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森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.9

森林紀行

セロコラでの森林調査

キャンプでの朝

翌1980年12月4日(木)、キャンプ地では、朝霧が晴れてモルゲンロートという感じのきれいな朝焼けであった。

 

調査地に入る前の挨拶

昨日偵察しておいた場所へ行く。どこの森林に入るにも牧場を通らねばならず、必ず持ち主に挨拶が3回くらいある。それに非常に時間がかかる。話好きのパラグアイ人はテレレやお菓子を出してきて、話していれば1時間でも2時間でも平気でしゃべっている。永遠にしゃべるのではないかと思わされる。

言葉はポルトガル語かスペイン語かグアラニー語である。この時は、スペイン語もさっぱり聞き取れず、何語で話しているのかさえわからなかった。

 

テレレというのは、牛の角を容器にし、その中にマテ茶を入れて、冷たい水を注ぎ、ボンビージャと言って、先にマテ茶の葉をこすものがついた金属製のストローのようなもので吸って飲むのである。そこにいる全員がボンビージャを吸って回し飲みする。何人もの人が同じ吸い口に口をつけるものだから何となく、ためらいを感じてしまうが、酒のおちょこの回し飲みも似たようなもので、慣れるとどうということはない。お湯をいれたものをマテと言う。

 

調査地の設定

牧場からようやく森林の端に到達する。起点を決めて航空写真上に指針(その位置を航空写真上に針で刺し裏側にそのポイントがわかるように記載)する。起点から林縁の影響を避けるため、測量して約250m奥に進む。ここは、高木は予想外に少なく、既に抜き伐りされている。そのため光が入るとやたらに灌木が生え、ブッシュとなっている。その後プロット(標本地:大きさを500m×20mとした)の長さ500mを加え合計750m進むのに、作業員3人がブッシュを伐り開き、その後を別な3人で測量して進むだけでも丸々1日かかってしまった。

 

虫ノイローゼ

最初森林に入った時はブヨの多いのにびっくりした。虫ノイローゼという言葉があるというのを聞いていたが、なるほどと思った。長袖を着ていたが、顔の回りや皮膚がでているところにはブンブン、ブンブンとブヨが飛びまわり、葉っぱのついた細い木の枝で常に顔の周りをはたいていないと無数のブヨがたかるのであった。一瞬でも手を休めると、すぐにブヨだらけになってしまう。さされるとかゆくてしかたがない。

 

これは周辺に牧場が多いからだ。牛の周りには無数のブヨがたかっている。近くに牧場がある森林に入ると無数のブヨが寄ってくる。近くに牧場がなければブヨはかなり少なくなる。

日本からはセンスを持って来ていたが、ロストバッゲージになってしまったために無い。しかし、センスでよけられるようなブヨの量ではない。次回からはうちわを持ってこようと思う。

 

測樹

翌12月5日(金)は昨日設定したプロット内を測樹する。プロットは50m×20mの小プロットを10個つなぎ合わせたものにし、合計で500m×20mとし、1haの大きさとした。その枠の中に入る胸高直径(1.3mの胸の高さ)10cm以上の樹木全てについて、樹種、樹高、枝下高、胸高直径、枝下高の直径を測るのである。

その日は1日かかって、プロットの半分も測樹できなかった。枝下高の直径はアメリカ製のペンタプリズマを日本に取り寄せて、日本からパラグアイに持ち込んだ。ペンタプリズマというのは、簡易に直径を測ることができる機械で、機械の中にプリズムが入っていて樹木までの距離に関係なく、カメラのファインダーのようなものを覗くと、樹木の幹の左端と右端を直線で合わせられるようになっていて、それを合わすと、バーが幹の直径と同じ長さにスライドし、幹の直径が測れるものである。

 

林内でのバーベキュー

昼は持って行った肉を林内で焼いて食べた。朝国道沿いの店で大量に買って持ってきた。

しかし、暑いので肉はすぐに痛む。焼こうと思ったところ、既にウジが湧いているのもある。しかし、焼いてしまうので大丈夫だろう、ちょっと痛みかけた肉の方がおいしいだろうと焼いて食べた。これが何とも言えずおいしいのである。

しかし、パラグアイ人達も食べ過ぎか肉が痛んでいたかで、翌日は腹を痛めた模様である。幸い私はこの時は大丈夫であった。

 

林内で肉を焼く.jpg

林内で肉を焼く

 

ようやく1プロット終わる

翌12月6日(土)はペドロ・ファン・カバジェーロから昨日と同じプロットに向かい、残りの測樹を行い、ようやく1プロットの調査が終わる。終了後、再度キャンプへ向かう。

 

グアラニー族の大酋長に会う

12月7日(日)は朝7時に出発。別のプロットを捜す。途中、先住民に会う。筋骨隆々で、背中に銃とアルマジロを背負っている

 

銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民.jpg

銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民

 

9時頃先住民の部落へ着く。パラグアイの先住民はグアラニー族というが、その中のAba族と言った。聞くと75才だというじいさんが孫の面倒を見ている。いろいろ話していると大酋長がいるからそこへ挨拶に行こうという。

すぐ近くで約1Kmの道程だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いつくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。着いてみれば決して近くはなく、1時間以上、約5km程歩かされて、大酋長の家に着く。この辺の先住民達には1時間歩くなんてたいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。

 

残念ながら、大酋長は、全くの文明人となっていて、大酋長というよりもそこらの「おっさん」という感じであり、期待はずれであった。グアラニー語を話し、スペイン語は話さない。

知事の保護認定書を持っており、その内容は「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をするな。」というものであった。

 

グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。.jpg

グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。

 

先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう.jpg

先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう

 

先住民の大酋長の家では弓を引かせてもらったり、ハンモックで休ませてもらった。

その後、その日は昨日のプロットに戻り、そのプロットの500mのラインを設定して終わる。直射日光は森林のないサバンナ状の場所ではもの凄い強さで、とてつもなく暑い。林内も雨が降らなくなり段々と暑くなってきた。

 

ひどい下痢になる

翌12月8日(月)はもう一度プロット1を確認しに行く。途中でシカを見る。アリ塚がもの凄くある牧場がある。この日の暑さはもの凄く厳しかった。

 

キャンプに戻るとグロッキー状態だ。すぐに横になる。熱中症だ。水を十分に取り、元気になり、回復した。その後、下痢となり、ひどい状態だ。原因は昼に飲んだテレレに違いない。汲んできた川の水をテレレにそのまま注ぎ、飲み回し、回りに牧場が多かったので、牧場から牛の糞などが混じっていたのだろう。パラグアイ人も同じようにテレレを飲んでいたが、彼らは慣れているので何ともなかった。もっと気をつけるべきであった。

 

レラスコープの使い方のトレーニング

翌12月9日(火)は、3番目のプロットの偵察を行いつつパラグアイ技術者へレラスコープの使い方を教え、トレーニングをする。レラスコープというのはオーストリアのビッターリヒ博士により考えられた「林分胸高断面積測定法」を応用し、森林の万能測樹高器として発明されたものである。傾斜地の距離、樹木の直径、樹高、胸高断面積などを測れるのである。扱い方が少し難しく、慣れが必要で、皆すぐには使えるようにはならなかった。

測定には、レラスコープよりも樹高はブルーメライスという簡易な測定器、直径は直径巻尺とペンタプリズマで測るのが簡単で効率はずっと良さそうだった。

午後はキャンプを片付けてポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケへ戻った。

 

 

つづく

 

 

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.8

森林紀行

森林調査

セロ・コラ国立公園でキャンプ

  1980年12月3日(水)は、ペドロ・フアン・カバジェーロから車で約1時間半、南に行ったところにセロ・コラ(Cerro Cora) 国立公園のキャンプ場があるので、そこでまず森林調査の予行演習をしようとそこへ向かう。途中ガソリンを入れにいくが停電で30分待たされた。

 

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セロ・コラ セロはスペイン語で切り立った岩山、コラはグアラニー語で周辺という意味

 

