であり、はっきりと連続しておらず、道路らしきものも木や草に覆われており、土は反射しないため白く光って見えず、一体何だろうかと不思議に思った。

パラグアイにはグアラニー族が多いと聞くし、もしかしたら先住民インディオの通り道かとも思った。しかし、通り道であればこんなに多くあるはずはないし、しかもはっきりとは判読できないだろうと思ったりもした。では、何であろうか?確かに何かが通った跡である。

 

実際に現地に入ってみて、その跡が何であるかすぐに分かったが、がっかりすることはなはだしかった。それは木材を伐採し、搬出する道路の跡だったのである。現地に入る前は伐採道など入っていない原生林と思っていたからよけいにがっかりした。おそらく人は、森林資源は無限にあるものと錯覚していたのだろう。無限にあると思われていた天然の森林も縦横無尽に道路を入れられて伐採されれば、あっというまに消失してしまうのである。

天然林の優良木の消失の道は、ヨーロッパも日本もたどった道で、パラグアイは遅れてきただけのことであるが、それにしてももったいないことをしたものである。

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.1

森林紀行

パラグアイ北東部の森林の印象

はじめに

今回から新たに南米パラグアイの森林について書く予定である。パラグアイに私が最初に行ったのは1980年、今から35年前のことである。信じられないくらい巨大な森林破壊が起こった場所であるが、それらや森林調査を中心に書いて行くつもりである。

 

 

巨大な森林破壊

「思ったよりずっと伐採されているな。樹海が一面に広がっていると思っていたが、伐採地が沢山見えるぞ。それでも広大な森林が広がっているな。」

「あそこの煙が上がっている伐採地に近づいてもらえるかな。」

もの凄いプロペラの騒音の中、軽飛行機のパイロットは大きな伐採地の上空まで来て、低空飛行をする。

「まだ燃えている木もある。くすぶっている木も沢山ある。いや、これは大変な森林破壊だ。それにしても焼け焦げた巨大木が立っている姿は、森林の墓場みたいだ。」

我々は軽飛行機に乗り、上空から森林の偵察飛行を行っていた。森林は期待に反して伐採が激しかった。期待していたのは広大な森林が地平線まで広がって見えることだった。

 

森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。.jpg森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。


「ここはまずは牧場にするのだろうな。焼いている一片の長さはどれくらいある?」

「そうだな。少なくとも5?以上はあるだろう。」

「すると少なくとも25平方キロ以上、つまり2,500ha以上の森林を一遍に焼いてしまったということか。信じられない巨大さだな。森林破壊もいいところだ。これじゃあ、調査地の森林が150万haあっても、すぐに無くなってしまうのではないか?」

(注 2,500haというと東京都の中央区と千代田区を合わせた面積よりも大きい。150万haというと岩手県と同程度の面積で、長野県の面積よりもやや大きい。)

「他の伐採地もこれほどの面積はないにしても1平方キロ以上を焼いている森林は沢山あるなあ。」

期待していた見渡す限り地平線まで森林が続いている場所はどこにもなく、森林は、虫食い状態になり始め、どこかに必ず伐採跡地が現れてがっかりした。

出発前の日本国内での準備作業で、航空写真を判読していて、およその森林の状況はわかっていた。しかし、航空写真のように一部を切り出して見るのではなく、軽飛行機からは地域全体を見ることができるので思ったよりも森林伐採が激しく、航空写真撮影後も伐採がかなり進んでいる様子がわかった。

 

森林を伐採後、牧場などに転換した土地.jpg

森林を伐採後、牧場などに転換した土地

 

機内では、あそこが見たい、ここが見たいと我々がパイロットに要求するものだから軽飛行機は左右にターンとアップダウンを繰り返えし、途中で飛行機酔いをした。

我々は、森林破壊の巨大さに驚きながら3時間もの偵察飛行を終え、ペドロ・ファン・カバジェーロ(紳士のペドロ・ファンという意味)市の空港に降りたった。

パラグアイは地形が平坦なので、簡単に道路が作れ、トラックなどが入り易く、森林は伐採されやすい。日本のように山あり、谷ありで、物理的に開発が不可能な場所があるわけではなく、伐採に歯止めがきかない。

