森林紀行travel
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.10
No.10 ムワラクラムにて
ムワラルピットの不潔なホテル
ムワラルピットのホテルに、12月14、15日と2泊した。しかしホテルとは名ばかりで、不潔きわまりないものだった。湿った布団。汚い水。暗い部屋。不潔なトイレ。ここを流れるルピット川は汚水のようだ。あまりに汚いのでマンディ(水浴)はしないで、雨が降って来ると外へ飛び出しシャワー代わりとした。布団にダニがいるらしく、かゆくてほとんど眠れなかった。もしかすると南京虫だったかも知れない。
ムワラルピットの町(どの町にもモスクがある)
ムワラルピットにいる間、サガラの替わりにアセップという名のカウンターパート(インドネシア側の共同作業技術者)がやって来た。アセップはまだ25歳だが、しっかりしていた。英語もかなり堪能である。「私の友人のフォージーが働かなくて申し訳ない。」と、しきりに謝っていた。
アセップ等との打ち合わせ
ムワラクラムへ
このムワラルピットから奥地に入るボートの値段の交渉でまた難儀した。ムワラピットから10?程離れたスルラングンという地域の役所で交渉を行ったが、10?20人乗りのエンジン付きのスピードボートが1日2万5千ルピア(約5千円)だと船主は言った。これは、この辺りの相場としては、あまりに法外な値段である。1日1万ルピア(約2千円)が相場と聞いていたからだ。長時間の交渉の末、こちらはかなり値切ったつもりでも、まだ相当に高かったのだろう。それでも値段を決めたので、後にもめないように契約書を作った。往復その他毎日少しずつの送り迎えで合計8万ルピア(約1万6千円)ということで双方がサインした。しかし、サインをした後すぐに、もう3万ルピア(約6千円)出せと言ってきたのには驚いた。一体契約というものが分からないのだろうか。「それならもう別な場所で調査をするからムワラクラムには行かない。この契約書は破棄する。あんたには金は入らない。」と言うと、元の8万ルピアで良いと言う。
エンジン付きスピードボート
化膿する足
私は、左足の甲の先端部が水虫のようなものにかかったようで、とうとう化膿してしまい、スルラングンの病院で見てもらった。医者はペニシリンを打つという。この辺りはまだ何でもペニシリンが効くようだ。お尻にペニシリンを打ってもらいボートに乗り込んだ。(帰国後ペニシリンショックも検査せずに良くペニシリンを打ったものだねと同僚から言われ、後から空恐ろしく感じたものだ。)ここの役所から陸軍の兵士が2人ライフルを持って警護にあたった。
ムワラクラム
ムワラクラムには、我々は、12月16日から12月24日まで滞在した。ここは、スルラングンからスピードボートで約4時間。途中の川岸では、体長3mはあろうかとも見える大トカゲを見た。全く中生代の恐竜の生き残りといった感じだ。ムラワクラムでは川沿いの役所の施設に泊まった。簡易ベッドが10本程あり、壁には日本の女優のモデルのインドネシア語のカレンダーが掛けてある。
良く見ると10年程前の吉永小百合である。新幹線と名神高速道路と女優。山肌を削って道路を作った所も見える。日本の発展と自然破壊と浮き出た女優。日本のアンバランスを見せしめているような奇妙なカレンダーであった。こんな自然豊かな奥地に外国のアンバランスな発展を示すようなカレンダーがあるのが不思議な思いがした。
ムワラクラムで泊まった宿舎
宿舎の庭で遊ぶ子供達
ムワラクラムでの生活
ここでの調査はすべてスピードボート使い、川を遡り、上流域の森林で行った。川沿いはほとんどが天然林で、焼畑が少ないので、林内は歩きやすく、却って調査はやり易かった。しかし、私の足は完全に化膿してしまい、痛くて靴が履けなくなってしまった。ここの医療機関に行くと、保健士が一人いて、抗生物質の注射をしてくれ、やたらに抗生物質の飲み薬をくれる。私は山に入れなくなったので、皆が山に行っている間、データの整理をしていた。その合間を見て釣りをした。
スピードボートで川を遡り、上流の森林を調査する
川沿いの森林
ムワラクラムでの釣り
宿舎の前の川は川幅が50m程もあり、相当に水量がある。ここで釣れたのは20cm?30cm程のナマズである。いくらでも釣れる。もし長い海竿とリールを持って来ていれば、ムワラルピットの市場で売っていた1m以上もあるナマズが釣れただろうにと残念であった。
ヘビ
岸まで水が来ているものだから、そこに浮いているイカダの上で用を足した。ある時、用を足しているとお尻のすぐ後ろでヘビが鎌首を持ち上げた。私は驚いて立ち上がった時に、足をイカダを組んでいる木の間に挟んでしまった。その音に驚いたヘビは水中に潜ってしまったが、こちらに向かって来なくて良かった。あれが毒蛇だったらと思うとゾクゾクッとし、出るものも引っ込んでしまった。
卓球やドミノ
ムワラクラムには卓球台があり、ここでは我々日本人チームがインドネシア人チームに勝利し、バドミントンのお返しをした。
誰が持って来たか知らないが、タモリ達は盛んにドミノをしていた。我々はもっぱら歓談して夜を過ごした。
調査で行き当った洞窟
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.9
スカラジャでの楽しみ、ムワラルピットへ
リクリエーション
その遭難騒ぎの後は、我々も慎重になり早立ち早帰りを心掛けた。こうした困難な調査では心身共に疲れて来る。息抜きも必要だが、家に帰るとその日の整理をしなければならず、なかなか息抜きはできなかった。
ただ、寝袋の上に横になって日本から持ってきた小説を良く読んだ。自分が持って来た2冊と他のメンバーが持ってきた2冊をそれぞれ3回ずつ読んだ。夕食後はコーヒーが美味い。あるいは缶ビールを飲みながら歓談するのも飽きることがない。団長は博学で何でも講釈ができ、その講釈が面白いものだから、このような苦労が伴う調査では、団を陽気にする大きな役割を果たした。
ここで私は29才、別の団員が31才の誕生日を迎え、ビールで乾杯をした。ある晩、私とそのメンバーが日本の歌を歌っていると、下でノルマン達がインドネシアの歌を大声で歌いだした。ここで、上と下で日本とインドネシアの歌合戦が始まった。2時間も歌ったろうか、種がつきてくると「もうないのか。それ歌え。」と下からどなってくる。そうして楽しい晩も更けて行った。
スポーツ
仕事後まだ明るいと、作業員達が遊びに行こうと誘いに来る。近くの小学校で、バレーボールやバドミントンをやろうというのだ。バトミントンはさすがにこの当時、世界チャンピオンがいた国だ。皆うまくて、我々は全然歯がたたない。どんな小さな集落にも細い木をライン代わりにしたコートがある。
バレーボールコートは、学校に一つあった。先生達は、「私達は貧しい。もしできればボールを一つ寄付してくれないだろうか。」と言ってくる。そこで、我々は、ルブクリンガウに買い出しに行った時に、ボールを一つ買ってきて寄付をした。
小学校の先生達。女性が多い
盗まれる物
