森林紀行travel
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.29
緊急避難帰国(最後までトラブル)
ワガドゥグへ
4月28日(木)の朝、ダウダの運転で団長とワガドゥグに向かった。ワガドゥグではSさんと合流し、明日3人で東京に発つ予定である。出発してしばらくするとJICAから団長に電話がかかってきた。
「何ですって?我々が予約している明日のワガドゥグからパリ行きのエールフランスの便がキャンセルされたのですか?ブルキナの治安が悪化しているのでエアフラは運航を中止したのですか。本当ですか?それではもう一回パリまでの便を取りなおさなければならないんですね?我々は昨日便を変更したばかりですが、エアフラが飛ばないのならすぐに別な航空会社の便に変更しなければならないですね。それと我々は明日の4月29日までにブルキナを緊急避難で出国しなければならないということは変更できないのですね。分かりました。でも我々は今、バンフォラからワガドゥグに向かう車の中にいるのですぐに便を変更できないので、この電話の後で、ワガドゥグで働いているSさんに電話して、エアフラから何か別の便への変更を東京の旅行代理店に聞いてもらうことを頼みます。またはっきりしたら連絡します。」ということで電話を切った。
バンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる
そして団長がワガドゥグで働いているSさんに電話し、Sさんが日本の旅行代理店に連絡し、エアフラから別の便でパリに行ける便への変更を頼んだ。Sさんが日本に電話したところ生憎休日で、それも午後5時を過ぎていたので担当者はいなかったが、緊急デスクが働いてくれ、便を見つけることができた。それはワガドゥグからセネガルのダカールに飛び、ダカールからパリに行き、パリから東京へ戻る便だった。ワガドゥグからダカールまではブルキナ航空で、ダカールからパリ経由で成田まではエアフラであった。そして旅行代理店はE-チケットをその日の日本時間の朝9時以降にEメールで我々に送ってくれることになった。それはブルキナでは翌日の午前1時であった。
ボボジュラッソの踏切
ホテル・クルバにて
ホテル・クルバにはSさんと一緒に働いていて苗木案件の団長のNさんも宿泊していた。Nさんも明日緊急避難帰国しなければならない。Nさんはガーナ周りの便が取れたとのことだ。Nさんはこの程度の治安の悪化は全くたいしたことがないといった感想である。
実際に兵士の反乱事件に直接巻き込まれていないからであろう。しかし、長年国際機関で働いていた経験もあり、もっと大変な修羅場をいくつも潜り抜けてきたとのことである。ガーナの首都のアクラは良く知っているので問題ないとのことだった。
私は翌日の午前4時に起きてE-チケットが届いているかEメールを確かめたが、届いていなかった。それでスカイプで東京の旅行代理店に電話し、確かめた。するとワガドゥグからダカール便のE-チケットは発行でき、すぐにそれを送るとのことで、電話の後メールで受け取ることができ、持って来ていた小型のプリンターで印刷した。しかし、ダカールからパリまでの便はすぐに発行できないということだったので、予約番号を聞いた。予約番号があれば大丈夫とのことだった。
結局E-チケットを入手できたのはワガドゥグからダカールまでで、ダカールの空港では予約No.で対応することにした。
ホテルクルバのロビー
パイロットが来ないワガドゥグの空港
ホテルを朝8時に出て、空港に行った。空港までは5分である。飛行機の出発時間は10時である。
空港でのチェックインはスムーズにいった。待合室に入ると緊急避難帰国する日本人専門家が沢山いた。女性達は仲が良い。「あなたはどこへ行くの?セネガルのダカールね。私はガーナのアクラ周りよ。」他にもこの周辺の首都の名前が飛び交っている。
