森林紀行travel

               

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.8_モロッコ

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モロッコのアトラス山脈の森林

 アトラス山脈は雄大である。最高標高はトゥブカル山の4,167m。乾燥の影響が強く高標高の山地には樹木がない。地層がはっきりと見え,場所により褶曲地形も分かり,プレートが衝突してアトラス山脈が形成されたということが良くわかる。ここが昔,海だったということもアンモナイトやオウム貝,三葉虫の化石が発掘されることが証明している。私も山中で大きなアンモナイトの化石らしきものを発見したが持ち返れるはずもなく,それは記憶の中に残っているだけである。モロッコには,1992年?1994年,2005年にいずれも森林の計画作りで行ったものである。

 山麓は,かつては樹木で覆われ緑が多かったと思われるが,今は地肌がでた土地が多く,荒廃した風景に見える。これはヒツジとヤギの放牧により草木が食べられ,特にヤギは根まで食べてしまうこと,それに薪炭用に森林を伐採し過ぎ,そのペースが,自然が森林を回復させるペースよりも早く,その気候といえば,年間400?600mmと雨が少なくそれも冬に雨が降る地中海性気候だからである。

  ここにはシェーンヴェール(緑のカシ)という優占種がある。これは成長が遅く材が堅いので炭にした場合,日本の備長炭のように良い炭となり,多くの家庭で使われている。

 

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シェーンベールで作られた炭

 

 

 モロッコ料理のタジンにも沢山使われていて,特にマラケッシュからアトラス山脈へ向かうウーリカ谷で食べたタジンの美味しさは思い出すと今でも舌鼓を打ってしまうほどである。このシェーンベールが南向斜面では成長が悪く,ほとんどが疎林であるが,北向き斜面では10mほどの樹高まで成長し,密林となるのである。

 

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シェーンベールの密林

(乾燥地のため、これほどの密度がある森林は少ない)

 

 

 モロッコも北半球に位置していて調査地は約北緯32°で鹿児島と同じくらいの位置にあったが,晴れの日が多く,日射が非常に強い。この強い日射が南向き斜面には角度からしてもより直角に近い角度であたるので、地面は乾燥しやすく樹木が成長しにくいのである。樹木の成長のためには、ここでは光と温度よりも湿気や水分がより重要な要素になっているということがわかる。因みに日本でもスギの成長を見た場合,一般に南向き斜面よりも北向き斜面の方が,成長が良いのである。

 

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頂上付近に雪をいだくアトラス山脈

 

 

 その他,トゥーヤといってコノテガシワのような葉をした木やコルクガシなどもある。マツではアレッポマツの成長がよい。

 

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アレッポマツの人工林

 

 

 奥地にはたまに大きなアトラススギがある。これは日本のヒマラヤスギとそっくりで,樹高20m,胸高直径が2mの大きなものもみた。昔,このような場所ではアトラススギだらけだったのだろうが,今はほとんど消滅してしまった。森林の過伐が土砂流出など環境悪化の悪循環を起こしているのに対し,昔からオリーブやユーカリ,マツなどが多く植林されてきたが,依然森林の荒廃が続いているのがアトラス山脈の森林である。

 

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オリーブやアーモンドの植林地

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.7_ドミニカ共和国

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ハゲ山だらけのドミニカ共和国の森林

 植林や農業指導をしているペリキート村から対岸の山頂付近に植林したマツの調査に行った。2007年7月11日(水)のことである。技術者のホルヘとペリキート村のクリスティアーノと3人でラバに乗り山頂を目指した。

 

 

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グアジャバル村にて。ラバに乗り対岸の山頂を目指す

 

 

 クエバス川を渡る。河原は50mほどだが,川幅は20m,水深は1mくらいだ。山が急峻で木がないので,雨が降るとたちまち洪水のようになる。地形が平らになった所から河原には砂利が厚く堆積している。等高線を追えばここは50m,少し下流は100m程度砂利が堆積していると推定できる。ラバは川を渡るのをいやがるが、鞭でたたくと動く。ラバは馬鹿の代名詞のようだが,以外に頭が良くて,川の一番渡り易い場所を渡り,登るときも2本道があると遠回りでもより平らな道を選ぶ。

 

 

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低地の2次林

 

 

 河原が最も低く標高約700m。全山ハゲ山だが草地なので山は緑に見える。急斜面に豆類を栽培している畑が多く,マンゴーの木がやたらに多い。標高1000mくらいから傾斜が急になる。ラバのハナ息も荒くなり、汗もかき,毛がしっとりと濡れてくる。しかし、強いものだ。一日中、山道を歩いたってラバは疲れないとホルヘ。

 

 

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植林地へ

 

 

 バナナ、コーヒー畑も通る。標高1,000mで栽培されたコーヒーはブルーマウンテンと変らない。益々急斜面となる。風が吹くと暑さから逃れ気持ちが良い。ハゲ山の中にも植林したマツがある。畑に火入れをするので飛び火で,幹がこげ火あぶり状態だが生き残っている。こんな上にもマンゴーがある。牛が食べたマンゴーの種が排泄され生えたものだ。

 

 

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中腹

 

 

 

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飛び火から焦げたマツ。まだ生きている

 

 

 

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マンゴーの木が多い。途中牧場もある

 

 

