【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.2_メキシコ
メキシコーシエラファレス山脈の先住民_生き方の先生
メキシコも日本と同様に地震大国だが、一昨年はオアハカ州を震源とする地震もあった。私は1997年?1998年にオアハカ州のシエラファレス山脈の先住民地域で,仕事をしていたのでこの地域のことがいつも気にかかる。
シエラファレス山脈には言葉を異にする数部族の先住民がいる。約400年前にスペイン人征服者の殺戮から逃れ,山奥に移り住んだ人々の子孫である。この地域は標高が1,000m?3,000mの急峻な山岳地帯で,日本の地形に比べて尾根と沢が大きく,景観は雄大である。村は標高2,000m付近にあり,一番奥の村は舗装道路から未舗装の山岳悪路を60Kmも走った所にあった。
シエラファレス山脈の中の村、ラスニエベス(雪村という意味)
屋根がかかっているのはバスケットボールコート
この地域の唯一の資源は森に自生するマツである。1960年代から製材業者が道路を作ってやると称して多くの優良なマツを伐採し,買い叩いた。村は,多少潤った資金で,自ら水道,学校,教会等を整備してきた。道路ができたため,マツだけが益々伐られ,カシが伐り残され繁茂し,マツ林からカシ林へと遷移している。しかし,マツをいかに持続的に管理するかが村の存亡の鍵で,私はそのために働いた。
大きいものは樹高40m,胸高直径1mにもなるシエラファレスのマツ
村は閉鎖的だった。私を含むチームが村に受け入れてもらうまでは住民総会で何回も説明し,時にはつるし上げにも会ったが,村で仕事をする了解を得た。何の利益もなしにただで村の森林計画を作ってくれる人などいるはずはないと見られていた。しかし,一旦受け入れられ,打ち解け信用されると,今度は徹底的に協力してくれた。村では民家に下宿し,食事も頼んだ。高山で夜は冷えるが日干しレンガの家は,温もりを感じた。水は沢から村のタンクに溜め,そこから各家庭に配水する。夕方,屋外でのシャワ?は山からの冷たい風で,体が震えた。トイレは肥溜め式で,約30cmの高さの箱状の便器にお尻を向けてスキーの滑降のような中腰スタイルでやらなければならず,慣れるのに苦労した。主食はトウモロコシと豆。蛋白質はたまに卵が出た。毎日標高差1,000mくらいを歩いたが,体調は良くなり,テレビも新聞もなく早寝早起の健全生活だった。
伐り出したマツ材をトラックに積む
虐げられてきた先住民だが,様々な面に伝統が伝えられていて,一緒に生活してみると落ち着きを感じた。物質的には貧しいけれども,誠実,素朴,人懐っこく親切で,精神的にはとても豊かだった。日本のあふれんばかりの物,資源の無駄遣いによる便利な生活。しかし,まったく異なった価値観で生きている彼らから学ぶことが多くあることを感じた。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.1_エクアドル
エクアドル アマゾン川源流域の先住民の超能力
超能力とは一体何であろうか?人間の力では不可能とされるようなことができる能力だが、透視や予知あるいは念力などを除けば、五感が持つ力が人間以上で動物的であることだろう。
アマゾンの先住民達は現代人が持ちえない視覚と聴覚を持っていると思う。一緒に仕事をしていて、ヘビやタランチュラ(毒蜘蛛)など全く怖くないと言っていた。こちらの方が先に見つけるからすぐに捉まえることができるからだとのことだ。森林内で保護色であってもすぐに見つけてしまう。それほど視覚が発達しているのだろう。聴覚も次に書く様に遠くから音が感知できるようで、視覚とともに、発達しているのだろう。
一方嗅覚は発達していないと思う。なぜなら現代人には耐えられない風呂に入ったことのないような強烈な匂いを皆放ちながら生活していても何とも感じないのだから、逆に嗅覚は衰えているのではなかろうか?
