森林紀行travel
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.10_ホンジュラス
ホンジュラスのマツ林,雲霧林,住民
ホンジュラスでは1995年から1996年にかけてテウパセンティという地域にあるマツ林を中心に調査をし,森林管理計画を作成していた。首都はテグシガルパ。原住民の言葉で「銀山」を意味するそうだ。空港が狭く谷間を縫いUターンしてから着陸する時は緊張する。去年(2018)5月にも着陸に失敗する事故があった。最近では,治安が悪く,世界最悪の国の一つとのこと。そのためアメリカを目指し徒歩で北上する移民キャラバンが後を絶たないとのことだが,アメリカも移民阻止をしているので、現状の混乱はいかほどであろうか?
当時も治安は悪く、どのレストランの前でも機関銃を持ったガードマンが立っており,間違って発砲されたら命にかかわると冷や冷やものだった。レストラン内でのウエイトレスは,注文取りに来ても何を聞くわけでもなく,ただつっ立ったまま不愛想だった。それが1998年ハリケーンミッチーに襲われ甚大な被害を蒙り,多くの国の援助が入り焼け太りし,建物も近代化し,2001年に訪問した時には,レストランではウエイトレスがくると,ニコニコ顔で今日のメニューはこれこれです,何を召し上がりますか?と先に説明するなどアメリカナイズされ,その変化に驚いた。教育訓練の成果である。
それはさておき,調査はテグシガルパから約90km東のダンリという町を基地にして行った。ここはニカラグアとの国境に近く,その付近には1980年代のニカラグアの内戦で埋められた地雷が多数あり,危険だった。そのため地雷取りのアメリカ軍の軍人達が,小さいが同じホテルに宿泊しており,治安面ではむしろ安全だった。
森林は,多くがマツの天然林だった。マツの種類は,オオカルパという種である。林内放牧をするためにほとんどの林地で火入れをし,その後更新(新しい木が生えてくる)するのが,ほとんどマツでその他わずかのカシ類のみのため,マツ林が人工林のように見える。森林の樹高は10m?30m程度である。火入れの影響を受けていない尾根では,たまに樹高が50m,胸高直径が1m程度の立派なマツを発見する場合もあった。人工林と同様なので,日本のスギ,ヒノキの人工林管理手法がよくあてはまった。
天然林といっても人工林のようなマツ林
また,マツ以外で驚いたのは雲霧林の広葉樹である。雲霧林というのは,絶えず雲や霧のかかる場所に発達する森林で,主に常緑樹から成り,湿度が高く冷涼なため,林木の上部までコケ類が密生し下垂していることが多い。日本でも高標高地で常時霧がかかるような森林や屋久島の1,000m付近のスギと広葉樹の混交林地域にも雲霧林がある。ここでは標高1,400m程の尾根上に雲霧林が残っていた。上層木の樹高は,50mを超え,胸高直径は1m近い木が林立していた。それまでもスマトラ島やアマゾン川源流域で巨大な熱帯降雨林を見て来たが,ホンジュラスの雲霧林はそれらに匹敵する巨大な森林だと思った。実際,木の量は材積として表すのであるが,1haあたり1,000?程度あり,日本の巨大なスギ林でも1,000?を超えるのはまれなので,その巨大さががわかる。
雲霧林の中の巨木
一方,森林周辺に住む住民達は貧しく,掘っ建て小屋に住み,燃料は薪を山から拾って生活している人達が多かった。本来そういった人達の生活向上に貢献するように例えば,蜂蜜の生産指導や森林に火入れをしないよう放牧地を設けるといった支援をし,その見返りに彼らに森林を保護してもらうといった協力もすべきだったろう。それは住民参加型森林管理と呼ばれているが,この地域に援助に入っていたヨーロッパの国では既にこの頃には行い始めていた。我々,日本は少し遅れたが,その後,その方向にシフトして行き,私も住民参加型森林管理で多くの国に協力するようになっていったのである。
森林周辺に住んでいた人々
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.9_コロンビア
コロンビアのアンデス山脈は崩壊地だらけ
アンデス山脈に対し皆さんはどのようなイメージをお持ちであろうか?カリブ海のベネゼエラからコロンビア,エクアドル,ペルー,ボリビアを経てチリ,アルゼンチンに至るまで総距離約8,000Kmと南米の西側に壁を作る超巨大山脈。コンドルが飛び,急峻崖谷な深山幽谷と夢に見ていたアンデスに1989年?92年にかけてのコロンビアでの仕事でついに行くことができた。