我々の調査の後の20年後、2000年前後に調査したチームによれば、1980年当時大森林であった地域の森林はほとんど無くなっていたとのことだった。

2015年の現在、グーグルアースの衛星写真で見ても当時大森林だった地域は、ほとんど森林が無いのに驚かされる。我々の調査した広大な森林は一体どこに行ってしまったのだろうか?

パラグアイ北東部の森林調査で強烈に残っている印象は、森林破壊の巨大さであった。

 

 

パラグアイや調査対象地の地図

南米.jpg

南米

 

パラグアイ.jpg

パラグアイ

 

調査対象地の位置(斜線部).jpg

調査対象地の位置(斜線部)

 

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.29

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緊急避難帰国(最後までトラブル)

ワガドゥグへ

4月28日(木)の朝、ダウダの運転で団長とワガドゥグに向かった。ワガドゥグではSさんと合流し、明日3人で東京に発つ予定である。出発してしばらくするとJICAから団長に電話がかかってきた。

「何ですって?我々が予約している明日のワガドゥグからパリ行きのエールフランスの便がキャンセルされたのですか?ブルキナの治安が悪化しているのでエアフラは運航を中止したのですか。本当ですか?それではもう一回パリまでの便を取りなおさなければならないんですね?我々は昨日便を変更したばかりですが、エアフラが飛ばないのならすぐに別な航空会社の便に変更しなければならないですね。それと我々は明日の4月29日までにブルキナを緊急避難で出国しなければならないということは変更できないのですね。分かりました。でも我々は今、バンフォラからワガドゥグに向かう車の中にいるのですぐに便を変更できないので、この電話の後で、ワガドゥグで働いているSさんに電話して、エアフラから何か別の便への変更を東京の旅行代理店に聞いてもらうことを頼みます。またはっきりしたら連絡します。」ということで電話を切った。

 

バンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる.jpgバンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる

そして団長がワガドゥグで働いているSさんに電話し、Sさんが日本の旅行代理店に連絡し、エアフラから別の便でパリに行ける便への変更を頼んだ。Sさんが日本に電話したところ生憎休日で、それも午後5時を過ぎていたので担当者はいなかったが、緊急デスクが働いてくれ、便を見つけることができた。それはワガドゥグからセネガルのダカールに飛び、ダカールからパリに行き、パリから東京へ戻る便だった。ワガドゥグからダカールまではブルキナ航空で、ダカールからパリ経由で成田まではエアフラであった。そして旅行代理店はE-チケットをその日の日本時間の朝9時以降にEメールで我々に送ってくれることになった。それはブルキナでは翌日の午前1時であった。

 

ボボジュラッソの踏切.jpg

ボボジュラッソの踏切

 

 

ホテル・クルバにて

ホテル・クルバにはSさんと一緒に働いていて苗木案件の団長のNさんも宿泊していた。Nさんも明日緊急避難帰国しなければならない。Nさんはガーナ周りの便が取れたとのことだ。Nさんはこの程度の治安の悪化は全くたいしたことがないといった感想である。

実際に兵士の反乱事件に直接巻き込まれていないからであろう。しかし、長年国際機関で働いていた経験もあり、もっと大変な修羅場をいくつも潜り抜けてきたとのことである。ガーナの首都のアクラは良く知っているので問題ないとのことだった。

私は翌日の午前4時に起きてE-チケットが届いているかEメールを確かめたが、届いていなかった。それでスカイプで東京の旅行代理店に電話し、確かめた。するとワガドゥグからダカール便のE-チケットは発行でき、すぐにそれを送るとのことで、電話の後メールで受け取ることができ、持って来ていた小型のプリンターで印刷した。しかし、ダカールからパリまでの便はすぐに発行できないということだったので、予約番号を聞いた。予約番号があれば大丈夫とのことだった。