 さらに上へ。標高1,400mくらいから頂上1,530mまでが植林地だ。住民達が我々の指導で植えたのだ。低い場所は農地や牧場で使っているので空いた土地は頂上付近にしかなかったのだ。オクシデンタレスという高地から低地までと適地が広く強いマツを植林した。頂上まで伐採されてしまい,全面びっくりするようなハゲ山だ。わずかに谷に樹林が残っている。

 

 

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頂上までハゲ山のドミニカ共和国の山(約1,500m)

 

 

 信じられないことに,このような高標高地までマメ類の畑がある。鳥は少ない。ツバメを一羽見ただけだ。蝶もいない。ヘビもみない。全く単調だったが,頂上からの眺めは素晴らしかった。マツの生存状況を調査してから、またラバに乗って降りる。降りるときの方がゆれて股関節と尻の皮に響く。

  コロンブスがこの島に着いた時は,山は緑で大きなマツがそこかしこにあり,船材に事欠かなかったとラス・カサスが書いている。ハゲ山になると侵食,洪水が起こり,生物多様性が貧しくなると良く分かる。こうなったのは,木材として利用し,火入れで畑や牧場に転換してきたからだ。あまりに人間の影響が大きい。雨量は、1,000mm以上あるから、必ず森林に回復する自然力はあると信じて植林指導をしていた。

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.6_パラグアイ

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パラグアイ_グアラニー族の大部族長に会う

 パラグアイ編の中から印象に残ったグアラニー族の大部族長と会った話を抜粋し、まとめた。1980年から5年ほど、私は南米パラグアイの仕事に携わった。1980年12月のある日,森林調査をしていると一人のグアラニー族の先住民に出会った。

 グアラニー族は,パラグアイに住む先住民で,最近のDNA研究によると日本人と最近縁の民族で,中国人や韓国人よりも近縁とのことである。そのような民族が日本からはるかかなた南米に陸の孤島のように生存していることが不思議である。

  彼らは森を自由に歩き,狩猟と栽培で暮らしていたが,このころは既に保護地に追い込まれていた。その数は減少の一途をたどっている。しかし,グアラニー語だけは,スペイン人と先住民との混血のメスティッソであるパラグアイ人に受け継がれ,パラグアイ人はスペイン語とグアラニー語を話すバイリングアの人々である。出会った先住民は,筋骨隆々,背中に銃とアルマジロを背負っている。後を付いて行き,掘っ建て小屋が数軒まとまった先住民の住居へ着いた。

 

 

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銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民

 

 

 そこで,孫の面倒を見ていた75才だと言うお爺さんと話していると,大部族長がすぐ近くに住んでいるから挨拶したらどうかと言われる。それは願ったりかなったりだ。森林内に住んでいる先住民に挨拶しておくのは,この森林に入る許可を取るようなものであるし,お互いの安全,安心に繋がる。

 お爺さんは,大部族長の家はすぐ近くで,1Km程の距離だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いついていくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。1時間以上、5km程歩かされて、大部族長の家に着いた。この辺の先住民の間隔では5kmは1kmほどで,1時間で歩く距離は,たいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。

 

  私は西部劇に毒されていた。私がイメージしていた大部族長は、頭には羽根飾りをかぶり,威厳のある顔だったが,実際の大部族長は全くの文明人で、普通の農民に見え,予想とは違っていた。グアラニー語だけを話し、スペイン語は話せなかった。州知事の保護認定書を見せてくれた。そこには「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をしてはいけない。」と書いてあった。大部族長から調査の許可を取り,珍しい手作りの弓矢を引かせてもらったりした。また,日蔭が少ない住居周囲は強烈な日射でとてつもない暑さだったので,木陰のハンモックで休ませてもらった。

 

 

先住民の大部族長の家で弓を.jpg

先住民の大部族長の家で弓を引かせてもらう

 

 

 当時この周辺には,一つにまとまった森林としては,九州に匹敵するくらいの大面積の森林が存在していたが,今は全て消滅し,牧場か農場に転換されてしまった。そのうちの150万ha(岩手県に匹敵)程の面積の森林を調査していたが,その中で保護地の面積は,わずか5,000ha,0.3%しかなかった。生きる拠り所としていた森林を消滅させられてしまった今,彼らはどうしていることだろうか?それに、森林が伐採されたのは1970年代から1990年代だ。森林の焼かれた後の墓場のような光景はなんともおぞましい。

 

 

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森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。

 

 

 何千年何万年かわからないが、地球を守ってきたであろう森林が地球史で言えば、一瞬とも言える歳月で伐採されてしまったのだから化石燃料の消費とともに地球温暖化の原因だろうと容易に想像がつく。まさにしっぺ返しが始まったばかりとも言え、この先のことが案じられる。

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.5_ジンバブエ

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2000年頃のジンバブエ

 ジンバブエに37年君臨したムガベ大統領は、2017年に93才にしてようやく辞任した。現在95才のはずであるが、健康そうである。私は,1999年から2001年にかけて約2年間ジンバブエの仕事に携わり,当時75才から77才だったから,それから17年も頑張ったのだ。

 2000年5月,出発してすぐに帰国命令がでて,わずか一週間で帰国した時のことを記したい。

  仕事は,ジンバブエ第2の都市ブラワヨとビクトリアの滝との中間辺りの国有林で森林管理計画を作成するものだった。林内にはサファリ・エリアもあり,ゾウ,キリン,シマウマ等大型動物も沢山見られた。

 

 

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サファリ・エリアのゾウ

 

 

 

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キリン

 

 

 

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シマウマ

 

 

 