最初に見たアンデスは,「エッ。何。木がないじゃん。」である。標高3,000m前後での調査であったが,山麓から山頂まで一面牧場に転換され,森林がないのである。よく観察すれば谷間にはかなり残っていて,斜面や尾根上では場所によっては固まって森林がある場所もある。しかし,多くは島状に点在しているのみという感じだった。唖然とした。それまで,パラグアイのラプラタ川上流,エクアドルのアマゾン川周辺の大森林破壊を見てきたにしても,それに勝るとの劣らない森林破壊に思えた。アンデスの尾根上は中央保存林として日本の保安林のような規制はかかっているものの,土地所有は民有なので,規制は全く効かないのだった。
山頂付近まではげ山のコロンビアアンデス
調査地は,マニサレスいうカルダス州の州都からネイラ,マルランダ,ペンシルバニアなどという町の周辺だった。ペンシルバニアの町名はまるでアメリカであるが,小さな町だった。マニサレスから遠く,遠くと言っても直線距離では20kmくらいだったが,くねくねとし,アップダウンの激しいアンデスの道では車でマニサレスからペンシルバニアまで5時間近くもかかった。その間に見る景色がそのようだった。牛もころげ落ちるという急斜面。牛が斜面を平行に歩くことにより表層土壌が写真のようにずれ落ちて行く。
牛が斜面に平行に歩くので,土壌がずれ落ちていく。
右下や遠くの斜面に崩壊地も見える。
崩壊地は観察では分からなかったが,航空写真を判読すると崩壊跡地がはっきりとわかるのだった。崩壊地の数を判読したところ,平均で20haの中で100個あった。大規模なものは少なく10m程度の表層崩壊である。1haあたりの崩壊数は5で,haあたり3個以上の崩壊が発生していれば崩壊多発地と言われており,このアンデスは超崩壊多発地である。しかし,降雨が多く,すぐに緑に覆われ一面牧草地のように見え崩壊地は隠れてしまうのだった。
道路の作設も崩壊原因の一つ
谷間の天然林は雲霧林だったが,最大樹高は20m程度で,思ったよりは大きくなかった。しかし,多くの残存木には沢山の着生ランがあり,強い湿気を感じた。幸いなことにこの地は赤道に近く,無風帯なのである。標高が3,000mもあっても風が強く吹かないのは不思議な体験だった。もし,台風があれば崩壊はさらに進み,人間が住めるような場所ではなくなっていたであろう。人間の手が加わる前には超巨大な天然林が広がっていたに違いないと昔に思いを馳せながら,崩壊地対策として植生回復方法を考えていた。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.8_モロッコ
モロッコのアトラス山脈の森林
アトラス山脈は雄大である。最高標高はトゥブカル山の4,167m。乾燥の影響が強く高標高の山地には樹木がない。地層がはっきりと見え,場所により褶曲地形も分かり,プレートが衝突してアトラス山脈が形成されたということが良くわかる。ここが昔,海だったということもアンモナイトやオウム貝,三葉虫の化石が発掘されることが証明している。私も山中で大きなアンモナイトの化石らしきものを発見したが持ち返れるはずもなく,それは記憶の中に残っているだけである。モロッコには,1992年?1994年,2005年にいずれも森林の計画作りで行ったものである。
山麓は,かつては樹木で覆われ緑が多かったと思われるが,今は地肌がでた土地が多く,荒廃した風景に見える。これはヒツジとヤギの放牧により草木が食べられ,特にヤギは根まで食べてしまうこと,それに薪炭用に森林を伐採し過ぎ,そのペースが,自然が森林を回復させるペースよりも早く,その気候といえば,年間400?600mmと雨が少なくそれも冬に雨が降る地中海性気候だからである。
ここにはシェーンヴェール(緑のカシ)という優占種がある。これは成長が遅く材が堅いので炭にした場合,日本の備長炭のように良い炭となり,多くの家庭で使われている。
シェーンベールで作られた炭
モロッコ料理のタジンにも沢山使われていて,特にマラケッシュからアトラス山脈へ向かうウーリカ谷で食べたタジンの美味しさは思い出すと今でも舌鼓を打ってしまうほどである。このシェーンベールが南向斜面では成長が悪く,ほとんどが疎林であるが,北向き斜面では10mほどの樹高まで成長し,密林となるのである。
シェーンベールの密林
(乾燥地のため、これほどの密度がある森林は少ない)