結局E-チケットを入手できたのはワガドゥグからダカールまでで、ダカールの空港では予約No.で対応することにした。

 

ホテルクルバのロビー.jpg

ホテルクルバのロビー

 

 

パイロットが来ないワガドゥグの空港

ホテルを朝8時に出て、空港に行った。空港までは5分である。飛行機の出発時間は10時である。

空港でのチェックインはスムーズにいった。待合室に入ると緊急避難帰国する日本人専門家が沢山いた。女性達は仲が良い。「あなたはどこへ行くの?セネガルのダカールね。私はガーナのアクラ周りよ。」他にもこの周辺の首都の名前が飛び交っている。

しかし、10時になってもダカール行きの飛行機への搭乗案内はない。セネガル以外の国に脱出する人達は皆出発してしまった。すると予定しているセネガル便のパイロットが来ないので別なパイロットを捜しているとアナウンスがあった。「エッ。何?考えられないなあ。そんなことで大丈夫なんだろうか?ブルキナ航空はパイロットだけでなく機体も大丈夫なのだろうか?」と不安感が浮かぶ。しかし、待っているしかない。12時少し前になり別なパイロットが来たとアナウンスがあり、我々も機内に入ることができた。長い4時間の待時間だった。とうとうワガドゥグを脱出できたのだった。何だってとても不安であわただしい日々だったので、飛び立った瞬間は、ブルキナ航空の飛行機ではあったが、これで治安の悪い場所から逃れられたととても安心感が湧いた。飛び立った飛行機は最初マリの首都バマコに降りた。バマコで降りた客に代わり新たな客が乗ってきた。約1時間駐機していたが、とても暑かった。そしてバマコからセネガルのダカールに向かった。私はセネガルのプロジェクトに約7年ほどかかわっていたので、ダカールの空港は勝手知ったる空港で、ほっとした。ここで7時間ほど待って夜行便でパリに翌日の早朝着いた。ホテルで数時間休みパリから成田へ向かった。そして最初に記したように飛行機は福島上空を避け、航路を南に南下させ、中国・四国地方の上空で日本列島を横断し、成田空港に無事到着した。

私は今回の出発前日の地震からワガドゥグでの兵士の反乱事件などいろいろなダメージを受け相当神経過敏になっていた。成田空港へついたとたんに2か月前の大地震と原発事故の恐怖が思い起こされるのである。そして空港の地下の電車のホームに行く時も恐怖感を感じた。しかし、電車に乗ったら万一地下が崩れても車両がつぶれなければ、それが楯となり瓦礫からは護ってくれるだろうと妙な安心感も湧くのであった。

 

 

終わりに

ブルキナ・ファソはこの後政情も落ち着き、半年後にプロジェクトは再開となった。その時のことはまた、機会を改めて述べてみたい。

ブルキナ・ファソでは最近(2015年9月17日)、コンパオレ前大統領の側近がクーデターを起こした。コンパオレ前大統領は、昨年(2014)の抗議デモの激化により27年間続いた長期政権から退陣した。その後カファンド暫定大統領やジダ首相らが政権運営をしていたが、この日大統領警護隊に拘束され、軍が全権を掌握した。しかし、首都ワガドゥグにクーデターを支持しない他の軍部隊が国内各地から集結し、警護隊への圧力が高まり9月23日、カファンド暫定大統領が解放され職務に復帰した。続いて警護隊とクーデター反対派の兵士も衝突回避で合意し、クーデターは失敗に終わった形となった。

この紀行文の最初では2011年3月?4月にかけて起きたクーデター未遂事件を書いたが、西アフリカ全体に不安定な政権が多い。国際協力や民間の事業でこの地域で働いている日本人も多いが、この地域も平和で安定し、皆さん無事で過ごせることを願ってやまない。

さて、ひとまずここでブルキナ・ファソ編は終わり、次回からは、パラグアイで行った仕事について書く予定である。

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.28

森林紀行

緊急避難帰国(残務整理)