しかし、我々の物が盗まれるのにも困ったものだった。まず、スカラジャに入ったその日に団長の作業靴と私のビーチサンダルが盗まれた。ビーチサンダルならすぐに手に入るが、作業靴には困った。幸い11月28日に現地を去り、帰路に発った他のメンバーと団長の足のサイズが同じだったので、そのメンバーの作業靴を譲り受け、その間は運動靴で仕事をした。その他、シャンプーや整髪料あるいは缶詰などが、毎日少しずつ減るのである。我々は大目に見てやっていたが、一番困ったのはひとりのメンバーの時計が盗まれたことだ。彼のその時計は恋人と交換してきた大切なものだったからだ。隣に住む集落の長に「時計がなくなった。どうしても大事なものだから絶対に捜してくれ。」と頼み込んだ。すると彼は翌日、「子供達が持って遊んでいた。」と時計を持って来た。
結婚式
また、我々が感激したのは、結婚式に出られたことである。12月8日(金)の夕方、太鼓や鉦を叩きながら行列が通った。何かと思っていると花婿と花嫁の行進である。夜8時から披露宴があるという。我々も招待されたので、そこへ行って見た。会場は野外に作られた仮設ステージである。発電機で電気を起こし、エレキバンドの演奏もある。この日団長は、換金でジャカルタに降りていたので、私を含め残っていたメンバー合計3人は、一番前の主賓席へ通された。ごちそうのナシゴレン(焼き飯)が出てくる。まずは音楽。続いて祝辞。そしてまた音楽。祝辞の間に音楽が続く。
ご祝儀が集められる段になった。一人一人がステージに上がって新郎新婦にご祝儀を渡すのである。それを司会者が大声でいくらだったか公開するのだ。周辺の人々は貧しいので、それほど多くの金額は渡せない。我々は、金蔓として招待されたのだということはわかっていたから、相場よりも少し多めにご祝儀を渡したら、我々が渡した額が一番多かった。すると司会者は最も大きな身振りと大声で我々を称えるのだった。本当にわずかな額しか出せない人は新郎のポケットにそっと入れ、額は公開されないようにする。
結婚式
我々のメンバーの一人がステージに上り、インドネシア語で祝辞を述べ、「椰子の実」を歌った。続いて歌が延々と続く。これが、イスラム教のアラビア的な感じで、全部同じように聞こえる。そしてもう一人のメンバーと私がステージに上がり、アラビアンリズムに合わせてディスコダンスを始めた。すると大喝采である。特に同僚のメンバーのセクシーな最新のディスコダンスは大好評であった。宴会は花婿花嫁そっちのけで延々と続く。新郎新婦は、雛壇の飾りだ。明日の仕事は休みというものの午前も2時を過ぎたので我々は帰った。翌日会う人全てに我々が踊ったディスコダンス風に挨拶をされるのであった。
ブヨやカで腫れた足
それやこれやで2週間もスカラジャで過ごすと全員ブヨやカにさされた足が、凸凹に腫れ上がって来た。12月3日に、一人のメンバーは帰国のため、団長は換金のためにジャカルタに向かった。団長は大使館の医者に足を見せたとのこと「ひどいですねえ。」と言われて塗り薬を大きなビンに一杯貰って帰って来た。その後、仕事から帰ってくると薬の塗りあいである。それでもそのうち、皆足の付け根のリンパ腺が腫れて来た。
スカラジャ最後の晩
それやこれやで苦労したが、スカラジャでの仕事も終わり、最後の晩となった。我々は、集落の人を招いて、お礼の宴会を開いた。ここでも箒をマイクに見立てて大歌会であった。
スカラジャ最後の晩のパーティー
ムワラルピットへ
翌日荷物を片付けていると、人々はあれをくれ、これをくれと物乞いに来る。作業員達は、これから先も是非連れて行ってくれという。皆大変良く働いてくれたので、48才の年寄りのヌルを除いて、ディン、アミール、アルパンは連れて行くことにした。作業員達の給料の支払いは、最初タモリを通して払っていたが、タモリがいつも何割かをピンハネするので、最後は一人一人呼んで、我々から支払ってやると、大いに感謝された。
我々がここから向かったのは、さらに奥地のムラワクラムというカンポン(集落)である。ムワラルピットという町までジープで行き、それから先は道がないのでボートで川を遡るのである。ムワラルピットは、ルブクリンガウより少し小さな町だ。
ムワラルピットへ向かう
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.8
危うく遭難
カウンターパート(共同作業技術者)達
11月28日には日本人メンバーの二人が帰国するため、サガラ、フォージーが二人についてルブクリンガウに向かった。サガラは、帰国する二人の世話と共に、林業総局へ戻って仕事があるのだが、フォージーは、「私は、太っているから山へ入っても歩けない。皆が降りてくるまでルブクリンガウのホテルで待っている。」と言ってさっさと町へ降りてしまった。我々はあきれてものが言えなかった。まだ、35才くらいで働き盛りなのに。我々と共に森林を歩き、山を案内し、我々の技術を習得しなければならないカウンターパートなのに、我々が働いている間、町で寝ているというのだ。どちらかと言えば足手まといだったので、これ幸いという面もあった。後で考えると1ヵ月もの間ホテルで何をしていたのであろう?
一方、同じ職務にありながらサガラは良く働いた上に勉強も良くした。サガラは40才で、まもなく定年だと語っていたが、夜は統計の本で勉強しており、「これはどういう意味だ。」と質問されたりした。また、樹木の検索表を持って来て、樹木の分類の勉強もしていた。
この晩から雨が激しく降り続いた。
森林調査の途中、山中の民家で休む。
増水
11月29日は、前日の雨が残り、現場には行けず仕事はできず家で待機していた。マンディに行くと川の水位は一挙に2m以上も上がっていて、濁流が渦巻いている。
増水で水没した家
用を足すにも岸に生えている木にしがみついてしなければならなかった。午前中に資料を整理し、午後は仕事をどう進めていくか打合せをした。
遭難騒ぎ
11月30日になると川の水位はウソのように下がっていた。ここに落とし穴があり、我々は危うく遭難するところであった。
この日は全員で調査に向かった。奥地に入った所で、2パーティーに分かれて仕事をすることにした。それから1時間程歩いて早くも道を失った。しかし、航空写真を持っており、遠く、テンカル山というのを目安に黙々と進み、調査プロットに近づいた。途中ムササビなどを見つけるとディンは眼の色を変えて捕まえようとする。
焼畑で減少していく熱帯降雨林
水位が増す湿地林
調査プロットに向かって歩いているが、林内は水浸しである。標高の高い方へ進んでいるのに段々と水位が増してくる。水は膝より上まで上がってくる。ようやく目的地に着き、調査を始める。30m程も樹高がある木が林立している。水は腰まできた。水に浮いている訳の分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。気持ちが悪い。不気味な生物が、褐色で濁った水中から浮き上がってきそうだ。プロットを設定するだけでも相当な時間がかかる。
先頭でメートル縄を引っ張っている作業員の1人が「もう行けない。」と言う。それを私が「行け。行け。」と行かせる。彼は首まで水に浸かって泳いで行く。これは大変であった。仕事どころではなく、ここで引き返すべきであった。
どうにか仕事を終える