モロッコも北半球に位置していて調査地は約北緯32°で鹿児島と同じくらいの位置にあったが,晴れの日が多く,日射が非常に強い。この強い日射が南向き斜面には角度からしてもより直角に近い角度であたるので、地面は乾燥しやすく樹木が成長しにくいのである。樹木の成長のためには、ここでは光と温度よりも湿気や水分がより重要な要素になっているということがわかる。因みに日本でもスギの成長を見た場合,一般に南向き斜面よりも北向き斜面の方が,成長が良いのである。
頂上付近に雪をいだくアトラス山脈
その他,トゥーヤといってコノテガシワのような葉をした木やコルクガシなどもある。マツではアレッポマツの成長がよい。
アレッポマツの人工林
奥地にはたまに大きなアトラススギがある。これは日本のヒマラヤスギとそっくりで,樹高20m,胸高直径が2mの大きなものもみた。昔,このような場所ではアトラススギだらけだったのだろうが,今はほとんど消滅してしまった。森林の過伐が土砂流出など環境悪化の悪循環を起こしているのに対し,昔からオリーブやユーカリ,マツなどが多く植林されてきたが,依然森林の荒廃が続いているのがアトラス山脈の森林である。
オリーブやアーモンドの植林地
つづく
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.7_ドミニカ共和国
ハゲ山だらけのドミニカ共和国の森林
植林や農業指導をしているペリキート村から対岸の山頂付近に植林したマツの調査に行った。2007年7月11日(水)のことである。技術者のホルヘとペリキート村のクリスティアーノと3人でラバに乗り山頂を目指した。
グアジャバル村にて。ラバに乗り対岸の山頂を目指す
クエバス川を渡る。河原は50mほどだが,川幅は20m,水深は1mくらいだ。山が急峻で木がないので,雨が降るとたちまち洪水のようになる。地形が平らになった所から河原には砂利が厚く堆積している。等高線を追えばここは50m,少し下流は100m程度砂利が堆積していると推定できる。ラバは川を渡るのをいやがるが、鞭でたたくと動く。ラバは馬鹿の代名詞のようだが,以外に頭が良くて,川の一番渡り易い場所を渡り,登るときも2本道があると遠回りでもより平らな道を選ぶ。
低地の2次林
河原が最も低く標高約700m。全山ハゲ山だが草地なので山は緑に見える。急斜面に豆類を栽培している畑が多く,マンゴーの木がやたらに多い。標高1000mくらいから傾斜が急になる。ラバのハナ息も荒くなり、汗もかき,毛がしっとりと濡れてくる。しかし、強いものだ。一日中、山道を歩いたってラバは疲れないとホルヘ。
植林地へ
バナナ、コーヒー畑も通る。標高1,000mで栽培されたコーヒーはブルーマウンテンと変らない。益々急斜面となる。風が吹くと暑さから逃れ気持ちが良い。ハゲ山の中にも植林したマツがある。畑に火入れをするので飛び火で,幹がこげ火あぶり状態だが生き残っている。こんな上にもマンゴーがある。牛が食べたマンゴーの種が排泄され生えたものだ。
中腹
飛び火から焦げたマツ。まだ生きている
マンゴーの木が多い。途中牧場もある
さらに上へ。標高1,400mくらいから頂上1,530mまでが植林地だ。住民達が我々の指導で植えたのだ。低い場所は農地や牧場で使っているので空いた土地は頂上付近にしかなかったのだ。オクシデンタレスという高地から低地までと適地が広く強いマツを植林した。頂上まで伐採されてしまい,全面びっくりするようなハゲ山だ。わずかに谷に樹林が残っている。
頂上までハゲ山のドミニカ共和国の山(約1,500m)
信じられないことに,このような高標高地までマメ類の畑がある。鳥は少ない。ツバメを一羽見ただけだ。蝶もいない。ヘビもみない。全く単調だったが,頂上からの眺めは素晴らしかった。マツの生存状況を調査してから、またラバに乗って降りる。降りるときの方がゆれて股関節と尻の皮に響く。
コロンブスがこの島に着いた時は,山は緑で大きなマツがそこかしこにあり,船材に事欠かなかったとラス・カサスが書いている。ハゲ山になると侵食,洪水が起こり,生物多様性が貧しくなると良く分かる。こうなったのは,木材として利用し,火入れで畑や牧場に転換してきたからだ。あまりに人間の影響が大きい。雨量は、1,000mm以上あるから、必ず森林に回復する自然力はあると信じて植林指導をしていた。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.6_パラグアイ
パラグアイ_グアラニー族の大部族長に会う
