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[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.2_東扇島-東京湾の巨大人工島

森林紀行

【東扇島の概要】
 東京湾には羽田空港がある巨大な人工島をはじめ、いくつか巨大な人工島がある。その中で比較的アクセスが良く、羽田空港の南に位置する東扇島を歩いてみた。この島は、物流・食品関係の倉庫が集中していて、面積は約4.84㎞²(484ha)、3㎞×1.6㎞くらいの広さの人工島である。
 半世紀以上(1960年~1970年代)も前、私が高校生くらいの時は、東扇島はまだ埋め立てられていたようだが、この辺りは京浜工業地帯の真っただ中で、公害の大本山とも言っても良いような地域で、奇怪な色をしたドロドロの海、大気は工場からのばい煙とトラックの排ガスがまん延し、生物が住むには適さないような環境の土地だった。
 しかし、今は生まれ変わった。環境規制により、東京湾の水質は改善し、かなり澄んでいるに近い状態になった。大気汚染もほとんどなくなり公害は見られないと言っても良いくらいに環境は改善した。島の周囲は魚種が豊富で、島の西には釣り場が設けられ、東には人工海浜があり、バーベキュー広場まである。周辺では、多くの遊漁船の姿も見ることができ、レジャー公園として生まれ変わったのである。

東京湾
東扇島

【東扇島へ】
 この島に行ったのは、2022年5月5日(木)の子供の日である。友人と待ち合わせ、川崎駅から運行されている東扇島行のバスに、10時過ぎくらいに乗った。海底トンネルを抜けると東扇島、川崎マリエンが見えてきた。東扇島に入り、東扇島東公園で降りた。この間、約30分である。

【東公園へ】
 バスを降りたら目と鼻の先が東扇島東公園だった。(以下東公園と記す)

東扇島東公園全体案内図

 東公園では釣りが禁止されていて、今回、私が釣りをするわけではなかったが、がっかりだった。何の魚種が釣れているのか見るのか楽しみだったからだ。西公園には釣り公園があるというので、後の西公園を楽しみにした。東公園の入り口付近はバーベキュー広場になっていて、相当数のバーベキュー用の竈が並んでいる。土日はかなり込むようである。コロナで一時使用禁止になっていたが、4月から再開したようで、祝日のこの日もかなりの人がバーベキューを楽しんでいた。

 入り口からバーベキュー広場を斜めに横切り、中央のメインプロプナードを通り「渚の休憩所」まで約500mくらい歩くと人工海浜に突き当たる。ここは「かわさきの浜」とも呼ばれている。かなりの人がいるが、海に浸かっているのは小さな子供とその親くらいである。我々は人工海浜の先の「みさき広場」まで行った。ここは東扇島の最東端だ。ここで、景色を見ながら一休みし、おにぎりを食べながら友人と談笑する。やや薄く雲がかかっているが5月の子供の日にしては暑かった。しかし、天気が良くて良かった。

人工海浜「かわさきの浜」

 少し目を遠くに向ければ羽田空港に発着している飛行機も見える。相当数の発着があり、数分おきに離着陸しているように見える。

左にある羽田空港に着陸する飛行機。離陸機は右に飛んでいく

 東京湾には中央部を横切る東京湾アクアラインがかかっており、これは神奈川県側の川崎市から千葉県側の木更津市までをほぼ一直線に結んでいる。その途中やや川崎市よりに「風の塔」というものがあり、それも見える。残念ながら木更津市よりの「海ほたる」は見えなかった。

東京湾アクアライン上にある「風の塔」

 ここ「みさき広場」は風が気持ち良い。海風だが、穏やかな天気なので暑さしのぎに気持ちが良い。12時過ぎまでここにいて、次に歩いて川崎マリエンに向かう。東公園から東端の船溜道路にでて、南に向かい、外貿5号道路から東扇島1号線を歩く。回りは倉庫だらけだ。高さは10m程度とそれほど高くはないが巨大な面積を持つ倉庫群が延々と並んでいる。さすが、日本の物流の拠点だ。道路はトラックだらけだが、この日は祝日だからだろうか、交通量はそれほど多くはない。

東扇島内の道路と倉庫群

【川崎マリエン】
 川崎マリエンは、高さは60mとのことである。一番上の10階に展望室がある。グルッと一周できるので、そこへ上がり、周囲の展望を楽しんだ。船と飛行機とをみながら、1時間くらい外を見ていた。ボーッと見ているだけで気持ちが良い。ここには若いカップルも多く、外の展望を楽しんでいた。

川崎マリエン
10階の展望室からの景色、南側
東扇島内の中央公園、北側

【西公園へ】
 川崎マリエンの展望室を降りて、ここから西公園へ歩いて行く。途中、島の南側の真ん中あたりのへこんだ場所もコの字型に歩いて行く。

途中コの字形にへこんだ箇所

 川崎マリエンから2㎞くらい歩いた歩道沿いにマツオカという会社の「あずまや」があったので、そこで一休みし、残りのおにぎりとパンを食べる。

【西公園】
 あずまやから西公園は近かった。入ると岸壁が釣り場になっている。岸壁の距離は約1㎞ほどである。岸壁には数ⅿおきにかなりの釣り人がいる。釣り岸壁に沿ってずっと歩いて行くが、釣れている人はほとんどいない。魚より釣り人の方が多いのだろう。アジ、フグ、カワハギくらいがたまに釣れていた。西公園でのんびりした後、同じ道で帰途についた。

西公園の案内
西公園の釣り岸壁
対岸のガントリークレーン。これは岸壁のレール上に設置し、船からコンテナーなどの貨物の積み卸しを行うものだそうだ。英語でRail Mounted Quay Crane (RMQC)と言うそうだ。

【感想】
 今回の東扇島巡りは、環境問題に関しては、行政がやる気になればできるとの思いを新たにしたのが、大きな収穫だった。最初に述べたとおり、この辺りは、昔(約半世紀前)は公害の代表的町だった。それが大気も水質も大きく改善された。土壌は何を埋めたのかわからないので何とも言えないが、この島は倉庫群なので影響はないであろう。しかし、島の標高は満潮時では1ⅿもないと思われ、今後の心配は地球温暖化で両極の氷が溶けてきた時の水没であろう。
 今夏の異常な暑さ、世界中で熱波に襲われている状況では、地球温暖化対策が今の世界中で最大かつ喫緊の課題の一つであろう。それにも拘わらず世界中でパリ条約を順守するための真剣な対策が取られているとは思われない。ここは日本がリーダーシップを取り、より低いCO₂排出量を設定し、直ちに実行に移し、世界をリードすべきと思う。これは、日本の名を挙げるチャンスだとも思うし、そうすれば各国の日本への尊敬の念ももっと強くなるであろう。そして地球は温暖化が止まり正常な温度へ戻る第一歩が踏み出せるだろう。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.6_紫禁城

森林紀行

筆者紹介




2006年7月28日(金)


 朝は昨日スーパーで買ったパンやヨーグルトを食べ、8時半にRiさんが迎えに来てくれ、万里の長城や故宮博物館を案内してくれる。しかし、また天気が悪い。朝から雨が降っている。Shuさんはもう何回も行っているのと、強行軍だったので疲れており休養することとした。

万里の長城
 万里の長城の北京の入り口まで高速道路で1時間以上かかった。ここは森林公園となっていて北京市林業局が管轄している。

北京市の万里の長城入り口の森林公園事務所

万里の長城にて
 公園の事務室に行き、Riさんが手続きして、我々は森林の視察ということで万里の長城に登ることができた。登って東側の城壁はあまりに人が多く、列をなしているので西側を行く。結構急な坂もある。一頻り歩くと色々なお土産屋があり、また押し売りが沢山いる。金属のプレートでできた登頂記念板に名前を彫ってあげると押し売りにきたものが、150元(2,250円)で良いという。10倍くらいは吹っ掛けているだろうと思ったが、それより少し高い20元から交渉すると、あっさり30元で(約450円)で折り合ってしまった。

万里の長城
案内板
万里の長城

 次におばさんがTシャツの押し売りに来た。このTシャツも100元から始まり20元(約300円)で折り合った。次の押し売りのおじさんは万里の長城の写真案内本を売り付けに来た。これも100元から始まり20元で折り合った。相場がわからないが、20元だと300円だから私には安く買えたのかなあと思っていた。Riさんに聞くとどれも非常に安い良い買い物だったと言う。

降りる
 もう降りる時間だとのことで、1時間くらい散歩したところで、同じ道を戻る。途中、日本人のように見えた若い女性がいて、英語をしゃべっているので、英語で話しかけたらインドネシアの女性であった。姉妹で観光にきており、妹が中国に住んでおり、姉がオーストラリアから遊びに来たということであった。姉はオーストラリアの大学を卒業したとのことで、若いRiさんと話が合いそうであったが、時間がきたのでそこで分かれ万里の長城を降りることにした。

昼食
 昼は北京林業局のShuさんと若い女性のKakさんが待っていてくれた。勧め上手でまた、生ビールを2杯飲んでしまった。生ビールはビンの燕京ビールよりははるかに美味かった。

故宮博物館
 昼食が終わり、故宮博物館まで車で送ってもらった。Riさんは引き続き故宮博物館を案内してくれた。紫禁城とも言われる。
 私は台湾の故宮には行ったことがあり、台湾の故宮の方が貴重なものが多いと聞いていたが、確かに展示物はそうであろうが、北京の故宮の建物の大きさと多さには圧倒された。
 明王朝の永楽帝が建設したとのことだが、清朝最後の皇帝、溥儀まで500年余りも皇帝の居城だったところだ。私もラストエンペラーのように、紫禁城の階段の上に立ち、天安門方面を眺め皇帝の気分を味わった。とてつもなく大きく、素晴らしいものを作ったものだと思った。

故宮博物館
万春亭
故宮にあったコノテガシワの説明板。
「このヒノキ科の外来種は、伝統的な庭園、中庭、寺などに植えられる。長寿で美しく皇帝の建築に使われるだけでなくその姿が特別である。」
白皮松の説明
「中国に生育する貴重な樹種である。樹皮がレイスバーグ(網のような皮)になっているこの樹種は皇帝の住居、庭に完全に調和する。まだらでミルクのような樹皮、“将軍の白い衣服”は長寿の特徴である。突き出た根は龍が這う如くである。」
ライオンか犬か、霊獣
Qian qing gong-乾清宮:明の永楽18年に建立。
高さ20m。殿内には「正大光明」の額がある。明代は、皇帝と皇后の寝宮、清代以降は、皇帝の寝宮と執務室のこと。
紫禁城
天安門広場

天安門広場の前の警官
 天安門広場も巨大である。その前の道路の幅も広い。その道路の信号で、交通整理をしている警官がいた。ときどき幅広い道の信号を無視して渡る人もいた。しかし、警官は怖そうで信号を無視して渡り、捕まったら大変なことになりそうだったので、おとなしく交通整理に従っていた。

天安門広場
天安門

王府井(ワンフーチン)に行く
 その後、王府井まで歩いて行った。王府井は北京の繁華街だ。天安門からかなりの距離を歩いたようだったが、それほどでもなかったかもしれない。おりから足のかかとが痛くなったためで歩くほどその痛みが激しくなり、距離を感じたからかも知れない。
 王府井に着き、くたびれたので、路上の青空レストランでまずビールを飲む。それから本屋に入ると地方の地図も沢山揃っており、ここで求めていた河北省の地図も買えた。
 王府井は金曜の午後だからか歩行者天国で道幅が広いにもかかわらず、歩行者でごったがえしていた。横道の店の窓口で串焼きなどを売っている通りに入ると通りが狭いのでもっとごったがえしているが、活気を感じた。それからRiさんと少し余裕のあるレストランに入り、またビールを飲みながら食事をした。そこでRiさんと分かれ、タクシーでホテルに戻った。かなりのスピードで走ったタクシーが、ホテルまで30分以上もかかり、この時も北京市の巨大さを感じた。