どうにか、ようやく仕事を終えて、焼畑に出る。そこで2パーティー全員が運良く落ち合うことができた。そこは、もう街道から10km 以上も奥地へ入った所で、よくこんな奥地に人が住んでいると思う程であった。一人の男がキコリをしながら住んでいた。その小屋で少し休ませてもらい帰路についたのが午後4時であった。
ここに、山に慣れてきた我々の誤算があった。4時にはもう家に戻っていなければならなかったのである。それでも2時間もあれば十分に下れると思っていた。しかし、ここへ来るのさえ、迷いながら来たのであるから同じ道は引き返せなかった。そのキコリに街道へ出る道を聞いて出発した。
林内で泳ぐ
だが前々夜の雨で、林内は次第に水かさが増して行った。とうとう我々は林内で泳がなければならなかった。我々は完全に道に迷ってしまった。荷物は全部頭の上にくくりつけて泳ぎながら行ったが、アルパンは弁当箱を水中に落としてしまった。するとディンが水中では全く何も見えない泥水の中に潜り、いとも簡単にそれを拾って来た。そしてディンはするすると木に登ると方向を確かめた。闇が迫って来始め、我々の心にくすぶっていた不安が、現実のものとなった。皆、口数が少なくなる。しばらく泳ぎながら進み、どうにか足が立たないところからは脱出した。
ノルマンのリーダーシップ
この時ノルマンは素晴らしいリーダーシップを発揮した。ディンにたいまつを持たせ、先頭を歩かせ、ディンの勘に運を任せ、自身は一番後ろから全員の安全を守りながら、隊が一団となり危険が無いように進ませる。たえず冗談を飛ばしながら、皆から不安感を取り除こうとする。
遂に真っ暗となるが、我々は依然として湿地林の中である。夜行性のトラやヘビが出たらどうするのだろうか。体も冷えてきた。
部落に着く
しかし、くたくたになって来たところで、ようやく湿地林を抜け出ることができた。遠くに部落の灯りが見えた。しかし、それからがまだまだ長かった。木の根につまずきながらようやく部落に辿り着いた。既に深夜0時に近かった。8時間も山の中をさ迷っていたのだ。
違う部落だった
しかし、そこはスカラジャではなく、パンカランといってスカラジャから4Kmも離れた部落だった。何はともあれ助かった。全員消耗しきっていた。
スカラジャへ
運転手がジープで迎えに来て、我々はスカラジャへ戻った。スカラジャの集落の人々は心配しており、山へ我々を捜しに入ったそうだ。我々が無事であったことを知ると村中総出で無事を祝ってくれた。会う人ごとに抱き合い、握手をするのであった。これほど人の暖かさを感じたことはなかった。そこで飲んだ熱いコーヒーの美味かったことは決して忘れない。ここで事故にでもあったらタモリのクビも飛んでいたことであろう。
増水中の川
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.7
生活や森林調査
生活
ここでの生活は郷に入っては郷に従えで、ここに住む人々と同じ様な生活をした。ここでは川が命綱である。川によりすべての汚物は流され、すべては清められるのである。
朝夕はマンディといって水浴で体を清める。熱帯とはいえ、川の水はかなり冷たい。上流で大便をしていようが、直ぐ下では、洗濯や炊事をしている。最初歯を磨いて、口をゆすぐのにためらいを感じたが、慣れたら、用を足しながら口をゆすげるようになったものである。まさに三尺下れば水清しである。
家の中に便所はない。大便はお尻をちょんと川の中へ浸けてするのであるが、私は川の水がちょろっとお尻に触ると出ているモノが引っこんでしまうのであった。それでどうしても水面から、少しお尻を浮かさなければならなかった。現地人はサロン(腰巻)といって円筒形の着物を腰で絞って、男も女もスカートのようにしてはいている。用を足す時は、サロンでうまく隠している。我々もサロンを買ってきて、同じようにスカートのようにしてはいていた。
夕方マンディに行くと、見物の的である。若い娘も対岸でキャーキャー言いながら我々をからかっている。子供達はすぐに集まって来る。見ぶり手ぶりで遊んでやるとすぐに打ち解ける。
川でのマンディ(水浴)
釣
私は持って来た渓流竿で早速釣りを始めた。餌はミミズとご飯つぶである。魚の姿は見えるが川は栄養たっぷりなせいか、全然あたりがこない。それより、やたらブヨが多く、かゆくてじっとしていられない。それで団長に変わってもらうと、団長が頑張り、ハヤのような形の20cmくらいの魚を釣った。
買い出し
食事の準備は、隣に住む集落長の家の者に頼んだ。食糧が足り無くなると、そこの奥さんと我々の誰か一人が付いて行き、町に買い出しに行くのである。
最初は5?6日は買い出しに行かなくとも、食糧が足りていたのだが、それが4日になり、3日になりというように、同じくらいの量を買ってくるのだが、足りなくなるのが段々と早くなるのである。
食事
ここでの一般的な食事は、ご飯に汁、それに唐辛子だ。それに買い出しに行った晩は、ヤギか鶏の肉が付き、野菜がこってりとある。しかし、2日目になると少しの野菜、3日目からは、ご飯と汁と唐辛子だけになる。
昼の弁当も買い出しの翌日は、あひるのゆで卵がつくが、その翌日からは、ご飯と唐辛子だけだ。
米は1回50kg~60kg買ってくるが、すぐになくなってしまう。我々の分だけを使うのではなく、近所の人達に分けてしまうのだ。
夕食後はコーヒーを飲みながらカウンターパート(インドネシア側共同作業技術者)や作業員達と歓談することが多かった。コーヒーも川からくんできたやや茶色く濁った水を沸かして使うのである。コーヒーの色でごまかしているのである。
もちろん新聞、テレビ、ラジオはない、情報は一切入らない。夜の明かりは石油ランプだ。
対面の家では、カセットレコーダーを持っていて、自分が持っているのを知らせたいのかボリュームを最大限に上げて朝から晩まで同じ曲をかけ続けていた。
ゴキブリとネズミ
家の中はゴキブリやネズミだらけだ。夜は、時には家の中にサルが入ってくることもある。ある日パイナップルを大量に買ってきて、食べた残りを台所へ吊るしておいた。その晩、また食べたくなって取りに行くと、確かパイナップルを吊るしておいた場所に大きな黒い塊がある。「おかしいな。」確かにパイナップルを吊るしたのにと、よくよく見るとゴキブリがパイナップル全体に何重にも取りついていたのだった。
そのまま朝までほったらかしておいたら、次はネズミにほとんど食べられてしまった。
雨のパターン
朝食後、7時頃から山へ入り午後3時頃に帰るのが日課である。ここはもう雨期が始まっていた。雨期と言っても日本の梅雨のように一日中弱い雨が降り続くということはない。スカラジャへ入った初期は、大体午後2時?3時頃から激しく降り始め、それが2時間くらい続く。後半になるとそのパターンが次第に崩れ出し、昼過ぎから降り出すようになり、なかなかやまず朝方まで降り続くことも多くなった。しかし、だいたい午前中は晴れているのが普通であった。
スコール
遠くに恐ろしく黒い雲が見えるとその下は激しい雨でスコールだ。森の中にいて、雨が葉に当たる音がバサバサと大音響で近づいてくるのは、空恐ろしく何とも言えない。そしてほとんどが雷を伴っている。