  正午に国立公園の事務所に着いた。事務所は軍隊が管理しており、その隊長へ挨拶の後、午後からキャンプを設営する。

  キャンピングカーの冷蔵庫は、早くも故障し、冷えなくなった。午後国道5号線(コロネル・オビエドからペドロ・ファン・カバジェーロ間の国道)をペドロ・フアン・カバジェーロ方向に戻り、森林に入る。

 

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キャンピングカーと近くに張ったテント

 

ガラガラヘビを捕まえる

  途中山の中の道路上で、ガラガラヘビを捕まえる。約1mの長さで太い。パラグアイではガラガラヘビの尻尾の先端で、ガラガラがついた部分をお守りとするそうで、パラグアイの技術者が、そこを切り取りお守りとして大事そうにしまう。

 

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ガラガラヘビを捕まえる

 

  ガラガラヘビの尻尾の先端は小さな粒のような殻が、重なってくっ付いていてその中に小さな玉が入っている。その小粒の石のようなものが、ヘビが興奮して尻尾を震わせると殻に当たりガラガラなるのである。その殻の数から8才のヘビと分かる。1年に1つづつ殻が増えるのだ。

 

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ガラガラヘビの尻尾

 

  それにしてもパラグアイの北東部地域はガラガラヘビとトカゲが多いと思った。山道をやたらに1m前後のトカゲが横断するのである。

  ガラガラヘビは山に入れば1日に数回は見るのである。ガラガラヘビは乾燥地帯のサバンナに多いと思っていたが、このような森林地帯にも多いのである。

   ある時、1mくらいのトカゲが車にぶつかったので、つかまえて車に乗せてホテルに持ってかえったが、車の中は生臭くなり、この匂いにはまいった。

 

車にぶつかったトカゲ.jpg

車にぶつかったトカゲ

 

キャンプ地でサッカー

  パラグアイの森林局の技術者や作業員達はキャンプに戻り暗くなるまで必ずサッカーをする。狭い道で10mくらいの長さでゴールは1m幅くらいである。強くは打てないのでボールの取り合いである。私も混ざってやるが、彼らのテクニックには驚かされる。子供の時からサッカー漬けなので、皆うまい。ボールを取ってもすぐに取り返されてしまう。彼らにフェイントのかけ方なども教わった。

 

初めてのキャンプ

  キャンピングカーのベッドは2段で、下は広いが上は狭い。下には大きい2人が入り、下には小柄な私ともう一人が入る。上は幅がせまくて50cmくらいで寝にくい。一晩くらいなら4人でも泊まれるが、長期では難しい。

   キャンピングカーで泊まるのは疲れるので、この時の調査時だけとし、次の調査からはテントに泊まるようにした。パラグアイの技術者達もテントで寝る。夜は南十字星がきれいに見える。

 

キャンピングカーの中.jpg

キャンピングカーの中

 

キャンプでの一時。昼間.jpg

キャンプでの一時。昼間

 

キャンプにて。.jpg

キャンプにて。火を囲み皆でテレレを飲む。

 

 

つづく

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.7

森林紀行

調査対象地域とペドロ・ファン・カバジェーロの町

 

アマンバイ出張所に挨拶

 ペドロ・フアン・カバジェーロの町に着くとまず、アマンバイ出張所の所長を伺い、所長に到着の報告に行った。

 

1980年当時のアマンバイ出張所.jpg

1980年当時のアマンバイ出張所

 

 所長が一人で事務所を運営している。あいにく、所長は留守だったので奥さんに挨拶し、予約してあったブラジル側の町ポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケに向かう。

 

ホテル・エル・ボスケに泊まる

 ペドロ・フアン・カバジェーロ側には小奇麗なホテルがなく、ポンタ・ポラ側にはいくつか良いホテルがあった。エル・ボスケは森林という意味で、これまた、この辺には森林が多かったことを伺わせた。町はずれに位置するが、この町では最高級ホテルで実際かなり高級なホテルに見えた。

 

 しかし、夜、部屋の冷蔵庫のブラマという名のブラジルの缶ビールを飲むと、何だか古い味である。きっと部屋のビールは高いので長いあいだ宿泊客が部屋でビールを飲んだことがなかったのだろう。

 それに翌日は腹の周りがムシに刺されたようでいくつかポツポツ赤くなっている。きっとダニか南京虫がいたのだろう。高級なホテルなのになんていうことだろう。すぐに部屋を変えてもらう。

 

 ホテル・エル・ボスケの食事は高級で高い。量がもの凄く多い。1人前頼むと普通の日本人が食べる4人分くらいの量があり、最初はほとんど残してしまった。1人前を4人で分けるのもみっともないから、次から1人前の量を少なくしてもらった。

  外のレストランもだいたい量が多い。ピザも大中小あるが、大で日本の10人前くらい、中で5人前、小で2人前くらいである。

 エル・ボスケはこの予備調査の時のみ使い、その後は、手ごろの値段でかつ清潔でいごこちも良く、ポンタ・ポラの町中にあるバルセロナ・ホテルに泊まるようになった。名前はスペインだ。

 

所長がいろいろと便宜を図ってくれる

 12月1日(月)の朝、所長がエル・ボスケに来てくれ、いろいろと便宜を図ってくれる。この日は、ペドロ・フアン・カバジェーロが市制80周年のお祭りで、カンビオ(両替商)が休みで、所長の紹介で、個人の店で当面必要な分だけグアラニー(パラグアイの通貨)からクルゼイロ(ブラジルの通貨)に替える。

  所長がポンタ・ポラ側の町を案内してくれ午前中、20人分の鍋や釜などキャンプ道具やキャンプ時の食糧の調達をする。

 

所長は囲碁が大好き

 所長は、しばらくし、仕事の準備が一段落した時に、「誰か碁を打つ人はいませんか?」とたずねられた。それで私が「一応打ちますが。」というと、「じゃあ今晩家に来て下さい。」という。何だか分からないが、囲碁は囲碁として、仕事の話ももう少し詳しく話した方が良いと思っていた。そんなことで夕食後、所長宅に伺うと囲碁を何番も打たされ、こちらが根負けした。負ければもう一番、勝てば勝ったで、うれしくてもう一番、実力は似たようなものだった。私が碁を打つようになったのは、勤め先に碁を打つ人が沢山いて、それから始めたようなもので、当時の私の腕はたいしたことはなかったが、碁の面白さに引き込まれ始めていたところだった。

 

  次の2回目の調査の時にはメンバーの副団長が、碁が大好きで、私よりもかなり強かったので、次回の調査の時は私よりも強い人が来ますと言っておいた。それで所長は次に副団長が来るのを手ぐすねを引いて待っているような感じであった。我々が到着した晩から「今晩夕食にどうぞ。」と誘われる。「できるだけ早く来て下さい。」と言われる。そうすると碁である。山から下りてきても同様であった。しかし、我々は奥さんにはどうも大迷惑をかけていたようである。ペドロ・ファン・カバジェーロでは強い相手がいなかったのであろうが、これほど碁が好きな方も珍しいと思ったものだった。

 

アマンバイ県知事に挨拶

 午前中キャンプ道具の不足品をすべてそろえる。ペドロ・ファン・カバジェーロにはアマンバイ営林署がある。ここの営林署長はミルシアール・バルデスといった。バルデスが選んでくれていた5人ほどの作業員に面接して全員雇うことにした。その日の午後、雇う作業員の傷害保険を掛けに行った。バルデスもウエスペ等と同じくらいの年で若かった。後に50才近くになって森林局長官になった。

 

調査対象地

 改めて述べると、調査対象地はパラグアイの北東部で面積は150万haであった。150万haというと日本の県で最大の面積を持つ岩手県と同じくらいの面積である。東京都の約7倍の面積もあり、調べるのはかなり広大であった。

  調査対象地はパラグアイの行政区分のうち4県にまたがっていて、アマンバイ県というのが全域含まれていた。その北東部にある比較的大きな町がペドロ・フアン・カバジェーロ市でアマンバイ県の県庁所在地で、調査基地としたのだった。

 

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1980年当時のペドロ・フアン・カバジェーロ市

 