帰国への算段

プロジェクトの活動は継続しており、私も多くの村で活動状況を見て、プロジェクトの内容をほとんど理解したから、さあこれからというところであった。しかし、2011年4月14、15日とワガドゥグではクーデター未遂事件が起き、それ以後ブルキナの治安は益々悪化していった。16日の晩にはポー(Po)で、17日の晩にはテンコドゴ(Tenkodogo)で兵士による威嚇発砲事件が起きた。

急激な治安の悪化といっても良いような状況になった。よりによって、私は最も治安の悪い時期にブルキナに来てしまったようだ。次に交代で来る予定のK君も日本の外務省が渡航延期勧告を出したので、予定通り来るのが難しくなった。

そして協力隊員には、ついに緊急避難帰国命令が出て、バンフォラにいる隊員達は4月19日(火)にワガドゥグに集合し、すぐに帰国しなければならなくなった。我々は、同じ日本の協力なのに協力隊員だけが緊急避難帰国で、何故専門家は残って仕事を継続しなければならないのか不可解であった。

団長と相談し、このような現状を考えると専門家に対するJICAの緊急避難帰国命令が出るのを待っていては遅すぎる。この治安の悪化状況ではバンフォラでも何があってもおかしくないので予定を早めて帰国する算段をした。我々には3月22日にワガドゥグでの兵士の反乱事件に巻き込まれた後遺症が強く残っていて、2度とあのような恐怖の時間を過ごしたくはなかった。

しかし、我々はJICAと契約しているので、決められている帰国日が来るまでは勝手に帰国することはできない。そこで、早く帰国することによって残ってしまう仕事は、次回治安が回復してから来る時に行うような先送りする対応案を作り、JICA事務所へ提出した。その案では私と団長は5月6日にワガドゥグを発ち、5月8日に日本に到着する案だった。

するとその対応案が認められ、我々はとにかく5月初旬には帰国できることとなった。そして東京の旅行代理店に連絡し、航空便の変更を依頼し、5月6日ワガドゥグ発の便が確保でき、一安心した。

 

バンフォラの我が家.jpg

バンフォラの我が家

 

協力隊の帰国

4月19日(火)村で建設した倉庫の検査に行く前の早朝、ワガドゥグへ戻る協力隊員をバンフォラのバスのターミナルへ見送りに行った。このバスターミナルはラキエタバスのもので、このオーナーがラキエタ・センターを持っていて、そこでシアバター石鹸を製造している。

この周辺の5名程の隊員達が集まっていて、皆と別れの挨拶をする。どちらかというと隊員達は帰国はしたくないようであるが、バンフォラでも兵士の威嚇発砲事件に遭遇しているし、ブルキナ全体で同じ事件が起きるようになってきていては、帰国もやむなしといったところであった。

その中の一人の女性隊員は地元の青年と恋仲になっていたようで、その青年と抱き合ったままぴったりとくっついて離れられない。とても悲しく可哀そうな光景であった。実際このシーンにはびっくりしたが、こうしてオープンにできた人は良いだろう。中にはひっそりと別れた人もいるかもしれない。生物として人間を見れば、遠いところの男女が引きつけ合うのは当たり前のことである。

 

専門家の帰国

そんなことで協力隊員がいなくなり、事務所からはIさんが消え、急にさみしくなった。我が家にも時々訪ねてくる協力隊員がいなくなってしまったというだけで、幾日も経っていないのに急に寂しさを感じるようになった。

ブルキナでは4月18日に新首相が任命され、軍の参謀総長など指揮官クラスが大幅に交代させられた。しかし、若手兵士の反乱を抑えられず、治安は悪くなる一方である。

すると協力隊よりも約10日遅れではあるが、4月25日(月)の夜になり、JICA事務所から4月29日(金)に緊急避難帰国せよと電話が入った。これは決定であるとのことである。やはりそうなのだ。我々は独自に提案していたが、このような状況では仕事どころではない。

