森林紀行travel

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.8

森林紀行

マングローブ林調査(リゾフォーラ)

マングローブの文献を調査

 この地域にはマングローブは6種類あり,そのうち主要なものは,リゾフォーラとアヴィセニアという2種類だった。

 村での様々な活動計画を作成する前には,マングローブ林の現状を把握していなければならない。それには当然,マングローブ林の面積や資源量を把握する必要がある。

 アヴィセニアについては前に書いたように,資料も少なく,試験植林をして植林方法を確立することにしていた。一方,マングローブ林の大半を占めるリゾフォーラについては,分布面積や資源量は既に調べられているのではないかと思い,まずは文献を集めた。

 セネガル国内の森林局や大学,UICN(英語でIUCN:世界自然保護連合)などを調査してみるとどの機関でもマングローブ林の分布や面積を示した資料はあるが,材積を示す,つまり資源量を示す資料はどこにも見つからなかった。

 

 

ダカール大学を訪問

 調査では,マングローブ林の社会経済的な価値も算出することにしていた。つまり,マングローブ林の木材としての価値や海岸浸食を防止したり,水産資源をかん養したり,生態系を保護したり,二酸化炭素を吸収するといった目に見えない環境保全の価値を貨幣換算して算出することにしていた。

 そのため,資源量の資料なども含めて,環境の価値について,どのような考えを持っているかダカール大学の環境保護専門の教授を訪ねて意見交換をした。

 

 

教授に馬鹿にされ笑われる

 最初にマングローブ林の資源量のデータを尋ねたが,それらのデータはないということが分った。次に,マングローブ林が環境を保護している価値を貨幣換算する研究をしているか,あるいはその様な資料があるかを訪ねたところ,「何?環境の価値を貨幣換算?一体全体目に見えないものを推定できるわけはないだろう。」と一笑に付され,馬鹿にされてしまった。

 当時,日本では林野庁では既に森林の持つ水源かん養機能や土砂流出防止機能などを貨幣換算し,推定していた。

 この時のダカール大学の教授から受けた印象は,古いタイプの研究者ではないかということだった。つまり,象牙の塔に閉じこもり,自分の権威だけで生きているような人ではないのかなということだった。環境分野を専門とするなら当然フィールドにでて,調査をするものだが,どうもそのような印象は受けなかった。おそらく文献だけで,研究しているのだろう。それに自分が知らないことは,できないと片づけてしまえばそれでその先には進まない。

 

 

教授に落胆

 まあ,ダカール大学の教授に対してはひどく落胆した思いを思い出す。環境の価値だって貨幣換算ができるし,今はそのためのいろいろな方法が開発されている。そもそも森林では,そこに立っている木の材木の価値は,市場からいくらというはっきりとした価値が換算できる。しかし,立っている木が土壌を守ったり,水や空気を浄化する価値をいくらであると貨幣換算するのは,市場価値がないので換算するのは難しいが,大きな価値があるのである。

 例えば土壌を保護するのに治山ダムや砂防ダムの建設費に置き換えて推定もできるだろう。水なら水道料金に置き換えて推定できるかもしれない。マングローブ林の海岸浸食防止機能なら防潮堤を作ったとしたらいくらかかると置き換えることもできるであろう。実際には別な方法で換算したのであるが。

 ともかく,森林の環境を保護する価値などはすぐにはわからないから,その価値はただだと思われて開発されてしまうのである。これがいくらであると金銭価値で分ればもっと保護されるだろう。

 それはそれとして,マングローブ林の防潮効果,海岸浸食を防止する役目,魚介類を増やし,鳥を増やし,生態系を維持するのにどれだけ貢献しているか,本当に巨大な価値を持っているのである。

 ダカール大学の教授と話していて,偉そうにふるまっているだけで,何も知らないのではないかと当時,怒りがこみあげてくるのを感じていた。

 

 

マングローブ林を調査する

 資源量を示した文献はないことが分った。それじゃあ,自分で調べるしかない。限られた時間の中で,それを能率的に推定できる方法を考え,チーム(日本人調査団員とセネガル森林局職員)で協力し,調査することにした。

 

 

専用のボートが手に入る

 ちょうどその頃,最初の予備調査が終わった2002年の6月頃ではあるが,我々調査団専用のボートが手に入った。グラスファイバー製で長さ7mである。エンジンは40馬力の船外機である。エンジンは走るときのみ付け,係留時には取り外し,倉庫にしまっておくのである。これが調査におおいに威力を発揮した。

 

 

専用のグラスファイバー製ボート.jpg

 

専用のグラスファイバー製ボート。7m

 

 

出発前の心配は杞憂

 日本を出発前には,私はボートの係留はどこにするのか,係留場所があっても管理費にかなり出費しなければならないのではないかと心配していた。必要なら予算化しておかなければならない。何で心配したかというと,それは日本でのボートの管理には,係留しておくだけで,相当な管理費がかかるからだ。

 ところがセネガルに行ってみるとそれは全くの杞憂だった。最終的にはフンジュンのホテルを拠点に動くことになったが,このホテルには,ボートの発着用に50m程度はあるかなり長い桟橋も持っており,何台かのボートも浜に上げ,管理し,エンジン保管用の倉庫も持っているのであった。ボートの管理を頼んだところ,全くのただでしてくれることとなり,ホテルで専用のボート運転手も抱えており,我々専用に雇うこともできたのである。日本のように,狭い土地に集中して管理しているわけではなく,土地もあるので,だいたいが大雑把に物事は進んでいくので,いい面も悪い面もあるが,この時は非常に気が楽になった。

 

 

ホテルフンジュンの浜.jpg

 

ホテルフンジュンの浜でボート,倉庫でエンジンを保管

 

 

ホテルフンジュンの桟橋.jpg

 

ホテルフンジュンの桟橋

 

 

マングローブ林の調査

 そんなに時間があるわけではないので,標準的な箇所を数10カ所えらび,標本地を設定し,毎木調査をした。これがリゾフォーラの実態を知るのに大いに役立った。リゾフォーラの幹には節があり,1年に一つづつ増え,低木では林齢もわかり,樹高,胸高直径,材積,バイオマス量,成長量まで推定することができた。

 

 

ボートでマングローブ林の調査へ.jpg

 

ボートでマングローブ林の調査へ

 

 

樹高4?5mのマングローブ林.jpg

 

樹高4-5mのマングローブ林

 

 

ドロドロの底なし沼

 場所によっては,川底が,ドロドロで,一歩入るとずぶずぶと腿まで入り込んでしまう場所もあった。一旦はまってしまうと抜け出すのが大変だった。また,そのようなところは悪臭もして,メタンが発生しているのではないかと思われた。実際にマングローブ林はメタンの生成能力があると推定されているが,その実態はあまり明らかではない。

 そうはいっても底なし沼の様な場所を歩くには体重が少なく足の裏が大きいものが,沈み方が少ないので圧倒的に有利である。一緒に行ったセネガルのフンジュンの営林署長は大きく体重は100Kg以上は,あったと思われる。我々が沈まない場所でも,彼だけがズブズブと沈んでしまい,手をかして引き上げることもあり,歩くのに苦労していた。

 

 

川底がドロドロで体重が.jpg

 

川底がドロドロで体重が重いとズブズブと沈んでしまう

 

 

いつもびしょ濡れになり調査.jpg

 

いつもびしょ濡れになり調査

 

 

地下足袋

 我々はマングローブ林内を歩くのに日本の地下足袋を持って行ったが,これが非常に重宝した。セネガルの技術者用にも沢山用意し,持ち込んだ。彼らに地下足袋を配ったが,体型が違うので,ぴったり合わせるのが難しかった。というのは,セネガル人は足が長く我々のふくらはぎが彼らのアキレス腱にあたるくらいだったからだ。

 平均的にセネガル人は背が高かった。我々と仕事をしていた人の平均身長を180cmとし,我々日本人の平均身長を170cmとすると10cmは背が高かった。実際はもう少し差があったと思う。しかし,彼らが座ると座高は我々より低いくらいで,足の長さとしては,15cmくらい彼らの方が長かった。だから日本人のスネは彼らのアキレス腱くらいで,地下足袋をフックで止める場合,フックの位置を一番狭いところにしてもまだ,ゆるゆるの場合が多かったのだ。それでも彼らもマングローブ林を歩くときの地下足袋の素晴らしさを満喫していた。

 

 

大きなマングローブ林を調査

 リゾフォーラの樹高は,平均的には4?5mくらいであったが,人為の影響がなく,リゾフォーラが広く分布する海に近い河口などは,水が湧き出ているところもあり,そのようなところには,ジュゴンもいると言われていたが,大きなリゾフォーラがあった。

 大きなリゾフォーラは樹高が18mもあり,条件が違うと随分と成長が違うものだと思った。この大きなマングローブのある場所の塩分濃度は,海と同じで3.5%であった。サルーム・デルタでは淡水の流入がないため海水より塩分濃度が薄い場所はないのである。しかし,ジュゴンのいるような場所では湧き水が湧いていて,ひょっとするとその部分だけは塩分濃度が薄かったかも知れない。

 

 

樹高の高いマングローブ.jpg

 

樹高の高いマングローブ林を調査。最高樹高は18m

 

 

樹高の高いマングローブ 同上1.jpg

 

同上

 

 

樹高の高いマングローブ 同上2.jpg

 

同上

 

 

海に落ちる

 ある日大きなマングローブを調査している時に,行く時は干潮で,水深は1mくらいだった。ボートでマングローブ林に近づいて,マングローブの足に飛び乗り調査をしていた。かなりの時間を調査して帰るときに,へまをしてマングローブの足の上で自分の足をすべらせ海に落ちてしまったことがある。すると水深が2mほどもあり,全身が海の中にもぐってしまい,少し驚いたことがある。調査をしているうちに潮が満ちてきて水深が深くなったのだ。

 

 

歩くリゾフォーラ

 また,面白いことにリゾフォーラは歩くことができるのである。歩くといってもせいぜい数mであるが,そんなことも分かった。

 普通,鉛筆のような種子が浜や川底に刺さると,それが成長して主要な幹となる。しかし,多数の枝が出てきて,その先に乳首のように黒いポッチがついている枝と何もついてない枝が伸び,何もついてない枝は普通の枝となり,黒いポッチがついているものは下に向かって伸び,それが土に着くと足になり,根となるのである。その根がどうも自分が好む方向,だいたい塩分が薄い方向に向かって伸びて行き,主幹の位置もそれに合わせて変わっていくので,歩くことが分った。

 

 そんなことで,リゾフォーラの調査も無事終わり,マングローブ林の資源量が推定できたのである。それとともにリゾフォーラやサルーム・デルタの実態が分ってきて,調査は非常に役立った。やはり,調査は自ら経験し,体で覚え込むことが大切である。調査対象とするそのものや地域の実態を把握するためには,文献だけで分かるということは本当に分かるということではなく,自ら調査することが絶対に必要なことだと改めて思ったものである。百聞は一見にしかずということである。

 

リゾフォーラの種子.jpg

リゾフォーラの種子

 

リゾフォーラの種子 同上.jpg

同上

 

リゾフォーラの種子の帽子。.jpg

リゾフォーラの種子の帽子。しばらくすると帽子が落ちる

 

リゾフォーラの花。ミツ.jpg

リゾフォーラの花。ミツバチが集まる

 

リゾフォーラの花。.jpg

リゾフォーラの花。プロジェクトでも蜂蜜生産活動を取り入れる

 

 

つづく

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.7

森林紀行

村での調査

 この調査ではサルーム・デルタ内の島と陸側に存在する多くの村,およそ100村くらいを調査した。一般的な社会経済状況はもちろんのこと,村での村民組織や主な生産活動は何かなど,今後のパイロットプロジェクトを行う村を選定したり,そのプロジェクトで行う活動を決めるため,村長などを中心に聞き取り調査をした。

 その中では,本当に孤立した村もあった。例えば,この辺りの村での使用言語は主にセレール語かウォルフ語であるが,それさえ通じない村もあり,村の言葉→セレール語→フランス語→日本語と私がインタビューする場合,三人の通訳を通さないと言葉が通じない場合もあった。ただ,セネガル人の同行者が英語ができる場合は,その人だけか,もう一つ,村の言語→セレール語→英語と二人に減る場合もあった。

  そんなことも最初は強く印象に残った。それにどの村であっても最初に訪ねた時が一番印象に残るものなので,そのうちのDiogaye(ジョウガイ)村とKour Yoro村(クール・ヨロ)を最初に訪ねた時のことを取り上げてみる。これらの村はパイロットプロジェクトで選んだわけではなかったが,とても印象に残っているからだ。そして今改めてまとめてみると,この仕事で作成した報告書では現れなかった,村人の生の声が聞こえてくるようで私自身が驚いている。また,私自身同じ人生を二度目に歩いているような気がしてならない。

 

 

ジョウガイ村

 ジョウガイ村を訪問したのは2002年2月9日(土)のことである。トゥバクータでボートを運転手付きで借りた。長さは15m程で,水路を上(北)に登り,幅が2?以上もあるジオンボスというサルーム川の支流に出てから,ジオンボス支流を下り,ジョウガイ村に着いた。トゥバクータから距離にして約20?。ボートは,時速20km程度はでるので,約1時間で島に着く。島に上陸し,しばらくタン(塩分が集積し,植生の侵入が困難な土地)を歩き集落に着く。

 

ジョウガイ村map.jpg

サルーム・デルタの中でジョウガイ村の位置

 

 

トゥバクータから上流へ.jpg

トゥバクータから上流へ向かうボロン(水路)

 

 

ジョウガイ村のある島.jpg

ジョウガイ村のある島に到着して集落まで歩く

 

 

集落に到着.jpg

集落に到着

 

 

 村に到着した後に,村長宅を捜し,村長に挨拶し,調査の目的など説明し,打ち解けたあとで,いろいろと質問した。

 

 

村長に質問

私 :村の沿革を教えてくれますか?