しかし、10時になってもダカール行きの飛行機への搭乗案内はない。セネガル以外の国に脱出する人達は皆出発してしまった。すると予定しているセネガル便のパイロットが来ないので別なパイロットを捜しているとアナウンスがあった。「エッ。何?考えられないなあ。そんなことで大丈夫なんだろうか?ブルキナ航空はパイロットだけでなく機体も大丈夫なのだろうか?」と不安感が浮かぶ。しかし、待っているしかない。12時少し前になり別なパイロットが来たとアナウンスがあり、我々も機内に入ることができた。長い4時間の待時間だった。とうとうワガドゥグを脱出できたのだった。何だってとても不安であわただしい日々だったので、飛び立った瞬間は、ブルキナ航空の飛行機ではあったが、これで治安の悪い場所から逃れられたととても安心感が湧いた。飛び立った飛行機は最初マリの首都バマコに降りた。バマコで降りた客に代わり新たな客が乗ってきた。約1時間駐機していたが、とても暑かった。そしてバマコからセネガルのダカールに向かった。私はセネガルのプロジェクトに約7年ほどかかわっていたので、ダカールの空港は勝手知ったる空港で、ほっとした。ここで7時間ほど待って夜行便でパリに翌日の早朝着いた。ホテルで数時間休みパリから成田へ向かった。そして最初に記したように飛行機は福島上空を避け、航路を南に南下させ、中国・四国地方の上空で日本列島を横断し、成田空港に無事到着した。
私は今回の出発前日の地震からワガドゥグでの兵士の反乱事件などいろいろなダメージを受け相当神経過敏になっていた。成田空港へついたとたんに2か月前の大地震と原発事故の恐怖が思い起こされるのである。そして空港の地下の電車のホームに行く時も恐怖感を感じた。しかし、電車に乗ったら万一地下が崩れても車両がつぶれなければ、それが楯となり瓦礫からは護ってくれるだろうと妙な安心感も湧くのであった。
終わりに
ブルキナ・ファソはこの後政情も落ち着き、半年後にプロジェクトは再開となった。その時のことはまた、機会を改めて述べてみたい。
ブルキナ・ファソでは最近(2015年9月17日)、コンパオレ前大統領の側近がクーデターを起こした。コンパオレ前大統領は、昨年(2014)の抗議デモの激化により27年間続いた長期政権から退陣した。その後カファンド暫定大統領やジダ首相らが政権運営をしていたが、この日大統領警護隊に拘束され、軍が全権を掌握した。しかし、首都ワガドゥグにクーデターを支持しない他の軍部隊が国内各地から集結し、警護隊への圧力が高まり9月23日、カファンド暫定大統領が解放され職務に復帰した。続いて警護隊とクーデター反対派の兵士も衝突回避で合意し、クーデターは失敗に終わった形となった。
この紀行文の最初では2011年3月?4月にかけて起きたクーデター未遂事件を書いたが、西アフリカ全体に不安定な政権が多い。国際協力や民間の事業でこの地域で働いている日本人も多いが、この地域も平和で安定し、皆さん無事で過ごせることを願ってやまない。
さて、ひとまずここでブルキナ・ファソ編は終わり、次回からは、パラグアイで行った仕事について書く予定である。
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.28
緊急避難帰国(残務整理)
帰国への算段
プロジェクトの活動は継続しており、私も多くの村で活動状況を見て、プロジェクトの内容をほとんど理解したから、さあこれからというところであった。しかし、2011年4月14、15日とワガドゥグではクーデター未遂事件が起き、それ以後ブルキナの治安は益々悪化していった。16日の晩にはポー(Po)で、17日の晩にはテンコドゴ(Tenkodogo)で兵士による威嚇発砲事件が起きた。
急激な治安の悪化といっても良いような状況になった。よりによって、私は最も治安の悪い時期にブルキナに来てしまったようだ。次に交代で来る予定のK君も日本の外務省が渡航延期勧告を出したので、予定通り来るのが難しくなった。