それで再び東京の旅行代理店に連絡し、5月6日ワガドゥグ発に変更した航空券を再々度、4月29日(金)発に変更してもらった。幸い同じルートで席を確保することができた。

 

バンフォラの我が家の私の部屋.jpg

バンフォラの我が家の私の部屋

 

暫定的残務整理

4月26日(火)、27日(水)は事務所と家では暫定的な残務整理を行った。26日(火)に事務所でブルキナ側責任者のキニーに我々が緊急避難帰国することになった事情を話し了解してもらった。しかし、プロジェクトは中断ではなくブルキナ側スタッフだけで継続して運営していく必要があり、それには運営資金が必要であった。プロジェクトが再開されるまでの繋ぎ資金はブルキナ側に立て替えておいてもらいたいところであったが、何しろブルキナ側は彼らが用意すべき予算さえ全て用意できているわけでもなく、プロジェクトが一部を立て替えている状態だったので、繋ぎの立て替えも頼めない状態だった。しかし、立て替えている予算はまもなく降りるということだったので、とりあえず6月一杯までの資金を渡し、その後は立て替えてある予算で運営するとのことで話はついた。

我々はプロジェクト資金の整理や仕事の継続方法などブルキナ側のスタッフとの打ち合わせに忙殺された。

そして家では共通の荷物や自分の荷物の片づけで忙しかった。部屋は台所だけずっとキープし、その他の部屋、居間、バストイレはホテル側が客に貸すために明け渡すことにし、残していく荷物はすべて台所に押し込んだ。

 

我が家の台所.jpg

我が家の台所

 

多くの食材を残していった.jpg多くの食材を残していったが、半年後に来たときはほとんどを捨てざるを得なかった





                                                                                                             つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.27

森林紀行

鳥類、爬虫類、両生類など

今回は現地で撮影できた爬虫類、両生類などを紹介する。

 

ハト

ハトの仲間はどこでも沢山いた。

 

ウラテンガ村でシアバター(カリテ)の木に留まるハト.jpg

ウラテンガ村でシアバター(カリテ)の木に留まるハト

 

カジョー村で見たハト.jpg

カジョー村で見たハト

 

我が家の庭にも沢山いたハト.jpg

我が家の庭にも沢山いたハト

 

 

冠のついた鳥

カジョー村へ行く途中のコングコ指定林の中で冠がつき、尾と羽根の先が白く、全体が黒い鳥をみた。

 

冠のついたトリがいた。尾と羽根の先が白い.jpg

冠のついたトリがいた。尾と羽根の先が白い

 

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同上

 

嘴が黄色の鳥

カジョー村で見た嘴が黄色の鳥.jpg

カジョー村で見た嘴が黄色の鳥

 

木の葉を咥える鳥

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カジョー村で見たもの

 

ラボラサンクララ村で見た鳥

ラボラサンクララ村ではインコが沢山いることを発見した。

 

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インコ

 

インコの拡大写真.jpg

インコの拡大写真

 

インコ以外にも何種かの写真が撮れた.jpg

インコ以外にも何種かの写真が撮れた

 

カジョー村で葉をくわえていた鳥と同じ種類の鳥.jpg

カジョー村で葉をくわえていた鳥と同じ種類の鳥

 

ハ虫類

ヤモリ

家に沢山おり、毎晩玄関の壁に張り付いて「キュ、キュ」と鳴いていた。

 

壁に張り付くヤモリ.jpg

壁に張り付くヤモリ

 

我が家のヤモリ.jpg

我が家のヤモリ

 

トカゲ

このトカゲは事務所にも家にもどこにでも沢山いた。メスとのことである。

 

事務所の壁に張り付くトカゲ.jpg

事務所の壁に張り付くトカゲ

 

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同上

 

これが同じ種類のオスとのこと。どこにでも沢山いる.jpg

これが同じ種類のオスとのこと。どこにでも沢山いる

 