さて、1986年2月3日,私はアマゾン川源流域の大森林の中,タラコアという名の湖の周辺で、森林調査を行っていた。森の道案内を先住民に頼んでいた。その日の夕方、この湖畔でその先住民と別れた。その先住民は森を詳しく知っており,翌日もこの周辺の案内を頼んだのだった。
「明日どこで落ち合ったら良いかな?」「ここに来てくれて,叫んでくれれば私はここに来る。」「えッ。それだけでいいのか?」「それだけで良い。」
翌朝、私がこの湖のほとりに来て大声で叫んでも彼はすぐには現れない。どこから現れるのだろうといぶかしく思い、何回も叫ぶ。するとはるかかなた湖の対岸にわずかに動くものがあるではないか。双眼鏡で覗くとカヌーである。じっと見ていると昨日道案内を頼んだ先住民が乗っているではないか。まさしく,昨日の先住民だ。
アマゾン川源流域のタラコア湖 開発が進んでいる。上部はナポ川
彼が湖の対岸からカヌーに乗って段々と私の方に近づいてきた。夢か幻か、あるいは映画の中の世界にいるようで、ワクワク興奮した。自然に溶け込んだ生活をしていれば人間の五感も動物のように発達するのだ。周辺の多くは伐採され農地などに開発されているが、今でもグーグルアースの衛星画像を見るとナポ川沿いにタラコア湖を捜すことができる。
アマゾン源流域の森林内の大木
つづく
1月の駒ケ岳
12月の駒ヶ岳
信州花フェスタ2019
来年、4月25日から6月16日まで開催される「信州花フェスタ2019」をご存知でしょうか。
メイン会場が信州スカイパークの空港周辺のターミナルゾーン(やまびこドームがあるところ)とサブ会場の国営アルプスあづみの公園の2地区と長野県烏川渓谷緑地でおこなわれます。
信州スカイパークの一角に建設する休憩所の工事監理業務で参加?させていただく事となりました。
久しぶりに、枯れ葉舞う”スカイパーク”に行きますと、公園の再整備工事が真っ盛り。
工事前の写真:中程にあるステンレス製のモニュメントが・・・
工事中の写真:モニュメントが消えた。(ちょっとわかりづらいですが、中央付近にあったはず・・・)
あちらこちらで工事が行われ、工事エリアを縫うように”公園利用者”が散歩やウォーキングなどをしています。
担当する場所に行くにも、遠くの駐車場からぐるりと回って歩いて行かねばなりません。(早く公園乗入許可証を取得せねば。)
工事中の写真 オレンジネット内は工事中。
工事フェンスに取り付けられた、会場イメージ図
松本空港滑走路脇のDエリア(北アルプスと花の丘)では、苗の植え付けが始まっています。15万本の花壇ができるそうです。地元の小学校が苗づくりに参加している立て看板も掲示
フェスタ事務局の話では、今の工事は年末から年明けにかけて完了する予定。以降、さらに多くの事業が発注され、3月には花を植えたり会場造りでピークを迎えるそうです。
担当業務が、まともにこれに巻き込まれたら大変と施工業者さん始め、上から下まで大慌てで準備や協議を進めています。
ともあれ、厳寒期に行われる工事ですので、想定通りには行かないことは皆さん承知の上ですし、待った無しでフェスタは開幕されるし・・・・
プロコン観覧記
10月末に“高専プロコン”を観覧してきました。全国高等専門学校プログラミングコンテストの略称です。高専ロボコン(アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテストの略称)に比べ地味な大会です。今年の本選は、国際プログラミングコンテスト大会を兼ねているとの事で、次の3部門のコンテストが開催されました。
課題部門:ICT活用による地域活性化に寄与する作品
自由部門:自由な発想で開発された独創的なコンピュータソフトウェア作品
競技部門:陣取りゲーム「巡りマス」
です。
【プロコン会場:アスティ】
先ずは、競技部門から観覧しました。
会場の床に最大12×12のマス目が描かれたA?Lのフィールドが12面設けられ、各フィールドで一斉に対戦が開始されます。両チームのエージェントがコマンダーの指示でマスを移動しながら陣地を占有し得点を競い合う、オセロと囲碁を組み合わせて複雑にしたイメージ?のゲームです。