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インパラ

 

 

 

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セーブル

 

 

 経済危機が始まり,町ではガソリンを買い求める長蛇の車列が見られた。現地で拠点としたハーフウェイハウスホテルという小さなホテルはガソリンスタンドを持っていたが,底をつき始め,我々は首都ハラレからガソリンとディーゼルを大量に持ち込みストックした。

 森林局と打ち合わせの後,作業員も10人程手配し、さあ、これから調査開始という時点で帰国命令がでて,店開きをして何もしない内に店仕舞だった。撤収作業,前払いの払い戻し等が大変で,前に進むより、戻るのはもっと困難だった。

 ハラレのホテルは,人気のホテルだったが,この時は観光客が少なく昼間は閑散としていた。しかし,夜になると白人が多数来て泊り,朝になると中庭で登録作業などが行われていた。そして、そのままいなくなり,翌晩には別の白人達が来て、国外避難をしていたのだった。

 白人の大農地は,退役軍人に多くが占拠され,作付けがなされず,翌年の食糧不足が懸念された。同時にこれは,大統領の延命策で,農地を取り上げるという口実のもと、野党支持者狩りとのことだった。退役軍人は殺人集団とも呼ばれ,警察は取り締まりをせず,ジンバブエは無法地帯となった。公式に殺害と発表された以外に,地方の先生等野党支持者の多くが、ある日突然消えたという話しも聞いた。警官による交通取締りも強化され,それは野党狩りと警官のたかりのためと言われていた。多くの工場やタバコのオークションも閉鎖され,石油輸入もストップした。このとき為替レートは,公式には1US$=38Z$だったが,数日間で55とうなぎ登りだった。その後のハイパーインフレは知るところである。

 私は色々な国で,その国の森林官を始めとする関係者や作業員などと一緒に仕事をし,その人たちとは親しくなったが,ジンバブエだけは何故かその距離が縮まらなかった。抑圧された社会では,人々は心を開くことができなかったからだろう。

  ムガベ大統領が降りた現在でも民主化にはほど遠く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが相変わらず常態化しているとのことで、ムガベ大統領の独裁政治体制と同じ状況だと言われている。ジンバブエのために働いた私としては、本当に早く民主化されることを望むものである。

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.4_インドネシア

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インドネシア スマトラ島の森林内で泳ぐ

 今から約40年前,1978年11月のある日,私はインドネシアのスマトラ島で森林調査をしていた。その日滞在していた集落から10km以上奥地に入った。山道はそこまでだった。そこから藪漕ぎで進む。GPSのない当時,我々は航空写真が判読できたので,目的地まで行けたのだ。遠く,テンカル山というのを目安に黙々と進んだ。途中ムササビが現れると案内人のディンは眼の色を変えて捕まえようとする。

 歩くうちに林内に水が現れた。段々と水位が増したが,ようやく目的地に着いた。調査を始めると,ずっと腰まで水に浸かりっぱなしである。水からわけの分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。100m測量するだけでも相当な手間がかかった。案内人ヌルが「もう行けない。」と言うのを私が行かせると,ヌルは首まで水に浸かり泳ぎながら進む。

 どうにか,仕事を終えて,焼畑に出た。よくこんな奥地にと思う所に一人の男がキコリをしながら住んでいた。その小屋で休ませてもらい帰路についたのが午後4時,普段なら家に戻る時間だった。2時間もあれば下れるだろうと思っていた。そのキコリに街道へ出る道を聞いて出発した。

 だが林内はまた,水かさが増してきた。我々は再度林内で泳がなければならなかった。荷物は全部頭の上にくくりつけ泳ぎながら進んだ。ヌルが弁当箱を水中に落とした。するとディンが泥水を潜り,いとも簡単にそれを拾った。そしてディンはするすると木に登り方向を確かめた。闇が迫り皆,口数が少なくなる。どうにか足が立たないところからは脱出し,ディンにタイマツを持たせ,先頭を歩かせた。ディンの勘に運を任せた。地元の森林官は,冗談を飛ばし始め皆から不安感を取り除こうとする。林内は真っ暗で夜行性のトラやヘビが恐怖だ。体も冷えてきた。

 くたくたになったところで,湿地林を抜け出し,遠くに集落の灯りが見えた。それからがまた遠かった。木の根につまずきながらもようやく集落に辿り着いた。既に深夜0時を過ぎていた。しかし,そこは我々が滞在していた集落でなく,4Kmも離れた別の集落だった。しばらくし,運転手がジープで迎えに来て,我々は滞在している集落へ戻った。集落民総出で我々の無事を祝ってくれた。会う人ごとに抱き合い,握手をした。これほど人の暖かさを感じたことはなかった。

  街道は現在は、高速道路に変わり,最大樹高70mを超えたこの森林は,開発のために消滅し,今は存在しない。

 

 

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雨期の増水で水没した人家

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.3_セネガル

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セネガル_貴重な生態系マングローブ林

 セネガルについてはこの紀行文の中で取り上げたが、マングローブ林について再度取り上げる。アフリカ大陸の最西端の国セネガルの南西部には,サルーム・デルタがあり,そこには不思議なマングローブ林がある。標高1?2m程度の土地に平均樹高4?5m(1?20mくらいの幅がある)のマングローブ林が20万ha以上も広がっているのだ。これは東京都と同じくらいの面積である。

 

 

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サルーム川とマングローブ林の遠景

 

 