カッパなどは着ていても意味がない。だいたいカッパでよけきれるような雨ではないのである。雨音が近づき、辺り一帯耳をつんざくような葉音となると、一瞬のうちに濡れ鼠である。よっぽど早くカッパを着ていなければならないし、着ていれば、着ていたで、暑さで蒸れて中からビショビショである。
こういったスコールではなく、しとしと降る雨ならば、上層の葉が雨を受け止めてくれて、そんなに濡れることはない。
森林調査
調査は道なき道に入る。林内では、航空写真を肉眼立体視し、自分の位置を確認する。だいたい巨大木の位置が分かり易いので、それらを選ぶ。位置が確認できたら、そこを基準点にし、航空写真上には針を打ち、裏面にNo.を書き、記録する。そこから100m測量してラインを張る。そのラインの両側にある胸高直径40cm以上の大径木をデンドロメータという機械で、調査プロット(枠)の中に入るかどうかを確認し、枠内に入る木の樹種を同定し、胸高直径と樹高を測るのである。
森林内での測量
たった100m測量するだけでも、相当量の灌木を伐り払わなければならない。作業員達はパラン(ナタ)を持っている。我々が日本から持って来たナタよりも刃渡りは長く、いつも研いでいるので良く切れる。
だが、林内は思ったより空間がある。北海道のササが繁茂したエゾ・ドド林の方がはるかに歩くのが困難だ。しかし、やたらニッパヤシのトゲが靴底に突き刺さる。
案内人のディンとアルパンは靴を履いているのだが、ヌルとアミールは裸足だ。彼らの足はタコで固まって硬く、トゲのある木を踏んでも平気だ。
樹高はブルーメライスという機械で測るのだが、広葉樹は樹冠が丸く広がっているので、樹高が30m以上くらいになるとどこが先端か良く分からない。だから枝下高は正確に測れるのだが、総樹高は頂点の位置を定めるには場所を変えて何回も測り直し、平均値を取る。50m以上もある木になると、樹高を測るだけでも相当に時間がかかる。
50m以上の巨大木
胸高直径は直径巻尺というものを1.3mの高さ(胸高)の幹の回りに1周させて測るのだが、大木は板根を2m以上の高さまでも発達させているものが多く、その場合は板根の上を測るのだが、板根の上に乗らなければならず、測るのには苦労した。
樹種名は我々にはほとんどわからない。熱帯は本当に木の種類が多い。多様性に富んでいる。北海道のようにトドマツやエゾマツだけが、一面にはびこるということはなく、同じ樹種は少なく、多樹種が共存している。
ノルマンとアルパンは、まず幹の肌を見て同定する。それでも同定できないと、パランで板根の部分を少し削って内部の色と木の匂いやなめて味などで同定する。樹高が高く、葉が取れないものが多いので、葉では同定できない。我々も慣れてくると、特徴がはっきりしている木は、同定できるようになったが、樹種名はノルマンとアルパンに任せた。
森の中の人、動物
こうして調査をしていて驚くことは、どんな奥地にも、一人あるいは数人で山中に住んでいる人がいることである。11月27日には川沿いをスカラジャから10km 程上流に進んだ。途中何度も川を徒渉する。腰までたっぷり水に浸かり、たまには泳がなければならないから、いつでも下半身はグショグショで、靴の中もいつも水が入ったままである。
いろいろ珍しいムシが林内には居る。体長10cm程の大きなダンゴムシ、ケラ、クモ。時には猛毒と言われているグリーンスネークにも出っくわす。
グリーンスネーク (Dryophis prasinus)
始末が悪いのはアリだ。乾いた林内には、そこら中に大群がいる。体にくっついてはやたらに刺す。日本では見た事のないムシが多く、気味が悪く見えるものも多い。南米に住むホエザルとは違うのだろうが、遠く近くにサルが良く通る大きな声で呼びかわす声が「ホォッフ、ホォッフ」と聞こえる。
そんな奥地で、木を伐り出している3人の少年に出会った。2mくらいの長さの大きな鋸を使い、両側をそれぞれが持ち、2人で鋸を引いている。まだ、15?16才くらいであろう。この子らは2ヵ月くらい一カ所にこもり、掘立小屋を作り、製材してから木を運び出すと語っていた。
チュルミン山からサム山とスカラジャ方面を望む
その帰りには森林を焼畑で開き、陸稲を作り、バナナやパイナップルを食べて生活している一軒家で休ませてもらった。一軒家といっても高床式のニッパヤシをまぶした掘立小屋である。少年と少女3人が住んでおり、1人の少女が赤ん坊を抱いていた。少年とその少女は夫婦であると言う。少年は18才、少女は15才とのことだった。帰国後、この時の8mmで撮影した映像をある中学生に見せたら「勉強も無くて、清々した生活をしていてうらやましい。でもあんなに早く結婚するのはいやだ。」という感想があった。ここでパイナップルやパパイヤをたらふくごちそうになり、スカラジャへ戻った。
調査後の休憩
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.6
熱帯多雨林と調査体制の確立
熱帯多雨林
1978年11月24日初めて熱帯のジャングルに入った。夢にまでみたジャングル。正しく言えば熱帯多雨林だ。
ノルマンの担当区なので、手前知ったる彼は、どんどんと進んでいく。早い。皆付いて行くのがやっとだ。セミが「ピージー。ピージー。」と陰気な声で鳴いている。道と言っても人が一人通れるくらいの山道だ。下はぬかるんでいてまるで、田圃の中を歩いているようだ。見上げると20m?30mくらい樹高がある木が天空を隠している。時々50mくらいの樹高がある巨大木もある。ビックリだ。
日本でなら、山道を歩くのに航空写真を追って行けば、自分のいる位置はすぐに分かるのだが、今日は歩くのが早いせいもあり、航空写真を見る暇がないことと見晴らしが利かないので、容易に自分の位置がつかめない。
私は、この日は風邪気味で、下痢をしており、付いて行くのが精一杯であった。それでも熱帯多雨林の状況はつかめた。この日午後からは激しい雨となった。
熱帯多雨林の遠景
ココナツ
帰り道、道路際で運転手のヒダヤがココナツを買ってくれた。下痢で飲む気はしなかったが、せっかくなので飲むと、サイダーに似た味で、とてもうまかった。
下痢
日本でなら正露丸を少し飲めばほとんどの下痢は、簡単に治るのだが、ここではかなりの量の正露丸を飲んでも効かなかった。仕方がないので、もっと強力な下痢止めを飲んだらようやく治った。その後は、私はひどい下痢にはならなかった。この時の下痢は細菌性の下痢ではなく、水が変わったためになったのであろう。
流れる血
その日、森林調査が終わってルブクリンガウのホテルに帰るとズボンの左脛が血で赤く染まっている。めくると真っ赤な血がドロドロと流れている。「なんだ。こりゃあ。大怪我をしたのかな?まずいぞ。」ズボンを脱いでまた驚いた。パンツが真っ赤である。「アレー。大変だ。一体どうしたというのか?」大事な物も大丈夫かと思い下半身を入念に点検すると、股の付け根にヒルが取りついている。ホッとしてヒルをそっと引っ張って取る。しかし、後に傷を残さないためにはタバコの火をあてるのが良く、ヒルがころりと落ちるのである。私はタバコを吸わないため引っ張って取った。
ヒルは一旦山に入れば、片足10匹くらいは取りつく。スカラジャで雇った作業員達は平気で血を流していて、我々もすぐに慣れた。