ペドロ・ファン・カバジェーロとポンタ・ポラの町

 ペドロ・フアン・カバジェーロはパラグアイ側の町で、ブラジル側のポンタ・ポラ(ポンタは先端とか岬、ポラというのはグアラニー語で美しいで、美しい岬という意味)という町と隣接しており、ポンタ・ポラはマット・グロッソ・ド・スール州(南の大森林)にあり、ポルトガル語の意味からして、かつてはこのあたりは大森林であったことが伺える。

 ペドロ・フアン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市とは実態上一体化して機能していた。両市の境を走る道路が国境となっており、道路の中心部には分離帯があったが、人も車も自由に往来できた。

  ブラジル側のポンタ・ポラ側の道路はきちんと舗装され、町並みも美しく整っていて近代都市の雰囲気を醸し出していた。一方、パラグアイ側のペドロ・フアン・カバジェーロは石畳になっており、街中を少しはずれると未舗装で国力の差をまざまざと感じた。

 

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ペドロ・ファン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市の境界に立つ

 

 ポンタ・ポラは貿易で栄えていると聞いたが、どうもこれはパラグアイ側からの木材の密輸や麻薬関係だったのかも知れない。

 ペドロ・フアン・カバジェーロは、軍隊の駐屯地があり、兵隊がやたら銃を打つから危ない、ブラジル側もマフィアがいるから危ないが、ブラジル品が自由に買えるので良い町だとか聞いたが、一体流れ玉やマフィアをどのように避けるのであろうか?

 

 雇った作業員の中には流れ玉にあたって腹に弾が貫通し、その手術跡を見せてくれた者もおり、治安の悪さを感じさせられた。

 

  それはそれとして、ポンタ・ポラ側には、手ごろな値段でとてもおいしいシュラスコ屋(牛の様々な部分の肉塊を大串に刺して焼き、焼けたところから皿に切り取ってくれる)があり、山から下りて来た時などは良く食べに行った。

 

つづく

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.6

森林紀行

アスンシオンからペドロ・フアン・カバジェーロへ

 アスンシオンとペドロ・フアン・カバジェーロ間は、直線距離で約400kmあり、陸路、車で行くと約600Kmは走らなければならなかった。

 航空機で行けば1時間ほどであった。ただし、この当時飛んでいた航空機はDC-3 で第2次大戦前から使われていたものであった。運営していたのはTAM(Transporte Aéreo Militar:軍航空輸送)で軍が経営していた。空路も時々利用したが、DC-3は席に座ると既に座席は20度くらいは傾いており、寄りかかるような感じで座った。座席のシートベルトのバックルが壊れていて、シートベルトを手で結ばされたこともあった。

 

陸路ペドロ・フアン・カバジェーロへ

 1980年 (昭和55年)11月29 日(土)の早朝アスンシオンを出発する。ハイエースにランドローバー1台である。もう1台のランドローバーはカウンターパートが後からキャンピングカーを引っ張って来るのに使った。

 

コロネル・オビエド

 私はハイエースに乗り、アスンシオンから西に約150km離れたコロネル・オビエド(Coronel viedo:オビエド大佐)という町に向かい、ここでまず昼食を取った。ここにはルエダ(車輪という意味;ここで方向を変えるのでルエダと言うが付いたと思われる)という大きなレストランがあり、多少とも余裕のある人々はこのレストランで食事をするのが常であった。パラグアイは肉料理が中心であるが、ここのレストランの肉料理はおいしかった。

 

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう.jpg

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう

 

 因みに、コロネル・オビエドの名前は、1870 年三国戦争(対ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3 国)でパラグアイは敗れたものの、コロネル大佐の勇猛な活躍は後世にその名をとどめ、市の名前となったものである。スペイン人の侵略者の中にもオビエドと言う名もあり、南米各地にオビエドという地名は多い。

 

ぬかるんだ道路

 コロネル・オビエドから北上していくのだが、舗装をしてあったのは、ここから約50km北のMbutuy(ブトゥ)くらいまでであった。

 ブトゥはこの北東部の調査の後、ブトゥの奥のカピバリという地域で造林計画を作成するのであるが、その時に基地とした町である。ここから先は、未舗装となるのであった。

 この辺りの道は、平らであるということと砂利がなく、粘土か砂をベースとする赤土であったので、雨が降らなければ、走りやすかったが、埃はひどかった。しかし、一旦雨となるとぬかるみ、時にはそのぬかるみに車がはまり動けなくなり、それが邪魔になって後続車は、そこで待たなければならないのであった。

 その上、道路の所々に、運搬物の検査や道路保護のための検問所があり、雨が降るとそこで止められ、その先へ進めないのであった。

  その日も雨は降っていなかったが、ブトゥからちょっと先へ行ったところで、道がぬかるんでいて木材を積み過ぎ重すぎたトラックから木材が下ろされ、道路際に置かれていたところに、後から来たトラックがぬかるみにはまりこみなかなか抜け出せないでいた。

 

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ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック

(道路際の丸太はペローバ。この木を目当てに無秩序な伐採が進んでいた)

 

 それが障害物となり、その後ろから来た我々の車もそこから前に進めなくなった。そこで2時間くらい待たされ、トラックがようやくぬかるみから抜け出たので、次のSan Estanislao (サン・エスタニスラオ)という町までたどり着くことができた。

 

 サン・エスタニスラオのことをパラグアイ人は、略してサンタニと呼んでいた。 

  しかし、そこにも検問所があり、通行を禁止していたため、先に進むことができず、サンタニの町で泊まることとした。いくつかホテルをあたり、ドイツ人が経営していて小じんまりしているが、清潔そうなホテルに泊まることにした。

 

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道路がぬかるんで検問を通れず

 

 

通訳のH君とサンタニのホテルにて

 ホテルの名前はホテル・アレマンと言い、訳せばドイツホテルという意味でまさにドイツ人が経営しているからつけた名前である。

 小さなホテルで、急遽泊まったので、アスンシオンから雇用していた通訳のH君と相部屋となった。H君はペドロ・ファン・カバジェーロ近くで生まれた日系2世である。きちんとした日本語も話し、スペイン語とのバイリングアである。年は私よりも少し若く、20台後半であった。

 その後キャンプ生活もずっと共にし、長くつきあうのであったが、日本人の感覚ではなく、パラグアイ人の感覚で、こんなにも感覚が違うのかと驚かされた。

 

 何しろ私は日本人の中で育って来たから、他人に対する遠慮とか、上司の意見を尊重するとかといったものをおそらく無意識に身に付けていたのだろうが、H君にはそんなものはなかった。

 まったくフランクで誰でも対等な人間として付き合っているように思えた。自分のしたいと思うことをさっさとやるし、遠慮などはまったくなかった。それに馬力があり、顔が日本人なので、同じような感覚が持っているのかと思っていたが、全く違った。パラグアイ人がそうなのであろう。

 アメリカ人はフランクで上下関係はあまり意識しないようなことを学校の英語の授業で聞いていたが、そのような感じであった。人に気を使わなくて良いのはこちらも気楽であった。日本の社会や教育により、私は随分と枠にはめられ、不自由に育ったのではないかとも感じた。

 

  パラグアイでは学歴による上下関係は前に述べたように強かったが、社会全体では横の関係が強く、アミーゴの世界で動いているようであった。役所のような所では、大卒はエリートなので縦の関係が強かったのだろう。

 

サンタニからペドロ・ファン・カバジェーロへ

 翌日の1980年11月30日(日)にサンタニのホテルを朝7時に出発。この日はサンタニの検問所は開いていた。私はハイエースからランドローバに乗り換えてこちらで進む。

 

待ち時間を利用して森林を見る

 更に2時間くらい進んだところに、また検問所があり、そこで止められた。ここは晴天なのに、この先が雨でぬかるんでいるという。しばらくすれば開くという。そこで待ち時間を利用して森林を見に行くことにする。

 