結局、ルールは何となくしか理解することはできませんでしたが・・・。
各チームが開発したソフトウェアで作戦が組み立てられながらゲームが進行しますが、ビジュアル的には、いたってアナログ感が一杯です。試合が混沌としてくるとPCよりも、直感で次の一手を打っているチームも有るような・無いような・・・。
場内には、アリーナJDの実況放送が響き渡りますが、応援は時折声援が掛かるくらいで静かです。そんな中でもゲームはスピーディーに進行し、コマンダーがエキサイトする場面もあり学生達の熱気も伝わってきました。
【競技部門:対戦フィールド】
【ルールの解説:・・・よくわからない】
次に、課題部門・自由部門を見学しました。
一般公開されるのはデモンストレーション会場です。各校に割り当てられた展示ブースは2m四方のエリアで、高さ2.4mほどの展示用パネルと会議用テーブルが設えられ、学生達がスーツ姿でデモンストレーションを行っています。いくつかのブースで説明を聞きました。アイデアは理解できましたが、技術的な説明は難しすぎて・・・。
何れにしろ、開発したソフト・既往の技術の応用や転換・各校で研究や継承されているものを駆使して半年間で作品に仕上げ、作品の説明に熱弁を振るう学生たちの姿勢や真摯な取り組みに、こちらも惹起されてしまいました。
プロコンやロボコン共にではありますが、協賛企業が多い大会と感じます。プロコンは60社余りが協賛し、10数社が企業展示ブースを設けていました。
残念ながら、時間的に最後まで観覧できず、会場を後にしました。
11月の駒ヶ岳
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.21
バスール(Bassoul)村
村の位置や活動
Bassoul村は、以前書いたMounde村のやや奥にある村である。基地としていたフンジュンからボートで1時間半くらいサルーム川を河口方面に下った場所にジルンダ村があり、そこからムンデ村への水路を通過し、さらに約30分程度細い水路を入っていった場所にある。
ここは、この業務の管理を委託していたWAAMEが、ずっと前から関わっており、住民達も啓発されていたため、パイロットプロジェクト村として選んだ経緯もある。ここで行った活動は、村落林の造成とエトマローズの燻製改良かまどの導入である。
バスールの地図
バスールの航空写真
ボートを降りてバスール村への桟橋
バスール村
村の中のモスク(イスラム寺院)
コミュノテー・ルーラル(CR):村落共同体
セネガルにはコミュノテー・ルーラル(CR)というものがあり、これは村落共同体という意味である。村落共同体は,いくつかの村が集まった共同体で,その長が郡長というものである。言ってみれば,日本の郡にあたるもので,日本では群は住居表示の区画だけであるが,セネガルでは郡が,行政機関となっていて,そこに長がいて,それが郡長というものだった。この時点では、CRは実質的にあまり動いていなかったが将来的にはCRが行政の中心となっていくものと思われていた。
そのためバスールではCRが村落林の造成と燻製改良かまどの管理に関わっていくようにプロジェクトを進めた。
ワークショップ
ワークショップ
村落林の造成
バスールの村での計画策定ワークショップで、村落林の造成が選定された。以前から書いているようにサルームデルタではマングローブ材の利用が盛んで、マングローブ林保全にはマングローブ材の代替材供給が必要となることから村落林造成を計画したものだった。
活動計画
マングローブ林の代替材として Eucalyptus sp、Melaleuca sp、Prosopis spなどの植林地を2年間で約1ha造成する計画とした。植栽密度は 1,111本/ha、植栽間隔は 3m×3mとした。
計画の実施
バスール村では管理委員会の中に村落林村民委員会が設置された。
活動の経緯
村落林造成の作業としては、村民による位置再確認、囲い資材の調達・搬入、囲い設置、苗木調達・搬入、苗木植栽等を行った。
造成地
バスール村の造成地は、2003年7月に開かれた村民総会で、ンダムバラという場所にすることが決定された。また、このとき2年目からの村落林造成用に苗木を生産するための苗畑をチアムブラケという場所に設けることが決定された。
