今年もまたやって来ました!

ゼンシンの日々

今年もまた自宅の玄関にツバメが巣作りを始めました。これで3年連続になります。(ちなみに去年は2回も掛けました。)

ただし今年は少々複雑な気分ではあります。

というのも我が家も築10数年が経過し、屋根と外壁が大分劣化してきたため思い切って3月に屋根と外壁を塗装したのですが、工事が完了して1か月少々しか経っていないのに、もう玄関周りが泥と糞で汚れだしたからです。(家族中ブーブー言ってますが、皆半ばあきらめてます。)

 この間ラジオで言っていたのですが、最近は糞害から巣を撤去してしまうところが多いらしく、ツバメの巣が減っているみたいです。

 

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 写真上:4月末頃   写真下:現在

4月末頃から通い始めて、現在巣は完成していますので、これから卵を産んで、雛が孵って、成長し巣立っていくまでの間、また掃除が大変ですが、これも縁起物ですし、我が家ではもう少し我慢することにします。 

 myst

 

 

 

5月の駒ヶ岳

社窓


5月の駒ヶ岳

今年は、3月が例年になく暖かかったと思ったら、

4月は一転して例年にない寒さ(>_<)

冬物がなかなか片付けられない日が続いています。

皆さんは体調を崩されていないでしょうか?

GWも終わり、そろそろ本格的に暖かい気候になってほしいものです。

 

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.1 4/18】「キトーにて」

森林紀行

到着

キトーの空港では先発隊が借りあげていたレンタカーで出迎えてくれ、予約してあったホテルアラメダに向かう。ホテルアラメダはキトーでは高級なホテルだった。

チェエクインした後に町を散歩する。まだ、キトーの町がどのようなものだが皆目わからなかったが新市街と旧市街とに分かれているキトーで、ホテルアラメダは新市街外の中心にあったからまずは新市街を散歩した。日本でいうと銀座通りにあたるカジェ・アマソーナス(Calle Amazonas:アマゾン通り)に行ってみた。

何と乾いて澄んだ空気だろうか、何と深い空だろうか。キトーは標高2,800mの高地だ。それでこんなに空がきれいなのだろう。ペルーから続いたインカ帝国に来たような気分がした。実際、エクアドルは15世紀にはインカ帝国の領土だった。心は高揚し、何と素晴らしいところだというのが、キトーの第一印象だった。

しかし、どことなく暗い、それは強い光の中でサングラスをかけて見ているような感じだった。空気が乾燥しひんやりしており、夕方でビルの影が長くなってきて、光の強度が落ちて来たためだったのだろうか。赤道直下の高地だからコントラスが強いのであろう。

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キトー市、先住民も多かった

 町で見つけたカンビオ(Cambio:両替商)で早速、当面必要な自分の費用をドルからスクレ(Sucre:当時のエクアドルの通貨)に変える。この当時1ドルが約110スクレだった。円は1ドル約250円だった。

町で物売りする先住民.jpg

 町で物売りをする先住民

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MAGからキトー市内を望む(1985.7.11)

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キトーから見える山ではピチンチャ山(4839m)が最高峰。中央のとがったところ

 

翌朝の不思議な頭痛

翌日起きると二日酔いのように頭が痛い。おかしいな?昨晩はアルコールは一滴も飲まなかったのに。時差で眠くてしょうがなくすぐに寝てしまったからだ。何だろうかと思っていた。しかし、朝食を食べ終わった頃には頭痛はなくなっていた。「そうだ。高山病だ。そうに違いない。」キトーの標高は2,800mもあり空気が薄いのだ。その後どこへ行っても階段を上ると息が切れるのがわかった。その後キトーに着くたびに翌日は同じ様な頭痛が起こった。

メンバー全員合流

前述したが今回の調査の目的は、2つに分かれていて、立木材積表作成調査グループと航空写真の撮影グループだった。メンバー全員が合流して、先発隊のMAG(農牧省)森林局での打合せ内容、準備作業の状況、今後の調査方針などを打ち合わせる。

ホテル

ホテルアラメダ

最初キトーで滞在したホテルは、既に述べたアラメダであった。値段は一流であり、部屋はまあまあ良かったが、全体としては一流半と言ったところであった。アラメダの長期滞在は経済的にちょっと大変だったので、そのときキトーに事務所を持っていた商社にも世話になっていたので、商社の方に紹介してもらい、もっと手頃なエンバシーというホテルに翌日7月10日に移った。ただ、アラメダのロビーは使い易かったので、人との面会や打合せに良く使わせてもらった。