そして協力隊員には、ついに緊急避難帰国命令が出て、バンフォラにいる隊員達は4月19日(火)にワガドゥグに集合し、すぐに帰国しなければならなくなった。我々は、同じ日本の協力なのに協力隊員だけが緊急避難帰国で、何故専門家は残って仕事を継続しなければならないのか不可解であった。
団長と相談し、このような現状を考えると専門家に対するJICAの緊急避難帰国命令が出るのを待っていては遅すぎる。この治安の悪化状況ではバンフォラでも何があってもおかしくないので予定を早めて帰国する算段をした。我々には3月22日にワガドゥグでの兵士の反乱事件に巻き込まれた後遺症が強く残っていて、2度とあのような恐怖の時間を過ごしたくはなかった。
しかし、我々はJICAと契約しているので、決められている帰国日が来るまでは勝手に帰国することはできない。そこで、早く帰国することによって残ってしまう仕事は、次回治安が回復してから来る時に行うような先送りする対応案を作り、JICA事務所へ提出した。その案では私と団長は5月6日にワガドゥグを発ち、5月8日に日本に到着する案だった。
するとその対応案が認められ、我々はとにかく5月初旬には帰国できることとなった。そして東京の旅行代理店に連絡し、航空便の変更を依頼し、5月6日ワガドゥグ発の便が確保でき、一安心した。
バンフォラの我が家
協力隊の帰国
4月19日(火)村で建設した倉庫の検査に行く前の早朝、ワガドゥグへ戻る協力隊員をバンフォラのバスのターミナルへ見送りに行った。このバスターミナルはラキエタバスのもので、このオーナーがラキエタ・センターを持っていて、そこでシアバター石鹸を製造している。
この周辺の5名程の隊員達が集まっていて、皆と別れの挨拶をする。どちらかというと隊員達は帰国はしたくないようであるが、バンフォラでも兵士の威嚇発砲事件に遭遇しているし、ブルキナ全体で同じ事件が起きるようになってきていては、帰国もやむなしといったところであった。
その中の一人の女性隊員は地元の青年と恋仲になっていたようで、その青年と抱き合ったままぴったりとくっついて離れられない。とても悲しく可哀そうな光景であった。実際このシーンにはびっくりしたが、こうしてオープンにできた人は良いだろう。中にはひっそりと別れた人もいるかもしれない。生物として人間を見れば、遠いところの男女が引きつけ合うのは当たり前のことである。
専門家の帰国
そんなことで協力隊員がいなくなり、事務所からはIさんが消え、急にさみしくなった。我が家にも時々訪ねてくる協力隊員がいなくなってしまったというだけで、幾日も経っていないのに急に寂しさを感じるようになった。
ブルキナでは4月18日に新首相が任命され、軍の参謀総長など指揮官クラスが大幅に交代させられた。しかし、若手兵士の反乱を抑えられず、治安は悪くなる一方である。
すると協力隊よりも約10日遅れではあるが、4月25日(月)の夜になり、JICA事務所から4月29日(金)に緊急避難帰国せよと電話が入った。これは決定であるとのことである。やはりそうなのだ。我々は独自に提案していたが、このような状況では仕事どころではない。
それで再び東京の旅行代理店に連絡し、5月6日ワガドゥグ発に変更した航空券を再々度、4月29日(金)発に変更してもらった。幸い同じルートで席を確保することができた。
バンフォラの我が家の私の部屋
暫定的残務整理
4月26日(火)、27日(水)は事務所と家では暫定的な残務整理を行った。26日(火)に事務所でブルキナ側責任者のキニーに我々が緊急避難帰国することになった事情を話し了解してもらった。しかし、プロジェクトは中断ではなくブルキナ側スタッフだけで継続して運営していく必要があり、それには運営資金が必要であった。プロジェクトが再開されるまでの繋ぎ資金はブルキナ側に立て替えておいてもらいたいところであったが、何しろブルキナ側は彼らが用意すべき予算さえ全て用意できているわけでもなく、プロジェクトが一部を立て替えている状態だったので、繋ぎの立て替えも頼めない状態だった。しかし、立て替えている予算はまもなく降りるということだったので、とりあえず6月一杯までの資金を渡し、その後は立て替えてある予算で運営するとのことで話はついた。