ンダムバラの造成地は3年にわたって拡張可能であり、1年目の造成区画として0.5ha(100m x 50m)の境界設定と家畜の食害を防ぐための杭打ちと網囲いの設置を行った。植栽は村落林村民委員会と GPF(女性向上グループ)のメンバーを中心に2003年9月中旬に実施された。1年目植栽用苗木は、森林局のフィムラ苗畑で調達し、村に搬入した。
植栽樹種と本数は、Eucalyptus camaldulensis 100本、Prosopis julifloa 200本、Melaleuca leucadendron 70本、 Acacia mellifera 200本で、植栽間隔は3m×3mで混植した。中間段階で家畜の侵入のおそれがあるため有刺鉄線を張る対策を取ることとなった。
2年目は村落の苗畑を作り苗木を供給したが、十分ではなく不足分はWAAMEが提供した。植栽樹種は1年目と同様でEucalyptus camaldulensis 300 本、Melaleuca leucadendron 140本、 Prosopis juliflora 160 本、計600本を植栽した。植栽地周囲には Acacia mellifera 100本を2004年8月に植栽した。1年目は男性4 名、女性19名と参加者が少なかったが 2年目は男性5名、女性53名と女性の参加者が大幅に増加した。
生存率
1年目の植林木の生存率は 2004年9月時点では
Eucalyptus camaldulensis 152本(76%)
Melaleuca leucadendron 30本(60%)
Prosopis juliflora 1本(0.5%)
Acacia mellifera 38本(38%)だった。
2年目の植林木の生存率は 2004年9月時点では
Eucalyptus camaldulensis 234本(78%)
Melaleuca leucadendron 97本(69%)
Prosopis juliflora 153本(96%)
Acacia mellifera 248本(79%)だった。
将来性
村落林造成では植栽樹種として薪材、建築用材等として新規導入樹種やユーカリなどを植林し、最も生存率が高く、植林が成功する可能性が高いのはユーカリだった。これより Eucalyptus camaldulensis を中心に植栽し、囲い用の樹種としてトゲの多い Acacia mellifera を植栽することが考えられた。しかし、その土地に適した樹種もあり、またカシューなど実の販売収入の期待できる樹種もあり今後は、その村落での状況を調査し、適木を植林する必要があると思われた。
メラリューカ
ユーカリ
植林地
成長した植林地
エトマローズ燻製改良かまどの導入
以前も記したようにサルームデルタでは、エトマローズを燻製加工するためにマングローブ薪材が用いられていた。自然による枯れ木の発生量よりマングローブ薪材の需要量が増加すれば、マングローブの生木を伐採する事態を招くため、燻製用薪材の消費量を抑制する必要があった。その方策のひとつとして、当時用いられていた燻製かまどの熱効率を改善することによって、マングローブ薪材の消費量を抑制することを目的とした。
活動計画
当時サルームデルタでみられたエトマローズ燻製かまどは、幅や長さにばらつきはあり、エトマローズを金網の上に一段に並べ下から薪で火をくべる方式だった。並べた魚をトタン板で覆うものの、ほとんどの煙が外部に放出される開放式なので熱効率の改善が必要であり、そのために次の改良を行った。
1)開放式を密閉式に転換することで熱効率を高める。
2)一段式を二段式にすることで、薪の消費量を抑制する。
上記の2点を達成するため、かまどに天井と開閉扉を設けて密閉式とし、加工魚の出し入れを容易にするため、金網バスケットを採用した。
活動の実施
バスール村では、CRレベルで環境委員会の下に燻製かまど管理小委員会の設置を予定し、メンバーの人選は終了したが、活動がバスール村のみで実施されたことから実質的には機能しなかった。