村長:この村はバスールの漁民用のキャンプ地だ。(バスールというのは大きな島にある大きな村で,村落共同体(郡のようなもの)の事務所もある。後にパイロットプロジェクトを行う村)

ここでは,ひい爺さんのころから魚を捕ったり貝を採ったりして,このような生活をずっと続けてきた。ひょっとするともっともっと長い間,この様な生活をしてきたのかも知れない。この出先の漁民キャンプで10ヵ月間過ごし、タバスキ(羊犠牲祭)の前後2ヵ月くらいはバスールに帰って過ごす。

 

私 :それではここの生業は漁業ですね。

村長:そうだ。魚,貝,エビを採っている。

 

私 :それらは自家用だけでなく,売ったりもするのですか?

村長:そうだ。ここに住んでいる者は少ないからほとんどの魚をソコン(調査地域の陸側の大きな町)に売りに行く。魚介類をソコンに売りに行ったついでに、ソコンから米とかミル(キビ)とかを買ってくる。ここで一番困っているのは水で、ソコンから買ってきている。

 

(注:この辺りの土地の標高は概ね1m?2mで,川(海水である)の水面よりも少し高いくらいである。後に別な村で,水がでるかと土を掘ってみたことがあるが,海水面よりも深く掘ると水が出て来るが,塩分濃度は低く0.1%くらいであった。しかし,0.1%くらいでも塩分があると,飲めるがとてもまずく,コーヒーを入れてもコーヒーがまずくなる。因みに海水の塩分濃度は3.5%である。掘った場所の周りが海水で,何で塩分濃度が高くないかは不思議であるが,雨水などが溜まる層があるのであろう。調査では塩分濃度をいつも計っていて,精密な塩分濃度測定器を持っていた。調査では‰を使うが,分かり易いように%で示す。)

 

私 :ソコン以外に売りに行く場所はありますか?

村長:ソコンに売るのは,塩干しした魚だ。鮮魚はアイスボックスに入れ,この辺りでは,ここからジフェールの間くらいに売り,ガンビア(サルームデルタの隣接する隣国)にも売っている。ここで取ったら,そのまま持って行って売る。取れたものは良く売れる。

 

私 :漁獲高は変化していますか?

村長:昔は,魚が多かったが、今は少なくなった。以前は村の入り口のボロン(水路)でよく取れたが、今は取れなくなった。

 

私 :マングローブ林が多いと魚が取れ,マングローブ林が少ないと魚が取れないという関係がありますか?

村長:漁獲高とマングローブ林との関係があるとは思わない。マングローブ林は増えていると思うが、漁獲高はむしろ落ちている。

 

私 :それではマングローブ林の状況はどうなのか教えて下さい。

村長:マングローブ林は,干ばつがあった時に減った。ここ6年間は雨量が増えているので、ボロンの水量も増え、マングローブ林も増えてきた。ここからみて川には中洲があるが段々と狭くなってきている。私が小さかった時は中州はもっと広かったのだ。それでマングローブ林が増えてこちら陸側に押し寄せてきているのだ。

 

私 :中州が小さくなって来ているから水量は増えてきていると思いますが,水量が増えたことによる影響が,村にありますか?

村長:村の土地の位置だが,昔は大潮でも浸からなかったが、今は大潮のときは水に浸かる様になった。

 

私 :それは困りましたね。住居には影響があるのですか?

村長:住居まで水に浸ることはないが,以前水田があった場所が水に浸かるようになり稲作ができなくなった。

 

私 :このあたりに見えるのはリゾフォーラですが,アヴィセニアもありましたか?

村長:アヴィセニアは昔もっとあったが,最近はリゾフォーラが増えた。

 

私 :マングローブの材は何に利用していますか?

村長:家の柱や屋根の梁だ。その他枯れ木を薪で使っている。アヴィセニアの根は魚網直しの道具として使っている。リゾフォーラの幹を伐ると横に枝が張り出し、途中からそれがまた上に伸び幹のようになる。こういう幹は使い勝手が悪い。

 

私 :村の人口はどれくらいですか?

村長:だいたい60人くらいだ。老若男女全部合わせてだ。家族は10家族くらいだ。もう少し多いかもしれない。人口は,ここ最近変化していない。

 

私 :子供達の教育はどうしているのですか?

村長:コーランの学校があり,そこで教えている。といっても学校の建物があるわけではない。家の外や軒下などで教えている。先生はジャンバンという村から来る。

 

 この様な感じで質問していき,村を見せてもらい,このジオンボスの大きな水路は塩分濃度3.7%であり,マングローブは天然性のものが多くあり,この村には植林する場所もないということが分って来た。

 

 

ジョウガイ村の子供達.jpg

ジョウガイ村の子供達

 

 

ボラを日干しにしている.jpg

ボラを日干しにしている

 

 

クール・ヨロ村

 クール・ヨロ村を訪ねたのは2002年2月20日(水)のことである。クール・ヨロはフンジュンから約20kmほど東に位置している。村の北側にサルーム川が流れており,その上流には大きな町カオラックがある。この日は,フンジュンを拠点に活動し,この後我々の活動を委託するNGOのWAAME(West African Association for Marine Environment)の技術者も同行していた。

 

 

クール・ヨロ村map.jpgのサムネール画像

クール・ヨロ村の位置。フンジュンから東に約20?。サルーム川の支流に面している。

 

 

 

インタビュー

 村につき,村長のIsmaela Saw さんと村の技師と称したSeydou Ndiayeにインタビューした。マングローブや村落林について聞いたので,答えたのはほとんどSeydouさんだった。

 

私 :川沿いにリゾフォーラの植林がわずかにみられるが,いつ植林したのでしょうか?

村人:2000年に0.5ha,2001年に2.0ha植えた。

 

私 :このあたりは塩分濃度が高く(6?7%くらいだった)リゾフォーラもようやく生きながらえている程度に見えますが,活着率はどの程度ですか?また,リゾフォーラ以外の種類も天然にありますか?

 

村人:最初に天然のマングローブだが,コノカルプス(マングローブの1種。非常に少ない。塩分にはアヴィセニアよりも強いと言われている)がわずかにだがある。大潮のときにしか海水がこない場所にある。もう一つの種類のラグンクラリアはフンジュンからこのあたりにはない。

リゾフォーラの植林木の活着率だが,川が巻いていて島状になったところでは活着率は,90%くらいある。しかし,樹高はたったの50cmくらいまでしか成長しない。こちら側の川沿いに植林した場所では全滅した。植林したのは砂地だったが,砂地はどこもだめである。

 

 その後,ずっと観察を続けていると,リゾフォーラもアヴィセニアも生育できるのは塩分濃度では6%くらいまでだとわかってきた。6%くらいが限界だとほぼフンジュンくらいまでは生育が可能でそれより上流での植林は難しいことがわかってきた。

 

塩分濃度が高く.jpg

塩分濃度が高く,リゾフォーラの植林はほとんど失敗。

白く点々と見えるのはフラミンゴ

 

 

村落林

 その後,村落林を見に行った。村落林にはユーカリが植えられていた。植えられていたユーカリは,かなりが活着していて,このように塩分濃度が高い土地にもかかわらず,素晴らしくうまく植林できたと思えた。この土地はタンであるが,タンに植えても活着しているのである。植林前はタンで,草もなかったといっているが,今では,ユーカリの周りにも草が生えているのである。植林地を有刺鉄線で囲い、1区画を200m×1Kmで区切り全部で10区画ある。よく管理されている。ほとんどがユーカリであるが、良く見るとメラリュウカとアカシア・オロもある。樹高は8?10m,胸高直径は5?10cmくらいである。メラリュウカの見た目はユーカリと似ており,同じフトモモ科でオーストラリア原産,実際そっくりな樹種である。

 

 

WAAMEの技術者の話

 ここで同行したWAAMEの技術者がタンには2種類あり、1.タンビフ(草も何も生えていないところ)と2.タンエルヴェ(草が生えているところ)と教えてくれた。また,ユーカリはカマドゥルレンシスで,ユーカリよりメラリュウカの方が塩分に強いとのことである。

 

 

以下,村長と村人の話


植林地→この土地に植林したのは,不毛のタンの土地を活用したかったからだ。ユーカリを植える前はわずかに草が生えているような土地であったが,このタンビフにもタンエルヴェにも植えた。土地は10区画に分けて植林した。

 

川は潮汐により干満差があるので,現在も水位計が埋めてあり水位を計測している。植林したのは1992年(この時2002年だから植林後10年である)で,2年間で10ha植えた。植林間隔は4m×5mで最初は75%が活着した。今は65%が活着している。何でわかるかといえば毎年数えているからだ。当初,25%は補植したが,現在は捕植しなくても大丈夫なので捕植はしていない。

 

援助→最初の年はOSDILというNGOが援助してくれ,2年目はCRAEDというNGOが援助してくれた。OSDILは内部で揉め事があり、分裂し、それでCRAEDが新しくできたのである。OSDILはAfrican Found Development(アフリカ開発基金)が基となって作られた。

 

 OSDILは最初この周辺の13村を対象にユーカリ植林を募ったが、住民参加により植林をするので,住民の合意ができない村が多く、参加したのはこのYORO村とKeur Renam (=Keur Djindak)村の2つだけだった。

 

 有刺鉄線はOSDILが専門家をつれてきて張った。

 

住民の参加→Yoro村では,子供も含めて住民の全員が植林に参加した。毎週,月曜日と木曜日に子供も参加し,植林した。Keur Rnam村は参加者が限られていたようである。

 

植林方法→最初に苗畑で苗木を作った。ポットに種を蒔いたものと、播種床に蒔き発芽したものをポットに移植したものと両方を作った。両方ともうまくいった。淡水がないので、女性達が隣村の井戸で水をもらい運んだ。植林は1992年7月12日から9月9日まで行い,50人で800本?1,000本/日を植えた。土が固くて、雨期でもつるはしを使って植えた。

 

植林後の影響→土壌が改良された。植林地の前(浜側)も後ろ(陸側)も土壌が良くなった。以前は水を得るのが難しかったが、今では井戸を2mも掘れば水が得られるようになった。

 

伐採→昨年始めて伐採した。伐採木は棒材にして村内、周辺の村に売った。売上金はわずかではあるが、銀行に預け、村で何かのために資金が必要になるまで下ろさず溜め続ける。

 

今後→ユーカリは萌芽をするので,森林局から援助される苗木には頼らない。植林を増やすときは自前で苗畑を作る。(この時,私はなぜ森林局に頼らないかよくはわからなかったが,村長は自立をなぜかこだわった。役所を信用していないような雰囲気だった。)

 

村の組織→森林管理委員会(Comite de gestion)がある。植林地の監視は,有刺鉄線の管理で15人の男性が行っている。(後の私の観察では,人や家畜の影響を避ければ,かなり早く森林の様相を呈するようになる。)

 

村落林の拡張→財政支援があればもちろん拡張したい。

 

ユーカリの薪→ほとんどとらない。時期を決めていて,その時だけ女性が枯れ木を取る。

 

 

整然と植林されたユーカリ.jpg

整然と植林されたユーカリ

 

 

植林地は有刺鉄線で囲い保護.jpg

植林地は有刺鉄線で囲い保護

 

 

白い土からタンの土地に植林.jpg

白い土からタンの土地に植林されたことがわかる

 

 

 

再びマングローブの話

 