パラグアイ編の中から印象に残ったグアラニー族の大部族長と会った話を抜粋し、まとめた。1980年から5年ほど、私は南米パラグアイの仕事に携わった。1980年12月のある日,森林調査をしていると一人のグアラニー族の先住民に出会った。
グアラニー族は,パラグアイに住む先住民で,最近のDNA研究によると日本人と最近縁の民族で,中国人や韓国人よりも近縁とのことである。そのような民族が日本からはるかかなた南米に陸の孤島のように生存していることが不思議である。
彼らは森を自由に歩き,狩猟と栽培で暮らしていたが,このころは既に保護地に追い込まれていた。その数は減少の一途をたどっている。しかし,グアラニー語だけは,スペイン人と先住民との混血のメスティッソであるパラグアイ人に受け継がれ,パラグアイ人はスペイン語とグアラニー語を話すバイリングアの人々である。出会った先住民は,筋骨隆々,背中に銃とアルマジロを背負っている。後を付いて行き,掘っ建て小屋が数軒まとまった先住民の住居へ着いた。
銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民
そこで,孫の面倒を見ていた75才だと言うお爺さんと話していると,大部族長がすぐ近くに住んでいるから挨拶したらどうかと言われる。それは願ったりかなったりだ。森林内に住んでいる先住民に挨拶しておくのは,この森林に入る許可を取るようなものであるし,お互いの安全,安心に繋がる。
お爺さんは,大部族長の家はすぐ近くで,1Km程の距離だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いついていくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。1時間以上、5km程歩かされて、大部族長の家に着いた。この辺の先住民の間隔では5kmは1kmほどで,1時間で歩く距離は,たいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。
私は西部劇に毒されていた。私がイメージしていた大部族長は、頭には羽根飾りをかぶり,威厳のある顔だったが,実際の大部族長は全くの文明人で、普通の農民に見え,予想とは違っていた。グアラニー語だけを話し、スペイン語は話せなかった。州知事の保護認定書を見せてくれた。そこには「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をしてはいけない。」と書いてあった。大部族長から調査の許可を取り,珍しい手作りの弓矢を引かせてもらったりした。また,日蔭が少ない住居周囲は強烈な日射でとてつもない暑さだったので,木陰のハンモックで休ませてもらった。
先住民の大部族長の家で弓を引かせてもらう
当時この周辺には,一つにまとまった森林としては,九州に匹敵するくらいの大面積の森林が存在していたが,今は全て消滅し,牧場か農場に転換されてしまった。そのうちの150万ha(岩手県に匹敵)程の面積の森林を調査していたが,その中で保護地の面積は,わずか5,000ha,0.3%しかなかった。生きる拠り所としていた森林を消滅させられてしまった今,彼らはどうしていることだろうか?それに、森林が伐採されたのは1970年代から1990年代だ。森林の焼かれた後の墓場のような光景はなんともおぞましい。
森林を燃やした後の光景。まるで森林の墓場。
何千年何万年かわからないが、地球を守ってきたであろう森林が地球史で言えば、一瞬とも言える歳月で伐採されてしまったのだから化石燃料の消費とともに地球温暖化の原因だろうと容易に想像がつく。まさにしっぺ返しが始まったばかりとも言え、この先のことが案じられる。
つづく
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.5_ジンバブエ
2000年頃のジンバブエ
ジンバブエに37年君臨したムガベ大統領は、2017年に93才にしてようやく辞任した。現在95才のはずであるが、健康そうである。私は,1999年から2001年にかけて約2年間ジンバブエの仕事に携わり,当時75才から77才だったから,それから17年も頑張ったのだ。
2000年5月,出発してすぐに帰国命令がでて,わずか一週間で帰国した時のことを記したい。
仕事は,ジンバブエ第2の都市ブラワヨとビクトリアの滝との中間辺りの国有林で森林管理計画を作成するものだった。林内にはサファリ・エリアもあり,ゾウ,キリン,シマウマ等大型動物も沢山見られた。