また、ある時森林調査をしている時に、後ろ首に汗が流れるので手でぬぐった。すると感触がヌルッとしている。手の平を見ると真っ赤である。ヒルが首すじに取り付き血を吸っていたのだ。
スカラジャの集落
およその森林の状態もつかめ、11月25日はいよいよ本格調査の拠点となるスカラジャの集落へ向かった。スカラジャとは「スカは好き、ラジャは王という意味で、王に近づきたいという気持ちで付けられたのだろう。」とサガラは言う。
現在の調査隊は、サドリがパレンバンに帰り、ルブクリンガウからタモリとノルマンが加わったので、全員で15名だ。スカラジャまでルブクリンガウから約60kmの道程をジープ3台に分乗して約3時間であった。
スカラジャは11月25日から12月14日まで約3週間滞在した。スカラジャには約50軒の家が固まってあり、人口は約200?300人の集落である。
スカラジャにて。使っていたジープの前で
スカラジャでの最初の仕事
スカラジャでの我々の最初の仕事は、生活基盤の確保と調査体制の確立であった。我々の住む民家を借りる交渉をタモリと共に行った。
借りた家は、ここの集落長の隣の家で、この辺りではかなり大きな家を借りることができた。集落長といっても私と同じまだ28才の青年である。彼は、我々の面倒を見るというよりもいかに金を儲けるかに頭があった。
タモリのピンハネ
我々のいる間、この家の住民は、近所の親類の家に行っているという。我々は随分悪いことをしたと思ったが、この辺りではこのようなことは普通に行われているようで、何しろ物は持っていないので、住民も他人の家に移り住んでも大して困らないのだ。実際は、現金収入が少ないので、家を貸すということはかなりの収入になり、どちらかというと貸したがった家がかなりあった。
家賃は1日1万ルピア(約2,000円)で話がまとまった。少々高いようであるが、大部分がタモリにかすめとられ、また集落長にもかすめとられ、家主に渡ったのはこのうちわずかであったようだ。
借家
この家は、この辺りでは一般的な高床式である。気温が高く、湿気が高いからである。半地下の下階と上階に分かれていて、普段下階は、倉庫として使っているが、板塀で囲ってあり、3部屋くらいある。上階は30畳くらいの大部屋と6畳くらいの小部屋が2つと台所がある。
借家
借家の内部
集落の人々
我々が荷物を運びこんでいると、集落中の人々が集まってきてジーと見つめている。これは日本でも引っ越して来たりすると何者だろうかと探っているのと同じである。
こんなに小さい集落に、外国人が住んだなどということは未だかつてなかったのであろうと思っていた。しかし、戦争中に日本軍が入り込んでいたのであろう。ここの人々と交流するうちに、「見よ、東海の空明けて、・・・」と我々を歓迎する意味で日本語で軍歌を歌い出す老人がいたのだ。あるいは日本軍のために働いたか?
部屋割
さて、我々日本からの一行7名とサガラ、ジョコが上の部屋を使い、下に運転手のヒダヤ、ナナ、ローカニ、それにノルマン、タモリ、フォージーとが入った。
雇用
次は炊事と洗濯等、家事一切の世話を焼く人を捜すことと道案内の作業員を雇うことであった。これは簡単に見つかった。隣の集落長の家で一切の家事を引き受けてくれた。というよりも向こうから家事をやらせてくれと頼んできた。
しかし、法外な金額を要求してきたので、食糧は我々が仕入れる、洗濯はシャツ一枚につき50ルピア(約10円)というように細かく値段を決めた。
この辺りの人々は現金収入が少ないので、多くの人々が作業員として雇ってくれと集まった。しかし、我々は1パーティーで2人ずつ、2パーティーで、計4人の案内人がいれば十分であった。一人は、集落長の叔父のヌルがどうしても雇ってくれと頑張るので、住民の力関係なども考慮して雇うことにした。ヌルは48才で、我がチームの団長のIさんと同年齢であるが、白髪が多くIさんよりもずっと老けて見えた。残り3人は強そうで良く働きそうな者を選んだ。ディン27才、やせて
はいるが、口髭が長く、精悍に見える。アミール24才、背丈は普通だが、筋肉質で強そう。アルパン30才、樹木の名前をほとんど知っていて、人が良さそう。こうしてひととおりの生活条件と調査体制が整った。
焼畑で減少していく熱帯多雨林
続く
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.5
ラハットにて
ラハットでは、陸軍の宿泊施設に泊まった。ヤモリが沢山いて、「キュ、キュ」と鳴いている。ここのコーヒーはうまかった。インドネシア語の達人のメンバーが「コピーマシアダカ?(コーヒーはまだあるか?)」と尋ねた。これは日本語とほとんど同じで簡単なフレーズだからすぐに覚えた。次から私もコーヒーの有る無しにかかわらず、「コピーマシアダカ?」と尋ねることにした。すると何らかの会話に発展するのである。そしてインドネシア側のカウンターパート(共同作業技術者)が言うインドネシア語をノートに書きとり、意味を辞書で調べたり聞いたりし、そのフレーズを同じ場面で言ってみる。上達するのが自分でもわかるようだった。若くてエネルギーがあったからできたことで、年齢を重ねるに連れてそうはいかなくなったが、まことに外国語の習得は、まずは人のオウム返しからである。
宿泊した施設
ルブクリンガウへ
11月22日は、ラハット郡庁に挨拶。役所の長の部屋には必ずスハルト大統領とアダムマリク副大統領の大きな肖像画が掛けてあった。挨拶後、ルブクリンガウへ向かった。
途中で出会った人々
途中で出会った子供達
ルブクリンガウまでは、154Kmである。道は悪くてもの凄い埃が舞い上がる。髪は、ポマードを塗りたくり、スプレーで固定したようになった。途中、滝のようなスコールにも出会い、ようやくルブクリンガウに着いた。ここはこの辺りの最後の町らしき町である。
途中で見た田植え風景
鉄道も通っていた
人口は数万人と言ったところか。相当に田舎に来たという感じだ。日本では今では都会も田舎も生活水準にそれほど大きな差は無くなったが、ここでは月とスッポンである。
まず、一般の家庭には電気は来ておらず、ランプを使っている。町にも、ちゃんとした下水がなく、家庭排水が自然の側溝となって流れているようなところは実に不潔である。
通りにはベチャと呼ばれる人力三輪車が数多く走っている。ヤギに荷物を引かせた人も通る。私には物珍しく、いくら見ていても見飽きない。
1978年当時のルブクリンガウの町
ここでは、リンタンスマトラというホテルに泊まった。最近建てられたらしく、真新しい。電気も有るし、なかなか住み心地は良かった。夕食は外に食べに行くが、連日のパダン料理で、ほとんどのメンバーが食欲を失っている。すべてのものが、唐辛子で味付けられていて強烈に辛く、油はヤシ油で匂いが非常にきつい。米はパサパサで、日本のどんな不味い米よりも不味いと感じる。私はどちらかといえば辛党なので、ヤシ油の匂いには閉口したが、美味い美味いと言って食べていた。
病院
11月23日。今日からいよいよ予備調査だ。ここから更に奥地のスカラジャというカンポン(部落)に入るまでの2日間だ。メンバーの一人が、ジンマシンが出たと言って、病院へ行った。「お尻に注射を打たれた。」と言って帰って来た。この辺りの病院ははたして清潔で、腕は確かなのであろうか?