天安門広場から王府井に向かう
王府井
王府井
王府井
王府井

小さな金魚鉢を買ってくる
 ホテルに戻るとShuさんは別な小型、小型といってもサッカーボールよりも少し大きいくらいのガラス製の金魚鉢を買って来ていた。機内持ち込みで持って帰るとのことだ。
 それからShuさんとスーパーへ買い物に行き、帰りにShuさんが、「お腹がすいた。」と言うので近くのレストランに入り、ラーメンを食べた。あまり美味しくないが、北京にしてはまあまあか。小さい瓶で50度の白酒を取るが安かったせいかまずいので、飲むのは止めた。それからホテルに帰って荷物をまとめた。

7月29日(土)

帰国へ
 朝、6時にMaさんが来てくれた。ホテルをチェックアウトして空港へ。途中Shuさんが昨日頼んでいた資料をMaさんが持ってくるのを忘れたので、北京林業局へ戻り、書類を受け取る。それから空港へ。空港へは3車線の立派な高速道路であるが、近づくに従って渋滞となる。7時過ぎに空港に着く。ここでMaさんと別れる。
 出発は9時40分である。広い空港なのに人、人、人でごったがえしている。搭乗手続きをして中にはいろうとするが、持ち物の申告書はただ紙を集めるだけで、見るわけでもなく、全く意味をなさず、なんで書かせるのだと思ったが、何かあった時に確認するために書かせているのだろう。荷物のレントゲン検査で、お土産でもらってリックサックに入れていた白酒が引っかかった。外にでて別梱包で成田に送らなければならないと言われる。もう一回外に出て手続きしないならば、これは置いていけと言われる。面倒だから置いて言っても良いと思ったが、Shuさんが外に出て手続きをしてくれた。
 それからラウンジに入り、朝飯を食べ、残りの元でお土産を買った。帰りの飛行時間は日本まで2時間半くらいであった。偏西風に乗るので行きと帰りで1時間くらい飛行時間が違い速かった。仕事だからだろうか、久々に様々なカルチャーショックを受けたが、中国人に対する親近感はずっと抱いたままだった。楽しい旅であった。

帰国後
 1週間ばかりの出張の旅だったが、毎日、昼と夜には白酒やマオタイといった40度~60度くらいの強い酒を飲まされたので、体が悲鳴を上げたようだ。しかし、美味しかったことは間違いない。その後、ビールを一杯飲むだけで、蕁麻疹がでてまいった。数か月後には治ったが、アルコールアレルギーになるとは思いもよらなかった。

おわりに
 2022年となりこの紀行文当時から16年後の今では、白酒のようなあのような強い酒は私の体は、受け付けなくなっていると思うが、多少でも飲めたらさぞ美味しいだろうなと思う今日この頃である。
 さて、本文に書いたように中国は、GDPで2011年に日本を追い越した。中国はその後も日進月歩で成長をし続け、日本はそのまま低迷しているので、2006年当時は日本が中国の2倍程度だったGDPが、2021年には中国が日本の3倍程度になった。16年間で実に6倍もの成長である。

 GDPの成長とともに環境改善も進んでいるようで、2022年の冬季オリンピックを、テレビを通して見ただけだが、中国の大気汚染も相当に改善したように見えた。ガスっていた大気が澄んでいるように見える。一部の地域が改善しただけかもしれないし、まだまだ環境対策は必要であろうが、PM2.5も日本まで飛来する量は減って来ているのではないだろうか。色々な意味で中国が良いお手本を示してくれるように望むものである。
 さて、今回の紀行文は観光旅行的な感じもあり、接待も多く、読者の方には何か分かりにくかった部分があったのではないかと推測する。そのあたりは行間を読んでいただくこととし、この紀行文を終わることとしたい。

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.5_大苗による植林地

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2006年7月27日(木)

避暑山荘
 今朝は6時半に世界遺産の避暑山荘を見に行くというので6時前に起きる。すぐにメールを繋げるとうまく繋がりノートパソコンにメールを落とす。30分くらいかかり全部落とした。それから避暑山荘に行った。
 案内は最初からついている河北省のShoさんとFonさん、それに承徳市林業局の局長ともう1人であった。林業局ということで、ただで入れてもらった。入ると女性二人が近寄ってきてガイドをやらせよと言ってくる。それを断り、池の周りを歩いて回る。
 この日も天気が悪い。ガスっていて雨が降らないだけましだ。スニーカーが湿っぽくて気持ちが悪い。太極拳やジャズダンス、社交ダンスまで大量の人数でラジオ体操のようにやっている。足で羽根突きをしている人も多い。鹿も沢山いる。多くの年寄りも石の上に足を上げて柔軟体操をしている。意外に体が柔らかい年寄りが多いのでびっくりした。
 避暑山荘は600haくらいと広大に広がっているのだが、入り口付近の池の周りを散歩しただけでホテルに戻り食事となった。

避暑山荘の入り口
避暑山荘の池
避暑山荘にいたシカ
池の中の建物

朝食時に
 昨日、承徳市から来てくれた人が、Shuさんの金魚鉢を割ってしまったと青くなったそうである。山荘賓館のShuさんの部屋に金魚鉢を持ち込もうとしたとき誤って落とし、割ってしまったそうだ。それでShuさんは、「割れ物だから心配しなくていいし、気にしないで良いよ。」と言った。円だと2万円ちかくのものだそうだ。

長靴を買いに
 承徳市の森林を見に行く前にShuさんも運動靴を洗ってしまったので履くものがないということで長靴を買いに行った。
 スーパーもごちゃごちゃしていると思ったが、整然としている。私も長靴を買うと承徳市の誰かが先に支払ってしまって、金を受け取らない。安いものではあるが、予算があるのでかまわないと言われるが、この接待攻勢にはまいる。しかし、長靴をもっと早く買えば良かったと思った。それから本屋に行って地図を買うが、ここでもShoさんに支払われてしまった。

植林計画地へ
 そして承徳市の植林計画地を見に行く。ここは承徳市から車でそれほど遠くはない。袁家荘のすぐ上の斜面である。山の下にすぐ人家が迫り、また畑もある。植林するにはやり易く、保全対象もあるので良いのではないかと思った。
 しかし、人家が近すぎ、地すべりなどの災害が起こった場合、植林のせいにさせられないかと心配な点も思い浮かんだ。とは言うものの植林計画地の下の方には樹木もあるし、植林した方が土砂災害は少なくなり、安全になるだろうと思われた。
 町には小中高大学と学校も移転してきて、すぐ下に鉄道も走っている。谷間には少しガリーもある。

植林計画地
植林計画地。下には樹林があり、その向こうに町が広がる

北京市に戻る
 ここを見終わってから北京市に戻る。高速道路を出たところで、北京市の林業局の人と待ち合わせであったが行き違い、捜しに少し戻ったら出会うことができた。昼も過ぎたので、道沿いのレストランに入り昼食である。北京市の林業局の幹部、密雲県の林業局の局長もきている。またしてもビールと白酒で歓迎される。もう昼から飲むのが普通という感覚になってしまった。

より大きな金魚鉢をくれる
 ここで最初からずっとつきあってくれていた河北省のShoさんとFonさんと別れる。このとき、承徳市のShuさんの金魚鉢を割ってしまった人が、割ってしまったものよりももっと大きな台付きの瀬戸物の金魚鉢を持って来て、Shuさんに渡した。あまりに大きいのでShuさんも戸惑っていた。車に移し替えるのも大変であったが、何とか北京から来た車に乗せることができた。

北京からの技術者
 北京市の林業局から来たのは、最近結婚したばかりの若い女性のMaさんと今年入ったばかりのもっと若い23才のRiさんで、彼らが山を案内してくれた。Riさんは英語が上手で、やっと英語を話す人と出会い、私は直接話せるのでストレスがぐっと減ったという感じであった。北京林業大学で学び、中国から外に出たことがないということだったが、かなり英語は上手だった。

北京市の植林地
 それから北京市で行った植林地を見せてもらう。かなり大きな大苗を使っている。今年植えるというところは岩だらけで手間がかかりそうだった。灌漑のパイプラインなども見せてもらう。パイプラインと言ってもパイプの直径は5cm 程度の細いものだった。
 大苗をかついで農民が山の上に登っていく。去年植林して枯れた部分の補植とのことだ。
 密雲県の林業局長は、典型的な中国人といった顔つきに見えた。Maさんは去年まで免許を持っていなかったので運転ができなかったが、今年は免許を取ったということで、今は4WDの車を運転している。

北京市の山に向かう
山に持って行く大苗
去年植えた樹木
農民が補植を行っている

密雲県の事務所
 それから密雲県の林業局に行く。立派な建物なので驚いた。局長を下ろしてから北京市に戻ろうと車に乗ると、ここでバッテリーが上がってしまった。そこで充電が終わるまで局長の部屋へ上がり、一頻り待たしてもらうことにした。この車は韓国の協力で入った車だとのことだ。中国みたいな巨大な国に日本や韓国などが援助をしているのは逆ではないかと思うくらいだった。
 局長の部屋は二部屋続きで奥の部屋にはベッドまで入っている。何でベッドまであるのか聞くと昼から接待が多く、その後に寝ないともたないとのことだった。酒で肝臓を傷める幹部も沢山いるとのことだ。全体にゆったりした雰囲気が漂っていて、日本のようにあくせくして働かなくても良いなら、余裕があり精神的にも良く家庭サービスもできるだろうし、とてもうらやましい感じを受けた。どちらかと言えば南米に近い感じを受けた。

北京市へ
 車の充電が終わったので北京市に向かう。北京市に近づくに従って大気汚染が激しい。天気は悪く、ガスっているようだが、排気ガスと黄砂だ。悪臭も強くなる。しかし、道路沿いの緑化は日本以上に見える。樹種はポプラ、ヤナギ、ニセアカシア、コノテガシワなどで、単調だ。高速道路沿いでも地方では街灯がないところが多く、夜の運転は危険度が増すだろうと思った。

北京のホテル
 北京市では福建省のゲストハウスとなっているホテルに泊まった。高層の立派なホテルである。金魚鉢をShuさんの部屋に入れるが、あまりに大きいので機内持ち込みは無理だ。荷物で預けるのも無理そうなので、それは北京林業局のMaさんに預けることとした。

やっと解放される
 今晩は、初めて中国側の同行者から開放されて、Shuさんと2人での夕食であった。Shuさんはこの周辺に地理に詳しく、近くのスーパーに行き、明朝の食糧を買い込んだりした後に、近くの屋台の飯屋に夕飯を食べに行った。選ぶものが悪かったのか、量はやたら多いのだが不味かった。

ホテルにて
 ホテルに戻り、インターネットが繋がらないのでホテルの従業委員に接続をみてもらい、その間にShuさんと白酒を飲む。結局、毎日毎日飲んでいるから飲みたくなり、飲む量は普段と変わらずかなりの量を飲んでしまった。その後メールが繋がったので、すべてのメールを見て、必要な返信をした。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.4_魚鱗抗による植林

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2006年7月26日(水)

朝食
 朝7時半に朝食。朝の食事時間が毎日30分ずつ早くなる。県知事も来て一緒に食事をする。8時過ぎからすぐにタクロク県の果樹展示園に行く。
 この日の予定はビッシリ詰まっているので、相当な駆け足である。車で園内を回り、これが、モモ、アンズ、ブドウ、ナシと説明してくれる。ここでも昨日のような農薬噴霧をしているのだろうが、それを見なかっただけでもほっとした。