バスール村のレベルでは統括組織として村の管理委員会が設置され、その中に燻製かまど管理村民委員会が設置された。さらにその下にかまどの建設と保守を担う建設・保守班と加工・販売班が組織された。
活動の経緯
CRバスールでは CR議員、CRアニメータ、村民組織代表者などが出席した2003年7月の総会で、かまどの建設をタムバイエという場所にすることが決定された。
改良型かまどと従来型かまど各1台の建設は 2004年2月に完了した。2004年4月から6月までに 3回の試験を実施し、改良型かまどと従来型かまどの効率を比較した。
活動結果
燻製加工試験の結果、100kgの原料魚を燻製加工するのに必要な薪量は、従来型で32kg、改良型で14kgだった。このことから、改良型燻製かまどの使用で薪の消費量は57%削減できることが判明した。歩留まり(最終製品重量の原料魚重量に占める比率)では改良型かまどが26%、従来型かまどが22%であった。
作業に従事した女性グループから改良型かまどの利点として次の点が判明した。
・作業性の向上;金網バスケットの使用と密閉による燃焼の安定化により、作業時間が短縮された。
・品質の向上;品質が全般的に均等で歩留まりがよく、味が良い。
・衛生面の向上;砂を使わず魚を並べられるので、衛生面が改善した。
・煙害の低下;煙が外部にでないので、服に臭いがつかず平服で作業できる。
・製品が清潔;そのままナベに入れて調理することができる。
CRバスールで加工された製品は村の商人に引き渡され、その商人も改良型かまどによる燻製品の品質の良さを認めていた。
将来性
この時点の課題として以下の事項が残された。CRバスールでは、原料魚入手の困難さと組織づくりの遅れから、改良型かまどが有効に稼働した状況ではなかった。バスール村での活動継続を確実なものとしながらCR主体の管理体制づくりを進めることで、改良型かまどの稼働性を高め、展示効果をさらに発揮させる必要があった。
また、サルームデルタ全体で、マングローブ薪の消費を抑えるためにエトマローズの燻製かまどを従来型から改良型への転換が必要であり、さらに総量規制が必要という課題が残った。
改良型燻製かまど
金網バスケット
燻製の開始
村長の家に泊めてもらう
バスール村では、よく村長の家に泊めてもらった。村長の家は2階立てで新築だった。その2階に、多い時には10人くらいで雑魚寝した。
一緒に行ったダカールからの森林局の職員は、イスラム教のお祈りをよくしていた。お祈り中に、たまたま私が話しかけてしまった時があるが、全く気が付かないようで陶酔状態となっているようだった。また、この方の2人いる奥さんの1人が超過の乗船客で船が沈むという海難事故で不幸にも亡くなったこともあった。
ゴキブリの話
村長の家のトイレは外についており、最初に夜中にトイレに行った時には、気がつかなかったので、そのまま入ったら、イスラム式の便器の丸い穴からゴキブリが何千匹とも思われるくらいどっとでてきて、床面一帯が真っ黒になりサッササといなくなった。他のメンバーに聞くと皆同じ思いをしており、入る時にはドアを蹴ってから入るようにしているというので、私も次からまずドアを蹴ってゴキブリを追い出してから入ることにした。
昔インドネシアで見たパイナップルが真っ黒になっていたのが、全部ゴキブリだったのとどちらが多いか思い出したものだった。時々女性メンバーも参加していたから彼女たちも同じようにしていたと思うが、協力隊など女性メンバーの方が多く、全くたくましいものだと思ったものである。
ワールドカップ
ちょうど日韓ワールドカップを開催している時にセネガルに行ったことがある。2002年5月31日、ソウルで行われた開幕戦で、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦し、セネガルが1対0で勝利したのを日本で見て、翌日セネガルに向かった。
そしてセネガルがリーグ戦を戦っている時にバスール村にいたことがあった。その時は仕事にならなかったが、セネガルが得点を上げるたびに、村中から大歓声が上がり、島が揺れているようだった。テレビを持つ人は少なかったが、その家に皆が集まり、大応援をしているのだった。