マングローブの状態→今ここでは全くマングローブが見られなくなってしまったが,以前は水面にもぎっしりとマングローブがあった。集落から川まで達するにはマングローブを伐って通路を作らなければ行けないほどだったが,今はまったくなくなってしまった。

 今のユーカリの村落林の半分くらいまではマングローブだった。(およそ200m?300mくらいの幅)タンの一部はマングローブが生えていたしタンにも草が生えていた。

 

 (川の塩分濃度がこのあたりは,この時点では6?7%であったが,その昔は4?5%程度ではなかったかと想像される。ということは上流から淡水の流入があったか,あるいは雨量がもっとあり,塩分濃度が今より薄かったということである。こういう話を聞くと自然の気候の変遷の不思議さを感じる。)

 

干ばつ→1966年から始まった。1973年くらいからマングローブが激減した。この村の上流の町カオラックの方から徐々になくなり、1980年頃からほとんどなくなった。Rhizophoraは完全に消え,Avicenniaが少し残った。回復傾向はまったくみられない。(観察したところでは砂地では回復は無理)

 

砂地→川沿いは,昔は砂地ではなかった。粘土質であった。以前はマングローブが沢山あり、砂が流れてくることはなかったが、砂が堆積し、川が浅くなった。カオラックの方から流れてくる。それから最下流のサンゴマールが決壊して,その後それまでみられなかった魚がみられるようになった。

 

マングローブの利用→昔は棒材の材料として良く利用したが今はできない。また,マングローブの足にはカキが良く着くので,カキを採りよく食べた。今の若者はカキの味を知らない。

 

マングローブ植林の動機→年寄りから以前はマングローブが沢山あり、マングローブがあると魚も多くカキもあり良かったという話を聞いたので,実際そうだと思い、マングローブ植林を始めたのであるが,うまく育たない。

 

  このような調子で100以上もの村を調査したのであった。

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.6

森林紀行

伝統的病院や半島から分離した島

伝統的病院

 セネガルには伝統的病院があると聞いた。それは面白い。もしかすると魔術師がいて,祈祷や呪術を行うのかもしれない。セネガルに近いベナンに派遣されていた同僚が,ベナンでは祈祷師が魔術をかけると,その魔術はかけたその祈祷師以外は解くことができないのでやっかいだと言っていた。実際にその魔術をかけた例として,ある生き物に似た姿に変えられてしまった人の話を聞かせてくれたが,偶然が重なったのか,にわかには事実とは信じられないような話があるのだった。そんなことで,セネガルでも似たような話があるかもしれないと期待を持って,訪ねてみたが,ちゃんとした病院だったので,少し拍子外れであった。

 

伝統的医療検査センター。.jpg

伝統的医療検査センター。PROMETRAというNGOが運営している伝統的病院。

 

病院にかかっていた説明.jpg

病院にかかっていた説明

 

 何故,伝統的病院を訪ねたかというとマングローブを漢方薬の様に利用していて,マングローブの需要が開拓できるかも知れないと思ってのことだった。訪ねたのは,2002年1月29日(火)のことである。病院は,ファティックにあり,名前はMarango(マランゴ)と言った。

 

 

医師にインタビュー

 ここでは,このセンターに勤務している現代医学を学んだ医者にインタビューをした。このセンターには伝統的治療師が13人いるとのことで,続いてセンターの沿革を聞いた。

 このセンターは,1989年にでき,エリック・ホドスーというベナン生まれのセネガル人が作ったとのことである。この周辺は4つの郡と15のコミュノテールーラル(村がいくつか集まった村落共同体)があり,そして驚くことに,その中に450人もの伝統的治療師がいるとのことだった。その中で医者としての技能が本当にあるかどうかを調査したところ,これまた驚くことに全員が医師としての能力を持っていることがわかったとのことである。

 

 

病院の実績

 この病院では,患者にはまず血液検査を行い,データを調べてから治療を開始するとのことである。なんだ,近代医学ではないかと思ったが,1989年?2000年までの12年間で,この病院の患者の96%が直り,2%が改善し,2%が悪くなったとのことで,合計でいえば98%が良くなったとのことである。

 どのような病気か病気の程度も詳しくは聞けなかったが,血液検査でマラリア原虫数を数えていることから,主にはマラリアや風邪のような軽い病気で,マラリアが軽いかどうかは一概には言えないが,相当な成果である。ここには入院設備はないとのことだった。

 

 

周辺の伝統的医師

 この周辺4つの郡に散らばっている450人の治療師は,代々治療師の家庭で育ち,専門的な知識を受けついでいるとのことで,骨折も含めあらゆる病気を見ているとのことである。例として,マラリア,のど痛,頭痛,歯痛,耳痛,かぶれ,血圧等を挙げた。

 

 

マングローブの利用

 我々の目的である,マングローブの医学的利用について聞いたところ,マングローブの根を煎じて飲めば解熱ができ,また,精神的な病にも効くとのことだった。また,タバコを止めるのには,マングローブの葉を乾かし,赤くなったところで,その葉を煎じて飲めば非常に良く効くとのことだった。また腹痛は,緑の生きた葉を煎じて飲めば良いとのことだった。

 マングローブの種子は,お湯で煮立て,そのお湯を濾して歯の治療に用いることができ,飲めば虫下しとして利用できるとのことだった。また,根は,男性には精力剤,女性には産後の回復に利用できるとのことだった。

 

 マングローブは成長が遅いため材は重く,比重は1.0以上もあり,樹皮を剥くと形成層あたりが赤く,鉄分やタンニン,それに他の薬効の成分を含んでいるだろうということは,容易に想像できる。

 

  医師達は,呪術によって直すことはなく,マングローブの漢方薬的利用による,いたって近代的な病院だったのは,少しがっかりだったが,伝統的病院への信頼性が向上した点は良かった。

 

伝統的病院の医師達.jpg

伝統的病院の医師達

 

 

半島が分離し島となった場所 サンゴマール

 伝統的病院を訪問する2日前の2002年1月27日(日)には,繋がっていた半島がちぎれたジフェールという村を調査した。

 

Djifferと下のサルームデルタ.jpg

Djifferと下のサルームデルタ国立公園と書かれている場所は繋がっていて半島だった

 

 にわかには信じがたいことだが,この村のサンゴマールという場所で,陸続きだった半島がちぎれ,島として孤立してしまったということである。おそらく潮の流れにより砂が流されたり,堆積したり,かなり長い年数の周期で分離したり,繋がったりするのだろう。

 

 

ジフェール村へ

 ジフェール村までは,この村の北にあるパルマランという村から歩いて行った。ジフェール村へくる途中の海岸線にはポツポツと大きなアヴィセニアがあった。アヴィセニアは普通,群落で存在しているものなのに,孤立して存在していたのは,潮の流れが変わったので,多くは枯死し,強いものだけが生き残っていたからであろう。

 

パルマランからジフェールへ。.jpg

パルマランからジフェールへ。ポツポツとアヴィセニアが残っている

 

枯れて残っている.jpg

枯れて残っているアヴィセニアの根

 

ジフェールの村。.jpg

ジフェールの村。村の前の海岸線はゴミ捨て場となり,ポリ袋が散らかり汚い。

 

 

村の有力者にインタビュー

 ジフェール村に着いてこの村の有力者という人に出会ったので,インタビューをする。この人の話。

 

 「ジフェールの村ができたのは,1937年である。当時,半島は繋がっており,半島の先端まで歩いて行けた。1983年のことだが,高潮があり,半島が分断された。今は海中にあるが,あの海の下にはキャンプモン(簡易な宿泊施設,ホテル)が沈んでいる。当時は,マングローブを見た記憶はない。切れた半島から約3Km先に水産物の加工工場があった。それも1992年の2回目の高潮で,流され海に半分沈み込み,半島は完全に分離した。あそこに傾いた工場が見えるだろう。この時にはマングローブは10m幅くらいで,既にあった。」というようなことを語った。

 

 確かに沖合の海に半分ほど沈み,傾いたビルが見えたが,残念ながらこの時の写真が見つからない。

 

 

マングローブの利用を聞く

 マングローブで利用している種はリゾフォーラで,長さ3mで直径は3cmくらいの細いものを屋根の支え,梁として使っているとのことだった。また,サンゴマールの砂州が崩れて以来,サルーム川にはエトマローズ(ニシン科の魚)が大量に生息するようになったとのことである。

 

 マングローブの木は村の対岸から取ってきて,それを魚の天日干し台の支えや魚の燻製台として利用しているとのことである。魚の燻製にする薪はマングローブも混じっているが,バオバブも利用しており,バオバブはこの辺りにあって,枯れた枝を利用しているとのことである。

 

  マングローブは森林局の許可がないと伐採できないからとのことだった。村には薪を集める係りの者もいて,燻製を行うには馬車2杯分のマングローブの木がいるとのことだった。

 

漁村にもヒツジは.jpg

漁村にもヒツジはのんびりと過ごす

 

採った魚をさばいている.jpg

採った魚をさばいている

 

魚の天日干し.jpg

魚の天日干し

 

エトマローズの燻製.jpg

エトマローズの燻製

 

エトマローズの燻製台.jpg

エトマローズの燻製台

 

エトマローズの燻製に用いている.jpg

エトマローズの燻製に用いているマングローブ

 

 プロジェクトでは,後にエトマローズの燻製用のかまどの改良を行うことになるが,最初にここで見たことがヒントになった。魚をみると燻製というよりも単に焦がしているだけである。それでも相当の日持ちがするようになり,ギニアやギニアビサウに売りに行くことができるのだが,あまりに効率が悪いので,燻製改良かまどの導入することにしたのだ。この話はまた後に述べる。

 

 

セネガルもサッカーきちがいの国

 話は,マングローブではないが,ジフェールに来る前日の晩はソモンのクラブバオバブ(Club Baobab)というホテルに泊まった。ここはセネガルでは高級なリゾートホテルだった。内容的には高級とはいいがたいが,しかし,ダカールからも近いために,セネガル人の富裕層が多いようだったが,外国からの観光客やダカール在住の外国人らしき人も週末にリラックスしに来るようで,この晩はホテルは満室に近かった。

  この晩は,サッカーのアフリカカップの予選リーグがあり,セネガルが終了間際に1点を取り,ずっと相性の悪かったザンビアを下し,決勝トーナメントに進んだのだった。ホテル従業員は,得点をしたときに大歓声を上げ,大喜びでダンスを始めるほどだった。

 

 

 

つづく

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.5

森林紀行

アヴィセニアの植林試験地を捜す

リゾフォーラとアヴィセニア

 今回は,アヴィセニアの試験地を最初に,捜しにいった時のことを記す。2002年1月26日(土)のことである。この調査地域には6種類のマングローブが天然に生育していたが,その内,主なものは,リゾフォーラ(Rhizophora,和名はヤエヤマヒルギ)とアヴィセニア(Avicennia,和名はヒルギダマシ)の2種類だった。この2種類の中でもリゾフォーラが圧倒的に多く生育しており,アヴィセニアにはリゾフォーラの前林という形でわずかに生育している程度であった。樹高もリゾフォーラは,条件が良ければ10m以上にも成長していたが,アヴィセニアは大きくても2m程度であった。

 この樹種の植林は,リゾフォーラについてはこの周辺のNGOが中心となり,村人を参加させ,小規模ながら各地で行っていて,成功している場所もあったが,必ずしも成功しているとはいいがたかった。リゾフォーラの植林は,この後に行うパイロット・プロジェクトで実施し,良い方法を確立したが,それは後に記す。一方,アヴィセニアの植林は,実績もなく,植林は難しいと思われていた。

 

 

塩分濃度が高いサルーム・デルタ

 サルーム・デルタには淡水の流入がなく,上流域での塩分濃度は海水よりかなり高く,カオラックの周辺では塩田もあるくらいだった。この話についても別に記す。アヴィセニアは,リゾフォーラの生育地よりも塩分濃度が高い場所でも生育が可能と言われているため,マングローブ林を植林により拡大するために,まずアヴィセニアの試験植林を行って,その植林技術を確立することとした。

 

 

参考文献やマングローブの先生

 そのために最初は,植林地の選定に走り回った。マングローブの植林については,参考文献が少なかったが,当時出版されていた琉大の教授と林野庁の専門家が書かれた「マングローブ植林のための基礎知識」と岩波新書の「緑の冒険」が非常に役立った。これらの本はセネガルに行く前に繰り返し読み,ほとんど頭に入れ込こんでしまった。

 この調査が始まってから,帰国した際には,実際この先生には,直接教えを請い,何回か琉大に通い,これまた非常に役立ち,いろいろなヒントをいただき,実際に現場で試すことができた。また,林野庁の専門家の方は,我々の調査時期と同時期にセネガルの森林局に専門家として派遣されたので,アドヴァイスをもらい一緒に働いた時もあり,これまた非常に役立った。