我々はプロジェクト資金の整理や仕事の継続方法などブルキナ側のスタッフとの打ち合わせに忙殺された。
そして家では共通の荷物や自分の荷物の片づけで忙しかった。部屋は台所だけずっとキープし、その他の部屋、居間、バストイレはホテル側が客に貸すために明け渡すことにし、残していく荷物はすべて台所に押し込んだ。
我が家の台所
多くの食材を残していったが、半年後に来たときはほとんどを捨てざるを得なかった
つづく
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.27
鳥類、爬虫類、両生類など
今回は現地で撮影できた爬虫類、両生類などを紹介する。
ハト
ハトの仲間はどこでも沢山いた。
ウラテンガ村でシアバター(カリテ)の木に留まるハト
カジョー村で見たハト
我が家の庭にも沢山いたハト
冠のついた鳥
カジョー村へ行く途中のコングコ指定林の中で冠がつき、尾と羽根の先が白く、全体が黒い鳥をみた。
冠のついたトリがいた。尾と羽根の先が白い
同上
嘴が黄色の鳥
カジョー村で見た嘴が黄色の鳥
木の葉を咥える鳥
カジョー村で見たもの
ラボラサンクララ村で見た鳥
ラボラサンクララ村ではインコが沢山いることを発見した。
インコ
インコの拡大写真
インコ以外にも何種かの写真が撮れた
カジョー村で葉をくわえていた鳥と同じ種類の鳥
ハ虫類
ヤモリ
家に沢山おり、毎晩玄関の壁に張り付いて「キュ、キュ」と鳴いていた。
壁に張り付くヤモリ
我が家のヤモリ
トカゲ
このトカゲは事務所にも家にもどこにでも沢山いた。メスとのことである。
事務所の壁に張り付くトカゲ
同上
これが同じ種類のオスとのこと。どこにでも沢山いる
捕まえようとするとすぐに木に登って逃げる
家の庭を走り回る
両生類
カエル
ウラテンガ村の壊れた井戸の中で発見したものである。とぼけた顔をしていると思ったら目が四角形(菱形)なのである。このような顔のカエルを見たのは初めてである。
井戸の中の蛙
カエルの顔の拡大写真
昆虫
蚊
家の中にいた蚊を撮ったもの。マラリアを媒介するハマダラカかどうか確かめたく撮ったが、尾が上がってないのでハマダラカではない。また、ハマラダカは羽根がまだらになっているので捕まえてみればそれもわかる。
家の中の蚊
つづく
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.26
動物
野生のサル
トゥムセニ村からの帰りに、指定林の中でサルを見た。5?6頭が道路を横断して行くのである。車を止めて写真を取ったが、遅かった。動きが早いのでじっくり撮っている暇はない。尻尾と手足が長いサルである。さっと森の中に消えて行ったが、初めてのフィールドワークでサルを見られてラッキーだった。サルをサンジュ(Singe)とフランス語で言う。これならいろいろな森に行けば、もっとサルを見ることができるだろうと思っていたが、サルを見ることができたのはこの時だけだった。
左側やや下の方にサルがいる
サルがいる部分を拡大した写真
家畜
アグチ
アグチは食用ネズミの一種で、これはブヌナ村で飼育しているものである。プロジェクトメンバーのK君が協力隊員の時に、ブヌナ村でこの飼育を支援していた。その後、その飼育を引き継いだ協力隊員のIさんが面倒を見ていた。
ブヌナ村のアグチ
ホロホロチョウ
ホロホロチョウは西アフリカ一帯に生息し、ここでは家禽として飼育されている。
ブグッソー村のホロホロチョウ
鶏
鶏はどこの村にも多い。
かわいいヒヨコと母鶏。カジョー村
牛、ヒツジ、ヤギ、ロバ