ホテル アラメダの案内の女性

ホテルでキトー市内の地図を買ったり、絵葉書を買ったりした。

ホテルアラメダのインフォーメーションに座っていた女性は感じが悪かった。何かを聞いた時に、彼女が何と答えたか私には良くわかったのだが、スペイン語の練習のつもりで「Perdón. Otra vez, por favor? すみません。もう一度お願いします。」と言ったところ、「うるさい。あっち行け。」と言われた。まだこのときは、このような女性をなだめるほどスペイン語はうまくなかった。これでホテルアラメダの印象がすっかり悪くなった。

ホテル エンバシー

エンバシーは普通のホテルのスタイルの部屋とアパート形式のホテルがあり、アパート形式では、中に入ると大きな居間と2?4部屋くらいに分かれているタイプがあり、打ち合わせや、作業を行う関係もあり、アパート形式の部屋を借りることが多かった。値段が手ごろで居心地も良かった。

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 ホテル エンバシー

 

つづく

麦草峠

ゼンシンの日々

小海町の調査の帰りに、昨日4月18日(木)午前11時に冬期間の通行止めが解除された、茅野市と小海町を結ぶ国道299号(通称メルヘン街道)にある「麦草峠」標高2,127mを通ってきました。

道路の周りは、雪景色で除雪された雪の壁が1.5m位あったかと思います。

おりしも今日19日は、気温も低くすごく寒かったです。歩いていた人も冬支度でした。

夏の避暑や秋の紅葉の時期に訪れて見るのもいいかもしれません。・・・・NK

駒ヶ根の春

ゼンシンの日々

京都から信州駒ヶ根に移住して、5年目に突入しました。

いまだ体が慣れきれない、駒ヶ根名物のひとつである “凍み”

(=しみ、と読みます。信州では冬の朝の挨拶は、「今朝は凍みるね!!」から始めるのが大人のたしなみです。ちなみに、関西圏では高野豆腐と称されていたスポンジみたいな食物が、信州では凍み豆腐と呼ばれています。その他に、凍み大根、凍み餅(別名:氷餅)などがあり、信州人の「凍み」好きは留まることを知らない。)

がやっと終わり、春が猛ダッシュでやって来ました。

この時期は空気が澄んでいて、中央アルプスの山景色は素晴らしいです。


現在、駒ヶ根市内の至るところで、花が見頃となっています。

 

mokoji

 

 


 



 


【森林紀行No.1 3/18】「いざエクアドルへ」

森林紀行

先発隊が出発

第1回目の調査は、エクアドルへは初めて行くことになるので、先発隊が約1週間早く出発し、エクアドルの森林局と調査計画を打合せ、調査用の車両の手配や必要な資機材の調達などの準備作業を行うことになった。先発隊は、団長と団員のY君、それと航空写真の撮影をエクアドルの機関に委託して行うため、その契約と撮影監督のため、UさんとNさんの2人、合計4人が1985年7月1日に出発した。

私は後発隊となったのだが、この調査はすぐに私を中心に動くことになったことを思えば、先発隊で出発すべきだった。というのは、調査の立ち上げ時には、相手国の森林局とお互い見知らぬ同士、相当の緊張感を持って、会議、打合せをする最も重要な時期だったからだ。特に最初の会議で決まったことは後々まで影響するし、それを他のメンバーから伝え聞くだけでは、私自身の理解が十分でなくなる恐れもあったからだ。

最初に相手国と打ちわせる時には、本来、団員全員が出席するべきであると私は思っていたが、準備作業には、それほど多くのメンバーも必要ではあるまいという上司の意見に押されて、私は先発メンバーからはずされてしまった。その時、強く主張すれば私も先発メンバーに入れたが、初めて行く国での調査の立ち上げ時の困難さは、私が南米で最初に調査したパラグアイで経験しており、それに団の中での私の担当は、立木材積表作成の中心的技術者ではなく、補佐的な立場になっていたので、自分が先頭に立って行うというモチベーションが失われ、そのような意思と自覚にも欠けていたのである。