 

 

実際の試験は委託

 とはいえ,実際に植林試験をする私としては,マングローブの植林の経験は,それまでになかったので,どのような場所が適地なのか,現場を良く観察し,適地を選定することからして,難しかった。それでもアヴィセニアが生育している場所を観察しているうちにどのような場所が良いのか,段々とはっきりしてくるのだった。

 結論として場所は,調査地域の東と西と二つを選び設置し,実際の試験の実施は,西側はUICN (Union Mondiale pour la Nature)のセネガル支部と東側はWAAME (West African Association for Marine Environment)というNGOに委託したのである。委託するにしても仕様書には計画の詳細を記載するので,私はマングローブ植林の条件から試験方法まで全てを理解していなければならなく,実際全てを理解できたと思う。

 

 

営林署を訪ねる

 最初に,森林局やUICNの情報からソモンという場所を調査した。ソモンはプティット・コート(小さな海岸)にあり,ダカールに近く,サルーム・デルタまでは,かなりの距離があったが,海岸の土地は未利用な静かな入り江で,天然のアヴィセニアも沢山生育していた。最初にここの営林署の所長を訪ね,署長に同行を頼んだ。

 

Image1.jpg

場所はソモーヌと書いてある場所である

 

 

 営林署の場所は,ンゲコといった。ここの署長は,若く,最近こちらに赴任したばかりで,この地域にはまだ詳しくなかったが,我々だけで調査するわけにはいかないので,ここの署長に同行を頼んだところ署長と助手の二人が同行してくれた。また,森林局本局からの職員も同行していた。

 

 

植林適地を探しに

 ソモンの海岸線にあるホテル「バオバブ」から歩いて行った。ここはソモン川の河口で,入江のようになっており,大西洋の波が直接届くわけではなく,また,水深は浅いので波は非常に静かである。

 

ホテル「バオバブ」.jpg

ホテル「バオバブ」から歩いてソモンの入り江へ

ホテルの前のリゾフォーラの樹高は4mくらい。幅も6?7mである

 

 

 まずは,4mくらいの高さのリゾフォーラが目につく。海岸線はほとんどがリゾフォーラである。ホテル「バオバブ」あたりのリゾフォーラの幅は,せいぜい6?7mで狭いが,入り江に入ってくるとかなりの広がりが見える。

 

かなりの広がりも見える.jpg

かなりの広がりも見えるリゾフォーラ,潮が引いたところには,

ところどころに小さなリゾフォーラが見える

 

 

少し成長したリゾフォーラ.jpg

少し成長したリゾフォーラ

 

 

 川沿いから少し陸側にいくと,土は白くなっており,これは「タン」という土地で,塩分が集積していて,ほとんど植生は侵入できないが,それでもところどころにタマリックスという木(塩分のあるところに生える指標植物)が沢山生えている場所もある。住民はこれを薪として利用している。ところどころにアヴィセニアも見えてくる。

 

タン地帯とマングローブ.jpg

タン地帯とマングローブの境を歩く牛

 

 

タンの塩分にも耐えて.jpg

タンの塩分にも耐えて生育するタマリックス。

住民はタマリックスを薪に,マングローブを家の建築材として利用

 

 

 アヴィセニアがところどころに散見されるようになる。花を咲かせているものもある。花は,この時期1月から咲き始め,5月から6月に種子ができ始めるとのことだった。するとそのころ種子を採取して植林試験を始めるとしてその前に適地を決める必要があった。アヴィセニアは普通2?3m程度の樹高だったが,川沿いや内陸部にはときどき,5?6mほどの大きなものも見られた。アヴィセニアだけでなく,リゾフォーラも多くの花をつけるので,これでハチミツ生産をしている場所もあり,パイロット・プロジェクトでも住民の生活向上の一環で,ハチミツ生産を取り入れることとなった。

 

タンに生育するアヴィセニア.jpg

タンに生育するアヴィセニア

 

 

アヴィセニアの花。.jpg

アヴィセニアの花。リゾフォーラもアヴィセニアも多数の花を咲かせる。

 

 

ところどころにある大きな.jpg

ところどころにある大きなアヴィセニア。樹高約6m

 

 

 ここの川幅は広い所では200mくらいあるが,遠浅で浅い。川ではティラピアと思われる魚が取れた。

 

ソモンで取れたティラピア.jpg

ソモンで取れたティラピア

 

 

あいまいな土地の境界

 こうしてみると,土地の所有に関しては,日本のように厳密ではなく,まだ土地所有者がいなくて,土地所有者がいない土地は国のものといった風であった。フランス語では,テロワール(terroir:領土)と言った言葉があり,セネガルでもテロワールという言葉が使われており,同行を頼んだ署長にテロワールの意味を聞いてみた。

 その時の答では,テロワールとは,例えば村の土地は村のテロワールと言うことだった。一つの村ごとに村の中に畑があり、使用していればその土地は,その村人達のものである。村の境は,行政界とは矛盾しないが,地図には記入されていない。けれども村人達は,その境界を知っているとのことである。だから,テロワールも村も境界は存在しないということである。我々のようなプロジェクトを行う場合は,3つくらいの村が一緒になり、大きなテロワールを作る場合もあるということである。テロワールは行政単位でもなく,単に自分達の所有地と言った意味であることが分った。

 

 

コミュノテー・ルーラル

 それやこれや,いろいろ文献をあさり,聴き込みをし,段々と土地所有の関係も分かってくる。1997年以来,地方分権化が進み,森林に関しては、国が管理するのは国有林のみとなり、その他はコミュノテー・ルーラルが管理する建前であるが,まだそこまで進んでおらず,実態としては,今は,森林局との共同管理とのことである。

 将来はコミュノテー・ルーラルの単一管理となるだろうが、コミュノテー・ルーラルは力がないので森林局との共同管理が続くであろうとのことだった。コミュノテー・ルーラルは村落共同体という意味であり,村落共同体は,いくつかの村が集まった共同体で,その長が郡長というものである。言ってみれば,日本の郡にあたるもので,日本では群は住居表示の区画だけであるが,セネガルでは郡が,行政機関となっていて,そこに長がいて,それが郡長というものだった。

 最初は訳が分からないものだらけだったが,調査する内に,だんだんといろいろと分かってくるのだった。

 

 

ソモンを試験地に選ぶ

 ソモン以外にも多くの海岸を調査したが,調査対象地の東側では,最初にみたこの海岸線が使いやすく,最終的にはこの地域をアヴィセニアの試験地にしたのであった。特に海岸線であり,未利用の土地で,所有者もおらず,利用できて良かった。なにしろ,うるさいことをいわれずに,自由に試験地を選べたことは良かった。試験結果はうまくいったが,それについては改めて記すこととする。

 

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.4

森林紀行

ボートで島巡り

 何事も最初に経験したことは印象に残る。同じ場所を何度も訪問したとしても最初の訪問が一番印象に残ることが多いので,最初に調査したことについて,しばらく記していくことにする。

 

貝殻島へ向かう(2002年1月19日(土))

 トゥバクータは,調査地域の中でも南西に位置し,サルーム川を下ると大西洋までは20?くらいに位置する町である。ここでボートを借りて上流へ,つまり北に向かってサルーム川を遡って行った。

 

出発前のトゥバクータの桟橋.jpg

出発前のトゥバクータの桟橋

 

 しばらく遡るとトゥバクータよりも大きな町のソコンあたりに出る。この周辺のマングローブはリゾフォーラという種類で,平均的な樹高は4?5?である。ワシ類やペリカンを見ることができる。大型の鳥類を見ると何故かワクワクする。川幅は数百?だ。

 

トゥバクータからソコンへ。.jpg

トゥバクータからソコンへ。川沿いのマングローブ林と村

 

 

左がペリカンで右は猛禽類.jpg

左がペリカンで右は猛禽類

 

 

貝殻島に上陸

  しばらくして最初の目的地,貝殻島に着いた。貝殻島はまるで貝塚でできているかのようで,貝殻だらけなので,貝殻島と名づけられた。貝殻が多いところは,バオバブが多いように見えた。バオバブは,石灰質を好むので貝殻島は,特にバオバブの適地とのことである。バオバブの樹高は15mくらいで,手前のリゾフォーラは2?3?程度である。ここに捨てられている貝は,主にサルボウガイという二枚貝の仲間である。後に我々もサルボウガイ販売の加工技術の改良を行うことになるのである。貝塚の貝殻は,5m以上も積もっているように見える。厚い場所では10?以上はあるかもしれない。波に洗われている貝塚を掘ってみると土器が出る。当然人が生活していたのだ。何千年も前のものだったら大変価値があるなと思い,その後,調べてみると1400年代のものと推定されていた。しかし,それ以前から人間は住んでいたのだろう。

 

貝殻島.jpg

 

貝殻島

 

 

キャンプをしているフランス人達に出会う

 この島に上陸して,人に出会うとは思わなかったが,キャンプ生活をしているフランス人達に出会った。先生数人と生徒10数人,あるいはもっといたかもしれない人達が,しばらくの間,この島で過ごしているとのことだった。フランスから船でアフリカに来て,各地でキャンプをしながら1年ほど過ごし,フランスへ帰るとのことである。問題のある生徒を連れていて,彼らの社会復帰への更正教育とのことだった。おそらくこのような自然,野性的な生活をしていれば,すさんだ心も清らかになり,更生するのではないかと思った。さすがフランスは発想が違うなあと感心させられた。

  この時持っていたGPSで,この位置を測ると北緯13°50′062,西経16°29′851だった。バオバブの実がジュースになることはこの時知り,飲むと甘酸っぱくとてもおいしいものだった。マングローブは島の縁のみに茂っていて,内陸はバオバブが優占する森林となっていた。

 

 

外洋の鳥島

 貝殻島からまたトゥバクータ方面に戻り,次は外洋の鳥島に向かう。鳥が沢山いるので鳥島だ。日本でもアホウドリ(名前が良くないので「オキノタユウ」と最近では呼ばれる)のいる鳥島があるが,ここの鳥島は渡り鳥のための島だ。

  トゥバクータ周辺では,リゾフォーラの大きいものは10?以上の樹高があるが,外洋に近づくに従って樹高は低くなり,1?3?くらいとなる。さらに外洋沿いの海岸にはマングローブは見られない。これは外洋では波が荒くて,マングローブの種子も波にさらわれてしまうからであろう。

 

トゥバクータからやや南.jpg

トゥバクータからやや南に下ったシポという村のあたりで

 

漁をしている人々を見る.jpg

漁をしている人々を見る

 

 

鳥島に上陸

 サルーム川を下っている時は,波はとても静かで,ボートが早く走っているので揺れはあまり感じなかった。しかし,外洋に出たとたん,波が高くて,激しい揺れでびしょ濡れになる。暑いので濡れはあまり気にならない。それよりもボートが転覆しそうで怖かった。

 ボートは揺れにも耐えて,何とか鳥島に上陸する。鳥島には誰も住んでいない。というか小さな島で高潮などの時は沈み込んで,人は住めないのであろう。しかしリゾフォーラの種子は,鉛筆のように細長く,この種子は鳥島にも沢山流れ着き,天然更新し,樹高は1m以下ではあるが,ところどころに固まって生えている。

  鳥島は渡り鳥が休む島で,渡ってくる鳥の種類は繁殖期により異なるとのことだが,概ね,産卵期は2月の終わりから10月までで,その時は,人は上陸しても産卵場所に入るのは禁止とのことだ。卵は主として3月に産む種類が多いとのこと。鳥は巣を高い位置に作るというが,高いマングローブ林がないので比較的に高いところ,と言っても1?2?程度の高さではあるが,そこに作るのだろう。

 

外洋(大西洋)は波が高く.jpg

外洋(大西洋)は波が高く,小さなボートで来るのは危険

 

鳥島に上陸.jpg

鳥島に上陸

 

鳥島に生えていた.jpg

鳥島に生えていたリゾフォーラを観察。

 

細長いのは種子で,.jpg

細長いのは種子で,周りから流れつく。うまく砂に刺されば発芽する

 

比較的,波が静かな場所で天然更新する.jpg

比較的,波が静かな場所で天然更新する

 

 

ベタンティ島へ上陸

 鳥島の近くには牛島という名の島もある。ベタンティ村の住民が牛を放しに来るとのことだ。鳥島からベタンティ島に渡った。ベタンティ島は大きな島で,この島には沢山の村があるが,ベタンティ村が代表して島の名前となっている。

 