 迷路のようなデルタ地帯。一旦入り込んだら,磁石やGPSさえ利かなくなり,決して外界には出ることができなくなってしまうというブラックホールのような場所さえあるという。地元民が恐れている場所だ。誰もが恐ろしくてそこには近づかない。ある日,そんな迷路の様な水路をボートでゆっくりと進んでいるとマングローブ林の中から何かが突然飛び立った。「何だ。あれは。翼竜か?」ボートのエンジンの音に警戒したのだろう。羽根幅3mはあろうかと思われる巨大な鳥が,あっという間に飛び去った。これはオニアオサギ(Goliath Heron(英語), Ardea goliath(学名))だった。幸いにも我々はこのブラックホールから無事抜け出ることができた。

 

 

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マングローブ林地帯を飛ぶ翼竜のような巨大なオニアオサギ

(羽根を広げると3m以上もある)

 

 

 マングローブ林は,葉が海に落ちるとそれが養分となり,プランクトンが増え,プランクトンが増えると魚が増え,魚が増えると鳥が増えると言った食物連鎖が良く分かる。鳥でもとりわけ,ワシ,タカの猛禽類,大型のサギ類,ペリカン類など生態系の頂点に立つ鳥を見ることができる。生態系のピラミッドの頂点に立つ鳥などはその傘下に多くの生物を育んでいることからアンブレラ種と呼ばれている。アンブレラ種が住むには広大な面積の森林が必要であるが,ここではそれがマングローブ林である。つまり,ここは生物多様性を維持する貴重な森林なのである。

 

 

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感潮水路(川に海水が流入する部分で、川が潮の満ち引き(潮汐)の影響を受ける水路)

 

 

 

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牛も感潮帯を歩く

 

 

 そして,このマングローブ地帯には約30万人という多くの住民が住んでおり,住民達は,永年にわたってマングローブ林を建築材や薪炭材の採取場として利用し,マングローブの海域を漁場とし,また,陸地は,農地として利用してきた。最近は,その風光明媚な景色に多くのヨーロッパ人も訪れ,観光の対象にもなっている。

 

 

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トゥバクータ(地名)にあるホテルの前のマングローブ林

 

 

 ところが自然か人為かわからないが気候変動が影響し,1960年代から雨量が減り始め,塩分濃度が上昇し,マングローブ林が失われつつある。貴重な生態系を維持し,住民の生活を維持するためにも少なくとも人為の影響だけは避けなければならない。物質文明の大きな流れは押しとどめがたいかもしれないが、せめて、パリ協定からアメリカは離脱せず、各国は温室効果ガスの削減義務を順守してもらいたいと思う。それが、セネガルで仕事をしてきた私の最低限の願いだ。

 

 

 

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.2_メキシコ

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メキシコーシエラファレス山脈の先住民_生き方の先生

 メキシコも日本と同様に地震大国だが、一昨年はオアハカ州を震源とする地震もあった。私は1997年?1998年にオアハカ州のシエラファレス山脈の先住民地域で,仕事をしていたのでこの地域のことがいつも気にかかる。

  シエラファレス山脈には言葉を異にする数部族の先住民がいる。約400年前にスペイン人征服者の殺戮から逃れ,山奥に移り住んだ人々の子孫である。この地域は標高が1,000m?3,000mの急峻な山岳地帯で,日本の地形に比べて尾根と沢が大きく,景観は雄大である。村は標高2,000m付近にあり,一番奥の村は舗装道路から未舗装の山岳悪路を60Kmも走った所にあった。

 

 

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シエラファレス山脈の中の村、ラスニエベス(雪村という意味)

屋根がかかっているのはバスケットボールコート

 

 

  この地域の唯一の資源は森に自生するマツである。1960年代から製材業者が道路を作ってやると称して多くの優良なマツを伐採し,買い叩いた。村は,多少潤った資金で,自ら水道,学校,教会等を整備してきた。道路ができたため,マツだけが益々伐られ,カシが伐り残され繁茂し,マツ林からカシ林へと遷移している。しかし,マツをいかに持続的に管理するかが村の存亡の鍵で,私はそのために働いた。

 

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大きいものは樹高40m,胸高直径1mにもなるシエラファレスのマツ

 

 

 村は閉鎖的だった。私を含むチームが村に受け入れてもらうまでは住民総会で何回も説明し,時にはつるし上げにも会ったが,村で仕事をする了解を得た。何の利益もなしにただで村の森林計画を作ってくれる人などいるはずはないと見られていた。しかし,一旦受け入れられ,打ち解け信用されると,今度は徹底的に協力してくれた。村では民家に下宿し,食事も頼んだ。高山で夜は冷えるが日干しレンガの家は,温もりを感じた。水は沢から村のタンクに溜め,そこから各家庭に配水する。夕方,屋外でのシャワ?は山からの冷たい風で,体が震えた。トイレは肥溜め式で,約30cmの高さの箱状の便器にお尻を向けてスキーの滑降のような中腰スタイルでやらなければならず,慣れるのに苦労した。主食はトウモロコシと豆。蛋白質はたまに卵が出た。毎日標高差1,000mくらいを歩いたが,体調は良くなり,テレビも新聞もなく早寝早起の健全生活だった。

 

 

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伐り出したマツ材をトラックに積む

 

 