くたびれもうけ

 道路際の牧場は、はるかかなたにまで続いているように見える。その向こうが森林だ。牧場の入り口に鍵が掛っており、車が入れない。国道沿いを歩いていた人に聞くと、その鍵の所から家まで約2Kmとのこと。家まで車が通れる道がついている。森林まではそれからまだ10kmくらいはありそうだ。

 とりあえず、その家まで鍵を借りに往復4Kmの道を歩くことにする。暑い。汗が噴き出て来るが、空気が乾燥しているのでベトつかないのが救いだ。30分ほど歩いて、その家に着く。

 

 「こんにちは。ご主人はいますか?」カウンターパート(共同作業技術者)のウエスペが尋ねる。

 「いませんよ。」

 「あなたは?」

 「私はここの使用人だ。」

 「そうですか。我々はパラグアイの森林局のものですが、奥の森林を見せてもらいたいと思い、牧場の入り口の鍵を借りにきたのです。」

 「そうか、それはおあいにく様でしたな。鍵は道路沿いの家にあるよ。主人はこの奥の家へ行っている。」

 「えッ。本当ですか。これはくたびれもうけだったなあ。」

  「まあ、あんた達、テレレでも飲んで行きなよ。」と、その人は我々にテレレを勧めた。テレレを飲みながらひとしきり談笑した後、また元の道を半時間ほど歩いて戻ったのであった。テレレはパラグアイ独特の飲み物である。

 

ピューマの頭蓋骨

 道路沿いの家なら最初に車で止まったところからすぐそばだった。その家にあった鍵を借り、牧場の入口の錠を開ける。今度は、奥までランドローバで進む。途中でさっき訪ねた家を通り過ぎ、10kmほど奥まで進む。そこに家があり、その先が森林だ。

 

 「こんにちは。ご主人ですか?」

 「そうだよ。名前はロペスという。」

 「我々は森林局のものですが、森林を調べており、この奥の森林を見せてもらいたいのですが。」

  「ああ、いいよ。でもこの辺りにはもう大きな木は無いよ。ブラジル人がみんな伐って持っていってしまったよ。」

 「そうですか。残念ですね。それでも森林を見せて下さい。ところで、そこの壁にかけてある頭蓋骨は何のものですか?」

 「ピューマだよ。私が撃ったものだ。今でも沢山いるよ。」

 「大したものですね。」

 

 ロペスさんは、子供3人と掘立小屋に住んでおり、この辺りに高木林はないと言う。ピューマの頭蓋骨が飾ってあり、それを銃で打った時の写真を見せてくれた。

 我々が森林を見ると確かに、伐採が入っていて、大きな木は皆伐られた跡で、がっかりした。

  道路へ戻ると午後1時過ぎで、通行止めが解除されている。それからペドロ・ファン・カバジェーロへ向かった。

 

 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.5

森林紀行

アスンシオンの印象(2)

東京との連絡

 最初にパラグアイに行ったころは、東京の事務所との連絡方法は電話かテレックスであった。当時の国際電話はべらぼうに高く、要件を整理し、手短に必要事項だけを連絡した。

 確実性が必要なものは、テレックスで打ったが、テレックスはローマ字で日本語を書かなければならず、非常に書きにくく、きちんと意味が分かるようにその書き方に気をつかった。

 そのうちにFAXなどができて、書いたものがそのまま通信できるようになり、非常に便利になったと思ったものである。

 

 プライベートでは、家にはJICAパラグアイ事務所の住所を書いた航空便の封筒を何通か置いておき、妻には時々手紙を書いてくれるように頼んだ。職場にも同じ様に住所を書いた航空便の封筒を渡し、職場の状況を知らせてくれるように頼んだ。家からの手紙では、まだ小さかった娘が便箋に鉛筆で落書きしたようなものを送ってくれた。日本で投函したものが届くには約2週間はかかったが、当時海外で受け取る手紙ほどうれしいものはないと思ったものである。

 今は、メール全盛になり、インターネット電話を使えば、無料のものもあり、通信は日本国内にいるのと何ら変わりなく、隔世の感がある。

 

ホテル

 我々の泊まっていったホテルは、最初はプラサホテルといい、パラグアイでは2流のホテルであった。とはいえ、清潔で、ホテルの前を通る車の騒音が時々気になる程度で居心地は良かった。プラサというのは広場という意味で、確かにホテルの前には結構大きなプラサ・カバジェーロ(紳士の広場)があった。

 

  というのも最初のころの出張旅費は、余裕がなく、結構きつかったのである。当時は円が1ドル250円くらいで、グアラニー(パラグアイの通貨)が1ドル126グアラニーであったから、ちょうど1円が0.5グアラニーだった。それが、段々と円が強くなり1984年くらいには、1ドルが200円くらいになり、1グアラニーが400グアラニーくらいになったので、円とグアラニーの価値が逆転し、円の価値は4倍である。1円が2グアラニーにもなってしまった。パラグアイのインフレも相当に激しかったが、行くたびに多少の余裕もでき、泊まるホテルも少し高級なパラナホテルとかグランチャコというホテルに、泊まれるようになった。

 

時差

 パラグアイと日本との時差は11月から2月までは13時間あり、夏時間の3月?10月は12時間である。最初に到着した時の午後2時は日本では午前1時である。だから、到着後数日間は午後になると眠くてしかたがない。

  たまたま午後に仕事がなかったとして、休めたとしても眠ってはいけない。でないとなかなか時差がとれないのだ。眠いのを我慢して起きていることが早く時差を解消する。時差ぼけの時の夜は本当に気持ち良く、ぐっすりと良く眠れる。時々知らないまま寝巻にも着変えないで、そのまま眠ってしまったこともあった。

  少なくとも1週間は時差が取れない。機内で寝ないで行ったり、寝て行ったり、時差が早く取れる方法をいろいろ試したが、私は機内でできるだけ寝ていくのが時差を早く解消する最も良い方法であると思う。

 

朝のジョッグ

 到着後すぐの頃は、時差で夜中に目が覚めてしまうから、明るくなるとすぐにカバジェ?ロ公園へジョッグをしに行った。ここで、草を観察したが、南半球ではあるが、日本にある草と似たものもあり、牧野の植物図鑑がロストバゲッジで失われたのは、返す返すも残念だった。

 

店屋

 日本だと土日はかせぎどきで、ほとんどの店屋が開いているが、アスンシオンでは土曜日は半分くらいの店しか開いていなかった。それもほとんどが午前中だけで、日曜日となると全てといっていいくらい店は閉まってしまう。土日は働かず休むのである。日本みたいにガツガツ働かない。

  人生に対する考え方が違うのだろう。おいしいものを食べ、ワインを飲み、ダンスをし、恋愛を楽しむのがパラグアイスタイルであろう。

 

パラグアイ川は巨大な川

 アルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオを河口とする大河ラプラタ川の上流がパラグアイ川であり、アスンシオンはパラグアイ川の中流域にある。アスンシオンの対岸はアルゼンチンである。ここの川幅は1km くらいである。この上流が調査対象地域である。

 

パラグアイ川。.jpg

パラグアイ川。アスンシオン側から対岸のアルゼンチン方面を望む。

 

 アスンシオンの郊外で、パラグアイ川のほとりに多くの貧しい人達が住んでいた。そのあたりを見ていると、雨期になるとアスンシオンは晴れて良い天気なのであるが、徐々に川の水位が上がってくる。1日に10cm?20cmくらい上がる。1週間もする1m も水位が上がるので、家を川岸から高台に上げて避難している人達をよく見た。もっとも物も持っていないし家も掘立小屋なので、移動は簡単なのであった。彼らはこうして毎年雨期と乾期で家を移動させているのであろう。大河の水位の上がり方は非常にゆっくりとだが、確実に上がって来て、日本の川とは随分違うものだと驚いた。

 

ソモサ事件

 アスンシオンに到着する少し前の1980年9月17日にニカラグアのかつての独裁者、アナスタシオ・ソモサがアスンシオンの路上を車で走行中に、アルゼンチンのゲリラ組織、人民革命軍(ERP)にバズーカ砲で暗殺されるという事件が起こった。ソモサは暗殺を恐れて身辺を警戒し、防弾車に乗っていたということであるが、爆殺された。