ぶどう園
モモ
ナシ

承徳市へ
 それから承徳市の植林計画が進行中の現場に向かう。時間がかなりかかるとのことだ。9時頃ここを出発する。ここで張家口市のKoさんとは分かれた。
 承徳市まで高速道路を使うが、9時半頃、高速道路上で車が完全にストップしてしまう。渋滞とも呼びがたく、全く車が動かない。ここは3車線もあるのだが、この先で道が1車線になり、そこが詰まって止まっているとのことだった。そうはいうもののこの動かなさは事故ではないかと思った。隣の車線は大型トラックのみだが、全く動かないので、運転手が車から降りてきてぶらぶらしている。我々も車から降りてぶらぶらした。

高速道路上の物売り
 そのうち、自転車に乗って食べ物や飲み物の物売りが来た。どこから高速道路上に入ってくるか不思議だが、高速道路上で商売が成り立つのは面白くさすが中国だ。道路上から周辺の民家をみると、皆焼きレンガ作りの家である。

高速道路上の物売りのおじさん

 ようやく動き出して、高速道路を下り、普通道に戻ったが、やはり道は素晴らしい。問題は高速道路で渋滞が起きないように、コントロールができないことだ。ハードでなくソフトの問題のようだ。

高速道路を降りてからの普通道

ガソリンスタンドのトイレ
 ようやく高速道路から下りたので、自然の呼び声に従って、一般道沿いのガソリンスタンドのトイレに行く。尾籠な話で申しわけない。当然ながらトイレは中国式だった。ドアなどはない。入ったら2人の男がこちら側を向いてしゃがんで、おしゃべりをしながら連れで用をたしているのであった。肥溜め式で用をたす部分が20cmくらいの幅で線状に空いており、そこを跨いで用をたすのである。小さいのは男達が用をたしている前に細い溝があり、そこで私はしたが、後から入ってきた男は2人が用をたしている間で小用をたしたので2人の目の前に一物を出すのだった。この辺はお互いに全然気にしていなくおおらかなものだった。大きいのをしていた人達は、お尻を拭かずに、そのままパンツを引き上げていた。犬のように乾いてコロコロなら良いが、柔らかい時は困るだろうと思った。それよりも清潔であることが重要である。

道路の両側にポプラが並木道として植えられている

承徳市の現場へ
 承徳市の現地へ急いでいるのだが、腹が減って来たので先に昼食を取ることにする。

昼食
 承徳市の人と一緒に昼飯を取ろうということだったが、高速道路の渋滞で予定が遅れ、また、雨が激しくなってきたので、途中のレストランで昼食を取りながら雨宿りをすることとした。ここでも不味いビールと白酒を勧められる。

承徳市の関係者と落ち合う
 だいぶ遅くなり午後4時頃、現場に近い高速道路を降りる料金所で、承徳市の関係者の方が待ってくれていた。ここから現場が近いのですぐに現地に向かった。

植林地への登り口。雨が上がり、ドロドロの道を上がり始める

 最初に植林後2年目の場所と今年植林する場所を見る。等高線に沿って地拵えをしている。魚鱗坑といって、丁寧に植穴を堀り、周りを石積みにし、雨水が溜まりやすくして保護している。

魚鱗坑

 上の写真はこれから植林をするところであるが、既に雨期に入っているので、できるだけ早く植えるように促した。
 それから、2年前に植栽したところを見に行く。高速道路の下の道を歩く。少し前まで降っていた雨で靴がドロドロになる。かなりの粘土質な土壌だ。高速道路に沿って上に登る。そこが2年前の植林地だったが、植林木は草に隠れてどれだけ活着しているか良く分からなかった。しかし、一部の生存木は良くわかり、一旦活着すれば、順調に成長すると思われた。

活着した植林木

承徳市に
 それから山を下り、車で承徳市まで行く。時間も遅いのでホテルに入る前に、承徳市の避暑山荘の前にあるレストランで食事をすることになった。ここには承徳市の林業局の幹部が集まっていた。靴がどろどろで悪かったが、入る前に泥を払いきれいにはした。

酔っぱらったふりして話逸らし作戦
 こんなに沢山の承徳市の林業局の幹部が集まっているとは思わなかったが、最初はわきあいあいと世間話でなごやかだった。
 しかし、白酒の乾杯攻勢が激しかった。多くの人が乾杯、乾杯とくるのでピッチが非常に早くてやばいと感じで沢山食べ、お茶も飲んだ。しかし、こちらがかなり酔っぱらってきたなあと感じたあたりで、仕事の話を始めたのだ。これは中国の作戦にまんまとはめられたと思ったが、既に酔っぱらっていた。
 要するに援助を引き出したいのだが、私には権限もないし、そんな話を日本に帰国したら伝えると言っただけでも日本が援助をしてくれるということになったと喧伝されるに違いない。仕方がないので、酔っぱらったふりと話しそらし作戦を取った。
 グデングデンで呂律の回らない口調で、援助の話は技術の話にすり替え、「もっと自分たちで植林して見本林で植林成功例を作り、日本以外の他の国の援助も引き出してみてはどうだろうか?今の活着率をもっと引き上げる技術を考えてみてはどうだろうか?」といった話を長引かせていたら、時間がきて、ピタッと宴会も終了となり、ここでもほっとした。

山荘賓館
 実際に、すっかり酔っ払ってしまい、この日の宿泊先のホテルがレンストランの前の山荘賓館で良かった。床や壁には大理石がはめ込まれ、立派なホテルだった。部屋も素晴らしかった。部屋はいつもShuさんと廊下を挟み対面である。スニーカーがあまりにドロドロなのできれいに洗って、できるだけ水分を取り、壁に立てかけ乾かした。しかし、外は雨模様で湿気ているので明朝は、湿気たスニーカーを履かなければならない。
 ここでメールを試みると通じそうでなかなか通じなかったが、ニフティーのローミングサービスで北京に繋いでみると通じたが、途中で切れてしまい諦めた。

山荘賓館


つづく

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.3_凄い禿山、裸山で激しい侵食

森林紀行

筆者紹介




2006年7月25日(火)

現地へ
 この日の朝は、8時に朝食。昨日と同じ感じだ。朝食後、打ち合わせをした後に現場に行く。曇っていて、またしても雨が降りそうであるが、幸いにも霧雨程度で済んだ。現場までは車で約1時間くらいだった。

現地の山に近づく

現地の山(森林)
 道路際は畑になっており、畑から緩傾斜の山が続いている。山には木がない。森林がないのだ。びっくりした。どこもかしこも禿山、裸山で、草だらけである。だから物凄い土壌侵食だ。

土壌侵食
 この土壌侵食の凄さといったらどうにも表現のしようがない。アンデス山脈でも大規模な土壌侵食を見たが、原因も全く同じで、昔あった樹木を根こそぎ伐採してしまったためである。
 山の源頭部あたりの谷間から徐々に侵食が始まり、下流になるほど侵食の規模は大きくなり、平地になっても、まだかなりの侵食が見られる。扇状地から盆地になり、侵食された土砂が堆積して、ようやく侵食が収まるのである。次からの写真を見てもらえば良くわかるだろう。

道のどんつき。道を作ったので、より侵食が激しい
尾根付近の谷頭から侵食が始まり、
麓に向けて侵食が激しくなっている。
途中の二次谷、三次谷の侵食も激しい。
表層の土壌が流れてしまっているので、
斜面には石が多い。
本流の谷でも凄い侵食

 斜面を登って尾根上に出る。一面の草地で禿山である。雨期のため草地になっているが、乾期には一面茶色の斜面だそうだ。ここに茶色に広がる斜面は容易に想像できた。
 私は、半袖の上に薄いジャンバーを羽織っていたが、風が強く冷えてきて夏なのに手がかじかんで来た。

扇状地から盆地となった平地には畑が広がる
同上

植林地
 植林地域を確認する。針葉樹は、油松や満州赤松、広葉樹は榎などを植えているが、生存木が少なく、活着率は非常に悪い。
 5月~10月にかけて雨が降り、7月、8月は雨期で月に100㎜程度雨が降るとのことである。11月~4月までは乾期で雨はほとんど降らず、年間の降雨量は400㎜程度とのことだ。これでは、乾燥に強い樹種を植林したり、植林後、数年間は灌水するといった何らかの対策を考えないと活着率向上は難しいと思った。

禿山、裸山となった原因
 禿山となった原因を聞けば、はっきりとは言わないものの、これは、毛沢東の大躍進政策の中で採られた製鉄増産運動に起因しているとのことだった。当時(1950年代後半)、製鉄のために一般人も薪を用いて製鉄を行ったとのことだ。そのため、ほとんどの森林が伐採されてしまったのだ。
 想像すれば、その頃までは多少の高木の森林があっただろう。しかし、中国では古代から人口は多かっただろうし、焼きレンガが建築材に使われたということなので、レンガを焼くためにも森林は徐々に伐採されて失われて行き、そこへ毛沢東の製鉄増産運動での燃料としての薪採取により残っていた森林の伐採に拍車がかけられ、根こそぎ森林が伐採されてしまったのだと想像した。
 そのため、この時は既に、「退耕還林」政策が採られていたが、まだ十分には進行しておらず、その効果は、ほとんど見えない状態だった。この中国のスローガンは読んで字の如し、素晴らしいと思うが、皆が「右向け右」といった号令の下に一斉にやらされるのは、それにはそぐわない人もいるだろうし、これは空恐ろしい。森林の伐採も回復も科学的根拠に基づいて行われるべきと思ったものだった。

植林の可能性
 そうは言いながら、植林が成功する可能性は十分にあると思った。というのは、表層の土壌は侵食され流されてはいるが、樹木の根を支えるその下層のかなり柔らかい土壌は十分にあるので、樹木の根は十分に支えられるからだ。
 ただし、この周辺は日本の東北地方くらいの緯度で、やや寒く、雨量は夏の7月8月が100㎜前後で、年間400㎜くらいしかないので、この雨量が少ないことが厳しい条件となる。5月から10月までは雨が降るが、11月から4月くらいまでは植林した当初は、灌水できれば良いが、手間が大変なので、別な方法も考えなければならない。
 樹種は、既存の植林樹種に加えて乾燥に強い郷土種を選ぶことになろう。とにかく低木でも森林を作り、天然更新して自然に樹木が増えるようになるまで、植林を行うことである。
 今にして、この後に私がかかわったドミニカ共和国でのプロジェクトのように、単に緑化だけでなく、中腹あたりに貯水池なども作り、果樹などを植え、点滴灌漑などを行ない、何らかの収入も上がるアグロフォレストリー的な方法を取り入れることも一計ではないだろうか、と思ったものである。
 植林は森林を伐採した後に、伐採した樹種が天然更新かクヌギ、コナラ林のように萌芽更新で元の森林に戻れば、費用がかからずに最良の方法となる。しかし、苗木作り、植え付け、灌水と手間と費用がかかれば、植林もなかなか進まないだろう。中国の土地所有は国か農民集団ということなので、国が費用を支援してくれれば良いが、農民集団の土地であれば、果樹の植林で農民が収入を上げられその一部を植林費用に回すような仕組み作りが必要であろう。

農民のトラクターがエンコ
 帰路の途中、道路で多少傾斜のあるところで農民のトラクターが雨で地盤が緩んだためそこを登れず、道路を塞いでいる。我々の車の前にいるものだから我々もストップ。近くで道路工事をしていたブルドーザーがいたので、頼んで引っ張ってもらう。最初は引っ張るために付けたナイロンロープが切れてしまった。それで、ワイヤーに付け直すと、すぐに引っ張ることができ、農民のトラクターは横にどいてもらい、我々はホテルに戻ることができた。