 虐げられてきた先住民だが,様々な面に伝統が伝えられていて,一緒に生活してみると落ち着きを感じた。物質的には貧しいけれども,誠実,素朴,人懐っこく親切で,精神的にはとても豊かだった。日本のあふれんばかりの物,資源の無駄遣いによる便利な生活。しかし,まったく異なった価値観で生きている彼らから学ぶことが多くあることを感じた。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.1_エクアドル

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エクアドル アマゾン川源流域の先住民の超能力

 超能力とは一体何であろうか?人間の力では不可能とされるようなことができる能力だが、透視や予知あるいは念力などを除けば、五感が持つ力が人間以上で動物的であることだろう。

 アマゾンの先住民達は現代人が持ちえない視覚と聴覚を持っていると思う。一緒に仕事をしていて、ヘビやタランチュラ(毒蜘蛛)など全く怖くないと言っていた。こちらの方が先に見つけるからすぐに捉まえることができるからだとのことだ。森林内で保護色であってもすぐに見つけてしまう。それほど視覚が発達しているのだろう。聴覚も次に書く様に遠くから音が感知できるようで、視覚とともに、発達しているのだろう。

 一方嗅覚は発達していないと思う。なぜなら現代人には耐えられない風呂に入ったことのないような強烈な匂いを皆放ちながら生活していても何とも感じないのだから、逆に嗅覚は衰えているのではなかろうか?

 

 さて、1986年2月3日,私はアマゾン川源流域の大森林の中,タラコアという名の湖の周辺で、森林調査を行っていた。森の道案内を先住民に頼んでいた。その日の夕方、この湖畔でその先住民と別れた。その先住民は森を詳しく知っており,翌日もこの周辺の案内を頼んだのだった。

 

 「明日どこで落ち合ったら良いかな?」「ここに来てくれて,叫んでくれれば私はここに来る。」「えッ。それだけでいいのか?」「それだけで良い。」

 

  翌朝、私がこの湖のほとりに来て大声で叫んでも彼はすぐには現れない。どこから現れるのだろうといぶかしく思い、何回も叫ぶ。するとはるかかなた湖の対岸にわずかに動くものがあるではないか。双眼鏡で覗くとカヌーである。じっと見ていると昨日道案内を頼んだ先住民が乗っているではないか。まさしく,昨日の先住民だ。

 

 

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アマゾン川源流域のタラコア湖 開発が進んでいる。上部はナポ川

 

 

 彼が湖の対岸からカヌーに乗って段々と私の方に近づいてきた。夢か幻か、あるいは映画の中の世界にいるようで、ワクワク興奮した。自然に溶け込んだ生活をしていれば人間の五感も動物のように発達するのだ。周辺の多くは伐採され農地などに開発されているが、今でもグーグルアースの衛星画像を見るとナポ川沿いにタラコア湖を捜すことができる。

 

 

 

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アマゾン源流域の森林内の大木

 

 

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.21

森林紀行

バスール(Bassoul)村

村の位置や活動

Bassoul村は、以前書いたMounde村のやや奥にある村である。基地としていたフンジュンからボートで1時間半くらいサルーム川を河口方面に下った場所にジルンダ村があり、そこからムンデ村への水路を通過し、さらに約30分程度細い水路を入っていった場所にある。

ここは、この業務の管理を委託していたWAAMEが、ずっと前から関わっており、住民達も啓発されていたため、パイロットプロジェクト村として選んだ経緯もある。ここで行った活動は、村落林の造成とエトマローズの燻製改良かまどの導入である。

 

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バスールの地図

 

 

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バスールの航空写真

 

 

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ボートを降りてバスール村への桟橋

 

 

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バスール村

 

 

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村の中のモスク(イスラム寺院)

 

 

コミュノテー・ルーラル(CR):村落共同体

セネガルにはコミュノテー・ルーラル(CR)というものがあり、これは村落共同体という意味である。村落共同体は,いくつかの村が集まった共同体で,その長が郡長というものである。言ってみれば,日本の郡にあたるもので,日本では群は住居表示の区画だけであるが,セネガルでは郡が,行政機関となっていて,そこに長がいて,それが郡長というものだった。この時点では、CRは実質的にあまり動いていなかったが将来的にはCRが行政の中心となっていくものと思われていた。

そのためバスールではCRが村落林の造成と燻製改良かまどの管理に関わっていくようにプロジェクトを進めた。

 

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ワークショップ

 

 

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ワークショップ

 

 

 

村落林の造成

バスールの村での計画策定ワークショップで、村落林の造成が選定された。以前から書いているようにサルームデルタではマングローブ材の利用が盛んで、マングローブ林保全にはマングローブ材の代替材供給が必要となることから村落林造成を計画したものだった。

 

 

活動計画

マングローブ林の代替材として Eucalyptus sp、Melaleuca sp、Prosopis spなどの植林地を2年間で約1ha造成する計画とした。植栽密度は 1,111本/ha、植栽間隔は 3m×3mとした。

 

 

計画の実施

バスール村では管理委員会の中に村落林村民委員会が設置された。

 

 

活動の経緯

村落林造成の作業としては、村民による位置再確認、囲い資材の調達・搬入、囲い設置、苗木調達・搬入、苗木植栽等を行った。

 

 

造成地

バスール村の造成地は、2003年7月に開かれた村民総会で、ンダムバラという場所にすることが決定された。また、このとき2年目からの村落林造成用に苗木を生産するための苗畑をチアムブラケという場所に設けることが決定された。