 

 当時パラグアイの大統領は、ストロエスネルと言ってやはり独裁者であった。独裁者が独裁者を庇護していたのであるが、防護できなかった。

 聞くところによれば市内には見張りが沢山おり、それらは町の物売りや一般市民に混じった私服だとのことであった。そんなに見張りがいても街中で暗 殺されてしまったのだ。その通りを走っている時に、ここで殺されたのだと教えられたが、市内は平穏に見え、そのような恐ろしい事件が起きたことが遠いところの出来事のように感じた。

  いろいろ聞いているとパラグアイの治安も決して良いわけではなく、殺人事件は日常茶飯事のようであったし、日系人も様々な被害に会っていた。

 

スペイン語

 習ったスペイン語では「おはようございます」は、「ブエノス・ディアス」なのにアスンシオンでは「ブエン・ディア」と言っているようだ。自分の耳が悪いのかと思ったが、そんなことがないだろうと、聞けば、パラグアイでは複数形で言わず、単数形で言っているのだ。

 「ありがとう」の「グラシアス」も「グラシア」としか聞こえず、変だなと思った。店で買い物をした時も、200グアラニーが習った通りなら「ドス・シエントス」なのに「ドス・シエント」としか聞こえない。まだスペイン語が全くわからなかったので、方言のように地域によりなまりがあることもさっぱりわからなかったのだ。あまり「S」を発音しないのだと後になってわかった。

 

 最初に銀行に換金に行った時に、スペイン語はまだほとんど聞き取れなかったが、「エストイ・エノハード」といって、行員にいかにも怒ったようにまくし立てていたおばさんがいた。いつも辞書を持っていたので、その時エノハードを引くとエノハールというのが動詞の原形で、「怒る」と言う意味で、状況のとおり「私は怒っている」ということがわかってうれしかった。

 ただし、これを見ていて、パラグアイ人の方が日本人より大分気性が荒いのではないかと思った。

 

  最初はチンプンカンプンのスペイン語であったが、2ヵ月間パラグアイの森林局の技術者と共同作業をする中で、森林調査の時に彼らの言う言葉を書きとめ、簡単な森林調査用語集を作った。これを次の本格調査の時のメンバーに渡したら大いに役立ったと言ってくれた。ただこれにはかなりのグアラニー語も混ざっていた。

 

調査用の資機材

 調査用の資機材ではアスンシオンに到着した時には、既にランドローバー2台と、トヨタのハイエース1台、それにキャンピングカーを1台用意してくれていた。予備のタイヤや車がぬかるみにはまってしまった時の脱出用にウインチも用意してくれていた。

 ウインチを使うなどとはあまりうれしくないことだが、現場あるいは現場までの道路がぬかるむことが多く、ウインチをそれほどまでに使うとは思っていなかった。しかし、ぬかるみにはまってしまうことが多く、はまった車を引き揚げるのにウインチは大いに役立った。

 

 キャンピングカーには冷蔵庫やガスボンベなども付いていたが、冷蔵庫はすぐに故障してしまったし、大部隊での食糧保存用には小さすぎ、あまり役にはたたなかった。ガスも野外の料理では薪利用の方が圧倒的に便利であり、ほとんど必要はなかった。

  キャンピングカー自体は、団長、副団長の寝床や航空写真や資料の保管場所となり大いに役立った。

 

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.4

森林紀行

アスンシオンの印象(1)

こじんまりした町

1980年当時のアスンシオンはかなり小さな町だった。町自体はかなりの広がりがあるのだが、中心街は1km四方程度にかたまっていた。しかし、市内には路面電車も走っており、郊外には蒸気機関車も走っていた。燃料は木炭だった。ホテルでもっとも有名だったのは、グアラニーホテルで当時三角柱形のものが建っていた。

 

1980年当時のアスンシオン中心街。.jpg

1980年当時のアスンシオン中心街。

 

アスンシオンの郊外を走る蒸気機関車.jpg

アスンシオンの郊外を走る蒸気機関車

 

蒸気機関車.jpg

蒸気機関車

 

JICA事務所

到着して最初の仕事はいつもJICA事務所への挨拶と打合せである。当時のJICA事務所の職員の方は、一緒に仕事をしていこうという姿勢で、ひと安心だった。我々の仕事を担当してくれた方は、アスンシオンで育った現地採用の方だったが、とても良く面倒を見て下さった。その上司で課長は、東京から派遣されていた方で、また、とても親切だった。担当の方は、パラグアイ側との会議や打ち合わせなどにも参加し、通訳がいないときは通訳もしてくれた。また、我々がパラグアイにいない時には、パラグアイ森林局とコンタクトを取り、連絡をくれ、我々の仕事を様々にバックアップしてくれた。

 

大使館

JICA事務所の挨拶のあとは、大使館への表敬訪問である。大使と担当の書記官が対応してくれる。その後、調査の度に大使館を訪れたが、大使が代わると大使館の雰囲気はかなり違うように感じた。

この時は、ロストバッゲージとなってしまい、私とHさんは背広がなく、私はネクタイをOさんから借りた。現地調査の合間には晩さん会などに招待してくれた。私は下っ端なので、やや緊張して大使のお話を聞き、あいづちをうちながら食事をして、話し相手はもっぱら団長であった。

 

パラグアイ森林局

当時パラグアイの森林局 (Servicio Forestal Nacional)は、農牧省(Ministerio de Agricultura y Ganadería)の外局であった。パラグアイ森林局の長官はカラブレッセ氏だった。日本の林野関系でパラグアイに関係していた方では、知らない方はいないほど有名だった。

というのは当時我々の調査が始まった時には、JICAは林業関係では南米で初めての技術協力プロジェクトを前年の1979年から開始し、日本から林野庁の職員の方を中心に何人かの専門家の方が長期に渡って(2年?4年くらい)派遣されていたからである。この技術協力プロジェクトはCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal : 林業開発センター)と呼ばれるセンターを作り、センターで苗木生産や植林、伐採、製材など林業全般に渡り技術移転などの協力をし始めたところだった。それで日本の林野庁もこのプロジェクトの成功を期待していたからであった。

そのセンターはパラグアイ南部のエンカルナシオンというやや大きな町に近い、ピラポという小さな町にあったのだが、アスンシオンの森林局にも事務室があり、その専門家の方達にも随分とお世話になった。

その中で、当時専門家でパラグアイに派遣されていたTさんには特にお世話になった。Tさんは豪快な方で、家族はアスンシオンに住んでいて、本人はほとんどピラポで仕事をしており、たまにアスンシオンに帰って来た。その時に、家でごちそうになったり、日系人がホテルとレストランを経営していた内山田という店でスキヤキなどを一緒に食べたりした。

 

カウンターパート

我々の技術移転の対象で、パラグアイの森林局の共同作業を行う技術者は、カウンターパートと呼ばれる。そのトップがカラブレッセ長官で、実質のチーフはウエスペという若い技術者であった。専任で参加したのは、ウエスペ、カブラル、エンシーソー、オルテガの4人であった。その他何人もの技術者が一時的に参加した。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーの3人がIngeniero(インヘニエーロ:技術者という意味であるが、大卒技術者への敬称)であり、オルテガが林業専門学校卒でTécnico(技術者という意味であるが、専門学校卒者への敬称)であった。4人ともまだ独身であった。

ところで、インヘニエーロは一目おかれる存在であった。学歴差別というのか、実力よりも学歴が日本以上に重んじられていると強く感じた。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーは当時26?27才くらいで私より少し若かったが、オルテガは私と同じくらいの年であった。オルテガは仕事もでき、人間も良くできていたように感じた。しかし、彼はインヘニエーロの3人の言うことを素直に聞き、自分の意見は前面に出さないように努力しているのが常々見えた。オルテガは、3回目の調査の後、スイスの女性と結婚し、ヨーロッパに行ってしまった。