農民のトラクターを工事中のブルドーザーで
引っ張ってもらう
近隣の焼きレンガの家

昼食
 ホテルに戻り昼飯である。体が冷えたので、この時は乾杯を勧められるままに白酒を飲む。少し飲んで、体が温まってきてほっとした。こういう時にアルコール度の高い酒は元気も出るし、実に良いものだと思ったものである。しかし、それで中国の寒い地方やロシアにはアル中が多いのではないだろうか?ここで河北省のRiさんは戻っていった。

タクロク県に行く
 食事後、豚鹿県(豚ではなく月片がサンズイ、タクロク県と言う)に行く。途中でタクロク県の町で県庁に立ち寄り県知事に挨拶をする。それから公安と書いた車(警察権をもった林業局の車)が先導してくれる。町はやはり立派である。幅広の道路は、片側が2車線ずつあり、その外側に街路樹植林用のスペースが広がり、それとビルとの間にはもう1車線ある。ビルは7~8階の大きなビルが余裕を持って建てられている。どうみても日本の市役所所在地などよりもはるかに余裕がある。しかし、このビルの耐震構造を考えると外見のきれいさだけでは判断できないところがあろうと思えた。

ぶどう園
 そこから30分くらい未舗装の道を行くと、段々畑ならぬ段々ぶどう園が広がっている。
 ここは世銀のプロジェクトの援助でできたふどう畑で6年目とのことだ。6年でそれほど立派な木になるとは思われないので、既存のぶどう畑のところを拡張的に整備したのだろう。ここはワイン生産を中心に行っているそうだ。階段切りを行って、井戸を掘り、灌漑用のパイプを通し、230haのぶどう園を造成したとのことである。1,500万元(2億2千5百万円)借り、利子は0.2%で25年返しだそうだ。それ以外に800万元(1億2千万円)は無償だそうだ。
 しかし、農薬のかけ方が凄い。半端ではない。多くの人が農薬タンクを背負い、マスクもしないで一斉に農薬をかけている。手前の農地で作業している農民を見ても同様にマスクをするわけでもなく、農薬タンクを背負い、噴霧器でかけている。これを見て、中国農民や中国人自体の農薬中毒の怖れが心配になった。それに中国のワインもおいしいけれど飲むのは止めようと思ってしまった。日本で売っている中国産の野菜もできるだけ買わないようにしようとも思ったものである。
 しかし、今では中国人の農薬に対する意識に変化が見られ、クリーンな野菜を食べたいと思う人も増えているようだ。

文学館
 帰りに丁玲さんという人の文学記念館があったので立ち寄ってみた。丁玲さんの銅像が入り口に立っていた。
 丁玲さんは中国の女流作家で、左翼作家連盟に属し、夫の刑死後、共産党に入党し、解放区で文化宣伝工作に従事し、1954年頃から批判を受け第一線から退いたが、1979年に名誉を回復した方とのことだった。
 面白いものとは感じなかった。ただ、そこで遊んでいた子供達が元気で、日本の子供と同じようで心が和んだ。

丁玲さんの銅像

タクロク県のホテル
 この日は、豚鹿県のホテルに泊まった。ホテルの概観は病院のようである。中は普通のホテルといった感じだった。ツインの部屋を一人で使いかなり広いが、ここでも赤城県のホテルと同様にバスタブの排水が悪かった。

夜の接待攻勢
 夜は、また接待攻勢である。このタクロク県の県知事よりも偉いと思われる方の隣に座らされた。この方は随分と態度が大きかった。年は私より少し若いくらいに思われたが、非常に尊大で高慢のような感じを受けた。今まで様々な国の偉い人達とも会食をしたことがあるが、常識的で尊大と感じたことはなかった。接待受けるのも仕事の一部と思っていたが、お客さんである私に対してまるで自分の部下であるかのような物言いだ。こんなひどい目にあう接待は受けたくもない。このような態度は、中国の政治体制が影響しているのだろうと思わざるを得なかった。
 ここでも随分と白酒を飲まされた。ビールは相変わらずまずい。相手が悪いからよけいに不味く感じたのであろう。しかし、ここでも夕食は2時間くらいでピタッとお開きとなり、ほっとした。

街中
 少し余裕ができたので町に出た。Shuさんが大きな瀬戸物の金魚蜂を以前に買って、明日行く承徳市の事務所に置いてあるとのことである。今回、それを日本に持ち帰りたく、機内持ち込みにしたいとのことだった。そのために布でくるんで割れないよう、大きな布袋を作ってもらうため、布屋に入った。私も中国風の布を少し買う。
 そのあと中国式のマッサージ屋に行き、体をほぐしてもらった。45分で70元(約千円)だった。男の人だったのでかなりきつくもんで貰った。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.2_山に樹木がなく少雨で道路が浸水

森林紀行

筆者紹介




7月24日(月)
ホテルでの朝食
 朝8時半ぴったりに関係者全員で、ホテルのレストランの小部屋で食事をした。食事用の部屋が何部屋かある。おかゆ、肉まん、あんまん、ゆで卵、肉類やスープ類など、色々な種類の食事が出てくる。丸テーブルの上の台を回転させ好きなものを好きなだけ食べれば良い。さすがに朝からアルコールはでなかったのでほっとした。張家口市の林業局の担当者も朝早くから来てくれた。Koさんといった。

会議
 食事の後、会議室に移動して、会議が始まる。中国側から最初になにか挨拶があって始まるのだろうと思っていたら、なにもかしこまった挨拶なしに、自然発生的に会議が始まってしまった。これが中国式なのか。進行が良くわからなく、これはまずいと思い、まず、成り行き任せの会議をストップさせた。それから私が挨拶をして、自己紹介や今までのお礼や経緯を述べ、今回の仕事の目的や調査内容などを説明した。

泊まったホテル 温泉賓館の会議室

 中国側は河北省のRiさんが責任者であるのだが、会議の司会もしないし、ほとんど発言もしない。そこで私がほとんど仕切ってしまった。
 河北省では、ここにきている中ではNo.3の位置にいたFonさんがだいたいしゃべり、後は赤城県の担当者に説明させている。私は、初めてでわからないこともあるので、沢山質問をした。それから今回の調査が終わった後に提出してもらいたい書類などを頼んだ。そしてお互いが納得して、最後にまた私がまとめを述べて、このときの会議は終わった。
 この時の中国側の関係者の年代は40代後半~50代前半で、私よりも少し若いくらいだった。

温泉源へ
 午後から現地に行く予定となっていて、少し時間があるので、近くの温泉源を見に行こうということになり、皆で、徒歩で見に行った。道路に水が流れているのでどうしたのかなと思っていたが、先ほど降った雨が流出して道路を流れているのであった。大した雨でもないのにこれほど流出するとは、山に保水力がないか道路の側溝や下水道など排水施設が整ってないからだろう。ホテルから歩いて5分くらいのところにお寺があり、そこが温泉源となっている。

近隣のホテル
雨が降ると道路に雨水が集まる。側溝がない。

 温泉の近くには、何やら怪しげな看板もある。怪しげな看板は、どうやらカラオケ屋と按摩屋のようだ。

怪しげな看板

温泉の成分
 温泉源には、温泉の成分が書かれた石板が沢山あった。中国も日本と同じように温泉の成分の薬理的効果により、病気治療などに利用している。

説明文「平泉。1分に0.05ⅿ3出水。36℃。pH5.1~7.8。この温泉には微量元素が多く含まれている。」

説明文「胃泉。1分間に0.083ⅿ3出水。58℃。pH4.9~7.8。温泉の成分から消化器系統の慢性胃炎や腸炎、神経性胃腸潰瘍等に効果がある。」

説明文「ゾングアン(主温泉)。1分に0.516ⅿ3出水。68℃。pH4.9~8.0。30種類以上の化学的成分と放射性物質を含む。Na,K,Ca等。100年の治療経験や最近の研究によりリュウマチ関節炎、神経性皮膚炎、脂漏性皮膚炎等に効果がある。治療効果は80%。」

お寺への登り口
 温泉源の上にはお寺があり、山の中腹のお寺まで登る。

お寺への登り口
同上
中腹のお寺から下を見る
お寺の中の像

 上の写真はちゃんとした像であるが、他の像をみて大ショックを受けた。多くの像は首が刎ねられていたのだ。文化大革命の負の遺産だ。政治闘争ではあるが、既成の一切の価値を変革するというところから文化遺産も破壊されたのだ。像とはいえ、その姿は無惨で、とても見られたものではなかった。

お寺の前の占い師
 お寺への参道の途中に、占い師のおじさんがいた。しきりに占ってやると言うので、20元(約300円)を払い、占ってもらった。雨が少し降り出だしたので、少し上に登り、寺の軒下で占ってもらう。誕生日と生まれた時刻を聞かれ、筮竹を3本引く。それには数字が書いてあって、占い師のおじさんは数字と本と見比べている。そして左手の手相をじっと見る。Shuさんが通訳してくれているのだが、過去のことを言われると良く当たっている。「あなたは今年の春までここ何年か体調が悪かったが、これからは良くなり、快調になる。」と言われる。実際に49才の時にジンバブエで罹った肝炎で、その後5年くらいはずっと調子が悪く、ようやく良くなり酒も少し飲めるようになってきたくらいの時だったので、まあ、この言葉を信じようと思ったものである。
 未来のことは、「今後6年間の間に事業を起こしても上手く行くし、今のままでも上手く行くし、全て上手く行く。あなたは管理職で、皆に尊敬される管理職となる。金運も付いてくるし、あなたの歳でも女性運も良くなる。全てが順調となり、幸福な人生で、88歳までは十分に生きられる。」と調子が良いことを占われる。本当かねと思ったけれど、良いことを言われれば気分は良くなるものである。私は簡単に騙されてしまう方でもある。
 当たってなかったことは、「あなたの妻は私を中心に生きていて良く面倒をみてくれている。」と言われたが、実際は非常に独立心が強く、私の存在など必要なく、自分中心に生きていると思われる女性なので当たってない部分もあった。

占い師のおじさん

 私は、この時56才だったので、今思うと勤めを辞めて何か事業を起こした方が良かったのだろうかなとも思うが、そんなことはできなかっただろう。ちょうど、この6年後に今の会社(株)ゼンシンに入社させてもらい、とても感謝しているので、そのままで上手くいったということだろう。
 金運や女性運は意識できるほど良いとは思えないので、当たったとは言えないが、普通なのであろう。
 また、この時、88才までだとまだ32年もあり、結構長生きできるなあと思ったが、今72才になってみると、あとたった16年しかないなあと感じる。父は90才まで生き、母は96才でまだ健在だから二人とも長生きである。だから今思えば、百寿まで生きられると言ってくれれば良かったのになあと思う。それに全て良いという6年間はあっというまに過ぎ去ってしまった。欲張りであろうか?