ベタンティ島に上陸前.jpg

ベタンティ島に上陸前

 

 上陸すると子供達が沢山寄ってきて,「ドネモワカドー(お土産ちょうだい)」と人懐っこい。このときは,私は「ドネモワカドー」の意味が解らなかったから,ただ人懐っこくて親しみやすいなと思っていた。しかし,しばらくして,その意味が解るようになると,とても親しみやすかったものが,戦後の日本の「ギヴミーチョコレート」のようで,興ざめしてしまった。実際,小学校時代の私や友人はアメリカ兵に「ギヴミーチョコレート」とやって「そんなはしたないことをするものではない。」と先生に叱られたものである。村内には,伐ったマングローブの薪の塊が,沢山積んである。ココヤシも沢山生えている。

 

ベタンティの村に上陸.jpg

ベタンティの村に上陸

 

村の有力者へ聞き込み

 この村で,マングローブの管理をしている人の話を聞いた。聞き込みをするときは,最初は村長にするが,村長が不在だったからだ。村には浜委員会というものがあり,マングローブの管理をしているとのことで,浜委員会のメンバーは12人で,マングローブの伐採の監視と村の衛生状態を保つ活動を行っているとのことだった。また,この辺りはウミガメやマナティも現れるので,それらを捕獲しようとするものの監視も行っているとのことである。村人全員の行動の監視は,村長の役割でもあるとのことだった。

 住民の生業は漁業と農業と半々で,漁業では,まき網,流し網をしているとのことだ。マングローブは伐採しなくなったが,自家消費はOKで伐採しているといったところ,森林局の職員が何人も同席していることに,その人が気づき,態度が急変し,マングローブは伐採禁止なので一切伐採はしておらず,枯れ木のみを取っていると言い換えた。森林局の職員は警察権もあるようで,一般住民には怖い存在で,急に慎重な言葉づかいになった。

 マングローブ林は,島の奥にあり,そこでは10??15?くらいの樹高があり,その中の枯れ木のみを伐採して利用していると言い換えたが,伐採しているマングローブを見れば生木を伐っていることは明らかだった。しかし,役人は怖い存在なので,「私は法律を守っていますよ。」という形で言ったのだった。マングローブは時々,ガンビアにも売りにいくとのことだった。ガンビアはセネガルの中に口のような形で入り込んだ面白い形の国だ。リゾフォーラの植林は,鳥島で2001年9月に10ha行い,十分に成熟した種子を使ったので活着率は良かったとのことなどがわかった。

  インタビューするときは,村の誰かと親しくなるとその人を中心に聴きこんでいくことが多いが,それでときどき失敗をすることがある。村の状況の全体をつかんでいるつもりでも,村の中に対立するグループなどがあると,その勢力関係により活動計画などを作った時にひっくり返ることがある。また,親しくなった人は村人から信頼があるのだろうなと思っていると,住民総会などで,村人から総すかんを食う場合もあるので,かなり長い期間村で観察しないと人間同士の力関係はなかなか分からない。また,利益が偏ったり,不満を持つ村人が表れたり,公平に援助するのは本当に難しいものだ。また,上述したように役所の人が同席すると圧迫感を住民が感じる場合があるので,普通の服装をしたり,リラックスして本音を聞けるような配慮がないと,聴き込んだ意見は偏っている場合がある。

 

 

船が座礁

 ベタンティからトゥバクータへ帰る途中,潮が引いてきて,海が遠浅のため途中で砂に乗り上げてしまった。皆で船を下りて海の中に入り,水深が多少深い所まで,船を押した。全身びしょ濡れである。帰りの船の中では,風が強いので着ているものはすぐに乾いたが,熱帯とは言え,体は冷えた。上体には,ライフジャケットを付けていたので,ライフジャケットが防寒着として非常に役立った。

 

 

トゥバクータのホテルに戻る

 トゥバクータのホテルに戻るとヨーロッパからの客が釣り上げたバラクーダ(オニカマス)が吊り下げられていた。1m以上もある巨大なオニカマスだ。これを見てもマングローブ林がある川の栄養が豊かなことが良く分かる。

 

釣り目当ての観光客.jpg

釣り目当ての観光客が釣り上げたバラクーダ(オニカマス)

トゥバクータのホテルにて

 

 

カヤックの候補地を見に行く

 仕事ではエコツーリズムも行うことになっているので,村に滞在した人がカヤックでマングローブ林を観察しながら楽しむという活動も計画に入れていた。そこで,一旦ホテルに帰ったもののもう一度,夕方になりカヤックに適した場所を見に行った。朝行った貝殻島付近まで来て,その前の小さなボロン(水路)に入る。まったく波だっていない静かなボロンだった。サギ類が沢山みられるとのことだったが,この日は,あいにく鳥はほとんど見られなかった。少し時間が遅かったのだ。しかし,あまりに静かな水路で,この辺でのカヤックによる観光は良いのではないだろうかと一つの候補地に上げておいた。

 

リゾフォーラの足に付いた.jpg

リゾフォーラの足に付いた沢山のカキ。

 

干潮になり,リゾフォーラの足.jpg

干潮になり,リゾフォーラの足がでてくる

 

全く波がない静かな水路.jpg

全く波がない静かな水路でカヤックの適地を捜す

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.3

森林紀行

調査地域周辺の概況

ダカールでの宿泊地

 ダカールでは最初,市内の中心にある有名な名前のホテルに泊まっていた。ホテルの値段は高級だったが,何となく小汚く,設備も良いものではなかった。

 しばらくしてから,砂丘での植林のプロジェクトを行っている者が宿泊しているキッチン付のアパート形式のホテルの方が,仕事がしやすいとわかった。当時の電話回線によるインターネットの接続の具合は良かったし,部屋は清潔で広く,メンバー全員が集まっての仕事もやりやすかったので,そのホテルをダカールでの仕事の基地とした。

 ホテルの入り口ではきちんとチェックされ,治安上も安全性が高かった。アパート形式であるので,食事は外食か作るかだったが,スーパーマーケットも近くにあった。値段は高級ホテルと変わらなかったが,仕事優先でそのホテルを,その後ずっと基地として使った。

 

ダカールのアパート形式のホテル.jpg

ダカールのアパート形式のホテル

 

 ホテルの周辺では喧噪としていて,埃っぽく,夜になると薄暗く,実際にポリ袋のゴミが舞っている汚い場所も多々あった。その点,ホテルは清潔で,部屋はキッチンと寝室と分かれていて,居心地が良く,仕事がしやすく別天地であった。

 こんなことがあった。ホテルでは沢山のメイドさんが,掃除などで働いていた。メイドさんといえば,中年くらいの方が多いのかなと思っていたが,良く見ると若い方が多いのである。廊下で掃除しているメイドさんにすれ違った時に,「このホテルはとてもきれいだね。」と言うつもりで,「ボンジュール。セ・トレ・ジョリ(これはきれいですね。)」とホテルを抜かして言ってしまったところ,「えっ。私がきれいですって。」「ウィ,ウィ,あなたはとても美しいですね。」「ありがとう。私いつも皆からとてもきれいって言われているのよ。うれしい!」

 若い娘さんが皆から美しいと言われる言葉を待っているのは世界共通である。

 

森林局の位置

 森林局はホテルから車で渋滞がなければ15分くらいで行ける位置にあり,半島の付け根の方向にあった。土日は車がそれほどでもなくスムーズに行けたが,平日はいつも渋滞が激しかった。それも調査が始まった頃はまだましだった。その後調査の終了する数年後には,渋滞は益々激しくなった。渋滞に巻き込まれると森林局まで少なくとも30分,時には1時間もかかることがあった。

 

森林局のメンバー

 調査中は,日本とセネガル間を何回も往復した。ダカールに着いた時には,森林局の本局で,その都度,調査の進捗状況やその後の調査の方向など,何らかの会議を行った。いつでも局長か局長代理には報告をした。

 調査開始の最初の会議では,調査の全体計画について説明し,セネガル森林局の幹部や関係者と会議を行った。

 事前に全体計画を説明した報告書を送っていたので,非常に詳しく中身を読んでいる職員もおり,突っ込んだ質問をしてきて,感心した。失礼ながらその方は,体も大きく,声も大きく,表情は厳しく見え,実際はやさしい方ではあったが,怒られているような印象を受けた。私はまだフランス語が良くわからなかったが,通訳を通すと,普通にしゃべっており,もっともなことを言っているのであった。

 森林局の職員では,日本のプロジェクトに以前から関わっていた方が,セネガル側の責任者として,この仕事を動かしてくれることになっており,良くやってくれた。すぐ後に,この方に代わって責任者となる方も最初から中心的に動いてくれた。二人ともとても協力的だった。

 

セネガル森林局での最初の会議。調査の全体計画を説明.jpg

セネガル森林局での最初の会議。調査の全体計画を説明

 

最初の現地

調査地域を掲げると次の地図のとおりで,プティット・コート(小さい海岸という意味)からサルーム・デルタまで相当に広い地域で,最初に現地に向かったときはダカールから南に下り,ティエス州のムブール県あたりから海岸線を観察しながら,途中のホテルで泊まりながら徐々にサルーム・デルタに近づいて行った。

 

ダカールからファティックへ

ダカールからファティックまでの道は,海岸線を行く道路とやや内陸側の大きな町,ティエスを通り行く国道があった。どちらも舗装され,良く整備されていて,車は,かなりのスピードを出すことができた。交通事故には十分に気を付けなければならず,運転手にはいつも口を酸っぱくし,スピードを出し過ぎるなと注意していた。

 

ダカールを出たあたりの国道にて.jpg

ダカールを出たあたりの国道にて

 

ダカールからティエスに向かう途中。.jpg

ダカールからティエスに向かう途中。

タバスキ(断食明けの犠牲祭)の時期には羊が売り買いされる

 

ダカールからファッティックへ.jpg

ダカールからファッティックへ

 

調査地域.jpg

調査地域

 

調査地域内の主な町

 調査地内には,活動の拠点となる大きな町が,東にカオラック,北にファティック,南西にトゥバクータ,北西にムブール,中心付近にフンジュンがあった。

 

主な町はカオラック,ファティック,.jpg

主な町はカオラック,ファティック,フンジュン,ソコン,ソコンの南にトゥバクータがある

 

 一番大きな町はカオラックで,町は縦横に道路が広がっていて,人口は2000年には17万人ほどだった。ムブールもほぼ同じくらいの規模だったが,マングローブ林が広がっているというわけではなかったので,活動の対象からは,はずした。

 ファティックは2万5千人程度,フンジュンが5千人程度,トゥバクータが千人程度の町だった。

 

活動拠点をどこに置くか

 ざっとした計画の流れでは,1年目は,全体のマングローブ林を持続的に管理する全体計画を作成し,住民の生活向上に役立つ活動を幾つか計画し,実際にその活動を始め,その後ほぼ2年間その活動を行うことだった。そのため最初に行ったときは,活動の拠点をどこに置くか,いろいろと現地調査をしなければならなかった。

 

ファティックの営林局

 森林局の拠点としてはファティックに営林局があり,ここには職員が20人ほどおり,この管内の各地区に営林署があり,そこには署長が一人と,若干の助手がいる場合があった。

 

 最初にファティックの営林局に着いた時は,とても暑いと感じた。ファティックの営林局の空いている部屋を活動の拠点にしても良いとのことをセネガルの森林局本局から言われていたし,ファティックの営林局長も提供する意向を持っていた。

 しかし,ファティックはとても暑く,クーラーは設置されてなく,部屋も狭く,机や書棚も用意されておらず,すぐに事務所として使うのは難しいので,他の場所をいろいろ見てから決めることとした。

 

ファティックの営林局の看板.jpg

ファティックの営林局の看板

 

ファティック営林局の事務所。この右側の空き室が.jpg

ファティック営林局の事務所。この右側の空き室が

プロジェクトの事務所として提供されるはずだった

 

ファティック営林局の幹部。右の方が当時の営林局長.jpg

ファティック営林局の幹部。右の方が当時の営林局長

 

このファティックの営林局の局長は,とても親分肌で,この後もこの営林局によれば必ず食事をして行けと,引き留められた。特に覚えているのはマフェと言って,ピーナツバターをペーストにしてシチューにしたもので,食べるとあとで腹がパンパンに膨らんでくるのであった。

 

ファティックの営林局長の家のガスコンロ。これで料理.jpg

ファティックの営林局長の家のガスコンロ。これで料理

 

ファティックからフンジュンへ

ファティックからフンジュンの手前の川の渡しまでは車で30分ほどであるが,道が悪くガタガタであった。当時一旦は舗装されていたが,その舗装に穴が開き,段々と広がり既に舗装の後は見えないほどに傷んでいた。

 

ファティックからフンジュンへ.jpg

ファティックからフンジュンへ

 

 

白い土はタンと呼ばれ,マングローブ地帯.jpg

 

白い土はタンと呼ばれ,マングローブ地帯に広がる。塩分が集積し,植生の侵入は困難


 この状態はフンジュンから東の方面に向かって行き,カオラックから南に下る国道とぶつかるパッシという町までも同様だった。舗装がはがれひどい状態である。むしろ舗装がなく土がむき出しの道路の方が走りやすい状態だったので,運転手は舗装が完全にはがれた土のみの所を選んでくねくねと走るのだった。それで私は車酔い気味になるのだった。

 

フンジュンの渡し場

 ファティックからフンジュンに向かって行くとフンジュンの手前でサルーム川を渡らなければならず,ここにはしけがあり,車を10台ほど渡せるのであったが,いつも待っている車をうまく船上に収めるのだった。

 最後の渡しの時間が午後6時だったので,その時間に間に合うよう,時間が迫っている時はいつもひやひやものだった。

 この渡しは乗っている時間は10分?15分ほどだったが,車を乗せたりし,30分ほどかかるのだった。

 

フンジュンの渡し場の前で 川幅約2?.jpg

フンジュンの渡し場の前で 川幅約2?