団長とY君が先発隊となったのは、エクアドルのカウンターパート機関(共同作業機関の森林局)への説明や交渉などを団長が行うのは当然のこととして、Y君はスペイン語がかなり上手になっていて団長補佐として適任だったからである。もちろんエクアドル国内で、通訳は雇うことになっていたが、団の中にも言葉ができるメンバーがいることは大きな強みだった。Y君は既にかなり込み入ったことでも通訳をできるくらいのレベルになっていた。それというものY君は青年海外協力隊で中米の国に2年間派遣され、スペイン語の基礎を身につけ、その後、この調査と同じ様なパナマの調査団のメンバーとなり、現地調査の後、何百ページもある報告書の翻訳を翻訳会社から派遣されたスペイン人と二人でかなりの長期にわたり、小部屋に閉じこもって、その作業にあたり、スペイン語の能力を飛躍的に向上させていたからだった。

さて、調査をするうちに、私は段々と先頭に立ち、責任感が増してきた。というのは、本来仕事の責任は団長がすべて取らなければならないはずであるが、団長が調査期間中、常時エクアドルに滞在しているわけではなく、団長の不在中は私が団長の代理をしなければならなかったからである。その結果、この仕事を通じて私が仕事を動かして行くのだという意思と自覚が強くなったのである。

 

後発隊として日本を出発

何はともあれ約1週間遅れて、1985年7月8日(月)に、後発隊として、WさんとI君との3人で日本を出発した。

成田空港17時20分発のJL0062便でロスアンゼルスに、差の関係で同日午前11時5分に着いた。ロスアンゼルスまでは、パラグアイの調査の時に何度も通った道で、もう目新しさは感じなかった。

ロスアンゼルは13時半に出発し、マイアミには21時15分に到着し、ここで一泊した。この間はアメリカの国内線で、パンナムを利用したが、そのサービスの悪さには閉口した。例えばパンを食べるのにも買わなければならず、それが6ドルで、10ドル渡すとおつりをすぐに持ってこないのであった。下りる間際までに何回かの催促をして、ようやく持ってくるありさまであった。催促をしなければ持ってこなかっただろうし、スチュワードはチップとしてごまかそうと思っていたのかも知れない。

マイアミに到着したのは夜で、予約してあったホテルまで空港のタクシーを利用したが、最初のタクシーには乗車拒否にあい、次のタクシーでホテルに向かった。何となく馬鹿にされた気分に陥ったが、1人でいてモンモンとするのではなく、3人で旅行していればストレスも3分の1で、何より安心感がある。

Wさんは人生を楽しむという点では人一倍長けていたから、ホテルに夜遅く着いたのにもかかわらす、バーに飲みに行こうという。一緒に一杯飲んでいるとアメリカに着いたばかりの緊張感が解け、リラックスでき、元気が出てくるのを感じた。リラックスさの重要さを改めて認識した次第である。

翌日7月9日(火)にマイアミを早朝出発し、午後2時にキトーに着いた。エクアドルには5,000m以上の高山が多い。天気が良ければ離着陸時はそれらを見ることができる。エクアドルの最高峰チンボラッソ山(Chimborazo)6,310mとカリウアイラッソ(Carihuairazo)山5,018mとも知らずに撮ったのが次の写真である。この他コトパクシ山(Cotopaxi)5,897m、カヤンベ山(Cayambe)5,790mなど有名なコニーデ型火山があり、赤道直下ににもかかわらず頂上付近には万年雪を抱き、その美しさは富士山に勝るとも劣らない。

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エクアドルの最高峰チンボラッソ(Chimborazo)山(6,310m)とその隣のカリウアイラッソ(Carihuairazo)山(5,018m)。共に火山

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キトー(手前が旧市街、ビル街が新市街)

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旧市街の市場 (1985年)

 

つづく

桜満開

社窓


桜満開

会社の前にある公園の桜が、今年は4月8日に満開になりました。

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6日夜中にきた爆弾低気圧にも屈せず、きれいな花を咲かせています。

穏やかな陽気と桜の花に誘われてお花見にでも行きたいものです。


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4月の駒ヶ岳

社窓


4月の駒ヶ岳

今年の新入社員は 『八重の桜』 一人です。

それにしても、この世界も 「日本男子何処へ・・・」 といった感じもあります。

とは言っても、仕事に男性・女性は関係ありません。

とにかく、謙虚に、どん欲に、頑張ってほしいと思います。

 

田中

 

新入社員紹介


 

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◇砂押 里佐

[出身地] 茨城県

[出身校] 宇都宮大学

[趣  味] 散歩・登山

[好きな食べ物] ホタテ (特に、バター醤油。最高!!)