サファリ・エリアのゾウ
キリン
シマウマ
インパラ
セーブル
経済危機が始まり,町ではガソリンを買い求める長蛇の車列が見られた。現地で拠点としたハーフウェイハウスホテルという小さなホテルはガソリンスタンドを持っていたが,底をつき始め,我々は首都ハラレからガソリンとディーゼルを大量に持ち込みストックした。
森林局と打ち合わせの後,作業員も10人程手配し、さあ、これから調査開始という時点で帰国命令がでて,店開きをして何もしない内に店仕舞だった。撤収作業,前払いの払い戻し等が大変で,前に進むより、戻るのはもっと困難だった。
ハラレのホテルは,人気のホテルだったが,この時は観光客が少なく昼間は閑散としていた。しかし,夜になると白人が多数来て泊り,朝になると中庭で登録作業などが行われていた。そして、そのままいなくなり,翌晩には別の白人達が来て、国外避難をしていたのだった。
白人の大農地は,退役軍人に多くが占拠され,作付けがなされず,翌年の食糧不足が懸念された。同時にこれは,大統領の延命策で,農地を取り上げるという口実のもと、野党支持者狩りとのことだった。退役軍人は殺人集団とも呼ばれ,警察は取り締まりをせず,ジンバブエは無法地帯となった。公式に殺害と発表された以外に,地方の先生等野党支持者の多くが、ある日突然消えたという話しも聞いた。警官による交通取締りも強化され,それは野党狩りと警官のたかりのためと言われていた。多くの工場やタバコのオークションも閉鎖され,石油輸入もストップした。このとき為替レートは,公式には1US$=38Z$だったが,数日間で55とうなぎ登りだった。その後のハイパーインフレは知るところである。
私は色々な国で,その国の森林官を始めとする関係者や作業員などと一緒に仕事をし,その人たちとは親しくなったが,ジンバブエだけは何故かその距離が縮まらなかった。抑圧された社会では,人々は心を開くことができなかったからだろう。
ムガベ大統領が降りた現在でも民主化にはほど遠く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが相変わらず常態化しているとのことで、ムガベ大統領の独裁政治体制と同じ状況だと言われている。ジンバブエのために働いた私としては、本当に早く民主化されることを望むものである。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.4_インドネシア
インドネシア スマトラ島の森林内で泳ぐ
今から約40年前,1978年11月のある日,私はインドネシアのスマトラ島で森林調査をしていた。その日滞在していた集落から10km以上奥地に入った。山道はそこまでだった。そこから藪漕ぎで進む。GPSのない当時,我々は航空写真が判読できたので,目的地まで行けたのだ。遠く,テンカル山というのを目安に黙々と進んだ。途中ムササビが現れると案内人のディンは眼の色を変えて捕まえようとする。
歩くうちに林内に水が現れた。段々と水位が増したが,ようやく目的地に着いた。調査を始めると,ずっと腰まで水に浸かりっぱなしである。水からわけの分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。100m測量するだけでも相当な手間がかかった。案内人ヌルが「もう行けない。」と言うのを私が行かせると,ヌルは首まで水に浸かり泳ぎながら進む。
どうにか,仕事を終えて,焼畑に出た。よくこんな奥地にと思う所に一人の男がキコリをしながら住んでいた。その小屋で休ませてもらい帰路についたのが午後4時,普段なら家に戻る時間だった。2時間もあれば下れるだろうと思っていた。そのキコリに街道へ出る道を聞いて出発した。
だが林内はまた,水かさが増してきた。我々は再度林内で泳がなければならなかった。荷物は全部頭の上にくくりつけ泳ぎながら進んだ。ヌルが弁当箱を水中に落とした。するとディンが泥水を潜り,いとも簡単にそれを拾った。そしてディンはするすると木に登り方向を確かめた。闇が迫り皆,口数が少なくなる。どうにか足が立たないところからは脱出し,ディンにタイマツを持たせ,先頭を歩かせた。ディンの勘に運を任せた。地元の森林官は,冗談を飛ばし始め皆から不安感を取り除こうとする。林内は真っ暗で夜行性のトラやヘビが恐怖だ。体も冷えてきた。