 

ときどきフンジュンの渡しに観光船がきている.jpg

ときどきフンジュンの渡しに観光船がきている

 

フンジュンのはしけ.jpg

フンジュンのはしけ

 

植林のプロジェクトの時から長い間使っていた運転手と.jpg

植林のプロジェクトの時から長い間使っていた運転手と

 

渡し場で沈む夕陽。いつもきれいな夕陽が沈む.jpg

渡し場で沈む夕陽。いつもきれいな夕陽が沈む

 

基地としたホテ

フンジュンのホテル

 調査地内をいろいろ調査し,大きな町のホテルにもいろいろ泊まり,仕事上一番拠点となるフンジュンのホテルを仕事の基地とした。それはフンジュンからデルタ地帯に広がる島にある多くの村にボートで行くには最も適した位置にあったからである。

 だいたいどこでも部屋は,小屋作りで,一戸建ての真ん中で仕切られ,二部屋続きの長屋が多かった。

 居心地は,快適とは言えないまでも,ベッド,シャワー,音はうるさいが古いクーラーもあり,朝晩の二食付きで,仕事用のテーブルを入れてもらい,仕事をするには問題はなかった。

 どちらかと言えば,ヨーロッパからの観光客を目当てに作られたものだ。

 しかし,このフンジュン以外にも,南の村を調べにトゥバクータのクールサルームという名のホテル,北の村を調べに行くには,フィムラという町にあるペリカンという名のホテルを基地にした。

 

フンジュンのホテルへの入り口の道.jpg

フンジュンのホテルへの入り口の道

 

フンジュンのホテルの入り口付近.jpg

フンジュンのホテルの入り口付近

 

左は野外の休憩所.jpg

左は野外の休憩所

 

食堂.jpg

食堂

 

プールもある。.jpg

プールもある。ライフジャケットの試作品を付け試し泳ぎをしたくらいしか泳げなかった

 

桟橋があり,ここからデルタ内の村に向かった.jpg

桟橋があり,ここからデルタ内の村に向かった

 

 

これはジナックという村のホテル.jpg

これはジナックという村のホテルの部屋であるが,どこでも似たスタイルの部屋だ。

フンジュンのホテルは木造りで柔らかみがあった。

 

 

トゥバクータ

トゥバクータではクールサルームホテルと言う名前の大きなホテルを基地にした。ここも同じように小屋スタイルのホテルだった。そこはセメントで作られた小屋でフンジュンの木作りの部屋の方が,ずっと居心地が良かった。

やはりヨーロッパ人用のリゾートとして作られたホテルでここからボートで鳥やマンブローブを眺めたり,観光客用のものだった。

ドイツ人など一週間くらい何もせずに,ただボーッとして過ごしている客もいた。

 

ヨーロッパからバラクーダ(オニカマス)釣りの客が来る。.jpg

ヨーロッパからバラクーダ(オニカマス)釣りの客が来る。

 

ホテルの送迎用バス.jpg

ホテルの送迎用バス

 

 

ホテルの前にはサルーム・デルタ.jpg

 

ホテルの前にはサルーム・デルタが広がり,マングローブ林だらけだ

 

ボート発着用の桟橋がある.jpg

ボート発着用の桟橋がある




 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.2

森林紀行

いざ,セネガルへ

 前回,最初のセネガル訪問前の準備では,大きな不安感を持っていたことを書いたが,到着してみれば,セネガルの森林局の職員達の受け入れは暖かく,今後この人達と共同で仕事を,うまくやっていけるだろうと思わされ,一安心したのであった。それもそのはず,メンバーには,マングローブの調査のだいぶ前から始まっていた北西部の海岸線の砂丘での植林の仕事に携わってきたものが半分近くもおり,この国の森林局の多くの職員等とは旧知の仲だったからである。

  さて,順に書いていくと最初は,どうしても旅行のことを書くということになってしまうが,ここでも同じように旅行から書いて行く。

 

東京からパリ間

 とりあえず,往きについて書こう。最初の出発は,2002年の1月14日(月)のことだった。昼過ぎに東京を発ち、同日の夕方18時くらいにパリに着いた。この路線は,1990年代にモロッコの仕事で,何回も往復しているので,新鮮味はなかったが安心感があった。

 冬なので,パリの日暮れは早い。暗闇の中の到着である。夏であれば,逆に22時くらいまでは明るいので、何となく安心感があるが,暗いとやや不安感が湧く。

 また,冬の出発は日本やパリでは,寒いので冬服にコート,セネガルは熱帯で暑いので,夏服と両方持っていかなければならず,また,ずっと冬服を保管しておかなければならないので,荷物は増えるわけである。

 

 飛行機はエアフラかジャルを使っていたが、エアフラの方が食事も良いし、アテンダントも洗練されているような感じがする。エアフラのアテンダントは男性も多いが,日本語も話すし,感じが良い。

 

 飛行はだいたい安定しているが,冬に行った何回目かの訪問の時は,偏西風が強く,東京からパリまでの間、ずっと小揺れが続き、時々大きく揺れ,うつらうつらすると揺れで起こされ、ほとんど眠れない時もあった。

 

 また、冬のある時は、パリが雪で空港が一時閉鎖になり、降りられず,緯度はパリと同じくらいだがフランスの東の町,ストラスブールに降りてしまい、どうなることやらと思ったことがあった。この時は,同僚とパリで待ち合わせていて,翌日一緒にダカールに行く予定だった。パリの到着が一日遅れると関係者への予定変更の連絡などであたふたしなければならないなあと思っていたところ,3時間ほどストラスブールに待機した後に,パリに向かい飛んだので事なきをえた。

 この時スチュワーデスに聞くと,「300人もストラスブールに降ろし,翌日パリに行くとなるとエアフラとしてもホテルや食事代の負担が大変だから,パリの空港も雪掻きを急いでいるはずで,きっと飛ぶわよ。」と言っていたのを思い出す。そのとおり,飛んだのでよかった。

 

有名テニス選手が同じ機内に

 また,その時東京からの機内には、当時,女子テニスで有名だったオーストラリアのドキッチ選手が乗っていた。コーチか恋人らしき人と一緒であったが、パリの空港で荷物を取る時に時間があったので,待っている間に話かけてみた。テニスのコンディションなどきさくにいろいろと話してくれた。すっかり大ファンになったが,トップへは今一歩のところだった。

 

シャルルドゴール空港

 以前にモロッコの仕事をしていた時からシャルルドゴール空港を利用しているので,空港の構造はだいたい分かっていたが,いつも案内に行って聞かないと,目的の出口に着けないのであった。たまに通過するだけなので,たぶん一時的に方向音痴になるのであろう。モロッコの時には,所々で工事をやっていたし,このころにも拡張工事をしていた。

 

同僚とも会える

 ストラスブールに降りてしまい,到着が遅れたが,夜遅く同僚とも会えた。待ち合わせ場所は,その同僚の友人がパリ市内でオーナーシェフをしているレストランとした。飛行機が遅れた関係で,私は待ち合わせ時間より遅く,そのレストランに着いたのに,その同僚がまだ来ていなかった。しばらくしてその同僚が着いたが,一体どうしたのか聞くと,地下鉄を乗り間違え,別な場所に行ってしまい,戻ってきたので,時間を食ってしまったとのことだった。その同僚はフランス語でも食べて行けるほどのフランス語の実力の持ち主で,パリにも詳しいのだが,地下鉄の路線を間違えてしまったのだ。もっともパリに住んでいるわけでもなく,たまにパリの地下鉄に乗ったのでそういうこともあろうと思った。我々でも東京の地下鉄を間違わずに最短距離で目的地に着くのは難しいくらいだから, パリの地下鉄も同じように複雑に入り組んでいるので最短で行くのは難しいのだと思ったものである。

 

パリの市内

 パリからダカールに行くには,エアフラを使っていた。東京からの便がパリに夕方着き,パリからダカールまでの便が,夕方に出発するので,同日には乗り継ぐことができないので,パリにはほぼ一日滞在することになる。だいたいは,パリ市内の中心付近のホテルに泊まり,パリ市内をいろいろ見学することができた。

  冬はすぐに暗くなるので,良さそうなレストランなどを捜し,時には予約をしておき,食事を楽しみ,夏はいつまでも明るい夜をカフェーでパリの雰囲気を味わった。パリから出発までの時間は,これから始まる大変な日々に備えて,英気を養うことができたのだ。

 

パリ市内(2002年1月).jpg

パリ市内(2002年1月)

 

同上_6-2.jpg

同上

 

食事を楽しむ.jpg

食事を楽しむ

 

エッフェル塔の近くで(2002年10月).jpg

エッフェル塔の近くで(2002年10月)

 

パリからダカール間

 この間の直行便はエアフラだけだったと思う。時には出発が遅れることもあったが,だいたいパリを16時半くらいに飛び立ち,ダカールに21時半くらいに着いた。時差は東京とパリ間が夏は7時間,冬は8時間。東京とダカールは一年中9時間だ。パリとダカール間の実質の飛行時間は6時間くらいだ。

  東京とパリ間ではリラックスした時間を送れるのだが,ダカールに向かってパリのシャルルドゴール空港に着いたあたりから,さあ仕事だと,あれこれ頭の中で段取りを考え,段々とプレッシャーがかかってくるのだった。自分でかけているのかもしれなかったが,また,周りのメンバーも同じような状態だったからお互いにプレッシャーを掛け合っていたのかもしれない。今はたまに観光で海外旅行に行くことがあるが,この気楽さに比べて,仕事の時は常に仕事のことばかりを考えており,余裕がなかったなあとつくづく思う。

 

ダカールの空港

 さて,ダカールの空港は,2002年に最初に到着した頃は,古い空港だったが,その後,長い間改修をし,本格的な調査が終わる2009年頃には改修が終わって,新しい空港に変身した。

  最初の頃は,空港での手荷物検査が済んで,空港の外に出ると,多くの無許可のポーター達がたむろしていて,ごった返していた。いつも到着するのは真っ暗の21時?22時くらいで,ダカール独特の生暖かい?生暑いくらいの気怠い空気が漂っていた。ダカールが海に突き出した半島なので,湿気が多く,暑さもそれほどでもない。しかし,この気怠い空気のなかでも緊張を強いられる。ポーター達は,荷物をかってに持っていってしまい,車はどこだと,金をせびるのである。彼らにはこれが生活の糧だから,それはそれとしてかまわないが,こちらは,荷物をかっぱらわれては,困るので油断もすきもあったものではなかった。空港の改修後は,この状態はかなり改善されたが,全く改善されたわけではなかった。

 

ロストバッゲッジ

 到着した人が乗っていた便で,持って行ったスーツケースが一緒に着かないのが,数日後には着くのだから,一時的なロストバッゲージというのだろうか。私もチームメンバーもこの被害には度々あった。

 

最初に同僚のスーツケースが着かなかった時

 最初にセネガルを訪問した時は,我々のチームは人数が多かったので,全部で15個くらいスーツケースを持って行ったが,全部無事着いた。それから一カ月ほどして,河川や海の塩分濃度など海峡調査をするメンバーが,着いた。その時,そのメンバーが持って来たスーツケースが着かなくて困った。毎日同じ時間に空港に通って3日目にようやく着いた。主要な機材は,最初に来た我々が持って来ていたが,その彼も他にも必要な機材を持って来ていたので,3日間心配させられたが,事なきを得て良かった。

 