[集めているもの] カエルのグッズ (リアル可愛いもの)

[やってみたいこと] 渓流釣り

 


 

[南アルプス]

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【森林紀行No.1 2/18】「アマゾン川源流域調査の内容と調査地域」

森林紀行

調査時期

エクアドルは、私には南米ではパラグアイに次いで、2番目に行った国である。海外出張ではインドネシアに次いで3番目に調査をした外国である。

エクアドルの地を最初に踏んだのは1985年7月だった。パラグアイの調査がその年の3月一杯で終わり、その後はエクアドルの調査の準備にかかり始めた。現在2013年だから、今から28年前のことである。この調査の中途には、住民(アマゾン川源流域への入植者と先住民)の調査への反対運動にあったり、1987年にはアンデス山脈の麓で地震があり、調査地域へ通じる橋が落ちたために調査が一時中断した。そのような影響で調査期間は当初の予定は3年間であったが、1年間延長され4年間となった。そのためエクアドルには1985年から1988年の4年間の間に7回訪問し、合計で約8カ月間滞在した。

調査計画

第1回目のエクアドルでの現地調査は立木材積表(立っている単木(一本の木)の幹の材積(体積)を求めるための表)の作成調査、第2回目が森林予備調査、第3回目が森林本格調査、第4回目が森林施業開発調査(森林を保護し、持続的に利用する計画作りのための調査)、第5回目が現地検証・審議調査、第6回目がドラフト・ファイナル・レポートの報告(最終報告書の原稿段階での報告)とされた。

調査団はこの調査計画に沿って調査を行ったのであるが、実際の調査に際しては、調査を進めるに従って分かってくる現実と机上で想定した状況との差、自然災害、人為災害など様々な障害となる事柄が起こり、また調査に関して二国間で結んだ協定の中身をエクアドル側が理解していないことなどもあり、修正に修正を重ねつつ調査を行い、ようやくにして最終報告書の作成までたどり着いたのである。

調査地域

調査地域はエクアドルのアンデス山脈を下ったアマゾン川源流域であった。「アンデス」や「アマゾン」と言う名前、この名前を聞くだけで、血湧き肉踊る。

「エクアドル」という単語は、スペイン語で「赤道」を意味し、「エクアドール」とドにアクセントがある。実際に国の北部に赤道が通っていることからエクアドルという国名になった。ついでながらダーウィンが「ビーグル号」で訪れ、進化論の着想を得たガラパゴス諸島もエクアドルに属している。

エクアドルの面積は約27万平方キロメートルで、日本が約38万平方キロメートルであるから日本の約4分の3の大きさである。人口は、現在は1,300万人(2010年)と推定されているが、1982年には約800万人と推定されていた。

中央にアンデス山脈が走り、太平洋岸がコスタ(Costa 海岸)、中央がシエラ(Shierra 山脈)、東側がオリエンテ(Oriente 東部)というように3地域に分けられ呼ばれている。調査地域はオリエンテのアマゾン川源流域であった。

オリエンテ地方が最も大きな面積を持つが、当時の人口は全人口のわずか2%程度で、未だに原始生活を保つ先住民(インディオ)の棲み家と言われていた。特に、敵の男の首を狩り、その頭骨を抜き取り、握りこぶしくらいの大きさに収縮させた干し首を作るヒバロ族がいるとのことだった。

そこは、アンデス山脈の東部にあたり、山脈の起伏部末端から平坦部に移行する標高500m付近からさらに東部に向かって標高が300m~200mで推移する地域であった。調査をしていると全体的に平坦に感じられたが、細かな波状地形となっていて、小丘、小谷が数多く存在している。

そして1960年代にこの熱帯降雨林の中に石油が発見され、1970年代に本格的に石油開発が進んだ。我々の調査の基地としたラゴ・アグリオ(Lago Agrio:酸っぱい湖という意味、今はNueva Lojaという名で呼ばれる)という町に石油開発の基地が設けられ周辺の道路の整備が進んだ。すると政府が入植政策を進めていたこともあるが、石油開発道路に沿ってアンデス山脈上の貧しい農民が、土地の権利書も無く、無許可のままこぞって入植、森林を伐採、焼却、開墾を始めた。そして、木材の利用者も無秩序に森林の伐採を始めたのだった。