これらの家畜もどの村でも沢山飼っている。
ウエンガ村で水を飲む牛。井戸はプロジェクトの支援で作ったもの
カジョー村のカシューナッツ林を歩く牛
カジョー村のヒツジ
ブグッソー村の頭部が黒いヒツジ。ヒツジの尻尾は長く垂れる
タニャナ村のヤギ。ヤギは短い尻尾が立つ
つづく(次回は鳥を紹介する)
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.25
物を大事にしないこと
ウラテンガ村では、壊れた車やほったらかしにした道具が目についた。車の壊れたものは仕方がないが、この村まで走ってきてここで壊れたものであろう。その後部品などを取りだして使っていたのだろうが、物が少ないのだからもっと丁寧に部品を取り出せばいろいろと役立ちそうなものは沢山あるように見えた。しかし、その場限りがしのげれば良いのであろう。必要なものだけが抜き取られた車が打ち据えられていた。
釘やカスガイ、スコップやジョウロなども外にほうりっぱなしである。道具は少ないのに使ったら使いっぱなしできれいに洗ってしまうなどの手入れをしない。物を大事に扱うとか、もったいないという感覚がないのであろうか?プロジェクトでは村に倉庫を作ったのでせめて道具は倉庫に大事に保管してもらいたいと思う。
壊れた車
ほうり投げられている釘やカスガイなど
スコップ。柄を三角形にして力を込めれるような工夫はない
道具はほったらかしで、大事にする姿勢がない
プロジェクトで作った倉庫。
せめて道具を大事に保管してもらいたい
物作りのレベル
次の写真は、ダンドゥグ村へ行った帰りに休憩したシデラドゥグの店屋で見た椅子やテーブルである。あまりにいびつである。ごく簡単なものもきちんと作れない。何故いびつにしか作れないのか不思議である。メジャーを使わなくともせめて紐くらい使って長さを合わせることくらいはできるだろうが、それもしないのだろう。目分量にしてもあまりにひどすぎる。どこにもきちんとしたバランスの良い椅子やテーブルがないので、バランスがとれたものをいびつと感じているとしか思えない。
シデラドゥグの食堂のテーブル
椅子もテーブルもどこか1本の足が浮く。
右下のヤカンは手洗い用のもの
傾いている長椅子の足
つづく
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.24
食事関係の技術
臼と杵
臼と杵は数万年前から利用されていた歴史がある。大昔とは形は違うだろうが、それが今でもずっと使い続けられているというのはすたれない技術だ。この辺りの杵は真っすぐで上下に突く杵で、日本の餅つき用の斧形のものとは異なる。ミレット(キビ類)やソルガム(モロコシに似たイネ科)を突くのに適している。しかし、近年粉ひき機が導入され始め、この半永久的技術もすたれていくのかもしれない。
臼と杵と斧(ウラテンガ村)
三つかまど
この三つ石かまどは、伝統的に太古からずっと使われてきたものである。熱効率も薪の消費量も考慮しなくて良いなら屋外で使用する場合には、煙の害も気にならないし、単に石を三つおけばいいだけなので住民はこれを好む。
伝統的三つ石かまどによる煮炊。ウラテンガ村
トウモロコシをペースト状にしたものを煮ている
鉄製かまど
写真の鉄製かまどはブグッソー村のものである。これはどこかの団体で援助したものであろう。これをずっと使い続けているのは使い勝手が良いからであろう。普通はすぐに三ツ石かまどに戻ってしまうのである。
鉄製の改良かまど。ブグッソー村
並んだ鉄製改良かまど。ブグッソー村
粘土製改良かまど
写真の粘土製の改良かまどはジャンガ村のものである。これが一番熱効率が良く、薪の消費量も少ない。しかし、これは長持ちせず壊れ易いのが欠点である。この村では修理したり新しいものを作ったりして根づいている。私は、セネガルで似たような形のものを普及させたことがあるが、壊れると修理をしないのである。作るのや修理をするのが面倒と感じるのである。三つ石かまどであれば作る必要がないのですぐに三つ石かまどに戻ってしまうのであった。より簡易なものでないと継続的に使われないのであった。ブルキナの人の方が根気があるのだろうか。