このときセネガルは、予選リーグを勝ち上がったが、決勝トーナメント1回戦で敗れて残念だった。
ワールドカップと言えば、その後2010年にセネガルに行った時に、南アフリカで開催されていたワールドカップで、決勝トーナメントで日本がパラグアイと戦い、PK戦で惜しくも敗れた試合もダカールの森林局で見ていたのを思い出す。
運動能力の高いセネガル人の体型
そこで思ったのだが、アフリカに長くいて陸上のオリンピックでの日本選手の短距離から長距離までの走りは、欧米の白人選手に比べて大健闘だと思った。それは黒人の素質による速さに対して努力で頑張っているという意味であるが。
セネガル人は、背が高い人が多く、日本人より男女共10cmくらいは背が高いのではなかいかと感じていた。私と一緒に仕事をしていた人、森林局の人と比較したのだが、彼は185cmで、私が170cmなので15cm身長が違うが、座ると座高は同じだから、足が15cmも長いのだ。それもスネが10cm、モモが5cm長いのだ。
それに頭の大きさが小さいのだ。私は54cmくらいだが、彼は50cmくらいで、私の帽子がブカブカで、これは走る上で大きな素質と思った。また、腕が長いのでヤジロベイのように重心が支点の下にあり、バランスが良いのだろう。
腕が長いといえば、前にも記したが、村でのワークショップ時に、壁に模造紙を貼り付ける時、私が背伸びして手が届かない所を一緒に仕事をしていた女性が手を伸ばし張り付けてくれたことがある。その女性は、身長が165cmくらいで私より5cm低いのに手を伸ばしたら私より10cmくらい上に行くので、びっくりした。スタイルが非常に良いのだ。その女性は細くて柔軟性が非常に高いように見え、オリンピックの200mで優勝したアリソン・フェリックスのような感じだった。
スタイルの良い女性。私から右に3番目にいる女性。男の体型も良い。
それから、秘書の女性が、仕事は大変に良くできる上に、素晴らしい体形で、オリンピックの短距離選手のような体つきで、100mをコーチについて練習すれはオリンピックでも出場できそうな体型に思えた。この方は筋肉質に見え、やはりオリンピックで優勝したジャマイカのキャンベル・ブラウンのような体つきに見えた。
運動能力の高そうな秘書の女性
男の筋肉質の体も素晴らしい。小型のエンジン付きのボートをいつも使っていたが、その船頭がウエイトトレーニングでもしているように実に素晴らしい体をしていた。エンジンが非常に重いのに軽々と扱っていた。彼らは、米に魚を乗せたような貧しい食事しかしていないのに何でこんなに筋肉質になるのか不思議だった。腕の力こぶが自然とでていて筋肉のみというように見えた。
それから前にも記したが、井戸の水をつるべ落としで汲むが、一杯10Kg以上はありそうで、10m以上もあるロープを引っ張り上げるのが私でも大変だったが、まあ小さい女の子が全身を使いタイミングよく引っ張り上げていた。日本の子供じゃあ上がらないだろうと思われた。慣れもあるが、すごい運動神経と能力を持っていると思った。
もしアフリカ人が先進国と同じ様に一般の人が豊かになり陸上の競技人口も増え、栄養も良くなれば今よりはるかに上の記録がでるだろう。マラソンでも2時間を切るのに近づいてきたが、そのうちきっと黒人が最初に切るだろう。
村人が気持ちよく受け入れてくれたバスール村
つづく
10月の駒ヶ岳
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.20
ンバム(Mbam)村
村の位置や活動
ンバム村は基地としたフンジュンのホテルから車で5分程度と近く、活動はし易かった。この村もエビ漁が盛んだったのでライフジャケットの製作を行った。ライフジャケットの製作はカマタンバンバラ村で記したように、この周辺は、国が定めたエビの禁漁期、それは主に乾期であったが、その禁漁期に違反操業をする者が絶えなく、その原因は、水産物が住民の食料源であることと、また、この地域の乾期には生業活動がなかったためである。そのため乾期の生業作りにライフジャケットを製作することになったのである。
ンバム村の地図
フンジュンのホテル