ンダムバラの造成地は3年にわたって拡張可能であり、1年目の造成区画として0.5ha(100m x 50m)の境界設定と家畜の食害を防ぐための杭打ちと網囲いの設置を行った。植栽は村落林村民委員会と GPF(女性向上グループ)のメンバーを中心に2003年9月中旬に実施された。1年目植栽用苗木は、森林局のフィムラ苗畑で調達し、村に搬入した。

植栽樹種と本数は、Eucalyptus camaldulensis 100本、Prosopis julifloa 200本、Melaleuca leucadendron 70本、 Acacia mellifera 200本で、植栽間隔は3m×3mで混植した。中間段階で家畜の侵入のおそれがあるため有刺鉄線を張る対策を取ることとなった。

2年目は村落の苗畑を作り苗木を供給したが、十分ではなく不足分はWAAMEが提供した。植栽樹種は1年目と同様でEucalyptus camaldulensis 300 本、Melaleuca leucadendron 140本、 Prosopis juliflora 160 本、計600本を植栽した。植栽地周囲には Acacia mellifera 100本を2004年8月に植栽した。1年目は男性4 名、女性19名と参加者が少なかったが 2年目は男性5名、女性53名と女性の参加者が大幅に増加した。

 

 

生存率

1年目の植林木の生存率は 2004年9月時点では

Eucalyptus camaldulensis 152本(76%)

Melaleuca leucadendron 30本(60%)

Prosopis juliflora 1本(0.5%)

Acacia mellifera 38本(38%)だった。

 

2年目の植林木の生存率は 2004年9月時点では

Eucalyptus camaldulensis 234本(78%)

Melaleuca leucadendron 97本(69%)

Prosopis juliflora 153本(96%)

Acacia mellifera 248本(79%)だった。

 

 

将来性

村落林造成では植栽樹種として薪材、建築用材等として新規導入樹種やユーカリなどを植林し、最も生存率が高く、植林が成功する可能性が高いのはユーカリだった。これより Eucalyptus camaldulensis を中心に植栽し、囲い用の樹種としてトゲの多い Acacia mellifera を植栽することが考えられた。しかし、その土地に適した樹種もあり、またカシューなど実の販売収入の期待できる樹種もあり今後は、その村落での状況を調査し、適木を植林する必要があると思われた。

 

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メラリューカ

 

 

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ユーカリ

 

 

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植林地

 

 

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成長した植林地

 

 

 

エトマローズ燻製改良かまどの導入

以前も記したようにサルームデルタでは、エトマローズを燻製加工するためにマングローブ薪材が用いられていた。自然による枯れ木の発生量よりマングローブ薪材の需要量が増加すれば、マングローブの生木を伐採する事態を招くため、燻製用薪材の消費量を抑制する必要があった。その方策のひとつとして、当時用いられていた燻製かまどの熱効率を改善することによって、マングローブ薪材の消費量を抑制することを目的とした。

 

 

活動計画

当時サルームデルタでみられたエトマローズ燻製かまどは、幅や長さにばらつきはあり、エトマローズを金網の上に一段に並べ下から薪で火をくべる方式だった。並べた魚をトタン板で覆うものの、ほとんどの煙が外部に放出される開放式なので熱効率の改善が必要であり、そのために次の改良を行った。

 

1)開放式を密閉式に転換することで熱効率を高める。

2)一段式を二段式にすることで、薪の消費量を抑制する。

 

上記の2点を達成するため、かまどに天井と開閉扉を設けて密閉式とし、加工魚の出し入れを容易にするため、金網バスケットを採用した。

 

 

活動の実施

バスール村では、CRレベルで環境委員会の下に燻製かまど管理小委員会の設置を予定し、メンバーの人選は終了したが、活動がバスール村のみで実施されたことから実質的には機能しなかった。

バスール村のレベルでは統括組織として村の管理委員会が設置され、その中に燻製かまど管理村民委員会が設置された。さらにその下にかまどの建設と保守を担う建設・保守班と加工・販売班が組織された。

 

 

活動の経緯

CRバスールでは CR議員、CRアニメータ、村民組織代表者などが出席した2003年7月の総会で、かまどの建設をタムバイエという場所にすることが決定された。

改良型かまどと従来型かまど各1台の建設は 2004年2月に完了した。2004年4月から6月までに 3回の試験を実施し、改良型かまどと従来型かまどの効率を比較した。

 

 

活動結果

燻製加工試験の結果、100kgの原料魚を燻製加工するのに必要な薪量は、従来型で32kg、改良型で14kgだった。このことから、改良型燻製かまどの使用で薪の消費量は57%削減できることが判明した。歩留まり(最終製品重量の原料魚重量に占める比率)では改良型かまどが26%、従来型かまどが22%であった。

作業に従事した女性グループから改良型かまどの利点として次の点が判明した。

・作業性の向上;金網バスケットの使用と密閉による燃焼の安定化により、作業時間が短縮された。

・品質の向上;品質が全般的に均等で歩留まりがよく、味が良い。

・衛生面の向上;砂を使わず魚を並べられるので、衛生面が改善した。

・煙害の低下;煙が外部にでないので、服に臭いがつかず平服で作業できる。

・製品が清潔;そのままナベに入れて調理することができる。

 

CRバスールで加工された製品は村の商人に引き渡され、その商人も改良型かまどによる燻製品の品質の良さを認めていた。

 

 