粘土製の改良かまどで、ペースト状のトウモロコシを暖めている。ジャンガ村
粘土製の改良かまど。ジャンガ村
近代的技術
粉ひき機
臼と杵に変わって登場してきたのが、この粉ひき機である。こういった機械が女姓の労働を徐々に軽減していくのであろう。
粉ひき機でトウモロコシを粉に。ブヌナ村
粉ひき機で挽いたトウモロコシ粉
ソーラー発電
次の写真はジャンガ村で見たソーラーパネルとテレビのアンテナである。ソーラパネルはどこかの援助機関が援助したものか、自分で購入したものであろう。バンフォラのマーケットでソーラーパネルが売っているのを見たことがある。村の金持ちはテレビを購入できるのだ。
ソーラパネルとテレビのアンテナ。ジャンガ村
タコヤキ型鉄板
ジョンゴロ村に行く時にバンフォラに近い道路際で、タコ焼き型鉄板を発見した。タコヤキ用よりもやや大型であるが、この鉄板で小麦粉を溶いたものなどを焼いて売っているのである。オヤキである。あまり清潔そうではないが、一つ食べてみた。あまり美味しいものではなかった。
タコ焼き型鉄板。道路沿いで
トウモロコシ粉や小麦粉のペーストを焼いて売っているオヤキ
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.23
村の技術
多くの村を訪ねた際に村で見た物作りの技術や道具、それに機械を使った技術などが観察できた。
簡易な土木技術
防風柵と土嚢
ジョンゴロ村からの帰途に見たものでは、ヤシの木を防風柵にしたり、土嚢を積んだりして、風食などの被害から畑や道路を護っている場所があった。住民自らが作ったとしたら相当に工夫をこらしたものである。
ヤシの木の杭を壁にして風食から畑を護る
ヤシの木と土嚢を積んで風食から道路を護る
橋
また、ヤシの木を使って簡易な橋を作っている場所があった。ただし、橋脚として使っているヤシの木の長さが不揃いだったり斜めに傾いている。これは使っている内に車の重みで傾いてきたのかもしれないが、全体に弱く不安定で今にも崩れ落ちそうである。こうしたものは地元にある資材を使って簡易にできるので、もっと普及しても良さそうに思えるが、ジョンゴロ村周辺でしか観察できなかったので普及はしていない。
雨期になると川となる場所の上にかかっていた木橋。木橋があるのは
素晴らしいが、バランスが悪い。丁寧に作れば強度も増すのだが。
建築材料
日干しレンガ
この辺りの家や倉庫などの建築物はすべて日干しレンガ作りである。粘土があれば簡単に作れるので、どの村でも日干しレンガは盛んに作られている。この辺りは地震がないのが幸いしている。
日干しレンガ。型に入れて作ったレンガを乾燥させている。ウラテンガ村
屋根葺き技術
屋根を葺くにはヤシの葉を乾燥させ編んだものかミレット(キビ類)のワラが用いられている。シデラドゥグで焼き肉を食べた店屋の屋根は、ヤシ葺きの屋根できちんと作られていて、ブルキナでもやればできるじゃんという印象を受けた。
ヤシで編んだ屋根。シデラドゥグの焼き肉屋。網がきちんと編んである
ヤシの葉を乾燥し編んで巻いたもの
同じ場所にワラを束ねたものもあった
同じ焼き肉屋にあったコンクリートの台。これは何だと聞くと、
夜はディスコに変身とのこと。若者のエネルギーの発散場所だ。
つづく
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.22
指定林(国有林)