C/P(インドネシア側共同作業技術者)
ルブクリンガウからは、ここの郡庁の役人タモリンと森林官のノルマンが同行した。タモリンとは愉快な名だ。我々はタモリ、タモリと呼んだ。しかし、我々はまたしてもこの下っ端の小役人にしょっちゅう腹を立たされるはめになったのだった。
航空写真の判読誤り
さて、いよいよ森林へ向かった。もちろん、周囲は、ほとんど森林である。日本での準備期間に予備判読しておいた航空写真を持ち、まずは入り易すそうな森林に向かった。しかし、行ってみるとそこはゴムのプランテーションであった。最初から判読間違いである。しかし、ゴム園の映り方のパターンは分かった。
ゴム園
ゴムを採取するには、ゴムの幹にラセン状に溝を掘り、上から流れ出してくる白い樹液を下の皿で受け止め溜めるのである。物資が無いのであろう、その受け皿の多くは、木の葉を巻いて作ったものである。これでは流れ出てしまう分も相当に多い。
とにかく、我々の調査は天然林であるから、航空写真上では、ゴム園のパターンは除かなければならなかった。
ゴムの木の幹への溝掘り
続く
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.4
パレンバンからラハットへ
パレンバン到着
さあ、いよいよスマトラだ。ジャカルタに到着したのは夜だったから上空からの景色は、見えなかったが、今大きく眼下にスマトラ島が広がっている。大きな河が蛇行を繰り返し、流れている。ムシ河の河口だろう。緑一色だ。河口では茶色の水が相当遠くまで海を汚している。
パレンバンの空港には、団長が迎えに来てくれた。パレンバンではここでの最高級ホテルサンジャヤに泊まった。ホテルまでの道の両側にはココナツをつけたヤシの木が、沢山植わっている。
団長が、「増井君、ここはもう水だよ。」と言う。何のことかと思っていると、ホテルのバスルームに入ると紙がないのである。「ははーん。そうか。」ここでは、早くも水と左手である。そして、シャワーもお湯もでない。一体最高級とは?
ホテルサンジャヤにて。ラハットへ出発時。
ラハットへ出発
翌日の11月21日、パレンバンからラハットに向かう。ホテルの前で荷物をジープに積み込んでいると、どこからともなく子供達が集まってくる。
「アパナマニャ?(名前はなんていうの?)」と聞いてみる。5才くらいの子供が一丁前にタバコを吹かしている。それが板についている。指輪をしている子供に「アパイニ?(これは何?)」と尋ねると「イニチンチン(これは指輪だ)」と答える。チンチンは日本ではここだよと指さすと、キャーキャー騒いで笑っている。この子等は、半ズボンにビーチサンダル、有り合わせの着物だ。
パレンバンからの同行者
パレンバンからは、ここの営林局の部長のSad氏、C/PのJyo氏、運転手のローカニが加わった。ボゴールの林業総局からC/PのSag氏とFo氏、ジープの運転手のヒダヤとナナを入れると総勢14名の大部隊となった。ラハットまでの192Kmをジープは簡易舗装の道を進んだ。
途中で見えた景色。先端が槍のように尖った山
同上。近景
道路際の家で裁縫の商売をしている人。ミシンで裁縫をしているのは男性が多かった
途中の標識
途中からジャリ道に変わり、揺れが一段と激しくなった。ところどころぬかるんだ悪路にも苦労した。
パレンバンからラハットへ。途中ぬかるんだ悪路
横転しているトラックもあった
C/PのFo氏とSag氏
Fo氏はインドネシア人には珍しく、太って下腹が突き出ていて大柄である。横柄で、顔つきはいかにも怠け者といった小役人と見てとれた。これでも技官なのかと疑いたくなる体形である。
全員がある程度の距離を走った後に、ジープの席を前後に入れ替わるのに、この男は一番座り心地の良い助手席にデンと構えて決して動こうとはしない。
一方、Sag氏は非常に良く気が付く男である。悪い発音の英語でひっきりなしに良くしゃべる。「あそこに見える草原はラダンと言って、焼畑の結果、草原になったのだ。昔は森林だったのだ。」あるいは「あの牛は、セブウシだ。」とか、言わなくとも、だいたい分る周りの風景でも一々説明してくれる。しかし、わからないこともあり、いろいろ説明してくれるのは、退屈しのぎにもなり、ありがたかった。
ドリアン
途中、道端で果物を売っている露店が沢山ある。Sad氏がドリアンを買いに行った。ドリアンはキングオブフルーツである。私は、これを食べるのを大いに楽しみにしていた。ところがSad氏が買って戻ってくると、ジープ一台の後ろの荷台のスペース分どっさりとドリアンだ。ここにも2人が座っていたのだ。このおかげで、前の座席を詰めて座らなければなくなり、一人分のスペースが益々狭くなった。インドネシア人は一体に適度といったことや車のスペースというものを知っているのだろうか。
露店で売っているドリアン
ドリアンは強烈な匂いがする。「最初は、臭くて食べにくいが、食べる程、中毒的に美味くなる。」というのがSag氏の説明である。最初は臭くて私は期待はずれであったが、なるほど食べる程に美味くなり、やめられなくなるのを感じた。同僚のI氏などは、最初から「美味い。美味い。」と言って食べている。皆もの凄い量を食べるので、ジープ一杯買って来たのも頷ける。数日してドリアンが減って来ると、Sag氏は、「このドリアンは熟れ過ぎたようで、不味くなって来た。増井は食べない方が良いよ。」と言うのだ。と言いつつ「お前が食べないから、不味いドリアンを俺が食べてやる。」と言って相変わらずドリアンを食べるのである。なかなか面白い男だ。
パレンバンから出発したこの日は、悪路に悪戦苦闘の上、宿泊予定地ラハトに着いた。
バリサン山脈最高峰のデンポ火山(3,173m)と思われる
バリサン山脈
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.3
スマトラへの出発前のひと悶着
林業総局にて
到着の翌日11月15日はボゴールにある林業総局へ最初の挨拶(表敬)に行った。ここでの会議はすんなりとはいかなかった。話し合いは、まず英語で始まった。インドネシア側はほとんどが欧米留学の経験がありそうで、英語は上手そうだった。インドネシア側は、最初から「今回の協力事業の継続として、日本人技術者を3年くらい派遣して、指導を続けて欲しい。」と言って来た。今思えばだめもとで、何でも要求してやれという態度だったのであるが、まだ調査も始めてもない段階なのに、その後の継続の話である。
しかし、インドネシア側にしても英語では細かい話はしにくいのであろう。話が込み合ってくると林業総局次長がインドネシア語でしゃべりだした。そこで、こちらもインドネシア語が得意なメンバーがインドネシア語で応対することにした。すると私には何を話しているのか、話しの内容がさっぱりわからなくなった。ときどき通訳してくれる内容を聞いているだけだった。
とにかく、今回は予定通り仕事をし、今後引き続き技術者を派遣するかどうかは検討するということで話はまとまった。そして、今回の仕事の段取り、誰がインドネシア側のカウンターパート(C/P、共同作業技術者)として同行するかなどもまとまり、さあ明日はいよいよスマトラに出発となった。
ボゴールの林業総局前にて
出発前のひと悶着