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捕まえようとするとすぐに木に登って逃げる

 

家の庭を走り回る.jpg

家の庭を走り回る

 

両生類

カエル

ウラテンガ村の壊れた井戸の中で発見したものである。とぼけた顔をしていると思ったら目が四角形(菱形)なのである。このような顔のカエルを見たのは初めてである。

 

井戸の中の蛙.jpg

井戸の中の蛙

 

カエルの顔の拡大写真.jpg

カエルの顔の拡大写真

 

昆虫

家の中にいた蚊を撮ったもの。マラリアを媒介するハマダラカかどうか確かめたく撮ったが、尾が上がってないのでハマダラカではない。また、ハマラダカは羽根がまだらになっているので捕まえてみればそれもわかる。

 

家の中の蚊.jpg

家の中の蚊

 

 

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.26

森林紀行

動物

野生のサル

トゥムセニ村からの帰りに、指定林の中でサルを見た。5?6頭が道路を横断して行くのである。車を止めて写真を取ったが、遅かった。動きが早いのでじっくり撮っている暇はない。尻尾と手足が長いサルである。さっと森の中に消えて行ったが、初めてのフィールドワークでサルを見られてラッキーだった。サルをサンジュ(Singe)とフランス語で言う。これならいろいろな森に行けば、もっとサルを見ることができるだろうと思っていたが、サルを見ることができたのはこの時だけだった。

 

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左側やや下の方にサルがいる

 

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サルがいる部分を拡大した写真


家畜

アグチ

アグチは食用ネズミの一種で、これはブヌナ村で飼育しているものである。プロジェクトメンバーのK君が協力隊員の時に、ブヌナ村でこの飼育を支援していた。その後、その飼育を引き継いだ協力隊員のIさんが面倒を見ていた。

 

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ブヌナ村のアグチ

 

 

ホロホロチョウ

ホロホロチョウは西アフリカ一帯に生息し、ここでは家禽として飼育されている。

 

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ブグッソー村のホロホロチョウ

 

 

鶏はどこの村にも多い。

 

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かわいいヒヨコと母鶏。カジョー村

 

 

牛、ヒツジ、ヤギ、ロバ

これらの家畜もどの村でも沢山飼っている。

 

ウエンガ村で水を飲む牛。.jpg

ウエンガ村で水を飲む牛。井戸はプロジェクトの支援で作ったもの

 


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 カジョー村のカシューナッツ林を歩く牛

 

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 カジョー村のヒツジ

 

ブグッソー村の頭部が黒いヒツジ。ヒツジの尻尾は長く垂れる.jpg

ブグッソー村の頭部が黒いヒツジ。ヒツジの尻尾は長く垂れる

ニャナ村のヤギ。ヤギは短い尻尾が立つ.jpg

タニャナ村のヤギ。ヤギは短い尻尾が立つ


ウラテンガ村のロバ。悲しげな声で鳴く.jpg

ウラテンガ村のロバ。悲しげな声で鳴く

 



                                                                                                     つづく(次回は鳥を紹介する)

 

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.25

森林紀行

物を大事にしないこと

ウラテンガ村では、壊れた車やほったらかしにした道具が目についた。車の壊れたものは仕方がないが、この村まで走ってきてここで壊れたものであろう。その後部品などを取りだして使っていたのだろうが、物が少ないのだからもっと丁寧に部品を取り出せばいろいろと役立ちそうなものは沢山あるように見えた。しかし、その場限りがしのげれば良いのであろう。必要なものだけが抜き取られた車が打ち据えられていた。

釘やカスガイ、スコップやジョウロなども外にほうりっぱなしである。道具は少ないのに使ったら使いっぱなしできれいに洗ってしまうなどの手入れをしない。物を大事に扱うとか、もったいないという感覚がないのであろうか?プロジェクトでは村に倉庫を作ったのでせめて道具は倉庫に大事に保管してもらいたいと思う。

 

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壊れた車

 