彼らとはほぼ同年代だったので、すぐに打ち解けアミーゴとなった。しかし、ウエスペは少し気取っていて、彼らの中でも常に自分が一番上位であるかのようにふるまった。カブラルは一見、真面目に見え、実際真面目だったのであるが、年よりも落ち着いて見えた。エンシーソーはその逆で、陽気なやんちゃ坊主であった。カラブレッセ長官にも、もっとおとなっぽい態度で臨むようにと怒られたり、ウエスペやカブラルにも頼るような感じがあった。疲れてきたりすると、私にも良く弱音を吐いたが、人懐っこく正直でとても好感が持てた。

彼らと一緒に仕事をする中で、彼らがメモを取らないので、私はいつも彼らにメモを取るように口を酸っぱくして言っていたが、メモをとらないからだろうか、非常に記憶力が良いのに驚いた。皆、頭の中に入れてしまうのだろう。

ウエスペは調査終了後すぐに大学教授へと転身した。1987年にパラグアイに行った時は、皆、既に結婚していて、ウエスペ、カブラルが奥さん同伴で歓待してくれた。彼らは研修で日本にも来た。特にエンシーソーはその後、何回か日本にきて、最後にあったのは15年くらい前(2000年くらい)だった。その後、彼は森林局の長官になった。

 

 

 

 

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.3

森林紀行

いざパラグアイへ

予約便が変更になったこと

最初にパラグアイに行ったのは1980年11月20日(木)のことであった。2度目の海外出張であり、初めての南米、私は20代最後の出張であった。

当初はJALで、成田からニューヨーク、リオデジャネイロ経由でアスンシオンへ行く予定であった。JALだと午前10時に成田を出て、ニューヨークには時差の関係でほとんど同じ時刻の同日午前10時15分着の予定で、ニューヨークからリオデジャネイロへの便は同日午後8時発なので、約10時間の時間がありニューヨークの町を見ることができると楽しみにしていた。

しかし、出発日11月20日にはJALがストを行うと発表され、急遽JALからパンナムに変更した。パンナムは午後7時発で、ニューヨークでは飛行機の乗り換えだけで、町を見る余裕はなくなってしまい、がっかりした。

メンバーは職場の4人でチームを組み、団長を始め皆、経験豊富な技術者であり、私が一番下っ端で小間使いであった。

 

機内

午後6時20分に飛行機に乗り込んだ。PA800 である。午後7時20分に成田を飛び立った。まずは、成田を無事出発でき、わくわくしていた。ニューヨーク、ケネディ空港には同日午後5時35分に到着した。実質約12時間乗っており、夜に乗り、日が明け、また日が沈んだところである。

機内はほとんどがアメリカ人で、もう乗り込んだ瞬間からアメリカの雰囲気である。しかし、もう一方の隣の席は、アルゼンチン人であった。ブエノスアイレスに帰るとのことで、この人は、英語はあまりうまくなかったが、スペイン語を教えてくれた。まったく何という良い言葉を教えてくれたものだろう。私がスペイン語を知らないものだから。「Quiero darle un beso (キスし(てあげ)たい)というスペイン語を覚えていたら良いよ。」と教えてくれた。さすがにアルゼンチン人である。

ビジネスクラスでありがたかったが、ニューヨークで降りる時に、機内の床には新聞その他のごみが散乱しており、アメリカ人はこんなにだらしがないのかと思ったものだった。

 

日本からニューヨークへ.jpg

日本からニューヨークへ

 

 

ニューヨークでの早技

ニューヨークに着き、そのままトランジットであった。しかし、初めて降りるニューヨークの地、ここが本当にニューヨークなのか信じられない思いで興奮し、一人はしゃいでいた。到着後アメリカではトランジットでも入国しなければならず、税関での入国審査の後、荷物を受け取とった。しかし、トランジットの場合は、荷物を流す専用の場所があり、そこから荷物をベルトコンベアーに乗せても良いのである。我々は一人1個のスーツケースを持っており、チームで合計4個であった。この時は予備調査だったので、調査機材も個人のスーツケースに入るくらいの量だった。

4個のスーツケースを受け取り、トランジット専用の場所でスーツケースを「パラグアイのアスンシオンまで。」と言ってそこで働いていた黒人に渡した。この当時既に海外留学経験があったHさんがいかにも慣れた手つきで、彼にチップを1ドルやろうと思ってポケットから1ドルを取り出し渡そうとした時、もう1ドルがポケットから落ちてしまった。落ちてしまった1ドルはさっとその黒人に拾われ、渡した1ドルとともに黒人には2ドルが入った。「Thank you sir.」とチップの額はたいしたことがないもののその早技に感心した。

 

リオデジャネイロへ

午後8時半ニューヨークからリオデジャネイロに向けて、バリグ便で飛び立った。ここはエコノミークラスであったが、すいていたので、5席を横にして一人でゆっくりと眠ることができた。ところが大失敗。機内サービスでもらったチョコレートが座席に落ちたのに気がつかず、敷いて寝てしまった。寝ている間にチョコレートが溶けてジャンバーの背中にこびりついてしまった。夜中にトイレに行って気が付き、こびりついた部分だけ水洗いし、だいぶこすってチョコレートを落としたが、十分には取れなかった。翌朝7時20分にリオデジャネイロに着く。

 

ニューヨーク-リオデジャネイロ.jpg                           ニューヨーク→リオデジャネイロ→サンパウロ→イグアス→アスンシオン

アスンシオンへ

リオデジャネイロからアスンシオンへは、サンパウロ、イグアス経由であった。リオデジャネイロは午前9時15分発なので、約2時間の待ち時間だ。実際に飛んだのは午前9時50分で、サンパウロに午前10時半に着き、サンパウロ発が午前11時半。午後12時45分にイグアス着。上空からイグアスの滝が良く見えた。午後1時10分イグアス発で、午後2時にアスンシオンに到着した。

日本を出発して約33時間、この間バリグの食事をたらふく食べたが、ゆっくりとは休めず、実に長い旅だと思った。リオデジャネイロに着いた時は、もうすぐだと思ったが、それからの4時間が本当に長かった。サンパウロやイグアスでの機内での待ち時間が特に長く感じた。

 

アスンシオン空港にての出迎え

空港ではパラグアイ森林局や日本の関係者の方が出迎えてくれた。

しかし、困ったことに4人ともスーツケースが着かなかった。ロストバッゲージである。しかし、聞くと良くあることで、明日は着くだろうとのことだった。仕方がないので、ロストバッゲージの手続きをしてホテルに向かい、翌日は着の身着のままであった。

 

ロストバッゲージ

困ったことにHさんとOさんの荷物には最近撮影した航空写真の一部が入っており、これが届かないと仕事に支障をきたすことになる。翌日同じ時間に空港に行ったところ団長とOさんの荷物が着き、私とHさんの荷物が着かない。仕方がない。それから毎日同じ時刻に空港に荷物を見に行ったがとうとう着かなかった。空港の荷物置き場も見せてもらったが、他の地域からアスンシオンに着いてしまったスーツケースが大量にあるのにびっくりした。これだけ多くの荷物が必要なところにつかないで迷子になっているとは、世界中で困っている人が沢山いるのだろう。行き先のタグが無くなっているのだ。結局帰国するまで2カ月間スーツケースは着かなく行方不明になってしまった。

 

2日目に着かなかった時に、すぐに下着やズボン、シャツなどの着物とその他の必要物はアスンシオンの町で買い、結局、何も持ってこなくても過ごせるということはわかった。ただし、愛着があるものがなくなってしまって、金では買えないと思ったものである。

特に残念だったのは、パラグアイの植物は基本的に日本とは違うものの、同じ様な形のものはあり、科名くらいはわかるのではないかと思い、使い込んだ学生版牧野植物図鑑を持って行ったのであるが、無くなってしまってがっかりした。

帰国後、新しいものを買ったが、版を重ねていたので、図がコピーのようでところどころとぎれとぎれになっており、使い物にならなかった。

 