いざ、出発だ。ということになって、ひと悶着である。スマトラ島での通行許可書がおりていないというのだ。言ってみれば昔の通行手形だ。我々が来ると分かっていながらインドネシア側がさぼっていたのだ。そんなものすぐに取れるだろうと高をくくっていると、5日後の11月20日までかかるという。どうも信じがたいが、いくら言っても埒が明かない。どこの国でも役所の事務手続きは遅いらしいが、この国は更に特別であるらしい。
仕方がないので急遽予定を変更し、私一人がジャカルタに残り、通行許可書を取った後、スマトラのパレンバンで落ち合うこととした。私なら役所の人間とは英語で通じるし、一人で残しておいても適当にできると判断された。
他のメンバーは、空路で先に行く者が、パレンバンの営林局で打合せ、様々な手配をし、残りが陸路ジープで行くこととした。
ジャカルタ市内(1978年)
大騒動の換金
そんなトラブルで、その日に換金する予定が、できなかった。しかし、何が幸いするかわからない。その11月15日にルピアのレートが一挙に1.5倍にも引き下げられたのである。1ドル400ルピアだったものが、600ルピアになった。まったくインドネシア政府は、恐ろしいことをするものだ。円だって、今は円高だとは言え、1ドル360円が200円近くになるのに何年もかかったではないか。それとは逆であり、性質は違うが、こんな無茶をすると政情不安になるのではないかと思った。しかし、我々にとっては全く幸運にも損をしなくてよかった。1.5倍も儲かったような気分になった。
ところが、ホテルの売店では、直ちに正札を1.5倍に書き換えていた。
16日に銀行に行くと、大騒ぎで、全く換金停止である、団長が東京銀行支店で掛け合って、ようやく1,000ドルだけ換金できた。全くまいった。後は、パレンバンで換金しようということにして現地に赴くこととした。しかし、パレンバンの銀行はずっと取引停止で、調査中に団長がわざわざジャカルタまで換金に引き返さなければならなかった。なんともトラブルが多く、これから先が思いやられる思いであった。
一人ジャカルタに残る
さて、11月17日に皆がパレンバンに出発してしまうと私一人が残された。最初は、インドネシア語は、全く通じないので困ったが、いろいろ冒険できて面白かった。「スラマトパギー(おはようございます。)」とボーイに挨拶されるが、「スラマトパギー」とすぐには出てこない。しかし、それも一日だけで、すぐに慣れた。
食事も最初はホテルで全く言葉が通じなくてまいったが、身振り手振りで悪戦苦闘の上、「イニ、イニ(これ、これ)」と指差すだけで十分に分かってもらえることが分かった。あとは、「テレマカシー(ありがとう)」だけで通じてしまう。
それからジャカルタの町を沢山散歩できたのは物珍しく面白かった。しかし、治安や迷子になることに気をつけて、常に大通りだけを歩いた。店屋でシャツを買ったり、絵葉書を買って日本へ出したりした。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省へ
20日になり、農業省へ通行許可書を取りに行った。タクシーはぼられると聞いていたが、どうということはなかった。それよりインドネシア語を試してみた。「バガイマナ?(どうだい?)、ハリイニパナス(今日は暑いねえ)」と言うと、運ちゃんは後ろを向いて「ヤーヤー、パナススカリ(暑すぎる)」と言った。実はそれだけが聞き取れた言葉である。後は、運ちゃんが一人でひっきりなしにしゃべっている。適当に相槌を打っていると、時々後ろを振り返りながら、猛スピードで飛ばして行くものだから恐ろしかった。タクシーはほとんどがトヨタと日産のお古だ。バスやトラックは、シボレーのお古だ。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省でのひと悶着
午前9時に農業省に行き、担当者にまず挨拶。ここで、この小賢しい小役人に随分と迷惑を蒙らされた。
この日こそは、すぐに許可書を渡してくれると思っていたが、局長クラスの人に挨拶した後、1時間以上も待たされた。あげくのはてに、「今日は、できない。明日来てくれ。」という。冗談じゃあない。一体何日待たされているというのだ。そして、この日の午後5時のパレンバン行きの航空券に変更してあるのだ。3時までにどうしてもホテルに戻らなければならない。
英語で事情を説明するが、どうも許可書はでそうもない。JICAの担当者に電話するが、いない。再び電話をするが繋がらない。その後は、何度電話しても繋がらない。回線が少ないのだ。仕方がないので、「もう行かなければならない。もし、今日出ないなら明日また来る。」と担当者に言ってから事務所を出ようとした。すると「ちょっと待て。」という。彼は、自室に戻ると「今できた。」と書類を持って来た。
何ということはない。書類はもうとっくに、エライさんのサインはしてあったのだ。彼らは要するに袖の下を要求していたのだ。ところが、私にはそれが通じないものだから諦めて、ようやく出したのだ。まともに交渉するとこういうことになる。
彼にして見れば、「何て頭の悪い奴なのだ、いくらか掴ませてくれればすぐに渡せるのに何時間待たせてもわからない奴だ。」ということだったのだ。言ってみればチップのようなものだが、習慣として、世の中を動かすには、あらゆる事柄に袖の下が必要だったのだ。しかし、袖の下で物事が動くと知っていたとしても、当時の私の性格からして袖の下は許せず、使えなかっただろうと思う。
後で考えると最初に打ち合わせたときに、通行許可書ができていないのもおかしい。こんな簡単なものはすぐに作れるはずである。どこかで誰かが袖の下を出す必要があったのであろう。そうすれば、今日も5時間も無駄に過ごすことはなかった。腹立つこと甚だしかったが、ともかく通行許可書は取れたのでホッとした。
けちな小役人根性にだいぶ暇を取らされたが、その日のうちにようやくパレンバンに飛ぶことができた。
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.2
出発から到着まで
空港での第一印象
ジャカルタに到着。空港のビルの内部に入ると、一種独特のタバコの匂いが鼻についた。グダンガラム(インドネシアのタバコ)である。それにすえたような熱帯のフルーツの匂いが混じりあったインドネシア独特の匂い。湿っぽい空気、それでいて日本の梅雨とは違う。ここは確実に日本ではないと、全身が感じていた。
出発前準備
ここジャカルタに着くまで、なんともせわしなかった。インドネシアには、スマトラ島のムシ河上流域の調査地域に、どれだけの森林資源量があるかを調査し、流域の管理計画を作成する仕事の1人のメンバーとして行くこととなった。
私にとっては初めての海外だ。観光旅行では絶対に行くことがない、熱帯多雨林を調査するのだ。ハリマオ(トラ)も生息する地域をライフジャケットなども着て、ボートで遡ったりして調査するのだ。ワクワクし、胸はずむ思いであった。
メンバーに選ばれてから出発まで準備期間はわずか2ヵ月であった。あわててインドネシア語の参考書を買い、往復の電車の中で勉強した。職場ではその時抱えていた仕事を片付けるとともにインドネシアでの調査方法などを頭にいれるのに大忙しであった。
出発
出発前日の1978年11月13日は朝から雨が降っていた。出発が午前中であったのと私は新婚だったので、妻と成田に宿泊した。相当に興奮していたのか、雨に打たれたかのせいで、頭に電気がかかっているようでボッーとし、あまり頭が働かない感じであった。成田空港は開港したてで、警戒が物々しかった。既に、身重になっていた妻が出発まで見送ってくれた。
機内