くたくたになったところで,湿地林を抜け出し,遠くに集落の灯りが見えた。それからがまた遠かった。木の根につまずきながらもようやく集落に辿り着いた。既に深夜0時を過ぎていた。しかし,そこは我々が滞在していた集落でなく,4Kmも離れた別の集落だった。しばらくし,運転手がジープで迎えに来て,我々は滞在している集落へ戻った。集落民総出で我々の無事を祝ってくれた。会う人ごとに抱き合い,握手をした。これほど人の暖かさを感じたことはなかった。
街道は現在は、高速道路に変わり,最大樹高70mを超えたこの森林は,開発のために消滅し,今は存在しない。
雨期の増水で水没した人家
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.3_セネガル
セネガル_貴重な生態系マングローブ林
セネガルについてはこの紀行文の中で取り上げたが、マングローブ林について再度取り上げる。アフリカ大陸の最西端の国セネガルの南西部には,サルーム・デルタがあり,そこには不思議なマングローブ林がある。標高1?2m程度の土地に平均樹高4?5m(1?20mくらいの幅がある)のマングローブ林が20万ha以上も広がっているのだ。これは東京都と同じくらいの面積である。
サルーム川とマングローブ林の遠景
迷路のようなデルタ地帯。一旦入り込んだら,磁石やGPSさえ利かなくなり,決して外界には出ることができなくなってしまうというブラックホールのような場所さえあるという。地元民が恐れている場所だ。誰もが恐ろしくてそこには近づかない。ある日,そんな迷路の様な水路をボートでゆっくりと進んでいるとマングローブ林の中から何かが突然飛び立った。「何だ。あれは。翼竜か?」ボートのエンジンの音に警戒したのだろう。羽根幅3mはあろうかと思われる巨大な鳥が,あっという間に飛び去った。これはオニアオサギ(Goliath Heron(英語), Ardea goliath(学名))だった。幸いにも我々はこのブラックホールから無事抜け出ることができた。
マングローブ林地帯を飛ぶ翼竜のような巨大なオニアオサギ
(羽根を広げると3m以上もある)
マングローブ林は,葉が海に落ちるとそれが養分となり,プランクトンが増え,プランクトンが増えると魚が増え,魚が増えると鳥が増えると言った食物連鎖が良く分かる。鳥でもとりわけ,ワシ,タカの猛禽類,大型のサギ類,ペリカン類など生態系の頂点に立つ鳥を見ることができる。生態系のピラミッドの頂点に立つ鳥などはその傘下に多くの生物を育んでいることからアンブレラ種と呼ばれている。アンブレラ種が住むには広大な面積の森林が必要であるが,ここではそれがマングローブ林である。つまり,ここは生物多様性を維持する貴重な森林なのである。
感潮水路(川に海水が流入する部分で、川が潮の満ち引き(潮汐)の影響を受ける水路)
牛も感潮帯を歩く
そして,このマングローブ地帯には約30万人という多くの住民が住んでおり,住民達は,永年にわたってマングローブ林を建築材や薪炭材の採取場として利用し,マングローブの海域を漁場とし,また,陸地は,農地として利用してきた。最近は,その風光明媚な景色に多くのヨーロッパ人も訪れ,観光の対象にもなっている。
トゥバクータ(地名)にあるホテルの前のマングローブ林
ところが自然か人為かわからないが気候変動が影響し,1960年代から雨量が減り始め,塩分濃度が上昇し,マングローブ林が失われつつある。貴重な生態系を維持し,住民の生活を維持するためにも少なくとも人為の影響だけは避けなければならない。物質文明の大きな流れは押しとどめがたいかもしれないが、せめて、パリ協定からアメリカは離脱せず、各国は温室効果ガスの削減義務を順守してもらいたいと思う。それが、セネガルで仕事をしてきた私の最低限の願いだ。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.2_メキシコ
メキシコーシエラファレス山脈の先住民_生き方の先生
メキシコも日本と同様に地震大国だが、一昨年はオアハカ州を震源とする地震もあった。私は1997年?1998年にオアハカ州のシエラファレス山脈の先住民地域で,仕事をしていたのでこの地域のことがいつも気にかかる。
シエラファレス山脈には言葉を異にする数部族の先住民がいる。約400年前にスペイン人征服者の殺戮から逃れ,山奥に移り住んだ人々の子孫である。この地域は標高が1,000m?3,000mの急峻な山岳地帯で,日本の地形に比べて尾根と沢が大きく,景観は雄大である。村は標高2,000m付近にあり,一番奥の村は舗装道路から未舗装の山岳悪路を60Kmも走った所にあった。