無尽蔵にあると考えられていた森林資源は瞬く間に減少して行き、今衛星画像を見ると昔広大に広がっていた森林は相当に失われ、小さかったラゴ・アグリオやコカ(Coca)の町が大きく拡大しているのがわかる。

アマゾン川支流の住居_石油開発道路.jpg

アマゾン川支流の住居          石油開発道路に沿って伐採が進む

 

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南米の地図              エクアドルの地図

 

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調査地周辺の地図(Lago Agrio~Coca)

 

つづく

 

 

 

 

 

 

【森林紀行No.1 1/18】「インディオの神秘な世界」

森林紀行

ここはアマゾン川の源流域。コカという小さな町の近くの森の中の湖である。湖の畔で、ターザンのように「アッアーアー」とか「ヤッホー」とか大きな声を出した。あたりは熱帯降雨林。高さが30mほどもある樹木が林立し、森閑としている。私の叫び声が静寂を破り、湖畔にこだまする。

アマゾン川源流域.jpg

アマゾン川源流域

昨日、我々の道案内をしてくれたインディオはどこから現れるのだろうか?すぐには誰も現れない。彼は約束を忘れたのではないか?あるいはまだ起きてないのか?さらに大きな声を出す。

すると湖の対岸に何やら動くものが現れた。対岸まで300m以上はあるだろう。何だろうか?良く見るとカヌーのようだ。双眼鏡で眺めると昨日のインディオが一人小さなカヌーに乗り、櫂を漕ぎながらこちらに向かってくる。「何事だ、これは?こんなことがあり得るのだろうか?」

森閑とした森の湖畔ではかなり先でも我々の声は聞こえるのであろう。あるいはそのインディオが我々とは違った超聴力を持っているのであろうか?

湖水は波一つたたず、透明度はなく、濃緑茶色の粘性の強い底なし沼のようにドロンとしている。不気味な湖水からは恐竜のような生き物が現れるのではないかと思わされるほどである。そこを静かに櫂を漕ぎ渡って来るインディオ。待つことしばし半時間。

何か不思議な神秘な世界に入ったように私は感じていた。

昨日仕事が終わった後のインディオとの話はこうだった。

「明日も続けて道案内を頼みたいので、明朝迎えに来るがどこに来たらいいのかな?」

その日の仕事が終わり、森の道案内人として雇ったインディオ(先住民)に尋ねると彼は、次のように答えた。

「この湖のほとりに来て、何か声を出してくれ。そうしたらここに現れる。」と言う。

「わかった。明日この湖畔に来たら大声で呼ぼう。そしたらここに来てくれるのだな。」

「そうだ。」

「本当にそれで会えるのだな。」と念を押した。

「心配するな。」

「じゃあ明日7時頃、夜が明けてしばらくしたらここに来るからよろしく頼む。」

「オーケー」

「じゃあ、きょうは、ムーチャス・グラシアス。アスタ・マニャーナ。(どうもありがとう。また明日。)」と言ってその日は分かれた。

インディオは、もちろん時計など持っていないから時間などはだいたいのところだ。家の位置などわかればとも思ったが、特に必要でもなかったし、雇ったのはこの日が初日で、エクアドル森林局のカウンターパート(共同作業の技術者)達もいたこともあり、詳しく聞かなくとも信頼できる雰囲気があった。

彼とは森の入り口付近でたまたま出会い、その森に詳しいということだったので、道案内を臨時に頼んだのだった。彼は、釣りのビクから針金を外したような網状に編んだよれよれの物入れを肩からかけ、汚れて破れかけたTシャツを着ている。彼のすぐ後ろにはとてもついて歩くことができない。というのは強烈な匂いを発しているからだった。風呂など入ったことがないのだろう。風向きにもよるが10m以上離れていても匂ってくる。少し間を置き、数m離れて歩いているのだが、それでも鼻がひん曲がりそうだった。しかし、森に詳しかったので、翌日も道案内を頼むことにしたのだった。我々は、車で鶏小屋のように汚いホテルに戻り、翌日の早朝7時頃、昨日と同じ湖畔に来たのだった。

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多雨そのものの熱帯雨林                森林調査

 

つづく

略歴

増井 博明 (ますい ひろあき) 神奈川県生まれ

(株)ゼンシン 技術調査室長

技術士(森林部門)、林業技士(森林土木)

信州大学 農学部森林工学科卒

 

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