将来性

この時点の課題として以下の事項が残された。CRバスールでは、原料魚入手の困難さと組織づくりの遅れから、改良型かまどが有効に稼働した状況ではなかった。バスール村での活動継続を確実なものとしながらCR主体の管理体制づくりを進めることで、改良型かまどの稼働性を高め、展示効果をさらに発揮させる必要があった。

また、サルームデルタ全体で、マングローブ薪の消費を抑えるためにエトマローズの燻製かまどを従来型から改良型への転換が必要であり、さらに総量規制が必要という課題が残った。

 

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改良型燻製かまど

 

 

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金網バスケット

 

 

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燻製の開始

 

 

 

村長の家に泊めてもらう

バスール村では、よく村長の家に泊めてもらった。村長の家は2階立てで新築だった。その2階に、多い時には10人くらいで雑魚寝した。

一緒に行ったダカールからの森林局の職員は、イスラム教のお祈りをよくしていた。お祈り中に、たまたま私が話しかけてしまった時があるが、全く気が付かないようで陶酔状態となっているようだった。また、この方の2人いる奥さんの1人が超過の乗船客で船が沈むという海難事故で不幸にも亡くなったこともあった。

 

 

ゴキブリの話

村長の家のトイレは外についており、最初に夜中にトイレに行った時には、気がつかなかったので、そのまま入ったら、イスラム式の便器の丸い穴からゴキブリが何千匹とも思われるくらいどっとでてきて、床面一帯が真っ黒になりサッササといなくなった。他のメンバーに聞くと皆同じ思いをしており、入る時にはドアを蹴ってから入るようにしているというので、私も次からまずドアを蹴ってゴキブリを追い出してから入ることにした。

昔インドネシアで見たパイナップルが真っ黒になっていたのが、全部ゴキブリだったのとどちらが多いか思い出したものだった。時々女性メンバーも参加していたから彼女たちも同じようにしていたと思うが、協力隊など女性メンバーの方が多く、全くたくましいものだと思ったものである。

 

 

ワールドカップ

ちょうど日韓ワールドカップを開催している時にセネガルに行ったことがある。2002年5月31日、ソウルで行われた開幕戦で、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦し、セネガルが1対0で勝利したのを日本で見て、翌日セネガルに向かった。

そしてセネガルがリーグ戦を戦っている時にバスール村にいたことがあった。その時は仕事にならなかったが、セネガルが得点を上げるたびに、村中から大歓声が上がり、島が揺れているようだった。テレビを持つ人は少なかったが、その家に皆が集まり、大応援をしているのだった。

このときセネガルは、予選リーグを勝ち上がったが、決勝トーナメント1回戦で敗れて残念だった。

ワールドカップと言えば、その後2010年にセネガルに行った時に、南アフリカで開催されていたワールドカップで、決勝トーナメントで日本がパラグアイと戦い、PK戦で惜しくも敗れた試合もダカールの森林局で見ていたのを思い出す。

 

 

運動能力の高いセネガル人の体型

そこで思ったのだが、アフリカに長くいて陸上のオリンピックでの日本選手の短距離から長距離までの走りは、欧米の白人選手に比べて大健闘だと思った。それは黒人の素質による速さに対して努力で頑張っているという意味であるが。

 

セネガル人は、背が高い人が多く、日本人より男女共10cmくらいは背が高いのではなかいかと感じていた。私と一緒に仕事をしていた人、森林局の人と比較したのだが、彼は185cmで、私が170cmなので15cm身長が違うが、座ると座高は同じだから、足が15cmも長いのだ。それもスネが10cm、モモが5cm長いのだ。

それに頭の大きさが小さいのだ。私は54cmくらいだが、彼は50cmくらいで、私の帽子がブカブカで、これは走る上で大きな素質と思った。また、腕が長いのでヤジロベイのように重心が支点の下にあり、バランスが良いのだろう。

 

腕が長いといえば、前にも記したが、村でのワークショップ時に、壁に模造紙を貼り付ける時、私が背伸びして手が届かない所を一緒に仕事をしていた女性が手を伸ばし張り付けてくれたことがある。その女性は、身長が165cmくらいで私より5cm低いのに手を伸ばしたら私より10cmくらい上に行くので、びっくりした。スタイルが非常に良いのだ。その女性は細くて柔軟性が非常に高いように見え、オリンピックの200mで優勝したアリソン・フェリックスのような感じだった。

 

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スタイルの良い女性。私から右に3番目にいる女性。男の体型も良い。

 

 

それから、秘書の女性が、仕事は大変に良くできる上に、素晴らしい体形で、オリンピックの短距離選手のような体つきで、100mをコーチについて練習すれはオリンピックでも出場できそうな体型に思えた。この方は筋肉質に見え、やはりオリンピックで優勝したジャマイカのキャンベル・ブラウンのような体つきに見えた。

 

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運動能力の高そうな秘書の女性

 

 

男の筋肉質の体も素晴らしい。小型のエンジン付きのボートをいつも使っていたが、その船頭がウエイトトレーニングでもしているように実に素晴らしい体をしていた。エンジンが非常に重いのに軽々と扱っていた。彼らは、米に魚を乗せたような貧しい食事しかしていないのに何でこんなに筋肉質になるのか不思議だった。腕の力こぶが自然とでていて筋肉のみというように見えた。

 

それから前にも記したが、井戸の水をつるべ落としで汲むが、一杯10Kg以上はありそうで、10m以上もあるロープを引っ張り上げるのが私でも大変だったが、まあ小さい女の子が全身を使いタイミングよく引っ張り上げていた。日本の子供じゃあ上がらないだろうと思われた。慣れもあるが、すごい運動神経と能力を持っていると思った。