シエラファレス山脈の中の村、ラスニエベス(雪村という意味)
屋根がかかっているのはバスケットボールコート
この地域の唯一の資源は森に自生するマツである。1960年代から製材業者が道路を作ってやると称して多くの優良なマツを伐採し,買い叩いた。村は,多少潤った資金で,自ら水道,学校,教会等を整備してきた。道路ができたため,マツだけが益々伐られ,カシが伐り残され繁茂し,マツ林からカシ林へと遷移している。しかし,マツをいかに持続的に管理するかが村の存亡の鍵で,私はそのために働いた。
大きいものは樹高40m,胸高直径1mにもなるシエラファレスのマツ
村は閉鎖的だった。私を含むチームが村に受け入れてもらうまでは住民総会で何回も説明し,時にはつるし上げにも会ったが,村で仕事をする了解を得た。何の利益もなしにただで村の森林計画を作ってくれる人などいるはずはないと見られていた。しかし,一旦受け入れられ,打ち解け信用されると,今度は徹底的に協力してくれた。村では民家に下宿し,食事も頼んだ。高山で夜は冷えるが日干しレンガの家は,温もりを感じた。水は沢から村のタンクに溜め,そこから各家庭に配水する。夕方,屋外でのシャワ?は山からの冷たい風で,体が震えた。トイレは肥溜め式で,約30cmの高さの箱状の便器にお尻を向けてスキーの滑降のような中腰スタイルでやらなければならず,慣れるのに苦労した。主食はトウモロコシと豆。蛋白質はたまに卵が出た。毎日標高差1,000mくらいを歩いたが,体調は良くなり,テレビも新聞もなく早寝早起の健全生活だった。
伐り出したマツ材をトラックに積む
虐げられてきた先住民だが,様々な面に伝統が伝えられていて,一緒に生活してみると落ち着きを感じた。物質的には貧しいけれども,誠実,素朴,人懐っこく親切で,精神的にはとても豊かだった。日本のあふれんばかりの物,資源の無駄遣いによる便利な生活。しかし,まったく異なった価値観で生きている彼らから学ぶことが多くあることを感じた。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.1_エクアドル
エクアドル アマゾン川源流域の先住民の超能力
超能力とは一体何であろうか?人間の力では不可能とされるようなことができる能力だが、透視や予知あるいは念力などを除けば、五感が持つ力が人間以上で動物的であることだろう。
アマゾンの先住民達は現代人が持ちえない視覚と聴覚を持っていると思う。一緒に仕事をしていて、ヘビやタランチュラ(毒蜘蛛)など全く怖くないと言っていた。こちらの方が先に見つけるからすぐに捉まえることができるからだとのことだ。森林内で保護色であってもすぐに見つけてしまう。それほど視覚が発達しているのだろう。聴覚も次に書く様に遠くから音が感知できるようで、視覚とともに、発達しているのだろう。
一方嗅覚は発達していないと思う。なぜなら現代人には耐えられない風呂に入ったことのないような強烈な匂いを皆放ちながら生活していても何とも感じないのだから、逆に嗅覚は衰えているのではなかろうか?
さて、1986年2月3日,私はアマゾン川源流域の大森林の中,タラコアという名の湖の周辺で、森林調査を行っていた。森の道案内を先住民に頼んでいた。その日の夕方、この湖畔でその先住民と別れた。その先住民は森を詳しく知っており,翌日もこの周辺の案内を頼んだのだった。
「明日どこで落ち合ったら良いかな?」「ここに来てくれて,叫んでくれれば私はここに来る。」「えッ。それだけでいいのか?」「それだけで良い。」
翌朝、私がこの湖のほとりに来て大声で叫んでも彼はすぐには現れない。どこから現れるのだろうといぶかしく思い、何回も叫ぶ。するとはるかかなた湖の対岸にわずかに動くものがあるではないか。双眼鏡で覗くとカヌーである。じっと見ていると昨日道案内を頼んだ先住民が乗っているではないか。まさしく,昨日の先住民だ。
アマゾン川源流域のタラコア湖 開発が進んでいる。上部はナポ川
彼が湖の対岸からカヌーに乗って段々と私の方に近づいてきた。夢か幻か、あるいは映画の中の世界にいるようで、ワクワク興奮した。自然に溶け込んだ生活をしていれば人間の五感も動物のように発達するのだ。周辺の多くは伐採され農地などに開発されているが、今でもグーグルアースの衛星画像を見るとナポ川沿いにタラコア湖を捜すことができる。
アマゾン源流域の森林内の大木
つづく