帰国してから勤め先の中国人に聞いてみた
 この時、帰国して、同じ勤めに中国出身の技術者がいたので、その方に中国の占い事情を聞いてみた。すると、中国の古いお寺の占い師は90%くらい良くあたると言われているとのことだった。占い師のおじさんの写真を見せたら、「こんな感じの人は良く当たるよ。」と言われて、我ながら単純すぎるが、改めて気を良くした。
 まあ結構楽しませてくれた占い師で、旅にアクセントを付けてくれて感謝した。

昼食
 それからホテルに戻り昼食となる。早くもビールと白酒を勧められる。例によって乾杯攻勢で、飲まないわけにはいかないので、少しは飲む。白酒はアルコール度が高いのでとてもおいしいが酔うので、できるだけ随意にし、飲む量は控えた。

現地へ
 午後2時過ぎに現場に、これから植林を進めるという現場に行くという時に、少し雨が降ってきた。これはかなりの雨になりそうだとこちらの人が言っている。私は早く山を見たいので、それでも現場に行こうと、皆を連れ出し、車で出発する。


 しかし、雨は激しくなってきた。少し走って、未舗装の道路に出ると、山からどんどん水が流れて来て、道路が川のようになって来た。道に少し段差があるところを車で越えるのは難しいし、水かさが増してくると危ないので引き返すことにした。

道路は川のようになる

 すると帰り道では舗装道路は、未舗装道路よりも、もっと川のようになり10cmも越えるような深さで水が流れているところもある。とは言え、ようやくホテルに戻りつくことができた。戻る決断が少し遅れていれば帰るのが難しかっただろう。
 山に木がないので保水力がなく、すぐに雨が流出してしまうのである。それで現場に行くのは明日の午前中にしようと予定を遅らせた。空いた時間で、植林の計画作りを皆で練り上げるにはちょうどよかった。

夕食
 夜の酒は、今度は茅台酒(マオタイ)である。昼はそれほど勧められなかったが、夕食時の乾杯、乾杯の攻勢はかなりのものだった。相当に飲まされ、少し酔った感じがした。マオタイも50度くらいあり、とても美味い。
 しかし、1時間半くらい食事をしてパッと止むのが良い。その後、酒は全く飲まないのでそれも良い。

温泉プールへ
 午後8時過ぎになり、近くの温泉プールに行こうと誘われた。ほとんど雨は止んでいる。男全員で行く。入り口で靴を預けてサンダルをもらい、海水パンツも新品のをもらい中に入る。たぶん誰かが買ってくれていたのだろう。タオル、シャンプーが入ったビニール袋をくれ、着替える。
 「メガネを取ると良く見えないよ。」と言ったら新品の度付の水中メガネを誰かがもってきてくれた。少し度が強過ぎるけれど見えないよりは良い。水中メガネを付け、左側の長さを調節しようとするとゴムが切れてしまった。さすがに中国製で粗悪だと思ったが、幸い余っているゴムひもを少し伸ばして使うことができた。
 中には3つほどプールがあり、2つは普通の水温に近く、1つは温水プールであった。ここは標高1,000mくらいで寒いので温水プールで温まる。温泉に入っている感じだ。奥の方へ行くと少しぬるぬるしている。
 それから普通のプールに行き泳ぐ。長さは25mくらいだ。Koさんが片道の競争をしようというので、競争したら私が勝った。次に運転手が挑戦してきて、私は負けてしまった。勝ったり負けたり引き分けで良かった。
 皆、腹がぽっこりと出ていて、私だけが年でも締まっていて腹筋が割れて見えるのに皆、驚いていた。この頃は、ジンバブエで陥った肝炎からの体力の回復のため、腕立て伏せと腹筋運動を毎日100回くらいやっていたのだ。
 上がってシャワーでシャンプーをしながら、頭を洗ったが、皆、人前で裸になるのは平気だし、まったく隠したりしない。これは中国のトイレ事情など考えれば、恥ずかしいという感情などないからなのだろうと思った。
 プール代は誰が払ったかわからなかったが、私が自分の分は払うと言っても、私には払わせない。かなり飲んだ後だったが、十分な運動をしたので、二日酔いにはならなかった。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.1_河北省張家口市赤城県へ

森林紀行

筆者紹介



7月23日(日)
 この紀行文は、中国で北京オリンピックが開催されている真っ最中(2022年2月前半)に書いたものである。オリンピックのスキー会場は張家口ゾーンである。そこで張家口市のことを思い出したのだ。今から16年前の2006年の7月に、この周辺の森林を調査したことがあり、広大な中国のごく一部ではあるが、今回はその時のことを書いてみたい。例により日記風な紀行文である。

出発(家から成田空港へ)
 2006年7月23日(日)のことである。京成上野駅発10時40分発の成田空港行に乗るつもりで家を出発したが、わずかの差で乗り遅れた。次のスカイライナーは11時20分であった。駅でコーヒーを飲んで時間をつぶしていたらあっという間に時間が過ぎ、次の11時20分のスカイライナーに乗った。12時20分頃に第2ターミナルに着いた。
 出発ロビーに上がると今回の同行者のShuさんは既にロビーで待っていた。Shuさんは同じ部で働いており、台湾出身で母国語が中国語なので、中国関係の仕事を受け持っており、今回は私の通訳兼秘書兼助手だった。つまりは、仕事の同僚との出張ということだ。
 私は宅配のabcのカウンターに行き、スーツケースを受け取って、すぐに二人で登場手続きをする。中華航空のビジネスだ。エコノミークラスの受付は多くの人が列を成していたがビジネスだったのですぐに搭乗手続きは終わった。
 パスポート審査を受け、中に入り、コンコースDへモノレールに乗って行く。当時、成田空港にはこのモノレールがあったが、今は廃線となっている。あまりに短く、必要性がなく、不便で不評だったからだろう。
 ラウンジに入る前にお土産用にタバコを買う。この頃、中国ではまだタバコがかなり吸われているとのことだった。ピースとセブンスターを2カートンずつ、計4カートン買う。
 ビジネスのラウンジには、色々食べ物もあり、昼飯として食べることができた。私が中国へ行くのは、この時が初めてだったが、Shuさんはこの仕事に長年関わってきたので、今までの経緯を色々とおさらいさせてもらった。そして、この旅を気楽に行こうとビールで乾杯。

離陸
 14時55分発が1時間近く遅れて、日本を発ったのは16時くらいだった。北京時間の午後3時だ。東京と北京の時差は1時間だ。席は3Aと3B。すぐに機内食がでて、ビールも頼む。ドイツビールで美味かった。食事は鮨、まずくはなかったが、うまくもなかった。機内での鮨は今一だ。少し眠ったらもう北京に着陸とのアナウンスがかかった。正味3時間ちょっとである。

到着
 荷物を取り、通関し、空港の自動換金機で100ドルを換金しようとしたが、うまく通らなかったので、あきらめて人のいる窓口で換金した。当時、円だと1元15円くらいだった。

北京空港

 外へでると河北省と張家口市赤城県の関係者と運転手もいれて合計で、6人もの人が出迎えに来てくれていた。熱烈大歓迎である。地下の駐車場へ行き、車に荷物を積む。車は2台ともランドクルーザーのようなタイプの車だ。

北京市から張家口市赤城県へ
 この日は、北京市には泊まらずに、これから仕事をする河北省張家口市赤城県に向かった。張家口市は河北省内の北西部にある。中国の行政区は市の下に県があり、市の方が大きくて、県の方が小さいのは日本とは逆だ。そこまでは北京から約100㎞で、車で2時間ほどとのことだ。ちなみに河北省には今回の調査対象の北京市、張家口市、承徳市が含まれている。

 外にでると、早速汚染された空気の匂いを感じた。さて、これから一緒に仕事をする仲間がここからずっと北京に戻るまで一緒に過ごすとのことだった。えっ。そんなことは思ってもいなかった。確かに熱烈大歓迎だったけれど、いつも一緒の行動では、自由がない。まあ、歓迎を装って自由に行動できないように見張っているということなのだろう。こちらには何もやましいことも悪いこともしてはいないのだからどうということはない。ただし、彼らには国家機密というほど大げさなものではないが、援助を受けている植林は必ず成功しており、上手くいっていない場所などは見せられない、だから我々が案内するのだ、といったことがあるのかもしれないと想像させられた。
 とは言うものの、それまで仕事をした中南米やアフリカの国とは違い、また東南アジアの国とも違い、外国にきたという感じがなく、強い親近感を抱いた。単に顔立ちが同じだからだろうか?これは、日本人だって元をただせば、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきた渡来人だろうし、元を正せば同根というところから来ているのだろうか?
 そこで、中国、韓国とは戦争というひどい過去はあったが、聖徳太子の時代には中国、朝鮮の文化が日本に持ち込まれたのだから、そういったものを乗り越えて、よりわかりあえるのではないかと到着したこの瞬間には思わされた。これから徐々にカルチャーショックを受けるのではあったが、まずは親近感を覚えるというポジティブな軽いカルチャーショックである。

最初にみた北京の街並みの印象
 北京の町並みはどのようだろうか。空港を出発した後、古い建物(家屋)は見えるのだろうかと思っていたところ、素晴らしく幅広の高速道路の連続で、超高層のビルが余裕を持って林立しているのが見えるだけで、古い建物は見られなかった。東京では近代的なビルの谷間に古い民家が残っているのが見られるのだが。早くも自分のイメージと違った軽いショックを受けた。
 かつての中国は、ニュース映像などでは、自転車があふれているという印象もあったが、もう町には自転車は見られなくなっていた。GDPで日本を追い越したのは2011年のことだったが、この2006年も中国は急速な経済成長を続けていたのだった。
 しばらくすると雷が鳴り始め雨が降り始めた。段々と雨が激しくなる。7月は雨期なのだ。夜と雨ではっきりは見えないものの、「スケールが東京とは違い過ぎる。でかすぎる。」とまた軽いショックを受ける。
 河北省のRiさんが助手席に乗り、Shuさんと私が後ろの座席でShuさんが通訳してくれる。Riさんに今までの経緯のお礼や今回の調査を改めて頼み、丁寧なアテンドのお礼などを言う。雨が降っていたせいか、半袖では寒い。薄いジャンバーを羽織る。日本も天気が悪かったが北京も雨だった。

途中のレストラン
 1時間ほど、午後8時くらいまで走って、途中の町のレストランに入る。Riさんが沢山の料理を頼み、早くも接待攻勢を受けているという感じだった。日本からの援助で植林が進んでいるということへの感謝の気持ちを表しているのだろうが、以後の役所がらみの接待ではより多くの援助金を引き出したいという目論見が透けて見えることも多かった。
 シャブシャブのようなスタイルで薄い羊肉を沸騰したタレに入れて食べる。タレはトオガラシの効いた辛い方がおいしいが、辛すぎるので、私は、ゴマタレの方を多く食べた。それから沢山の炒め物が出る。
 料理の種類や量はやたら多いが大味で、繊細な料理といった感じは受けず、少しがっかりした。
 酒は、ここの地酒の蒸留酒(白酒:パイチュウ)をRiさんが頼む。すぐに乾杯(カンペイ)となるが、乾杯だと本当に一気に飲み干さなくてはならないのだ。何しろ飲むときに自分一人で、手酌のように飲んではならず、飲むときは、誰かと一緒に必ず乾杯か随意(スイイ)と言って飲むのだ。スイイであれば人に強要されることなく、好きなだけ飲めば良い。皆が乾杯、乾杯といってくるので、これではすぐに酔っ払ってしまう。小さいチョコではあるが、私には無理なので随意(スイイ)でお願いする。
 最初は、少し飲んだだけでむせてしまった。度数を見ると58度であった。むせるはずである。口の中でアルコールがサット広がるのだ。飲めないはずである。しかし、これだけ強い酒だととてもおいしい。
 河北省のFonさんというのが陽気で色々と話をしてきて面白かった。Fonさんを見ていると、白酒(パイチュウ)を飲んだらすぐに何かを食べるか、お茶を飲むかビールを飲んで一挙に酔っ払わないようにしていた。これを見習わないとすぐに酔っぱらってしまうなと思い、良い参考になった。ビールは燕京ビールといい、アルコール分が薄いのは良いが、とても不味く感じた。しかし、酔わないためにはビールを水代わりに飲むのは良いのだろう。今は燕京ビールもきっともっとうまくなっていると思う。因みに燕京は北京の古称とのことだった。
 夜9時半くらいに食事が終わり赤城県に向かう。