フンジュン周辺のマングローブ
フンジュンの渡し場付近でWAAMEが植林したリゾフォーラ。塩分濃度が高く成長しない
ンバム村の当時82才の長老チャレさんに村の話を伺ったときのことだが、1942年に大飢饉があり、その時はアヴィセニアの種子を食べてしのいだとのことだった。この周辺に調査時にはほとんどアヴィセニアはなかったが、当時は大量にあったとのことだった。またリゾフォーラは森のように繁り、対岸が見えないほどだったとのことである。この30年でマングローブはほとんどなくなってしまったとのことだ。
エビ漁
エビ漁は、夜中に水深が深い川に入って行わなければならず、海難事故が絶えなく、エビ漁による海難事故防止の意味からも村人のライフジャケットに対するニーズが高かったこともライフジャケット製作の後押しとなった。
ンバム村でのワークショップ
乾期にライフジャケットを製作することにより、村に生業を起こし、エビの漁期を守り、さらにライフジャケットの販売収入の一部を環境基金とし積み立て、その資金をマングローブ植林や村落林造成に利用し、マングローブ林の保全と復旧に寄与することを目的として、ライフジャケットの生産に取り組んだのであった。
活動計画
ンバム村もカマタンバンバラ村と同様、1年間に100着、2年間に200着のライフジャケットを生産し、販売する計画とした。
活動組織の確立
ムバムでは当初設置された管理委員会がうまく機能しなかったため2回にわたって管理委員会の改革を行い、統括組織として管理委員会を設置し、その中に販売委員会、検査・品質管理委員会、製作委員会を設けてライフジャケット生産活動を行うこととなった。
活動の経緯
カマタンバンバラ村と同様ンバム村にも数人のテイラーが在住し、村人が持参する布地を客の注文に応じて仕立てている。これら洋裁の技術を持つテイラーをライフジャケット生産グループとして結成した。村のテイラーの自前のミシンとパイロット・プロジェクトで投入したミシンにより若者を対象にライフジャケット生産技術の製作訓練を進めた。資材は原則地元での供給を目指したが、ダカール以外では入手が困難なものは、ダカールとプロジェクト対象村間の資材入手ルートを確保し、内陸地域を中心にライフジャケットの販売網を構築した。
村のテーラー
製作されたライフジャケット
1年目のムバム村では111着のライフジャケットが生産され、1着5,000Fcfa(約1,000円)で59着が販売された。そのうち54着分の代金が回収され、5着分が売掛金として未回収だった。残りの52着は在庫になっていた。大量に在庫が残った原因は、管理委員会メンバー内のコミュニケーション不足や委員会と村の他の住民組織との連携不足などから、販売体制を確立できないままエビ漁期が終了したからである。
2年目は、両村で発泡スチロールの浮材を柔軟性のある浮材に転換し、改良タイプのライフジャケットを製作販売した。この改良は住民自身の発案によったのである。
ムバム村では最終評価時点までに17 着が生産され販売された。販売価格は1着7,000Fcfa(約1,200円)だった。その後さらに83着を生産する予定だった。
ライフジャケットを着けての漁
活動結果
住民自身の改良により、浮力不足と浮材が破損しやすいという問題点が解消された。これまで、製品の品質に自信を持って販売できないと語っていた住民も、最終製品に自信を深めている。ユーザーであるエビ漁民のライフジャケットの品質に対する評価も上々で、輸入品と比べて遜色がないと語っていた。
ムバム村では、管理委員会の新執行部体制が3回も変わり安定しなかった。新執行部の方針は、村の他の住民組織と連携を図りながら、ライフジャケットの販売活動に積極的に取り組むことだった。ムバム村では収益金を管理委員会の会計係が管理し、ジロールのクレディ・ミュチュエール(銀行)に設けた口座に振り込んでいた。会計係はすべての支出と収入を帳簿に記帳することになっていた。しかし執行部が交代したことで、帳簿関係の引継などが完全に行われていなかった。この点を解消し、村の他の住民組織と連携を図りながら、積極的な販売活動を行わなければならなかったが、その時点でプロジェクトが終了した。
つづく