  その時,分ったが,いくつかのスーツケースは着かないのが当たり前で,ダカールの空港には,スーツケースが着かなかった人のための窓口が設けられていて,日本円にして数万円程度,当座の補償金として,渡されるのであった。この当時,パリの空港ではアフリカ便の荷物を重視していなかったということなのだろう。

 

大事な書類が入ったスーツケースが着かなかった時

 チームでは東京とセネガル間を何回も往復しているので,少なからず,ロストバッゲージにあった。私も機材も含めて持って行った3個のスーツケースが着かなかったことがあり,補償金がもらえて,素早い手続きは,良かったが,翌日森林局で,協議するかなり分厚い資料を相当数持って来ていたので,大いに困った。

  その資料がなければ,仕事を進めることが難しかったため,植林の仕事で,共同で仕事を進めている会社に頼み,深夜からコピーを取らせてもらい,事なきを得た。原は手持ちで持って来ていたので助かった。結局ホテルに入ったのは朝方で,翌日は徹夜状態で会議をしたが,到着直後で,時差のため眠気はなく大丈夫であった。この時は,翌日この3個のスーツケースが着いた。日本での準備がくたびれ儲けで終わり,腹立たしかった。

 

ロストバッゲージのスーツケースが着いた時の喜び

 その後もスーツケースが着かなかったことがあった。到着翌日,夜パリからのエアフラ便が着く時間に空港に行って待機していたが,やはりその日も私のスーツケースは着かなかった。非常に腹が立ったが,どうにもならない。同じ様に昨日荷物が着かなくて,空港に荷物を取りに来ているひとが数十人いた。中には荷物が着いて,ほっとし喜び勇んで帰る人もいた。最後の荷物が出てくるのを見届け,私のスーツケースが届かなかった時は,どん底まで落とされたようで,本当に落ち込んだ。2日も着かないと,本当に無くなってしまったのだろうか?と疑心暗鬼になる。がっかりして,ホテルに戻ろうと思ったところ,空港の職員に殴りかかろうとする英語でしゃべっているアメリカ人らしき人がいた。昨日到着して荷物が着かなかったのに何で今晩も着かないのだ。どうしてくれると息巻いている。周りの職員がまあまあとなだめて,その日は,どうにかそれで収まった。私の気持ちだって同じだった。

 翌日また,夜同じ時間に行くと,昨日息巻いていた人もいた。するとこの日は,その人の荷物も私の荷物もでてきた。私はほっとした。その人を見ると,昨日殴りかかろうとした職員に抱き着き,飛び上がらんばかりに喜んでいる。そして,「Thank you. Thank you. Thank you very much.」と何事があったかと思わんばかりである。

 なるほど,人は敵から不幸のどん底に落とされたとしても,また,その敵がどん底から救ってくれるとなると,敵に対しての怒りも喜びに変わり,とてつもない感謝をするものだと思ったものである。重ねて書くが,昨日も今日も正直私の気持ちは,このアメリカ人らしき人と同じであった。

  こういった人間の心理を利用し,はるか昔から,これに似たような懐柔策を使って,人間が人間をコントロールしてきたことは多々あったなと思ったものである。

 

 

 

つづく

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.1

森林紀行

セネガルマングローブ林調査の概要

はじめに

セネガルの南西部サルーム・デルタにあるマングローブ林は,不思議なところだ。翼竜のような大型の猛禽類が,生態系の頂点に立ち,水路を移動していれば,それらが自然と目に入ってくる。それだけ自然が豊かなことだということだ。迷路のようなデルタ地帯。一旦入り込んだら,磁石やGPSさえ利かなくなり,決して外界には出ることができなくなってしまうというブラックホールのような場所さえあるという。地元民が恐れている場所だ。誰もが恐ろしくてそこには近づかない。しかし迷ったら自然にその迷路に入り込んでしまうのだから,どうにもならないところだ。

 

マングローブ林地帯を飛ぶ翼竜のような巨大なサギ.jpg

マングローブ林地帯を飛ぶ翼竜のような巨大なサギ(羽根を広げると3m以上もある)

 

そういったセネガルのサルーム・デルタ地帯で2000年代に入っての初期,仕事をしていた。セネガルでは主に二つの仕事をした。一つは,セネガル南西部にあるサルーム・デルタでのマングローブ林の保護をしながら,そこに住む住民の生活向上を目指す仕事であり,もう一つは,北西部の沿岸の砂丘地帯で植林を行う仕事である。今回はマングローブ林について,主に書くが,このマングローブの仕事も二つの段階に分かれていて,最初にパイロット(試験)的に村で住民の生活向上のために様々な活動を行い,次にその活動を本格的に推し進める仕事である。ここでは,最初にパイロット的に行った仕事について主に記す。

 

セネガルに最初に行ったのは2002年の1月のことである。それから2004年末まで,この仕事にほぼ丸3年関わった。上述したようにマングローブ林では,生態系のピラミッドが良く分かり,そこに住む住民のマングローブ林に依存した生活は,とても興味深いものである。私も含めてチームのメンバーは,もちろん住民に溶け込んで仕事をしていたので,そこで経験した様々なことについて,記したい。

 

 

セネガルやマングローブ林の位置など

セネガルは,アフリカ大陸の最西端にあり,サヘル地帯(アフリカのサハラ砂漠の南縁の草原地域。セネガルからチャドまで,東西に帯状に広がる。)に位置している。

 

アフリカの最西端がセネガル.jpg

アフリカの最西端がセネガル

 

セネガル.jpg

セネガル

 

セネガルの南部のサルーム・デルタ地帯には約20万haもの広大なマングローブ林がある。このマングローブ林は西アフリカでの分布の北限にもなっている。

 

空からみたサルーム・デルタのマングローブ.jpg

空からみたサルーム・デルタのマングローブ

 

 

生態系のピラミッドが良く分かるマングローブ林

マングローブ林は,葉が海に落ちるとそれが養分となり,プランクトンが増え,プランクトンが増えると魚が増え,魚が増えると鳥が増え,と食物連鎖が良く分かり,鳥でもとりわけ,ワシ類,大型のサギ類,ペリカン類など生態系の頂点に立つ鳥を見ることができる。生態系のピラミッドの頂点に立つ鳥などはその傘下に多くの生物が住むことができることからアンブレラ種と呼ばれている。アンブレラ種が住むには広大な面積の森林が必要であるが,ここではそれがマングローブ林である。つまり,ここは生物多様性を維持する貴重な森林なのである。

 

マングローブ林に住む人々

そして,このマングローブ地帯には多くの住民が住んでおり,この当時,調査地域のマングローブ林地帯には,約30万人程度が住んでいた。住民達は,永年にわたってマングローブ林を利用し,木材建築材や薪炭材を採取してきた。また,マングローブの海域を漁場として利用し,また,陸地は,農地として利用してきた。最近は,その風光明媚な景色に多くのヨーロッパ人も訪れ,観光の対象にもなっているのである。

 

マングローブの島に住む子供達の元気な顔.jpg

マングローブの島に住む子供達の元気な顔

 

 

もう一度,詳しくマングローブ林の位置

マングローブ林の位置は,行政的に言えば,セネガル国のティエス州のムブール県,ファティック州のフンジュン県,それにファティック県にかかっていた。下の図で四角囲った約60万haで,その中のマングローブ地帯は約20万haだった。

 

四角で囲った地域にサルーム・デルタのマングローブ林がある.jpg

四角で囲った地域にサルーム・デルタのマングローブ林がある

 

 

セネガルの特異な位置

最初に地図でセネガルを見た時に,おもしろい形をした国だと思ったものだ。左を見ている人の顔のようでもあり,鼻の最先端に首都ダカールがある。ここはアフリカ大陸の最西端でもある。ダカールは下北半島にやや似るが,尖った斧のようである。面積は下北半島の1/3程度の狭さである。

ダカールは人口稠密であり,渋滞も激しい。土地を物理的にこれ以上広げることはできないので,今後発展するとなると超高層化であろう。

口に当たるあたりにはガンビア国があり,セネガルの中に侵入しているようでもある。セネガルはフランス語圏でガンビアは英語圏である。これも昔の植民地のなごりである。

 

 

私がセネガルに行った期間

整理してみると,この仕事では,3年間のあいだに日本とセネガルの間を11回往復し,約1年間セネガルに滞在したことになる。他の仕事でもセネガルに行っているので,合計すればセネガルには約1年半程度滞在していたことになる。

 

 

最初の出発前の準備

私はこの時,もう50才を過ぎていた。若い時は海外の調査にいくとなると新しい発見があるのではないかと,ワクワク期待感が大きかったが,齢と共に段々と責任も重くなり,最初の出発前は非常に不安感があった。

 

 

肝炎の影響

というのは,ジンバブエでA型ではあるが肝炎に陥り,現地で1ヵ月入院,回復して約2年ほどであったが,体力的にも精神的にもどん底の状態にあったからだ。ジンバブエの医者は,すぐれていたというべきだろう。日本の医者より,よほど親身だった。データはもちろんだが,患者と話し顔色をみる,様々に触診するといった具合だった。帰国する折には,大病をしたあとには,精神的な影響が残り,後にうつになることがあるかもしれないから十分に注意するようにという言葉をもらった。そのとおり,体力がないことからうつ的になり,病院では精神安定剤などを処方してもらっていたからである。

 

肝炎の影響は少なくとも5年は残ったし,その後,アルコールにはめっきり弱くなり,今でもその影響は残っていると言っても過言ではない。その他にも仕事では,まず初めて行く国は不安であることと今回の仕事自体が複雑で,うまく進められるかどうかわからなかったからだ。うつ的な状況がそれに拍車をかけたのであろう。私は団長ではなかったけれど,副団長で実質的に全部をまとめなければならなかった立場でもあったからだ。

 

出発前に活動計画は全てできていたが,正味丸3年以上,足掛け5年に及ぶ調査に私の人生のこの先5年は決まってしまったと,自由を奪われたような感じを持ってしまったのも,この時のうつ的な感情がそう思わせたのだろう。実際,今から思うとこんな楽しい,フィールドワークはなかったのである。このような素晴らしい経験をさせてくれたことには感謝してもし過ぎることはない。なぜなら様々な危機を乗り切り,こうしてこのような紀行文が書けるからだ。

 

 

最初の出発時の時のこと

とにかく,書類や精密な塩分濃度測定器など必要な機材はすべて準備し,その測定を補助するセネガルのコンサルタント会社などともコンタクトし,出発前の状況はすべて整えた。

 

私は,どの調査でも同じようなことを行うが,この調査では,正月休みには,現地の土地の位置関係を頭にいれるために,手に入れた5万分の1の地図と航空写真上に水路と道路,それに村の位置などを記入していた。この地図と航空写真は実に役立った。そして正月休みが終わり,最初の出発日が段々と近づいて来た。チームメンバーは7人とそれに公的な立場の方々2名,合計9名という大調査団で,2002年1月14日(月)パリ経由でダカールに向かって出発した。

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.12

森林紀行

最終報告書

最後の報告書の説明会へ

 報告書が出来上がった後に、1985年2月8日から2月23日までの2週間、最後の報告会に行ったのであった。報告会が無事終わり、帰国後、パラグアイ側の希望などを取りこんで最終の報告書を作成した。

 

 

計画の概要

 今から30年以上も前のことではあるが、ここで計画の概要をごく簡単に述べると、毎年約1,000haずつ6年間に渡って植林する計画であった。植林面積はもちろん初年度が少なく、徐々に増やして6年目が植林面積は最も多い。植栽培樹種は、針葉樹のエリオッティマツ、テーダマツ、カリビアマツを中心として伐期を20年とした。一般建築用材を生産目標にし、間伐材はパルプ材や牧柵用材とした。

 パラナマツは材質が良質なので、伐期を30年とし、一般建築材でも良質材を生産目標にした。

 その他、広葉樹でユーカリ、パライソ(成長が早い)の外来種と郷土樹種でラパチョとペテレビを植栽することとした。

 針葉樹と広葉樹の植栽割合は90%対10%である。

 初期6年間は天然林の伐採収入が入り、9年目から間伐収入を予定した。

 雇用する労働者は多い年で約300人、少ない年で約60人程度であり、50年間で述べ約5,000人、年平均で約100人だった。

 林道は10m幅で幅員は6m、左右2mは伐開整理し、保護樹帯も設けることとした。施設は中央事務所、修理工場、倉庫などと職員アパート、診療所、学校、教会なども計画した。

 機材も重機、消防自動車、ジープ等の車両類から事務機器まで非常に細かいところまで設計した。

 50年間に支出する額は約4,000億グアラニー(約2,700億円、1$=350G、1$=240¥)で、収入は約8,000億グアラニー(約5,400億円)となった。収支が黒字に転じるのは19年目からで、内部財務収益率は19.6%となった。これは50年間も実行すれば非常に儲かる数字である。