赤城県のホテルに到着
 赤城県に着いたのは夜中に近い、午後11時過ぎだった。温泉地である。宿泊は温泉賓館というホテルだった。赤城県の職員の女性2名が夜遅いのにもかかわらず、待っていてくれた。年頃は30代と40代くらいに見えた。若い方は、美人だったが、話しかけても全く愛想がなく、「接客業とは言っても日本のようなサービス精神はないのだ、さすが中国。」と妙に感心した。

温泉賓館
 用意していてくれていた温泉賓館は赤城県のゲストハウスで、結構大きく立派で、7階立てで、全部で100室くらいはありそうだった。しかし、室内の設備の作りは悪かった。温泉なので湯船に湯を溜めて入れば良いといわれたが、お湯を入れると栓が緩くお湯が漏れてしまう。湯船からのお湯は排水溝に直接繋がっておらず、風呂床にお湯があふれた。大したことはなかったが、遅いので風呂に入るのは止めてシャワーのみにした。
 電話もついているのだが、内線のみで、市内も市外も通ぜず、インターネットはできないことがわかった。
 空港で待っていてくれて、北京から一緒に来た河北省と赤城県の関係者全員が、同じホテルに泊まった。明日の朝は8時半に朝食とのこと。ここでは関係者一同朝から晩まで同一行動とのことと念を押され再度びっくりした。


つづく

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.1_清流に感じた多摩川

森林紀行

【はじめに】
 地域探訪の小さな旅として、最初に、2021年12月初旬に歩いた多摩川周辺散歩について書いてみたい。新型コロナが出現する以前は、主に低山を登っていたが、新型コロナ禍となった後は、感染を避けるため交通機関を使うのを止めて、家から歩いていける場所を目的地として長距離散歩をすることにした。地域探訪といっても身近な場所である。しかし、身近であっても初めて歩く道は、無数と言っても良いほどあり、そこには何らかの発見があり、とても興味深いことが分かった。その後、緊急事態宣言が発せられ、その間は家に閉じこもってこの長距離散歩もやめていた。ところが、昨年(2021年)10月くらいから東京も感染者が激減し、交通機関の利用も心配なくなったので、電車に乗って行ける場所へ目的地もシフトし、長距離散歩を再開したものである。しかし、2022年になり、またオミクロン株が流行し始め、今後どうなるかわからないが、最近歩いたこの多摩川周辺の散歩を最初の地域探訪の小さな旅として書いてみる。

【コース】
 今回のコースは、南武線の久地駅からか神奈川県(川崎市)側の多摩川沿いに登戸方面まで歩き、水道橋を渡り東京都に入り、多摩川沿いに二子玉川駅まで(狛江市と世田谷区)である。

久地駅から歩き始め、二子玉川駅まで歩いた

【久地駅で待ち合わせ】
 前日は雨だったが、この日は快晴の良い天気で幸いだった。いつも散歩する友人と南武線の久地(くじ)駅で、10時に待ち合わせた。10時少し前にお互いに久地駅に着いた。

【途中駅で偶然の出会い】
 久地駅に行く途中、偶然なことに、府中本町の駅で、私が、国分寺でギターを習っている先生とばったりと出会った。そこから久地駅まで一緒に行った。近所とは言え、府中本町駅でばったり出会うのは、かなり低い確率であろう。

【久地駅から多摩川へ】
 久地駅で友人と出会い、そこから多摩川に向かう。駅のすぐそばに寺院があった。天台宗の青龍山龍源寺で、保育園が併設されていた。いつもは寺院も見学していくのだが、この日は裏側を素通りして多摩川に向かった。

裏から見た清流山龍源寺

【向の岡工業高校】
 多摩川に向かって歩いていくと、多摩川の沿いに神奈川県立向の岡工業高校がある。高校も目的地の一つだ。そして目的の高校に向かって歩いている時に周辺にある神社仏閣や珍しいものなども訪れるのだ。この高校のかなり広い敷地は、多摩川沿いだから取れたのであろう。

向の岡高校のグランウンド側から

【きれいになった多摩川】
 向の岡工高沿いの道路を渡ると多摩川である。ここから上流に向かい、登戸方面に堤防道路を歩いた。この堤防道路を、この時一緒に散歩している友人とはるか昔の若い時、川崎からこの堤防道路が終わる府中まで往復約40㎞を走ったことがある。懐かしい思い出だ。この日の、多摩川沿いは風が強く、寒く感じた。川沿いを離れて街中を歩くと日差しが強く暖かく感じた。

多摩川

 多摩川は私が高校生だった半世紀以上前は下流の堰などでは、泡が飛び交う汚染された汚い川だった。処理されない下水などが流れ込んでいたのだ。その後、環境規制が徐々に厳しくなり、汚染水が流れなくなり、今はきれいになり清流のように見える。冬なので微生物や水生昆虫の活動も不活発なこともあり、とてもきれいにみえた。

【多摩川にかかる橋や河川敷の施設】
 向の岡工高からすぐに東名高速の多摩川橋をくぐる。そこから上流に向かって堤防の上の道路を歩く。走っている人やサイクリングをしている人も少なからずいる。自転車がかなりのスピードで追い抜いたり、向かってきたりするので危ない。時々チャリンとベルを鳴らすものもいて、ここは歩行者優先なのにとんでもない野郎だなどと友人が言う。遠くに小田急線の橋もきれいに見える。

小田急線の橋

 しばらく行くと河川敷にフットサル場もある。サッカースクールなども併設されているようだ。

【多摩高校】
 このフットサル場の町側には神奈川県立多摩高校がある。多摩高校の周辺を一周する。この高校の敷地もかなり広い。やはり河川に近いのできっと創立当時に敷地が広く確保できたのであろう。
 都立にも多摩高校という名の高校があり、それは青梅市にある。同じ地名を取った学校ではあるが、県立多摩高校は多摩川の中下流で都立多摩高校は上流にある。こことは随分と遠くに離れている。

神奈川県立多摩高校
多摩高校の入り口にあった日時計。ほぼ11時。

【宿河原の堰】
 多摩高校から上流に向かって歩く。河川敷には縄文時代の遺跡もあるようだ。しばらく歩くと宿河原の堰がある。ここには沢山のシラサギがいた。コサギかチュウサギだ。宿河原の堰から取水して、ここから二ヶ領用水(宿河原用水)がスタートするとのことだ。江戸時代初期に農地に水を引いたそうだ。

写りが良くないがシラサギが多数いた
宿河原の堰

【船島稲荷大明神】
 宿河原の堰とほぼ同じくらいの位置の河川敷に船島稲荷大明神があった。鳥居の名前には「正一位稲荷大明神」と書かれてあった。治水興能の守り神だ。

船島大明神
同上

【水道橋】
 それから小田急の橋をくぐる。ここは登戸駅のすぐそばだ。それから少し上流に行くと歩いても渡れる水道橋がある。ここを渡り川崎市側から東京都側の狛江市に入る。水道橋の中間には東京都と神奈川県との都県境の標識がある。
 ここには昔は、「登戸の渡し」があったそうだが、1953年(昭和28年)に相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設の際に、道路と水道管の併用橋として架橋され水道橋と名付けられたとのことだ。その後、交通量の増加や橋の老朽化により、新たな橋が2001年(平成13年)にかけられたそうだ。橋の長さは約360mだ。

多摩川水道橋
水道橋からの景色
水道橋の中間にある都県境

【都立狛江高校】
水道橋を渡った上流側には都立狛江高校があり、高校の周囲を回った。

多摩川と都立狛江高校

【小田急線の和泉多摩川駅へ】
 狛江高校から今度は下流へ向かって歩く。近くに小田急線の和泉多摩川駅があった。この駅の下のスーパーで昼食を買い、多摩川に出る。

小田急和泉多摩川駅付近

【多摩川の河川敷で昼食】
 多摩川の河川敷の緑地にベンチがあったので、そこでスーパーで買った昼飯を食べた。ここは多摩川緑地公園グラウンドだった。

多摩川緑地公園グラウンド。水道橋方面を望む

【多摩川の川沿い】
 天気が良いものの風が強いので、ゆっくりと川沿いを双子玉川駅まで歩いた。途中、警視庁の教育センター(白バイ訓練所)などがあった。

【駒沢大の玉川キャンパス】
 東名高速の下をくぐりしばらく歩くと駒沢大学の玉川キャンパスがあった。相撲部という看板もあり運動場も見えたのでスポーツ専門の施設のように見えた。多摩川と玉川と二つの漢字があるが、その違いは、川を示す場合は多摩川で、この周辺は玉川という地名のようだ。

駒澤大学玉川キャンパス
同上

【双子玉川駅から帰宅】
 その後、多摩川の河川敷には、ラグビー場や野球場など様々な運動施設があった。二子玉川駅に着いたらそこから溝の口駅まで歩く予定だったが、歩行数も3万歩も越えて、ここからの道路は交通量が多いので、この日の散歩はここで終わりにし、二子玉川駅から電車に乗り溝の口駅に出て、溝の口駅で友人と別れ、帰宅した。

【今回の小さな旅の感想】
 今回一番印象に残ったのは、再発見ではあるが、多摩川がとてもきれいになったことである。多摩川がこれだけきれいになり下流の京浜工業地帯での大気も海も相当にきれいになっている。これならCO₂の排出も少なくなっているのではないかと感じるが、そうは問屋が卸さないのである。これは日本では巨大な火力発電所が石炭火力で動いていたり、車の総量が多いので、今のところはCO₂はなかなか減らせないのだ。日本も早く石炭使用から再生可能エネルギーへ、車もEVの製造過程ではCO₂排出を抑える方向でEV車へ早急にシフトすべきであろう。
 これ以外に、東京は神奈川にも広々として気持ちよく散歩できる場所があることが発見できた。また、広い河川敷の土地利用には、様々な運動場やドライビングスクールなどもあることがわかった。
 しかし、普段は穏やかな流れの多摩川ではあるが、2019年の台風19号では堤防を越水して洪水を起こしている。この洪水により下流のグラウンドや道路が被害を受け、復旧に1年以上も要し、時々参加していた月例川崎マラソンもその間、中止となった。
 単純に考えても、普段、幅50ⅿで深さ1ⅿの流れが、洪水時には幅300ⅿ・深さ5mで、流速が10倍になれば、水量は普段の300倍にもなるのである。とてつもない暴れ川となる恐れがある。一部の地域では天井川になっているし、多摩川といえども、今後想定される地球温暖化による台風や豪雨が増加する影響下での治水は、より困難になるのではないかと思わされた。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.40_ドミニカ共和国

森林紀行

筆者紹介




旅行-成田空港からサント・ドミンゴヘ(ドミニカ共和国)

はじめに
 現在(2022年1月)、世界は依然としてコロナ禍にあり、自由に観光旅行はできない状況にある。昨年末には、デルタ株は一旦収まったかに見えたが、新たにオミクロン株が出現し、今後どのような状況になるか予断は許さないところである。現在でもビジネスなどで許可証持っている方は、旅行はできるだろうが、一般人の観光旅行は当分難しいであろう。私は仕事で海外に行っていたので、今では観光旅行を楽しみたい気分であるが、上に述べたようにいつになったら再開できるかは見通せない。そこで今回は、何回も往復した成田空港からドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴヘの旅行を思い出し、旅行の楽しみ感や緊張感を書いてみたい。(カリブ海の国にはドミニカ共和国とドミニカ国があるが、以下ドミニカ共和国はドミニカと記す。)
 今回書くのは、ドミニカへ2回目に行った時のことで、2007年6月2日(土)~3日(日)である。2011年の東日本大震災の4年前のことである。