ブルキナでは国有林のことを指定林(forêt classe)といっている。プロジェクトでは4つの指定林周辺に住む住民を対象に住民が自ら森林を管理し、森からの恵みを利用することで生計の向上を図ることを目的としている。住民は昔からずっと森林を利用し続けてきたので森林の樹木の密度が低く相当に劣化している。劣化度合いは、森林への圧力によるが、それは人口圧に比例している。都市のバンフォラに近いブヌナ指定林の森林は樹木が生えている密度は非常に低く、場所によっては草原のようになっている。次にバンフォラに近いトゥムセニ指定林は樹木の密度は低いけれどもようやく森林と言ってもさしつかえないような森林である。一方グアンドゥグとコングコ指定林の森林は面積も広大で、樹木の密度も高いと言える森林である。
ブヌナ指定林
ブヌナ指定林の面積は1,300haと他の指定林に比べてかなり小さい。それに樹木は本当に少ない。大部分が森林とは言えないような草原に近い状態である。住民が薪材としてずっと利用し続け、伐採されてしまったのである。一部シアバターの木やネレの木が残っているがそれも非常に少ない。30年ほど前に植林された小面積のチークの人工林があるが、成長は非常に悪い。
シアバターの木がわずかに残るブヌナ指定林
一部チークの植林地があるが成長は悪い。30年生で樹高10m程度
ブヌナ指定林の標識
トゥムセニ指定林
トゥムセニ指定林は、2,500haでブヌナの指定林よりは大きいが、大木はほとんどなく、かなりの疎林である。疎林ではあるが、一応、森林らしき様相は呈している。しかし、疎林であるので林内は歩き易く、放牧も容易である。本来指定林の中の放牧などは禁止であるが、かなりの牛も見られたことから、人間だけでなく家畜の食害によっても劣化した森林である。
トゥムセニ国有林。
樹木の密度の低いトゥムセニ指定林
グアンドゥグ指定林
グアンドゥグ指定林内は9,500haと面積も広大で樹木の密度も高い。やはりバンフォラから約80kmと離れていて人口圧が低いからである。
グゥアンドゥグ指定林内の村へ通じる道路
グアンドゥグ指定林内の道路
コングコ指定林
コングコの指定林は27,000haあり、グアンドゥグ指定林の倍以上の面積があり、プロジェクトが対象としている4指定林の中では最も広い。樹木の密度はグアンドゥグ指定林と同じかやや高いくらいである。
コングコ指定林内の道路
コングコ指定林
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.21
倉庫の検査
プロジェクトでは毎年5村づつ、村の倉庫を作っており、2011年にはグアンドゥグ指定林のウラテンガ村、グアンドゥグ村、ダンドゥグ村、コングコ指定林のフガングエ村、それにブヌナ指定林のラボラサンクララ村の5村に倉庫を作っていた。私がブルキナにいた時期に完成したので業者とカッソンと検査に行った。まずは遠いグアンドゥグ指定林とコングコ指定林の周辺の村に向かった。それが終わってからバンフォラに近いブヌナ指定林のラボラサンクララ村に行った。ラボラサンクララ村の倉庫はこの日には完成していなかったので、後日再度検査に行かなければならなかった。
シデラドゥグの焼き肉屋
いつものようにまずはシデラドゥグまで行った。そこで、焼き肉屋に行き、昼飯用の肉を焼いておいてくれるように頼む。
焼き肉やのあんちゃん
焼き肉屋のマトン。これが実に美味い
森林官事務所
まずはシデラドゥグの森林官事務所に行き打ち合わせる。前にも記したが、ここの森林官は英語を話す。この森林官とカッソンが英語で会話しているのでビックリした。フランス語でないのだ。ここの森林官はガーナにいたので、フランス語よりも英語の方が話易いようだった。
壁にハイエナのような毛皮が飾ってある
村のプロジェクト委員会の委員達を集め、マンゴーの木の下打ち合わせ
森林官事務所の前の小学校で
打合せが終わって、森林官事務所のそばにある小学校を見ていると小学生達がカメラを持っている私を見つけ、一人が歓声を上げると皆一斉に私をめがけて走り始めた。私もこれには驚いた。ちょっとまずいなあと思いながらもあっという間に子供達に囲まれてしまった。写真のように実にキラキラ輝き穢れのない目をしている。この子供達だけは、腐敗した大人にならないように育つことを祈った。