  資金は15?16年目くらいまで借りる必要があり、30億グララニー(約20億円)借りられれば、計画は実行できたのではないかと思う。

 

 

その後

 それから2年たった1987年3月に別の仕事でパラグアイを訪れた。

 

森林局にて1987年3月28日.jpg

森林局にて1987年3月28日

 

 その時パラグアイの森林局には日本から専門家が派遣されていた。我々の作成した計画の実行立ち上げのため、森林局の技術者達を鍛えていた。

 

 専門家の指導は厳しく森林局の技術者と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地におり、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールであった。森林局の技術者も音を上げていた。

 

  この時皆で日本式に最初の木に斧入れをするので安全祈願祭を行い、私も参加した。お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。ご神木として選んだ木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。その後、全員が各々お祈りをした。

 

安全祈願祭 1987年3月31日.jpg

安全祈願祭 1987年3月31日

 

技術者全員に訓示をする長官.jpg

技術者全員に訓示をする長官

 

 

カブラルとウエスペ

 この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、カブラルが家に招待してパーティを開いてくれた。ウエスペともう2組の友人達も来た。カブラルは新婚であった。カブラルの奥さんは、ずっと以前から私は知っていて、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりした。奥さんは薬局を経営していた。ウエスペの奥さんはもう少しで子供が生まれるくらいの時期であった。

 

カブラルから手紙をもらい.jpg

 

 その後、カブラルから手紙をもらいそれには「増井、家族ともども元気だよね。息子の写真を送るよ。早くパラグアイに遊びに来なよ。待っているよ。カブラル夫婦」と記されていた。

 

 

通訳の若者

 この時は、前に通訳をしてくれた若者にも会った。彼は、カピバリの調査が終わる頃の彼女と結婚をしており、一児をもうけていた。彼にしてもそうだが、前の二人もとても夫婦仲が良さそうに見えた。これは日本人では人前では恥ずかしがって見せられないのが、オープンに仲が良いところを見せられて、とってもいい雰囲気に見えた。私も人前で仲良くみせられたら、もっと良かったかもしれない。日本人も一般にもっと人前での夫婦仲が良いのを見せれば世の中も明るくなるだろう。

 

 

それからのその後

 その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は日本代表として派遣されたのだった。

 コリエンテスはパラグアイの対面で、アスンシオンから近く、もしかしたらパラグアイの代表もきているのではないかと期待していたところ長官とエンシーソーが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。

 その後、前述したようにエンシーソーとは彼が2000年くらいに日本に研修で来た時にあった。その後、彼は森林局の長官となった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、長官とそっくりになったのには驚いた。

  これにて、パラグアイのカビバリの造林計画についての話は終わりにし、次からはセネガルのマングローブ林について書く予定である。

 

 

 

「パラグアイ – 造林計画調査編」終わり

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.11

森林紀行

現地確認調査へ

 とにかく国内での計画作りは、終わり、その後、その計画が実際に実行可能か確認のために、再度パラグアイに向かった。このとき、前回記したように団長は、病み上がりの身であった。出発は1984年11月2日(金)だった。

 

アスンシオンにて

 到着後11月5日(月)に企画庁の長官に挨拶に行くが、入植者問題は、既にかたづいたような口ぶりである。「土地が確保できたから早く植林を実施したい。」などと言う。

  計画地域に入っている住民は移転させると言っているので、「その具体的手続きはどうなっているか?」と質問すると、あいまいではっきりと答えられない。「いずれにせよ法令が出されて土地は確保されるので大丈夫だ。」と言う。一旦住民が入ってしまえば、移転は、普通は無理なので、これではあてにならないと思ったものである。南米特有の何の根拠もなしに、安心しろというのと同じである。

 

 

移転は無理である

 翌11月6日(火)には森林局の長官と話し合った。この時、「パラグアイに出発前に東京で、既に東側の土地から西側に入植者を移転させたとの話を聞いたが、その通りであるか?」と質問すると、長官は、「これから移転を開始し、計画を実行する段階ではすべての住民を移転させている。」と言う。いかにも南米的な答えである。東京に既に移転させたから大丈夫というのは、日本側に安心して来てもらいたいための方便だったのだ。実際は何にも片付いていなくとも、片付いているといえば、皆ハッピーだという感覚からきているのだろう。

 「今は住民が、植えた大豆、綿花の収穫が来年の3月になるので、それを待ってから移転を開始したい。また、問題はマンディオカ(南米の芋、キャッサバと同じようなもの)で、この収穫には木を植えてから最低1年はかかるので、移転には1年以上かかるだろう。」と言う。

  一体何だろう。これでは移転は無理だと言っているようなもので、実際には、進まないだろうと思わされた。結果的には、本当に移転させることなどできなかったのである。

 

 

セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会

 この時はアスンシオンの森林局で計画を説明した後、カピバリの現地のセロ・ドス・デ・オロの頂上に登り計画を説明した。

 この日は特に暑く団長は杖をつき、よろよろし、汗だくになりながらセロ・ドス・デ・オロに登った。相当辛かったと思う。私が手をかすと「いや、大丈夫だ。」と頑張った。

  日本から派遣されて、他の森林関係のプロジェクトを行っている専門家達やパラグアイの共同作業者達、14人も参加した。総勢約30人の大デレゲーションであった。この時はほとんどがペンションに泊まったから、ブトゥの小さなペンションにぎゅうぎゅう詰めで泊まったのである。

 

1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。.jpg

1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。

 

 頂上には計画を示した大きな図面を持って行き、どこにどのような樹種を植えるとか天然林で保護する地域はどこだとか苗畑の位置はどこだとか具体的に説明した。

 

 

ガウチョに出会う

 この現地検証時には、現地の確認のためよく森林を歩いた。その時いかにもガウチョ(カウボーイ)といういで立ちの人達に出会ったので写真を撮らせてもらった。森林が牧場に転換されていった最盛期なのでこのようなガウチョも多かった。

 

ガウチョ達.jpg

ガウチョ達

 

 

既に現場では食堂も開設

 また、計画地の近くでは、もう食堂などを開いて商売をしている店があった。こういった必要なものはすぐにできるのである。生きていくにはしたたかで、早く行動しなければならないのだ。そこにかわいい姉妹達が働いていた。

 

右がお母さん。その左から3人の娘。右のは一番下の娘。.jpg

右がお母さん。その左から3人の娘。右は一番下の娘。

 

 パラグアイ人のほとんどは、メスティッソ、メスティッサ(mestizo, mestiza) といって白人とインディオとの混血であり、ひときわ美人が多いと思った。3Cの国(Chile, Colombia, Costa Rica)は美人が多いと言われており、私もこれらの国に行ったが、確かに美人は多いと思った。コロンビアのアンデス山脈の村の中で、美人ばかりという感じの村があった。その話はコロンビア編で書くとして、パラグアイの山の中の田舎でもそれに劣らず美人は多いと感じた。

 

 

パラグアイ川での釣り

 通訳をしていた青年が、アスンシオンに帰ったときの休日にパラグアイ川に釣りに連れて行ってくれた。川幅は約1Kmもある。うまくいったらドラド(南米の淡水にすむ魚。成長すると全長約80cm。体が黄金色に輝き、大変に美しい)が釣れるのではないかと思ったが、ドラドはトローリングをして1日に1匹つれるかどうかくらい難しいとのことだった。ドラド釣りはあきらめ、小さな手こぎのボートで川岸から数10m離れたところで釣った。パラグアイで「マンディイ」と言われるナマズがやたらに釣れた。だいたい30cmくらいの大きさのものが多く、釣りごたえはあった。皆で釣果を競争したが、入れ食い状態なので、ここでは競争にはならなかった。

 

 

通訳の青年

 通訳の青年は、パラグアイ生まれの二世で、私のイメージではどちらかと言うと大胆だった。車の運転にも自信を持っており、彼が所有していた小型ワゴンに良く乗せてもらった。アスンシオンの市内をかなりのスピードで前の車との車間距離なく走るので、私が「こわいなあ。」と言ったら、「俺の運転のうまさを認めてくれないのか?」と気分を悪くしていたことがあった。

  とはいえ、彼のいい加減さなど私とは結構波長があった。私が日本から着て行った背広やワイシャツなど譲ってくれというので、いろいろなものを譲った。その後何年後だったか、彼が日本に遊びに来た時に会ったことがあった。その後音信不通になってしまったが、今はどうしているであろうか。

 

 

共同作業技術者達

 カウンターパートというのはパラグアイ森林局の共同作業技術者である。1年目のカウンターパートの中心人物は、北東部の調査のときも一緒に仕事をしたカブラルであった。

 カブラルは非常に真面目で信頼がおけた。森林局には予算が少なく出張旅費が出ないときがあり、他のカウンターパートは全員現地から引き揚げてしまったことがあった。しかし、カブラルだけは現地に残り、日本の調査団が働いているのに、パラグアイの森林局の者が働かないのではメンツがたたないと頑張ったのだ。出張旅費は、調査団で立替え、他のカウンターパートにも戻ってもらった。

 北東部で一緒に働いて、なんとなく気取っている感じであったウエスペは既に大学教授に転身していた。エンシーソーはカピバリから離れ、別のプロジェクトのカウンターパートとなっていた。

 

 2年目からは、ゴンサーレスとロペスがカウンターパートの中心となった。その他森林局の次長や部長がよく参加した。その他多くのカウンターパートが現場の作業には入れ替わり立ち替わり参加した。

 ゴンサーレスとロペスは仲が良く、年は私と同年代だったので、仕事はやりやすかった。どちらかというとロペスとは良く打ち解け、ゴンサーレスの方が多少硬かった。ゴンサーレスは非常にサッカーが上手で、大柄で体つきもいかにもスポーツ選手という体形で、ちゃんと練習していればプロのサッカー選手になれていたのではないかと思わされるほどだった。彼らの家にも招待されたことがあるが、立派な家で、彼らは地方の営林署長をしていたからさもありなんと思ったものである。ゴンサーレスには小さなお子さんがおり、ロペスは新婚であった。二人とも奥さんにはとてもやさしく振舞っていたが、実態は尻に引かれているようだった。

  ロペスが、日本に研修に来た時には三原山が爆発(1986.11)したときだったので良く覚えている。ゴンサーレスが来日した時は、家族が病気になったとかで日本に到着後すぐに帰国したことがあり、残念であった。

 

 

私の誕生日

 この現地検証調査の時に私はパラグアイで35才を迎えた。このとき森林局の連中も含めて私の誕生日を祝ってくれた。スポンサーはもちろん私であるが、アスンシオン内のしゃれたレストランに行った。飲んだり食べたりした後はダンスと決まっている。私も良くダンスを楽しんだ。

 

 

帰国後

 さて、現地から帰国したのが1984年12月1日であり、その後に最終的な計画作りに入った。何しろ経済分析を頼んでいる担当者からさっぱり分析がでてこない。50年計画で作らなければならないが、なんといっても資金計画が大変である。正月休みを返上し、我々はずっと電卓をたたいたり、大型コンピュータをつかって計算をしていた。

 1985年の1月は5日、6日が土、日で出勤は1月7日(月)からであった。計算量が多く電卓をたたいているが、電卓でできる量ではなかった。今のパソコンがあれば、相当楽だったのに、当時は電卓に毛が生えた程度のパソコンだった。

 計画した投入資機材が約250種類あり、それが内貨と外貨に分かれており、50年間ということで費用の積算だけでも250×50×2もあり、その他、様々な計算があった。結局当時職場で導入したIBMのスーパーコンピュータで処理したが、どの程度の能力だったのだろうか?

 その前に、1976年くらいにベーシック言語でプログラムを組んで計算できるIBMのコンピュータを導入しており、私はその時からプログラムを組んで計算させていた。コンピュータ言語のベーシックはフォートランとほとんど変わらなかった。ただ、今から思うと内部のメモリーは64Kしかなかったし、外付けの磁気式の大きな円盤のようなフロッピーディスクも8インチ(20cm)で、容量は1Mもなかった。けれどもプログラムさえできてしまえば、今のパソコンで処理するよりも、早くできたような気がする。

 情報処理については、隔世の感を禁じ得ない。たった30年である。超特急で進歩したパソコン。この後どのように進歩するのであろうか。AIが発達し、既に将棋も囲碁も勝てなくなったが、この世界のAIとの勝負では、今後人間が逆転して勝つこともあるのではないかと思う。南米的に何の根拠もない感覚ではあるが。

 

 

つづく

Page Top