 

もしアフリカ人が先進国と同じ様に一般の人が豊かになり陸上の競技人口も増え、栄養も良くなれば今よりはるかに上の記録がでるだろう。マラソンでも2時間を切るのに近づいてきたが、そのうちきっと黒人が最初に切るだろう。

 

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村人が気持ちよく受け入れてくれたバスール村

 

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.20

森林紀行

ンバム(Mbam)村

村の位置や活動

 ンバム村は基地としたフンジュンのホテルから車で5分程度と近く、活動はし易かった。この村もエビ漁が盛んだったのでライフジャケットの製作を行った。ライフジャケットの製作はカマタンバンバラ村で記したように、この周辺は、国が定めたエビの禁漁期、それは主に乾期であったが、その禁漁期に違反操業をする者が絶えなく、その原因は、水産物が住民の食料源であることと、また、この地域の乾期には生業活動がなかったためである。そのため乾期の生業作りにライフジャケットを製作することになったのである。

 

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ンバム村の地図

 

 

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フンジュンのホテル

 

 

 

フンジュン周辺のマングローブ

 

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フンジュンの渡し場付近でWAAMEが植林したリゾフォーラ。塩分濃度が高く成長しない

 

 

 ンバム村の当時82才の長老チャレさんに村の話を伺ったときのことだが、1942年に大飢饉があり、その時はアヴィセニアの種子を食べてしのいだとのことだった。この周辺に調査時にはほとんどアヴィセニアはなかったが、当時は大量にあったとのことだった。またリゾフォーラは森のように繁り、対岸が見えないほどだったとのことである。この30年でマングローブはほとんどなくなってしまったとのことだ。

 

 

エビ漁

 エビ漁は、夜中に水深が深い川に入って行わなければならず、海難事故が絶えなく、エビ漁による海難事故防止の意味からも村人のライフジャケットに対するニーズが高かったこともライフジャケット製作の後押しとなった。

 

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ンバム村でのワークショップ

 

 

 乾期にライフジャケットを製作することにより、村に生業を起こし、エビの漁期を守り、さらにライフジャケットの販売収入の一部を環境基金とし積み立て、その資金をマングローブ植林や村落林造成に利用し、マングローブ林の保全と復旧に寄与することを目的として、ライフジャケットの生産に取り組んだのであった。

 

 

活動計画

 ンバム村もカマタンバンバラ村と同様、1年間に100着、2年間に200着のライフジャケットを生産し、販売する計画とした。

 

 

活動組織の確立

 ムバムでは当初設置された管理委員会がうまく機能しなかったため2回にわたって管理委員会の改革を行い、統括組織として管理委員会を設置し、その中に販売委員会、検査・品質管理委員会、製作委員会を設けてライフジャケット生産活動を行うこととなった。

 

 

活動の経緯

 カマタンバンバラ村と同様ンバム村にも数人のテイラーが在住し、村人が持参する布地を客の注文に応じて仕立てている。これら洋裁の技術を持つテイラーをライフジャケット生産グループとして結成した。村のテイラーの自前のミシンとパイロット・プロジェクトで投入したミシンにより若者を対象にライフジャケット生産技術の製作訓練を進めた。資材は原則地元での供給を目指したが、ダカール以外では入手が困難なものは、ダカールとプロジェクト対象村間の資材入手ルートを確保し、内陸地域を中心にライフジャケットの販売網を構築した。

 

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村のテーラー

 

 

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製作されたライフジャケット

 

 

 1年目のムバム村では111着のライフジャケットが生産され、1着5,000Fcfa(約1,000円)で59着が販売された。そのうち54着分の代金が回収され、5着分が売掛金として未回収だった。残りの52着は在庫になっていた。大量に在庫が残った原因は、管理委員会メンバー内のコミュニケーション不足や委員会と村の他の住民組織との連携不足などから、販売体制を確立できないままエビ漁期が終了したからである。

 2年目は、両村で発泡スチロールの浮材を柔軟性のある浮材に転換し、改良タイプのライフジャケットを製作販売した。この改良は住民自身の発案によったのである。

  ムバム村では最終評価時点までに17 着が生産され販売された。販売価格は1着7,000Fcfa(約1,200円)だった。その後さらに83着を生産する予定だった。

 

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ライフジャケットを着けての漁

 

 

活動結果

 住民自身の改良により、浮力不足と浮材が破損しやすいという問題点が解消された。これまで、製品の品質に自信を持って販売できないと語っていた住民も、最終製品に自信を深めている。ユーザーであるエビ漁民のライフジャケットの品質に対する評価も上々で、輸入品と比べて遜色がないと語っていた。

  ムバム村では、管理委員会の新執行部体制が3回も変わり安定しなかった。新執行部の方針は、村の他の住民組織と連携を図りながら、ライフジャケットの販売活動に積極的に取り組むことだった。ムバム村では収益金を管理委員会の会計係が管理し、ジロールのクレディ・ミュチュエール(銀行)に設けた口座に振り込んでいた。会計係はすべての支出と収入を帳簿に記帳することになっていた。しかし執行部が交代したことで、帳簿関係の引継などが完全に行われていなかった。この点を解消し、村の他の住民組織と連携を図りながら、積極的な販売活動を行わなければならなかったが、その時点でプロジェクトが終了した。

 

 

つづく

 

 

 

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