しかし、当時はコンピュータ、プリンターも無いし、それらの充電機やコード、インクなど付属物も無いし、今よりはるかに荷物が少なく、仕事も紙と鉛筆があれば、なんとかできるという、よりシンプル世界だったから良かったのである。また、この時の仕事は予備調査であり、どのような方法で本格調査を行うかを検討するものであったので、航空写真はOさんのスーツケースに入っていたもので、まにあいことなきを得た。

 

補償

荷物がなくなったことでバリグ航空と交渉したが、荷物を預けたのがニューヨークで、責任はニューヨークまで乗ってきたパンナム航空にあると責任のがれで埒が明かない。しかし、粘り強く交渉し、最終的にバリグが補償することとなった。

さて、補償額はいくらかという時になった時に、荷物1個につき20Kgで、1Kgあたりいくらということで、中身の値段に比べて、ほんのわずかが補償されただけだった。

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.2

森林紀行

出発準備

初めてのパラグアイ

パラグアイは、私が最初に行った南米の国である。海外出張ではインドネシアに次いで2番目の国である。最初に行ったのは1980年。現在2015年だから、今から35年前のことである。パラグアイでは2つの調査を行った。一つは今書いている北東部の森林資源調査であり、続けてカピバリという地区で、森林造成計画を作成する仕事を行った。

その後、1987年に南米全体の森林や林業の状況を調査に行った時に、パラグアイに滞在したので、パラグアイには3つの仕事を通じて8回ほど行っている。

北東部の調査の目的は、森林の資源量を調査し、森林開発計画のガイドラインを作成するというものであった。開発計画と言っても樹木を伐採し利用するための計画ではなく、持続的に木材を生産し、森林を保護するための森林管理計画の作成であった。いわば、林業サイドから見た地域開発計画の作成であり、どちらかといえば自然保護に重点を置いたものである。

 

 

出発前の準備

航空写真の判読

パラグアイ国の面積は約40万k?で日本よりやや大きい国である。国を南北に流れるパラグアイ川(ラプラタ川の上流)により国が東西に分けられる。国の半分以上を占める西側はチャコと呼ばれる乾燥地域で、当時はわずかに牧場がある程度でほとんど人は住んでいなかった。乾燥地であるのでタンニンを含む有用樹のケブラーチョなどが多く生育している。利用されている土地は東側のみと言ってよく、それは日本の約半分くらいの面積である。

 

パラグアイ地図.jpg

パラグアイ地図

 

その東側でも北東部にある町ペドロ・フアン・カバジェーロを基地にしての調査だった。北東部は当時まだ原生林が残っていたが、すでに多くの森林で有用樹の伐採が行われている森林であった。最初の予備調査の前に撮影した航空写真を入手し、出発前に予備的に判読した。

判読というのは、室内で立体鏡というのを用いて航空写真を立体的に見て、森林を密度の濃い森林や薄い森林、樹高の高い森林や低い森林、それらを林相というのであるが、林相の基準を作って、各々の林相にグループ分けして行く作業である。

航空写真は、上空から東西方向に一定間隔で撮影したもので、隣り合った写真を2枚用いて、同じ個所を右側と左側から見て、それを重ねあわせると立体的に見えるのである。3次元の絵や柄合わせと、原理は同じである。これは言ってみればかなり専門的な作業であるが、上空の至近距離から森林を観察しているのと同様で、様々な発見ができ、興味津津、楽しみながらできた仕事であった。

今は、森林を見るのも航空写真からほとんど衛星情報に替わり、この専門的技術はすたれてしまった。この技術を身に付ければ現場では、2枚の航空写真を肉眼で立体視して、地形の変化も読めるし、大木を目印に自分がどこにいるかも容易につかめ、森林内にいても迷うことはなかったのである。今はGPSなど便利なものがあるからアナログ技術はすたれてしまった。

ただし、この調査でも当時自由につかえるようになったランドサットのデータを使って1981年3月と1983年3月の2年間の森林と土地利用の面積の変化を調べた。この時の結果では2年間で約5.3%の森林が減少していた。単純に推移すれば38年で森林が無くなってしまうのであるが、現実には森林の伐採が加速され、その倍くらいの早さで森林はなくなってしまったのだ。

 

濃い緑が森林。今ではほとんど森林が消滅.jpg

濃い緑が森林。今ではほとんど森林が消滅

 

大森林内の不思議な道

さて、パラグアイ北東部の森林の航空写真を判読している時に、大森林地帯にかなりの密度で縦横に道路らしきものが判読できるのだった。しかし、密林であり、はっきりと連続しておらず、道路らしきものも木や草に覆われており、土は反射しないため白く光って見えず、一体何だろうかと不思議に思った。

パラグアイにはグアラニー族が多いと聞くし、もしかしたら先住民インディオの通り道かとも思った。しかし、通り道であればこんなに多くあるはずはないし、しかもはっきりとは判読できないだろうと思ったりもした。では、何であろうか?確かに何かが通った跡である。

 

実際に現地に入ってみて、その跡が何であるかすぐに分かったが、がっかりすることはなはだしかった。それは木材を伐採し、搬出する道路の跡だったのである。現地に入る前は伐採道など入っていない原生林と思っていたからよけいにがっかりした。おそらく人は、森林資源は無限にあるものと錯覚していたのだろう。無限にあると思われていた天然の森林も縦横無尽に道路を入れられて伐採されれば、あっというまに消失してしまうのである。

天然林の優良木の消失の道は、ヨーロッパも日本もたどった道で、パラグアイは遅れてきただけのことであるが、それにしてももったいないことをしたものである。

 

 

つづく

【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.1

森林紀行

パラグアイ北東部の森林の印象

はじめに

今回から新たに南米パラグアイの森林について書く予定である。パラグアイに私が最初に行ったのは1980年、今から35年前のことである。信じられないくらい巨大な森林破壊が起こった場所であるが、それらや森林調査を中心に書いて行くつもりである。

 

 

巨大な森林破壊

「思ったよりずっと伐採されているな。樹海が一面に広がっていると思っていたが、伐採地が沢山見えるぞ。それでも広大な森林が広がっているな。」

「あそこの煙が上がっている伐採地に近づいてもらえるかな。」

もの凄いプロペラの騒音の中、軽飛行機のパイロットは大きな伐採地の上空まで来て、低空飛行をする。

「まだ燃えている木もある。くすぶっている木も沢山ある。いや、これは大変な森林破壊だ。それにしても焼け焦げた巨大木が立っている姿は、森林の墓場みたいだ。」

我々は軽飛行機に乗り、上空から森林の偵察飛行を行っていた。森林は期待に反して伐採が激しかった。期待していたのは広大な森林が地平線まで広がって見えることだった。

 

森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。.jpg森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。


「ここはまずは牧場にするのだろうな。焼いている一片の長さはどれくらいある?」

「そうだな。少なくとも5?以上はあるだろう。」

「すると少なくとも25平方キロ以上、つまり2,500ha以上の森林を一遍に焼いてしまったということか。信じられない巨大さだな。森林破壊もいいところだ。これじゃあ、調査地の森林が150万haあっても、すぐに無くなってしまうのではないか?」

(注 2,500haというと東京都の中央区と千代田区を合わせた面積よりも大きい。150万haというと岩手県と同程度の面積で、長野県の面積よりもやや大きい。)

「他の伐採地もこれほどの面積はないにしても1平方キロ以上を焼いている森林は沢山あるなあ。」

期待していた見渡す限り地平線まで森林が続いている場所はどこにもなく、森林は、虫食い状態になり始め、どこかに必ず伐採跡地が現れてがっかりした。

出発前の日本国内での準備作業で、航空写真を判読していて、およその森林の状況はわかっていた。しかし、航空写真のように一部を切り出して見るのではなく、軽飛行機からは地域全体を見ることができるので思ったよりも森林伐採が激しく、航空写真撮影後も伐採がかなり進んでいる様子がわかった。

 

森林を伐採後、牧場などに転換した土地.jpg

森林を伐採後、牧場などに転換した土地

 

機内では、あそこが見たい、ここが見たいと我々がパイロットに要求するものだから軽飛行機は左右にターンとアップダウンを繰り返えし、途中で飛行機酔いをした。

我々は、森林破壊の巨大さに驚きながら3時間もの偵察飛行を終え、ペドロ・ファン・カバジェーロ(紳士のペドロ・ファンという意味)市の空港に降りたった。

パラグアイは地形が平坦なので、簡単に道路が作れ、トラックなどが入り易く、森林は伐採されやすい。日本のように山あり、谷ありで、物理的に開発が不可能な場所があるわけではなく、伐採に歯止めがきかない。

我々の調査の後の20年後、2000年前後に調査したチームによれば、1980年当時大森林であった地域の森林はほとんど無くなっていたとのことだった。

2015年の現在、グーグルアースの衛星写真で見ても当時大森林だった地域は、ほとんど森林が無いのに驚かされる。我々の調査した広大な森林は一体どこに行ってしまったのだろうか?