人懐っこく一斉に駆け寄って来る子供達
倉庫
どの村の倉庫も同じスタイルで作ってある。作っている業者が一緒だから質も同じだ。日本人の目から見たら緻密さや細やかさがなく作り方は荒い。建てつけが悪く、ドアは閉まるが噛みあわせが悪く、少しずれたりしているので、ぴったり閉まるように改良させたりする。しかし、この辺りではこれ以上良いものはできないであろうというくらいちゃんとしている。
きれいに仕上がった倉庫
窓の戸締り金具と穴の位置が少しずれたりしているので改良
天井はトタンである
トタン屋根の内部。空気穴、ブロックは削りっぱなし
倉庫内の窓から外を望む
窓の戸締り用金具
帰り道のシデラドゥグにて
4つの村の倉庫は不具合を直させたので、帰ることとした。
村から街道に出て、出会った子供達
途中の溜池の沿いを歩く牛達
焼き肉屋
帰りには頼んでおいた焼き肉を食べにシデラドゥグに行く。大分遅い昼食となった。腹がへっていることもあるが、地元民も食べるこのようなところで食べるのは実においしい。日本では同じような準備や焼き方がないからだろうか?
朝頼んでおいた焼き肉。これが美味い
ラボラサンクララ村の倉庫
その後ラボラサンクララ村の倉庫の検査に行った。この時点で、倉庫はまだ未完成だったので、完成した後4月22日に、もう一度検査に行き、問題ないことを確認した。
建設中のラボラサンクララ村の倉庫
ラボラサンクララ村はバンフォラに近く、バンフォラに近いほど整備
されていて、この村にも学校があり、この日は運動会をしていた
【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.20
ジャンガ村とカジョー村
ジャンガ(Djanga)村
ジャンガ村には2011年4月20日(水)、フガングエ村の後に訪ねた。
村の雰囲気
村に着いた時に村人が集まって村民集会を開いていた。その参加者は男だけで、男性社会である。そして有力者は裕福そうでソーラー発電やテレビも持っていた。貧しい中でも貧富の差はかなりありそうに見えた。
男達が集まって村の集会
村の有力者の家にはテレビがあり、外にアンテナ
を立て、ソーラーパネルとバッテリーがある
粘土で作った改良カマドを使用
トウモロコシの粉を溶いて暖めている
まな板を使わないが、手の上で上手に切る
つるべ式の井戸も多い
村のトイレ。家とは離れて作る。プラスティック性の
やかんに水を入れて持って行きそれで手を洗う
シアバターの購入
村人が持って来たシアバターの重さを測る
シアバターを溶かす。固まる時間を測る
この村で作ったシアバター
カジョー(Kadjo)村
カジョー村に行ったのは2011年4月21日(木)のことである。カッソンと行った。村への会計指導である。
途中の道路はトラックが通るとひどい埃
途中のカシューナッツの植栽地
村の雰囲気
バンファオラからシデラドゥグを過ぎ、さらに遠くの林内の村で、村人がよりまとまっているように見える。
村の入口
我々が着くと、すぐに皆が集まってくる
粘土で作った改良かまど
割礼
この辺りの子供達は全員が割礼を受けていると思われる。裸で歩いている男の子を見ると良く分かる。女性も皆、割礼を受けていると思われる。デベソも多い。5才までに20%の子供は亡くなると言われているが、割礼の影響もあるのではないかと思われる。
会計指導
村人にプロジェクトのバランスシートを説明
スンバラ
スンバラを沢山作っている。スンバラの莢。前に記したが
ネレというマメ科の木の種子を発酵させ作る調味料。
納豆菌と同類の菌のため好きな人には良い匂いだが、
外国人では、その匂いに適応できない人もいる。
カジョー村から帰る途中の村にて
イスフがホロホロチョウを2羽買う
ホロホロチョウ
子供達と
続く