航空会社はキャセイパシフィックで、香港、シンガポールと途中立ち寄り、ジャカルタに向かった。機内で隣の席だった団長は、もともとおしゃべり(失礼)ではあるのだが、興奮もしているせいか、ひっきりなしにしゃべっていて、あらゆることを講釈してくれた。その講釈が面白く、ずっと笑いころげていた。
当時の搭乗券 カードにタイプされたものだった
途中経由した香港の旧空港。2時間ほど待機していた。
ジャカルタ着
深夜11時過ぎにジャカルタ空港に到着した。インドネシアでは役人の権力が、想像以上に強そうだ。税関の通過時に出迎えた方が、検査官に何やら話して便宜を図ってくれている。するとそこのボスらしき人が出てきて、我々のトランクの一つを開けさせ、一瞥し、「オーケー」と叫ぶと、その後全員フリーパスとなった。当時パスポートがオフィシャルで緑色だったということもあろうが、赤色のパスポートの民間人はしつこく調べられていた。
当時商社からインドネシアに派遣されていた友人は、「少し掴ませれば、税関はすぐに通してくれるよ。」と言っていたが、早くも退廃した部分を見たような気がした。
空港を出て
手続きを終わり、空港の外に出たとたん、ポーター達がドッと集まり、人の荷物をどんどん勝手に運んで行こうとする。そして金をくれと手を差し出す。慣れていないせいもあり、また、荷物を持っていかれないようにしっかりと荷物から手を離さず、相当に緊張していた。
ホテル
ジャカルタでは、当時JALと提携していたプレジテントホテルに向かう。夜の闇で周りの景色ははっきりとは見えないが、相当に緑が多そうだ。
1978年当時のジャカルタ。プレジデントホテルから
仕事にせよ観光にせよ、何しろ始めての海外旅行である。見るもの聴くもの何でも珍しい思いがして興奮していたが、夜中であったがホテルに入ってようやく緊張感も取れて来て、明日からの仕事が楽しみであった。 続く。
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.1
インドネシア国ムシ河上流地域森林調査紀行概要
湿地林の恐怖
調査プロットに向かって歩いているが、林内は水浸しである。標高の高い方へ進んでいるのに段々と水位が増してくる。水は膝より上まで上がってくる。ようやく目的地に着き、調査を始める。30m程も樹高がある木が林立している。水は腰まできた。水に浮いている訳の分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。不気味な生物が水中から浮き上がってきそうだ。プロットを設定するだけでも相当な時間がかかる。
先頭でけん縄を引っ張っている作業員の1人が「もう行けない。」と言う。それを私が「行け。行け。」と行かせる。彼は首まで水に浸かって泳いで行く。これは大変であった。仕事どころではなく、ここで引き返すべきであった。
はじめに
インドネシアは、私が最初に行った外国である。1978年のことで、年が明け2014年となった今から36年前のことである。私も若く、最初の海外の仕事ということで、この時の経験は強烈に焼き付いている。仕事はインドネシアのスマトラ島のムシ河上流域での森林資源調査であった。まだ、多くの原生林が残っており、測樹した樹木の中で最も樹高が高いものは70mもあり、樹高が50mを越える大木が林立し、まさに圧巻であった。
インドネシア国地図 調査地域
スマトラ島パレンバン、ラハト、ルブクリンガウ、
ムワラルピット、スルラングン周辺地図(移動ルート)
我々が調査したそのような原生林も10数年後に調査したチームによれば、ほとんどの森林が伐採されてしまったとのことである。また、我々が滞在した農村地域にも舗装された幹線道路が通り、開発が進み当時の面影はないという。その後20年程度も経っているので、現在はどのような状態に変化しているか、できれば見てみたいものである。
さて、我々はその地域の森林を守るべく森林管理計画を作成したのであるが、それが伐採されてしまったということで、結果的に調査は、意味が無かったかも知れない。当時は、コンセッションというシステムがあり、(今でもあるが)これが森林を保全するどころか、森林の開発を進めたのではないかと思われる。コンセッションとは、政府が木材会社などへ樹木の伐採権を売り与え政府が利益を得て、木材会社は樹木を伐採し売った代金で利益を得るというシステムである。これが大規模な森林破壊の元凶であることは間違いない。はっきりとはわからないが、それらの利益は各階層の役人達の懐へ消えてしまっただろう。インドネシアの役人達がクリーンであれば、調査結果を利用して森林を保護し、森林破壊のスピードはもっと遅かったかもしれない。
調査地域の森林、多くの焼畑地が見られる
世界のどの地域でも共通であるが、守るべき森林は、政府の強烈な保護政策がなければ守るのは難しい。森林が再生可能といってもインドネシアのような熱帯の太陽が強烈な国では、一旦森林が伐採されてしまえば、元の天然林に再生させるのは途方もない年月が必要である。生態系の条件から現世においては不可能に近いくらい難しい。
結局、利益を求め、現世の自分の利益だけしか考えない人間に、元はと言えば誰の所有物でも無い自然資源はいとも簡単に食い物となってしまうのだ。
それはともかく、インドネシアの林業局の技術者との共同作業や、地元に住む人々との人的交流などを通した異文化交流では何らかの貢献をできたのではないかと思っている。当時は日本も森林・林業面の技術的な国際協力を始めた直後で、調査や計画作りの経験もほとんどなかった。そのため、オールジャパンで仕事をして行こうという意識を強く感じた。そしてインドネシア側の言い分も良く聞き、そういった面から、より相手国が望むような仕事ができたのではないかと思う。
当時、私はまだ調査団の一団員で、若く積極的にインドネシア側技術者とも地元民との交流もできた。その経験について年月を経たが、紀行文としてこのホームページに掲載することとした。
インドネシアに行った期間
1978年11月13日?1979年1月11日の60日間(2ヵ月)
この紀行文の概要
おそらく、多くの方は、熱帯のジャングルなどへは、足を踏み入れたことがないだろう。森林調査で入ったものだが、調査というよりはむしろ探検的要素が強かった。困難であればあるほど楽しさも大きい。そのような調査であった。
ジャカルタからスマトラ島に渡り、徐々に奥地に入って行った。奥地に入るほどに素朴な人間。圧倒的な自然。だが、そこには大きな落とし穴も待っていた。湿地林での遭難騒ぎ、あるいは栄養不足と疲労から水虫のようなものに取りつかれ化膿して行く足。
そこで出会った人と自然は、現代の喧騒に生きる私には、遠く忘れていたものを取り戻すような思いであった。自然への回帰という意味では理想郷の様だった。
奥地の部落の人々との交流では、人の心の暖かさを味わった。本来的に人が持っている心の暖かさは、国や地域が変わっても同じだと思わされた。最も奥地の人々は完全に自給自足の生活である。粗末な掘立小屋に住み、夜は野獣の脅威や孤独と戦いながら生きなければならない人達だったのである。
一方、都会での生活や役所との対応は、うんざりさせられるものがあった。当時はそのような社会であったのだろうが、役人達は人から金をせびることばかりに頭があった。
このような私の体験であるが、非常に珍しい体験だったので、仕事で作成した技術的・研究的な報告書以外の文化面や生活面などを紀行文風に記述した。続きをお楽しみに。