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ほうり投げられている釘やカスガイなど

 

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スコップ。柄を三角形にして力を込めれるような工夫はない

 

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道具はほったらかしで、大事にする姿勢がない

 

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プロジェクトで作った倉庫。

せめて道具を大事に保管してもらいたい

 

物作りのレベル

次の写真は、ダンドゥグ村へ行った帰りに休憩したシデラドゥグの店屋で見た椅子やテーブルである。あまりにいびつである。ごく簡単なものもきちんと作れない。何故いびつにしか作れないのか不思議である。メジャーを使わなくともせめて紐くらい使って長さを合わせることくらいはできるだろうが、それもしないのだろう。目分量にしてもあまりにひどすぎる。どこにもきちんとしたバランスの良い椅子やテーブルがないので、バランスがとれたものをいびつと感じているとしか思えない。

 

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シデラドゥグの食堂のテーブル

 

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椅子もテーブルもどこか1本の足が浮く。

右下のヤカンは手洗い用のもの

 

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傾いている長椅子の足

 

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.24

森林紀行

食事関係の技術

臼と杵

臼と杵は数万年前から利用されていた歴史がある。大昔とは形は違うだろうが、それが今でもずっと使い続けられているというのはすたれない技術だ。この辺りの杵は真っすぐで上下に突く杵で、日本の餅つき用の斧形のものとは異なる。ミレット(キビ類)やソルガム(モロコシに似たイネ科)を突くのに適している。しかし、近年粉ひき機が導入され始め、この半永久的技術もすたれていくのかもしれない。

 

臼と杵と斧(ウラテンガ村).jpg

臼と杵と斧(ウラテンガ村)

 

三つかまど

この三つ石かまどは、伝統的に太古からずっと使われてきたものである。熱効率も薪の消費量も考慮しなくて良いなら屋外で使用する場合には、煙の害も気にならないし、単に石を三つおけばいいだけなので住民はこれを好む。

 

伝統的三つ石かまどによる煮炊。ウラテンガ村.jpg

伝統的三つ石かまどによる煮炊。ウラテンガ村

 

トウモロコシをペースト状にしたものを煮ている.jpg

トウモロコシをペースト状にしたものを煮ている

 

鉄製かまど

写真の鉄製かまどはブグッソー村のものである。これはどこかの団体で援助したものであろう。これをずっと使い続けているのは使い勝手が良いからであろう。普通はすぐに三ツ石かまどに戻ってしまうのである。

 

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鉄製の改良かまど。ブグッソー村

 

並んだ鉄製改良かまど。ブグッソー村.jpg

並んだ鉄製改良かまど。ブグッソー村

 

粘土製改良かまど

写真の粘土製の改良かまどはジャンガ村のものである。これが一番熱効率が良く、薪の消費量も少ない。しかし、これは長持ちせず壊れ易いのが欠点である。この村では修理したり新しいものを作ったりして根づいている。私は、セネガルで似たような形のものを普及させたことがあるが、壊れると修理をしないのである。作るのや修理をするのが面倒と感じるのである。三つ石かまどであれば作る必要がないのですぐに三つ石かまどに戻ってしまうのであった。より簡易なものでないと継続的に使われないのであった。ブルキナの人の方が根気があるのだろうか。

 

粘土製の改良かまどで、ペースト状.jpg

粘土製の改良かまどで、ペースト状のトウモロコシを暖めている。ジャンガ村

 

粘土製の改良かまど。ジャンガ村.jpg

粘土製の改良かまど。ジャンガ村

 

近代的技術

粉ひき機

臼と杵に変わって登場してきたのが、この粉ひき機である。こういった機械が女姓の労働を徐々に軽減していくのであろう。

 

粉ひき機でトウモロコシを粉に。ブヌナ村.jpg

粉ひき機でトウモロコシを粉に。ブヌナ村

 

粉ひき機で弾いたトウモロコシ粉.jpg

粉ひき機で挽いたトウモロコシ粉

 