ドミニカ共和国の位置

経緯
 ドミニカでのプロジェクトの団長をしていた同僚が、ドミニカの現地、パドレ・ラス・カサスという町の奥のペリーキート村という場所で、突然、不幸にも心不全で亡くなったため、急遽、私が派遣され、同僚をサント・ドミンゴで荼毘に付し、遺骨を持ち帰ったのが5月19日(土)だった。その後日本での葬儀を5月26日(土)に行った。プロジェクトの団長は、私が引き継ぐことになり、葬儀の手配や団長交代の手続きなどで、2週間があっという間に過ぎ去った。そして、早くもドミニカへの出発の日の6月2日(土)となったのである。このころはしょっちゅう海外出張だったので、海外用の荷物は、帰国したら衣類は洗濯をして、海外用の荷物として保管していた。そのため、同僚が亡くなった時も、翌日にドミニカに飛ばなければならなかったが、いつでも準備はできていたので、用意は楽だった。

成田空港へ
 6月2日は、朝食後7時15分に家を出た。私の娘は勤めていたが、土曜日なので仕事が休みで、自転車の荷台に私のショルダーバッグを乗せて、自転車を押しながら歩いて駅まで見送ってくれた。そして最寄り駅から南浦和駅、上野駅を経て、京成上野駅からスカイライナーに乗り成田空港へ向かった。JALでニューヨークまで向かうので成田空港の第2ターミナルで降りた。着いたのは8時40分くらいだった。
 前日家から送ってあった荷物を宅配のABCのカウンターで受け取り、すぐにチェックインした。大きなスーツケースを2つも持って行った。1つは自分のもの、もう1つは仕事用である。2週間前に行った時より空港は、大分すいていた。前回はできるだけ早くサント・ドミンゴに行くため、アメリカで一泊しなくとも行けるシカゴ経由で行ったが、今回はニューヨーク周りで行く。ニューヨーク周りだとニューヨークで一泊でき休めるので、体への負担は少なくなり、翌日から仕事をする上でも一泊していったほうが効率的で、楽だった。
 成田空港の土産物売り場で、ドニニカの仕事先のお偉いさんやカウンターパート(共同作業技術者)用に沢山のお土産を買いこんだ。それで空のリックサックが一杯になった。通関してアメリカンエアラインのラウンジに入った。この時は、JALのラウンジがリニューアルの最中で使えなかったため、アメリカンエアラインのラウンジが代わりに使えたのだ。なにしろこの頃は、沢山の仕事を持っていたので、ラウンジに入ってすぐに勤め先に電話し打ち合わせをしたり、家族に電話をかけているうちに11時半になってしまい、飛行機に乗るようにとのアナウンスがあった。
 ラウンジでコーヒーを飲んだり雑誌を見たりする暇がなく、あわただしく、観光旅行とはかなり違うかなというところだった。ただし、わずか2週間前であるが、前回行ったときは、亡くなった同僚の家族を引率しての重い気持ちを引きずりながらの旅だったので、その大変さを思い出すと、この時のフライトは、かなり落ち着いて行くことができた。

成田空港
成田空港 荷物を運ぶ車両

機内
 飛行機は定刻の12時15分に飛び立った。ニューヨークには時差の関係で同日の11時半に着く。約13時間のフライトだ。出発した時刻よりも早い時刻に着くので、時差がなければ過去への旅となる。帰りは偏西風の関係で約14時間半かかる。これは未来の1日を失う旅だ。この路線がフライト時間は一番長いであろう。この機内での半日の間は仕事を忘れて一番リラックスできる時間だった。ニューヨークから先のフライトは、目的地が近づくので、つい仕事を考えてしまうからだ。
 乗ってしばらくすると飲み物のサービスがあり、それから食事となる。缶ビールを1本か2本飲んで、ワインを飲みながら食事をする。昔は和食を食べていたが、この頃はだいたい洋食で魚よりも肉系を好んで食べていた。それは色々食べて肉系が私には一番おいしく感じられたからだった。
 その昔は、映画も大きなスクリーンで皆で見ていたので食事の時は、隣の人との会話も楽しんだものだが、映画も個別に見るようになってからは、イヤホーンをしている人が多く、話しかけられなくなり、会話も楽しめず、フライトでの面白みが一つ減った。
 機内を前から後ろまで、エコノミークラス症候群にならないように、時々歩き回った。ジュースやスナックなどが置いてある場所では、そこにいる人と良く話をした。アメリカへ向かうのでアメリカ人も多く、英語慣らしに良い準備ともなり、頭は日本語から英語もOKに切り替わる。英語の客室乗務員には、休んでいる時に、水やビールをもらう時の英語も、最初のころは「Water, please.」と言っていたが、だんだん丁寧になり、「Can I have water?」とか「May I have another beer?」とか言うようになっていった。
 13時間のフライトはかなり長く、映画を見たり本を読んだりだった。最初の食事をとった後にすぐに眠れて、次の着陸前の食事の時に起こされるくらいの時はとても調子が良いが、眠れないと着いてから余計に眠いので、できるだけ眠れるのが良かった。

ニューヨークへ到着
 さてこの時は、ニューヨークにも予定どおりに同日の11時半に着いた。この時は、降りてからはラッキーだった。前の便の到着客がいなく、すぐに通関できた。到着便が多いと入国審査でパスポートチェックなどに手間取り、多くの人が列をなして待っており、ひどいと2時間も待たされることがあったからだ。荷物を取って、予約してあるホテル・ヒルトンニューガーデンへ行く。ここへ行くには空港内を回る電車で二駅くらい乗ったところにホテルのシャトルバスが付く場所があり、そこで待っていると15分~30分おきくらいにシャトルバスが来る。
 ここは前回泊まったホテルと同じだったから気が楽だったが、一人で旅をしていると、時々これで良いのか不安になったりする。それに大きなスーツケースを2つも持っていて一人だと、トイレに行くのにも容易ではない。この時は昼間だったから良いが、夜で真っ暗であたりが見えなく、初めての場所だと、シャトルバスがちゃんとくるかなとか不安になる。幸いにも何のトラブルもなくホテルに着いた。

JFK空港からホテルに向かう

ホテルにて
 前回の帰りに泊まったホテルである。ホテルには午後1時くらいにチェックインできた。同僚と一緒に来ていればマンハッタンあたりまで行って、見学しても良いが、一人で行って何かあると嫌だし、日本から出発して徹夜状態なので、眠いけれどビールを飲んでからぐっすり眠ろうと、ホテルの売店で小瓶のビールを1本買ったら7ドル(840円:この当時の円ドルレートは120円)もし、あまりに高いのでびっくりした。
 それでビールを飲んで、うつらうつらしながらベッドに横になったら、ブレザーもズボンのそのままで眠ってしまい、気が付いたらもう午後の8時だった。起きていた方が良かったかもしれなかったが、それからレストランに行き食事して、戻ってからまた眠ってしまった。時差で気持ち良く眠れた。出発前の2週間が、ずっと忙しかったので、これで疲れも取れるだろうと思った。

JFK空港へ
 翌6月3日(日)は、午前6時に朝食を取った。12時間くらい寝たので、目覚めはばっちりだった。7時30分のシャトルバスで空港ヘ向かう。バスに乗ってからスーツケースに巻くベルトをホテルに忘れたことに気がついた。前回、帰国時に同じホテルに泊まり、ホテルからJALの乗り場まではシャトルバスで5分ほどと近かったので取りに戻ろうと思ったが、今回はJALの乗り場も過ぎ、次々と色々な国のエアラインの乗り場を止まって行く。アメリカン航空までシャトルバスで30分もかかったので、取りに行ったら乗り遅れる可能性もあるので、取りに行くのはあきらめた。

JFK 空港のjetBlue アメリカの格安航空会社

チェックイン
 8時過ぎに直ぐにチェックインできた。大きなスーツケースを2つ持っていても規定内の大きさと重さで超過料金も取られることはなかった。アメリカはこういう点は厳しくチェックされる。ここでもアメリカンエアラインのラウンジで休むことができた。ここに入っていれば何かと安心で、リラックスできた。

機内にて
 飛行機は午前10時前に離陸した。飛行時間は3時間半ほどだった。機内はスペイン語が飛び交いすっかりドミニカの雰囲気だ。スペイン語慣らしに隣の席の人話をする。頭は英語からスペイン語もOKに切り替わる。
 ここでもしばらくして食事がでる。いつも中継地から目的の国までの飛行の時は、アルコールは飲まない。到着した時に、何かトラブルがあった場合に頭が働かないと困るからだ。数え上げれば切りがない。荷物が着かなかったこと、日本から持ってきた機器が通関できず保税倉庫行きになったこと、お土産も取り上げられたことなどだ。その都度、どうやって取り戻すか頭を悩ましながら交渉しなくてはならない。
 食事が終われば、自然と頭は仕事で、一杯になってしまう。明日のアポイント先の面会予定者ごとに話す内容を反芻し、こういう質問にはこう返すと言った想定問答も繰り返している。その後の予定はどうなっているか資料を引っ張りだし、読み返す。資料は日本語だが、それを訳したスペイン語も読んでいる。段々とプレッシャーがかかってくる。いや、自分でプレッシャーをかけ過ぎていたのだろう。
 さて、飛行中、今までも何回も上空を横切り、降りたことはないキューバを見た。南米に行くときは、続いて、今回の目的地のドミニカやハイチを見ることもあった。午後1時半に予定通りサント・ドミンゴの空港へ着陸した。

到着
 やっとサント・ドミンゴの空港だ。日本を出発してから丸1日以上経過しているからかなり長時間のフライトだった。幸いこの時は何のトラブルもなく通関できた。荷物を持って外に出るとプロジェクトのメンバーと運転手との2人が出迎えてくれた。

サント・ドミンゴの空港

海岸線の通り
 強烈な太陽だった。空港から街中のホテルまでは約30分かかり、海岸線を走った。夜は、治安が悪い場所だと言われているが、昼間は大丈夫だ。前回は余裕がなかったが、今回は、周りをよく見れば、強烈な太陽の下、真っ青の海が見え、とても風光明媚で、カリブ海の景色は素晴らしいところだなと思った。

カリブ海 海の色が美しい
サント・ドミンゴに近いボカ・チカの海岸 強烈な太陽
サント・ドミンゴの街に近い場所にある海岸沿いのレストラン
別な時期の夕方

ホテルや街
 サント・ドミンゴの街に入り、この辺りでは、やや高級なホテル・サント・ドミンゴへチェックインする。前回も泊まったホテルで、その後もサント・ドミンゴでは常泊としていたホテルだ。建物は古いが、一人でいるには部屋はかなり広く居心地が良い。

ホテル・サント・ドミンゴの入り口
ホテル・サント・ドミンゴの部屋
サント・ドミンゴの市内

 この日は、日曜日。ホテルで落ち着いてからしばらくして、近くのスーパーマーケットに買い物に出かけた。暑くて外に出ると汗が噴き出る感じだった。ただし、ホテルの周りでも治安が悪いので、出かける時はいつも車だ。もちろん運転手が待っている。行った先は、巨大なショッピングセンターで、ここで必要なものは何でも手に入るのだった。ホテルに戻ってから、同僚に仕事の状況はどうなっているか、ずっと説明を受け、明日の月曜日からの仕事に備え、急ピッチで準備を進めるのであった。

 観光旅行気分を味わおうと往きの旅行時のことを書いてみたが、書いてみるとやはり仕事の旅行になってしまい、開放感が味わえないなあと思ったが、致し方がなくご容赦願いたい。


つづく 

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.39_アルゼンチン

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(アルゼンチン)

【チリのサンティアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ】
 チリの首都サンティアゴでの仕事が終わり、次はアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かった。アルゼンチンへはパラグアイの調査をしている時に行ったことがあった。パラグアイに隣接するアルゼンチンのミシオネス州は当時(1980年以前)から植林や林産業も進んでいたので、パラグアイと土地条件が似たミシオネス州の森林や林産業の状況を調査することにより、パラグアイにも応用できるだろうと調査したものだった。パラグアイ側のエンカルナシオンという町から対岸のアルゼンチンのポサーダスという町にフェリーで渡り、アルゼンチンに入国したのだった。これについては、以前、この紀行文の「パラグアイ-造林計画編」で書いた。そういう訳で、アルゼンチンには既に足を踏みいれていたため、ブエノス・アイレスは初めて訪れるというものの、初めての土地という気はしなかった。

【機内からみたアンデス山脈】
 1987年4月10日に、サンティアゴをPA209便にて14:00に出発し、ブエノス・アイエスに15:30に到着した。この間の距離は1,140kmで時差はないので、1時間半のフライトだった。
 アンデス山脈を越えるときには、幾重にも重なった山並みが連なって見えた。地図でみるとこのルートの下には6,000m級~5,000m級の山がかなりある。例えばトゥプンガート山(6,570m)、プロモ山(5,430m)、マルモレホ山(6,108m)、マイボ山(5,323m)、ネバド・ピケネス(6,019m)などだ。氷河で削られた大きな谷のカール地形も見えた。このあたりの山はヒマラヤよりは2,000mほど低いが、同じく荒々しい。しかし、登山者はヒマラヤよりは少ないようで、登頂した人もきっと少ないだろうから登りがいはあるだろう。

手前の谷は大きく削られたカール地形
幾重にも山並みが連なるアンデス山脈

【着陸前の景色】
 アンデス山脈を越えたら、さすがにアルゼンチンの大草原、パンパが続いた。パンパがずっと続いていたが、着陸前のブエノス・アイレスに近い場所では農場である。防風林らしき植林地も見えた。

着陸前。パンパから農場へ。ブエノス・アイレス空港の近郊
ブエノス・アイレス空港の着陸前に見えた防風林らしき植林

【既にパタゴニアに行っていた同僚】
 さて、当時の私と同じ職場で、私より数年先輩の方が、その当時30才前後だったが、専門家としてアルゼンチンに派遣されたことがあった。我々は若かったが、その方は優秀だったので、その若さで、アルゼンチンの森林研究所に林業技術の指導のために派遣されたのだった。帰国後の話では、その方は、その時パタゴニアの森林も調査していた。残念。先を越されたと思った。前回のチリの調査でも書いたが、私は学生の時に「パタゴニア会」を作り、いつかパタゴニアに行きたいと思っていたからだ。その時、私はまだ専門家として派遣されるほどの実力を備えていなかったので仕方がないことだった。しかし、いつかパタゴニアに行こう、きっといけるだろうと思っていた。実際には今でも実現はしていないが。

【IFONA】
 ブエノス・アイレスで訪問したのはIFONAである。IFONAとはInstituto Forestal Nacional で森林研究所のことである。ここは、上述した同僚が派遣されていた研究所であり、その方と常時一緒に仕事をしていた女性の技術者がいた。その方は日本に研修にも来ていたことがあり、私も日本で会っていたので、ここアルゼンチンで再会できてとても歓迎してくれた。そこで、ここでの話は非常にやりやすかった。
 私にこの研究所の上席の研究者を紹介してくれた。この方にアルゼンチンの森林や林業の状況を聞き込んだが、この方の話によるとアルゼンチンにしてもこの当時はまだ森林の基礎的調査が全てできているわけではなく、森林分布や資源量といったものが、地域により把握されていないところがあるとのことだった。特にパラグアイと接する地域はチャコ地域と呼ばれ乾燥地帯であるが、未調査地域だった。この地域だけで、日本の森林面積と同程度の面積の森林があるが、森林内容は把握されていなかった。ここにはケブラーチョやアガローボという名の有用樹があるが、その資源量をアルゼンチン側としては把握したいとのことだった。その土地所有のほぼ1/3は国有地で、2/3が民有地とのことだった。この国有地の中にも農民が無許可でどんどん入植し、森林を伐採し、牧場へ転換しているとのことで、森林消失の圧力は相当に高いということだった。

【「ガウチョ(カーボーイ)」ツアー】
 日曜日に休日の牧場へ気晴らしに行った。ホテルで行っているツアーの一つで、昼にはアサード(焼肉)も食べられるし、ガウチョ(カウボーイ)と遊べることとのことで、きっと楽しいと思い選んだのだった。ところが、牧場の一か所でじっとして過ごしているだけで、退屈で面白くなく、やはりいろいろ動き回って沢山見学したいと思い、私も日本人としての習性が染みついていると思ったものである。しかし、この面白くなかったということが、印象に強く残り、34年経った今でも、鮮明に思い出せるのだ。面白くなかったことのご利益だ。
 朝9時にホテルを出発し、2時間ほどバスに乗り、郊外の牧場に着いた。ブエノス・アイレスの中心地からそんなに遠くに行かなくとも牧場は広がっているのに、何故かかなり遠くまで行った。100km以上は中心街から離れていただろう。
 着いてから、あとはすることがなく、昼食でアサードを食べたり、食べている間に、テントを張った野外舞台でのダンスを見たりして過ごし、その後はカウボーイが馬に乗ってのパン食い競争のようなものを見たり、自分で馬にのって庭を散歩したりであった。すぐに飽きてしまい、ただボーと牧場内で昼寝をしているような状態だった。これがこちらの人には、それがリラックスできて良いのだろう。私は牧場風景もパラグアイの仕事で見飽きていた。それでも忙しく動き回っている日々から解放され、良いリラックスだった。午後4時頃再びバスに乗り、6時ごろにホテルに戻った。しかし、今思い出しても退屈なツアーだった。

ツアーで行った牧場
牧場内で他のツアー客と
牧場の野外テントの中で昼食を食べながら見学したダンス
ガウチョ(カウボーイ)が馬に乗ってのパン食い競争

【ブエノス・アイレスの町】
 ブエノス・アイレスは南米のパリだと言われていた。確かに、古いオペラ劇場(コロン劇場)などがある通りの外観などはそのような雰囲気を醸し出しているようだった。しかし、近代的な街に変身しているように思われた。

ブエノス・アイレスの町
イングリッシュタワー

 写真はブエノス・アイレスの町で見たイングリッシュタワーという名の時計塔である。これはアルゼンチンで起きた1810年の5月革命の100周年を記念してアルゼンチンのイギリス人コミュニティから送られたものとのことだ。しかし、1982年にアルゼンチンとイギリスはフォークランドで戦争に突入したので、それ以来イングリッシュタワーと言う名は変更され、単に記念塔と呼ばれているとのことだった。
 アルゼンチンの5月革命とは、南米のリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都はブエノス・アイレス)で起きた革命とのことで、この革命によりスペインから派遣される上流貴族の副王は廃止され、リオ・デ・ラプラタ革命政府が樹立され、アルゼンチンの独立の契機となったということだ。

【銀行の支店長等との会食】
 ある晩、当時ブエノス・アイレスに支店を持っていた日本の有名な銀行の支店長と商社の方達など6~7人で会食をしたことがあった。とても印象に残った会食だった。会食はこの支店長の方が全般的に話の流れを仕切っていた。私が感心したのは、この支店長の方の話がとても上手な上に、参加している皆さん夫々に上手に話題を振り分け、それぞれから話を引き出すのが非常に上手だったことだ。
 私はどちらかというと遠慮がちにしゃべるよりも聞き役に回っていたが、この時は、私にも上手に話を振ってくれ、皆さんと同じようにいろいろとしゃべることができ、皆さんも熱心に聞いてくれた。会食とはいえ、洗練されたその采配が大変に勉強になったことが強く印象に残っている。
 これ以後、私も大勢で会食をする時は、皆に気を配り、一人でかってにしゃべるばかりの人も時にはおとなしく聞き役にも回ってもらうよう、また遠慮がちの人にはうまく話しを引き出すよう、話を振り分けることが上手になったと思う。

【カミニート】
 せっかくブエノス・アイレスまで来たので、タンゴの発祥地カミニートに行ってみた。スペイン語でカミーノが「道」という意味で、カミニートはその縮小辞で「小道」という意味だ。ここはボカ地区というところにある。ボカは口という意味で、「河口」ということだ。ここはラプラタ河の河口だ。中高生の頃は何故か南米に憧れを持っていた。ラプラタと聞いただけで、心躍る思いがしたものである。実際にこのラプラタ側の上流地域のパラグアイで調査できたことは、ある種の夢を実現できたことであり、このことは既にこの紀行文で書いた通りである。
 さて、この河口は、ヨーロッパからの移民の到着地だったとのことで、この港町は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町だったとのことである。様々な国の人種が共存したため、いろいろな軋轢が生じ、そのフラストレーションのはけ口として、最初は男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりとのことである。しかし、次第に男は女を求め娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来て行ったそうである。そしてボカ地区は、船乗り、移民者に加え労働者なども夜な夜な集まり、安酒場でタンゴを踊るようになったとのことである。
 ある晩、この一角にある有名なタンゴレストランに行ってみた。哀愁を帯びたバンドネオンの音、そしてその独特のリズムと踊り、女性は独特のスリットの入ったスカートを着て、足を振り上げたり、あたかも床に着く寸前まで体を倒しそれを支える男の踊り手など、とても印象に残っている。

カミニートの入り口のカフェー・バー
河沿いの店
壁に描かれた絵画、その前で売られている絵画
ボカ地区のラプラタ河の河口
ここで釣れた魚

【アルゼンチンのカフェー・バー】
 また、ある晩、まだ宵の口だったが飲みに行った時に、できるだけ安全で健全そうな店を選んでカフェー・バーに入った。中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンター席に座った。カウンター内では数人のウエイトレスが働いていた。その中の一人が「あなたどこから来たの?(ちゃんとした意味は、どこの出身なの?)」と聞かれ、私は「チリから来たよ。」と言った。相手は、「チリ人だよ。」と解釈したはずである。だから「違うね。あんたはチリ人じゃあないね。あんたにはチリ人のなまりがないもの。たぶんボリビア人だと思うね。あたっているでしょ?」と言われた。「残念でした。違うよ。私は、本当は日本人だよ。今回は仕事で、東京を出発してから南米の各国を回って、最近チリからアルゼンチンに来たんだよ。」と、私は、この時、初めて自分のスペイン語がネイティブと間違えられるくらいうまくしゃべれるようになったんだなとうれしく思った。ボリビアは先住民の比率が高いので、祖先がアジア系で日本人に似たような顔の人も多いのだ。そんなことがあり、話が弾んだ。この一晩で私のスペイン語は随分とレベルアップしたと感じたものだった。

【帰国】
 この時は予定していた6ヵ国の訪問が終わり目的も達成できたので、帰国することにした。この当時、日本はバブルの最中であり、世の中全体に余裕があったようで、私も自由に動かせてもらいとても良い経験となった。この後バブルがはじけて日本全体が大変な状況に陥ったのではあるが。
 帰国は1987年4月16日にブエノス・アイレスを20:00にAR332便にて出発し、ニューヨークに向かった。途中リオデジャネイロとマイアミでトランジットで降りたので、空港でお土産を買ったり、コーヒーを飲んだりしてリラッックスできた。ニューヨークには翌日4月17日の午前11時に到着した。一人だったので、ニューヨーク市内も何回か見学しているので、一泊せずにそのままJL005便に乗り継いだ。ニューヨークを13時半に出発し、翌日4月18日の16時半に成田空港に着いた。やはりブエノス・アイレスから成田まで3回のトランジットはあったものの出発してから24時間以上のフライトはとても長かった。余裕があったのだから一泊しニューヨークで疲れを取っていけば良かったと後で思った。とにかく仕事も終わり、無事帰国できた。これで南米6ヵ国訪問の話は終わる。


つづく

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