パラグアイ北東部の森林調査で強烈に残っている印象は、森林破壊の巨大さであった。

 

 

パラグアイや調査対象地の地図

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南米

 

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パラグアイ

 

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調査対象地の位置(斜線部)

 

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】No.29

森林紀行

緊急避難帰国(最後までトラブル)

ワガドゥグへ

4月28日(木)の朝、ダウダの運転で団長とワガドゥグに向かった。ワガドゥグではSさんと合流し、明日3人で東京に発つ予定である。出発してしばらくするとJICAから団長に電話がかかってきた。

「何ですって?我々が予約している明日のワガドゥグからパリ行きのエールフランスの便がキャンセルされたのですか?ブルキナの治安が悪化しているのでエアフラは運航を中止したのですか。本当ですか?それではもう一回パリまでの便を取りなおさなければならないんですね?我々は昨日便を変更したばかりですが、エアフラが飛ばないのならすぐに別な航空会社の便に変更しなければならないですね。それと我々は明日の4月29日までにブルキナを緊急避難で出国しなければならないということは変更できないのですね。分かりました。でも我々は今、バンフォラからワガドゥグに向かう車の中にいるのですぐに便を変更できないので、この電話の後で、ワガドゥグで働いているSさんに電話して、エアフラから何か別の便への変更を東京の旅行代理店に聞いてもらうことを頼みます。またはっきりしたら連絡します。」ということで電話を切った。

 

バンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる.jpgバンフォラを出発してすぐ右側にサトウキビ畑が広がる

そして団長がワガドゥグで働いているSさんに電話し、Sさんが日本の旅行代理店に連絡し、エアフラから別の便でパリに行ける便への変更を頼んだ。Sさんが日本に電話したところ生憎休日で、それも午後5時を過ぎていたので担当者はいなかったが、緊急デスクが働いてくれ、便を見つけることができた。それはワガドゥグからセネガルのダカールに飛び、ダカールからパリに行き、パリから東京へ戻る便だった。ワガドゥグからダカールまではブルキナ航空で、ダカールからパリ経由で成田まではエアフラであった。そして旅行代理店はE-チケットをその日の日本時間の朝9時以降にEメールで我々に送ってくれることになった。それはブルキナでは翌日の午前1時であった。

 

ボボジュラッソの踏切.jpg

ボボジュラッソの踏切

 

 

ホテル・クルバにて

ホテル・クルバにはSさんと一緒に働いていて苗木案件の団長のNさんも宿泊していた。Nさんも明日緊急避難帰国しなければならない。Nさんはガーナ周りの便が取れたとのことだ。Nさんはこの程度の治安の悪化は全くたいしたことがないといった感想である。

実際に兵士の反乱事件に直接巻き込まれていないからであろう。しかし、長年国際機関で働いていた経験もあり、もっと大変な修羅場をいくつも潜り抜けてきたとのことである。ガーナの首都のアクラは良く知っているので問題ないとのことだった。

私は翌日の午前4時に起きてE-チケットが届いているかEメールを確かめたが、届いていなかった。それでスカイプで東京の旅行代理店に電話し、確かめた。するとワガドゥグからダカール便のE-チケットは発行でき、すぐにそれを送るとのことで、電話の後メールで受け取ることができ、持って来ていた小型のプリンターで印刷した。しかし、ダカールからパリまでの便はすぐに発行できないということだったので、予約番号を聞いた。予約番号があれば大丈夫とのことだった。

結局E-チケットを入手できたのはワガドゥグからダカールまでで、ダカールの空港では予約No.で対応することにした。

 

ホテルクルバのロビー.jpg

ホテルクルバのロビー

 

 

パイロットが来ないワガドゥグの空港

ホテルを朝8時に出て、空港に行った。空港までは5分である。飛行機の出発時間は10時である。

空港でのチェックインはスムーズにいった。待合室に入ると緊急避難帰国する日本人専門家が沢山いた。女性達は仲が良い。「あなたはどこへ行くの?セネガルのダカールね。私はガーナのアクラ周りよ。」他にもこの周辺の首都の名前が飛び交っている。

しかし、10時になってもダカール行きの飛行機への搭乗案内はない。セネガル以外の国に脱出する人達は皆出発してしまった。すると予定しているセネガル便のパイロットが来ないので別なパイロットを捜しているとアナウンスがあった。「エッ。何?考えられないなあ。そんなことで大丈夫なんだろうか?ブルキナ航空はパイロットだけでなく機体も大丈夫なのだろうか?」と不安感が浮かぶ。しかし、待っているしかない。12時少し前になり別なパイロットが来たとアナウンスがあり、我々も機内に入ることができた。長い4時間の待時間だった。とうとうワガドゥグを脱出できたのだった。何だってとても不安であわただしい日々だったので、飛び立った瞬間は、ブルキナ航空の飛行機ではあったが、これで治安の悪い場所から逃れられたととても安心感が湧いた。飛び立った飛行機は最初マリの首都バマコに降りた。バマコで降りた客に代わり新たな客が乗ってきた。約1時間駐機していたが、とても暑かった。そしてバマコからセネガルのダカールに向かった。私はセネガルのプロジェクトに約7年ほどかかわっていたので、ダカールの空港は勝手知ったる空港で、ほっとした。ここで7時間ほど待って夜行便でパリに翌日の早朝着いた。ホテルで数時間休みパリから成田へ向かった。そして最初に記したように飛行機は福島上空を避け、航路を南に南下させ、中国・四国地方の上空で日本列島を横断し、成田空港に無事到着した。

私は今回の出発前日の地震からワガドゥグでの兵士の反乱事件などいろいろなダメージを受け相当神経過敏になっていた。成田空港へついたとたんに2か月前の大地震と原発事故の恐怖が思い起こされるのである。そして空港の地下の電車のホームに行く時も恐怖感を感じた。しかし、電車に乗ったら万一地下が崩れても車両がつぶれなければ、それが楯となり瓦礫からは護ってくれるだろうと妙な安心感も湧くのであった。

 

 

終わりに

ブルキナ・ファソはこの後政情も落ち着き、半年後にプロジェクトは再開となった。その時のことはまた、機会を改めて述べてみたい。

ブルキナ・ファソでは最近(2015年9月17日)、コンパオレ前大統領の側近がクーデターを起こした。コンパオレ前大統領は、昨年(2014)の抗議デモの激化により27年間続いた長期政権から退陣した。その後カファンド暫定大統領やジダ首相らが政権運営をしていたが、この日大統領警護隊に拘束され、軍が全権を掌握した。しかし、首都ワガドゥグにクーデターを支持しない他の軍部隊が国内各地から集結し、警護隊への圧力が高まり9月23日、カファンド暫定大統領が解放され職務に復帰した。続いて警護隊とクーデター反対派の兵士も衝突回避で合意し、クーデターは失敗に終わった形となった。

この紀行文の最初では2011年3月?4月にかけて起きたクーデター未遂事件を書いたが、西アフリカ全体に不安定な政権が多い。国際協力や民間の事業でこの地域で働いている日本人も多いが、この地域も平和で安定し、皆さん無事で過ごせることを願ってやまない。

さて、ひとまずここでブルキナ・ファソ編は終わり、次回からは、パラグアイで行った仕事について書く予定である。

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