ソーラー発

次の写真はジャンガ村で見たソーラーパネルとテレビのアンテナである。ソーラパネルはどこかの援助機関が援助したものか、自分で購入したものであろう。バンフォラのマーケットでソーラーパネルが売っているのを見たことがある。村の金持ちはテレビを購入できるのだ。

 

ソーラパネルとテレビのアンテナ。ジャンガ村.jpg

ソーラパネルとテレビのアンテナ。ジャンガ村

 

タコヤキ型鉄板

ジョンゴロ村に行く時にバンフォラに近い道路際で、タコ焼き型鉄板を発見した。タコヤキ用よりもやや大型であるが、この鉄板で小麦粉を溶いたものなどを焼いて売っているのである。オヤキである。あまり清潔そうではないが、一つ食べてみた。あまり美味しいものではなかった。

 

タコ焼き型鉄板。道路沿いで.jpg

タコ焼き型鉄板。道路沿いで

 

トウモロコシ粉や小麦粉のペーストを焼いて売っているオヤキ.jpg

トウモロコシ粉や小麦粉のペーストを焼いて売っているオヤキ

 

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.23

森林紀行

村の技術

多くの村を訪ねた際に村で見た物作りの技術や道具、それに機械を使った技術などが観察できた。

 

簡易な土木技術

防風柵と土嚢

ジョンゴロ村からの帰途に見たものでは、ヤシの木を防風柵にしたり、土嚢を積んだりして、風食などの被害から畑や道路を護っている場所があった。住民自らが作ったとしたら相当に工夫をこらしたものである。

 

ヤシの木の杭を壁にして風食から畑を護る.jpg

ヤシの木の杭を壁にして風食から畑を護る

 

ヤシの木と土嚢を積んで風食から道路を護る.jpg

ヤシの木と土嚢を積んで風食から道路を護る

 

また、ヤシの木を使って簡易な橋を作っている場所があった。ただし、橋脚として使っているヤシの木の長さが不揃いだったり斜めに傾いている。これは使っている内に車の重みで傾いてきたのかもしれないが、全体に弱く不安定で今にも崩れ落ちそうである。こうしたものは地元にある資材を使って簡易にできるので、もっと普及しても良さそうに思えるが、ジョンゴロ村周辺でしか観察できなかったので普及はしていない。

 

雨期になると川となる場所の上にかかっていた木橋。.jpg

雨期になると川となる場所の上にかかっていた木橋。木橋があるのは

素晴らしいが、バランスが悪い。丁寧に作れば強度も増すのだが。

 

建築材料

日干しレンガ

この辺りの家や倉庫などの建築物はすべて日干しレンガ作りである。粘土があれば簡単に作れるので、どの村でも日干しレンガは盛んに作られている。この辺りは地震がないのが幸いしている。

 

日干しレンガ。型に入れて作ったレンガを乾燥させている。.jpg

日干しレンガ。型に入れて作ったレンガを乾燥させている。ウラテンガ村

 

屋根葺き技術

屋根を葺くにはヤシの葉を乾燥させ編んだものかミレット(キビ類)のワラが用いられている。シデラドゥグで焼き肉を食べた店屋の屋根は、ヤシ葺きの屋根できちんと作られていて、ブルキナでもやればできるじゃんという印象を受けた。

 

ヤシで編んだ屋根。シデラドゥグの焼き肉屋。.jpg

ヤシで編んだ屋根。シデラドゥグの焼き肉屋。網がきちんと編んである

 

ヤシの葉を乾燥し編んで巻いたもの.jpg

ヤシの葉を乾燥し編んで巻いたもの

 

同じ場所にワラを束ねたものもあった.jpg

同じ場所にワラを束ねたものもあった

 

同じ焼き肉屋にあったコンクリートの台。これは何だ.jpg

同じ焼き肉屋にあったコンクリートの台。これは何だと聞くと、

夜はディスコに変身とのこと。若者のエネルギーの発散場所だ。

 

 

つづく

 

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